第3章 れっつ・しょっぴんぐ!
Au premier des jours fériés consécutifs de mai, on se rend en groupe en ville.

 待ちに待ったゴールデンウィークがやってきた。連休に入る前、二日間雨が降っていたけど、今日、五月三日はまったく 正反対の快晴だ。窓から見える空には、雲がひとつも浮かんでいない。まさに、お出かけ日和というやつだ。
 今日は、佳耶と約束していたショッピングに出かける予定の日。僕が抜き打ちテストのセーフを打ち明けた日の夜、佳耶 と話し合ってこの日に決まったのだ。カレンダーにも、連休初日のところにしっかりと赤丸がついている。
 時計に目をやる。今は、九時ちょっと前。絶対に寝過ごしてはならない朝だから、目覚まし時計のアラームは昨日寝る前 にちゃんと九時にセットしていたのだけど、結局アラームの音は鳴らずじまいだった。目が覚めたのが八時半過ぎで、その あと十五分ぐらいベッドの中でうとうとしていて、意識がはっきりし始めてきたころに、アラームのスイッチをオフにした のだ。二度寝をしたいという気持ちは、ベッドから重い身体を縦にして立ち上がり、カーテンと窓とを全開にして太陽光線 を採り入れることで追い払った。
 目的の時間に自分で起きる朝っていうのは、とても清々しい。学校があるときは、佳耶に起こしてもらうのがほとんど習 慣になっているから、眠気も残ったままだし、普通の日曜日なら気の済むまで寝てしまうから、逆に寝過ぎになって夜まで 頭がぼーっとしていることが多い。今日早起きすることができたのは、佳耶が僕をショッピングに誘ってくれたおかげだけ ど、僕自身の、佳耶の願いを叶えてやりたいという気持ちも大事な要因だったはず。これでまたひとつ、彼女の喜ぶ顔が見 れると思うと、僕も心を弾ませずにはいられない。ベッドの上の掛け布団を綺麗に三つ折りで畳むと、僕は早速洗面所に向 かうべく自分の部屋を出た。
 ドアを閉めて、隣の佳耶の部屋の前に差しかかる。佳耶のことだから、まだすやすやと寝息を立てて……いたりはしない だろう。気配もしていないので、彼女のほうが僕よりも先に起きて食事を済まし、洗面所で髪を繕っているところだろうと 思った。
 階段を降りて、リビングダイニングの中を覗く。僕の予想通り、佳耶の姿はない。居るのは母さんひとりだけだ。
「おはよう、母さん」
「うん、おはよう」
「佳耶、もう起きてる?」
「うん。八時ぐらいに文音ちゃんがうちにいらして、佳耶を起こしてなにも食べないままふたりでどこかに遊びに行っちゃ ったみたいよ」
「……えっ?」
 僕は愕然とした。佳耶が、久宝さんと一緒に遊びに行っただって?
 そんな馬鹿な。確かに、佳耶はこの日を楽しみにしていたはずなのに。昨日も、明日はおにいちゃんとデート、なんて冗 談を言って久宝さんを笑わせていたのに……。
(――あっ!)
 そのとき、僕はふと思い出した。佳耶の発作のことを。
「母さん、今朝佳耶が起きてきたとき、顔色悪そうじゃなかった?」
 僕は藪から棒にそう訊ねる。佳耶がもし、久宝さんに起こされてから外出するまでの間に発作を起こしていたとすれ ば、昨日までの記憶の一部を失ってしまうことは十分考えられる。もしそうなら、その失った記憶がたまたま今日のショッ ピングのことだったということも、可能性としては限りなく零に近いけど、ないとは言い切れない。
 しかし、僕の考えとは裏腹に、母さんは、
「ううん、べつに、なんともなさそうだったわよ」
 と証言した。
「そう、か……」
「うん。それに佳人、良く考えてみなさい。顔色悪くなんかしてちゃ、外へ遊びに行くにも行けないでしょう?」
「あっ、それもそうだよね」
 確かに、母さんの言うことは尤もだ。久宝さんが、しんどそうな佳耶を無理矢理外へ連れ出そうとしているところなんか を目撃したら、母さんも手を拱いてはいられまい。
「佳耶は、いつもどおり元気そうだったわ。だから、心配しないであげてちょうだい」
「う、うん……」
 母さんにそう言われても、僕はそうすることができない。なぜなら、今日が佳耶とショッピングに行く約束をしていた日 であるにもかかわらず、本人がそのことをすっかり忘れてしまっているからだ。
 発作でないとしたら、なんだろう。佳耶に、僕との約束を果たすことを忘れさせ、久宝さんと遊びに出かけるように仕向 けたものは。
 まさか、寝ている間に発作が起こった……なんてこともあるかもしれない。夢に魘れ記憶をうまく処理しきれなくなった ときに、なにかの拍子で、脳が任意の記憶を消し去ってしまうことだってあるだろう。あれほど楽しみにしていたのだ。発 作でも起こらない限り、佳耶が約束を反故にしてしまうなんてことは考えられない。
 僕は、気持ちを整理をするために、一度リビングダイニングを離れて洗面所に向かった。母さんの言ったとおり、そこに も佳耶の姿はない。洗濯機が立てるガタゴトという音だけが、その空間にはあった。
(いったい、佳耶はどうして久宝さんと遊びに行ったりなんてしたんだろう?)
 僕専用の青い歯ブラシを取って、開栓した蛇口から流れ出る水に晒し、水を止めて歯磨き粉をつけた歯ブラシで歯を磨き ながら、僕は思考を巡らせる。考えてもみれば、久宝さんだって、やっていることが矛盾そのものだ。今日の約束のことは 親には内緒にしていたものの、親しい間柄である久宝さんには、佳耶はなんども話していた。それなのに、どういういきさ つでか記憶を失ってしまった佳耶に、じゃあふたりで出掛けましょう、と言うのもおかしい。本来なら、約束のことをしっ かり覚えているはずの久宝さんが、事実を曲げずに佳耶に伝えてやるべきだろう。
 いずれにせよ、僕がもうちょっと――あと一時間だけ早く起きていたなら、こうはならなかったはずだ。久宝さんには 本当に虚を衝かれっぱなしだなあと思いながら、歯ブラシを洗い流して元の場所に戻し、手の平を合わせて掬った水でうが いをする。念のため顔も洗顔フォームをつけて洗っておき、髪も癖毛が目立たないくらいに梳かしておいた。まだ、諦めて なるものか。
 なにか佳耶本人の真意を確かめられるもの……そうだ、実際に連絡を取ってみよう。佳耶の携帯電話に発信してみればい い。直接話を聞けば、溜飲を下げることができるはずだ。
 僕は洗面所を出て、足早に自分の部屋へ戻ろうと、廊下を階段のほうにUターンする。母さんが僕の背中に「佳人、朝ご 飯は?」と問いかけてきたので、僕は大きめの声で、「あとで食べる!」と返事した。
 自室に戻り、携帯電話を探す。家の電話からでもかけられるけど、家族四人が同じ“デコモ”というサービス会社に加入 しているから、夜の十時までは通話料がタダなのだ。机の上には見当たらない。どこかで充電中だったかな。部屋じゅうの コンセントを見回すと、果たせるかな、僕の携帯電話が充電スタンドの上に乗っかっていた。
 充電中を示すランプも消えていたので、僕はそれをスタンドから取り外し、かちゃっと開いた。猿みたいなキャラクター の待ち受け画像が表示される。標準でプリインストールされているやつだ。これといったものがなかったから、いちばん当 たり障りのなさそうな絵を選んでいたのだった。
 ボタンを押して、画面に電話帳をロードする。母さんと父さん、佳耶、それにこの前番号を交換した成羽の電話番号 が“VIP”の項に登録してある。それ以外は、中学のときの男友達とかだ。彼らの電話番号は、“VIP”ではなく“おとも だち”に分類されている。
 取り急ぎ、“VIP”の項から佳耶の電話番号を選択して、発信ボタンを押す。プッ、プッ、プッという信号音が鳴ったあ と、佳耶の携帯への呼び出し音が鳴る。その直後、壁越しに、佳耶の部屋のほうから着信ソングが流れた。こともあろう に、佳耶は携帯を置いて外出してしまっていたのだ。
 僕の最初の目論見は、失敗に終わった。空しい気持ちを抱えたまま、呼び出し中止のボタンを押す。ふっと、佳耶の部 屋で鳴っていた着信ソングの音も消えた。
 いや、これくらいで諦めては男が廃る。まだ、佳耶たちの行き先も母さんから聞いてはいないし、もし久宝さんの家に遊 びに行っているのなら、彼女の家に電話するという手も残っている。なんとしても佳耶から話が聞きたくて、僕は、忙しく また部屋を出て階段を駆け下りていく。
「母さん。佳耶たち、どこ行くって言ってた?」
 僕の焦りきった表情を見て、母さんは、わずかに眉を寄せた。
「うーん……ごめんね。行き先まではちょっとお母さんも聞いてないの」
「そんな……。じゃあ、佳耶、おめかしとかきっちりしてた?」
「それは佳耶だって女の子なんだから、しないと不自然だと思うけど……」
 僕の質問にひとつ答えるたびに、だんだん母さんの顔は気遣わしく、うたぐるようなものになっていった。
「それより、佳人。そんなことを聞いてどうするの?」
「あっ、う、それは……」
「まさか、佳耶と文音ちゃんを付け狙うつもりじゃないでしょうね」
「そっそんなことしないよ……あっ」
 僕が言葉に詰まりかけたちょうどそのとき、今度は僕の部屋から携帯電話の着信ソングが鳴るのが聞こえた。
「誰かから電話みたいよ」
「うん」
 僕は、また階段を駆け上る。いい加減、昇降運動のしすぎで息切れがしてきた。ゴールデンウィーク初日の朝からこんな に体を動かすひとがいるだろうか。中猪公園のランナーは別として。
 部屋に入り、携帯を手に取る。発信者の欄には、“わっぴ〜”と表示されている。そうだ、今日は成羽も合流してくる予 定なんだった。
 電話に出るボタンを押して、受話スピーカーを耳に近づける。
「もしもし」
『はーい、ぐっもーにん! どう、今日の目覚めは良かった?』
 成羽のほうも、とても元気そうな声だ。きっと起きてから一時間以上は経っているだろう。
「うん、ばっちり。目覚ましが鳴る十五分前に起きたよ」
『あははっ。あたしは、不覚にも目覚ましの力を借りちゃったけどね』
「何時に起きたの?」
『六時』
「六時っ!?」
 予想だにしない時間だった。成羽が起きたのは、今から三時間以上も前なのだ。僕よりも、二時間半も早い。六時なんて いったら、僕はもちろん、佳耶や久宝さんですら、まだ夢の中だったに違いない。
「なっ、なんでそんなに早いの?」
 ゴールデンウィーク初っ端から運動する僕。同じく初っ端から早起きをする成羽。どちらも、普通の人間のするような生 活の送りかたをしていない気がするのは、きっと思い過ごしなんかじゃないはずだ。
『それはまぁ、お店の手伝いもあるし、朝ご飯作んなきゃいけないし、犬の散歩だってあるし、のんびり寝てられないよ』
「そっか……」
 成羽の家は、商店街の中にある花屋さんだ。定休日の木曜日以外は、たとえゴールデンウィークや祭日であろうと、商品 の陳列や管理といった店の仕事がある。学校が休みの日となれば、彼女の親もしめたとばかりに娘を仕事に駆り出すだ ろう。
『でも、おかげで朝から動きまくったから、今はもう全然眠たくないよ』
「そりゃお疲れ様でした」
 僕は、心の中で改めて成羽の働きぶりを評価した。もし僕が成羽のような環境にいたとしたら、たぶん、「たまの休みぐ らいゆっくり寝かせてよ……」だなんて言いながら、ベッドの上で掛け布団を頭の上まで引っ張っていると思う。だいた い、休日に六時起きなんて、僕のポリシーに悖ることだ。僕にとっては、休日こそ、日頃出せない怠慢欲を全開にできる日 なのだから。
『えへへっ。で、八時過ぎにやっとあたしも朝ご飯食べれて、さっきまでメイクしてたんだけど、今出発の準備調ったとこ ろ。トミーのほうはどう?』
「あ、うん。一応おっけーだよ」
『一応?』
「ああ、まだご飯食べてないから。さくっとトースト一枚だけでも食べてから出るよ」
『そうなんだ。えっと、待ち合わせは中猪の駅の改札に十時で良かったよね』
「うん」
『そんじゃ、そうする。トミーも遅れないように。……って、佳耶ちゃん居るから大丈夫か』
「あ……うん」
 佳耶のことに触れられて、僕は躊躇いながら頷く。本当は居ないけど、ここで居ないと言ったら話の糸が縺れてしまう。 それに、成羽は別の“JU”というサービス会社に入っているから、いたずらに携帯で会話を続けたらすぐに通話料が跳ね上 がってしまいかねない。
 待ち合わせのときになんと言われるかはわからないけど、会ってから事情を説明するほうがよさそうだと僕には判断でき た。
「それじゃ、切るね」
『あっ、ちょっと待った』
「えっ?」
『まあ大丈夫だとは思うけど、もし万が一遅刻したらお昼はトミーの奢りね』
「ぅえっ!?」
 聞いてないよ! ……とあとあと僕に言わせないよう、釘を差したつもりなのだろう。
『あははっ。そゆことで、よろしく。それじゃまたあとで』
「あ、うん。それじゃ」
 成羽に誘導されるように、僕は通話終了のボタンを押した。画面右上の現在時刻を見ると、もう九時十八分になってい た。やばい、もうあまり時間がない。待ち合わせの場所までは、自転車を飛ばして十分。あと三十分で朝食を食べて、久宝 さんの家にも一度電話をかけてみて、それからもうひとつ、やりたいことがある。どうしても佳耶と連絡がつかなかったときの ために、佳耶の成長アルバムの写真を用意しておきたい。最悪、写真でも成羽には許してもらえるだろう。携帯を閉じて机 の上に置き、僕は、また部屋を出て一階に下りた。
「母さん、久宝さんちの電話番号って、わかる?」
「電話帳に書いてあると思うけど……」
「ありがとっ」
 気忙しく動く僕に完全に毒気を抜かれている母さんに構わず、僕はリビング側に置いてある家の電話の受話器を取る。電 話帳を開いて、“か”のページを見る。同じ電話帳でも、携帯でボタン操作をするデジタル感と、ページを手でめくるアナ ログ感とでは大違いだ。“か”のページをいちばん下の段まで見、もう一度確認のために見直しもしたけれど、久宝さんの ものらしき名前は見当たらない。母さんが久宝さんのことを“文音ちゃん”と呼んでいたのを思い出して、次に“は”のペ ージをめくる。すると、ズバリ“文音ちゃん”と書かれたものが真ん中よりもちょっと下に見つかった。その隣にある電話 番号どおりに、電話機のボタンを押す。ディスプレイの表示と照らし合わせながら、間違いがないかも確かめた。照合がう まくできたところで、発信ボタンを押す。呼び出し音が鳴った。久宝さんのご両親でもいいから、お願い、出てください 。そう願ってはみたものの――呼び出し音は単調に、かつ空しく、十回以上鳴り続けた。どうやら、ご両親までが外出中ら しい。
「だめか……」
 僕は、気落ちした声を漏らしたのち、受話器をもとに戻した。
「どうしたの? 佳耶に、なにか伝えたいことでもあったの?」
「ああいや、べつに気にしないで」
 僕は、母さんにだけは心配をしてほしくなかったから、咄嗟の事もなげ顔でそう答えた。
「それより……十時に友達と待ち合わせしてるから、朝ご飯だけ食べていきたいんだけど」
「うん。トーストでいいかしら」
「うん、十分」
 僕がテーブルに着くと、母さんはキッチンから食器棚のほうに移動して、戸棚から食パンの袋を取り出した。
「一枚? 二枚?」
 そう尋ねてくる母さんに、
「一枚」
 と僕はオーダーする。母さんに任せっきりではいけないと思い、僕は下ろしたばかりの腰を上げて、冷蔵庫の前に向かう 。扉を開けて、ストロベリージャムとマーガリンを取り出す。そして、素早く扉を閉めた。五秒以上の扉の開けっ放しは禁 物。いつだったろうか、佳耶と父さんの合議で決まった、富松家の暗黙のルールだ。これを守り抜くためには、各自が冷蔵 庫のどこになにが入っているかを把握しておく必要がある。そのため、貯蔵場所についての情報交換が事前に行われること もしばしばなのだ。
 パンなどを仕舞っている戸棚のちょうど上が食器棚になっているので、母さんはそこを開いて、お皿も取ってくれた。
「さんきゅー」
 そう言って、持っていたマーガリンの容器とジャムの瓶をテーブルの上に置いてから、僕は再び椅子に腰を下ろした。
 ほどなくして、オーブンからチーンという音がした。お皿を手に持って、席を立つ。オーブンの扉を開けて、中のこんが り焼けた食パンを取り出すと、また扉を閉めた。
 もう一度席に着いて、マーガリンとジャムの蓋を開け、それをスプーンで食パンに塗りつける。トーストといえば、この 組み合わせだ。みんなには意外に思われることもあるけど、僕は、チョコレートとかピーナッツペーストがあまり好きじゃ ない。だから、今年のバレンタインデーなんかも、佳耶からはチョコじゃなくて、レーズンの入ったチーズケーキをもらっ た。もちろん、佳耶のお手製だ。僕にとっては、どこのお菓子屋さんが作るデザートよりも、佳耶の作るお菓子のほうが、 舌が満たされる。いつだって、佳耶が作るお菓子は僕や久宝さんの期待を悪い意味では裏切らない。いうなれば、佳耶は、 僕たちの専属パティシエ、ということになるのだろうか。僕たちのほうから食べたいものを注文しているわけじゃないから 、厳密には違う気もするけど……。
「お友達って、早速学校で新しい友達ができたの?」
 さっきまでのことを一旦棚に上げてくれたのか、母さんは、興味をそそられたような表情で尋ねてくる。
「それとも、カッシーとかアマちゃん?」
「ううん」
 僕は首を横に振る。
 カッシーこと柏良かしわらくん、アマちゃん こと天方あまかたくんというのは、僕の中学時代の友達だ。携帯の電 話帳にも、母さんが言ったそっくりそのままのあだ名で電話番号を登録してある。柏良くんは小学校からの腐れ縁。背がけ っこう高くて、社交的な男の子。割かしスポーツマンタイプで、バスケが好き。小学校の高学年からは、警察官の父親の勧 めで柔道や空手なんかも習っていた。天方くんは、中学からの友達で、カッシーとは対照的な頭脳派。パソコンが得意で、 中学のときに、学生限定プログラムコンテスト、とかいう全国大会で優秀な成績を残している。マンガやアニメなんかにも 、かなり詳しかったりする。まったく趣味の違う僕たち三人だけど、なぜかしら、学校生活では馬が合った。でも、中学を 卒業してからは、音沙汰がない。ふたりとも、新しい高校ではうまくやっているだろうか。今度、暇を見つけてゲリラ的に 電話してやろうと思った。
「ふうん。じゃあ、高校に入ってからのお友達なのね」
「いや、そういうわけでもないんだ、実は」
「……?」
 消去法で残った選択肢を僕が消すと、母さんは訝しげな顔をした。
 成羽のことは、今日の今日まで家族の誰にも言っていない。でも、それは、佳耶や久宝さんの目の前で打ち明けることに 気が咎めるからだ。母さんになら、べつに言うのも恥ずかしくない。僕は、この際だから、思い切ってカミングアウトする ことにした。
「わっぴーって、覚えてる? 幼稚園のときの」
「あ、ああ。あの焼きそばパンの子ね」
 聞いて、僕はかくっとうなだれた。成羽ってば、やっぱりそういうイメージなんだ……。
「うん。あの子と、高校に上がってから久し振りに再会したんだけど、まだ言ってなかったよね」
「うん。初耳だわ」
 母さんも、僕がトーストを頬張っているのを見て食指が動いたのか、テーブルの上にあった紅茶のティーバッグを一杯分 淹れた。ポットから注がれる熱湯が、ほわほわと白い湯気を放つ。間も置かず、紅茶のほのかな香りが僕の鼻腔にも届い た。
「というか、佳人」
「うん?」
「お母さんはてっきり男の子のお友達と遊びに行くんだって思ってたけど、女の子となんて、あなたもなかなか隅におけな いじゃない」
「……あぁ、うん。まあ、ね」
 妙に得意そうな顔の母さんを見て、僕はまた、飲み込みかけのトーストを喉に詰まらせそうになる。すんでのところで、 まだ飲み込むな、という指令が出せたおかげで、胸を叩くようなことにはならずに済んだのだった。
「まあ、頑張ってらっしゃい」
「ああ……はい」
 なにをどう頑張れというのだろうか。もうなんども学校で他愛ない会話を交わしている成羽相手に。まさか、そんなに 先のことまで、母さんが期待していたりするはずはないよなあ……。なんて思っても、今日これからなにが起こるかはわ からない。なにせ、のっけから久宝さんに出し抜かれてしまったのだ。一分先のことでさえ、完全に予想がつくことはな い。だから、僕は、母さんの期待を、ちょっとだけなら背負ってもいいかな、と思った。

 

(――やばいっ、急がなきゃ!)
 着替えをしたあと、佳耶の成長アルバムを必死になって探していると、出発の時間が九時四十八分になってしまった。 十二分では、自転車で爆走しても待ち合わせにぎりぎりだ。信号によっては、遅れてしまうかもしれない。ストッパーを うしろに蹴り上げ、サドルに跨がって、僕は自転車を漕ぎ出した。初夏の温かい陽射しと風が、僕の露出した顔や手の肌 を撫でる。さながら、「いってらっしゃい!」と言われているみたいだ。
 中猪の駅――正式には、“中猪中原駅”に行くには、公園のところまで、いつもの通学コースを辿ればいい。そこから 南西口の交差点を西に渡り、西側の歩道を少し北上して、駅前商店街を横切る。商店街を抜けきれば、待ち合わせの場所 はすぐそこだ。
 大通りに出て、北へ渡ろうとすると、いきなり信号が赤だった。面倒だ、と性に合わないことを思いながら信号待ちをよ しにして、南側の歩道を西へ向かうことにする。ハンドルを左に傾けて、ペダルを踏む足に力を入れて漕ぎ出そうとした 瞬間――前から走ってきたひととニアミスをした。まさか僕が方向転換をするとは思っていなかったのだろう。振り向くと 、大きくコースを外した相手のおじさんと目が合い、僕は、彼の苦虫を噛み潰したような顔を見た。どうやら、公園で運 動をした帰りのようだ。この大通りは“中猪公園通”という名前がつけられているとおり、歩道が公園の延長上になってし まっているから、車道に負けないぐらい交通量が多い。気を取り直して、僕は、前方をよく確認してから、再び力強くペダ ルを踏み出した。
 ハンドルから左手を離して、ジーンズのポケットに入れてあった携帯を取り出す。時間を確認すると、九時五十六分にな っていた。だめだ。これでは、間に合わない。お昼の奢りは、今の時点でもほぼ確定だろう。
 それでも、僕はまだ諦めない。ペダルをできる限り速く漕いで、通学では絶対に出さないスピードを出す。しばらくそうや って風の中を走っていた僕の目に、突如飛び込んできたもの。それは、中猪の大きな交差点のちょっと東側に集まっていた 警察官と人々、それに路肩に不自然な形で停まっている軽自動車とワゴン車。事故だ。野次馬の人だかりができている自転 車用通路から歩行者用通路に路線を移して、横を通り過ぎるときにちらっと右を見る。軽自動車のほうは前が激しく、ワゴ ン車のほうは後ろがちょっとだけ損傷している。脇見運転か居眠り運転というところだろう、と思った。同時に、僕は韋駄 天の域に達していたスピードを少し落とす。成羽に合う前にこんなことにでもなったらおしまいだ。こうなることを回避で きるのなら、遅刻したって、お昼を奢ったってどうってことない。僕は、それまで最優先していた時間の都合を、自分の身 の安全とすげ替えることにした。
 無事に交差点を渡りきり、駅前商店街を目指して北上する。ちょうどファッションショップの前を通り過ぎるとき に、FMラジオ放送の「ポーン」という音が耳に入った。イッツ・テンオクロック。遅刻決定だ。今頃成羽は不満の小鼻を膨 らませているだろうなあ、と思った。
 駅前商店街が展開する筋を左に曲がって、大通りから離れる。アーケードが直射日光を和らげる商店街には、今日もたく さんひとが居る。世間のひとたちが羽を伸ばすゴールデンウィークでも営業中とは、花屋の娘さんである成羽もさることな がら、本当に頭が下がる思いだ。
 ふと、僕は自転車を止めた。百円均一ショップだ。ここで、ひとまず簡単なフォトアルバムを買おうと思った。家には持 ち出し用のアルバムがなかったから、探して見つけた佳耶の写真は、ビニール袋に入れて持ってきたのだった。これだと、 取り出して成羽に見せるときに色気も華もない。僕は、手っ取り早くフォトアルバムにありつこうと思い、店員のおばさん に声をかけた。すると、おばさんは親切にもアルバムを探し、持ってきてくれた。レジに移動して、精算を済ませる。早速 、ビニール袋に入れっぱなしの写真を、アルバムに移し変えた。表紙の側から順に、小学校に入学したとき、その次の年に 家族で旅行に出掛けたとき、五年生の林間学校、六年生の修学旅行、中学に入ったとき、それから、去年の冬、父さんがカ メラを買い替えたときに撮った写真を並べていく。あどけなかった佳耶が、大人っぽさを見せるまでに成長した過程が、ダ イジェストでわかるという寸法だ。
 写真を入れたアルバムをバッグの中に入れて、僕はまた、自転車のサドルに跨がる。時刻はすでに十時十分。そろそろ、 成羽が本気で怒り始めている頃かもしれない……。
 商店街を抜けると、視界が再び明るくなった。家を出たときに比べると、心なしか、太陽が高く、強く輝いているような気 がする。
 ほどなく、中猪駅の駅舎が見えた。改札は小さいから、成羽を見つけるのには手間取らないはずだ。サドルから腰を浮か せて、ペダルを漕いだ余勢で自転車を走らせる。改札が近づくにつれ、見慣れた顔が徐々に鮮明に映るようになってきた。 間違いない。あそこに立っているのは成羽だ。
 キキーッ、とブレーキをかけて、サドルから飛び降りる。その音に、
「おっそーい!」
 成羽は敏感に反応した。
「ごめんごめん、いろいろあって遅れちゃった」
 成羽に対して頭を低くしつつ、自転車を有料の駐輪スペースに進ませる。監理のおじさんに停めるのは一日だけかと訊か れたので、はい、と答えた。懐から財布を取り出し、おじさんに百五十円を払う。夜八時以降はスペースの外に自転車を出 しておくので、と説明されたけど、たぶん、そんなに遅くはならないだろう。ハンドルのところに一日利用の札をつけても らうと、僕は一言お礼を言って、成羽のもとへ急いだ。
「あれっ? 佳耶ちゃんは?」
 成羽は、僕をまじまじと見つめながら尋ねた。
「ああ、えーと、その……」
 さあ、なんと説明しようか。風邪だと言っても疑われそうだし、出掛ける直前にお腹が痛くなった、なんていうのはもっ と怪しい。やはり、ここは事実を伝えておくのが賢明かもしれない。
「それが、朝起きたときにはもう家に居なくてさ……。母さんに聞いたら、友達とどっか別のところに遊びに行っちゃった とかで……ほんと参っちゃうよね」
「どっか別のところって……今日はあたしたちと一緒に行動する約束なんじゃなかったの?」
「うん」
 僕が頷くと、成羽は、いっそう怪訝な顔をした。
「そんなのおかしいじゃん。トミーがあれほど切羽詰まってた約束を、佳耶ちゃんのほうからすっぽかしたってことでし ょ?」
「そうだけど……」
 成羽の言い草を聞けば、まるで悪いのは佳耶だと言っているように思える。佳耶に一切の悪気がなかったことを証明する には、彼女の持病のことを打ち明けねばならない。だけど、そう簡単には口を割れない。代わりに、なにか別の、成羽を納 得させるような言い訳が必要だ。とは思うものの、そんなものがすぐに閃くのなら苦労はしない。
(どう言えば……?)
 思考の糸を縺れさせていた僕に、
「あ、わかった」
 成羽は、ぴんと人差し指を立てて、悩みとは縁の無い声色で言った。
「さては、最近ケンカしたんでしょ? それで、約束どころじゃなくなってドタキャンしちゃったとか」
「そ、そんなことないよ……」
「違うの?」
「ケンカなんて、うちは滅多にしないよ」
「ふうん」
 唐突に、成羽は僕を見る視線に湿気を含ませた。冷たい目とでもいえばいいのだろうか。目を細めつつも、全体としては 無表情。なにか、マイナスの感情を今、成羽は僕に示している。
「なんだよ、その顔」
「いいや。なんでも」
 成羽はそう言うだけで、つんとした態度を崩そうとはしない。
 でも、理由がどうあれ、成羽が不機嫌になるのは致し方ないことだ。待ち合わせに遅刻したのに加えて、彼女が一目見た いと願ってやまなかった佳耶を、僕は連れてくることができなかったのだから。
 僕は、今の低気圧な成羽には見せても無駄かもしれないと思いながらも、バッグから、さっき写真を収納したばかりのフォトアル バムを取り出した。すると、
「なにそれ?」
 興味を示したのか、成羽の冷めた表情に、少しだけ温度が加わったように見えた。
「見てみればわかるよ」
 そう言って、僕は、アルバムを成羽に手渡す。彼女は細く長い手でそれを受け取ると、表紙と裏とを確認してから、最初 のページを開いた。
「あ、これ……」
 成羽の言葉が、ふと途切れる。目をぱちくりさせながら、彼女は、小学校の校門を入ったところにある庭で元気よく笑っ てVサインをする佳耶の写真に見入る。
「佳耶ちゃんだ。これ、小二ぐらい?」
 さっきまでのお冠はどこへやら。彼女はすっかり興味津々の様子で、僕に写真のことについて尋ねてきた。
「ううん。入学したてのとき。ランドセルとか、まだぴかぴかでしょ?」
「あ、ほんとだ。肩にあの交通安全のやつもついてる」
「あははっ。それは僕も気付かなかった。どれ、見せてよ」
「うん。ほら」
 改めて最初の写真を見てみると、確かに成羽の言ったとおり、佳耶の左肩には黄色い札がついていた。
「あたしたちが卒園してから二年か……子供って、短い間にこんなに成長するもんなんだね」
「うん」
 くすっと笑いながら、成羽は、アルバムのページをめくる。
「これは、三年生ぐらい?」
「うん。あたり」
「あははっ。そんな感じするもんね」
 いつしか、不機嫌あらわだった成羽の顔は、優しく笑っていた。僕の企ては成功したのだ。
 隣のページの林間学校のスナップ写真を指差して、僕は、じゃあこれは何年生でしょう、と成羽に問題を出した。だいぶ 大きくなってるから、六年生かな、と彼女は答える。ブッブー、惜しい、ひとつ下の五年生でした、と僕が正解を出すと、 成羽は苦笑して、そういや野原が広がってるから林間っぽいよね、と別の正解を言い当てた。
 またページをめくって、同じようなクイズを成羽に出した。六年生の修学旅行と中学の入学式。これはわかりやすかった んだろう、ノーヒントでも正解を出されてしまった。
 ページをめくり、六枚めに現れた写真が、今回成羽に見せようと思って持ち出した最後の写真だ。
「これ、だいぶ大きくなってるね。いつ撮ったの?」
「その写真は、父さんがカメラを買い替えたときの試し撮りみたいなやつだから、確か、去年の十一月ぐらいだったと思 うよ」
「へえー。じゃあ、半年前かぁ……」
 写真に写っている、兎の縫いぐるみを胸に抱えた佳耶は、今の姿と比べてみてもあまり変わらない。もちろん、身長が数 ミリだけ伸びたとか、少し進んだ範囲を勉強したとか、新しいデザートの作りかたを覚えたとか、そういった変化は日々あ るだろう。だけど、この写真の中の佳耶が、今の佳耶にいちばん近いのは確かだ。この先は、佳耶と同じ女の子である成羽 の想像に任せるとして、僕は、彼女が佳耶を見ることのできなかった十年間を不完全ながら埋めてやれたことに、ひとまず 安心したのだった。
「えへへ。いいもの見ちゃった。ありがと」
 そう言って、成羽は、閉じたアルバムを僕に差し出した。それを受け取ると、僕は、
「うん。でも、実物を連れて来れなくてほんとにごめん」
 と、正直に頭を下げた。
「いいよいいよ。佳耶ちゃんのほうにも、きっと事情があったんだろうし。過ぎちゃったことは仕方ないよ」
「うん。そうだね」
 アルバムをバッグに仕舞い込むと、僕はまた、成羽の鼻息を窺った。もう、さっきみたいにつんとしたりする気配はな い。たとえ写真であっても、佳耶の成長を知ることができて、とても満足そうだ。写真であっても、とはいうけど、写真は 文字どおり、真実を写したもの。今ここに本人が居るか居ないかという違いさえ取っ払えば、あとは同じだ。それこそが、 成羽が意を満たした所以だろうと、僕は思った。
「でもさ、トミー」
「うん?」
「今日あたしたちがここで待ち合わせたのって、佳耶ちゃんのショッピングに付き合ってあげるためだったよね?」
「うん、そうだけど……」
 そうだ。こうやって僕と成羽が落ち合ったところで、主役の佳耶が欠けていては、改札から先に進めない。あくまで、僕 たちふたりは脇役というか、佳耶のボディーガードというか、そういう役割だったのだ。だからといって、出掛ける前に身 嗜みも整えてきたし、貯金箱からお小遣いも引っ張り出してきたし、このまま来た道を戻ってしまうのはなんだか空しい。 成羽のほうもそれなりに準備を整えてきたようだし、なにより、自転車を預ける代金まで払い込んでしまったし……。いろ んな意味で引き返せないと割り切った僕は、なんとなく口を開いた。そう、それは、本当になんとなしに出した提案 で――
「仕方ないから、ふたりのデートに変更しよっか」
 僕の提案を聞いた成羽は、いきなりぶっと噴き出して、
「なにそれ。馬鹿みたい」
 と、笑い声混じりに言った。
「トミーってさあ……」
 成羽は、ぐるっと僕のうしろ側に回り込んできて、
「……たまに男らしいよねっ」
 どん、と僕の背中を手の平で突き押した。ぐらっ、と倒れかけた姿勢を咄嗟に直す。階段の上だというのに、なんてこと をするんだろうか、この女は。僕は、成羽のそういうお転婆な一面を見ると空かさず、まだまだふたりとも高校生だな、と 思うのだった。

 

 ホームで三分ばかり待つと、市電の車両が到着した。この町の市電は規模が中途半端なので、車両も二両編成なのだ。
 窓から車内を見ると、相当なひとが乗り込んでいる。そのほとんどはラフな格好だ。それもそのはず、今日みたいな日に 背広のサラリーマンがたくさん乗っているはずがない。そもそも、時刻はもう十時半なのだ。休日のこの時間、中心街の方 面へ電車で向かうとなれば、繁華街に遊びに行くほかに考えられない。
 すでに座席はお年寄りや小さな子供のいる家族連れに占領されていたので、僕と成羽は、乗車扉を潜ってすぐ、手すりの ところにもたれかかった。僕たちのあとにも、同じ乗車口から六人の乗客が乗り込む。車内の密度がさらに高まったところ で、発車を告げるベルが鳴り、扉が閉まった。
 僕たちと、同じように繁華街に向かうらしいひとたちを乗せた電車が、北へ出発する。本当に満員で窮屈なので、東側の 景色は見えない。見えるのは、住宅が立ち並ぶ西側のモノトーンな景色だけだ。
 ひとつ北の“桃ヶ丘南口”駅に着く。扉が開いた。乗り込むひとは、さっきほど多くない。でも、降りる人がいなかったから 、結果として、乗車率は上がったみたいだ。
 再び扉が閉まり、ゆっくりと、車両が動き出す。次の駅のアナウンスが流れた。僕と成羽が通っている高校の最寄り駅だ 。電車で通学する生徒は、みんなここを利用する。まあ、僕も成羽も自転車通学だから、お世話になることはないのだけ ど……。
 そのあと、聞き慣れない名前の駅をふたつ過ぎて、電車は、高層ビルの林立する地域へと入っていく。春芭原だ。ここに は、僕の中学時代の友人であるアマちゃんが、何度も買い物をしに来ている。パソコン関連の機器だとか、アニメグッズだ とかを扱う専門店が充実しているのだ。巷では“サイバータウン”なんて呼ばれていたりする。
 電車が春芭原駅に到着すると、たくさんの乗客がホームに降りていった。どうやら、このサイバータウン目当ての人も多 かったらしい。三割ほどの乗客が降車して、代わりにその半分ぐらいの人が乗り込んできた。これまでよりも、少しだけ、 車内に余裕ができた錯覚を覚える。
 春芭原駅を出発して、電車はいよいよこの街最大の繁華街、百日前に向かう。アナウンスでも言っているように、正式に は“南場百日前”というのだそうだ。だけど、南場自体言いにくい町名だから、それを抜いて、百日前と呼ぶことが多い。 実際に、乗客の会話からも、百日前という言葉が頻繁に聞こえてきた。
『間もなくー、南場百日前ー、南場百日前ー』
 アナウンスを聞いても納得がいく。この駅名は、確かに五回繰り返して言うと舌を噛みそうだ。電車の運転手さんという のは、滑舌が悪くてもだめなんだな、と僕たちふたりは笑い合った。
 電車がスピードを徐々に落とす。ホームに入りきったところで動きが止まり、プシュー、という音とともに扉が開いた。 扉のすぐ近くに居たので、僕たちは難なくホームに降り立つことができた。
「ふぃー……満員電車ってすんごい疲れるー!」
 ホームに降り立った成羽が、まず最初にしたこと。それは、深呼吸をしながら伸びをすることだった。ぐんと伸び上がる 腕に引き上げられて、成羽のたわわな胸が前に大きく突き出した。
 高校生になってからの成羽の普段着を見るのは、これが始めてだ。僕は、最初中猪駅で彼女と会ったとき、その露出度の 高さに一瞬戸惑った。上はバストを覆うだけの黒い服と、丈の短い半袖の青い上着だけ。下はデニム地のショートパンツで 、靴は涼しそうなサンダル。太腿やこむらはともかくとして、鎖骨や胸元、お臍までが外気に触れているのを見ると、コケ ティッシュを通り越して、体に悪くないだろうか、と心配してしまう。
「すごい人だね。僕も街に出る前から頭痛くなってきちゃった」
 苦笑しながら、僕は言った。実は、春芭原のひとつ前の駅を過ぎたあたりから、軽い頭痛がしていたのだ。時間が立てば 自然に治るだろうと高を括っていた痛みは、その後もだんだん激しくなり、今も続いている。圧迫されるような持続的な痛 みじゃなくて、波形のように断続的な痛みだ。
「えっ? 大丈夫なの?」
「うん。広いところに出てしまったら、気分も楽になって治ると思うし」
「確かに……あのすし詰め状態じゃ、せっかくの楽しいお出かけも楽しくないよね」
「あははっ。そうだね」
 僕たちは、やれ先を急がんという調子で、先に改札のほうに歩いていった人たちの背中を追って歩き出す。
 あの改札を抜けたら、どんな時間がふたりを出迎えてくれるだろうか。期待に胸を躍らせながら、僕は、成羽の歩調に合 わせて歩く。成羽は脚が長いから、自称短足の僕が合わせるのは大変だ。
 改札に切符を通して、ホームの外に出る。僕と同じ列の改札を通って、成羽もホームを出た。
「さて……どっから行こっか?」
 僕の隣に並んだ成羽が言った。
「うーん……このへんって、なにがあったっけ?」
 僕にはそう返すことしかできない。なにしろ、自分の足で百日前に出てきたのは初めてなのだ。僕と佳耶がまだ小さかっ たとき、父さんが勤める会社の新年会に参加するためにここに連れてきてもらったことがあるけど、往復の交通手段は市の コミュニティーバスだったから、その路線上しか通ったことがない。しかも、かれこれ七、八年前のことだから、記憶も色 褪せてしまっている。まったく初めてこの街に出てきたといってもいいくらい、僕は百日前では不案内だ。
「なんでもあるよ。極端にヘンなものじゃなかったら」
 成羽は、端的にそう答えた。極端に変なものとは、いったいどんなものだろうか。それを想像すると、ちょっと楽しくな ってくる。
 なんでもあるということは、それだけ選ぶのに迷ってしまうということ。優柔不断な僕にとっては、なにがあるかわから ないのと、なんでもあるのとは紙一重の差だ。もっとこう、デパートと地下街と商店街のうち、どこから行きますか、みた いに選択肢が絞られないと、迷い箸をしてしまう。
「うーん……じゃあさ、あっちに商店街見えてるから、あそこから散策しようよ」
「うん。おっけ」
 僕の提案に、成羽は快く頷いた。
 ふと、僕たちふたりの前を、僕たちよりも少し年上に見える、大学生ぐらいのカップルが横切った。テレビで見る俳優の ように、ボリュームのある茶髪をセットした男の人と、革の長いブーツを履いた、足の長さでは成羽と互角に勝負できそう な女の人。彼らのモーションを目で追いかけていると、ふたりが手を繋ぐのが見えた。なにか、楽しそうに会話を交わして いる。そのふたりの姿が人込みに紛れたあと、次に僕の視界に飛び込んだカップルもまた、手を繋いでいた。
「あのさ、わっぴー」
「うん?」
「その……手、繋ごっか、僕たちも」
 ちょっと――いや、かなり恥ずかしいけど、せっかくだから、僕は郷に従ってみようと思った。
「嫌」
「えっ!?」
 ぷいっと外方を向いてしまう成羽の仕種に、僕はやにわに動揺する。やっぱり、今の提案はまずかっただろうか。それと も、僕になにか落ち度でもあっただろうか。
「な、なんで?」
 成羽の断りかたがあまりにも冷たく感じられたので、僕はやきもきしながら問いかけた。
 すると、成羽は、
「そういう理由じゃ嫌って言ってるの、あたしは」
 と、白けたような顔をして言った。
 僕ははっとした。そういう理由……僕が手を繋ごうと提案した言葉の中に、理由となるような文句はたったひとつしかな い。
「あ、そっか。あの人たちはあの人たちで、僕たちは僕たちだよね」
「そういうこと。まったく、トミーが繋ぎたいのか繋ぎたくないのか、それをはっきり言ってよね」
「うん。ごめん」
 僕は苦笑いをして、自分のインスピレーションの鈍さを心の中で戒める。なんというか、僕は、つくづく気が利かない男 だ。成羽を始め、対話をする相手がほのめかそうとしていることに、素早く気付くことができない。相手の気持ちをそのま ま読み取ることが苦手なのだ。きっと自分の言葉を棚に上げて、相手の反応を意識しすぎるせいなんだと思う。一度、相手 の気持ちを読むにはどうすればいいんだろうと母さんに相談したときに、そう指摘された覚えがある。
 言葉というのは、たとえひとつの単語でも、二者の間に異なる解釈を与えてしまうことがある。それゆえ、言葉選びは真 剣に行わなければならない。いつぞやテレビの教育番組で見た専門家の意見を、僕は思い起こした。
「僕と、手を繋いでもらえるかな?」
 映画俳優気取りでちょっと洒落た物言いをしてみた僕に、
「もちろんですわ」
 成羽も、普段はしないようなおしとやかな言葉遣いと声色をして、差し延べた僕の手を優しく取るのだった。
「あははっ、なんか変」
「トミーだってそのセリフ似合ってなすぎ!」
 映画のワンシーンに肉薄したような雰囲気が、ふたりの笑い声でがらがらと音を立てて崩れる。その感覚は、途中まで寸 分のズレもなく綺麗に積み上げた積木の城を、集中力切れに襲われるまま、上からチョップを入れた崩してしまうときの感 覚にも似ている。
「ね、トミー」
「うん?」
「あたしたちがこうやって手を繋ぐのって、初めてじゃないよね」
「……うん」
 成羽の言葉が、僕の古い記憶を掘り起こしていく。ふたりがまだ幼稚園に通っていたころ、こうやって、繋いだ手を元気 よく前後に振り動かしていたっけ。
 手を繋ぎ合うほかの子供たちを、指をくわえて眺めていた僕。端から、誰とも手を繋ぐつもりのなかった成羽。そんな仲 間はずれどうしのふたりが出会って、手を繋ぎ始めた日。成羽にとっても、僕にとっても、幼稚園に通うのが楽しみになっ た日。僕はあのとき、成羽と手を繋ぐことができて、本当に良かったと思った。初めて、掛け替えのない友達ができたのだ から。
「あのときさ……トミーのこと見て、この子はあたしが手を繋がなかったら、ほかに誰と手を繋ぐんだろうって……本気で 思った」
 穏やかに微笑みながら、成羽は言った。
「うん」
「じっと楽しそうに手を繋いで遊んでるみんなのことを遠くから見てて……でも、自分から輪に入っていこうとしなくて。 なんだか、心配で心配で、ほっとけなくなっちゃって」
「……うん」
「それでね、あたしも、あのとき初めて、友達を作るために手を繋ごうって思ったの。女の子は女の子であたしのこと敬遠 するし、男の子は馬鹿にしたり相手にしなかったりするし……トミー以外、友達にしたいような子なんていなかった」
「……」
「でも、トミーは違う。ほかのどの子よりも、友達にしたいって思った」
「わっぴー……」
「えへへ。なんか、縁って不思議だよね」
「そうだね」
 お互い、初めは友達の輪に入れなかった者どうし。もしかすると、前世でふたりは、手を繋ぐ前に分かたれてしまってい たのかもしれない。だから、生まれ変わった僕たちが、袖振り合う仲になったのかもしれない。縁というのは、一見偶然の 産物のようで、突き詰めて考えると、僕たちが生まれる遥か昔に原因があったんじゃないかとさえ思えるほど、不思議なも のだ。
 僕は、繋いだ成羽の華奢な手のぬくもりを、今ひとたび感じ取る。このぬくもりの中に、今さっき彼女が手を繋ぐことを 了承したときの気持ちと、ふたりが幼稚園に通っていたときの純粋な思いやり――それに、前世のふたりの想いが込められ ているとしたら。僕は、しっかりとこの手を繋ぎ止めなければならない。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
「うん」
 幼稚園のころみたいに、だけどあのころよりもちょっと内端に繋いだ手を振り動かしながら、僕たちは人込みの中を歩き 出した。

 

 百日前の商店街は、大勢の人が歩いているせいか、左側通行になっている。みんながとても悠長に歩いていて、ひとつの 店の前を通るのにも十秒以上かかってしまうぐらいだ。全長二キロもあるらしいこの商店街をこのペースで歩いたら、いっ たいどれくらいの時間がかかってしまうのだろう。僕たちが歩ききるかどうかは別として、歩ききる人は、さぞ大変だろう な、と思う。
 少し歩いて、僕たちふたりは、入口が開閉扉になっていない、オープンなアミューズメントショップに入った。大きな音 の渦に巻き込まれ、鼓膜が圧迫される。少し俗っぽい言い方をすれば、ゲーセンだ。僕はべつにこういうところは嫌いじゃ ないけど、滅多に来ない。ゲームにはあまり興味がないから、家にも巷で流行しているようなゲーム機もないし、遠出して ゲームをするのは尚更億劫に感じる。だけど、ひとたびこういったところに足を踏み入れると、僕は人格が変わる。周りの ゲーマーたちに感化されて、燃えてくるのだ。
 僕たちが最初に選んだのは、いわゆる格闘ゲームというやつ。せっかくふたり居るんだから、なにか対戦モノがやりたい という成羽の要望で決まった。
 バッグを肩にかけたまま、筺体の前の椅子に腰を降ろす。成羽も、向かい側の席に着いた。
 ゲームタイトルは聞いたことがないけど、格闘ゲームの操作なんてどれも似たようなものだ。ちらっとだけ操作説明に目 を通すと、僕はジーンズのポケットから財布を取り出して、百円硬貨を筺体に投入した。成羽のほうが先にコインを入れて いたのだろう、ゲームは間もなく始まった。
 すばしっこそうな、猫の耳と尻尾を生やしたキャラをセレクトする。対して成羽が選んだキャラは、なんともメルヘンチ ックなコスチュームを身に纏っている。これで果たして動きがとれるのだろうか。まあ、ゲームの中だから、さほど衣装は 影響しないだろうけど……。
 ――ラウンドワン、ファイト!
 舞台は幻想的な、しかし飛び交う蝙蝠と紫色の空がおどろおどろしいお城。バックグラウンドミュージックにピアノが流 れ、ギターのピックスクラッチの音が鳴ったところで、僕と成羽の選んだキャラが動き出した。
 初っ端から飛びかかってくる成羽。攻撃の仕掛けかたが、いかにも成羽らしい。それに対して僕は一歩引き気味で、防御 を固めながら慎重に策を練る。
 成羽のキャラから、引っ切りなしに飛び道具の波動が繰り出される。やばい、なんとか隙を見つけて攻撃に転じなければ 。このままでは、守りを固めたまま、一度も反撃ができずに負かされてしまう。どうやって成羽のハメ技から逃れるべきか と考えている間にも、こちらの体力ゲージはじわじわと減っていく。成羽のほうは、まだ満タンだ。
 こちらの体力ゲージが半分近くまで減ったそのときだった。成羽は、手元が狂ったせいか、一瞬だけ動きを止めた。その 隙にジャンプで成羽の背後に回り込んで、足払いを食らわせる。情けなくも、成羽のキャラは悲鳴をあげて転倒した。
 しめた、形勢逆転のチャンスだ。僕は、むくっと立ち上がった成羽のキャラに、また足払いを食らわせる。再び、同じ声 を出して彼女は倒れた。また起き上がってくると、空かさず足払いを入れた。地面にびたーんと倒れる成羽のキャラ。にや にやしながら、四回目に足払いを入れようとすると、
「ちょっとトミー、それ卑怯なんじゃない!?」
 と、筺体の向こうで実際の成羽が唸るのが聞こえた。
「わっぴーだって、最初ハメてきたじゃん!」
 僕は声高に言い返しながら、成羽が怯んだその隙に、大技を繰り出した。
 ガードが間に合わず、成羽のキャラは僕の大技の餌食となった。筺体の画面が閃光で明るく光り、どどーん、という効果 音のあとに、成羽の体力ゲージが残り僅かなところまで減少した。
「もらいっ!」
 最後に蹴り技をお見舞いして、僕は一本目を勝ち取った。筺体のスピーカーから、ユー・ウォン、というボイスが高らか に響く。
「……なによ、めちゃくちゃ強いじゃん」
 筺体の横から顔だけひょっこりと覗かせた成羽が、冷めた顔で僕に文句をつける。
「いや、まぐれまぐれ」
 僕はそんなことを言って、成羽に自信を取り戻させようとする。だけど、これも口先だけの言葉。最初に成羽が僕のキャ ラを画面の端っこまで追いやって飛び道具を連発してきたとき、僕は勝算ありだな、と思った。とにかく相手に攻撃の暇を 与えさせないような攻めかたをしてくる人に限って、自分自身のガードはお留守だ。だから、隙さえ見つかれば、大逆転が 狙える。その意味では、成羽が操作をミスしてくれたのは、僕の狙いともいえ、もっけの幸いだともいえた。
「次は負けないんだから!」
 筺体の向こうで、成羽が意気込んだ。僕は、せいぜいその意気が空振りにならないよう頑張ってくださいよ、と心の中で彼女 を挑発する。
 ――ラウンドツー、ファイト!
 体力ゲージがフルに回復した両者が、再び向かい合う。僕は、さっきのように、成羽からの攻撃が来るのを待ち構えた。 が、彼女は飛び道具はおろか、パンチや蹴り技ひとつ繰り出してこない。僕のやり方を真似るつもりだろうか。それならば 、こっちにも別の策がある。
 僕は、キャラを登場した右側の端まで動かす。開始から十五秒、ここまで両者ともから攻撃が出されていないので、両者 とも体力ゲージが満タンだ。
 こちらの出方を窺う成羽に向かって、まずは飛び道具の波動を繰り出す。僕の思惑どおりに、ジャンプして飛び道具を躱 した成羽のキャラの着地を狙って……スライディングキック! 「いやあ」と間抜けな声を出しながら、成羽のキャラは地 面に倒れた。
 むくっと起き上がったところを足払い……だとローガードされそうだから、ハイキック。ガードに失敗し、成羽の体力ゲ ージが着実に減っていく。続く攻撃を背後から行うべく、ジャンプで成羽のキャラを飛び越える。方向転換の操作不能タイ ムを利用して、僕はまた、大技をクリーンヒットさせた。さっきよりもちょっと太いゲージが残る。レッドゾーンだ。
 このまま一気にとどめをさしてしまえ――と思った矢先。成羽は、近づいてきた僕のキャラに水際の反撃を繰り出した。 ハイキックが命中し、パーフェクト勝ちかと思われた僕の体力ゲージが減った。成羽、許すまじ!
 僕は、本気で成羽のキャラに襲いかかった。しかし、どういうわけか、その動きは彼女に読まれていたらしく――ローキ ックでの転倒から起き上がった隙をつかれ、大技を喫してしまった。
 僕のキャラが降参の声をあげ、画面の動きがスローモーションになる。あれだけ十分にあった僕の体力ゲージが、ぐいー んと減っていき、すっからかんになった。
「うっそ!?」
「やりぃっ!」
 筺体の向こう側から、成羽が快哉を叫ぶ。一対一で、勝負は第三戦に縺れ込んだ。
 ――ラウンドスリー、ファイト!
 二連勝で軽く決着をつけてやろうと思っていた僕は、成羽の意外な強さというか、時の運というか、彼女に味方した勝利の 女神に、少しだけ臆した。
 三戦めは、僕のほうから肉弾戦を仕掛けてみる。こうなりゃ男の意地だ。意地を張って女に勝とうとする男なんて格好 悪いということは、百も承知。今は、そんなことより、得意分野を成羽に譲れない気持ちのほうが強い。なんたってこの 僕は、一時期ゲーマーのアマちゃんのもとで武者修業していたのだから。
 一戦めや二戦めの戦略的なバトルとは違い、打撃のサウンドが鳴り続ける真剣勝負。双方の体力ゲージは少しずつ減り、 先に摩滅してしまったのは――
「おっしゃ、勝った!」
「ああん、もうちょっとだったのにい!」
 勝負あり。三戦中二勝一敗で、僕の勝ちだ。
 対戦結果を告げる画面が現れる。勝ち負けのほかにも、戦いかたの評価なんかが表示された。五角形のグラフで、平均よ りも上回っているのが積極性と守備姿勢、逆に下回っているのが礼儀らしい。学校の成績で同じようなグラフを見せられて も困るのに、これだとなぜか妙に納得がいくのだった。

 

 格闘ゲームのあと、僕たちふたりはエアホッケーと、三次元カメラでプレイの評価が行われる『タンツ・マイスター』と いうダンスゲームで腕を競った。
 最初の格闘ゲームを含めた通算戦績は、一勝二敗。つまり、体力系のエアホッケーとダンスゲームでは、成羽に勝ちを譲 ってしまったのだ。特に、ダンスのほうは、勝手がわからなかった。「躍ってるうちにわかってくるよ」と成羽に説明され るままにプレイするも、まるで体が演奏される曲についていかず。中盤からは、もうどうにでもなれ、と捨て鉢に体を動か したので、僕の得点は千点満点中百八点と惨憺たるものだった。対する成羽の得点は七百七十六点。僕とは雲泥の差だ。そ ういえば、僕が思考回路をオーバーヒートさせながら必死で手足を動かしている隣で、成羽は、笑顔までばっちり決めて軽 快に踊っていた。どうやら、昔取った杵柄が助けているらしかった。彼女は、幼稚園のときクラシックバレエを習っていた のだ。
 そんなこんなでアミューズメントショップを抜けると、時刻は十一時半ちょっと前になっていた。
「んーっ。体動かしたらなんかお腹減ってきちゃった」
 成羽が伸びをしながら言う。さすがにこの人込みのなかでは天に向かって腕を伸ばせないから、肩を下に、首を上に引っ 張ることで彼女は伸びを実現した。
「まだお昼までもうちょっとあるけど」
「けど、なに?」
「あ、いや。はい、なんか食べましょう」
「そうこなくっちゃ」
 またしても、僕は成羽に誘導されてしまった。どうして、もうちょっとあとにしよう、とか言えないんだろう。考えるま でもない。そうする目的がないからだ。
 僕は、商店街の両側にある飲食店らしい店の看板を探す。うどん屋さんにピザ屋さん、回転寿司にアイスクリーム専門店 。なんでも揃っている。でも、やはりそれだけに、どれかひとつを選ぶのが難しい。今無性に食べたいものでもあれば、直 感で決まるんだろうけど……生憎、僕にはそういったこだわりがない。
「ボスバーガーでも食べよっか」
 やっぱり、知らない店の暖簾を潜るくらいなら、馴染みのファーストフードがいい。そう思った僕に、成羽は、
「うーん……あたしは、せっかく街に出てきたんだし、ここでしか食べられないもののほうがいいな」
 と意見した。
 確かに、この機会に、地元では味わえないものにありつくのもいいかもしれない。ファーストフードなんかは、近くの店 に行けばいつでも食べられるし。
 でも、ここでしか食べられないものというと、僕たち学生にとっては、ほとんどのものが高嶺の花なんじゃないだろうか 。腕利き料理人の暖簾を潜れば、待っているのは高いお愛想。それ以前に、僕たちのような学生がそういった飲食店に入るこ と自体が、よく考えてみれば奇怪だ。
 しばらく、ふたりがかりで、美味しそうでリーズナブルな店を探索した。ややあって、
「ね、トミー」
「ん?」
「ほら、あそこ。これチャンでチャンピオンになった店だって」
「あ、ほんとだ」
 成羽が指差した方向に、僕は一軒のラーメン屋さんを発見する。名前は、“かかってこいや”。その前についてい る“Gutsy”という英単語も、店名の一部なのだろうか。だとしたら、風変わりな名前の店だ。力強い筆字で店名が書かれ た木製の看板の脇に、成羽の読み上げた商売文句が書かれた垂れ幕が下がっている。
 “これチャン”というのは、民放で放映されている“これぞチャンピオンの技!”というテレビ番組のことだ。毎週決まっ たテーマに添って、全国から集まった六、七人のプロたちが技を競い合う。最後に勝ち抜いた挑戦者が、チャンピオンとし て表彰されるのだ。要するに、この番組でチャンピオンとして認められたということは、ほぼ日本一の腕前と見ても差し支 えないということ。そんな大層な店が、僕たちの住む街の繁華街にあったとは。僕は、ちょっとした感動を覚えた。
「っていうか、結局ラーメンじゃん」
「それ以外に、なんかある?」
 懲りずに僕を説き伏せようとする成羽。彼女に対抗するべく、僕はそれ以外の飲食店を見回した。すると、ラーメンより も成羽に似合いそうなものが、時宜良く目に留まった。
「あれなんかは?」
 僕は、看板に“chant clair”とアルファベットで書かれた店を指差した。ショーウィンドウには、ショートケーキやプ リン、パフェにフルーツアイスなどなど、見るだけでも喉が鳴りそうなスイーツのオブジェが並んでいる。洋菓子専門のカ フェだ。店名は、アルファベットの左上に片仮名でちょこんと書かれているとおり、“シャンクレール”と読むらしい。
「ちゃんとくれあ?」
「……ぶっ」
 成羽の音読を聞いたとたん、僕は可笑しさのあまり噴き出してしまった。
「こら、なに笑ってんのよ」
「いや、ほら。上にちゃんと書いてるでしょ?」
「……あ、ほんとだ。でも、そう読めなくもないと思うけど」
「英語じゃないからだよ、きっと」
 僕は苦笑しながら言った。やっぱり、お菓子職人はフランスに渡って修業を積んでくるというぐらいだから、フランスあ たりの言葉だろう、と思う。意味まではさっぱりわからないけど。
「どう? ケーキとか」
 なんとなく甘いものが食べたい気がしてきたので、僕はそう提案したけれど、
「遠慮しとく」
 成羽は、素気なくその提案を断った。
「なんで……?」
「だって、ケーキは太りそうなんだもん」
 口をとんがらせながら、ラーメン屋さんのほうに舵を取る成羽。だめだ、また彼女の強引さに負けてしまった。
 というより、ケーキもラーメンも、食べればそのぶんだけ太ってしまうという点では、どっちも同じでは……と、成羽に 問いかけるだけの勇気は、彼女の背中についていく時点ですでに失われていた。

 

「ね、わっぴー」
「うん?」
「ちょっと電話したいところがあるんだけど、いいかな?」
「ん、どうぞ」
 家で作るインスタントラーメンとは一味違ったラーメンを胃に納めたあと、僕は成羽を連れて、一旦細い一方通行の路地 に入り込むことで、人込みを脱した。
 そこで、僕は成羽に許可をもらって、携帯電話を取り出した。外出前に、久宝さんの家の電話番号をメモリーに記憶させ てきた。もう正午を一時間も過ぎているし、両親も、午前中買い物かどこかに行っていただけなら、そろそろ帰ってきてい る頃だろう。“VIP”の項から、“久宝さん”と書かれた番号を選んで、発信ボタンを押す。信号音が五回鳴り、呼び出し 音が鳴り始めた。一回、二回、三回……。出るか。五回、六回……。出そうにない。八回、九回、十回。まだ帰ってきてい ないのだろうか。
 一度呼び出しを中止して、再度同じ番号に発信する。信号音のあと、呼び出しが一回、二回、三回……六回、七回、八 回……。だめだ、やっぱり留守らしい。僕は残念な気持ちに動かされるように、呼び出しをストップした。
「出ないの?」
 成羽が尋ねる。
「うん」
 僕は頷いた。
「どこに電話してたの?」
「それは……えーと」
「佳耶ちゃんの携帯?」
「あっ、うーんと……」
 成羽の出した答えは不正解ではあるものの、僕がやろうとしていることを考えればあながち間違ってもいない。
「近いけどね」
 僕は、遠回しにそう答えた。
「ふうん」
 珍しく、成羽は本当のことを暴こうとしなかった。薄々ながら感づいたのだろうか。それとも、純粋に気にしないでおこ うと思ったのだろうか。考えが顔に表れていない以上、僕には成羽の気持ちを推し量ることができない。
「それよりさ、トミーの待ち受け、なんか味気ないよね」
 成羽は、開けっ放しの僕の携帯電話を覗き込むなり、いちゃもんをひとつつけてきた。
「これのこと?」
 画面に映っている猿のキャラクターを見て、僕は言った。
「うん。最初から入ってるやつでしょ、それ」
「そうだけど」
「なんか自分で撮った写真とか、そんなん貼っときなよ」
 言われて、僕は思った。そういえば、携帯についているカメラでなにかを撮影した経験がほとんどなかった。買ったとき 、どんなものかと手近にあった本や、中猪公園の北にある神社の桜を撮ったぐらいだ。
「自分で撮った写真か……。といっても、待ち受けにしたいほどのものがないとね……」
 僕は、苦笑しながら言った。カメラが趣味の父さんは、家族の顔から街の風景まで、どんなものでも被写体にしてしまう けど、僕は父さんのようにはいかない。端的に言えば、「これ撮りたい!」と思うようなものに巡り逢えないのだ。
「こういうのとかどう?」
 成羽も、自分の携帯電話を取り出して開いた。赤いボディにいくつかシールが貼られた、女の子らしい携帯だ。何度か ボタン操作をしたあと、彼女は映し出された画面を僕に見せた。
「あ、これわっぴーのとこの犬?」
 映っていたのは、鼻が異様に強調された黒いラブラドール・レトリバー。思いっきりカメラ目線になっているところから すると、大のカメラ好きらしい。
「うん。はなまる」
「はなまるっていう名前?」
「そだよ。うち花屋じゃん?」
「あ、そっか」
「それで、あたしが名前つけてあげたんだ。もう九歳になるから、おばさんもいいところだけどね」
「あははっ。そうだね」
 成羽はまた携帯を自分の顔の前に引っ込める。ほかにも、見せたい写真があるらしい。僕が期待を寄せていると、また成 羽は携帯の画面を僕に見せてきた。今度は、赤白黄色、カラフルな花の写真だ。
「これ、うちの商品」
「綺麗だね」
「あげよっか?」
「うーん。欲しいけど、メールで送るのって確か高くつくんじゃ」
「あぁ、そっか……」
 高くつく、という言葉を聞いて、成羽は携帯を操作する手を俄かに止めた。学校で世間話をしたときに聞いたことだけ ど、成羽の家の暮らし向きは、あまり良くないらしい。だから、無駄遣いを削ることだけは欠かせないのだと、彼女は言っ ていた。
「赤外線とかで送れないかな?」
 成羽はそう提案して、再び自分の胸元でボタン操作を始める。
「赤外線?」
「ほら、この上のところに黒いのあるでしょ?」
 僕の携帯のふた●●の部分を指して、成羽が言う。その部分を注意 深く見てみると、確かに黒いものがあった。
「あ、こんなところに……」
「そこで通信するの。うまくいけば、パケ代かかんないよ」
「ふうん。でも、違う会社の携帯どうしだったら、できないんじゃない?」
「それはやってみないとわからないでしょ」
 確かにそうだ。もしかしたら、僕の想像しないところまで、昨今の通信技術は進歩しているかもしれない。
 成羽に指示されたとおりに、僕はメニューを辿って“赤外線受信”という機能を使ってみた。画面に、受信待機中です、 というメッセージとビジュアルが表示される。
「ちょっと待ってね」
「うん」
 ボタン操作をする手が縺れたらしく、成羽はいささか慌てた様子でボタンを押す。ややあって、成羽は、
「おっけー。トミーの携帯ちょっとこっちに近づけてきて」
 と僕に指示した。
「こう?」
 成羽の携帯と向かい合わせる。なんか、向き合っているのが僕たち自身のように思えてきて、うら恥ずかしい。
「うん。じゃあ送信してみるね」
 成羽はそう言って、ボタンを一回押した。
 僕の携帯の画面のメッセージが変わった。「受信中」と表示されている。どうやら、僕の心配は無用だったようだ。
 またしばらくすると、メッセージが切り替わった。「受信完了。イメージを保存しますか?」。はい、に合わせて決定ボ タンを押す。最後に、「イメージを保存しました」というメッセージが表示された。
「来たみたいだよ」
 僕が言うと、
「あたしもできるとは思わなかった。どれ、来たやつ見せて」
 成羽も、嬉しそうな顔で僕の携帯の画面を覗きにきた。
 写真が保存されたらしいフォルダを開くと、確かに、先頭の画像が入れ替わっていた。だけど、なにかおかしい。サムネ ールが真っ黒だ。写真を表示させるべく、僕はその上で決定ボタンを押した。……それでもやはり、画面は真っ黒だった。
「あれ? なにも映ってないや」
「これ違うんじゃない?」
「ううん、『0503』って書いてたから、これでいいと思うけど」
 やはり、キャリアの違いのせいだろうか。今度は試しに、僕が成羽に教えてもらいながら彼女と同じ操作をして、桜の写 真を彼女の携帯に送信してみた。しかし、結果は同じ。成羽の画像フォルダに新規に追加された、桜が写っているはずの写 真は、いわゆるノイズがかかった状態になっていた。
「だめみたいだね」
「うん」
「ま、今度カードに入れて持ってきたげる」
 成羽は、奥の手とも言える方法を提案した。携帯のメモリーに入っているデータを移すカードなら、僕のと成羽のとで共 通なのだ。
「ありがとう。楽しみにしとくよ」
 僕は、わざわざそこまでしてくれる成羽の厚意が嬉しくて、心から彼女にお礼を言った。

 

 最近できたらしい、井丸という名前のショッピングビル。ここで、僕たちはキャラクターグッズだとか、インテリアの小 物だとか、アクセサリーだとか古着だとかを見て回った。
 成羽は古着に興味があるらしい。聞くと、今着ている上着とショートパンツ、それにベルトも中古で買ったものなのだそ うだ。それぞれの値段を聞いても、どうして今まで僕は新品を買っていたのだろうかと思ってしまうほど安い。駄目押しで、 安さと可愛さだったらどっちを取るかと尋ねてみたら、そりゃもちろん安さでしょ、という答えが返ってきた。でも、彼女 はそれなりに可愛さでも商品を選んでいるらしい。いわば、二兎を追って、二兎とも仕留めてしまうのだ。
 実際、成羽の着ている服は、彼女にとても似合っていると思う。僕にも似合うものがあるのかと思って探してみたけど、 フロアの半分を占める広さの店内から、お気に入りを探し出すのは至難の技だ。そんな僕に、成羽は、柄物の半袖Tシャツ を何着か持ってきてくれた。鏡の前でそれらを胸の前で広げてみると、確かに違和感がない。似合うというのは、自分以外 のひとにだけわかる特別な感覚なんだと、僕は思う。
 一枚二百五十円という安さだったので、僕は、そのうち特に気に入った二着を選んでレジに持って行き、精算をした。次 に並んだ成羽も、全部で六着、二千八百円相当の買い物をした。
 古着屋をあとにして少しのち、
「ごめんわっぴー、ちょっとこれ持っててもらえないかな?」
 僕は、トイレの前に差し掛かったときに、ついでに用を足しておこうと思った。
「りょーかいっ」
 成羽は、僕のバッグと、古着屋で買ったシャツが入ったビニール袋を快く預かってくれた。
 彼女を待たせないよう、速やかに用を足そうと、僕は急ぐ。トイレの中は、最近できたビルというだけあって、まるで休 憩室のように綺麗だ。
 用を足し、適当に切り上げる。手だけは石鹸をつけて清潔に洗い流し、風圧タオルでさくっと手を乾かす。
 短気な成羽のことだ。トイレとはいえ、あまり長く待たせるとなにを言われるかわかったもんじゃない。
 僕は、直ちにトイレを出た。
 そのとき――ふと視界に飛び込んできた光景が、僕の肝っ玉をひやりとさせた。
 成羽を挟み込むように、背の高い男の人が二人立っている。年は、僕たちよりも五、六歳上に見える。色黒で、片方は茶 髪、もう片方は金髪。サングラスをかけて、派手なアロハシャツを着ている。間違いない、成羽をナンパしようとしている 人たちだ。
 今ここに成羽を守れるのは僕しかいない。僕が、成羽を助けなきゃ!
 足早に狭い通路を脱出し、
「わっぴー!」
 と声をかけるのと、
 ――ゲシッ。
「うがっ!」
 成羽のキックが金髪の男の人の脇腹に命中するのが、ほぼ同時だった。
「あ、もう出てきたの? おかえり」
 くるりとこちらを振り向いて、まるで何事もなかったかのように、涼しい顔をする成羽。対する僕は、彼女のそぶりと、 床にうずくまり本気で悶絶している男の人を見比べて、開いた口が地面につきそうになった。
 ちっ、と舌打ちしただけで、二人組のナンパ青年は、すごすごと退散した。
「ナイスキックだったね」
 どうコメントしていいかわからず、僕は、いちばん最初に思いついたことを、そのまま言葉にした。
「あれでも甘かった気がするけどね。はい」
 成羽から渡された荷物を、僕は、間延びした顔を引っ提げたまま受け取る。
 思い出した。確か、弱冠五歳の成羽は、クラシックバレエだけじゃなくて、なにか体術も習っていたはずだ。柔道だっ たか、空手だったか。はたまた、テコンドーだったか。今の華麗な一撃を見て、僕は、アミューズメントショップでの格闘 ゲームはやっぱりゲームの中の出来事なんだな、と思った。
「あのチンピラ、あたしが二人ぶんの荷物持ってるにもかかわらず声かけてくるんだもん。まったく、どういう神経してん のか知りたいよ」
 やれやれという顔で、成羽は長大息をついた。
「それだけ、魅力あるってことじゃない?」
「まぁたそんなお世辞を言って。べつになにも出ないよ」
 成羽は、にやりと笑いながら言った。
 今なにも出なくたって、今日一日、僕は成羽にたくさんのものを出してもらった気がする。繋いだ手の温もりとか、格闘 ゲームで見せた意地とか、ラーメンの食いっぷりとか……古着の経済性とか。ひとつひとつのものに形がなくても、それぞ れが、僕になんらかの作用を与えている。それは、もしかしたら、青春という名前のノートに、思い出という名前のメモを 書き込むようなものなのかもしれない。

 

 井丸を出ると、なにやらバスターミナルの広場に人だかりができていた。
「あれ、なんだろ?」
「さあ。行ってみる?」
「うん」
 僕たちは、早速その雑踏に向かって歩き出した。なにか、お笑い芸人のショーでも催されるのだろうか。そういうテレビ はあまり観ないけど、路上ならまた感覚が違うかもしれない。
 バスターミナルの広場に着く。人垣はすでに十重二十重になっていて、前が見えない。端っこのほうまで移動すると、僅 かな空間から、マイクスタンドやアンプなどの機材が見えた。バンドの青空ライブだ。
「ライブだよね、これ」
 成羽にも同じようなものが見えたらしく、彼女もそう口にした。
「そうみたいだね」
 僕は頷く。これだけ人が集まっているということは、有名なバンドなのだろう。アップルレンジか、ミレオメロンか、 それともコスモグラフィティーか。そんな大物がこの街に来ているとしたら、是が非でも一度この目で見ておきたい。
 五分ほど待っていると、人垣の上から、バンドのメンバーと思しき人の顔がちらっとだけ見えた。女の人だ。赤いヘアバ ンドをしていて、佳耶みたいに、片方だけ髪を縛っている。彼女がボーカリストだろうか。群衆から、「おおおお!」とい う声や、ピューッという口笛の音、拍手の音があがる。会場は一気に盛り上がった。
「みなさんこんにちは! 今日は、あたしたち『レーゲンボーゲン』のミニライブに集まってくれて、ホントにありがとう ございます!」
 女の人が挨拶をすると、オーディエンスがまた「うおおお」と唸りを上げた。
 レーゲンボーゲン……確か、どこかの局のマイナーな音楽番組で聞いたことがある。ギターとドラムの女性ユニットで、 あとのパートはサポートメンバーで埋め合わせをしているというロックバンドだ。ベースのサポートには、しばしば高校時代の先輩を 招いているそう。バンド名について、「雨」の意味を示すレーゲンがドラム、「弓」の意味を示すボーゲンがギターだと、 本人たちは語っていた。「雨」と、そのあとに現れる「弓」の形をしたもの――「虹」だ。虹のように七色の光を出 すということが、このバンドの掲げる音楽性らしい。
「えっと。今からあたしたちのオリジナル曲を、できる限りの時間、みなさんに聴いてもらいたいなと思います。どうぞお 時間のある方はご一聴よろしくお願いします!」
 ぱちぱちぱち、と拍手が鳴り響く。
 確かあの元気の漲るトークは、ドラムの人だったと思う。そして、姿は見えないけど、ギターの女の人が、普段は割合大 人しそうな雰囲気で、演奏のときだけ人格が豹変する、という人だったはずだ。
 同じドラムの声で「ワン、ツー、ワンツースリーフォー」という合図が入ったあと、大音量のバンドサウンドが打ち寄せ た。
 ドラムを軸として、ベースとギターソロがそこに絡みつくような感じで、イントロが展開される。よく聴いてみると、ギ ターソロの音階は二段階になっている。どうやら、もうひとりギタリストがいるらしい。高いメロディーと低いメロディー は、少しのズレもなくきっちりとユニゾンしている。まるで、兄弟でギターをプレイしているかのごとく、息がぴったり だ。
 ドラムのブレイクにバトンタッチされたように、ボーカルが歌い始める。芯の太い、力強い歌声だ。さっき挨拶をしてい た女の人の声とは、ちょっと違う。ギタリストのほうの歌声だろうか。楽器経験のない僕に言わせてみれば、ギターを弾き ながら歌を唄うこと自体が尊敬に値する。
 メロの雰囲気が変わる。流れるようなシンコペーションが美しい。ボーカルの音程がぐっと高くなり、歌の山場が訪れ る。
 ――強く、歩みゆくため、気持ち飾る仮面脱ぎ捨てて。
 ――いつか、素直に笑うことができたなら、変われるはず。
 歌詞も、とてもひたむきな感じだ。きっとこのバンドは、結成されるまでに、幾多の困難を乗り越えてきたに違いない。
 実現したいと思う夢があった。それに向かって、心を躍らせていた。けれども、一度ならず試練は訪れた。抱えた夢を 放棄しなければならないと思ったこともあった。それでもやはり、夢はひとりで抱えているものじゃないんだって思うと、 諦めることはできなかった。だから、助け合いながら頑張った。そんな一連の場面を、僕は曲調や歌詞から想像する。
 ――強く、歩みゆくため、ひとりだけで悩むことはせず。
 ――守り、守られるひと味方にして、夢追いかけよう。
 最後のサビで、ギタリストとドラマーの歌声がユニゾンして、和声になった。そのまま、スネアドラムが連打され、曲は アウトロに入る。ギタリストとベーシスト、それにドラマーの演奏が完全に一体となったキメで、一曲目は終了した。
「ありがとうございます!!」
 ドラマーの高らかな声に、オーディエンスが沸き上がる。僕と成羽も、微力ながら手を打ち鳴らしてオーディエンスの アプローズに加わった。
「いい曲だね」
「うん」
 成羽の意見に、僕は頷く。
 曲を作るということは、単に詞を書いて、そこにメロディーを乗せるだけの行為じゃない。書かれる詞には、作詞する人 の経験や想いが少なからず入り込むし、メロディーだって、機械的に創られてはいないはずだ。どんな楽しいことを経験し て、どんな辛い場面に遭遇して、どんな幸せを勝ち取ったか――いろいろな“思い出”が、ひとつの曲を築き上げてゆく。 感情に任せて曲を書いたといわれる中世の音楽家も、今をひたむきに生きるミュージシャンも、曲の中に自分の気持ちを注 ぎ込むという意味では、同じことをやっているように思える。
 ある人は言う。音楽は、感性に基づいて創られるのではなく、人生経験に基づいて創られるのだと。本当にそうだとした ら、僕にも曲が書けるだろうか。ハンディキャップを背負った佳耶とともに歩んできた、楽しい日々や辛い日々を題材にし て――。
 あっという間に四曲目の演奏が終わり、バンドのメンバーがトークに入ろうとした、そのとき。
 ――ピピピピピーッ!!
 突如鳴り響くホイッスルの音。前のほうから、群衆がどよめき始める。その中の何人かが、「警察来たか?」「なんだ、ゲ リラだったのか」「どうせなら許可取ってやれば良かったのに」と口々に不穏な言葉を並べ立てる。会場の外に目をやると 、確かに、回転灯を赤く光らせたパトカーが二台ばかり確認できる。これは、中止になってしまうのだろうか……。 不安に見守る僕たちよりも先に、会場をあとにする人の姿があった。次第にお客さんの数は減っていき、ついには三分の一 ぐらいになってしまった。
 僕たちは、少し前に進み、ステージに近づいた。まだ残っているオーディエンス――きっと、熱心なファンなのだろ う――の間から、ステージの様子が見える。警察官相手に、髪を片側で縛ったドラムの女の人が深々と頭を下げてい る。
 僕は思った。無許可で公のスペースを占拠するのは確かに良くないかもしれないけど、それは、誰もが警察官が来たあとで考 えたことだ。そうと知らない間は、みんな、熱心に応援のアプローズを送ったり、体を揺らしながら演奏に聴き惚れていた はずだ。そう、オーディエンスたちは最初、『レーゲンボーゲン』の演奏に興味を示して寄り集まってきたのだ。それはつ まり、ステージの上の彼女たちが伝えようとしていることを、感じ取ろうとしたんじゃないだろうか。共感を求めて、みん なはここで彼女たちの曲に耳を傾けていたんじゃないだろうか。だったら、彼女たちが伝えたかったことを伝えきるまで、 ライブを止めてはいけないんじゃないかと思う。
 五分が経ち、さらにオーディエンスの数は減った。ざっと数えると、二十人ぐらいだろうか。ステージの上に居たメンバー の姿も漏らさず確認できる。ベースを肩から下げた男の人と、ギターを肩から提げた女の人と男の人が一人ずつ、全部で四 人だ。オーディエンスも、そして僕たちも、彼女たちのライブが再会されることを待ち望んでいた。
 やがて……押し問答の末、警察官は会場を去っていった。
「あっ、ぅええと、お待たせしてどうもすみませんっ!」
 すっかり疎らになってしまったオーディエンスに向かって、ドラマーの女の人は、がばっと上体を前に倒してお詫びを言っ た。さっきまでのようにマイクを通した声ではないので、聴いた感じにも控えめだ。
「実は、今回のライブは許可を取ってませんでした。でも、みんなでやろうとずっと前から計画を立ててて、今日やっと実 現したことなんです」
 ドラマーの女の人は、真剣そのものだ。彼女はきっと、この気持ちをずっと胸に携えて、今までバンドを引っ張っていたの だろう。
「だから、最後にもう一曲だけやってもいいって、警察の方から許可をいただきました!」
 彼女がそう声を張り上げると、オーディエンスはバンドのメンバーたちに盛大な拍手を送った。その盛り上がりように、ま た、通りすがりのひとたちが立ち止まってステージのほうを見たり、ちらほらと集まり出す。
 彼女の真摯な姿勢は、注意に来た警察官の心をも動かしたのだ。ただただ、この場所でライブが再開できて良かったなと、 僕は思う。
 間もなく、最後の曲の演奏が始まった。甘く切ないバラード。恋人たちの心の中を覗き見るような歌詞。さながらアンコー ルのような展開だけど、この曲のあとにアンコールを唱えようという気持ちは奇しくも起こらなかった。
 やがて演奏は終わり、僕たちと残ったオーディエンスは、バンドのメンバーからチラシを受け取った。『レーゲンボーゲ ン』。このバンドは、これからも僕が一目置く存在であり続けるに違いない。

 

「今日は楽しかったね」
 誰も座っていない座席の端に、並んで腰かけた僕と成羽。
 帰りの電車は、意外にもがらんどうだった。僕たちは三時十七分発の電車に乗ったけど、百日前を歩く人たちは、たぶん 日が沈む頃まであの場所に居て楽しい時間を過ごすのだろう。午後になってから街に繰り出して、晩御飯をどこかいい景色 の見えるレストランで食べるカップルたち。喉が嗄れるまでカラオケボックスで歌い続ける打ち上げ組。遊園地で日が暮れ るまで遊び倒す家族連れ。みんなそうやって、思い思いのゴールデンウィーク初日を過ごすんだ。
 僕たちふたりの時間も、とても楽しいものだった。街には、近所ではできないことがたくさんあって……そのひとつひと つの貴重な体験に、僕は充足感を覚えた。
 だけど、終始一貫、なにかが物足りなかった。その正体は、僕と成羽の間に、佳耶が居なかったことだ。事あるごとに、 僕は、佳耶が居たらもっと楽しいだろうなあ、と思った。アミューズメントショップでゲームをしたときも。達人のラーメ ンを食べたときも。古着選びをしたときも。レーゲンボーゲンのライブを観たときも。そばに佳耶が居たなら、二人が三人 になり、楽しさも五割増し――いや、何倍にも膨れただろうに、と思った。
「うん……」
 少し俯いた僕の物憂い顔。それを、掬い上げるように覗き込む、成羽の心配そうな顔。
「どうしたの? 元気なさそう」
 成羽の声色が暗くなる。どうやら、彼女は本気で僕のことを気にかけてくれているみたいだ。
「ううん。大丈夫」
 僕は、咄嗟に成羽の言葉を否定した。成羽に、無駄な心配をかけさせるわけにはいかない。佳耶のことについては、母さ んに聞いてもわからなかったし、彼女を連れ出した張本人である久宝さんの家とも連絡が取れなかった。代わりに持ち出し た写真で成羽も満足してくれたのだから、今更悔やんでも仕方ない。
 でも、佳耶を連れてくることができなかった以上、成羽と過ごした楽しさの中に、ある種の寂しさが同居していたのも事 実だ。表面では楽しい時間だと思うことができても、その実、心には小さな穴がぽっかりと開いたままで――そのせいで、 なにかひとつ思い出を作るたびに、不完全な形で僕の心に刻まれた気がした。
「そう? あたしには、また無理してるように見えるけど」
 一段と深い位置から、成羽は僕の顔を覗き込みながら言った。この位置まで顔が下がってくると、成羽はそ相当腰を曲げ ているだろう。僕は一旦重い頭を擡げて、背筋を伸ばした。成羽も、それに続いて居住まいを正す。ただ頭を悩ませていた だけなのに、僕の心にかかった重圧は、知らず知らずのうちにかなり深く僕の体を曲げていたらしい。
「無理はしてないけど……」
 僕は、成羽のほうに顔を向けず、向かい側の座席の下のほうに目線を落としたまま続けた。
「佳耶が居たら、もっと楽しかっただろうなあ、って思っただけだよ」
 僕がそう言うと、成羽はしばらく沈黙してから、僕の予想だにしなかった言葉を口にした。
「なにそれ。それじゃあさ、なんかあたしと今日一日行動してて全然楽しくなかった、みたいな言いかたじゃない?」
「えっ……?」
「結局、トミーは佳耶ちゃんと居たかっただけで、あたしのことは二の次だったんでしょ?」
「そ、そんなことないよ」
「嘘ばっかり。あのときあたしとのデートにしようって自分で言い出しときながら、頭では佳耶ちゃん連れて来れなかった 後悔、ずっと引きずってたんでしょ。違う?」
「違わないけど……あ、いや、その通りです」
「やっぱり……。あーあ、トミーのこと男らしいって早合点したあたしが馬鹿だったな」
 成羽は、乗車マナーそっちのけで両脚を前に突き出した。手を組んで、彼女は腕を前に伸ばす。顔は、妙に興ざめしてい た。
「でもさ……」
 脚を少し引っ込めて、伸ばした腕を膝の上に載せて、成羽は、僕のほうを見る。
「裏返したら、それだけトミーが佳耶ちゃんのこと、大事にしてるってことだよね」
 興ざめしたかと思えば、次の瞬間には、なにかを悟ったらしい顔をしている成羽。僕には一瞬、どうして成羽がそのよう に気持ちを変えてしまったのかがわからなかった。本当に、女の子の心というのは、ころころ変わる秋の天候みたいだと思 う。
「うん」
「羨ましいなあ、佳耶ちゃんは。……まあ、幼馴染みと実の妹じゃ、優先順位も知れてるけどね」
 成羽は、顔を天井に向けてそんなことを言った。
 じゃあなんだというのか。成羽は、実の妹のように僕に可愛がられたいとでも言っているつもりなのだろうか。いや、そ んなのは有り得ない。僕の中では、成羽はいくら古くからの友達であるといっても、他人同士。立場的には、久宝さんとあ まり変わらない。
 それに比べて、佳耶は家族だ。僕にとって、大切な妹。他人とは別個の人間として考えなければならない、特別な存在な のだ。
 だけど、今それを成羽の目の前で主張するのはさすがに憚られる。成羽は、曲がりなりにも、佳耶が居ても居なくても変 わらないと感じられるほどの楽しい時間を、僕と一緒に作ろうとしてくれていたのだ。ぽっかりと開いた僕の心の穴を、成 羽はなんども縫って塞ごうとしてくれていたのだ。そう考えると、成羽には、むしろ感謝したい気さえする。
(でも、やっぱり、佳耶さえここに居てくれたら……)
 佳耶を含めた三人ともが笑顔になることができていただろうな、と僕は思う。
「ねぇ、トミー。兄弟とか姉妹ってさ、どう考えたらいいのかな?」
 成羽は、唐突にそんな質問を僕に投げかけた。
 彼女の質問を、僕は意外に思った。僕が悩みを抱えたときはいつも、母のような指導力で僕にアドバイスを授けてくれる 成羽のことだ。こんな初歩的な質問が、彼女の口から出てきたとは思えない。
「ほら。兄弟とか家族って、自分とはいちばん近い関係のはずなのに、いちばん意識しない関係でもあるでしょ?」
「うん」
「だからね、あたし、ときどきわからなくなることがあるんだ。友達と兄弟って、どっちを大事にしなきゃいけないのかな 、って」
 元々は他人どうしだった友達と、生まれたときから血が繋がっている兄弟。僕自身にしてみれば、当然、後者がより大切 だ。
 でも、世間では、必ずしもそうだとは限らない。友達とは毎日のように付き合いをするけど、家に帰ってくると、兄弟や 家族とはほとんど言葉を交わさない人も、最近増えているらしい。ひどい場合になれば、知り合いと共謀して、血族である はずの兄弟や両親、ひいては子供までを殺す――そういう非常識な事件だって、ニュースで報道される機会が少なく ない。
 成羽にも、兄妹が居る。お兄さんがふたり。長男は家業の花屋を継ぐ優しい性格で、次男は有名大学を卒業したエリート サラリーマン。ふたりとも、成羽とは九歳以上年が離れているのだそうだ。けれども、三人は義兄妹なんかじゃない。年は 離れているものの、同じお母さんのお腹から産まれた、れっきとした実の兄妹だ。
 それゆえに、成羽は悩むのだろう。年が離れているぶんだけ、理解や感受性が離れている。そうなれば、当然、距離を意 識してしまう。おそらく、成羽にとって、距離がより近いのは、友達である僕のほうなんだと思う。だけど……。
「僕は……家族のほうが大事だと思う」
「えっ?」
 僕にはやはり、変えがたい。佳耶がいちばん大切で、真っ先に守ってやらなければいけない存在だという見解が。
「友達ってさ、考えかたが似てるようでも、本音の部分ではけっこう食い違うこともあると思うんだ」
「……うん」
「たとえば、河原に野球しに行こうって誘われたときとか。自分は家に帰ってから観たいテレビがあったとしても、仕方な いって思って、付き合っちゃうでしょ?」
「うん」
「その点、家族だったら、逆に今日の佳耶みたいなこともある。僕は約束を大事にしてたけど、佳耶は約束を忘れて違うと ころに遊びに行っちゃった。全然考えかたが違うみたいに思えるよね」
「………」
「でも、本音はおんなじだったと思うんだ。昨日の夜まで、佳耶は今日のことを楽しみにしてたから」
 僕は、心の中でそっと、どうにもならない佳耶の病気に触れる。あるとき突然記憶を失うという発作のせいで、たぶん、 佳耶は約束のことを忘れてしまった。でも、それまでは毎晩のように、僕と久宝さんと三人でこのことを話していた。そ う――佳耶は、義理なんかじゃなくて、心から今日のことを楽しみにしていたはずなのだ。
「だから、僕は佳耶が思うことを信じてる。佳耶が僕に願うことは、そのままあいつの本心なんだって。僕にできることだ ったら……いや、多少実現するのが難しいことだって、僕は叶えてやりたい。だって、それが佳耶の本当の願いだっ て……僕にはわかるから」
「トミー……」
 こちらに向けられた成羽の顔を、僕は敢えて見なかった。この目は、今、発作に奪い去られた佳耶の本当の願いに向けら れている。僕は、そう思いたい。
「……ちゃんと、お兄さんしてるんだね」
 成羽が優しく笑う。
 僕はその評価を聞いて、自信を得た。なんたって、僕は佳耶の兄なのだ。僕が正しいと思う方向へ、彼女を手取り足取り 導いてやらないといけない。親に任せっきりじゃいけないのだ。佳耶の兄として生まれたからには、その義務が僕にはあ る。なんとしても全うしたいと思う、誇らしいまでの義務だ。
「うん……」
 僕はしばらくぶりに、成羽のほうに、彼女と同じ種類の笑顔を向けた。
『間もなくー、中猪中原ー、中猪中原ー』
 電車のアナウンスが告げる。いつの間にか、僕たちの乗り込んだ駅まで帰ってきていたみたいだった。
「ね。今度学校以外で会うときは、絶対佳耶ちゃんの姿見せてね」
 破顔一笑、成羽は明るい声音で僕にそんな注文をつける。
「うん、努力はするよ」
「もー、そんなんじゃだめ。絶対僕は佳耶を連れてきますって、宣言してくれるぐらいじゃなくちゃ」
「それ、わっぴーのほうから言ってしまったら全然面白くないじゃん……」
「あはははっ。そっか」
 再び明るくなった僕たちふたり。ホームを前にスピードを落としていく電車。僕は、隣の成羽に向けて、大いに不確定 要素を含んだ約束をするのだった。
「次こそは絶対、わっぴーを本物の佳耶に会わせてみせるよ」

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