第1章 佳耶と、大切な親友
Depuis l'accident l'amie la plus précieuse de ma sœur vient chez nous comme tous les jours.

「おにぃちゃーんっ!」
 ――バタンッ!!
「ぅをっ!?」
 佳耶の元気な声が聞こえるのと、彼女が勢いよく開けた僕の部屋のドアが壁に当たるのと、僕が瞼を開けるのと、僕の目が妹 の太陽みたいに明るい顔を捕らえるのが、同じタイミングだった。
 …おー、びっくりしたー…。
 まるで腹筋でもするかのように体が折り畳まれたので、心臓は未だにびっくりし続けている。めっぽう朝が弱い僕だけど、なぜ か、心臓の鼓動だけは、佳耶に負けず劣らず元気だ。それに比べると、僕の脳味噌の、なんと怠けていることか。常識で考え れば、佳耶がドアを押し開けてから僕の目が彼女の顔を捕らえるまでに、三、四秒は経っているはずなのに、タイミングがご っちゃになった。これはもちろん、タイミングのずれを、僕の鈍い神経が把握できなかっただけだ。
「はい、おにいちゃんっ」
 口が半開きになったままの僕の間抜け面の前に、グラスが突き付けられる。グラスに入っていたオレンジ色の液体が、ちゃぷ んと揺れて、グラスの外側に水滴をつけた。
「そんなに疑心暗鬼にならなくても、毒なんか入ってないから。ほらっ」
 そう言うと、佳耶は、グラスを無理矢理、僕の口元に押し当ててきた。
「っとタイムッ! それぐらい自分で飲めるから!」
 慌てて、押し当てられたグラスを両手で持つ。佳耶の細くすべすべした指に自分の指が触れて、僕は少し赤くなる。佳耶 は、グラスを支えていた手を離すと、不貞腐れた僕を見て、にやりと笑った。
「まったくおにいちゃんは、いつまで経っても要介護なんだから」
「介護って……そんな老人みたいな……」
「あんまり変わらないよー。その姿じゃ、服着せてって言ってるのと同じだよ?」
「……ぅわっ!?」
 僕は目玉が飛び出そうなほど驚いた。ただただ、オレンジジュースを口に含ませる前でよかったと思う。もしも口の中にオレ ンジジュースがあったなら、確実に、僕の口から噴き出されたオレンジジュースが、佳耶の真っ白な制服を汚していただろ う。
 そういえば、昨晩は風呂上がりの外気が気持ち良かったから、つい、トランクス一丁で眠りについてしまったのだった。恥ず かしさがこみ上げてきて、僕がオレンジジュースを飲むのを阻止する。下着だけの姿を見られた僕はこんなにも恥ずかしいの に、佳耶は、顔色ひとつ変えない。それどころか、さっきは呆れたように笑っていたのが、今は、意地悪っぽい笑いになって いる。
「あっははっ。早く服着て降りてこないと、わたしがおにいちゃんのぶんも全部食べちゃうからねっ」
「わっ……ちょ、おいっ、佳耶!」
 開けたドアを締めもせずに、佳耶は、リビングへと走り出す。姿こそ見えないけど、どたどたどた、と、彼女がエンジン全開 で階段を降りていく音が聞こえる。急がなければと思い、僕はオレンジジュースの入ったグラスを一度机の上に置いて、顔を 上気させたまま、制服に腕と脚とを通した。そして、掛け布団を適当に畳むと、グラスを再び手に取って、部屋を出た。

 

 富松家は、ともに会社員として働いている両親と、高校一年の僕、それから、中学二年の妹の、とくに変わったところのない 四人家族だ。それほど裕福というわけでもなければ、その日暮らしを強いられているわけでもない。可もなく、不可も なく、という感じの所帯……であるように、少なくとも、僕の視点からは見える。まあ、僕と佳耶が生まれたいきさつを、か けて自分たちの口からは話さなかったような人たちだから、僕がそれを知ってしまった今でも、数え切れないほどの隠し事を 僕たちにしているということも、考えられなくはないけど……。
 隣の席でマーガリンとマーマレードを塗ったトーストを美味しそうに頬張っている僕の妹、佳耶。いつも元気で、ハイテンシ ョンで、好奇心旺盛で、だけどドジを踏んでしまうこともなにかと多くて……。佳耶の明るさには励まされてばかりいるけ ど、ときたまに、僕はこんなことを考えたりもする。佳耶が、僕のぶんの元気まで吸い取ってしまっているんじゃないかっ て。
 ――あの事故以来、佳耶の持病は、少し落ち着いている。
 僕は、今まで、発作を起こすときの佳耶を見るのが辛かった。発作が起きるたびに、佳耶の顔からは、楽しさとか、嬉しさ とか、元気、快活、希望……そういったプラスのイメージが消えた。代わりに佳耶の顔を支配したのは、悲愴、寂しさ、失 意、混乱……果ては絶望。まるで苦しい記憶に触れているように真っ青になる佳耶は、僕の顔をも真っ青に塗り替え、気持 ちを打ち拉ぎ、ときには目に涙を催させた。
 これは、佳耶じゃない。佳耶を虐める悪魔だ。
 僕は何度も、その悪魔を恨んだ。発作のとき以外はいつも笑っていて、周りのムードを盛り上げてまでいるはずの 佳耶が、どうしてこんな、いわれのない仕打ちを受けなければならないのか。どうして、佳耶じゃないといけないのか。どう して、僕は佳耶の代わりになってやることができないのか……。全部が全部運命の仕業だと割り切ると、僕は、気落ちするこ としかできなかった。
 だけど今――佳耶の発作は小康状態になっている。もっと言えば、僕が佳耶を救って軽い脳震盪を起こしたあの事件から、彼 女は一度も、発作を起こしていない。彼女の主治医の先生が言うには、先天性の疾患だから完全に治ることはないけれども、 なにかのショックがきっかけとなって、一時的にだけど、症状が収まることもないとは言い切れないのだそうだ。もしも お医者さんが言ったことが本当だとして、そのきっかけが、僕に救われたことであったなら……結果として、僕が佳耶に取り 憑く悪魔を懲らしめたということになる。
 まだ、あのときの一件がきっかけになったとは決まっていないけど、僕は、その考えを捨てるつもりはない。僕には、兄と して、佳耶を守ってやるという義務があるのだから――。
「ごちそーさまーっ!」
 ――ダンッ!
 弾む佳耶の声と、彼女がテーブルにプラスチックのコップを打ち付ける音とが、僕と母さんの目を引き付ける。毎朝のこと だけど、いつ見てもやっぱり、佳耶の仕種は女の子らしくない。牛乳を飲み干したあとに、「ぷはー!」なんていう声を上 げるさまは、とてもじゃないけど、中学生の女の子とは思えない。父親の影響か、最近おっさんの猿真似をする女の子が多 いって聞くけど、僕としては、欲を言えば、もうちょっとお淑やかな女の子に成長してほしかったな、なんて思う。せめ て、兄の裸を見たら顔を手で覆い隠すぐらいには……。
「パンと牛乳だけで足りたかしら?」
 母さんが訊く。僕も同じことを思った。佳耶の元気を形作るものこそ、朝食なのだ。
「うーん……ちょっと物足りない気もするけど、もうないからいいや」
「もうないからって、おいおい……。だったらこれも食べていけよ」
 そう言って、僕は、まだコロッケ一つと鶏の唐揚げ二つ、それとウィンナーが三つ残っているおかずの皿を、佳耶の前に寄 せる。
「いいよ、そんなに気を遣ってくれなくっても。おにいちゃんはわたしと違って男の子なんだから、少食じゃだめなのっ」
 真面目な面を提げて、人差し指をぴんと立てる。こんな調子で佳耶はしばしば僕に説教を施してくれるけど、間違ったこと を言われてはいないから、敢えて逆ねじを食わせようとも思わない。と、思っていたつもりだったが……。
「ふーん。まあ、二時間目ぐらいに笑い者にされたって知らないけどな」
「……おにいちゃんのばかぁ」
 眉を逆に曲げながらも、ちゃっかり自分のフォークで僕の皿に乗っている唐揚げを突き刺しているところが、佳耶らしくて 可愛いな、と思う。どこか、まずいものでも食べているような佳耶の表情を一瞥して、母さんもふふふと笑う。
 あっという間に佳耶は、僕の分けたぶんも平らげてしまった。
「ごちそーさまー、二回目っ!」
 手を合わせて言う佳耶に続けて、
「ごちそうさま」
 僕も皿を寄せ集めながら、言った。
「お粗末さま」
 三度もご馳走様という言葉を聞くことができた母さんは、とても満足そうに笑った。

 

「んじゃ、いってきまーす」
 靴の先端をとんとんと玄関のタイルに打ち付けて、踵を靴の中に収める。よいしょ、声を出しながら鞄をかけ直すと、
「まってー、おにいちゃーんっ!!」
 ――ダッダッダッダッ。
 僕の背中に、二階から気忙しく降りてくる佳耶の足音が聞こえた。
 振り向くと、さっき僕を起こしにきたときとはまったく違う面持ちの佳耶が居た。
「おにいちゃん……もう、出発のときはちゃんと声かけてって言ってるでしょ?」
「あ、そっか……ごめん、忘れてた」
 僕は、焦りで険しくなった佳耶の顔を見ながら、決まり悪く笑った。
 自転車で高校に通学している僕は、毎朝の朝礼に間に合わせるため、余裕をもって、七時四十分に家を出ている。朝礼が始ま るのが八時二十五分で、学校までの所要時間が、自転車で三十分ちょっとという案配だ。
 佳耶のほうは、同じ二十五分から朝礼が始まるといっても、週に二回、月、木とあるだけだし、所要時間も徒歩で十数分だか ら、計算では、八時を過ぎてから家を出てもなんら問題はない。
 だけど、佳耶は毎朝のように、僕と同じ、七時四十分に家を出るのだ。べつに、所属しているクラブは料理部だから朝練があるとい うわけでもないし、朝礼までの時間を利用して自主的に授業の予習をするほど、頭が悪いわけでもない。佳耶は、朝学校で予 習をするぐらいなら、その日出された宿題を家で終わらせたあとすぐに翌日の授業で学習する部分について予習を済ませてし まうほど、賢いのだ。
 そう――佳耶がこれほど早くに家を出る理由は、ただひとつ。彼女は、僕が自転車を押す横を、通学路の途中まで一緒に歩 きたがっている。
 もちろん、それは、発作が起きたときのことを考慮に入れての対策なのかもしれない。だけど、それ以上に、佳耶は、僕の隣 を歩くことを純粋に楽しみにしている。彼女が言うには、「おにいちゃんの隣を歩いているだけで、安心する」のだそう だ。ボディガードがわりとか、そういうのもあるけれど、やっぱりなんでもいいから僕と話ができるというのが、佳耶の狙い らしい。
「はぁー……学習能力がない兄を持って、妹はちょっと悲しいなぁ」
 かくんとうなだれて、やれやれという顔をする佳耶。目上のひとに向かって言うべき文句じゃないのは明らかだけど、佳耶に そう言わせてしまったのは、僕だ。家族であることについつい気が緩んでしまって、僕は、佳耶の前ではほとんどと言って いいほど、兄の威厳を見せたためしがなかったのだった。
「うん、努力するよ……」
「言葉だけじゃ信用できないよ」
 佳耶も玄関のタイルの上に降り立ち、手を下駄箱について体を支えながら、自分の靴に足を通す。僕が履いているような 運動靴とは違って、佳耶の靴は踵の低いローファーだから、いちいち床に打ち付けなくても、指で靴の背を引っ張れば足は靴の 中に収まるみたいだった。
 僕がしていたように、よっ、という掛け声を出しながら鞄をかけ直すと、佳耶は真面目な顔を僕に向けて、人差し指を真 っ直ぐに立てて、
「いい、おにいちゃん? 今日学校から帰って来たら、わたしからの宿題っ。『僕は、出発のときは佳耶を呼びます』って紙に書いて、それを三枚分机の前に貼っとくこと!」
 と言った。
「……えぇっ!?」
 僕はもう、この“佳耶の宿題”には何度もお世話になっているけれど、未だに、その内容には驚かされてしまう。
 “佳耶の宿題”っていうのはつまり……僕に反省をさせるために、佳耶が出すペナルティみたいなものだろうか。毎回内容が違 っていて、その判断の基準となるものはふたつある。ひとつは、僕が犯した過失の重さ。もうひとつは、僕から不当な待遇を 受けた佳耶の、そのときの気持ち。おおかた、過失が重ければ重いほど佳耶は不満になっていくから、結果として出され る“宿題”の内容は、僕の過失の重さに比例することになる。
 僕の記憶に残っている“宿題”としては、こんなものがあった。お遣いで食材をいくつか買い忘れたときは、佳耶にレシピブ ックを借り、肉じゃがの作り方を頭に叩き込んだ。次の日の朝、レシピブックは佳耶の手元に返され、その日の晩、心配そう な顔をする母さんの隣で、僕は、慣れない手つきで肉じゃがを作った。自信はなかったけれども、僕の作った肉じゃがを採点 した佳耶は、笑顔になって、親指と人差し指でマルを作った。
 洗濯機のボタンを押し間違えてしまったときは、佳耶が普段着ている服を借りて、その正しい折り畳み方を覚えた。一晩、ど ういうふうに折り畳まれているのかをじっくり調べたあと、次の日に、佳耶が僕の目の前で、その服をばっと広げた。さあわ たしがいつもやってるように折り畳んでください、と言われ、戸惑いながらも、僕は記憶を頼りにどうにか佳耶の服を折り畳 んだ。僕の答案を見て、佳耶は、まずまずだけどいちおう合格かな、と言った。
 休日、掃除機をかけていたときに、廊下に落ちていた、佳耶の髪を縛るためのゴムを、まさに彼女が見つけて拾おうする前で 吸い込んでしまったこともある。そのとき佳耶は、掃除機はわたしがやるから、おにいちゃんは玄関をぴかぴかにしてき て、と言った。風呂掃除とか、トイレ掃除ならやったことはあるけど、玄関となると、どこまで綺麗にすればいいのかがわか らない。とりあえず僕は、雑巾を持ち出して、フローリングの床と木製の踏み板、それと下駄箱の周りを拭いた。その あと、庭の倉庫からモップを取り出し、靴を一旦全部下駄箱にしまったあとで、タイルの部分も水をかけてこすった。掃除機 をかけ終わった佳耶は、そんな僕を見て、苦笑しながら、おにいちゃん、それはちょっとやりすぎだよ……と言った。
 それから、母さんも父さんも残業だったある晩、僕は佳耶に留守を頼んで、友人の家まで、漫画を借りに行くことがあっ た。僕はそのとき、ものの二十分ぐらいしか家を空けなかったのだけど、帰ってきてみると、佳耶が、涙を浮かべていた。発 作を起こしたのだ。佳耶は、そのときのことをよくは覚えていないらしいのだけど、こんなにも寂しい思いをしたのは、僕の せいだって……。
 佳耶がそのとき僕に出した“宿題”は、彼女自身を幸せにする方法を見つけろというものだった。もちろん、そこらの本を読 みあさったって、そう簡単に答えは見つからない。佳耶もそのことを考慮して、僕に一週間の時間を与えた。だけど、その期 限が訪れる直前まで、僕の頭には明確な答えが閃かなかった。そして、宿題提出の日を迎え――僕は、二階の廊下で向かい合 った佳耶に、ただ一言、回れ右をして、と言った。そのあと、僕は佳耶の背中に近づいて……彼女の肩に、腕を回した。顔を 赤くする佳耶に、僕が言った言葉。「もう、佳耶をひとりになんてしないよ……」。佳耶はもう一度僕と向き合い、涙を零し て、僕の胸の中で、隣近所にも聞こえるぐらいの声でわんわん泣いた。何事かと思って階段を駆け上がってきた父さんは、僕 たちふたりを見るなり、僕が佳耶を虐めたのだと誤解して……力の限り、僕の頬を打った。僕はくずおれて、みっとも なく、妹と一緒になって泣いた。父さんの誤解を解く術がなかった僕たちは、結局真実を打ち明けることはできなかったけ ど、あのときから、僕と佳耶との距離は、開くどころか、ぐっと縮まった気さえする。
「で、提出期限はいつ…?」
「あしたの朝……じゃどうせやらないだろうから、今日の夜八時!」
「うそっ!?」
「わたしは嘘はつかないもん。八時に、この目で、しっかり確認させてもらいますからねっ」
「……はい」
 僕は、佳耶の出した“宿題”を、渋々承知した。
 なんだかんだ言って、肉じゃがが得意料理になったり、女物の衣服も畳めるようになったりで、確実に、佳耶の“宿題”は僕 の腕に成果を残している。だけど、今回のは、果てさてどうなんだろう。身につくことといったら、紙に字を書くことで、少 し字が上手くなるぐらいか。いや、佳耶に言われた言葉を三度書いたところで、僕の字が変わるはずがない。真心を持って書 けば、その限りじゃないかもしれないけど……。
 あとは、約束を守る堅実さ、ぐらいかな。これだって、身につくのかどうか怪しい。
 でも、僕に“宿題”を放棄したり、白紙で提出したりすることはできない。些細なことで佳耶を裏切るような真似は、絶対に したくないから。
 学校から帰ってきたら、まず始めに佳耶の“宿題”に取り掛かろう。それから、学校の宿題を消化しよう。僕は、まだ学校に 行く前から、そんなことを考えてしまうのだった。

 

 家を出て、しばらく北へ歩くと、比較的交通量の多い、片側二車線の大通りに出る。この道を西に二キロほど進んで、国 道の脇をひたすら北に向かって走れば、僕の通う高校に到着する。
 佳耶の通う中学校に行くにも、家の前の大通りにかかる横断歩道をわたらなければならない。あのとき発作を起こしてい たせいで、前後数時間分の記憶を失っている佳耶には、ほかの横断歩道となにも変わらないように見えるらしいけど、僕 の記憶には、鮮明に残っている。この横断歩道こそ、僕が危機一髪のところで佳耶を救い、転がって派手に電信柱に頭を ぶつけた場所だ。今でも、この場所で車のクラクションを聞くと、あの場面が脳裡をよぎる。歩道に辿り着くことができ ず、横断歩道の上で、買い物袋を提げたまま固まった、佳耶の姿が。それは、判断力を一定時間失ってしまうという症状 が佳耶の発作だとすれば、僕の発作だともいえる。目の前の景色に、突然赤黒いフィルターがかかって、動悸が激しくな り、隣にいるはずの佳耶が、横断歩道の上に半透明で映って……気が狂ったみたいに、佳耶の名前を叫びそうになる。そ れは僕にとって、佳耶を助けて自分に自信をつけたことの、副作用みたいなものなのだ。
 佳耶はあの事件以来、毎朝元気な顔をしているけれど、だからといって気は抜けない。朝はこうやって、佳耶が横断歩道 を渡り切るのを僕が見届け、下校のときは、佳耶と時間を合わせるのが難しいから、彼女の友達で、同じクラスの久宝さ んという子に付き添ってもらっている。久宝さんはこの大通りよりも北に住んでいる子だけど、わざわざ佳耶のために一 緒に横断歩道を渡ってくれるぐらい、優しいのだ。佳耶いわく、久宝さんがここまで世話を焼くのはわたし以外に誰も いないよ、ということなのだそうだけど……。その、世話を焼く対象が佳耶であってくれて良かったと思っている のは、佳耶本人だけじゃない。僕も、久宝さんの思いやりには、いくら感謝してもしきれないぐらい感謝している。 ただ、その久宝さんには、ひとつだけ……いや、ふたつ受け容れがたい性質がある。
 ひとつは、彼女がお世辞にも可愛いとは言えない風采をしていること。佳耶は言動が女の子っぽくないけど、久宝さん は、身なりが女の子っぽくない。なぜか、うちに遊びに来るときはいつも、お医者さんのような格好で現れる。上は赤茶色の ブラウス、下は黒いミニスカート、土色の革のブーツを履いている。ここまではよくある着こなしだけど、上着として羽 織るのは、普通のジャケットとかじゃない。白衣なのだ。おまけに黒縁のメガネをかけていて、その最後の二点があるだ けで、世間一般のお洒落に敏感な女の子たちとは、まったく違う印象を受ける。可愛くないなんて本人の前で言ったら なにをされるかわかったもんじゃないから、個性的だ、とでも言い換えておこうか。とにかく、ファッションに気を遣っ ているとは到底言えないほどの出で立ちを、僕や佳耶に見せることが多い。
 もうひとつは、図々しさとでもいうのだろうか。それとも、厚かましさとでもいうのだろうか。最近になってからだけ ど、うちにお邪魔しにきた日は必ずと言っていいぐらい、晩御飯を食べていく。あたかも、晩御飯のときだけ、家族がひ とり増えたような光景を見るのだ。
 久宝さんの家がどういう事情を抱えているのか、本人も、佳耶も、両親も教えてくれないけど、僕は気がかりだ。久宝 さんの両親は、彼女が晩御飯のテーブルにつく機会が少なくなって、寂しくないだろうか、って。その都度「佳耶ちゃ んの家に遊びに行ってくる」と報告しているのならまだしも、なにも言わずに出てきていたりなんかしたら、彼女の両親 も心配せずにはいられないだろう。
「……なぁ、佳耶」
「うん? なあに?」
「久宝さん、今日も来るの?」
「ふみちゃん?」
「あ、うん」
「うーん……ふみちゃんのことだから、たぶん、来ると思うよ」
「そっか……」
 久宝さん――本名は、久宝文音。彼女の下の名前をとって、佳耶は、彼女のことを“ふみちゃん”と呼んでいる。で も、いつも“ふみちゃん”というわけじゃなくて、たまに、“みねちゃん”と呼んだりもするらしい。前二文字をとって も、後ろ二文字をとっても愛称ができるなんて、いい名前だと思う。うちの佳耶なんて、もともと二文字だから、そのま まちゃんをつける以外に愛称が思い浮かばない。“かーちゃん”なんて言ったら、それこそ母親を呼んでいるみたいだ し……。
 当の久宝さんは、自分の名前について、文学的な才能も、音楽に表現されるような美しさも望まれていたはずなのに、結 局はまったく違う道に入ってしまった、と言って笑っていた。そんな話を傍で聞い て、僕も、“美人”とは程遠いな、と思った。佳耶に至っては、あまり、自分の名前のことはわかっていないみたいだっ た。ただ、“佳”という字が“佳作”などの言葉にもあるように“ある程度優れていると認められる”ことを意味してい て、“耶”の字は、ああそうだなあ、という感動の意味になるから、“優れているなぁ”なんて言って笑っていたの は、つい先日のことだ。
「おにいちゃん、ふみちゃんになにか用事でもあるの?」
「あ、いや……べつに」
「えっ? それじゃあ……ふみちゃんに来られるのは迷惑だって、思ってる……?」
「いっいや、そんなことないけどっ……」
 僕は、慌てて否定した。確かに、お邪魔ついでに晩御飯を食べて行かれると、こっちとしては、無駄に食費が嵩んでしま うから、迷惑と言えば迷惑だ。だけど、体裁に関しては人一倍うるさいはずの父さんでさえ、久宝さんがうちに居着くの を認めてしまっている。そんな塩梅だから、僕からは文句を言う理由がないのだ。
「……あ、わかった」
「えっ?」
「おにいちゃん、さてはふみちゃんの魅力に一目惚れしたんでしょ?」
「……えぇっ!?」
「わかるわかるー。わたしにもわかるよ。あのクールなところなんて、一筋縄にはいかないもんね」
「あぁいや、そんなんじゃないって!」
 楽しそうに言う佳耶だけど、やっぱり彼女が言うようなことを僕も思っているわけじゃないから、口をついて出た答え は否定だった。
 なかなか頷かない僕を一瞥して、佳耶は、眉根を寄せた。
「じゃあどんななの?」
「それは……えーと……」
 僕は、言葉につまった。実際のところ、僕が久宝さんのことを話題に上せたのは、彼女のことが心配だと思ったから だ。でも、それを佳耶に言葉で直接伝えることができない。どうせ僕が久宝さんのことを心配していると言ったとこ ろで、そんなのおにいちゃんが気にするようなことじゃないの、なんて言われそうだし……。
「まぁ、最近あの横断歩道を渡ったあと毎日のようにうちに来て、しかもかなり長居していくから、なんかいかがわしい ものの取り引きでもやってるんじゃないか……とか思ったりしてね」
「…うぷぷっ」
 僕の憶測を聞くや否や、佳耶は、薄赤い頬の内側に溜めていた空気をいっきに吐き出して笑った。
「そんなの、わたしたちがするはずないじゃない」
「……そうか?」
「おにいちゃん、考え過ぎだよ。わたしとふみちゃんは、単に仲良しなだけ。一緒に勉強したり、趣味の話をして るだけだよ」
「ほんとに……?」
「おにいちゃん。知ってる?」
「え?」
 目的語がなかったので、僕には、目を点にする反応しかできない。
「疑り深くなるのは老化の現れなんだよ」
「老化……」
 確か、朝起こされたときも、要介護だとか言われた気がする。佳耶の目のフィルターを通すと、僕は実年齢より も、体力的にも精神的にも老けて見える。老けて見えれば。当然美人じゃない。そう思うと、自分が親からもらった名前が 廃れたような気さえした。(本当は、父さんは美人じゃなくて漢和辞典に載っている“元気な男子”という意味で僕に命名 をしたらしいのだけど。)
「もうちょっと、おにいちゃんは見た目ぐらいまでは若くなれるように努力しなきゃね!」
「……そうだなぁ」
 実際、佳耶に言われるまではそんなことはちっとも気にしていなかったから、若くなるにはどうすればいいかなん て、思い付くはずがない。昼間の健康番組を予約録画しておいて、それを見て勉強しろとでもいうのだろうか。そも そも、僕は、今どれぐらい老けていて、年齢相応になるには、あとどれぐらい若返ればいいのだろう。まずは、そう いう根本的なところから考えなくちゃいけない。
 朝っぱらから、佳耶の鋭い指摘によって、僕の気は更に重くなるのだった。

 

 佳耶が横断歩道をわたるのを見届けると、僕は手を振って彼女と別れ、自転車のサドルに跨がった。一度ペダルを反対 向きに回して、踏み込むのにちょうどの位置に合わせると、全体重をかけて、自転車を漕ぎ出す。立ったままの姿勢で ペダルを回すと、あっという間に自転車は最高速度に達した。最高速度といっても、限界までぶっちぎるわけじゃな い。そうなると、ただ単に暴走しているだけで、かえって運転しているひとの身の危険に繋がりかねないので、僕はそん な愚かなことはしない。僕にとっての最高速度とは、頬や手を掠める風が、ちょうど心地良く感じるぐらいのスピードの ことだ。最適速度とか、ジャストスピードとかいうよりも爽快な響きを持つ“最高速度”のほうが好きだから、僕はこの 言い回しを多用している。
 高校生になって半月が経ったけれど、ようやくこの通学コースにも慣れてきた。僕は昔から、友達を数人と連れ立って どこか遠くの繁華街とかに出掛けるようなことはほとんどしなかったから、当然のように、自転車に乗る機会も少なかっ た。お遣いのときと、友達の家に遊びに行くときぐらいだっただろうか。といっても、発作を起こしたときの佳耶が、そ れこそ認知症のお年寄りみたいに家を飛び出してしまう可能性もないとはいえないので、その影響もあったのだけれど。
 それほど自転車を使う機会の少なかった僕が、高校に通い出してから、往復一時間も自転車を走らせるようになっ た。始めのうちは、荷物の重さにかかわらず、三十分も自転車を漕ぎ続けること自体が重労働のように感じたけど、最 近それをクリアして、重いのか軽いのかさえ判別がつかなかった荷物の重さが、純粋に重いと感じられるぐらいになってきた。
 これにはやっぱり、毎朝眩しく輝く佳耶の顔も関係しているのかもしれないけど、もうひとつ、関係しているものが あると、僕は思う。
 その“もうひとつの原因”には、あと二十分ぐらい自転車を漕げば、学校の昇降口あたりで会えるんじゃないだろうか――。

 

「はよーっ、トミー!」
 ――ドスンッ。
 昇降口で上履きに履き替えている僕の肩を叩いて、そのままずんと地面の方向に押し付けるような圧力を加える。その 人物は……。
「あっああ……おはよう、わっぴー」
 明るい栗色の髪に、佳耶と同じぐらい明るく笑った顔。まるで宵闇さえ明るく照らしてしまいそうな印象を 与える女子生徒、湧井成羽。彼女とは、この高校に入って、久し振りに再会した。
 僕がそれよりも前に成羽と学びの場を共にしたのは、中学校でもなく、小学校でもない。幼稚園のときだ。
 あのときからずっと、男勝りで、負けん気が強い成羽。だけど、彼女はなぜか、僕にはいつも優しく接してくれた。 幼稚園のときに、弱虫でしばしば虐められていた僕を庇ってくれたという記憶が、うっすらとだけどある。
 確か、工作をしていたときに、鋏を手に蟹の真似をして、「お前の首をちょん切るぞー」なんて言ってきた虐めっ 子に、「その前に自分の首で切れ味試してみたらどうなのよ?」だなんて、平然と言っていたような気がする。
 それ以外にも、たとえば、運動の時間、ドッヂボールをやっていて真っ先に背中にボールを喰らい、外野から当てるこ ともせずにただ泣いていた僕を見て、スパンスパンと軽快にボールを相手チームの子に当てていったり。給食のとき僕 がぶつかって、持っていたパンを落とさせてしまった子に「お前のパンと交換しろ」と言われたときも、成羽はずいっと 僕とその子の間に割り込んで、落ちたパンを拾い、僕に文句をつけてきたその子の口の中に無理矢理押し込んだことも ある。
 言わば、幼稚園時代、成羽は僕にとってピンチを救ってくれるヒーローならぬ、ヒロインだった。
「わっぴーはやめてって言ってるでしょ? この年にもなって恥ずかしいじゃん……」
 照れているのか、表情を難しくして、体を小振りによじらせながら、成羽は言った。
 この年にもなって、と僕自信が言っても説得力に欠けるかもしれないけど、一目で成長したとわかる成羽が言うと、言 葉に渋味が現れる。
 そう、成羽はあの頃と同じ心を抱いていても、同じ体は抱いていないのだ。胸はゴールデンタイムのバラエティー番組 で見るようなグラビアアイドルみたいに出っ張っているし、身長だって、この間の身体測定の結果では、僕が百六十七 センチで、成羽が百六十六センチ。僕と一センチしか変わらないのだ。
 どっちかというと、成羽の目覚ましい成長が、僕のとろいそれを追い抜いてしまったという感じだ。いや、彼女は幼稚 園時代から弱い僕を守る立場だったから、僕の成長が一方的に遅れているといっても間違いではないかもしれない。
「それはそうだけど……そんなこと言ったら、トミーだってどうにかならないかな、って思うよ……」
「トミーは可愛いからいいの」
「えぇっ?」
「わっぴーは恥ずかしいから駄目。そんだけだよ」
「それって単に、わっぴーの思い込みなだけじゃん!」
「あーもう、わっぴーわっぴーって、あたしは金魚じゃないんだからやめてよねっ」
「金魚……」
 言われて、僕は、幼少時代に成羽と一緒に観に行ったアニメ映画のことを思い出した。確か、僕が成羽のことをわっぴー だなんて呼び始めたのは、そのアニメを観てからだ。中学校が舞台の話で、主人公の女の子がある日飼い始めた金魚 が、“わっぴー”と名付けられていたのだ。そのわっぴーを飼うことになった女の子は、購買部の焼きそばパンが大好物 なのだけど、あるとき残ったぶんを家に持ち帰ってわっぴーに与えたところ、がつがつと食べて、それ以来“奇跡の 金魚”としてわっぴーは幾度となく飼い主の女の子のピンチを救うのだ。
 幼稚園の帰り、僕が送迎バスに乗り込むときに、成羽を自転車で迎えにきていた彼女の母親が、よくコンビニで買った 焼きそばパンを成羽にあげるのを見たのも、もちろん僕が彼女のことを“わっぴー”と呼ぶきっかけになっていた。
「あのアニメのこと、まだ覚えてるんだ」
「あったりまえでしょ。その……トミーの隣で観たやつなんだから」
 さっき初めにわっぴーって呼ばれたときよりも、随分と恥ずかしそうな顔をして、成羽は僕から視線を逸らした。
 きっと成羽は、あのとき映画館でわっぴーのアニメを観ていたときのことを思い起こしながらも、脳裡に浮かび上がっ たその風景の中に、今の自分と僕の姿を描いたのだろう。あのときは、お互いに気が置けない友達という見方しかできな かった僕たち。だけど、今は、それとは別に、お互いの性別を意識してしまう。成羽の顔が赤くなるのも無理はないなと 思って、僕は、軽く顔に苦笑を描いた。
「……なに笑ってるのよ。べっつにあたしは、トミーとまたあんな風に映画が観れたらなー、なんて思ってるわけじゃ ないからね」
「ははっ。思ってなくても、あのときのこと覚えてくれただけで、僕は嬉しいよ」
「なにそれ……ばっかみたい」
 不貞腐れながら、成羽も苦笑を僕に返す。
 自分の下駄箱の前まで移動して、靴を履き替えながら、
「トミーさあ」
 成羽は、僕を見ずに言った。
「うん?」
「ぜんっぜん、成長してないね」
「うっ……」
 図星だ。でも、それを言ったらわっぴーだって、僕以外の子には強気で当たっていたところが、今でも残ってるじゃ ないか――そう言おうとして、やめた。成羽は、自分の言い分を覆されるのが、根っから苦手なのだ。例えば自分は 強いだろうと言って、いいや弱いと言われれば、次の瞬間にはもう、成羽は、眉尻を吊り上げていたりする。
 僕が成長していないということはつまり、成羽は自分を成長しているものと見て、それを基準に僕についての所見を 言っているわけだから、結果的に、彼女が成長していないという意見は、彼女を落胆させるどころか、怒らせてしま うことになるだろう。
「あたしたち、もう高校生になったんだし、ちょっとはそういう自覚持ったほうがいいと思うよ」
「……よおく心得ております」
 お互い様、という言葉を避けて、僕は、成羽の言い分を素直に嚥下しておいた。
 まったく、佳耶に老けていると言われた数十分後には、この言われようだ。いったいどうすれば万人から年齢相応の 人間として見られるようになるのだろうかと頭を悩ませながら、僕は、成羽と一緒に教室を目指した。

 

 ――昼休み。
 僕は、三時間目の数学が終わってからすぐ教室に押し入ってきた成羽に誘われて、中庭の時計台のところに来ていた。
 校舎にぐるりと四方を取り囲まれる中庭には、円形のベンチが備え付けられた花壇と、その真ん中に時計台、それから、 下校時刻になると鳴らされる鐘のようなものがある。広いグラウンドとは違ってこぢんまりしていて、おしゃべりをした り、部活のミーティングをしたり、昼食を取ったり、本を読んだり、昼寝をしたり……といった用途のためにある場所な ので、校則でも、ここでボール遊びなどを行ったり、走り回ったりすることは禁止されている。ストレッチぐらいの軽い 運動なら、周囲の生徒の迷惑にならないからべつにいいのかもしれないけど、実際にやっている生徒は見かけない。
 僕は、購買部で昼食を買ってくると言った成羽を待つために、花壇のベンチに腰を下ろした。辺りを見回してみても、 男女のペアはそれほど多くない。男子ばかりが三人、四人と集まっていたり、女子ばかりが同じぐらいか、男子よりも 少し多いぐらいの人数で集まっている。僕の隣に成羽が座ったら、明らかに、この風景の中では浮いてしまいそうだ。
 しばらくすると、
「――ごめーん。遅くなっちゃったー」
 校舎の非常口から小走りに駆けてくる成羽の姿が、僕の目に映った。
 彼女の手には、焼きそばパン。やっぱり、小さかった頃の好物は、今でも好物らしい。
「あははっ。やっぱりわっぴーじゃん」
「うっうるさいわね……これが好きで悪い?」
 膨れっ面を作りながら、成羽は僕の隣に、どすんと腰を下ろす。そして、おもむろに左脚を上げて、右脚の太腿の上に載せた。
「悪いなんて、べつにそんなこと言ってないけど」
「あたしにはそういうふうに聞こえるの」
「……ふうん」
 成羽の耳って本当に不思議だな、と思いながら、僕は、焼きそばパンの袋の封が、彼女の女らしく細長い指で切られるの を見る。中から焼きそばパンを取り出して、彼女はいただきますも言わずに、それを口に運んだ。はむっと、パンの大き さの四分の一ほどを頬張る。豪快な食べっぷりだな、と僕は思った。
 もぐもぐと口を動かして、飲み込む。何も言わずに、成羽は二口目を頬張った。
 これほど淡々と食事をされては、それこそ、物を食べることが、機械的な行為だと感じてしまう。単にお腹が空いたから 食べているんだとか、生きていくために食べているんだとか、そういう大人びた言い草が、成羽の素っ気ない態度に現れ ているような気がする。
 二口目を飲み込むと、成羽は、それまでモーションの無かった僕のほうを見て、
「食べないの?」
 と訊いた。
「いや……まぁ、食べないのに持ってくるのっておかしいよね」
 僕は我に返って、弁当箱の風呂敷を解いた。成羽が焼きそばパンを頬張るのに見惚れていたことを、僕は顔に苦笑を浮か べてごまかそうとしたけど、成羽は、僕に向けてじっとりした眼差しを走らせた。
「……なんか気になるね、その間」
「べつになんでもないよ……」
「そう?」
「……うん」
 僕は内心冷汗をかく思いで成羽の指摘をやり過ごすと、弁当箱の蓋から箸を取り出して、蓋を開けた。二段式になっている 弁当箱の上の段はごはん、下の段はおかず。ごはんには梅干しか漬物かのどちらかが添えられていて、今日は、ミニ サイズの梅干しが二つ載せられている。おかずは、鶏の唐揚げに卵焼き、ミートボールにシューマイと、ポピュラーなものが 並んでいる。中学のときから毎日ほぼ同じメニューが続いているので、飽きたと言えば飽きたけれど、まずいわけじゃな いから、惰性で同じものを食べ続けているのだ。
「それ、トミーのお母さんが作ってるの?」
 僕の弁当を物欲しそうに覗き込みながら、成羽が訊く。
「うん。母さんがどうしても忙しいっていうときは、佳耶が代わりに作ることもあるけどね」
「ふうん……」
 成羽はしばらく弁当をじっと見つめたあと、僕の顔に視点を戻した。
「佳耶ちゃん、元気にしてる?」
 訊かれて、僕は真っ先に、成羽の記憶力を心の中で称えた。
 わっぴーのアニメのこともそうだったけど、成羽が佳耶の顔を見たのも、今から十年ぐらい前のことになる。僕が二歳の ときに産まれた佳耶は、僕と成羽が幼稚園の年長組のとき、まだ三歳だった。あのとき、佳耶はまだ人見知りが激しかった せいで、あまり外に連れ回される機会がなかったけど、それでは逆効果だと思った両親が、年度の終わり頃――確か、 年が開けた頃だっただろうか――に、佳耶を僕と同じ幼稚園の年少組に編入させたのだ。だから、ほんの二ヵ月ぐらいの間 だったけれど、成羽は、幼稚園で佳耶と遊ぶ機会があった。
 それ以降、何度か成羽が親から僕に妹がいるということを確認させられていたにせよ、僕は今、成羽の前で、十年振りに 佳耶の名前を口走ったのだ。それで打てば響くように佳耶のことを理解されてしまったのだ。驚かずにはいられない。
「ああ……うん、元気だよ」
「そう。よかった」
「もう、なんていうか元気過ぎてさ……こっちが困っちゃうぐらいだよ」
「ふふふっ。佳耶ちゃんの成長した姿、一回見てみたいな」
「そんなの、僕んちに来ればいくらでも見せてあげるよ」
「……あのね」
 成羽は、手の平を額に当てて、気抜けしたような声を出した。
「なんの前触れもなしにあたしがトミーのうちに押しかけたりなんかしたら、絶対誤解されるよ?」
「あっ、それもそうか……」
 僕は、決まり悪い笑みを顔に浮かべた。
 確かに、成羽の言うとおり、僕が彼女とふたりして家の玄関を潜ったりすれば、まず佳耶にびっくりされて、おそらく 遊びに来ているだろう久宝さんにも変な目で見られて、ひいてはそのことを後ほど伝え聞くことになるであろう両親からも 変な解釈をされてしまうかもしれない。佳耶は目撃した映像についてよく考えず、見たままに解釈してしまいがちだから、 僕の提案は、そう考えると自然と却下の方向に向いた。
「まずはあれだね……あたしと再会したってことを、素直に伝えられないと話にならないかもね」
「……だよね……」
 実は、僕は、この二週間、成羽との再会を果たしたことを、家族の誰にも告げていない。そのわけはいたって単純で、なんと なく含羞んでしまうから、だ。
 成羽が僕を出し抜けば、いずれはうちの両親にもばれてしまうことになるんじゃないか、と思ったけど、そう説明すると、 成羽は気を利かせてくれているのか、「トミーがカミングアウトするまで、あたしのほうからは言わないから」と言ってく れたのだ。
 それなのに、ただ恥ずかしいという理由だけで、事実を出し渋っている。べつに秘密にしておいてもいいのだけど、言わ ないことには、成羽と佳耶の対面も実現しない。そうなると、僕は良くても、成羽は不満だろう。
「でもさ、わっぴー」
「……結局わっぴーはやめてくれないのね……」
 がっかりした顔で、残念そうに成羽は言った。
「あっ、ごめん……つい」
「いいよいいよ。癖になっちゃってるんならしょうがないし」
 だけど、僕が張り詰めた表情で謝ると、成羽は、苦笑して、僕が彼女のことをわっぴーと呼ぶのを認めてくれた。
「癖というほどでもないんだけどね……」
「ふふふっ。あたしとトミーのふたりのときは大目に見てあげる。そのかわり、周りにたくさん人が入るときとかはなる たけ遠慮してよね」
「わっぴーも、人多いところで僕のことトミーなんて呼んだら、怒るからね」
「あははっ。極力、努力はします」
「おいおい……」
 中途半端な誓いの立て方をした成羽には正直言って呆れたけれど、僕のほうも、“なるたけ”ということはやむを得ない 場合は許されるのだろうと思って、そのことはあまり問題にしなかった。
「で、なんか言いかけてたよね?」
 三口目をの飲み込んでから、成羽が言った。
 僕もごはんを噛んでいるところだったので、それを完全に食道へと送ってから、口を開いた。
「ああ、うん。わっぴーとは幼稚園のとき一緒なだけだったから、もしかしたら、うちの親は記憶にすらないんじゃないか、 って思ってね。ほら、親ってただでさえ小学校とか中学校とかの友達付き合いのほうを心配するのに、それだけじゃなくて、 仕事のこともあるし、家計をやり繰りすることも考えなくちゃいけないし……十年前のことなんて、これっぽっちも頭の中に 残ってないはずだよ」
「まぁ、確かに……そんなんで忘れられちゃったら、あたしとしてもちょっとショックだけどね」
 それはそうだろう、と僕は思う。なんたって、幼稚園のとき、男の子と向かい合ったときは勝負腰になって、女の子と向か い合ったときは敬して遠ざけられていた成羽には、むろん僕以外の友達が居なかった。僕も同じで、女の子と向かい合った ときは頼りない目で見られ、男の子と向かい合ったときはノリが悪い子だと思われていたから、成羽以外の友達がいなかっ た。お互い、唯一の友達だといえる間柄だったから、そのぶん互いの両親にも強い印象を残していたに違いない。
 でも、記憶を溜め込む量には、当然限りがある。僕たちみたいに若いうちは、印象の強い記憶をある程度まで優先して残し ておくことができるけど、大人になると、さすがにそうはいかないのだそうだ。だから、うちの両親が成羽のことを覚えて いる確率は、フィフティー・フィフティーだと思う。
「佳耶ちゃんなら、あたしのこと覚えてるんじゃない?」
「うーん……」
 ありそうだけど、あまり望めるようなことじゃないだろう、と僕は思った。
 佳耶の記憶力は、確かにまだ若いから優れているかもしれないけど、そうと決め付けられない理由が、彼女にはひとつだけ ある。
 ――そう、持病の発作だ。
 佳耶は、発作を起こし、脳の神経伝達回路になんらかの異状を来たす度に、古い記憶、いや、ときには二、三日前の記憶で も、ランダムに失ってしまうことがある。確か、主治医の先生はこう言っていたような気がする。
 つまり、佳耶についてもまた、あの頃の記憶を満足に引き出せる状態にあると、断言することはできないのだ。
「どうだろう……僕も、中学に上がる頃には幼稚園のときのこととか、わっぴーと遊んだこと以外ほとんど思い出せなく なってたし……佳耶でも難しいかもね」
 持病のことを軽々しく言い出せない僕は、二枚舌を使ってそう説明した。
「じゃあ、もう駄目元で言ってみるしかないわけね……」
「うん……そういうこと」
 ふたりして、苦笑する。残っていた焼きそばパンを口に放り込み、しばらく噛んで飲み込むと、成羽は、割り切ったような 顔を僕に見せた。
「まぁ、あたしも急いでるわけじゃないからさ。なんか脈があったら、また教えてよ」
「うん」
「楽しみだな……佳耶ちゃんの顔見るの」
 期待の色に染まった成羽の顔を見て、僕はやっぱり、彼女が抱いている期待を裏切りたくはないな、と思った。
 成羽は、残った焼きそばパンの包装紙をくしゃくしゃに丸めてブレザーのポケットに突っ込むと、
「じゃあ、あたしは食後の運動でもしにいってくるね」
 と言って、ベンチからすっくと立ち上がった。
「運動って……そんなにすぐじゃ、胃が痛くなるんじゃあ……?」
「それが狙い、ってことは先生には秘密ってことで」
 そう言うと、成羽は、そそくさとグラウンドのほうへ駆けていった。
 ……それが狙いって……。
 言いたいことはなんとなくわかったけど、真面目に頑張っているつもりの僕としては、成羽の捨て科白が、あまりいい気 のしないもののように思えた。

 

 交差点の角で、右の足を地面についたり左の足を地面についたりして体をぐらつかせている僕を、隣で同じように信号待ち しているサラリーマンふうのおじさんが、怪訝な目で見つめる。傍から見たら、それはもう滑稽なことだろう。だけど、僕 にとっては滑稽でもなんでもない。むしろ、緊急事態なのだ。なにもこんな動作を笑いを取りたいからとか、単にやりたい からとかいう理由でやっているわけじゃなくて、体が自然にこんな動きをやってしまう。
 自転車に乗ってしまえばそれほど気にならないだろうと思っていたのが、大きな間違いだった。どうも、朝登校するときと、 夕方下校するときでは、生理的感覚に違いが生じるらしい。朝は、出発時間ぎりぎりまで登校の準備をしていたせいで、 どうしてもトイレができなかったときでも、自転車を走らせて心地良い風に身を委ねれば、催す感覚は次第に 薄れていく。
 だけど、今はそうならない。確かに、テニス部に向かう成羽に挨拶をして、帰路に就いたときには、なんとなく出そう だなー、ぐらいの感覚だった。でも、カフェオレという飲み物は残酷だ。コーヒーの利尿作用で、なんとなく、だったのが、 あっという間に、急げ早く、に化けてしまう。僕が普段飲むものといえばこれぐらいのものだな、という軽い気持ちで カフェオレを買い、下校前に飲んでしまったのも、大きな間違いだったかもしれない。
 隣のおじさんは、僕の全身を見て妙な顔つきをしているけれど、あわよくば、僕の顔だけを見てほしかった。膀胱と脳の間を 行き交う夥しい命令の数に青ざめた、この顔を。
 信号が、やっと青に変わる。股間と脚とに均等に力を入れながら、僕は再びペダルを漕ぎ始めた。
 コンビニのトイレだって借りられるし、スーパーのトイレも、自由に使うことはできる。でも、スーパーにそれだけのために 入るのもなんだか気が引けるし、コンビニなんかは、つい最近、トイレばかり使っていくお客さんが増えたせいで、「当店に て買い物をされる方のみ使用できます」という掲示を張り出すところまで出てきた。
 あと、男の子なら、特権行使もやむを得ない、なんていうひとも確かに多いけど、僕には、到底そんなことをやってのける だけの勇気なんてない。なんというか、それだけは、良心が許さないのだ。
 小さな交差点をいくつか過ぎて、家の前の大通りが迫る。東側の歩道を走っていて、本当に良かった。ちょっと西日は眩し くても、信号待ちのリスクは軽減する。
 とにかく、夢中で自転車を漕いだ。携帯電話片手に通話相手と話し込みながら、赤信号を足早に渡っていく背広の人をしば しば見かけることがあるけど、あのように自分の身の安全よりも都合を優先させなければいけないときってあるものだな、 と、切羽詰まった表情で、僕はそんなことを考える。
 例の横断歩道に差し掛かると、折良く、東西側の歩行者用信号の青色が点滅した。よし、あともう少しだ。これを渡って、 三分も走れば家に着く。歩行者用信号が赤に変わるが、おばさん、小さい子供、おじいさんまでもが赤信号を突破していく。 続けて、車道の信号も、黄色、赤と変わった。焦ってはいけない。まだ、矢印信号があるのだ。右折車のみが進行し、 やがて、矢印が消える。同時に、僕は自転車でロケットスタートをきった。僕が発進するのよりも一秒ほど遅れて、 南北側の信号が青になる。
 ……頑張れ、もう天国はすぐそこだ!!
 何度も、心の中で自分に言って聞かせる。帰宅するといつも、佳耶が有り合わせの材料で小腹を満たすためのおやつを 作ってくれているけど、今日に限っては、リビングダイニングには直行できそうにない。
 資材屋とか、中古車屋が見える。これを過ぎて、一戸建ての建ち並ぶ路地に入れば、西から二番目が僕の家だ。
 ようやく、家に到着。本当に長い時間だったと思う。自転車をいつもの場所に停めて、鍵をかける。佳耶のほうが早いから、 扉の鍵は開いているはずだ。扉を引き開けて、玄関に入り、まだ姿の見えない佳耶に向かって、
「ただいまー!」
 と声をかけた。
 脱いだ靴を揃えて爪先を扉のほうに向けるという作業を省略し、僕はトイレに向かって一目散に走る。「おかえりー、おに いちゃーん」という声が二階から返ってきたので、トイレは使用可能だ――と思ったのは、まったくの早合点だったわけ で……。
 ――ガチャッ。
 開いたトイレのドアの向こうから、無いと思い込んでいた顔が覗く。目が合って、少しの間、時間が止まる。女の子のぽか んとした顔。なんか変だな、と思った。佳耶も時折、トイレのドアの鍵をかけ忘れることがあって、今みたいに目を合わせ てしまったときは、怒り散らして、しばらく口を聞いてくれなくなることさえあるのだけど……。どうやら、この子は、 すぐには腹を立てないらしい。
「あの、そのっ、ごめんっ!」
 僕は、それだけを言って、女の子の反応を確かめもせず、咄嗟にドアを閉めた。そして、右手で拳骨を作って、右の側頭部を 強めに五回叩いた。後先を考えずに叩いたので、当然のように、痛かった。
 どうしようかと、僕は迷った。表面上は、中にいた女の子は怒っていなかったけど、内心では佳耶を上回るような激怒の炎が 燃え盛っていることだってあるかもしれない。今の僕の謝りは、たぶん、効き目無しだろうな、と思った。
 僕が、ぶざまにもトイレの前で立ち尽くしていると、トイレットペーパーが引き出される音がした。やばい、隠れなければ。 でも、隠れたら罪を否認することにはならないだろうか……僕がその問いに対する答えを出すのよりも先に、水が流れる音が して、中から、僕が目を合わせてしまった女の子が姿を現した。
 やたらと縁の太い、角丸長方形形の眼鏡。佳耶よりも大人びた顔立ち。ごく普通の衣服の上に羽織られた、不似合いな 白衣。
 彼女は、顔を上げて僕の目を見ると、にやりと薄気味悪い笑いを口許に作った。
「こんにちは、お兄さん。今日もお邪魔させてもらってます」
 そう言って、会釈程度の挨拶を済ませると、女の子は、つかつかとリビングダイニングのほうへと歩いていった。
 間違いない。あのユニークなファッションは、久宝さんだ。彼女は、佳耶が朝言っていたとおり、今日もうちに遊びに 来ていた。
 しばらくして、二階から、佳耶が降りてきた。佳耶もすでに、私服に着替えている。
「ごめんね、おにいちゃん。今日もまたふみちゃん来ちゃってて」
「あ、ああ、べつに迷惑なわけじゃないから、ガンガン押しかけてくれても僕は構わないんだけど……」
「だけど……?」
「あぁいや、なんでもない。僕も着替えてくるよ」
「うん」
 佳耶は一瞬疑うような声を出したけれど、すぐに、元に戻った。
「シナモンアップルパイ作って置いてあるから、早く来ないと食べちゃうよ」
 佳耶は笑顔になって、もうお株になってしまっているらしい、決め科白を突き付けた。
 玄関のドアを開けた瞬間とてもいいにおいがしたけど、やっぱりお菓子を作っていてくれていたんだな、と思って、 雀躍りする。
「うん、すぐ行く」
 僕は、久宝さんのあとに続いてリビングダイニングに入っていく佳耶の後ろ姿を見送ると、とりあえず、トイレに入って 足しそびれていた用を足した。
 洗面所で薬用石鹸を使って手を綺麗に洗い、久宝さんが来ているということなので、一応までに身嗜みも調えておいた。 べつに改めて髪をとかしたりなんかしなくても自然体でいいはずなんだけど、久宝さんは佳耶とは違って赤の他人だから、 普段家族にしか見せていない自分を見せるのもどうかと思う。もちろん、きっちりしすぎると、今度は逆に佳耶に疑わしい 目で見られそうだから、家族向けと、他所向けの中間という感じにしておいた。
 二階に上がり、自分の部屋に戻って、制服を脱ぐ。普段着に着替えたあと、佳耶に急ぐように言われていたのを思い出し ながらも、脱いだ制服は嫌にならないうちに畳んでおいた。さっき、玄関で靴を脱ぎっ放しにしてしまったのは、緊急事態 だったから、仕方ないことだ。差し迫った事態がない平和な時間の中にいる限りは、できるだけ、身の回りの整理整頓を 心がけるというのが、僕の信条だ。
 部屋を出て、足早に階段を降りる。すると、リビングダイニングのほうから、なにか不穏な言葉のやり取りが聞こえて きた。
「佳耶は自分のを食べればいいの。あんな人に、食べさせるおやつなんて要らないでしょ」
「いいよ、わたしは食べなくても大丈夫だから……これは、おにいちゃんにあげるの」
「そうするぐらいなら、私にちょうだい。ね、佳耶?」
「嫌だよ……これは絶対、おにいちゃんに食べてもらうんだもん」
「どうしたんだよ、ふたりとも?」
 さっきまで笑顔だった佳耶の顔が歪みかけているのを見た僕は、思わずふたりの口論に横槍を入れた。
「あっ、おにいちゃん……」
「……」
 佳耶と久宝さん、ふたりの顔が同時に僕のほうを向き、言葉のやり取りがぴたっと止まる。佳耶の眉は笑っているときとは 逆の方向にカーブしていて、久宝さんの眉は少し釣り上がっている。
「けんかは良くないよ。ふたりとも、友達だろ?」
 少なくとも、僕の目で佳耶と久宝さんがいがみ合っているのを見るのは初めてだ。気の許せる親友だと佳耶本人から説明を 受けていただけに、正直言って、こんな有り様になっているのはとても心配だ。
「ごめんなさい……おにいちゃん」
「かっ、佳耶が謝ることじゃないって言ってるでしょ?」
「ううん。わたしがもっとたくさんアップルパイを作ってたら、こんなことにはならなかったのに……」
 佳耶の口からアップルパイという言葉が出たので、これから食べるつもりのおやつに何らかの不都合ができたのだと、 僕は瞬時に悟った。
「アップルパイが、どうかしたの?」
「うん……実を言うとね、もうひとつしか残ってないの」
 顔を俯けて、上目遣いに僕を覗き込みながら申し訳なさそうな声で言う佳耶。
「えっ……?」
「全部で三つ作ったんだけどね、みんなで食べようって言ってたのに、わたしが戻ってきたら、ふみちゃんが先にふたつ 食べちゃってて……」
「……」
 佳耶に事の顛末を説明され、久宝さんは、無言のまま、僕と佳耶のふたりから目を逸らした。
「それで、仕方ないから、残ったひとつはおにいちゃんに食べてもらおうって思ってたら、ふみちゃんが、いいからわたしに 食べてほしいって……」
 佳耶の声が、だんだん湿ってくる。僕は、久宝さんが仕出かしてしまった悪戯よりも、自分の妹が泣き出しそうになって しまっているのに我慢がならなくて、残っていたアップルパイが載った皿を手に取ると、それをキッチンのほうへと持って 行った。
 すると、思惑通り、佳耶の顔が、クエスチョンマークで埋め尽くされたような感じになった。更には、久宝さんまでもが、 僕が次に起こそうとしている行動を警戒するような面持ちになっている。
 べつに、僕は、特別なことをやろうとしているわけじゃない。いたって単純なことだ。作業の工程も、たったふたつ。
 まずは、俎板と果物ナイフを用意して、アップルパイを俎板の上に置く。それから、目分量で、三等分する。以上で終了。
 あとは皿の上に等分したアップルパイを再び載せて、テーブルの上に置き直せば、完了だ。
 佳耶は、皿の上の載ったアップルパイに起こった変化を見て、そのあと、僕の顔を見つめた。
「おにいちゃん……」
「みんなでいつしょに食べるつもりだったんだろ? ほら。これが佳耶ので、これが僕の、これは久宝さんの」
 久宝さんは、ちょっと難しい顔をして切られたアップルパイを見つめたあとで、ひょいっと、三切れのうち二切れを両手で 摘み上げた。
「……!?」
「あぁっ、だめだよふみちゃん! せっかくおにいちゃんがみんなで食べようって言ってくれてるのに」
「……ふふふっ」
 久宝さんは、また薄気味悪く笑って、ふたつ持ったアップルパイのうちひとつを、僕の口に近づけてきた。
「はい、お兄さん。あーんして?」
「……えっ!?」
「わわっ、あわわ、ふっふみちゃんっ、それもなんかちょっとだめな気がするよぉっ!」
「ふふふ……やっぱり兄妹ね」
 慌てる僕と佳耶に、久宝さんはそんなことを言うと、
「冗談よ。はい」
 一欠片のアップルパイを、僕に差し出した。
「あ……ありがとう」
 久宝さんからアップルパイを受け取る僕の手は、ちょっとだけ、震えていた。アップルパイを先に食べてしまったことを 佳耶に喋られて不服そうな顔を見せたかと思いきや、にやりと笑って、事もなげに、「あーんして」ときた。他人同士 だから当然なのかもしれないし、仕方ないのかもしれないけど、佳耶よりも行動が理解しにくいのは確かだ。
「それじゃ、いただきまーす」
 冗談に翻弄され、気抜けしていた僕と佳耶を出し抜いて、久宝さんは、アップルパイを口に放り込んだ。
「あぁー幸せ。やっぱり佳耶の作るお菓子は美味しいわぁ」
 片手を頬に添えて、久宝さんは、おばさんみたいな口調で、佳耶にお世辞を贈った。
「おにいちゃん、ほんとにごめんね……アップルパイ、こんなにちっちゃくなっちゃって」
「いいって、気にするなよ。おっきくてもちっさくても、みんなで一緒に食べられたら、それだけで楽しいことじゃん」
「うん。そうだね」
 僕が笑いかけると、佳耶は、ようやく晴れ晴れしい顔を見せた。そして、アップルパイを噛る。ふたりに遅れをとって、 僕もアップルパイを半分ぐらい噛った。
「ふふふ……ほんとにお兄さんには優しくしてもらってるのね」
 久宝さんは、佳耶の顔と向き合ったまま、和やかに笑う。それは、さっきまでのちょっと意地の悪そうな笑い方とは、 雰囲気が違っていた。どこか佳耶のあどけなさに呆れているようでもあり、どこか、佳耶の置かれている境遇を羨んでいる ようでもある。
「うん……だって、わたしだけのおにいちゃんなんだもん」
「佳耶……」
 恋人がするみたいに、ぎゅっと僕の腕に自分の腕を巻き付ける佳耶。
 ただでさえ普段ふたりでいるときはしない仕種なのに、それを久宝さんの目の前でされると、たちまち僕の額のあたりが 熱くなった。
「ふみちゃんには、あげないよ」
 親友であるはずの久宝さんに、佳耶は、きっと睨むような眼差しを送る。
「大丈夫よ、佳耶。私はべつに、盗ったりなんかしないから。っていうか……たぶん、盗ったところで、取扱説明書でも 無いことには、処置に困るでしょ」
 佳耶と張り合ってもつまらないと言いたげに、久宝さんはくるっと僕たち二人に背を向ける。そして、アメリカ人が するような、手首を反らせ、両腕を中途半端に持ち上げて、竦ませた首を軽く横に振るという仕種をしてみせた。
 確かに、久宝さんの言うことは一理ある。あまりお互いのことを知らない他人同士が、相手を扱うための説明書を託された なら、すぐに打ち解けられるだろうし、小競り合いも起こらないだろう。
 だけど、そんなものは邪道だ。人の取扱説明書というのは、最初から操作方法がつまびらかに書き記された状態で見るもの ではなくて、自分が書き記していくのだ。たとえば僕が久宝さんと初めて会ったとき、僕は、彼女から中身が白紙の“久宝 文音 取扱説明書”というものを託されることになる。そして、僕が久宝さんの性質をひとつ知るたびに、それを白紙の 説明書に、僕の字で書き記していく。おおよその機能を把握できる機械とは違って、ひとつひとつ見つけだしていかないと いけないから、説明書の編集作業には相当な時間がかかるだろうし、もしかしたら、永遠に完成はしないかも しれない。
 だけど、編集過程にある誰かについての取扱説明書が、ふたりの人間の手に成ると、それぞれまったく違うものになるか もしれないということもまた面白い。佳耶はもう、ほとんど僕を取り扱うための説明書を完成させてしまっているのだろう けど、久宝さんも、今から書き記していけばいいだけのことだ。
 ただ、その内容というのか、精密さというのか、どこまで詳しく書けるかということについては、久宝さんよりも、佳耶 のほうが上だろうけど。
「おにいちゃんを取り扱う説明書……?」
「そう。所詮他人の私より、血の繋がった妹の佳耶のほうが、お兄さんの扱いには慣れてるのは当然だって、そう思った だけよ」
「それはそうかも……」
「だから、盗っても使い方がわからない私なんかより、お兄さんは、佳耶のそばに居るほうがいいってこと」
「えへ……そうだよね、ふみちゃん」
 佳耶は、僕の腕に絡み付いたまま、顔をちょっとだけうずめて、恥ずかしそうに笑った。
「お兄さん」
「ん?」
「佳耶ちゃんには、たっぷり愛情を注いであげてくださいね」
「……えっ?」
 なにか大層なことをさらりと言われた気がして、僕は一瞬、目を丸くした。
「ふみちゃんっ! そういう紛らわしい言い方するの禁止っ!」
「はいはい……」
 さっきまで久宝さんが場を取り仕切っていたかと思えば、彼女が下手に出れば一転、佳耶がバトンを受け取っている。 理由はわからないけど、久宝さんが会話に加わると、なんというか、ノリが独特になるのだけは確かだと思った。

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