第2章 年下の××××
La meilleure amie de ma sœur a enfin dit des extravagances.

【1】

 ――起立、礼。
 今日も、恙なく一日の課程を終えることができた……と言い切ってしまうと、嘘になる。本当は、高校生活が始まって以来 最大のピンチを、僕は迎えているのだ。そのせいで、今日に限っては、佳耶がどんなおやつを作って待っているのかとか、 久宝さんはいつものように家に遊びに来ているのか、なんて考えようとしても、心が浮き立たない。ただ、不安で仕方ないと いうのが、僕の気持ちのすべてだ。
 号令がかかる前に椅子を載せた机を、クラスメイトたちと同じように教室の後ろのほうに下げる。ボストンバッグを肩に かけて、狭い机と机の間を、体の向きを九十度回転させて前に進む。僕は、それほど視力が低いわけでもないから、後ろから 二列めの席に座っているけど、こういうときに、ちょっと割を食ったな、と思う。なにせ、みんながみんな自分の机を乱雑に 下げてくるから、前に抜け出すための道も、たまに僕自身が閉じ込められてしまうほど歪んでしまう。そんなとき、道を塞い でしまったクラスメイトは笑って机を寄せてくれるけど、そんな手間に時間を割くぐらいなら、最初から綺麗に下げたらどう なんだ、とも思ったりする。まあ、今日はどうにか通れるみたいだから文句はつけないけど……。
 つかの間の安心を満喫していると、いきなり、僕の視界に先生の教卓が迫ってきた。「うぉっ!」と無意識のうちに声を出し ながら身を躱すと、先生もまた、冷や汗が伝う僕の顔を一瞥して、うわっはっは、すまんすまんと大袈裟に笑った。 どうして、教卓のタックルをまともに喰らいそうになった僕のほうが、先生よりも決まり悪い顔をしなきゃいけないのか。 それは、生徒も親御さんも呆れるような、担任の先生の大雑把さにある。
 僕のクラスである一年四組の担任で、化学を担当している茨田龍彦先生は、良く言えばおおらかで気さく、悪く言えばある 程度よりも細かいことはまったく問題としない大雑把な性格の持ち主。とにかく八方美人だけど、しまいにはひとを選んで いるといった、僕としては少し付き合いにくいと思うタイプのひとだ。奥さんの名前が“マキ”という 噂が立っているから、生徒たちには“まきまき”というあだ名をつけられているみたいだけど、本人は全然気にしていない みたい。成羽から“トミー”と呼ばれるたびにこそばゆい感覚に見舞われる僕とは大違いだな、と思う。
 そんな“まきまき先生”に個人的な挨拶を済ませると、僕は、恥ずかしい思いから解放されることで彌勝った不安を抱えた まま、教室を出た。
 そのまま、階段のほうに向かって歩き出そうとした僕の肩を、
「……おいおい、シカトですか?」
 つんつん、と誰かの指が小突く。すでに廊下には生徒たちの喧噪が渦巻いていたけれど、その声は僕に向かって一直線に 進んできただけでなく、耳慣れたものでもあったので、僕はすぐに振り返るに至った。
「あ、わっぴー」
「……あ、じゃないでしょ。あ、じゃ。まったく、トミーの視界って、ちょっと小さすぎるんじゃない?」
 呆れ返った顔をもろに見せないためか、成羽は、四十五度ぐらいうなだれて、僕を直視せずに言った。
「ごめん……全然気づなかった」
「ううん、べつにいいけどさ……。そんなこと言うの、トミーぐらいだよ?」
 ようやく僕の目を見た成羽のつぶらな瞳は、僕への不満を示しているようでもあり、僕を評価しているようでもある。
 成羽が、自分をシカトしたはずの僕を評価するわけは、僕にははっきりとはわからない。でも、なんとなくこれじゃないか な、と思うものはある。それは、彼女のルックスだ。
 見てのとおりだけど、目鼻立ちが調っていてボディラインが女性らしく、脚も長い。いわゆる、プロポーションのいい体を、 彼女は持っている。だから、生徒の人垣を越えて、彼女の姿がほとんど確認できないようなところからでも、彼女を目敏く 発見して一声かけようとする男子生徒は多いんじゃないかと思う。それを敢えてしないか、したいとも思わない少数派に僕は 数えられるから、成羽が僕の希少価値を評価した。そう考えると辻褄が合いそうだと、僕は思う。
 でも、その思い込みは、成羽自身の考えとは僅かに食い違っているらしかった。
「うん……ほんとに居るとは思わなかったから」
「なによ……居ちゃ悪い?」
「悪いってことはないけどさ……」
「ふふっ、でもあたし、トミーのその自然な反応が好きだな」
「……えっ?」
「ほらさ、みんなあたしを見て挨拶代わりに声かけてくれるけどさ、それって義理でやってるみたいで気持ちが籠もって ないじゃない?」
「そう言われてみれば、そうだね」
「ん。そんな変に義理で声をかけてくれるより、トミーのほうがほんとに気付かなかったから、って言って謝ってくれるし、 あたしにはいい人っぽく思えるよ」
「そう、かなあ……?」
「うん」
 僕自身ではどうにも腑に落ちない証言だけど、成羽が笑ってそう言うので、半分だけ彼女の言うことを信じておこうかな、 と僕は思った。
「まぁ、幼馴染みだからってのもあるかもしれないけどね」
「そうだね……」
「……ね、トミー」
「なに?」
「なんか、元気なさそう」
 鞄を持つ手を腰の後ろに回して肩を竦め、成羽は、気遣わしげな目で僕の顔を覗き込むように見る。
「あ……ううん、そんなことないよ」
 僕は咄嗟に否定した。だけど、成羽の表情はますます疑い深いものになっていく。
「いや、絶対なにかあって、それで落ち込んでる。違う?」
「……うん」
 僕は観念して、成羽の解答に首の力を抜かれるように頷いた。
「どうしたの? あたしでよかったら、相談に乗るよ」
「いや、べつにいいよ。そんな大事でもないし」
 心の中に匿っていたはずの不安を見抜かれてしまったのは仕方ないけど、これ以上、成羽に無駄に気を遣わせたくない。 僕は、なんとかして、一人でもこの問題を解決できるという姿勢を、彼女に見せたかった。
 しかし、成羽は、
「ふうん。あたしには、トミーが小さいことにこだわらない人間には見えないけど」
「大丈夫だって、そんなに心配しなくても。僕だって、なんでもかんでも人任せ、ってわけにはいかないからさ」
「……家に帰ってから泣き寝入りしたって、あたしは知らないからね」
「……」
 むすっとした顔でそんなことまで言われてしまうと、かえって、成羽を頼りとしまいとする意志を貫徹するほうが、 彼女に気を遣わせてしまっているように思える。僕は、それ以上成羽の差し延べた手を遠慮する真似はできなくなった。
「ほんと、意地が悪いよね……わっぴーって」
 さっき視界が狭いと罵られたお返しに、そんなことを言ってみる。
「そっちだって、往生際悪いじゃん?」
「う……」
 いきなりカウンターを喰らってしまい、僕は言葉を続けられなくなる。
 手も足も出ない状態の僕を見て、成羽は、はふぅーと大きな溜め息を床に向かって吐き出した。
「あのね、ひとが善意で出してくれてる手は、がっちり掴んどくものなの。遠慮ばかりじゃ、そのぶんだけ損するよ」
「そうかな……?」
「少なくとも、これからのあたしたちはそうじゃなくちゃって思う」
「うん……」
 成羽の意見は、いつでも、僕から主張の機会を奪い去ってしまう。それにはたぶん、彼女のしっかりした物言いだけじゃ なくて、僕の気の弱さも大きく関係しているんじゃないかと思う。
 男として――それに、成羽よりも十日だけ早く生まれた“お兄さん”として、彼女を説得させるような言葉を、自分の口 から紡ぐことができたなら。そう思ってもやはり、「トミーはほっんとに胆が小さいんだから!」と言っているのと変わら ない言葉をかけられると、僕としては一転、彼女の下手に出るしかないのだった。
「だからさ、教えてよ。なにがあったのか。あたしも、明日もトミーにそんな顔で学校に来てほしくないしさ」
「うん」
 最初は、僕の主張をまるで無視しているようで、意地悪に思えた成羽の言葉。だけど、僕が首を縦に振ったときにはもう、 彼女に心を許してしまっていたんだと思う。
 僕の口から出る言葉は変化に乏しいけれど、成羽の言葉は、そのまったく逆。優しい物言いもすれば、厳しい物言いもする。 そのいろいろな性質の言葉が、ぱっと聞いた感じでは支離滅裂のようでも、すべて、迷う僕の心を導いているみたいだ。 譬えて言えば、僕の心はリレーのバトンのようなもので、成羽の言葉のひとつひとつがそのバトンを受け渡していくリレー 走者。そう譬えたとき、アンカーの走者になるのは、いつでも親がかけるような優しい言葉だった。
「ねえ、わっぴー」
「はい?」
「先に言っとくけど、聞いても笑わないでね」
「……ふふ、そんな可笑しな話なの?」
 言ったそばから鼻で笑われてしまい、僕は、さあ話そう、と意気込む気持ちを、微かに挫かれた気がした。
「いや……。昨日、ロングホームルームのときに数学の抜き打ちあったよね」
「ああ……あれね」
「あれ、正直言ってぜんっぜん自信ないんだ」
 昨日の六時間目のロングホームルーム。特に行事の予定もなければ、クラス単位で話し合うこともなかったその時間が、 先生たちの目論見によって、僕たちの基礎学力試しの時間となってしまった。前半三十分は英語、後半三十分は数学。どちらも 中学校での履修内容が七割程度、残りの三割は学習塾なんかで少し先を行く勉強をしている生徒にしか解けないような難問、 だったらしい。らしいというのも、テストのあとで担任のまきまき先生が明かした事実が、テストを解いている最中に僕が 考えていたこととズレていたから。ほとんどの問題が難しいと感じた僕は、半分、いや逆に七割ぐらいが“実はこれから習う 内容”なんじゃないか、と思った。でも、まきまき先生はべつに空鉄砲を撃っているわけじゃなくて、ほかのクラス――例え ば、成羽のいる五組の担任、現国の平河内先生も同じことを生徒たちに打ち明けていたそうだ。
「え? 昨日は、まあまあだって言ってたのに?」
 テスト終了後に僕が成羽に言ったのよりも一段下がった自己評価を耳にして、彼女は、驚きと呆れが混じったような顔に なった。
「それが……なんというか、僕の思い込みだったところが多かったみたいなんだ。要するに、公式とかをほとんど間違って 覚えてた、ってことに……」
「ふうん。それで、中学のときの教科書開いて確認してるうちに、どんどん自信がなくなってきた、ってわけね」
「……そう」
 完全に悄気ていた僕に、成羽は、思いも寄らない言葉をかけるのだった。
「……あははっ」
「なんだよ、笑うなって言っただろ?」
「だって、そりゃ笑うよ。あたしとぴったりおんなじなんだもん」
「えっ……?」
 ぴったりおんなじ、っていうことは、つまり……。
「わっぴーもだめだったの?」
「だめっていうか……。結構答案埋められたからさ、昨日テストが終わったときは、『できた!』って思って安心してたん だけど……帰って見てみたら、トミーとおんなじ。もうやんなっちゃうよ」
 成羽は、苦笑いというよりも、テストの結果を諦めたような、開き直った笑顔を僕に見せた。
「そうなんだ……」
「うん。おかげで、七十点は確実でしょう、って思ってたのが半分以下になりそうな予感」
「三十五って……それじゃ、要注意点じゃん」
 要注意点というのは、中学のときに定められていたもので、四十点未満の点数がそれにあたる。この点数を学年のごとの 成績で五つ以上取った生徒には、春休み返上で“進級補修”なる猛特訓に参加することが強いられた。幸い、僕は一年生では 要注意点がひとつ、二年生と三年生では三つだったので補修は免れたのだけど、友達からあとで補修の内容を聞かされたとき は、セーフティーゾーンに入っていて本当に良かったなあ、と胸を撫で下ろした。
「ああ、うちにもあったあった。要注意点。確か、三つもらったら補修だったかな」
「へぇー……。わっぴーのとこは厳しかったんだ」
「トミーは?」
「僕は、五つ。わっぴーのとこではアウトな三つは、二年と三年のときにもらったよ」
「あたしは、○、一、二って一個ずつ増えてった」
 気がつくと、なぜか、頭の悪さ自慢をしながら笑い合っている僕と成羽。確かに、彼女に相談することで幾分か気が 楽になったけど、もし彼女が中学のとき、ずっと学年トップの秀才だったりしたら、僕は彼女に相談を持ち掛ける前以上に 頭を痛めていたかもしれない、と思った。
「あはは……わっぴーも頭悪かったんだ」
「……ぅぐっ」
 僕の口から自然に出た言葉に頭から押さえ込まれるように、成羽は、がくっと体勢を崩す。
「……ねぇトミー」
「うん?」
「オブラートに包んだ言い方って、知ってる?」
「あ……『あまり頭が良くなかった』のほうが良かったかな?」
「……それもなんか嫌」
 成羽は、目を細くして、黒目を隅っこに寄せる。変な形に眉毛が曲がっていたり、口が顎のほうから押し上げられるような 形になっているところからしても、彼女が不満を感じているのは明らかだ。
「……じゃあ何て言おうか?」
「それは、あたしからは教えられないな」
 不貞腐れていたのも短い間で。成羽は、僕の一言を挟んだときにはもう、彼女らしい、意地悪っぽい笑みを顔に浮かべて いた。
「なんで……?」
「なんでって、教えられてばっかりじゃちっとも成長しないじゃない。自分で答えを模索したほうが、断然トミーのために なるって」
「……そうかな?」
「んもう、あんたは疑いすぎ!」
 また成羽の表情が変わる。さっきよりも不満の色が濃い。怒っているみたいだ。
「幼馴染みのあたしが騙すようなことしたって、仕方ないでしょ?」
「そりゃ確かにそうだけど…」
「ほらその『だけど…』。だけどなんなのよ」
「いや……なにもないです」
「ん、それでよろしい」
 僕が成羽に言いくるめられたところで、彼女はまた、口を大きく横に開いて笑顔を作った。どうにも意地悪さの抜け切らない 笑顔だけど、きらりと輝く白い歯は、成羽の笑った顔にはぴったりだ。
「で……なんだっけ。成績の話だったっけ?」
「あ、うん」
 成羽が示した閑話休題の合図で、僕は、会話が大きく横道に逸れていたことに気づく。横道へと会話を引っ張ったのは成 羽だけど、そうさせたのは彼女自身ではない。僕のほうだ。僕の落ち度――幼馴染みという距離にいるにもかかわらず、 彼女を事に触れて疑おうとする。その性格が駄目なのだ。
 成羽との会話をスムーズに行うためには、僕自身がもっと打ち解けた態度をとらなければいけない。ただちに、僕は そのことを肝に銘じた。
「その、なんていうかさ。あたしもあんまり自信ないし……もし補習とかになっても、一緒だから寂しくないじゃん?」
 少しだけ、気恥ずかしそうに言う成羽。あれほどはきはきと物を言う成羽が語勢を鈍らせる原因は、考えるに難くない。 きっと、補習にせよなんにせよ、僕と居られる時間が増えることを、心の奥底で期待しているんだろう。僕としても、 一人の時間が成羽とふたりで居られる時間で塗り変えられれば塗り変えられるほど、寂しさを紛らすことができるんじゃ ないかと思う。
 でも――同じ成羽と居られる時間でも、どうせなら、補習直行じゃなくて、合格点を取るほうがいい。いや、そうでなけ ればならないのだ。なぜなら、今回の抜き打ちの結果は、僕と成羽だけの問題で終わるものではないから。
「うん……。でも、僕は補習は免れたいって思ってる」
「なによ、それ?」
 成羽の顔に、忿懣を含んだ驚きの色が表れる。
「それじゃあたしと一緒が嫌って言ってるみたいじゃない」
 そりゃそうだ。僕にもわかっていた。“できるだけ長く、ふたりの時間に過ごしたい”と仄めかしたそばから、“却下”との 返事をしたともとれそうな言葉を返されたのだ。自分の願いを拒否されて気分がいいと感じるひとなど、そうそう いない。
 だけど、補習に直行してくれ、というのが成羽の願いなら、僕からも、彼女に願うことがある。それはもちろん、「補習を 免れてくれ」だ。たとえそれが彼女にとっては難しいことだとしても、僕はそう願いたい。良い結果を心待ちにしている 三人目の人物――妹の佳耶のためにも。
「違うよ。僕は……難しいかもしれないけど、わっぴーにも補習を免れてもらえたらな、って」
「……あははっ」
「な、なんだよ急に……」
 笑うところじゃないはずなのに思いっきり笑われてしまい、僕は微かに焦れ込む。
「いやさ、可笑しいんだもん。よくそんな無責任なことが言えますね、って。素で思った」
「……まあね」
 成羽に言われたことを、僕は認めざるを得ない。無責任なのは百も承知。彼女の事情や思惑を考えないくらい無責任で傲慢に ならないことには、たぶん、これから打ち明けることも彼女には上手く伝わらない。そう割り切って、僕は、強行手段に出た のだった。
「どうしたの、急に。あたしの心積もりまで変えちゃおうなんて、いつものトミーとはなんか違う気がするよ」
 成羽は打って変わって、僕の態度に興味を示しだす。髪を掻き上げ、あらわになったまんまるの瞳から羨望の眼差し。 両肩は僕のほうに向かって乗り出している。今日いちばんの興味津々らしく、僕には見える。
「うん。実はさ……補習って、今度のゴールデンウィークに強制的に出されるでしょ?」
「うん」
「その日に……といっても三日あるから搗ち合うかどうかもまだわからないんだけど、佳耶と買い物にでかける約束が あってね。なんとか応えてやろうって頑張ったつもりなんだけど、テストでは空回りしちゃってさ。もう、あとは神頼み しかないな、って思って」
「ふうん……そうなんだ」
 成羽の表情が柔らかくなる。
 僕の説明は言葉足らずになることがしばしばだけど、成羽に笑顔が宿ったということは、いくらか僕の意図が伝わったの だろう。成羽の優しく笑う顔を見ることができたので、僕は、ひとまず安心した。
「だから、補習っていうのはあんまりいただけないんだけど、わっぴーにまでそれを望むのって、よく考えたら傲慢 だよね」
「ううん、そんなことない」
 靄を払いきった笑顔を僕に向けて、成羽は言った。
「傲慢どころか、すごい他人思いだよ。だって、佳耶ちゃんのことを考えてるだけじゃなくて、ちゃんとあたしのことも 考えてくれてるんだもん」
「えっ?」
「佳耶ちゃんの顔を見たいって、あたしが注文つけてたこと」
「あ、そっか……」
 僕は、成羽の“頼み事”を思い出した。そう――テストを解き終えてからの短い時間ではあったけど、僕はそのことを すっかり忘れてしまっていたのだ。代わりに僕の頭の中にあったのは、佳耶の約束をなんとしてでも守りたいということ と、あわよくば成羽も含めた三人で行動したい、ということだけ。成羽の願いに応えようとする気持ちは、確かに、どこかに 置き去りにしていた。
「ごめん、わっぴー」
「なんで謝るの?」
「いや……テストのあとから、佳耶のことばっかり考えてて」
「あははっ、なんかもう、馬鹿みたい」
「へ?」
「トミーにその気があってもなかっても、あたしはべつに満足してるんだから、そんなこと今更気にしても仕方ないで しょ?」
 成羽の笑顔に、それとは似つかない、カーブが逆になった眉毛が際立つ。苦笑いの顔だ。
 彼女のその顔を見て初めて、僕も、余計なことを言ってしまったかな、と感じた。
「……そうだね」
「済んだことは済んだこと。これからのことはこれからのこと。ごっちゃにしちゃだめ。わかった?」
「うん。ありがとう」
「また……予想もつかないところで感謝してくれるんだから」
「いや。悩みも聞いてくれたし、僕の気持ちも楽になったし……感謝しまくりだよ」
「ふふっ。最後にひとつだけ、あたしから言わせて」
「うん」
 僕が頷いたあと、会話が少しの間停止する。成羽がこれから紡ごうとする言葉に、僕の全神経が気を持たせる。
 やがて成羽は、僕を納得させるに足る言葉を口に出した。
「神様は、トミーみたいに思いやりがあるひとのことを、絶対に見捨てたりしません。あたしが請け合います!」

 

 帰宅して、晩御飯を食べて。自分の部屋に戻り、出された宿題に手を付け始めたところで、その雑念は再び僕に絡んで きた。
 補習があるのとないのでは、考えるまでもなく、ないほうがいい。だけど、理想を離れて現実に立ち戻れば、補習を喰らう 可能性ばかりに意識が向いてしまう。
 机の引き出しをそっと開けて、二枚の紙を取り出す。一枚は、テストの残り時間を利用して、僕の解答と自分なりの解法と を乱雑に裏側にメモしたプリント。もう一枚は、教科書を見ながら自己採点をした結果。ちゃんとメモできたか、そうでな いかにもよるけど、丸の数があからさまに少ない。英語の自己採点をした限りでは、良くても五十点というところだろう。 数学に至っては、補習決定となる四十点に届くかも怪しい。自己採点を終えた直後、絶妙のタイミングで鳴った、佳耶が僕 の部屋のドアをノックする音に、僕は心臓が胸を突き破りそうな思いだった。
 佳耶は、僕と約束をしてから、ショッピングに付き合ってもらうのを、ずっと楽しみにしている。テストの前までは、僕だ って、佳耶の望みをまたひとつ叶えてやることができるんだ――そう思うと、ゴールデンウィークが楽しみで仕方がなかっ た。
 でも、突然の抜き打ちで、僕は、実力の無さを露呈してしまった。テストを解き終えたその瞬間から、今まで感じることの なかったような後悔を背負いだした。中学のころ、もう少し真面目に勉強に取り組んでいればよかったのに。いつどんなと きに実力を試されても逃げ腰にならないように、日頃頭のトレーニングを行っていればよかったのに。わからないところは 、その都度職員室を訪ねて先生に質問する。そのくらい、積極的であればよかったのに。
 僕が毎日ちょっとずつ表してきたズボラな態度は、中学生だった三年の間、じわじわと積み重なってきた。その結果がもし 佳耶の切なる願いを挫こうものなら、僕は彼女にどういった償いをしてやればいいのか。ともすれば、どんな償いも、彼女 は受け入れまい。僕と佳耶の絆はいろいろあったせいでとても強い(ものになったように、僕には思える)けど、ふとした きっかけで切れてしまう可能性も、未だに否定できない。
 願わくば、僕もわっぴーも補習じゃありませんように。もう、何度そう願ったかわからない……。
 ――コンコンコンッ。
(……はっ!)
 宿題を進める手が幾度となく止まるぐらいに気も漫でいた僕の鼓膜を揺るがしたのは、ドアがノックされる 音――佳耶だ。
 もう、家族には相当な回数、自分の部屋のドアをノックされている。強く二回、素早く叩くの が父さん。僕の名前を呼んでから、弱く二、三回叩くのは母さん。普通の強さで間隔を空けて三回叩くのが佳耶だ。 佳耶の場合、ご丁寧に「トントントーン」という音を口に出してくれることもある。
 僕は「はい」と返事をして、シャーペンを机に置くと、宿題を進ませていた手を一旦完全に止めた。
「おにいちゃん、今大丈夫?」
 ドア越しに佳耶の篭った声が聞こえたので、
「うん、大丈夫だよ」
 と返事をした。
 カチャッ、とドアノブが反時計回りに回転するのが見えたあと、ゆっくりとドアが開いて、隙間からひょっこりと覗いた 佳耶と目が合う。お互いの顔が、にこっと笑った。
「どうしたの?」
 僕が尋ねる。佳耶の手にはなにもなかったので、どうやら食後のデザートを作ったからお持ちしましたとか、そういうこと じゃないらしい。
「ううん。なんでもないけど……その、おにいちゃん」
「うん」
 なかなか口火を切ることができず、言葉に詰まっている様子の佳耶。なにか、言いにくいことなのだろうか。杞憂かもしれ ないけど、兄としてはやっぱり、いつにない様子の妹を見ると気が落ち着かない。
 佳耶は、僅かに俯けた顔を擡げて、再び僕の目に向かって、一直線に眼差しを走らせた。
「ここんところ、なんだか元気ないみたいに見えたから……学校でなにかあったのかなって、ちょっと心配になって」
「ああ……」
 佳耶の言葉を聞いた瞬間、同じような言葉をかけてくれた成羽の優しい顔が脳裡に蘇る。
 僕は、そんなに物憂さを顔や振る舞いに出してしまっているだろうか。いや、問題はそんなことじゃない。そんなの、佳耶 の反応を見れば論を俟たない。
 そうじゃなくて――成羽にあんなに心配をかけておきながら、佳耶にまで同じことをさせているのか、僕は。だとすれば、 なんと腑甲斐ない兄貴なのだろう。
「……ううん、なにもないけど」
 いたたまれなくて、僕は咄嗟に否定する。が、言ってしまってからはっとした。言葉尻に、いつもの癖が出てしまっている。 なにもない“けど”どうだというのだ。なにもないのなら、なにもないと言い切ってしまえばいいじゃないか。
 案の定、佳耶の表情は穏やかになるどころか、一段と気遣わしげなものになっていく。
「ほんとに?」
 首を傾げて、佳耶は遠慮気味に僕の顔を覗き込む。
「入学してすぐのおにいちゃんと比べたら全然暗いから、わたしはそう思ったんだけど……」
 佳耶が比較の対象にした“入学したての僕”。真新しい制服に身を包み、真新しいボストンバッグを肩から提げて、だけど 心には大きな不安を抱えて――そんな憂鬱な新入生の姿を、僕は入学式のときに何度も見た。いや、僕自身だって、最初はそ うだった。
 親しかった中学時代の友達は、ある者は進学校に進み、あるものは別の公立高校に行ってしまって、結局、この高校に上が るのは僕一人だけになった。また、友達を作ることができるだろうか。先生とはうまくやっていけるだろうか。勉強にはつい ていけるだろうか。数え切れない不安に苛まれながら、臆病さ丸出しで、僕は式に臨んだ。
 式の後、配られたクラス分けのプリントを手掛かりに教室に向かう途中で、僕の肩を叩いてきたその人物こそ、成羽だ。彼 女は僕を見るなりにっこりと笑って、「やほー、久し振り!」と挨拶した。臆病さに支配された僕とは、まったく正反対の心 持ち。そんな成羽を見て、僕はなによりもまず、どうして彼女がこんなにも元気なのだろうと、不思議に思った。それで、僕 が彼女に返した言葉は、「わっぴーじゃん。……なんかすごい元気そうだね」になったのだった。
 それ以来、成羽に元気を分けてもらうことで、僕は心に蟠っていた臆病さを、少しずつ取り除いていった。だから、思わず 知らず僕の顔も明るくなっていって、結果的に、それが佳耶を安心させていたのだろう。
 でも、たったひとつの心配事のせいで、僕はまた、入学式の頃と同じか、それよりも浮かない顔をしてしまっている。なん とか、この心配事を――補習を喰らうことにはならないだろうかと懸念する気持ちを、紛らすことはできないだろうか。
 そう思っていた僕に、佳耶は、
「ね、おにいちゃん」
 突然ぱっと明るい顔を作って、僕にひとつの提案をした。
「公園までちょっと走りに行かない?」
「……えっ?」
 あまりに唐突だったので、僕は呆気に取られた。
「気分転換に。どう?」
「どうって言われても……。宿題はまだだし、その、部屋には久宝さんもいるんだろ?」
 例のお医者さんルックの少女――佳耶の親友である久宝さんは、今晩も今晩とて、富松家の食卓に相席していた。
 食事をいちばんに終えた久宝さんは、手綺麗に食器類を重ねてご馳走様と言ったあと、先に佳耶の部屋に行っておくと言い 残して退席してしまった。
 佳耶と久宝さんのふたりがなにをしているかは依然としてわからないけど、佳耶と一緒に居るために、久宝さんは毎日の ように遊びに来ているに違いない。ここで僕と佳耶だけが気分転換のために外出するだなんてことになったら、久宝さんに は迷惑だろう。
「おにいちゃん」
 佳耶の顔が、僕の予想しなかった変化をする。眉根をびしっと吊り上げて、唇をきりっと閉じる。右手を胸の前に出す と、人差し指をぴんと立てて僕に言った。
「宿題は、ご飯のときまでに終わらせとくのが常識っ」
 なにかと思えば、お説教だった。それでもやはり、佳耶の言っていることは至極当然で、さらに僕に落ち度があると考える と、反論の余地はない。
「あっ、ごめん……」
 逃げ道無しだとわかった以上、僕にできるのは謝ることぐらいだ。
「べつに謝らなくてもいいけど……ご飯食べてしまったときに宿題が片付いてたら、いろいろ便利だと思うよ」
 佳耶のアドバイスには、つっこみの入れようがない。たとえば観たいテレビ番組があるときに宿題が残っていたら見れない し、お風呂だってゆっくりとは入っていられない。べつに寝る前に片付けたり、早起きして学校へ行く前に仕上げてしまう という手もあるにはあるけど、宿題のように面倒臭いことは、遅らせれば遅らせるほど取りかかる気をなくしてしまうとい うのが人の性だ。
「そうだね」
 僕は、決まり悪く苦笑しながら、宿題を中断するべくノートを閉じた。まだ三割も進んでいなかったような気もするけ ど、気分をリフレッシュすればペースも上がるかもしれない。逆に疲れきってベッドに直行、になりそうな危険性もある ことはさておき……。
「で、久宝さんはうちでお留守番?」
「ううん。ふみちゃんも付き合ってくれるって」
「えっ、そうなの?」
 僕は驚いた。佳耶が僕を気遣って提案したことに、赤の他人を巻き込むなんて、それこそ迷惑ではないだろうか。
「うん」
「迷惑じゃないかな……?」
「大丈夫だよ。可愛い佳耶ちゃんのためなら、ってふみちゃんも言ってくれてるし」
「へぇー……」
 どこかずれた理屈を提示する佳耶に、僕は複雑な心境になる。
 久宝さんが参加すると言った理由が本当にそうなら、彼女は、僕のためにではなく、佳耶のために気分転換に付き合うこと になる。となればもちろん、佳耶には迷惑を感じていなくても、僕には甚だ迷惑を感じているということだってあるかもしれ ない。
「だから、おにいちゃんも可愛い妹のためだと思って、トレーニングウェアに着替えて玄関に集合ね」
「えっ……ちょっと」
 笑顔で手を振り去っていく佳耶を見ながら、僕は思う。
 結局、あなたが走りたいだけですか……と。
 久宝さんのこともなんとかなるだろうと思って諦めた僕は、洋服箪笥の上から二段目の引き出しを開いて、白地に黒の柄が 入ったトレーニングウェアを取り出した。佳耶は、これと同じような柄で、赤いものを持っている。
 ジーンズを脱いで、トレパンに脚を通す。これを着るのは久し振りだ。
 最初にこれを着て、佳耶と一緒に公園を走ったのは二年ぐらい前だろうか。彼女が運動好きで、テレビに映ったマラソンラ ンナーの勇姿に心を動かされて以来、気分転換の手段といえばランニングになった。両親も否定的じゃなかったから、僕た ちふたりにこのウェアを買ってくれたし、佳耶の主治医も、軽く走るぐらいなら、かえってその楽しさが病を癒すかもしれ ない、と言っていた。
 上はトレーナーを脱いで、シャツの上にジャケットを着る。トレパンの紐をしっかりと結ぶと、僕は、佳耶と久宝さん の待つ玄関へと急いだ。
 電気を消して部屋を出、ドアを閉めてから、階段を足早に降りる。一階に降りて玄関のほうを覗くと、靴を履くために腰を降 ろしている佳耶と、すでに土間に降り立っている久宝さんの姿が見えた。
(……あれ?)
 僕の視線は、背を丸めた佳耶ではなく、腕を組んで壁に凭れ掛かっている久宝さんのほうに走っていった。
 いつも家を訪ねてくるときと同じ、白衣姿だ。彼女が履いているブーツなんかは特に、走るのには適していない。佳耶が 言った「気分転換に付き合う」というのは、公園までお供するだけなのだろうか。僕は、ふたりの近くまで歩み寄ると、気に なったことをまずは訊いてみた。
「お待たせ。久宝さんは、着替えないの?」
 僕の質問に、久宝さんは、おもむろに顔を向ける。穏やかな顔で、彼女は、
「いえ。私はこのままで結構です」
 と言った。
「このままでいいって、それじゃ走りにくいんじゃない?」
いえ、私はおふたりのマネージャーをさせていただきますから」
 久宝さんは笑顔で言った。
「そっか」
 僕は頷いた。
 さすがに、白衣とブーツではランニングをするのは難しいだろう。だけど、マネージャーとして僕と佳耶のサポート をしてもらえるのなら、逆に白衣が似合いそうな気がする。そんなことを思いながら、僕は佳耶に倣って運動靴を履いた。

 

 玄関を出る前に母さんから手渡された、麦茶の入った五百ミリリットルのペットボトルを携えて、僕たち三人は、真っ黒 になった夜空の下、公園を目指す。
 うちの近所には、中猪公園といって、市内でもトップスリーに入るほどの面積をもつ公園がある。僕の通学路上にその公園 はあって、毎朝、自転車でその横を通る。
 横を通る、というのも、中猪公園は、朝訪れると自転車が通行できないほど、ジョギングやランニングを行うひとが多い。 そのほとんどが定年退職してしまったお年寄りで、残りは子供と夫を送り出してしまった主婦とか、陸上競技の選手が大半を 占める。
 そして、ここでトレーニングを重ねたアスリートたちは、年に三度ほど開催されるマラソン大会に参加する。そのスタート 地点兼折り返し後のゴール地点として、この公園にある陸上競技場が選ばれているのだ。実はこれだけ身近なポイントからラ ンナーたちがスタートし、ここに戻ってくることもまた、佳耶がマラソン好きになった理由のひとつ。昔から走ることは好き だったけど、これほど近くに競技開催地があることに、彼女は最初それを知ったとき、大きな感動と興奮を覚えたようだ。メ ダルに馳せる何百人もの夢がこの地から一斉に飛び立ち、競走を勝ち抜いたものの笑顔がこの地に咲く。自分もそんな主役に なれたらいいのにな、と佳耶も何度か呟いていたような気がする。
 佳耶と久宝さんの世間話を中途半端に耳に入れながら、ふたりのうしろをがっちりガードするという形で、家から歩くこと 十五分、僕たちは目的地に到着した。
 ここ、中猪公園には、陸上競技場のほかにもさまざまなスポーツ施設が備わっている。バスケットボールやバレーボール柔 道、剣道などの地区大会が催される体育館。テニスコートもふたつあるし、野球場もプールもある。スポーツ施設以外には、 植物園や博物館もあって、週末や祭日になると、小さな子供の居る家族連れや、ほかの市からのピクニック客が大勢訪れ る。
 平日の夜には、今僕たちが歩いている南東口の両脇にあるベンチでやっているように、アコースティックギターを抱えた大 学生ぐらいの男のひとたちが、コードを鳴らしながら熱唱している。訪れる時間帯や曜日などによって、いろいろな顔を見せ てくれる。それがこの中猪公園だ。
「よしっ」
 先頭を軽い足取りで歩いていた佳耶がぴたっと動きを止める。連鎖反応のように久宝さんの足が止まり、僕の足も止まっ た。
 佳耶はくるりと回れ右をして、僕と久宝さんのふたりと向き合った。
「それじゃ、最初は準備運動ね」
「おっけー」
 僕も、佳耶の底抜けのテンションに応えようと、お腹から声を出して返事をする。三人の中で最年長は僕だけど、現場を 取り仕切るのは佳耶だ。最年長の僕に課せられる任務といえば、佳耶と久宝さんを守ることぐらい。単純だけど、これは重 要な任務なのだ。だから、佳耶が“現場リーダー”で、僕が“総合リーダー”といったところだろうか。
 佳耶の合図で、準備運動が始まった。なぜか、マネージャーの久宝さんも、一緒になって体を動かす。まずは、深呼吸か ら。大きく腕を上に伸ばしながら息を吸い込んで、腕を下ろしながら息を吐き出す。次は膝と肘の屈伸。腕を内に外に振り ながら、膝を曲げたり伸ばしたり。なんというか、ラジオ体操の曲か、体育の先生の太い掛け声がないと、調子が掴みにく い。夜の公園に響くのは、大通りを行き交う車の音と、弾き語りの歌声ぐらいだ。準備運動を行うには、ちょっと場違いだ ろう。
 腕で大きく円を描いたあと、佳耶は、上体を左右に捻る運動を指示した。僕の中では、次に来るのは体前屈だから、意外 といえば意外だった。でも、そんなにのんびりやってたら家に帰るのが遅くなっちゃうよ、と言われ、僕は納得した。
 結局、佳耶のアレンジバージョンは、ラジオ体操をフルで行うのに比べて半分ぐらいの運動量になった。
「よし。それじゃあ……みんなあっち回りに走ってるから、わたしたちもあっちね」
 佳耶が指し示した方向に走ると、上から見て反時計回りになる。朝、通学のときにこの公園の南側を西へ抜けるときも、ほ とんどのひとが対面から走ってくるから、この方向は暗黙のルールなのかもしれない。
「無理せず、自分のペースで走ること。それじゃ、れっつごー!」
 兵士の出陣のように勇ましい声をあげ、佳耶は走り出した。
「よっしゃ!」
 僕も気合いを入れて、佳耶のあとを追いかけた。
 この公園のランニングコースは、とても長い。一周が三キロ以上あって、十四周するだけで、フルマラソンの長さを走れ るようになっているのだ。
 初めは、自分が走りやすい速さを見つけるために、ゆっくり走る。そこからだんだん速度を上げていって、心臓の脈動が高 まってくる一歩手前で固定する。……といっても、アスリートじゃない僕には、そんな器用な真似はできない。だから、心臓 の脈動が高まってくるのを感じたところで、少しだけ速度を下げる。この方法だと、疲れすぎず、長く走ることができるそう だ。
 僕から五十メートルぐらい前方に佳耶がポジションを取っている。 佳耶と僕の距離は、あまり開かない。どうやら、ふたりは同じくらいのペースで 走っているらしい。
 そんな僕たちを、軽やかに追い越していく影。アスリートの人たちだ。身長が高く、太腿やこむらの筋肉が節くれだっ ている。少し冷え込む夜でも、彼らはランニングシャツに短パンという出で立ちで、息を荒げながら体力作りに勤しんでい る。
 最初は北に向かってコースを走っていく。まだまだ呼吸も足取りもそれほど乱れてはいない。東側に面した道路のほうに顔 を向けると、向かいには、病院や変電所などの施設が見える。東西南北では、北に次いで二番目に閑静なところだ。
 やがて、コースは西のほうにカーブする。少し息が荒くなって、足首から先の足全体に軽いだるさを覚え始めた。
 今度は公園の北側だ。ここには、商店街や住宅、団地などがある。しかし、大きな道路は通っていない。主に歩行者や 自転車に乗った人たちが行き交うところだ。
 植物園と博物館の横を通り過ぎて、公園の北西に差し掛かる。ここには、スタジアムや体育館などの施設が集中している。 広場もあるから、よく人が集まる場所だ。右手に立ち並ぶこれらの施設に目をやりながら、体重を体の左側にかけて、南へと カーブするコーナーをインコースで曲がり抜ける。
 お次は、公園の西側だ。ここには南側と同じような、大通りが面している。僕が通学で北へ進む国道だ。今は、登校するとき とはまったく逆、つまり下校のときと同じ方角に進んでいる。大通りを渡ってさらに西に進み、商店街を抜けると、市電の駅 がある。中猪中原駅といって、一日に乗り降りするひとの数は、けっこう多い。駅の界隈は小規模な繁華街に なっていて、カラオケボックスやスロット店などの派手な照明が人目を引く。飲食店なんかも、かなりの数があったと 思う。
 そうこうするうちにコースは南へ向かう直線となった。緩やかにカーブをしていたときよりも、直線のほうがどうも気が 乗らない。カーブのときは、ちょっと先しか見えないのに、直線だとかなり遠くまで見えてしまう。そのぶん、目標が見えて いるという安心感と、実際の距離とのギャップに、もどかしさを感じがちだ。そのせいか、僕自身のコンディションも勾配の 急な下り坂を描く。足が鈍く痛み始め、額や背中から大粒の汗が噴き出す。
 カーブを曲がり、僕たちが入ってきた南東口に向かって伸びる、南側のコースに差し掛かる。公園の南には、お洒落な 外観の小学校や、“中猪ラーデンプラッツ”という大型ショッピング施設がある。ラーデンプラッツには、小さい頃よく両親に 連れて来てもらったことがある。当時は、車でしか来ることができない遠いところだと思っていたけど、実は家から歩いて 二十分。自転車だと、十分もかからない距離だ。安売りのスーパーマーケット“玉入”を始め、カジュアル衣料店や書店、 靴屋さんにホームセンターにクリーニング屋さんにウィンドナルドとなんでも揃っているので、生活に必要なものはここで一通り 集められるようになっている。
 何度もアスリートの人たちに追い抜かれ、佳耶にまで水をあけられながらも、ランニングコースはも う終盤。あと二、三百メートルも走れば、僕たちがスタートした南東口に戻ってくる。心臓の鼓動が耳元まで伝わりだし、 こむらのあたりまで筋肉が強張ってきた。こうやって本気で運動するのは珍しいほうだから、いざ臨んだときに、運動不足 の積み重ねが嫌というほどわかってしまうのだ。
 遥か前方、南東口に接するランニングコースの脇で、佳耶が足を止めるのが見えた。彼女は一旦ランニングを中断して、 しかし久宝さんの隣で足踏みだけは続けながら、僕が追いついてくるのを待っているようだ。
 佳耶に遅れを取ること約二分、やっとのことで、僕も佳耶の待つ南東口に到着する。
「速いね……」
 僕が発する言葉は、荒い息遣いのせいで、輪郭がひどくぼやけている。
 たった三キロ――学校の体育の時間でウォーミングアップに走る距離にも満たない距離で根をあげるなんて。これでは、 佳耶からも良い反応は返ってきそうにない。膝に手をつき、前にのめることでどうにか体を安定させた状態から、僕は情け なく頭を擡げる。なんか、偉いひとを目の前に、必死に許しを求めていたひとが、その偉いひとの反応をちらっと伺うよう な挙動だ。
「わたしが速いんじゃなくて、おにいちゃんが遅すぎるだけなの」
 足踏みをしながらでも、佳耶の声は揺らいだり途切れたりしない。スタート前と走りきったあとでは、佳耶のコンディション にほとんど変化が見られない。息も弾んではいないし、足だって全然痛くなさそうだ。汗も僕ほどは掻いていないみたい だから、彼女は発汗を可能な限り抑える術を体得しているのだろう。理屈ではわかっていても、少し油断してしまえば、 走るペースが乱れ、呼吸が乱れて、脈拍が急上昇する。佳耶に比べれば、僕はまだまだだな、と思う。
「はい……」
「もっと頑張らなきゃいけませんね、お兄さん」
 そう言って、久宝さんは、持っていたペットボトルを僕に差し出した。僕はありがとうと言ってそれを受け取ると、焦るよう な手つきでキャップを開け、ペットボトルの麦茶をぐびっと呷った。ひとまず水分補給を終えたばかりの僕に、
「じゃあ、もっと頑張っちゃおー!」
 三キロ以上走ったとは思えないほど明るい笑顔で、腕を天に突き上げながら、佳耶は合図する。
「……えっ!?」
「二周め、ゴーッ!」
「うそっ!?」
 驚く僕をよそに、佳耶はまた、北のほうへと走り出した。
「ちょっと待って。佳耶、水分補給は!?」
 佳耶に聞こえるよう、僕が大きな声で彼女にそう尋ねると、
「あとでする!」
 という、大きな返事が返ってきた。
「大丈夫かなあ……?」
 そう――佳耶は、持病の発作に襲われるとき以外は、健康な少女そのものなのだ。ご飯だってたくさん食べるし、ランニ ングだってするし、学校にだって毎日元気に通うし。だけど、彼女自身がが明るく振る舞うことをモットーとしているから、 ちょっと無理をすることもしばしばある。背伸びをして、自分が頑張っているということをアピールしたい。そう思いなが ら、佳耶は今まで生きてきた。
 でも……佳耶のことを誰よりも気遣っている僕としては、彼女に、等身大の自分で生きてほしいと願っている。頑張りす ぎて、もしなにかが佳耶の身に起きたりでもしたら、元も子もない。自分が持つハンディキャップである持病のことは、意 識せずに過ごしさえすればいい。無理をするぐらい頑張って、それを打ち消そうとしなくてもいいのだ。佳耶は、佳耶のま までいい。僕が望む佳耶のままで――。
「ほら、お兄さん。ぼうっとしてたら、愛する妹さんを見失っちゃいますよ」
「ぅあっ、愛するって……」
 意地悪っぽい久宝さんの言葉で、僕は我に返った。佳耶が走っていったほうを再び見るが、カーブの向こうに姿を消した のか、僕の目は妹の影を捕らえられなかった。
 待って、と叫んでも待ってくれないだろうから、久宝さんにペットボトルを返して、僕も慌てて走り出す。休憩と言える ような休憩ができなかったせいで、コンディションもそのままだ。一周めのスタートを切ったときと違って、無事にここに戻 ってこれるだろうか、という不安さえ、僕の心をよぎるのだった。
 疲労と闘いながらランニングを続けていると、ちょうど北東角のカーブを曲がりきったあたりから、噴き出す汗の量や、足 の痛みが和らいでくるのを感じた。無意識のうちに、走るペースを維持できてきたのだろうか。適度な負荷に体全体が“慣れ て”きて、いつの間にか、一周めのラストよりも気持ち良く走れるまでになっていた。
 けれどもなお、前を走る佳耶との距離は縮まらない。僕のペースが安定したところで、彼女 のほうから失速でもしてくれないことには、僕は追いつけないだろう。たとえ、限界を超えるようなスピードで突っ走った としても。
 公園の北側、真ん中あたりにある北口を過ぎる。辛うじて佳耶の背中は見えるけど、彼女は僕に目もく れず、ひとり先に走っていってしまう。普段、佳耶 と接するときはいつも彼女との距離の近さを意識するのに、こういうときに限って、彼女のほうから“現実的な”距離をあけ られてしまう。さすがは、自分の得意分野のこととなるとほかを顧みない佳耶だ。“気分転換に一緒に走ろう”というお誘い に放念しておきながら、今更になって僕は、一杯食わされた、と思うのだった。
 北西のカーブを曲がり、五キロを過ぎても、佳耶は軽やかなペースを崩さずに走っている。これは将来、本当にマラソン ランナーになってしまうかもしれない、と思ってしまうぐらいの走りっぷりだ。佳耶は学校では料理部に所属している けど、陸上部に入っていても大活躍できていたんじゃないだろうか。
 二度めの直線コースは、思ったより走りやすい。一周めのときみたいに、前方の景色ばかりに目がいかないせいだろう。今 、僕が考えていることは、この気分転換という名目の運動を早く終わらせたいということじゃなくて、先を行く佳耶に追いつ きたいということ。彼女の実力は、僕の気づかない間にも、めきめきと伸びている。それを意識していながら、僕だけ変わら ないままでなんていられようか。いや、兄である以上、佳耶の頑張りに引けを取ることは避けたい。
 南西口を曲がり、南東口に差しかかる頃には、僕は気持ちを完全にリフレッシュさせ、気楽に走れるように なった。足の痛みも感じなくなり、呼吸と脈拍も整い始めていた――その矢先。
「……佳耶っ!!」
 前方の佳耶の影が、突然地面にくずおれるのが見えた。
(しまった……こんなときに発作が!?)
 僕は、それまで続けていたコンディションを整えるためのランニングフォームを崩して、全速力で佳耶のもとへ急いだ。 疲労によるものではない心臓の高鳴りが起こり、楽だった呼吸が一転して苦しくなる。それでも、自分のことより佳耶のこ とが心配でならなくて、僕は無我夢中で走った。
 おっつかっつのタイミングで僕と同じように走り出した久宝さんが、先に佳耶のもとへと辿り着く 。彼女はしゃがみこんで、いち早く佳耶の状態を確認する。少し遅れて、僕も佳耶のもとへ到着した。
「佳耶っ、大丈夫か!?」
 久宝さんの腕に支えられた佳耶に、僕は声をかける。こんなにも近くに佳耶はいるのに、僕の声は、自分でも驚くぐらい 弾んだ。実際の距離は近くとも、佳耶の安否が確認できていなければ、そこに実際の距離とは違う、ある種の大きな隔たり を意識してしまうのは当たり前。その隔たりを佳耶のほうから埋めてくれることを願いながら、僕は彼女の顔を見つ めた。
「あ……おにいちゃん」
 久宝さんの胸に隠れていた佳耶の顔が、僕のほうを向く。その双眸に、絶望の色はない。声にもちゃんと“つや”がある。 発作ではなかったのだ。
「大丈夫? なんともないか?」
 佳耶自身の答えにありつこうとして、僕は気ぜわしく問いかける。
 すると、佳耶は両の眉毛で山をつくりながら、微かに笑った。
「えへへ……そんなに心配しなくたって大丈夫だよ。ちょっと、転んで足首捻挫しちゃっただけだから」
 恥ずかしそうに顔を俯けて、佳耶は、上目遣いに僕の顔を覗き見る。
「痛むか?」
「うん、ちょっとだけ……」
 僕は、佳耶が挫いてしまったらしい足首に目をやった。だけど、捻挫のときの応急処置なんて、僕にはわからない。テレビで 見たこともなければ、体育の授業で教わったこともないのだ。
(どうしたら……っ!?)
 次に見たのは、佳耶の体を支える久宝さんの腕。元を辿っていくと、僕は、彼女が白衣を着ていることを思い出した。もし かしたら――いや、つゆばかりの可能性かもしれないけど、久宝さんが本当にお医者さんの娘さんだった、ということはないだろう か。……なさそうだけど、なかったらなかったで、彼女がこの白衣を伊達に着ていることになってしまうから、それも含め て、僕は幾千分の一のその可能性に賭けた。
「あの、久宝さん」
「はい」
「その……白衣を着てるぐらいだから、佳耶の捻挫の応急処置、とかはできたりしないよね?」
 言ってから、やっぱり僕は不躾なことを質問したな、と思った。これじゃあ、暗に「応急処置ができないのなら白衣なんて 着るな」と言っているみたいだ。それになにより、僕は自分の力で佳耶を助けることを断念して、久宝さんにすべてを頼ろう としている。他力本願だ。僕は今、かなり気まずい顔を久宝さんに見られているに違いない。
「すみません。私も、そういうことはあまり詳しくないので……」
 佳耶と同じ種類の苦笑を浮かべながら、久宝さんはそう言った。
「そっか……」
 僕は肩を落とした。期待しすぎだったといえば、そうなるかもしれない。白衣を着た久宝さんは、それこそ佳耶のランニ ングをサポートする専属のスポーツドクターのように、僕の目には映っていたのだから。
 となると……彼女は、伊達でこれを着ていることになるのだろうか。いや、スポーツ医学には縁がなかっただけ、という こともある。お医者さんは余程の人物でない限り、ひとつの科を専門にしているから、久宝さんのご両親がもし医療関係者だった としたら、内科や小児科の先生をやっているという可能性は十分ある。そう考えたところで、たとえお医者さんの子供であっても 、普段着に白衣を選ぶだろうか、という疑問は解けずに残ってしまうけど……。あまり詮索する気は起こらないから、この ことは、“久宝さんは不思議な女の子だ”という観念でカバーしておいた。
「いいよ、おにいちゃん。帰ってから、ちゃんとお母さんに診てもらうから」
 親友である久宝さんに手を焼かせたくないと考えているのだろう。佳耶は、僕に久宝さんに頼ることを諦めさせようと、 気丈な言葉を口にした。
「帰ってからって、それじゃあ歩くにも歩けないだろ」
「うん……」
 佳耶の声が、少しくぐもり出す。空回りの結果になってしまったことが、それなりに堪えているらしい。
 僕は、佳耶の前でくるっと体の向きを百八十度変えて、腰を下ろした。
「ほら、おぶってってやるから、背中に乗ってこいよ」
 腕をうしろに伸ばして、僕は、佳耶を背負い上げる体勢を作った。
「うん……でも、わたし、昔よりもきっと重くなってるよ」
「きっとっていうか、二倍以上にはなってるだろ」
「うー……そんなこと言ってほしくないぃ」
 佳耶に背を向けている僕には、彼女の顔は見えないけど、口をとんがらせているのは容易に想像できる。
「おにいちゃん、ほんとにわたしをしょっても大丈夫? いっぱい走ったから、すごく疲れてるでしょ?」
「だからって、久宝さんに任せられないよ」
 僕がそう言うと、久宝さんは、「ふふっ」という控えめな笑い声を漏らした。
 確かに、まだ脈拍は下がりきっていないし、急に立ち止まったものだから、額や背中からはどっと汗が噴き出している。 でも、それを久宝さんに責任転嫁するための理由にはできない。というより、してはならないのだ。
 僕と佳耶は、血の繋がった兄妹。佳耶が発作を起こしたときは僕が側に居て安心させてやったし、僕が風邪を引いて寝込 んでしまったときは、佳耶が手厚い看病を施してくれた。どちらかがピンチになったときには、もう一方が助けてやらなけ ればならない。そこに、たとえ佳耶の大親友であっても、他人を不用意に巻き込むことは好ましくない。
「さ、早く乗って。放っておけばおくほど、足の痛みもひどくなると思うから」
「うん」
 今度の声は、聞いた感じ、とても安心しているようだ。
 佳耶は、最初に僕の背中にもたれかかって、両腕を僕の肩に載せてきた。それから、捻挫した右足から先に、僕の腰の 右側に添って前に出し、左足を同じ要領で僕の前に出す。あまり体重がかけられていないところからすると、どうやら、 久宝さんも佳耶を持ち上げるのを手伝ってくれているようだ。
 佳耶が僕の背中を支えにしたのを確認すると、僕は下半身に力を込めて、
「よいしょっと!」
 と掛け声を放ちながら立ち上がった。確か佳耶は今四十キロあるかないかというところだろうけど、それほど重くは感じ ない。ただ、重くなったというよりも、大きくなったな、という実感はあった。
 よっ、と声を出しながら、もう一度佳耶の体を持ち上げる。しっかりと僕の肩に捕まった佳耶を見て、安心したのか、久 宝さんもすっくと立ち上がる。
「ごめんね、おにいちゃん」
 耳のうしろ、やや高い位置から、佳耶のちょっと萎びた声が聞こえた。
「謝ることはないだろ? お兄ちゃんの背中だから、遠慮なく乗っとけばいいんだ」
「うん……ありがとう」
 佳耶は、そう言って、僕の右肩に顔を埋めた。十分温もったはずの僕の肩でも、はっきりと、佳耶の体温を感じることが できる。言葉や表情のコミュニケーションだけでは生まれない、特別な安心感が、佳耶の体に触れたときにはある。手を 繋ぐとき、マッサージをしてあげるとき、少しおどけて頬をつっついたりするとき。そんな何気ないスキンシップが、僕 自身を佳耶の記憶に繋ぎ止めておくための手段だ。いつ大きな――家族さえ忘れてしまうようなショックが佳耶を襲っても、 僕のことだけは覚えていてくれるように、って。
「それじゃ、このまま帰ろっか」
「うん」
「あ、待ってください、お兄さん」
「ん?」
 久宝さんに呼び止められたので、僕は彼女のほうに体ごと向き直った。
「忘れてますよ、水分補給」
「あ、そうか」
 思い出した。佳耶に水分補給するように自分から言っておきながら、早く家に連れて帰らなければという逸り気で、つい 背負い上げてしまった。
 佳耶も僕も手が塞がっているから、一旦ベンチかどこかに降ろしてやらないと。そう考えた僕に、
「私が飲ませてあげますから、お兄さんは、私が届く高さまでしゃがんでもらえますか?」
 久宝さんはこう提案した。
「えっ……?」
「ふっふみちゃん、それじゃおにいちゃんが大変だよっ」
 佳耶も慌てて、久宝さんの提案を流そうとする。しかし、久宝さんは聞く耳を持たず、佳耶のペットボトルのキャップ を素早く開いた――僕たちふたりに拒否権を与えまいとするように。
「さぁ、しゃがんでください。このままだと、高すぎて届きませんから」
 なぜか、久宝さんの声は楽しそうで、頬もゆるゆるになってしまっている。いやベンチに降ろすから、と言っても、たぶん 今の彼女は了承しないだろう。僕は覚悟を決めて頷いた。
 再度踏ん張って、膝から下の脚に力を集中させる。そして、体勢が崩れてしまわないように、背筋と腰にも力を入れる。 最後に心に気合いを入れると、僕は、ゆっくりと腰を落とし始めた。
「おーらいおーらい……」
 その動きを見て、久宝さんはどこか不似合いな合図を僕に送ってきた。確かに、車をバックで車庫に入れるのと感覚的には 似ている気がしなくはないけど……。
「ストップ! そのへんで止まっていてくださいね」
 久宝さんから再び合図が出される。人一人を背負ったまま中腰になるいうのは、思っていたよりもきつい。ちょっと気を 抜けば、脚ががくがくと震えて、体勢を崩してしまいそうだ。背中に乗っている佳耶を地面に落とすことだけは、絶対に してはいけない。失敗は許されないという気持ちで、僕は脚にかかる負担を必死に堪える。
 もう、水分補給は終わっただろうか。当然のようにうしろを振り返る余裕がないから、それだけが気になって仕方がない 。久宝さんに直接訊こうとしても、獣のような声が出てきそうだし……。
 ややあって、
「おっけーです。終わりましたよ」
 と久宝さんが僕に合図した。僕はまた気合いを入れ直して、鼻の穴から蒸気を噴くぐらいの勢いで、「うぐぐ……」と唸り ながら佳耶を持ち上げる。もし僕が高血圧症を患う中年の男性だったなら、間違いなく、血管が切れているだろうと 思う。
 こんな感じで僕の脚力強化を兼ねた佳耶の水分補給は終わったのだった。
「ふみちゃん、だめだよ……おにいちゃんをあんまり虐めちゃ」
「虐めるって……」
 僕は心の奥底で苦笑いをした。虐められたといえば、虐められたようにも思える。でも、久宝さんにも、なにかこうしたく てこうした理由があるのかもしれない。だから、僕は彼女を咎めようとは思わない。
「佳耶ちゃんの言うとおりです。私はちょっと、お兄さんのことを虐めてしまったかもしれません」
 久宝さんは、佳耶の指摘をあっさりと認めて――優しげな笑顔で、僕たちふたりに言った。
「でも、やっぱり伝わってきました。お兄さんが、佳耶ちゃんにかける想いが――」

 

【2】

 ――それから数日後。
 いよいよ、あの力試しの抜き打ちテストが返却されるときがやってきた。
 つい五分前から始まった数学の時間は、僕にとっては試練の時だ。いつもより重々しい空気が、僕の周りにだけ発生する。 教壇の上にあるクラスの人数分の答案を見るたびに、胸のどきどきが激しくなっていく。何度もごくりと唾を飲み込んで、平 静を取り戻そうと試みる。だけど、そう簡単にはいかない。成羽の優しい言葉も、佳耶の提案した気分転換のランニングも、 僕の不安定な心には一時凌ぎに過ぎなかった。だから、この期に及んでもなお、テストの結果には自信が持てずに いる。
 教室じゅうに、クラスメイトたちの私語が飛び交い始めてきた。けっこう難しかったから自信無いやとか、あんなの余裕じ ゃんとか、親になんて言おうかとか、満点以外有り得ないよとか……それらを聞くだけでも、意外に得点分布は広そうだな、 ということがわかる。クラスメイトたちの顔つきを見ても納得がいくとおり、この四組には、いろんなタイプの生徒が集まっ ているらしい。大まかに分けて、運動が好きな活発系と、物静かな真面目系。前者からはあまり芳しくない予想が、後者から は「満点で当前」といった類の予想が出ているようだ。
 図形や論理を中心とした数学Aを担当する大槻先生が、答案の束を持ち上げ、教壇にがんがんとたたきつける。その音に、 クラスメイトたちの大半が私語をやめ、先生のほうを向いた。
 大槻先生は、計算や公式を中心とした数学Iを担当する四條先生に比べると、ちょっとカタい。洒落や冗談が通じないよう なひとで、話し方も真面目そのものだ。彼のその性格は、いささかも曲がっていないネクタイや、完璧にセットされた髪形 に表れている。怒らせるとかなり怖いという噂も囁かれているぐらいだ。
 やがて、先生はチョークを手に取り、黒板になにかを板書し始めた。最初に見えたのは、「平均点」という文字。となる と、もちろん、次に書かれるのは、その数字。「平均点」の文字よりもやや大きなサイズで、先生は、まず「7」と書い た。「ななじゅう……」と、何人かのクラスメイトがわざわざそれを読み上げる。
 次に書かれた数字は「2」。間髪入れずに先生は小数点を打ち、そのあとにまた「7」と書いた。平均点は、七十二・七 点。僕の答案に書かれているだろう点数は、これよりも遥かに下だと思う。
「えー。結果としてはまずまずというところですけど、僕としては八十点はあってほしかったかな、と思います」
 先生はそう言って、四組が学年では最低の平均点を弾き出してしまったということを告げた。最高は一組で八十三点、成羽の いる五組は七十七点ということらしい。それを聞いて、僕は、このクラスにはいろいろなタイプの生徒が集まっている、と いう見解を捨てた。代わりに、このクラスには中学のときに怠慢だった生徒が集まっている、という見解を採用する。そ して、絶対にその中に僕も含まれているはずだ、と悟った。
「それでは、今から答案を返却します。呼ばれたら返事をして、前まで取りに来てください」
 先生の宣言で、戦いの火蓋は切って落とされた。……といっても、誰かと点数を比べたりするんじゃなくて、僕個人の戦い なのだけれど。
 僕の出席番号は二十三番。先生が名前を呼び始めてからたった三十秒の間に、三番の生徒まで答案を取りに行ったから、 僕が同じ行動を起こさざるを得なくなるのも時間の問題だ。
「――寺崎さん」
「はい」
「今回一人だけ満点でした、おめでとう」
 「おおぉ」という感動の声が教室じゅうに響く。なんと嫌なタイミングだったことだろう。僕の一つ前の出席番号である 寺崎さんは、僕の不安を嘲笑うかのように、満点の答案を持ち帰ったのだ(実際、こっちを向いてにやりと笑ったりはし なかったけど)。プレッシャーが募りに募り、僕は胸が支える錯覚さえ感じた。
「次、富松くん」
「はい」
 重圧を押しのけ、なんとか落ち着きを装った僕は、緊張感に肩を震わせながら教壇に向かった。
「ぎりぎりだぞ。もうちょっと頑張るように」
 教壇の前まで歩いてきた僕に、先生は厳しい表情で言葉をかけた。
 受け取った答案を見た瞬間――変なプレッシャーとか、心の奥に蟠っていた不安が、遠く空の彼方まで飛んでいってしま ったような気がした。
 五十四点。平均点には全然届いていないけど、補習は免れた。そう、これで僕は、佳耶との約束を果たせるのだ。
「可笑しいね。ぎりぎりなのに、なんか嬉しそうに見える」
 席に戻ってきた僕に、寺崎さんが声をかけた。彼女とは、出席番号がひとつ違いということで、知り合ってから何度か 会話を交わしていた。
「気のせいだよ、たぶん」
 思い切り顔が緩んでしまいそうになるのを辛抱して、僕はそう返した。
 安全圏に入ったとはいえ、寺崎さんの満点に比べれば、僕の点数はおよそ半分だ。用紙右上の「54」と書かれた部分が 彼女に見られてしまわないよう、僕は、その部分を内側に折り込んだ。それから、中身のほうにじっくり目を通していく 。僕が解いた答えが、先生にはどう評価されていたか。三角がついている問いに添えられたコメントを参考にしながら、 自力で間違いの種を探っていく。そうするうちに、僕は、あの日テストを解き終えたあと感じた不安が馬鹿馬鹿しく思えて きたのだった。

 

 今日の数学の時間は三時間目だったので、終業のチャイムが鳴ると、昼休みになった。
 一礼をして、クラスメイトたちがてんで散り散りになる。僕は弁当包みを鞄の中から取り出す前に、席を立ち、教室を出た。目指 すは隣の五組。まずは、成羽に数学セーフの報告をしなくちゃいけない。
 五組の教室の前に着く。扉はまだ閉まっているけど、授業はもうすぐ終わりそうな雰囲気だ。焦りながら中の様子を伺っ ているうちに、生徒たちが椅子を引いて立ち上がり、僕のクラスと同じように一礼が行われた。
 がやがやと喧騒が立つ。うしろの扉が開いたので、僕も前の扉を開いて五組の教室に入ろうとした、そのとき――
「うわっ」
「きゃっ」
 僕は、逆に教室から出ようとした生徒とぶつかってしまった。反射的に閉じた両目を開いて、
「ごめんなさい」
「ごめんなさいっ」
 謝ろうとすると、僕とぶつかった女子生徒のものらしき声が重なった。直後、僕はその重なった声に聞き覚えがあること に気づく。
「……って、なんだ、わっぴーじゃん」
「トミー。もう、びっくりさせないでよ……」
 成羽は、不満あらわな声色で、開口一番僕に文句をつけた。
「いや、べつにびっくりさせたかったわけじゃないんだけど……」
「聞き飽きたよ、そういう言い訳の仕方。それより、あたし急いでるから、ちょっとどいてくれる?」
「あっ、ごめん」
 僕は思い出した。図らずも成羽を通せんぼしてしまっていたことを。
 僕が廊下のほうに一歩後ずさって右に寄ると、成羽は、
「ありがと」
 と言って、軽やかなステップで廊下に降り立った。
「……で、トミーのほうもなにかあたしに言いたいことがあったんじゃないの? こんなとこにいるってことは」
「あ、そうだった」
 そのために成羽を探そうと思っていたけど、会ってしまったのなら話が早い。僕は、さっき授業中に我慢していた反動の 赴くまま、莞爾と笑って、ピースマークまで拵えた。
「第一関門、数学は突破!」
「へぇー」
 それを聞いた成羽も、今僕に邪魔をされたことの不満をもう捨て去ったかのような笑顔を作って、
「良かったじゃん。何点だった?」
 と尋ねる。
「そ、そこまではちょっと聞かないでほしいな……」
 単刀直入に訊かれてしまったので、僕は、とびきりの笑顔を苦笑に変えずにはいられない。
「あっそう。ぎりぎりだったんだ」
「うっ……やっぱりわかるか」
「当たり前じゃない。セーフだけど点数が言えないなんて、ぎりぎりでしたよーって白状してるようなもんでしょ」
「それは確かに……」
 後悔をしつつ、僕は、気が置けない幼馴染みである成羽に隠し事をすることの難しさを、改めて認識する。
「あ、今英語だったみたいだけど、わっぴーのほうは返ってきた?」
 五組の教室の中をちらっとの覗くと、英語を担当している一組の担任、藤尾先生の姿が見えたので、僕はそう尋ねて みた。
「うん。もう、ばっちり!」
 僕に負けず劣らずの笑顔とピースマークを作って、成羽も、とても嬉しそうな声で言った。
「何点だった?」
「四十四点!」
「うわっ……」
 全然ばっちりじゃないじゃん、と続く言葉も途切れて出ないぐらい、僕は内心呆れ返った。
「ね。ばっちり四十超えてるでしょ?」
「う、うん。ばっちりだね……」
「なんか嬉しくなさそう。そんなに、あたしを佳耶ちゃんに会わせたくないわけ?」
「会わせたくないって、誰もそんなこと言ってないじゃん!」
 成羽の物言いが妙に楽しそうなので、振り回されっぱなしの僕は、彼女の冗談を取りあえず否定するのが関の山だった。
「あははっ。でも、お互い第一関門は突破ってことだよね」
「うん」
「トミーは英語今日ある?」
「うん、六時間目」
「あたしも五時間目が数学。今日中に結果わかっちゃうね」
「そうだね」
 その結果をまた放課後に教えあって、ふたりともが第二関門突破だったら、佳耶の笑顔を見られる時も近い。僕は、心の 中で、大槻先生に成羽の数学の答案をセーフにしてくれるように、藤尾先生に僕の英語の答案をセーフにしてくれるように 祈った。
「じゃあ、グッド・ラックってことで。あたしはそろそろ行くね」
「どこ行くの?」
「クラブのミーティング」
「そっか。ごめん、忙しいところ引き止めちゃって」
「ううん、全然。じゃ!」
 しゅたっ、と腕を上げて、成羽は一組のほうへ走っていった。
 廊下を走ると危ないぞ、と老婆心ながらに思ったけど、要領がいい成羽のことだから、そのあたりのことはきっと、心配 無用なのかもしれない。

 

 放課後、僕は二度めの嬉しい知らせを成羽のもとへ届けようと、ホームルームが終わってから再び五組を訪れた。しかし、 四組よりも早くホームルームを終えてしまったらしい五組の教室に、成羽の姿はもうなかった。昼も昼であれほど急いでいた から、きっとクラブのほうに走っていったのだろうと、僕は思った。すると案の定、成羽といつもつるんでいるらしい彼女の クラスメイトの友人から、終礼と同時に教室を飛び出してクラブに行っちゃったよ、という証言をもらった。
 本当に、成羽は動きが機敏だ。テニス部の活動があるときはことのほか。僕のことなんかお構いなしに飛んでいって しまう。
 きっと、小学校高学年あたりからテニスに惹かれて、部活はずっとこれ一筋でやってきたんだろう。幼稚園で睦みあって いたときは、活発な女の子だというイメージはあったものの、成羽自身の口からは、好きなスポーツについては語られなか った。彼女がどういった経緯でテニスを好きになったかは、僕にはわからない。それでも、部活に対するこのやる気を考え ると、すごく楽しんでるんじゃないかと思う。
 彼女の楽しみに水を差したくはない。し損なってしまった「第二関門突破、英語五十八点」の報告は、先に佳耶にしてお いて、また後日――明日の朝にでも成羽にしようと思う。
「いただきまーす!」
 佳耶が大きな声で言ったのに続いて、僕と両親、それに久宝さんを加えた四人が続いていただきます、と声を合わ せた。
 今晩のメニューは、鰯のグリル焼きと、土野菜の煮物、大根とさつまいもの味噌汁、クリームコロッケと豆ご飯だ。テーブルの 上に所狭しと並べられたお皿にも、ようやく慣れてきた。ほんの一ヶ月前までは、このテーブルの上に若干の余裕があった。 そう、久宝さんのぶんだ。彼女がうちに居着いてからというもの、ひとりぶんのお皿が増えただけじゃなくて、彼女を厚く 持て成そうと、献立も随分と豪勢になった。品数が増え、佳耶が前よりもいっそう腕によりをかけて料理をするようになり、 僕も父さんも毎日外食をしている気分になった。
 明らかに食材の量や種類は増えているけれど、両親は、なにひとつ不平を漏らさない。以前と同じような調子で、だけど 一回り大きい買い物袋を提げて、スーパーでの買い出しから帰ってくる。まるで、久宝さんを家族の一員にしてしまってい るような待遇。僕としては、食費が嵩んでしまうことを考えて、もう少しメニューを間引いてもいいんじゃないかと思う。 だけど、母さんと父さんの顔色にもなんら変化は見られないし、久宝さんを追い出す理由もないから、今のところはこのままが いちばんいいのだろう。そんなことを考えながら、僕は、ちょっと遠慮気味に、茶碗に盛られた豆ご飯を箸で掬い上 げる。
「そういえば、おにいちゃん」
 いただきますから約三分、会話がなく、食器を扱う音と民放のニュース音声だけが流れていたなか、一番乗りで口を開い たのは佳耶だった。
「ん?」
「抜き打ちテスト、今日返ってきたんだよね」
「あ、ああ。うん」
 まさかとは思っていたけど、本当にいきなりだった。最初はいつものように父さんの愚痴か、佳耶と久宝さん、それに 母さんを含めた女性陣での世間話から始まるだろうと踏んでいた僕は、今日に限って自分のことが真っ先に話題に上された ことに不意を衝かれた。
「どうだった? セーフ? それともアウト?」
 自分がした約束の命運がかかっているというのに、佳耶は実に軽やかな口ぶりでそのことを僕に尋ねる。
 仮にアウトだとしてもべつにわたしは気にしませんよ、と佳耶は言おうとしてるんじゃない。この笑顔。きっと、アウト だったらもの凄いペナルティを用意してくるだろう。
「アウト……って言ったらどうする?」
 敢えて、僕はその内容を本人に訊いてみることにした。
 すると、佳耶は急に真面目ぶった顔をして、
「アウトだったら、わたしは明日からおにいちゃんのことを嫌いになります」
 と宣告した。母さんと父さん、久宝さんがふふふと笑う。そのそばで、僕は佳耶の言葉が胸に刺さった衝撃に、しばし呆然 とした気分を味わった。
「一緒に走ったりもしないし、一緒に朝登校したりもしないし、ご飯とかおやつをおにいちゃんのぶんだけ減らしたりもしま す」
「うわー……ひどいなぁそれ」
 佳耶の言葉が冗談であれ本気であれ、今は、僕の点数をセーフティーゾーンに持っていってくれた先生方への感謝で、胸が いっぱいだ。
「あと、半径一メートル以内に踏み込んだら、佳耶ちゃん本人にハリセンでぶたれる、というのはどうでしょう?」
 一口めを完全に食道に送ってしまったらしい久宝さんが、佳耶よりもえげつないことを笑顔で言う。また両親が笑った。
 いけない、僕はこのままじゃ、目の前の四人の慰み者だ。なんというか、僕の実力が見くびられているような気がする。逆 に言えば、それだけみんながセーフだと信じている、ということになるのかもしれないけど。いずれにせよ、このまま四人 に好き勝手に喋らせていてはまるで面目が立たない。
「じゃあ、僕からもひとつ言わせてもらっていいかな」
「どうぞどうぞー」
 なおも楽しそうな口調を保つ佳耶。僕もにんまりとして、それならばと対抗心を燃やす。
「もし僕の結果がアウトだったら、今から町内の全家庭に『メリークリスマス!』って言いにいくよ」
「あはははっ。それ面白い!」
「しかも、パンツ一丁で」
「おにいちゃんのヘンターイ。ひとでなしー」
 箸を人差し指と中指の間に挟んで両手を口の両側に添え、佳耶は、じっとりした目つきで僕を睨む。しかし、頬のあたりは どう見ても笑っているし、声もどう聞いたって本気とは受け取りがたい。
「……そこまで言うかよ、普通……」
 僕は呆れて、箸でクリームコロッケを掴む。そのまま、それをぽいっと口の中に放り込んだ。
(あつつっ……)
 口の中が火傷しそうになる感覚に襲われ、咄嗟に僕はコロッケを上下の歯で挟んで舌を口の奥に引っ込める。重度の猫舌では なくとも、揚げたてのフライド・フードは熱い。ちょっと判断を誤ってしまったかな、と思った。
「えへへ。セーフだってわかってるから、好き放題言ってるんだよ」
「えっ?」
「はい、これあげる。ご褒美兼こないだのお返し」
 呆気に取られた僕に構わず、佳耶は、自分のお皿に載っていたクリームコロッケをひとつ、箸で掴んで僕のお皿の上に 持ってきた。
「どうしてわかるの? まだ言ってないのに」
 僕も、苦笑いをしながら尋ねる。今僕が披露したアメリカンテイストなジョークを聞けば、わからないこともないだろう と思った。
「えへへっ」
 佳耶は、僕のお皿の上の、ひとつ残っているコロッケの隣にきちんと自分のコロッケを並べると、ぐっと伸ばしていた腕を 引っ込めて、浮かせていた腰をまた椅子に落ち着かせた。
「そんなの、おにいちゃんが帰ってきたときからわかってたよ。ね、ふみちゃん」
「ふふふっ」
 母さんと久宝さんが同時に笑う。帰ってきたときからということは、佳耶にそれを悟られた理由は、ただひとつしか考え られない。また顔に出てしまっていたのだ。やりました、補習を免れましたよ、という喜びが。
 この間気分転換にランニングをしたときもそうだったけど、僕は、佳耶に言われてから、そんな顔をしていることに気づ く。つまり、それまでは、自分でも佳耶に指摘されるような顔をしていることに気づいていないのだ。言ってみれば、僕は 、何気ない会話の中にも、妹たちと合わせる顔にも、考えていることを出しっぱなしでいるのだ。それに僕自身が気づけな いとは、なんと抜かりが多いことだろう。意のある所を隠すことは、幼馴染みの成羽に対してだけじゃなくて、誰に対 しても難しいこと。ちょっとは本心を読まれないようにする必要があるのかな、と、佳耶や成羽、さらには付き合いの短い はずの久宝さんに隠し事を暴かれるたびに僕は思う。
「ふうん。ばればれだったというわけですか……」
 隠していたつもりが、実は筒抜けだった。そんな、テレビのニュースに映し出されているとある企業の情報漏洩事件に 自分の行き届かない人となりを重ねながら、僕はまた、ふっと苦笑いをする。
「うん。さっきおにいちゃんに訊いたのは、気を迷わせたかったから。それだけだよ」
「久宝さんの入れ知恵だな……」
 僕は、憎たらしいほど素知らぬふりをして焼き魚をつつく久宝さんを、まじまじと見つめる。しばらく彼女はもぐもぐと 咀嚼を続けていた。どうやら、食べ物が口の中に入っているときはみだりに口を開かないというテーブルマナーを、彼女は 守っているつもりらしい。ごくんと嚥下して、グラスに入った麦茶でお口直しをしてから、彼女は僕のほうに顔を向けた。
「そう思いたければ、思っていらしてください」
 丁寧な、けれどもあっさりした物言いでそうとだけ返すと、久宝さんは、今度は煮物のお皿を持って掻き込みだした。
「あははっ。……で、おにいちゃん」
「ん?」
「結局、何点ぐらい取れたの」
「……っぐ」
 訊かれたくなかった質問が佳耶の口から飛び出したので、僕は飲み込みかけのご飯を喉に詰まらせてしまった。
 けほけほと噎せながら胸のあたりを握り拳で叩く僕を見て、母さんは、「おしゅいません」といった。どこの方言だ ろうか、わたしは気にしませんから、という意味なのだそうだ。
「七十点ぐらい?」
 きらきらと瞳を輝かせて、佳耶は聞き質す。セーフだったということは僕の顔から読み取れても、僕の答案を盗み見でも していない限り、点数までは言い当てられまい。僕は、佳耶の期待を悪い意味で大きく裏切ってしまうことを覚悟で、テスト のつまびらかな結果を打ち明ける決意をした。
「いや。数学が五十四で、英語が五十八。そんな秀才みたいな点数は取れないよ」
 申し訳なく打ち明けた僕に、佳耶は笑って、
「ううん。やっぱり点数なんてどうでもいい。おにいちゃんは確かにいい結果を出そうって頑張ってて、その結果が実って 補習をパスできてるんだもん」
「うん」
「結果おーらい、だよっ」
 佳耶は、とても満足そうに笑って、しばらく振りに味噌汁のお椀を口元に運んだ。そして、音を出さずに少しだけ 啜った。
「五十八に、五十四かぁ……」
 会話にようやく参加した父さんの顔は、ちょっとばかり難しそうだ。
「佳人、先生は、八十点ぐらいを期待していたとか、そんなことを言ってなかったか?」
「う……」
 今日の三時間目、教室の中で起こった出来事の一場面を、さもどこからか観察していたかのように言い当ててしまう父さ ん。これだけ周りから正解を言い当てられてしまうと、僕の生活がなにかの組織の監視下に置かれているような感覚さえ する。そんな漫画やアニメの中のような話は、現実にはあるはずがない。妙な引っかかりを感じたまま、僕は父さんのほう を向いて、首を縦に振った。
「そうだろうな……」
 一瞬、父さんが遠い目をしたように、僕には思えた。僕から一旦視線を外し、父さんはまた、勢い良く豆ご飯を口の中に 放り込む。それを飲み込んでしまってから、話を続けた。
「抜き打ちといっても、内容はぜんぶ中学で履修したものだったんだろう?」
「そういうふうに、先生は言ってたけど……」
「先生が言ってるんなら正しい。それで五十点台というのは、父さんの目から見たらちょっと勉強不足に見えるな」
 父さんの厳しい口調を受けて、佳耶や母さんも、表情を崩した。
「心配ないって。今回の躓きをバネにして、これからもっと頑張っていけばきっと大丈夫だからさ」
「よく言うな」
 父さんの眉は、まだ内側から外側に向かって上りの傾斜がついたままだ。僕が咄嗟に示した決意表明は、まったくもって 糠に釘だったらしい。
「そんなふう国民に説明して、それ以降全然信用してもらえなくなった会社も少なくないぞ?」
「う……確かに」
 そう言われてみれば、僕は、なにか不祥事を犯したあとの会社の社長さんのようなことを口走ってしまった気もする。 そんな通り一遍な釈明の仕方しかできないひとに限って、更正の見込みが薄いのは、なにも会社の社長さんに限った 話ではなくて、人付き合いとか、世間一般にも言えることだ。
「えーと……とにかく頑張ります。だからお願い、今回のは見逃して、父さん」
「甘いな……佳人は」
 いやに引き締まった父さんの顔を見ても、今回のテストの結果を大目に見てもらえる確率は低そうだ。父さんと目を合わ せているのがなんとなく落ち着かなくて、僕は佳耶や母さん、久宝さんのほうに視線を泳がせる。やっぱり母さんと佳耶は 心配そうな顔をしていたけど、久宝さんだけは、僕と目を合わすことなく、黙々とご飯を食べていた。
「先生が八割を期待してるのに五割というのは、お前の勉強のやり方に問題があった以外に考えられん」
「はい……」
「それに、今回だけだったら父さんも見逃してやらなくはないけど、中学のときもあまり成績がよくなかったお前のこと だからな。家庭教師でもつけないことには、心配で仕方ない」
「かっ家庭教師……っ?」
 僕はびっくりした。父さんがこのキーワードを出したのは、なにも今回が初めてというわけではない。僕が中学生だった ときも、持ち帰った通信簿を見ては、先生に個人補習を頼んだほうがいいんじゃないかとか、職場の上司の息子で有名な 国立大学に通う勉強熱心な大学生を紹介してやろうかとか、そんなことを言って振るわない僕の成績を気遣って くれた。
 だけど、父さんが最初にそう言い出したときからは、もう二年近くの月日が経つ。もしかしたら、母さんと内々で家庭教師 をつけるための資金を貯めていた、なんていうことも、無きにしもあらずだ。
「い、いいよ。べつに教えてもらったって、僕が頑張らないと意味がないんだし……家庭教師なんて居ても居なくても 一緒だよ」
「その口の聞き方はなんだ、佳人」
 ガンッ、と茶碗をテーブルに叩きつける音。僕は反射的に目をつむる。再び目を見開くと、僕と同じように肩を竦ませた 佳耶と、ぽかんとした顔の久宝さんとはまったく性質の違った、父さんの赤い顔が見えた。
「そうやって言い逃れては、また親の見てないところで勉強を怠けるんだろう。それが心配だから、父さんはこうやって 勧めてあげてるんだ。それを居ても居なくても一緒と言うなんて、お前には本当に勉強を頑張る気があるのか。どうなん だ?」
「………」
「父さんも、無理矢理そうしろと言ってるわけじゃないんだ。お前にやる気があるんなら、それを後押ししてやろうと 考えてたんじゃないか。わかるか?」
「……はい」
 父さんの怒りが、それまで明るかった食卓の空気を気まずくさせる。父さんが説教を垂れ、僕がそれに頷くほかに、会話 がない。僕と父さんの言葉さえ途切れてしまったときの、テレビのコマーシャルの音ほど空しく感じるものはない。
「父さんはべつに、お前に誰かから勉強を教わるのを押し付けるつもりじゃない。でも、もしお前にやる気があるんなら、 借金してでも家庭教師を雇って、お前の勉強をサポートしてやりたい。もちろん、自分で頑張る方法もするなとは言わない けど、なまじっかな態度でいたらまた同じ結果の繰り返しだ。そうだろう?」
「はい」
「……まあ、あんまり久宝さんもいるからこれ以上くどくど言う気にはなれないけど……問題は、佳人にその気があると わかった場合に、家庭教師をどうするかだな」
 父さんは、食べかけのご飯に再び手をつけることをせず、腕を組んで考え込んでしまった。
 不覚にも妹とその親友の見ている前で怒られてしまった。けれども、僕は、怒られてしまったものは仕方ないと割り 切って、真面目な面持ちで父さんの説教に耳を傾けていた。面目を失ってしまった以上、僕にそれを挽回する意志がある ことを態度で示さなければいけない。
「あのう」
 会話に代わってバラエティー番組の司会者やゲストたちが喧しく騒ぎ立て始めたダイニングに、久宝さんの控え目な声が 踊り出た。
「私でよろしければ、お手伝いさせていただきますけど」
「……えっ?」
 彼女を除いた四人の視線が、一同に彼女のほうに集中する。みんなから注目されることになっても、久宝さんは物おじ せず、冷静そうに構えている。さっきの父さんの説教にもびくともしていない様子だ。
「ですからその、私でよろしかったら、ボランティアでお兄さんの家庭教師をして差し上げますよ、と……」
「ええっ!?」
 僕もそのことには驚いたけど、僕より素っ頓狂な声を出して驚いたのは、久宝さんの隣に座っている佳耶だった。
「それってふみちゃん、おにいちゃんのそばでずーっと付きっきりで勉強を教えるってことだよね?」
「うん。そうだけど?」
「だめだよー、そんなの。わたしがおにいちゃんと一緒に居る時間も減っちゃうし、わたしとふみちゃんの時間も減っちゃう し、ふみちゃんとおにいちゃんが……ああん、なんかいろいろ問題がありそうだよ!!」
「落ち着けって、佳耶……」
 なにか妄想を先走らせて独りでオーバードライブしてしまっている佳耶に、僕は声をかけた。
「そうよ。第一、佳耶もお兄さんの部屋に来て、監視するなり、お勉強に参加するなりしてたら万事解決でしょ?」
 久宝さんも、諭すような優しい笑顔で、佳耶の単独暴走熱を冷まそうとする。
「そっか……。それもそうだよね」
「ずこっ」
 さっきまであたふたしていたのに、久宝さんに宥められるや否やこの変わりよう。あまりに佳耶が気持ちを早く切り替 えるので、僕は体を傾けるのに加え、わざわざ効果音を口に出してまでずっこけたことを表現した。
「久宝さんが家庭教師か……。悪くはないかもしれないな」
 父さんは、意外にも久宝さん自身の提案というか、彼女の家庭教師への立候補に肯定的だ。
「ただ、佳人よりはふたつも年下だけど……」
 そうだ。僕もさっきから、その部分が引っ掛かっていた。久宝さんの成績は、いったいどれほどのものなのだろう。自分から 名乗りを上げるくらいだから、相当頭はいいのかもしれない。彼女が毎日のように羽織ってくる白衣も、伊達ではないとす れば、親譲りということになるのだろうし。……あ、まだ久宝さんの親がお医者さんだとは決まっていなかったか。
「ご心配ならさず。中学の履修範囲ぐらいならおてのものですから」
「おっ、おてのものって……久宝さんまだ二年なのに、三年の範囲もできるの?」
「もちろんです」
「ほぇー……」
 やはり、伊達じゃない。久宝さんが着ている白衣……じゃなくて、彼女がここにいること自体が。まだ決まっていない けど、それだけ頭が良いのなら、ほぼ確定だろう。彼女の親はお医者さんということで。
「本当に、うちの愚息の面倒を見てくれるのか?」
「はい。喜んで」
 にっこりと、佳耶のように純真ではなく母さんのように優しく笑いながら、久宝さんは答えた。
 それより、どうでもいいけど、他人の面前で僕のことを愚息なんて、勘弁してよ、父さん……。とは、怒られた身の上で あるから言えなかったけど。
 久宝さんが僕の家庭教師。年下の先生。僕の学生としての生活は、彼女の介入でこれからどう変わっていくのだろうか。 募る不安の中に見出だした一抹の期待に、僕は、賭けてみるのもいいんじゃないかな、と思う。

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