第4章 八色ヶ浦にて
Je souhaite qu'elles sourient à la mer, quand je leur en ai donné la parole.

【1】

 人には、どうして黙秘権というのがあるのだろう。
 この二日間、僕は今までになかったほど、真実を知ることができない悔しさを噛み締めた。そう――四日になっても、五 日になっても、佳耶は家に帰ってこなかったのだ。
 僕は真っ先に、佳耶の持病が悪化したことを疑った。だけど、それではどうしても辻褄が合わない。もしも僕が成羽と街 に繰り出した三日の朝、佳耶が病院に送り出されてしまっていたのなら、どうして母さんはあんなに悠然と居間で寛いでい たのだろうか。
 疑いの種はほかにもある。佳耶がなんらかの事故や事件に巻き込まれてしまったのではないかとか、久宝さんと別れたあ と、家に帰る道の記憶をなくしてしまったのではないかとか……。いずれにしても、父さんや母さんが慌ただしく動き回ろ うとしないのが腑に落ちない。久宝さんの家に泊まり込んでいるのなら、どうしてそうと言ってくれないんだろう。どうし て、父さんも母さんも、佳耶のことについて口を閉ざすのだろう。
 そんな不満がついに爆発して、僕は、五日の夜、両親と口喧嘩をした。いつまでも黙っている両親に勘忍袋の尾が切れて 、僕は食卓で怒鳴り声をあげた。なにか佳耶のことで僕に隠し事をしているんだろう。知られたら僕ががっかりするような ことを、言わずに黙ってるんだろう、と。すると父さんは、まるで疑惑をかけられた政治家のような仏頂面をして、そんな ことをお前に言う必要はない、と言った。僕の怒髪は天を突き、家族なのになんでだよ、そんなの理不尽だよ、と喚き散ら しながら、僕はまだ一口も手をつけていなかった晩御飯をそのままにして席を立ち、涙を浮かべながら、リビングダイニン グを飛び出した。去り際に、父さんも母さんも人でなしだ、という罵詈雑言を残して。
 その夜は、二度とリビングダイニングに向かうことはなかった。お風呂に入るように母さんに言われても、おやすみと声 をかけられても、僕は返事ひとつ返さなかった。机にも向かわず、ベッドの上で膝を抱えて、ずっと打ち沈んでいた。
 こんなにも、家族に冷たく遇われたことがあるだろうか。なんでも悩み事を聞いてくれたり、身の回りの世話をしてくれ たりした家族が、その夜だけは別人のように思えた。ほどなく夜が更け、体を横にしてみたけれど、一向に眠くならなかっ た。枕に顔を埋めて、僕との約束を無視した佳耶と、彼女が帰ってこない理由を打ち明けようとしない両親の、理解に苦し む行動を思い返しながら、僕は泣いた。涙と鼻水と涎で枕がぐっしょりするぐらい、泣いた。
 こんなに寂しい思いをしなきゃいけない理由が、いったいどこにあるっていうんだ。いったい、僕がなにをしたっていう んだ。なにかしたんなら、いったいそれはなんだっていうんだ。そんな答えのない質問を自分自身にのべつ幕無し浴びせて いるうちに、どうやら僕は考えあぐねて眠りについてしまっていたらしい。
 次の日の朝は、生憎の雨だった。いつもはこの窓からさんさんと注ぎ込むはずの日光が、今朝はない。同じように、僕を 元気な声で起こしてくれるはずの、佳耶の眩しい笑顔もない。
 階段を降りてリビングダイニングに入ると、昨日の夜とは打って変わった表情の両親に会った。僕の口からは、弱々しい ながらも、「おはよう」という言葉が出た。嵐が去ったあとの静けさとでもいうのだろうか。昨日の晩御飯の前、あんなに 怒り狂ったのが嘘のようだ。それは、自分がもう、佳耶が帰らない理由を追求することを、半ば諦めてしまっているせいな のだと思う。
 そんな僕の憂鬱に光が差すことになろうとは、テーブルに着き、テレビのニュースを観ながらトーストを噛るまでは、ま ったく思わなかった。
 ――キンコーン。キンコキンコーン。
 突然、インターホンが鳴る。こんな朝に、誰だろうか。近所のひとが、野菜でも持ってきてくれたのだろうか。それとも 、郵便の速達だろうか――というのは、てんで見当違いだったわけで。
「ただいま!」
 玄関のほうから聞こえてきた声を聞いて、僕は一瞬、我が耳を疑った。今聞こえたのは、紛れもない、佳耶の声だ。空耳 なんかじゃない。僕は荒々しく席を立ち、両親を出し抜いて玄関に急いだ。
 廊下に出た僕は、ところどころ服が濡れた佳耶が、傘を閉じるのを見た。その瞬間、僕は大声で佳耶の名前を呼んで、彼 女のもとに駆け寄る。
「佳耶っ!!」
「あっ、おにいちゃん、ただいまっ。今何時? まだ学校間に合うかな?」
 僕の心配を裏切るような、けろりとした態度。佳耶の言葉は、当然のように、僕の耳には入らなかった。
「馬鹿野郎っ!」
「……ふ、ふぇっ?」
「なにしてたんだよ、この休みの間。一度も連絡寄越さずに。心配したんだぞ!」
「あっ……う……」
 周章狼狽して、言葉を詰まらせる佳耶。
 親が言わないのなら、僕の口から言ってやる。どんなに僕が気を揉んだか。佳耶がいなかったせいで、どんなに辛い時間 を僕は過ごさなければいけなかったか。
「お兄さん、佳耶ちゃんを責めることは、どうかよしてあげてください」
 開いたドアの向こうから、久宝さんが姿を表す。彼女の手には、ふたつの紙袋が提げられている。もう片方の手には、一 本の傘があった。どうやらふたりは、三日の朝に外出してから、ずっと行動をともにしていたらしい。
「久宝さんっ」
「お兄さんには、謝らなければいけませんね。佳耶ちゃんを勝手に連れ出してしまって、本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げて、久宝さんは、僕にお詫びの言葉をかけた。
「あ……うん」
 僕は、佳耶本人ではなく、久宝さんの口からお詫びが飛び出したことに不意を衝かれて、一瞬間抜けな声で頷いた。確かに 、佳耶を連れ出したのは久宝さんだ。もしあのとき、佳耶は本当に発作で記憶をなくしていて、それに付け込んだ久宝さん が僕を出し抜こうと謀ったのなら、彼女に謝られても不思議ではない。だけど、佳耶が記憶をなくしたことがわかっていた として、久宝さんは自分の田圃に水を引くような真似をするだろうか。佳耶の冗談に一緒になって笑い合っていた彼女が、 佳耶の発作につけ込むことなんて、有り得るだろうか。
 今はただ、わざわざ僕を出し抜いて佳耶を連れ出しておくようなことをしておいて、それならば謝りますといった単純な 行動を起こしている久宝さんが、奇妙に思えて仕方がない。
 リビングダイニングを一旦出て、洗面所に行っていたらしい母さんが、バスタオルを二枚持って玄関まで小走りに駆け寄 ってきた。母さんは、未だ戸惑い続けている佳耶にタオルを渡し、久宝さんにも渡そうとしたが、彼女はそれを遠慮して受 け取らなかった。
 母さんがリビングダイニングに戻っていったあとで、僕は静かに口を開いた。
「その……久宝さんは、どうしてあの朝、佳耶を連れて家を出たの?」
 僕は、ショッピングの約束のことには触れないでおこうと思った。触れれば、完全にそれを忘れてしまっているらしい佳 耶の頭を痛くさせるだけだ。佳耶が発作で失ってしまった記憶は、なにがあっても、彼女自身に聞かせてはならない。パニ ック症状を起こして更なる記憶喪失を誘発してしまうだけでなく、最悪の場合、意識までなくしてしまうリスクがあるとい う医師の言いつけがあったのだから。
「これです」
 そうとだけ言って、久宝さんは、手に提げていた紙袋を僕に差し出した。
 彼女から、僕は紙袋を受け取る。中を覗いてみると、上品な包装紙で包まれた直方体の箱が、全部で六つ入っていた。
「これは……?」
「お土産です」
 久宝さんは、簡潔に説明した。
「お土産ということは……どこか遠いところまで旅行してたの?」
「はい」
 あっさりとした答え。一旦約束のことを頭から追い払った僕の中で、ひとつの疑問が新たに生じた。
「どうして、僕も誘ってくれなかったの……?」
 久宝さんにも、佳耶には僕が必要であり、僕には佳耶が必要であることはわかっているはずだ。それなのに、僕を差し置 いて、佳耶だけを同行させるなんて、どういうつもりだったのだろう。なにか、特別な理由があったに違いない。僕は、そ の理由さえ知ることができれば心のもやもやが晴れる気がした。
「それは……定員のせいです。チケットが四枚しかなかったから、私と佳耶ちゃんと、両親の四人で行ったんです」
「そうなんだ……」
 久宝さんの話からすると、仮に彼女が一人っ子だとすれば、彼女の家族旅行に佳耶が招待されたということになる。チケ ットも、ツアーを計画した旅行会社が新規に発行できない状態にあったのなら、納得できる。
「ごめんなさい、おにいちゃん……」
 母さんから渡されたタオルで濡れた服や脚を拭くこともせず、顔を俯けて突っ立っていた佳耶は、くぐもり声で僕に言っ た。
「わたし、おにいちゃんに心配かけてたんだよね……」
「佳耶……」
「ほんとうに、ごめんなさい」
 二度謝った佳耶は、表情を崩し、ずずっとしゃくり上げた。
(なにをやってるんだ、僕の馬鹿)
 嗚咽を漏らしながら真剣に謝る佳耶を見て、僕は心が痛んだ。そして、僕は、自分自身を責めた。佳耶がこんなにも 一途に謝ってくれているのに、僕は自分が感じた辛さを彼女に償わせることしか考えていないなんて……こんな馬鹿な ことがあるだろうか。
「僕のほうこそ、ごめん……要らない心配、しすぎだったよね……」
 僕は、持っていた紙袋を一度床に置くと、泣き出しそうな佳耶の手からバスタオルを取り、それで、彼女の服の濡れてい るところとか、目許に溜まった涙の粒とかを拭ってやった。
 佳耶は、感極まって、タオルごと僕の腕を掴んで鳴咽を漏らした。自分が兄に心配をかけているなんて、佳耶は思いも寄 らなかっただろう。だとすれば、それを咎めた僕も行き過ぎていた。誰よりも佳耶の発作のことを理解しているはずの僕に とって、あるまじき行為だ。ただひたすらに自分の過ちを詫びようとする殊勝な佳耶の頭に手を載せ、僕は彼 女のさらさらな髪の毛を優しく撫でた。
「お兄さん」
 ふと、久宝さんの声が僕の耳朶に触れる。
「あとで構いませんから、その紙袋の中に入ってる、ちょっと小さくて背の高い箱を開けてみてください」
「えっ……?」
「それだけは、ほかのお土産と全然性質が違うものなんです」
「それって……」
 僕は、佳耶の頭を撫で摩り続けながら、紙袋に目をやった。ほかのお土産とは、性質が違うもの。久宝さんの言おうとし ていることは、なんとなくわかる気がする。
「僕への、プレゼント?」
「ご名答です」
 にっこり笑って、久宝さんは答える。もしも、それが佳耶からのプレゼントだとしたら、僕は、なんと割に合わないこと を佳耶にしてしまったのだろう。今はただ、先入観とエゴだけで佳耶の非を咎めてしまった自分が、恨めしくて恨めしくて たまらない。
「そうか……。ありがとう、佳耶」
 僕は、なおもしゃくり続ける佳耶の耳元で、お礼を言った。これでも、彼女にとっては姑息な手段としか思えないだろう 。僕もそう思う。佳耶への感謝の気持ちは、のちほどもっと大きなプレゼントを以て、彼女に示したい。いつか、佳耶を感 動させるようなプレゼントがしたい。そのとき僕は、愛しい妹の真摯な気持ちを感じ取りながら、彼女に恩返しをすること を心に決めたのだった。

 

 佳耶の涙は、時雨のようだった。
 学校へ行く支度をするという久宝さんを見送り、リビングダイニングまで佳耶を連れていったあと、僕は、自分の部屋に プレゼントと思われる箱を持ち込んで、中身を確認した。可愛い犬のオブジェが音楽に合わせて動く、オルゴールだった。 これを選んだのが佳耶なのかどうか知りたくて、慌てて一階に戻ろうとすると、なんと、リビングダイニングでは佳耶が着 替え中だったのだ。僕を通すまいと、母さんは入り口に立ちはだかろうとしていたみたいだけど、ちょっと遅かった。数秒 後、「おにいちゃんのヘンタイ!」という悲鳴と、クッションとが同時に僕に飛んできた。母さん、なにもそんなところで 佳耶を着替えさせなくてもいいだろうに……。
 とはいえ、佳耶が帰ってきた時間が時間だけに、焦眉の急だった。やむを得ず、母さんはタオルを佳耶に渡したあと、す ぐに彼女の部屋に入って制服一式を持ち出したらしい。そして、リビングで着替えてしまいなさい、と佳耶に言ったのだそ うだ。
 佳耶のクッションアタックを喫したあと、僕は廊下で待機することを余儀なくされた。しばらく待つと、佳耶本人からお 姿拝見解禁の合図が出された。僕がリビングダイニングに入ると、そこには、ゴールデンウィーク前の笑顔とテンションを 取り戻した妹の姿があった。
 長旅から帰ってきたばかりなのに、学校に行って疲れないかと僕が尋ねると、佳耶は、全然大丈夫、と答えた。これこそ 、佳耶の底力だ。人並外れたスタミナの持ち主である佳耶には、僕のへぼっちいスタミナを以てしては到底敵わない。
 それでもやはり、佳耶が無理をしていると判断されたときは、少しでも、彼女を支えてあげたくなるのが僕の性だ。僕は 、いつものように家を出たあと、たまには佳耶に楽をしてもらおうと、あることを思いついた。
「乗ってくか? うしろ」
 自転車のサドルに跨がる前に、僕は佳耶に声をかける。
「えっ? いいよ、そんな気を遣ってくれなくても」
 佳耶は、両手を胸の前で振り動かしながら遠慮した。
「それに、雨の日に二人乗りなんて危ないよ」
「大丈夫、任せときなって。安全運転、約束するからさ」
「ほんとに……?」
「うん。距離もそこまでだし、たまにはいつもと違う気分で登校してみるのもいいと思うぞ」
「ほんとに、ほんとにほんとに大丈夫?」
 佳耶の不安げな表情がなかなか元に戻らないので、僕は大口をひとつ叩いてみることにした。
「万が一コケたら針千本飲むよ」
「それじゃなんか信用できなーい」
 しかし、佳耶の反応は良くなるどころか、さらに僕を疑うようなものになっていく。
 仕方ない、伝家の宝刀を使うか。僕は胸に手を当て、会釈の角度だけ上体を前に倒して、
「どうかうしろにお乗りくださいませ、佳耶様。わたくしめは、長旅でさぞお疲れのあなたに少しでも楽をしていただきた いのでございます」
 と、どこの誰だかわからないような仕種と口振りで、本心を披瀝した。
 すると、佳耶の顔から、少しだけ不安の色が引いたように思えた。
「おにいちゃん……」
「うん」
「それは、ちょっと大袈裟な気がする」
「あうちっ」
 僕は、確信犯だったともとれるジェスチャーを佳耶に見せた。すると彼女は、口元に手を当ててくすくすと笑い出す。だ いぶ、二人乗りに対する抵抗が薄れてきたらしい。
「わかった。わたし、おにいちゃんに甘えることにする」
「おし。そうこなくちゃ」
「でも、事故ったら針千本とかじゃなくって、わたし、おにいちゃんのこと本気で嫌いになっちゃうからね」
「うっ……」
 やはり、佳耶の示すペナルティーは、僕が自分で考えるファンタジックなものとは違って、現実的でなおかつ厳しい。最 初は軽い気持ちで佳耶を自転車のうしろに乗せてやろうと思っていたのが、いつの間にやら、諸刃の剣になっていた。
 それでも、一度決心したことに揺らぎはない。佳耶も、自分から乗りたいと言ってくれた。だから、ここはひとつ、二言 抜きで兄の意地を見せてやりたい。僕は、サドルに跨がると、佳耶に声をかけて、彼女が乗り込むのを待った。
「よいしょっと」
 後部座席(?)に跨がった佳耶は、僕の脇腹に腕を通して、お腹の前でがっしりと両手を合わせた。
「よっしゃ、行くぞ。しっかり捕まってろよ」
「うんっ」
 ペダルに体重をかけて、僕は自転車を漕ぎ出そうとする。が、
「うおっととっ」
「はわわわっ!」
 ――キキキーッ!
 出発早々、僕はバランスを失ってしまい、ブレーキをかけながら足を地面について自転車を停めた。ふたりぶんの重量、 数字に直せば百キロ近くになりそうな荷重を受けた自転車は、そんなに簡単には進んでくれないらしい。
「もう、おにいちゃん! 大丈夫って言っといていきなり危ないじゃない」
「あははっ、悪い悪い」
 僕が体勢を立て直そうとしているうしろで、佳耶は、「ほんとに大丈夫なのかなぁ……」と呟く。なあに、最初は感覚を 掴み損ねただけだ。どんな体勢がバランスを失わせるかがわかれば、それを避けさえすれば万事解決。自信を漲らせて、僕 はペダルに体重をかけ、自転車を再発進させた。
「佳耶、手!」
 僕の体に捕まる佳耶の腕の力が弱まっていた気がしたので、慌てて僕は声をかける。
「あっ、そだった!」
 佳耶もただちに気づいて、両腕にぐっと力を入れてきた。
 しばらく走って、T字交差点に差しかかる。いつものように突っ切るのは難しいだろう。安全確認用のミラーで車や自転 車が来ていないことを確認して、少しだけスピードを落とす。ほんの少しだけだ。落とし過ぎると、たぶんバランスが取れ なくなってしまう。勘を働かせて、僕はカーブを曲がり切った。直後、またうしろから「ふぅー……」という大きな溜め息 が聞こえた。
「なあ、佳耶」
「うん?」
「今年の夏さ、僕たちだけで海に行ってみない?」
「……えっ?」
 普段の五割増しのボリュームで会話をする僕と佳耶。ただでさえ風の音に遮られるのに、雨がアスファルトや家屋の屋 根、それに僕たちの傘に打ちつける音が邪魔で仕方がない。
 僕がこんな提案をしたのは、ついさっき、佳耶に“宿題”を与えられたからだ。
 帰ってくるなり“馬鹿野郎”と言われたことに、着替えを見られたことが相乗効果となって、彼女は出発前に「たまに はわたしのことを厚く持て成してください」と僕に告げたのだった。
「わたしと、おにいちゃんだけで?」
「ううん。もちろん、久宝さんも誘って」
 僕は思った。僕と成羽のふたりが百日前の繁華街で過ごしたとき、佳耶が一緒じゃなくてどこか寂しいと思った。それと 同じように、佳耶と久宝さんが旅行をしていたときも、あと何枚かチケットが手に入っていたらなあ、という後悔が彼女た ちには多かれ少なかれあったはずだ。
 だったら、定員なんて気にしなくてもいいところに、連れ立てるだけの人数を連れ立って遊びに行けばいい。誰かが欠け ていて寂しいと思うなら、欠けている人を互いに埋め合えばいい。そうすれば、なにもかもが楽しく感じられるだろう。
「ふみちゃんもいいの?」
「ああ。ほかに呼びたいやつがいたら、全員連れてきてもいいし」
「えへへ……わたしは、おにいちゃんとふみちゃんさえ居たらそれでいいよ」
「そうか?」
「うん」
 嬉しそうに、佳耶は頷く。
 僕としては、もっともっと多くても構わないと思う。二十人や三十人集めて、ビーチを占領するのも面白そうだ。
 でも、佳耶もそうは思っていても、親しい仲間と狭く深く楽しむほうがしっくりくるのかもしれない。
「じゃあ、三人で決定だな」
「うん」
「……あーと、ちょっと待てよ。僕のほうで連れてきたい友達がひとりいるから、そいつも連れてきちゃっていいかな?」
「えへっ。わたしは大歓迎だよ」
「じゃ、四人で決定な」
 僕が誘いたい友達。それはもちろん、佳耶に会えることを楽しみにしてやまない成羽だ。
 大通りに差しかかり、赤信号を一瞥して僕は自転車を停める。そこで、僕と佳耶は、小指を絡ませて指切りげんまんを した。予想はしていたけど、案の定、僕が「針千本……」と歌い出すのにつられず、佳耶は「おにいちゃんのこと嫌いに な〜るよっ」と歌った。
 それでも僕は驚いたりめげたりしない。夏休みに入ったら――いや、期末テストのあとのテスト休みが来たら、絶対に 佳耶と久宝さん、それに成羽を連れて海で遊んでやるのだから。……そういえば僕以外全員女の子だけど、みんな気が置 けない仲だからべつに困ることはないかな。
 信号が青に変わる。大通りの横断歩道――僕が勝手に“勇気の歩道”と呼んでいる場所――を渡り、北側の歩道に乗り込 んだところで、また、自転車を停める。そんな僕たちを、彼女はもうセーラー服姿で手に鞄を提げて待っていた。
「お熱いですね」
 その言葉を聞いて、僕も佳耶も顔面に紅葉を散らす。なにか弁明の言葉を考えようとしたけど、頭が上せてしまって正常 に働かなかった。
 白衣とブーツを基調としたファッションで身を飾っているときとは、まったく印象の違う久宝さん。なんというか、悪趣 味な黒縁眼鏡と清楚なセーラー服とがミスマッチすぎる。コンタクトに変えれば、もっと可愛く見える気がするのに……と は思ったものの、実際に言葉にするのは恥ずかしい。
「待たせてごめんね、ふみちゃん」
 よっ、と掛け声を発しながら、佳耶は自転車から降りる。傘を持ったままだったにもかかわらず、彼女は実に器用な着地 をしてみせた。
「えへへ。乗せてくれてありがと、おにいちゃん」
「どういたしまして」
 望みどおりの佳耶の笑顔を見ることができて、僕は大いに満足した。
 佳耶が誰からも好かれる理由が、まさに今の彼女の挙動にある。ひとりひとりに応じた心からの言葉を、それに見合った 表情と一まとめにして届ける。佳耶は、なにも考えなくても、条件反射的にそんな離れ業ができてしまうのだ。妹のこうい うところは、兄の僕でも見習いたくなる。
「あっそうそう、ふみちゃん」
 忙しそうに今度は久宝さんのほうを向いて、佳耶は言った。
「おにいちゃんがね、夏になったらふみちゃんも誘って海に行こうって言ってくれたんだけど、行く?」
 佳耶の弾む声と、降りしきる雨をものともしない笑顔に、久宝さんも頬を緩ませる。
「もちろん」
「じゃあ、けってーい!」
 まるで子供みたい嬉しがる佳耶。ふたりが賛成してくれて、僕は、海へ行くという提案をした甲斐があったな、と思っ た。
 あとは、成羽だけだ。彼女には、ひとつだけ、危ぶまれることがある。それは、期末テストで油断をして補習地獄に突 き落とされてしまわないだろうか、ということだ。僕には久宝さんがついていてくれているけど、同じく成績が振るわない 成羽には、家庭教師を務めてくれる人がいない。上のお兄さんは学校で習ったことなんて忘れてしまったと言うぐらい脳天 気らしいし、下のお兄さんは頭は良くても成羽とは折り合いが悪いらしいし……。それならば、僕が久宝さんから教えても らって理解したことを、そのまま成羽に教えてやればいい。受け売り作戦だ。ふたりで勉強をする場所には、学校の屋上か ウィンドナルドを選べば問題ないだろう。
(よしっ。三人を海に連れていくために、僕はとことん頑張るぞ!)
 佳耶と久宝さんを見送って、再び自転車を走らせた僕は、次第に雨足の弱まるなか、あたかもそうさせているのが自分自 身であるかのように気負い立つのだった。

 

【2】

 五月の下旬に受けた中間テストの結果は、自分でもびっくりするようなものだった。
 苦手な英語と数学が例の抜き打ちから十点以上アップ。元から得意だった暗記系は平均点オーバー。中学校のころに比べ て、成績がダウンした教科はひとつもなかった。これはまさに、学習塾の誇大広告を地で行く展開だ。恐るべし、久宝さ ん……じゃなくて、文音ちゃん。
 僕の家庭教師を務める久宝さんには、テストの前に、こんなことを言われていた。「もしも私がお兄さんの成績をアップ させることができたら、私のお願いをひとつ聞いてもらえませんか?」と。その願いというのが、僕が彼女のことを下の名 前で呼ぶということだった。
 僕はべつに、そういうことに抵抗を感じないので、久宝さんのことを“文音ちゃん”と呼ぶことを二つ返事で了承した。 ところが、これに反発したのが佳耶だ。佳耶は、そういう呼びかたをするとおにいちゃんとふみちゃんの仲が進展しそうだ から禁止、と僕たちに抗議をしてきた。どうやら、こんな些細なことにもやきもちを妬かずにはいられないらしい。僕は笑 って、じゃあ佳耶のことは“かやや”って呼ぶよ、と言うと、彼女は含羞みながら僕の提案を遠慮した。文音ちゃんまで もが「とみまつかや、下の三文字がロシアっぽいから『ろしあん』なんてどうですか」というアイデアを出し、佳耶を困ら せたのは、六月の上旬。梅雨も深まって、中猪公園までランニングしにいくのが難しくなったころのことだ。
 そして、時ははや七月。あっという間に訪れた期末テストに、僕は満を持して臨んだ。
 その結果、英語リーディング六十九点、ライティング七十二点、数学A八十四点、数学I六十五点、現国七十六点、古文五 十八点、理科八十八点、日本史七十一点。
 残る世界史が、僕の学生生活初となる百点満点。これには、九十八点だった寺崎さんも感心していた。
 それから、彼女もまた、僕の成績アップに驚きを隠せない様子だ。
「――でも、ホントに凄いの一言に尽きるね。この伸びかたは」
 学校の近くのウィンドナルドで期末テストの打ち上げ。テーブル越しに僕と向き合って座るのは、もちろん成羽だ。
「まあ、やればできるってことの証明にはなってるかな、と」
 僕は空威張りをしながらそう言った。が、
「やらされればできる、の間違いでしょ」
「う……」
 不問に付したいと思っていたことを成羽に指摘されてしまい、僕は尻込みしてしまった。
 成羽には、五月の期末テストで僕が成績アップを果たしたとき、その理由についていろいろと疑われた。自分だけひそか に塾に通ってたりするんじゃないかとか、頭が良くなる魔法の薬を独り占めしてるんじゃないかとか。挙げ句の果てには、 今まで成績が悪かったこと自体が実はカモフラージュで、成羽のことを安心させたいがための工作だったのではないかとま で言われる始末。これには僕もお手上げで、せんかたなく、家庭教師をつけたという種明かしをしたのだった。
「まったく……まあ、あたしもお恵みをもらってるから、あまり文句は言えたタチじゃないけどさ」
 白けた口調でそう言うと、成羽はまた、コーラのストローを口まで運んで、一口だけ吸い上げた。
 成羽の結果も、それほど悪くはなかったみたいだ。僕の受け売りが下手くそだったせいか、英語と数学は伸び悩んでいた けれど、そのほかの教科については点数がアップしていた。世界史が、中間の五十二点から七十点。日本史が、六十三点か ら六十九点。理科が五十八点から七十七点で、いちばん伸びたのが彼女の担任、平河内先生の教科である現国。中間では四 十六点だったのが、今回はなんと八十二点だ。成羽いわく、平河内先生も答案を渡す手を震わせるほどだったという。
「あはは……。でも、今回もお互い要注意科目ナシだから、結果オーライじゃん」
 佳耶のボキャブラリーを拝借して、僕はコメントする。
「うん。これで、夏休みは羽根広げまくれるよね。大林福子みたいに」
「ああ、あれね……」
 僕は、一年に一度の歌の祭典、国営放送の紅白歌謡合戦を思い出す。そこに毎年のように出場している大御所シンガー、 紅組の大林福子は、決まって全国民の注目の的だ。なぜなら、いつも派手な衣装と演出で視聴者をあっと言わせてくれるか ら。去年も、彼女は、自分の持ち歌に合わせて七、八メートルはあろうかという孔雀の羽根の造形を華々しく広げ、最大瞬 間視聴率三十パーセントを獲得したのだった。
「あれはすごいよね……」
「最近は美山憲二のほうが負けっぱなしだもんね」
「うん」
 美山憲二とは、同じような演出で派手なステージを作り上げようとする、白組の対抗馬だ。彼は、ここ二、三年、閃きの クオリティが低下したらしく、最近はずっと大林福子の後塵を拝している。視聴率でも、十パーセント近くの差が出てきた といわれるくらい、そのスランプは深刻らしい。
「なんか僕たち、美山憲二から大林福子なった気分だね」
「あはははっ、それ言えてる」
「でも、いつ美山憲二が抜き返してくるかわからないから、油断禁物ってところかな」
「そだね」
 僕は、成羽に話が伝わったことで確信した。彼女も、自分自身が大林福子――テストでいえば“勝ち組”に属しているこ とを、認識している。
 今の僕たちから見れば、抜き打ちの頃に袂を連ねてひいひい言っていた美山憲二――テストでいう“負け組”たちは、見 下ろすべき存在に成り果ててしまった。けれども、彼らがいつ大林福子になる気を起こすかは予想がつかない。だから、僕 たちもここまで来た以上、呑気に気を抜いてはいられないのだ。
「ね、わっぴー」
 僕は、自分のトレイに載っているフライドポテトを何口かつまんでから、サラダバーガーを美味しそうに頬張る成羽に声 をかけた。
「んぅ?」
 むしゃむしゃとバーガーを咀嚼しながら、成羽は僕に耳を傾ける。
「今度さ、海行かない?」
「ぅぐふ」
 ちょうど僕が言葉を出したタイミングが、成羽がバーガーを嚥下するのと重なったのだろう。彼女は喉を詰まらせたらし く、よく僕が家の食卓でやるみたいに胸をどんどんと叩いて、コーラを一口啜った。
「ちょっと……人がサラダバーガー飲み込もうとしてるときに突然デートのお誘いとか遠慮してよね。喉詰まって死にかけ たんだから」
「ああ、はい」
 僕は一応頷いた。タイミングを選ぼうとしなかったのは、僕の手落ちだ。
「っていうか、デートのつもりで言ったんじゃないんだけどね、僕は」
「へっ?」
 成羽は、もう一口噛ろうとしていたらしいバーガーを一度テーブルの上まで下ろした。きょとんとした目つき。僕がこん なふうに言えばデートのお誘いだなんて、成羽もけっこう単細胞な一面があるんだな、と思う。
「こないだの、ゴールデンウィークのデートのとき。あのときの約束、覚えてるよね」
「あ……もしかして、佳耶ちゃん?」
「そう。佳耶と、あいつの友達も誘って、みんなで海に遊びに行こうって計画してたんだ」
 今度こそ、成羽を佳耶に会わせてやりたい。その思いが募っていたこともまた、僕がこの計画を立てた動機の一部になっ ていた。
 しかし、僕の心積もりとは裏腹に、成羽は、ちょっと物憂げな顔をした。
「ふうん……。確かに、いい考えかもしれないけど、また同じことになったりしないかな?」
 成羽の懸念すること。それは、ゴールデンウィーク初日の朝に起きた事件だ。佳耶が発作で記憶を失ってしまったという 事実。それを知り得ない成羽は、未だに、佳耶が約束をすっぽかしたものだと思っているだろう。
「大丈夫だよ」
 僕は胸を張って言った。
「そうならないように、あの日から毎日学校の帰りに神社で願掛けしてたから」
「神社って、叶天神さん?」
「うん」
 叶天神は、全国津々浦々にある天神さんのひとり。この界隈では、中猪公園の少し北に建っている、猪又神社という神社 の境内に祭られている。
 神社で願掛け――これほど現実感を欠いた行いは、ほかにそうそうないだろう。
 だけど、そうとわかっていながらも、僕は昔からの言い伝えを信じて、神社に通い続けた。叶天神だけに伝わるというお 祈りの仕方を神主さんに直々に仰いで、教えられたとおりに、三度手を打って一礼、そのあと境内の階段を上ってさらに一 礼した。それを、毎日のように繰り返した。
 佳耶が、海へ遊びに行くときまで発作に襲われませんように。僕は、一途にそう願い続けた。
「そっか、そこまで頑張ってたんだ」
「うん。それぐらいはしないと、ただ寝て待ってるだけじゃ果報なんて飛んでこないだろうって……そう思ったから」
「偉いよ、トミーは」
 成羽は、バーガーの包みをトレイの上に置くと、穏やかな笑顔を僕に向けてきた。
「そんなことないよ。僕は佳耶に実質なにもしてやれてなくて……してやろうとしても、いつも無力なのに気づいてしまう し。今度の願掛けだって、僕の心の中だけのことで、佳耶やわっぴーにはなにもいい影響が及んでない。僕はただ、願掛け をして、自分自身を励ましてるだけだよ」
「それは、あたしは違うと思うな」
 肘をテーブルに載せて、成羽は肩をぐっと僕のほうに乗り出す。
「たとえ願掛けがトミーの心の中だけのことだったとしてもね、あたしは、誰かの幸せとか、笑った顔とかを願い続けるの って、普通じゃできないことだと思う」
「……」
「だってさ、べつに自己満でやってるんなら、自分以外の人間のことで願掛けてしてあげる必要なんてないわけでし ょ? でも、トミーは敢えてそれをやってたんだもん。これって、誰かのこと……佳耶ちゃんとか、あたしのことを考えてお 祈りしてくれてる、って思うほかにないよ」
「うん……」
 成羽の言うことが僕の心中に瓜二つだったので、僕は頷かざるを得ない。
 喉の調子を整えるためか、一旦コーラを一口吸い上げてから、成羽は言葉を続けた。
「喜ぶ佳耶ちゃんの姿が見れて、あたしが佳耶ちゃんに会ったときの反応が見れたら、願掛けで積んだ苦労なんてどっか吹 っ飛んでっちゃう、って思ってたんでしょ?」
「……うん」
「それで自己満だなんて、トミー、なんか履き違えてるよ。あたしには、トミーのことが他人思いの頑張り屋さんにしか見 えない」
「………」
 僕は、どう成羽に言葉を返したらいいのやら、思い余った。
 褒められているはずなのに、自分の見解を否定された気がして、素直に喜べない。成羽の評価に応えるのは簡単なことの はずなのに、それができなくて、妙に心の底がざらつくような感覚を覚えた。
「……佳耶は、本当に海で笑ってくれるかな……」
 今だ自分の払った苦労の真価を見出だせないまま、僕は、そのことを心配している。
「自分で言い出したことじゃない。もっと自信持ちなよ」
「うん……ありがとう、わっぴー。また、自信分けてもらっちゃったね」
 僕が苦笑しながら言っても、成羽は、
「あたしが分けたんじゃないの。トミーがつけた自信なの」
 そう言い張って譲ろうとはしない様子だ。
「そうだと思いたいな」
「思いなさい。これはあたしからの命令」
「そんな強引な……」
「あははっ」
 明るい笑い声を漏らした成羽は、またいつものようにうまく話を締め括ってくれるのだった。
「誰かのために願うのは、自分がそうしたいって心から思ってることなの。あたしは、それ自体、自信の塊なんだと思う よ」

 

 従業員に聞こえるはずもないごちそうさまをして、トレイを所定の場所に片付けた僕たちは、ウィンドナルドをあとに した。
 ドアを出た直後の温度差が激しい。ついさっきまでクーラーの効いたところにいたのに、一歩外に出ればこの熱気だ。夏 は無気力の季節と言われるのも、筋が通っている気がする。
 赤いテントを抜けると、さっきよりも暑く眩しい真夏の太陽光線が僕たちを直撃する。つい先日、ニュースの天気予報で 梅雨明けが発表されたばかりだ。額に手を当てて陽射しを遮り、顔を上に向けると、鮮やかなブルーの夏の空が広がってい るのが見えた。
「それで、海に行くのって、いつぐらいの予定なの?」
 鞄をかけ直した成羽が僕に尋ねる。
「うーん……具体的な日にちは決めてないんだけど、テストが終わったらなるたけ早く行こう、とは決めてたよ」
「だよね。明日からテスト休みなのに、日にち延ばしても意味ないもんね」
 そう――成羽の言うとおり、明日から終業式の前日まで、学校が休みになるのだ。期末テストが返されたあとに来る休み だからテスト休みだなんて呼ばれているけど、見方を変えれば、夏休みが少し早く始まるものだとも受け取れる。佳耶の中 学にも同じような休みがあるから、僕はこの機会を狙って、早いうちに海に行こうと画策したのだった。深刻な発作がまた 佳耶を襲うかもしれないという不安が、大きくならないうちに。
「わっぴーは大丈夫?」
「うん?」
「また、休みが来たらお店の手伝いでこき使われるんじゃない?」
「うーんと、大丈夫! ……だと思う」
「がくっ」
 成羽の態度が急に変わったので、僕は一瞬体勢を崩した。
「まあ……聞いてみないとわかならいのは確かだけど」
 成羽は、ブラウスのポケットから、おもむろに携帯電話を取り出した。
「ちょっと電話してもいい?」
「うん、いいよ」
 僕が頷くと、成羽は携帯のボタンを操作し始めた。
 何度かボタンを押してから、携帯を耳元に宛てる。なんか、こういう何気ない仕種ひとつでも、成羽がするとどこかエレ ガントに見える。それは、成羽がほかの女子生徒に比べて綺麗に見えるせいだろうか。ただただ、綺麗な女性というのはな にをしても、なにを着ても綺麗だと思う。
「もしもし、あたし。……うん」
 成羽の携帯電話の受話スピーカーから、男の人のものと思しき声が聞こえる。お兄さんだろうか。
「でさ、明日友達が海行こうって誘ってくれてるんだけど、行ってきてもいいかな?」
 成羽の言葉の合間合間に受話スピーカーから聞こえる声は、性別の判断ぐらいならつくものの、なにを言っているかまで はわからない。だけど、五十センチは離れている僕の耳にまで声が届くということは、相当ボリュームを大きくしてるんじ ゃないだろうか。あまり大きな音に慣れると、難聴になってしまう気がするけど……。
「ちっ違うよ! 友達だってば!」
 時折、語調を強める成羽。きっと、お兄さんにも彼氏とデートに行くのではとうたぐられているんだろう。そう思うと、 僕までもがちょっと面映ゆい気分になってしまう。
「おっけ。じゃあ明日はお手伝い休むね。それじゃ」
 成羽は、最後には明るい声で電話を切った。どうやら、お店の手伝いに差し支えはないらしい。
 というか、いつの間に明日と決まってしまったのだろう……。よくよく考えてみれば、僕の口からそう言った覚えはない 。明日に決まりだとしたら、今晩中に支度をしなきゃいけないことになる。それは大変だ。
「っていうか、明日って勝手に決めちゃったらだめじゃん」
 成羽の決定が強引に思えたので、僕は不貞腐れて文句をつけたけれど、
「なるたけ早いほうがいいんでしょ? だったら、思い立ったが吉日だよ」
「それじゃ明日が吉日にならないじゃん……」
「あ、それもそっか」
 墓穴を掘ったらしく、成羽は決まり悪い顔をしてうなじのあたりに手を持っていく。
 でも、なるたけ早くなんて言った僕も、墓穴を掘ったという意味では一緒だ。べつに明日海に行くことになったって、支 度にてこずるぐらいだし、佳耶なんかはかえって喜びそうだから、悪くはないのかもしれないけど。
「とにかく、決まってしまったものはしょうがないから、帰ったら早く支度しないとね」
「うん」
 成羽は頷いた。
 こうなれば、テストで疲れたばかりの体をとことん海で疲れさせてやる。天麩羅油火災には天麩羅油を注げ作戦だ。屁理 屈だけど、たぶん、楽しければそれでいい。佳耶みたいな気持ちになって、僕は純粋に海に行くのを心待ちにしながら、成 羽と別れたのだった。

 

【3】

 翌日の朝――
 僕は、目覚まし時計のアラームが鳴る予定だった九時から、八分ほど遡った時刻に目を覚ました。
 アラームをオフにして、早速ベッドから降りる……ことはせずに、ベッドの中にとどまっておく。もしも願掛けをした叶 天神様が僕に味方してくれるなら、もうじき、扉がノックされるはずだ。
 そしてほどなく、その足音が僕の部屋のほうに近づいてくるのが聞こえた。
「……とんとんとーん」
 扉をノックする音を合わせて、静かな声が聞こえる。がちゃり、とノブが回されて、申し訳程度にドアが開かれた。その 隙間から、
「おにいちゃん、起きてるー? 今日は海に遊びに行く日だよー」
 佳耶が僕に告げた。その瞬間、僕は心の奥底から喜びのあぶくが吹き出してくるような感覚を味わった。気掛かりだった 発作は、起こらなかったのだ。
 掛け布団をずらして、寝ぼけ眼で佳耶の顔を見る。目が合うと、彼女は嬉しそうに笑った。
「ちゃんと起きたみたいだね」
「うん」
「そのままお布団の中に潜りっぱなしだったら、間違いなくわたしはおにいちゃんのことが嫌いになってたよ」
「はいはい……」
 僕は、やれやれと思いながら掛け布団を押し上げ、ベッドから起き上がった。
 佳耶にはもう何度も嫌いになるよ、という科白を使われているけど、別の言い方をすれば、それは彼女が僕を信用してくれているとい うことなのだ。だから、僕自身に佳耶の気持ちに応えようとする意志があれば、彼女がかけるはったりにたじたじになる必要なん てない。佳耶が信じるように僕が動けば、彼女を満足させてやることができるのだから。
 僕は、佳耶に誘われるまま、一階に降りて、リビングダイニングの食卓に加わった。今朝のメニューは、フレンチトース トだ。もちろん、佳耶の手づくり。フレンチトーストは、レシピがシンプルだから、僕も挑戦してみたことがあったけど、 佳耶が作るような温かい味とは程遠くなってしまったという記憶がある。
 フレンチトーストを頬張りながら、テレビに目を向ける。今日は金曜日。いつもは七時半過ぎまでしか見ることができな い朝のニュース番組の、次に放送されるワイドショーまで観ることができる。学生の身分でワイドショーを観ると、なんか ちょっとリッチな気分だ。
 今はちょうど、どこそこの海水浴場がオープンしたとかで、その凄まじい人出をリポーターが生中継で伝えている。イン タビューされる人はカップルだったり、家族連れだったり、OLどうしだったりといろいろだ。
「そういえばふたりとも、海に持っていく水着は決まったの?」
 興味深そうにテレビの映像を見つめていた母さんは、僕たちふたりにそう尋ねた。
「うん。僕は、前に履いてたやつがまだ合いそうだから、それを持っていくことにしたよ」
 僕はそう説明した。
 実は去年の夏、佳耶に内緒でこっそりと、カッシーとアマちゃんのふたりを誘って、隣街にある八色ヶ浦というところに 泳ぎに行ったのだ。海に行く前に、僕たち三人はラーデンプラッツのスポーツ用品店で海水パンツを買った。丈が膝の上あた りまである、少し長めのやつだ。去年の今頃と比べると、身長はわずかに伸びているものの胴回りにはあまり変化がないの で、昨晩シャワーを浴びるときに浴室に持ち込んで着用してみたら、見事にぴったりだった。今も、ジーンズの下には、ブ リーフの代わりにしっかりとそれを着用している。
「佳耶は?」
 母さんが尋ねる。
「うーん……わたしは、ちっちゃいときに着てたのと、学校のしかなかったから、選びようがなかったというか……」
 恥ずかしそうに、佳耶は苦笑する。
 僕は思った。もしかすると、佳耶がゴールデンウィークに僕をショッピングに誘ったのは、新しい水着を買いたかったか らなんじゃないだろうか。彼女は、発作に襲われて記憶をなくす前に、僕よりもちょっとだけ早く、海に行くことを計画し ていたんじゃないだろうか。だとしたら、以心伝心だ。それも、突発性記憶喪失という壁を越えての。
「そう? じゃあ、お母さんの持っていく?」
「えっ?」
 母さんの唐突な提案に、佳耶はぽかんとした顔つきになる。
「お母さんのって、お母さんが今使ってるやつ……?」
 口元に人差し指を宛てて、首を傾げる佳耶。
 彼女が驚く理由は、たぶん、自分と母さんの年の差によるセンスの違いじゃない。母さんのセンスそのものに驚いている はずだ。
 僕たちの母さんは、今年でちょうど四十。だけど、それにもかかわらず、大台に踏み込んだという印象がまったくない。 まだ、三十代と言っても違和感がないほど、見た目が若いのだ。
 そんな母さんの若さが現れているのは、なにも外見だけじゃない。センスだって、その年その年でトレンドを意識する女 性たちのそれと同じぐらい若い。母さんの持つ水着の数は知らないけど、過去に僕が目にしたものは、二十代前半のお洒落 盛りな女性を彷彿とさせるものばかりだ。
「それいいじゃん。身長も同じぐらいだし、何着か借りてけば?」
 僕は佳耶に言った。しかし、彼女はすぐには角を折らず、難しそうな、少しばかり陰に籠もった顔をした。
「いいよ、べつに。わたし、学校ので十分だから」
「そんなの、周りがお洒落な水着着てたら、地味に見えるじゃん」
「地味でもいいの」
「そうか?」
 僕は、佳耶の反応を訝った。なぜか、彼女は頬を膨らませている。地味でいいって言ってるのに、どうしてむすっとして いるんだろう。その疑問は、続く母さんの言葉で晴れたのだった。
「ふふふ。そんなに心配しなくても大丈夫よ、佳耶。お母さんの水着は、AからGならどんなバストにも対応する水着だか ら」
「おっお母さんっ!」
 顔を真っ赤にして、佳耶は母さんのほうに体をのめらせる。
 そうか。佳耶は、なかなか前に出っ張ってこない胸のことを気に病んでいるんだ。僕はなんとなくほほえましい気持ちに なって、くすくすと笑う母さんに便乗してにやりとした。
「おにいちゃんまで! その顔はどういうつもり!?」
「あ、いやいや。なんかかわいらしい悩みだなって思ったから、つい」
「……そゆこと言うおにいちゃんは嫌い」
 そう言って、佳耶はさらに頬を大きく膨らませた。
「あはははっ、冗談冗談。でも、学校の水着よりはましなんじゃない? いろんな意味で」
 僕がそうフォローすると、
「ううーん……」
 と唸りながら、佳耶は本気で考え込んでしまった。
 彼女としては、どっちも着たいんだろう。ただ、学校の水着を着れば、自分の体にはぴったりだけど地味だし、母さんの 水着を着ればお洒落だけど恥ずかしい。双方ともに一長一短だから、どちらの長所を選び取るべきかで葛藤しているに違い ない。
「文音ちゃんは、どんな水着を持ってくるって言ってたの?」
 またまた母さんが佳耶に尋ねる。なるほど、どっちつかずなときは、友達の意見を参考にするのもひとつの手だな、と僕 は思う。
 しかし、佳耶は、
「さあ……いきなり日にちが決まったし、聞けてないからわかんない」
 と言って、半ば僕の責任でもあることを訴えた。
「そうね……いきなりだもんね」
「うん。それに、たぶん、ふみちゃんのことだから、これ着てくよ、って言った水着と違うやつを着てくると思う」
「それもそうねえ……」
 佳耶の言葉を聞いて、母さんはテーブルに肘を載せて頬杖をつき、佳耶と同じように考え込み始めた。
 つまり、文音ちゃんは、節操がないということなんだろう。佳耶と話しているときは「この水着を着ていこう」と思って いても、家に帰って箪笥を漁っているうちに、別の水着に気が移ったりする性格なんだと思う。
「まあ、とりあえず学校のやつと母さんのやつを両方とも持ってって、向こうで決めたらいいじゃん。文音ちゃんも居るし 、アドバイスくれたりするんじゃないかな」
「そうよ。そうしなさい、佳耶」
「うん、そだね」
 ようやく、佳耶は持っていく水着の選択肢を増やす決心がついたらしい。
 自分で決められなかったら、友達に決めてもらえばいい。かくいう僕も、成羽と古着屋を訪れたとき、僕に似合うTシャ ツを選んでもらった身だ。その選んだ当人も海に来るから、彼女と文音ちゃんが居れば、佳耶にとっては百人力だろう。
 佳耶の決心がついたのを見計らって、母さんは、寝室に自分の水着を探しにいった。果たして、どんなタイプのものを持 ってくるだろう。僕は、今現在の母さんのセンスに、ちょっとだけ期待してみる。
 五分ほど経つと、母さんが寝室から戻ってきた。その腕に抱えられた水着の数を見て、僕は、改めて驚いた。ぱっと見、 二十着以上はある。これは、コレクターといっても言い過ぎじゃないんじゃないだろうか。
「これなんか、可愛いと思うんだけど」
「……はぇー」
 母さんが最初に候補に挙げた水着を見て、佳耶はまた、顔を紅潮させる。
 それは、佳耶だけでなく、僕までもが言葉を失う水着だった。白のセパレートタイプで、上半身用のほうのバストを覆い 隠す面積が異様に小さく、下半身用は、まるで紐パンツみたいだ。こういうのは、テレビでグラビアアイドルが着ているの をよく目にする。それが第一候補だなんて、母さんも実は佳耶を弄びたいだけなんじゃないだろうか……。
「もうちょっと、子供っぽいやつのほうがいいなあ……」
 佳耶本人でさえ、こう言い出す始末。母さんは苦笑して、コレクションの中からまた別の候補を探し出した。
「これはどう?」
「…………お母さん、そんなのも着てたの?」
 佳耶の目が点になった。
 次に母さんが選んだのは、腰から下の部分にクマのキャラクターがプリントされた、ワンピースタイプの水着。さっきの と比べると、対象年齢がぐんと下がった感じだ。可笑しなことに、その水着は、思いっきり子供っぽいのに、丈がちゃんと 大人サイズになっている。これはさすがに世間の成人女性だって着たがらないだろう、と思った。
「ううん。これはね、可愛かったから衝動買いしちゃったの」
「……そうなんだ」
 僕と佳耶の、母さんに向ける眼差しに、水着マニア疑惑の影が徐々に現れていく。
 そのあとも、母さんは、手持ちのコレクションで、ひとり水着ショーを展開した。……といっても、実際に着たわけじゃ ないけど。
 佳耶は、全部で二十二着あった母さんのコレクションの中から、気に入ったものを三着選んだ。オレンジ色のセパレート と、白地に赤い水玉のワンピース、それと緑のストライプが入ったセパレート。僕個人の意見では、オレンジ色の水着が似 合いそうだと思う。佳耶が着ている普段着も、赤系の色のものが多い。赤やオレンジは、佳耶のトレードマークともいえる 色だ。
 でも、水玉もなんだかんだ言って似合うかもしれない。きっと、ストライプも……。たぶん、全部似合いそうな気がす る。
 その命運は文音ちゃんや成羽に委ねるとして、僕は、更衣室から出てきたときの佳耶に期待しようと思ったのだった。

 

 文音ちゃんも自転車で来るということなので、僕は自転車のうしろに佳耶を乗せ、マイペースで待ち合わせ場所の中猪中 原駅に向かった。
 今から僕たちが目指す海は、去年も男三人連れ立って泳ぎに行った、隣街の八色ヶ浦。海水浴場としては、僕たちが生ま れる前から開放されているところだ。市電に百日前方面とは反対のホームから乗って、六つほど駅を過ぎれば到着する。駅 の周りは、僕たちの住んでいる住宅地とは違い、長閑な田舎街になっている。ここではほとんど見られない田畑やビニール ハウスなんかが多く見られるのも特徴だ。
 降り注ぐ陽射しの中を、風を受けて僕は自転車を走らせる。今日の最高気温は、三十四度らしい。額や腕からは、もう大 粒の汗が噴き出してきている。このぶんだと、駅に着く頃にはシャツがびしょ濡れだ。
 公園の横を走る。こんなに蒸し暑いのに、いつの季節でもランナーが集団で走っている。これで彼らは食べているのだか ら、季節を選べないのは当然だけど……やっぱり、炎天下のランニングなんて気の毒だな、と思う。
 交差点を渡り、駅前商店街に入る。僕が百円均一ショップでフォトアルバムを買ったところだ。乱雑に停められた自転車 と、行き交うおばさんたちやおじさんたちの間を縫って、中猪駅側の出入口を目指す。商店街を抜けると、僕たちの目の前 に駅舎が現れた。
 自転車を停めて、まずはうしろの佳耶を降ろす。彼女が降りたのを確認すると、僕は、自転車を押して保管スペースに進 ませた。そして、自転車のタイヤに施錠をすると、僕を出迎えてくれたあのときと同じ監理のおじさんに、一日ぶんの保管 料を払った。
「おにいちゃん、まだ?」
 佳耶の、僕を急かす声が聞こえる。
「そんなに慌てるなって。海は逃げないから」
「えへへ、だってすっごく楽しみなんだもん」
 佳耶は、とても嬉しそうだ。僕も嬉しい。彼女が海へ行く約束を覚えていてくれたんだから。
 僕は、佳耶を連れて、改札口まで歩いた。まだ、成羽の姿も文音ちゃんの姿も見当たらない。どうやら、僕たちが一番乗 りみたいだ。
 携帯電話を取り出して、今の時刻を確認する。液晶の表示窓に、九時五十一分という数字が映し出された。まだ、待ち合 わせの時間まで少しある。
 というより、もう十分を切っているという言いかたをするほうがいいかもしれない。なにしろ、文音ちゃんはともかくと して、時間にはタイトな成羽でさえ、まだ姿を現さないのだから。
 僕と佳耶は、さらに少しだけ移動して、オフィスビルがつくる影の中に入った。暑い。とにかく暑い。うしろに佳耶を乗 せて自転車を走らせた僕は尚更だ。持ってきたハンドタオルで噴き出す汗を拭えど拭えど、なかなか収まってくれる気配が ない。まだ喉は渇いていないものの、失った水分は相当な量だろうなあ、と思う。
 再び、携帯で時間を確認する。十時二分前。まさか、成羽が遅刻するなんてことにはならないだろうな……。もし遅刻し たら、明日は雪が降るぞ――などと思っていると、
「おっす、お待たせー」
 待ち兼ねたその人に、不意に肩を叩かれた。
「あっ、おはよう」
「おはよ」
 成羽は、学校でやるみたいに、腕を立てて挨拶をした。
「時間ぎりぎりなんて、珍しいね」
「あはは、ごめんごめん。水着選びに手間取っちゃって」
 今日も今日とて、成羽の露出度は高い。上はキャミソールで肩と首筋と鎖骨のあたりが全開。下は、丈の短いデニムス カート。肩から提げたシースルーのバッグに、可愛い絵柄のタオルが入っているのが見える。けれども、残念ながら、 彼女が苦労して選んだらしい水着は見えない。
「久し振りだね、佳耶ちゃん」
 苦節四ヶ月。ようやく佳耶の姿を自分の目に焼きつけることが叶った成羽は、とても幸せそうな顔をした。
 ところが、
「あの、えーっと……」
 それに対する佳耶の反応は、僕と成羽の期待をどん底に突き落とすものだった。
「おにいちゃんのお友達の方ですよね」
「……えっ?」
「初めまして、妹の佳耶といいます。よろしくお願いしますっ」
 両手を体の前に据え、ぐいっと上体を曲げて、佳耶は元気よく挨拶をした。
 誰が、このような挨拶を佳耶がするものだと想像できただろう。そう、佳耶の記憶は、ごっそりと抜け落ちていたのだ。 幼稚園のとき、成羽も含めて三人で遊んだころの記憶を――いや、成羽という存在そのものを、佳耶は綺麗さっぱり忘れ去 ってしまっていたのだ。
「な、なに言ってるの、佳耶ちゃん? あたしは、小さいときに――むぐっ!?」
 僕は、咄嗟に成羽の口を、ドラマの悪役よろしく塞いだ。
「ひょっと、わいすんおよ、といー!」
「ごめん、成羽」
「……え? いま、名前で……」
 呆気に取られている成羽の耳元で、僕は、佳耶に聞こえないくらい小さな声で言った。
「今から言うこと、わっぴーにはしっかり聞いてほしいんだ」
「……う、うん」
「佳耶はね、あるとき突然記憶をなくしてしまう、重い病気にかかってる」
「……き、記憶って……嘘っ!?」
「嘘じゃない。本当なんだ。事実、この前のショッピングのときに約束をすっぽかされたことだって、そのせいと考えたら 筋が通る」
「……うん」
「それで僕たち家族は、お医者さんから、佳耶がなくしてしまった記憶を掘り起こさないように言われてる。もし僕たちが 佳耶の記憶を呼び覚まそうとして、こいつが混乱したら……もっと厄介なことになる。記憶をなくすどころじゃ済まなくな るんだ」
「……うん」
「だから、僕とわっぴーは、高校に入ってから知り合った友達、ということにしておいてほしいんだ。僕のことは佳人で、 僕はわっぴーのことは成羽って呼ぶ。いいね?」
「……うん、わかった」
 張り詰めた表情で、成羽は僕の頼みを了承した。
 本当は、感動の再会にしたかったけど、こうなってしまったからには仕方がない。医者の言いつけを無視して横車を押し てでも成羽のことを佳耶に思い出させるよりは、彼女の健康状態を優先したほうがリスクが少ない。苦渋の決断だった。
 成羽の耳元から顔を離し、佳耶のほうを向くと、僕は、彼女のむっつりした顔を視界に捕らえた。
「おにいちゃん……ひそひそ話なんて、フェアじゃないよ」
「あぁいやいや、ごめん。気にしないで」
「わたしに話せないようなことなのかな……?」
 佳耶の訝しげな顔が、ぬうっと僕に近づく。じっとりした視線で僕を見上げながら、彼女は、僕の二の腕を人差し指でつ んつんとつついた。
「そういうわけでもないんだけど……」
「じゃあどういうわけなの? 教えてよお」
 僕の腕を鷲掴みにして、ぶらぶらと振り動かす佳耶。
 どうごまかしたらいいものか、思案に暮れていると、
 ――キィッ!
 僕たちの近くで自転車のブレーキが鳴った。僕と佳耶、成羽の三人が、一斉に音がしたほうを振り返る。そこには、惜し くも待ち合わせの時間をオーバーしてしまった、文音ちゃんの姿があった。
「ふぅー……すみません、皆さん。寝坊しちゃいました」
 実にあっさりと、彼女は遅刻の理由を打ち明けた。
「おはよっ、ふみちゃん」
「おはよう。お兄さんたちも、おはようございます」
「ああ、うん。おはよう」
 僕はひとまず挨拶をして、また文音ちゃんの全身を見た。彼女は、この暑さにもかかわらず、普段どおりの白衣ルックだ 。文音ちゃんといえば白衣。白衣といえば文音ちゃん。世間の女の子たちが何種類もの服を着てお洒落を楽しむのに対して 、文音ちゃんは、その白衣とブーツで個性をアピールしているようだ。
「この子が、と……ん、じゃなかった。佳人の言ってた、佳耶ちゃんのお友達?」
「うん」
「初めまして。久宝文音と申します」
「あたしは、佳人の友達の湧井成羽。よろしくね、ふたりとも」
 成羽は、佳耶と文音ちゃんのふたりに向かって、まとめて自己紹介をした。
 正直言って、見知り越しの人間に初対面の挨拶をさせるのは辛い。佳耶と向き合い、実際にそう言っている成羽は、たぶ んもっと辛いだろう。
 でも、成羽と佳耶が見知り越しだという事実は、僕と成羽の中にしかない。佳耶の中には存在しないのだ。もとから存在 しない事実を聞かされれば、それは佳耶の中で、ある種の拒絶反応のようなものを引き起こし兼ねない。だから、僕たちが 認識している事実とは違う、新しい事実を作る必要があるのだ。
 願わくば、いつの日か、ふとしたはずみで、佳耶が自分から成羽と遊んだ楽しい日々の記憶を取り戻しますように。
 僕は、そう祈った。もうしばらくの間、叶天神様にはお世話にならなければいけないかもしれない。

 

 電車に乗り、僕たち四人は、南の方角に向かった。
 ゴールデンウィークに乗ったときとは違い、まだ世間が夏休みモードに切り替わっていないせいか、乗客の数がとても少 ない。乗っているお客さんといえば、年老いた人たちぐらいだ。学生もいなければサラリーマンもいないし、子供もいな い。そんな状態だったから、僕たちは容易に空いている座席を確保することができた。
 少し体の弱いひとには逆効果になりそうなほどガンガン効いている冷房の恩恵も、十分に受けた。家でこんなに冷房を動 かしたりなんかしたら、電気代がすぐに跳ね上がってしまう。だから、父さんは常々、一日二時間以上エアコンを運転させ ないよう僕と佳耶に言っている。だから、こういった公の場所に出ると、いやに冷房がありがたく感じるのだった。
 車窓から見えた海に僕たちが感動しているうちに、電車は“八色ヶ浦ビーチパーク”という駅に着いた。この間、成羽と 行った南場百日前もそうだけど、この市電の駅には、長い名前の駅が多い。父さんが言うには、建設当初、駅名をつけると きに付近に住む人たちの公募をとったのだそうだ。路線自体も、僕が三歳のときに落成したものだから、比較的最近の風潮 を、路線を運営する鉄道会社が採り入れたのだとも考えられる。ちなみに、いちばん長い名前の駅は、この次の“八色ヶ浦 シーサイドアスレチックパーク”だ。
 ビーチパークの駅で、僕たちは電車を降りた。ホームに降りると、前方は海。くるりと方向転換をすれば、うしろに広が っていたのは広大な緑の田畑。高層ビルはひとつもない。車のエンジンの音の代わりに、鳥たちの囀る声が聞こえる。この あたりは、自然がいっぱいだ。
 改札に切符を通して、駅舎を出る。成羽が水分補給のために買ってきたというドリンクを飲んだあと、僕たちは駅前のタ クシーとバスの駐車スペースを渡って海を目指した。
 ところどころに未舗装の道があるせいだろうか。僕たちの街にいるときと比べて、体感温度が低い。僕たちの街が“暑す ぎる”とすれば、ここは“ちょうどいい暑さ”だ。
 木製の道標を頼りに七分ほど歩くと、僕たちは海水浴場の入口に到着した。
 無数のビーチパラソルと人。同じ景色でも、ブラウン管が映す映像を見るのと、肉眼で見るのとではまったく違う。とりわけ 、さわさわとざわめく波の音は、実際に耳で聞いてこそだ。
 早くも佳耶は成羽と意気投合して、更衣室のほうへ競走しながら走っていった。文音ちゃんも、個人的に寄りたいところ があると言って、一旦来た道を引き返した。僕も着替えに行かないと。……といっても、もう下にスイミングパンツを穿い ているから、着ている服を脱ぐだけでいいのだけど。
 男子更衣室に移動して、備えつけのロッカーに脱いだ服とバッグをまとめて入れる。ゴーグルだけを取り出し、ロッカー の扉を閉めて施錠した。去年泳ぎに来たときに知ったことだけど、ここのロッカーの鍵には特殊な防水が施されているらし い。それで、海水に入れても錆びないのだそうだ。でも、個人で管理していると、泳いでいるときに鍵を紛失してしまうこ とがある。実際、去年カッシーが自分のロッカーの鍵をなくしてしまい、スペアを作ってもらうのに時間を割く羽目になっ てしまったのだ。幸い、僕のスイミングパンツにはポケットがあるから、ここに入れておけばいい。準備を整えると、僕は 佳耶の水着選びの結末をこの目で見るため、更衣室をあとにした。
 入口を入って、女子更衣室は右、男子更衣室は左に進んだところにある。これだけ離れているのも、きっと男の人が女の 人にケダモノ扱いされているからなんだろうな、と思う。なんとも冷たい措置だ。僕だったら、そんなことは考えもしない のに。といっても、これだけ人がいれば、そのうち何人かの男の人は、見知らぬ女の子と遊ぶのが目的だろう。百日前での 出来事を思い起こして、僕は、女の子を三人も連れてきたからには責任を持って彼女たちのことを守り抜こう、と心に誓っ た。
「おにいちゃーん、こっちこっちー!」
 僕が女子更衣室のほうへ歩いていると、真横から声が聞こえた。首を左に向けると、佳耶は、すでに成羽とふたりでビー チパラソルを立てているところだった。
「どうしたの、それ?」
 左折して進路を変え、僕はふたりのもとへ走りだす。
「えへへ、あそこでレンタルしてきたの」
 佳耶が指し示した方向に目をやると、確かに、女子更衣室の隣にレンタルショップがあった。今も一組のカップルらしき 人が、パラソルを借りている。なるほど、家から持ってくるのが難しいものは、現地で貸し出しているんだ。去年、僕たち 男衆はビーチパラソルもデッキチェアもレンタルしなかったので、僕はそのことを初めて知ったのだった。
「よいしょっ。これで完成、と」
 ふぅー、と溜め息をついて、成羽は腕で額の汗を拭った。
「おにいちゃん、来るの遅いから成羽おねえちゃんとふたりで準備完了しちゃったよ」
「ああ、ごめん。さんきゅーな」
「えへへ」
 佳耶は楽しそうに笑った。
 結局、母さんの助太刀は画餅に帰したらしい。佳耶は、振り出しに戻って、学校の水着を着ている。ビキニで胸の膨らみ を強調している成羽と比べると、やはり、大人と子供といった印象を否めない。
「……なんか目つきがえっちだよ、おにいちゃん」
「うおっ」
 思わぬ事実を佳耶に指摘されて、僕は一瞬たじろいだ。
 正直なところ、水着の女の子ふたりを目の当たりにすると、それが妹と幼馴染みであろうと、目の遣り場に困る。かとい って、視線を逸らせば、新たな不平がふたりの口から飛び出しそうだ。僕は強引に、話の流れを変えることにした。
「……ところで、文音ちゃんは?」
 僕が知る限りでは、文音ちゃんは、女子更衣室に向かわずに、駅から海水浴場に辿り着くまでの道程を引き返してしまっ た。まさか、そのまま帰ってしまっていることはないだろう。僕が更衣室から出てくるのが遅かったというのなら、文音ち ゃんもきっとふたりの前に姿を現しているはずだ。そう思って投げかけた質問に、佳耶は、
「ふみちゃんなら、あっちのほうにいるよ」
 といって、波打ち際を指差した。
 どこだろう……? トレードマークでもあるらしい白衣を脱いでしまうと、途端に姿が識別できなくなってしまう。文音ち ゃんの体格とは全然違う人たちを消去法で消していきながら視線を前に進ませると、サーフボードを抱えたひとりのサーフ ァーの姿が僕の目に留まった。割合小柄な躯体。女の子だ。そのヘアースタイルが、若干文音ちゃんに似ている。
「もしかして、あの、ボードを持って立ってるのが文音ちゃん?」
 僕が回答すると、
「そだよ。ふみちゃん、サーフィンもできるんだって」
 佳耶は自慢するように言った。
 ちょっと厚かましくて、大胆不敵な一面もあるけれど、頭がとても良かったり、サーフィンまで嗜んでいるらしい文音ち ゃん。剽軽な白衣ルックの下には、とんでもない才能が秘められているのだなあと、僕は感心した。
 しばらくすると、文音ちゃんはこちらを振り向いて、サーフボードを高く掲げた。どうやら、今から波に乗ってきますと いう合図らしい。黒縁眼鏡に代わってかけられたサングラスに、夏の眩しい陽光が反射する。僕たち三人は、文音ちゃんに 向けて、大きく腕を振った。
「近くに行って見てみよっか」
 僕は、ふたりにそう提案した。
「さんせーい!」
 佳耶は元気よく返事をして、波打ち際に向かって歩き出す僕を追いかけてきた。
「成羽も、早く!」
「……あ、うんっ」
 思い出したように、成羽も僕たちのあとについてきた。
 ふと、僕は違和感を覚えた。今日の成羽は、なんだか変だ。遅刻ぎりぎりだったり、ぼうっとしていたり。口数も、いつ もより少ない。今日に限って呼び慣れたあだ名じゃなくて、名前で呼び合わなくてはいけないというルールに、今なお心の どこかで困惑を引きずっているんだろう。そうじゃなくても、佳耶が自分のことを忘れてしまっていたことのショックは、 すぐには癒えまい。だから、そんなこともうやむやになってしまうぐらい、今日は遊び倒したい。また新しい思い出を作り さえすればいいのだ。僕は、先に佳耶を波打ち際目指して走らせると、追いついてきた成羽の手を引いて、ふたりで歩き出 した。
「まだ、気にしてる? 佳耶に忘れられてたこと」
「ううん、もう大丈夫。だって、仕方ないことだもんね……」
 僕の心配を跳ね退けて、成羽は苦笑いをした。
 その笑顔は、どう見ても不完全だ。成羽は、僕と佳耶のためを思って、無理をして笑ってくれている。その気持ちは、痛 いほど僕の心に伝わった。
 でも、佳耶の記憶喪失は取り返しがつかない。彼女が成羽の記憶をなくしてしまった以上、成羽は、佳耶にとって“初対 面の人”でなくちゃいけないのだ。僕だって、幼稚園の頃のことをともに語り合えなくなるのは悲しい。だけど、どうして も過去に固執するのがままならないときは、未来に期待すればいいんだ。今からでも、三人で共有できる思い出を作ればい い。そう考えると、そぞろに笑みが漏れてきた。
「行こうよ。文音ちゃんのサーフィンを見てから、佳耶と三人で思いっきり遊ぼう」
「……うんっ!」
 成羽の顔にも、さっきとは違う、心からの笑みが浮かんだ。
「早く早くーっ!」
 だいぶ離れた場所から、佳耶が僕たちを呼ぶ。成羽と言葉を交わしている間に、こんなに距離が開いてしまったとは。急 いで佳耶に追いつこうと、僕はぐっと成羽の手を引き寄せて、走り出した。
 いつもは成羽に言いくるめられてばっかりの僕だけど、今日は違う。今日の僕には、成羽をショックから立ち直らせてあ げる義務がある。こういうときだからこそ、男の僕が強い心を持って、成羽の手を引いてやらなければならない。
 走りながら、僕は迷いから解き放たれた笑顔を成羽に向ける。成羽も、僕の顔につられるように、相好を崩した。
 しばらく走って、僕たちは波打ち際に到着した。
「見て見て、おにいちゃん。あそこ!」
 佳耶が指を差した先を見る。彼女が示す場所に、サーフボードの上でクラウチングスタートのような姿勢をとっている文 音ちゃんの姿を発見した。彼女は、ゆらりゆらりと波に揺られ、上下に動いている。あの動きは、なんか、酔いを催しそう だ。ただ波の上でサーフボードに乗るだけでも難しいのに、あの動きに耐えられるなんて、見上げたものだと思う。
「凄いなあ……ほんとに波乗りしてる」
「わたしもびっくりだよ」
 文音ちゃんのモーションにくぎづけになったまま、僕と佳耶は言葉を交わす。じっくりと観察していると、すっくと立ち 上がる……ところまでいかず、中腰になった。失敗かな。少し経って、彼女はまた立ち上がろうとしたものの、バランスを 失ってぐらりと躯体を傾けた。
「おっととっ!」
 まるでサーフボードに乗っているのが自分であるかのような声を、佳耶は出す。ぐらついた文音ちゃんのフォームがなん とかまた中腰に落ち着いたところで、佳耶は「ふぅー……あぶないあぶない」と口にした。サーフィンって、見ている側も スリル満点なんだな。僕はそう思った。
 大きな波が来て、再び、文音ちゃんが立ち上がろうとする。三度めの正直、なるか!?
 僕の期待に応えるように、彼女はサーフボードの上で立ち上がった。直後、波が彼女のサーフボードをぐいっと持ち上げ る。一瞬にして、文音ちゃんの標高が高くなった。
「ほぇーっ。ふみちゃんすごーい!」
「かっこいい!」
 僕と佳耶は、顔を上げて文音ちゃんの姿を追いながら、感動の声を上げた。
 その横で、
「あれぐらいのことはできて当然よ」
 妙に自信たっぷりなコメントを出す成羽。
「あれ? 成羽ってサーフィンできるの?」
「ちょっとだけならね」
「じゃあ、あとで見せてよ」
「……気が向いたらね」
 がくっ、と僕はコケた。隣で、佳耶もあははっと笑う。
 なんだ、言ってみただけか。本当にできるんなら、ちょっとぐらいは――いや、相当感動していたのに。
 あまり虚勢を張りたがる性格というのもちょっといただけないな、と僕は思った。
 そのとき、
「あっ、おにいちゃん見て! ふみちゃん飛ぶよ!」
 佳耶が叫ぶような声を出す。僕も成羽も、彼女の声にコントロールされるかのごとく、文音ちゃんのほうに顔を向け直 す。
 ――ザッパーン!
 波の先端から、文音ちゃんのサーフボードが勢い良く飛び出す。宙に浮いた彼女の頭がうしろに沈み込み、サーフボード の前側が持ち上がる。遠心力で、サーフボードに乗ったままサマーソルトを始める文音ちゃん。ぐるりと逆さになって、降 下しながら、またもとのフォームに戻る。腕を大きく水平に広げて、彼女は着水した。
「かーっくいい!」
 白熱する佳耶。成羽はというと、口をあんぐり開け放して、魂を抜かれたような表情だ。
「……っていうか、今のなに? めちゃめちゃプロの技じゃん!」
 我に返った成羽は、開口一番そんな言葉を言い放った。
「ねぇ、佳耶。文音ちゃんって、どれぐらいサーフィンやってるの?」
 わくわくしながら尋ねる僕に、
「さあ……わたしも今日知ったからわかんない。あとで、ふみちゃんに聞いてみようよ」
 佳耶はそう答えた。
「うん」
 僕は頷く。
 なんとなく、文音ちゃんが今の今までこんな凄い特技を隠していた理由がわかった気がした。たぶん、それには、文音ち ゃんの血液型が関係しているんじゃないかと思う。
 文音ちゃんの血液型はB型だ。B型の人は、物事を判断する基準が自分自身だから、なにか普通の人にとっては驚くような 特技や特徴を持っていても、ふとした機会に自分からそれをさらけ出すまでは他人に気づかれない。つまり、文音ちゃんは 、サーフィンという特技を隠していたわけじゃない。サーフィンという特技が、隠れていただけなのだ。言わば、彼女の特 技は、宵闇に紛れた街並み。海に遊びにきたことがきっかけで彼女の特技が明るみに出たように、宵闇に紛れた街並みも、 昇る太陽に照らされることでその姿を現す。文音ちゃんのような人は、きっかけが訪れるまでびっくりするようなことがわ からないから、まさに、謎多き人物だと言える。久宝文音という名の鉱山から、今後どれほどの資源が出てくるのかと思 うと、期待に胸を膨らませずにはいられない。

 


 独行動派の文音ちゃんを差し置いて、僕たちは再びレンタルショップを訪ねた。
 家からは大したものが持ってこれなかったので、ここで借りようという魂胆だ。
 レンタルショップのお品書きには、ビーチパラソルやデッキチェアを始め、ゴーグルに浮き輪、ビート板にスイミングキ ャップなどの小物や、大きいものになるとオール付属のカヌーや、ヨット、水上バイク用の機材まで貸し出されている。こ のうち、いくつかの小物には“Free!”の札がついている。僕たちは、レンタル料無料の小物の中から、ビニール製のボー ルと、イルカをかたどった浮き袋、それから空気入れを借りた。
 レンタルした遊具をビーチパラソルのところまで持ち帰って、ボールに空気を入れる。佳耶に「力作業は男の仕事」と促 されるままに空気入れのポンプを踏みながら、僕は考える。浮き輪もそうだけど、どうして最初から空気が入ってないんだ ろう……と。レンタルショップの店員さんが、面倒臭がり屋だからだろうか。それとも、店晒しにしていると自然に空気が 抜けていってしまうのだろうか。後者だったら笑えるな、と思いながら、まずはボールをぱんぱんの状態にした。続いて、 佳耶が使いたいと言っていた、イルカの浮き袋に空気を入れていく。これは、膨らませるのが大変だぞ。ぱんぱんにすれば 、おそらく、佳耶の身長よりも大きくなるだろう。僕は気合いを入れて、ポンプを踏みまくった。
 ちょっとずつ、イルカの浮き袋が膨らんでいく。それを見て、佳耶は、「おにいちゃん、ふぁいとー、いっぱーつ!」と 、顔だけ真剣になって僕に発破をかける。まったく、人が汗水垂らしている横で、この妹は……。呆れながらも、僕はポン プを踏み続ける。こうなりゃ意地だ。頭から湯気が出てくるぐらい、馬力を出してやる。
 どんどん膨らんでいく浮き袋。ポンプを何度も何度も踏む僕。両の握りこぶしを胸元に、しきりに僕を応援する佳耶。膨 らんだボールを上に飛ばして遊ぶ……。
「成羽っ!」
「うん? なに?」
「手伝ってください、お願いします……ばたん」
 限界を感じた僕は、力無く砂浜に倒れ込んだ。
「もう、根性ないなあ」
 眉根を寄せて、成羽は僕に言う。彼女はボールを佳耶に渡すと、僕の骨を拾うべく空気入れの前に立った。そして、僕が していたように足でポンプを踏み始めた。
 軽快なテンポで、空気が浮き袋の中に送り込まれていく。僕も、最初ボールのほうに空気を入れ始めたときは、これくら いのテンポだった。でも、太腿やこむらの筋肉が凝り固まっていくにつれて、テンポは段々と落ちていった。これほど大き い浮き袋の中に空気を満たすさなければならないとなれば、脱力感も尚更だ。
 それに比べれば、僕が半分近くまで空気を入れたあとを引き継いだ成羽は、かなり楽だろう。そう思いながら、彼女が最 後まで空気を送るのを見届けていたけれど、
「はぁー……これ結構疲れるー」
 と言いながら、ぱんぱんに張った浮き袋を前に、成羽もぺたんと砂浜に膝をついた。
「でしょ?」
「脚には自信あったんだけどね……」
 苦笑して、成羽は空気入れの留め金を外し、ホースを抜いた。仕上げに彼女が空気孔に栓をすると、イルカの浮き袋は 本来の姿となった。
「ふたりとも、お疲れさま」
「うん」
 僕たちの顔を上から覗き込む佳耶。やっぱり、最年少というのはいい境遇だな、と思う。
「それじゃあ、早速海に入ろっか」
「……ええっ!?」
 佳耶の口から思わぬ言葉が出てきたので、僕と成羽は揃って驚いた。
「もう行くの……?」
「ちょっとだけでいいから休ませてよ……」
 冗談抜きで、本当に息切れがしていたので、僕はそうしたかったのだけど、
「だーめ。休んだら、遊ぶ時間が減っちゃうもん」
 そうは佳耶が卸さなかった。
「……どうする、成羽?」
「……行くしかないっしょ」
 僕と成羽は、よっこらせ、と掛け声を発しながら、重い腰を上げた。
 そうだ、僕は決めていたんだ。今日は、とことん疲れようと。こんなのは、まだまだ序の口なのかもしれない。午後にな れば、文音ちゃんも加わって、いっそう賑やかになるだろう。
 それに、ポジティブな考えかたをすれば、疲れれば疲れるほど楽しい。楽しいことと疲れることとは、実は表裏一体だっ たりして。
 半ば強引に結論を出すと、僕は、イルカの浮き袋を抱えて先発した佳耶を追いかけた。
 さっきも文音ちゃんのサーフィンを見るために訪れた波打ち際から、僕たち三人は海の中に入っていく。浅瀬のほうは家 族連れのお客さんに陣取られていたので、もうちょっと深いところに進む。足首に、若布と思しき海藻が絡みついてき た。
 しばらく進んで、佳耶の胸のあたりに水面がくるくらいの水深で、僕たちは足を止めた。
「――ほら行った!」
 間髪入れず、成羽がトスの要領でボールを高く上に飛ばす。描かれるであろ う抛物線ほうぶつせんの終点は、もちろん僕の体の前。ボ ールを目で追おうとすると、太陽の眩しい光に遮られ、一瞬対象を見失った。
「ほいっ!」
 レシーブの手で、なんとか視界に捕らえたボールを打ち上げる。適当に打ち上げたから、変な方向に飛んでいくかもしれ ない。そう思っていると、案の定、成羽は「あーっとっとっ」と言いながら立ち位置を少しだけずらした。
 再び成羽にトスされたボールが、正確に僕のほうに飛んでくる。今度は僕も成羽と同じトスの構えをして、落ちてきたボ ールを彼女のほうに打ち返した。
 何往復かして、また僕が成羽にボールを打ち返そうとしたとき、
「……うわっ!」
 ポジションをずらそうとして、僕は海底にあった海藻を踏んでしまった。体がぐらりとうしろに傾く。それでも、ボール を打ち返すため、腕は天に向かって伸びる。辛うじて打ち返すことはできたけど、たぶん見当違いの方向に飛んでいるはず だ。バランスを失って一度水面下に沈んでしまった顔を外界に出すと、
「……あうっ」
 僕の飛ばしたボールが、ちょうど、イルカの浮き袋に乗ろうとしていた佳耶の側頭部に直撃するのが見えた。
「……やったな、お返しっ」
 ――ジャバッ。
「うわ!」
 佳耶が飛ばした水を、僕は咄嗟に腕を顔の前に持ってきてガードする。ゴーグルもつけていないのに、海水が目に入った らどえらいことになる。そうとわかっていても、僕の腕は自然に動いたのだった。
「こっちだって!」
 佳耶に、お返しに水をかけたつもりが……。
「きゃっ」
 なぜか、成羽にかかる。彼女も咄嗟に両腕を顔の前でクロスさせて、体を屈めた。
「お返しする人が違うで、しょ!」
「おわっ」
 “しょ”の掛け声とともに成羽が飛ばした海水が、僕の顔にかかる。目にもちょっとだけ入った。予想していた以上に痛 い。でも、楽しければこんなのはへっちゃらだ。
「あははっ。それっ!」
 僕はなにもしていないのに、水を僕に向けて飛ばす佳耶。
「もういっちょ!」
 佳耶に加勢するように、一緒になって僕に水を飛ばす成羽。
 こうなればもう、誰が悪いとか悪くないとか、そんなことはお構いなしだ。お返しがなんだ。僕のウォータースプラッシ ュを喰らえ!
「きゃあっ」
 佳耶と成羽に水を飛ばして、成羽に水を飛ばされて、佳耶が成羽に水を飛ばして……水かけ合戦で、三人は互いに髪の毛 までびしょ濡れになった。
「あははっ。なんかこうやってると、辛いこととかストレスとかみんな吹っ飛んでっちゃうね」
 成羽がしばらくぶりに見せた、屈託のない笑顔。まさに、僕が待ち焦がれていた顔だ。
「うん!」
 もとからストレスなんて感じていないように見える佳耶も、水かけ合戦が気持ち良かったのだろう、はちきれんばかりに 笑った。
 最初に成羽と佳耶を会わせたとき、僕は予想外の展開に後悔しかけた。でも、ふたりの関係を断ち切ることだけはしたく なかった。だから、三人一緒に思い出づくりをしようと考えた。そして今、佳耶と成羽は笑顔の丈比べをしている。
 もう、過去なんて気にしなくてもいいんだ。今、この瞬間が楽しければ、それだけでみんなが幸せになれるのだから。
「ね、おにいちゃん」
 イルカの浮き袋を降りて、じゃぶんと水の中に入ってくる佳耶。彼女は、浮き袋が沖に流されないよう、浮き袋から出て いる紐を頭から通して、自分の体に固定させた。
「わたしもバレーに混ぜて」
「おっけ」
 僕は、独り沖のほうに旅立とうとしていたボールを捕まえて、僕たちの輪の中に強制送還した。手で打ち上げられるのが 落ち着かないからと言われても、逃がすわけにはいかないぞ。なぜなら、それこそがお前、ビーチボールの務めなのだか ら。
「いくぞっ、佳耶!」
 体勢を整えて、佳耶のほうにぽんとボールを打つ。無駄のないすらりとした腕をぴんと伸ばして、佳耶はボールをパス した。
「成羽おねえちゃん!」
「よしきたっ」
 成羽が、自慢の長い手を胸の前で組んで、落ちてきたボールをレシーブする。一度上に持ち上げて……、
「それっ」
「おわっ!」
 成羽が決めたシュートが、僕の肘に命中する。速くてわかりにくかったけど、一応レシーブにはなった。ボールは、僕が 壁になったかのように、成羽のほうへと跳ね返る。
「佳耶ちゃんどうぞっ」
 成羽が突き上げたボールを、
「おにいちゃんシュートっ!」
 佳耶は、成羽と同じように思い切り僕のほうに飛ばす。
「おっし!」
 同じ手を喰うもんか。僕は、意識を研ぎ澄ませて飛んできたボールを打ち返した。
(けっこう、続くもんだな。体育のバレーボールは、苦手なほうなんだけど……)
 そのあとも、何度かボールは水面に落ちたけど、僕たちは安定したパス回しを展開した。
 そして、五回目のパス回しに入り、成羽から回されたボールをトスで打ち上げようとしたとき――
「うあつっ!」
 僕は、左のこむらと足首の間に、突然鋭い痛みが生じるのを感じた。無意識に腕を引っ込めてしまったので、落ちてきた ボールがさっき佳耶を直撃したみたいに、ぼん、と僕の額に当たった。
「どうしたの、おにいちゃん? 大丈夫!?」
 途端に、佳耶は気遣わしい顔をして、僕のもとに歩み寄ってきた。
「あ、うん……大丈夫、だと思う」
 左の腕を水の中に沈めて、僕は痛みの衝撃が爆ぜた部位に手を当ててみる。すると、不思議なことに、二次的な痛みは生 じなかった。
「なんだったんだろ……今の?」
 ふたつの原因が、まず僕の頭に浮かんだ。ひとつは、筋肉疲労。海で立っているのは、足首のあたりの筋肉にはかなりの 負担になっているだろう。
 もうひとつは、棘を持つ海の生き物。くらげとかだろうか。海ではよく刺されるという人がいるみたいだから、僕も刺さ れてしまったのかもしれない。
「ほんとに大丈夫? なんともない……?」
 重ねて心配する佳耶。そこまで念を入れられてしまうと、僕までが不安になってくる。
「大丈夫だって。もう痛くないし」
 僕も繰り返しそう返事したけれど、
「念のため、診てもらったほうがいいんじゃない?」
 成羽にまで気を遣われてしまった。
「確か、レンタル屋さんのちょっと横に救護ブースがあったと思うよ」
「うん」
 そういえば、レンタルショップの隣に、赤い十字が目印のテントがしつらえてあったのを、僕も見たような気がする。痛 みは消えたものの、患部がじんじんと疼きだしてきたので、僕は成羽の意見に従おうと思った。
「おにいちゃん、歩ける?」
「うん、平気だよ」
 僕は、余計な心配をふたりにかけたくないと思って、自然な笑顔を作った。三人中、ふたりが患部を放置しておくことに 反対ときた。劣勢となってしまった以上、自分の意見を立て通すだけ無駄だ。ここは、素直に救護ブースに向かったほうが 、ふたりの心配を和らげる結果につながるだろう。それでいて、痛みの原因も解明する。一石二鳥だ。
 佳耶は、僕が陸に向かう手助けになればと、イルカの浮き袋を僕に貸してくれた。歩けないほど患部は深刻でもなさそう だけど、足を使わないで済む手段があれば、それを採るのが筋というものだ。浮き袋に乗り、クロールの要領で水をかいて 前進しながら、紐を成羽に引いてもらうという塩梅で、僕たちは浜辺に戻った。
 海から上がって、患部が空気に曝されると、痛みが再発した。痛痒い患部がどのようになっているのか、チェックしてみ る。患部は、うっすらと赤く腫れていた。蚊に刺されたときの、ちょうど倍ぐらいの大きさに膨れている。出血はしていな いものの、いかにも放っておくと悪化ししてしまいそうな張れかただ。
 僕は、患部の痛みがひどくならないうちに、救護テントに急いだ。赤い十字のマークの下に“救護ブース”と書かれてい る白いテントの前に着くと、僕は、カーテンを開けて「失礼します」と頭を下げた。
 お医者さんふうの四十くらいの男の人と、彼の助手らしき、ちょっと若い感じの女の人が、僕たち三人を迎えてくれた。 男のお医者さんと、女の助手。
(毎日のように友達の家に遊びに出かける娘とは、実は別居中……まさか、このひとたちが文音ちゃんの親御さん……な んてことはないよな)
 僕は、一瞬だけそんなことを考えて、すぐにその想像を振り払った。というよりは、思い込みだけで作り上げた想像が馬 鹿馬鹿しくなって、それに期待することを投げ出してしまった、というほうが正しいかもしれない。
 テントの中には、病院のものよりも一回り小型のベッドが三つと、いくつかの医療機器が置かれている。今のところはま だ、ベッドに横たえなければいけないような、深刻な患者は運び込まれていないらしい。
 僕は、事の次第をお医者さんに説明した。患部を見せると、彼は躊躇いもなく、これはくらげの仕業だね、という 答えを出した。診察のあと、彼は僕の患部に刺さっていた棘を抜いて、消毒液を塗り、防水加工のちょっと大きめの絆創膏 をその上に貼ってくれた。
 幸いにも、このあたりの海には、強い毒性を持ったくらげは棲息していないのだそうだ。それで、処置は普通の掠り傷の 場合と同じもので済んだのだった。
 傷口の手当が終わると、僕はお礼を言って、成羽と佳耶を連れてテントを出た。すると、前方から、別行動を続けていた 文音ちゃんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「ふみちゃん!」
 佳耶の呼びかけに反応するように、文音ちゃんは、サーフボードを抱えている腕とは反対の腕を挙げた。
(あれっ……?)
 僕は、徐々に大きくなっていく文音ちゃんのシルエットに、なにか引っかかるものを感じた。サングラスもかけているし 、黒いウェットスーツも、青と黄色のボードもさっき見たのと同じ。だけど、なにかが違う。その違和感の正体には、文音ち ゃんがある程度の距離まで近づいてきたことでわかった僕だけじゃなくて、佳耶も成羽も噴き出した。
「あははははっ、ふみちゃん、なにそれ?」
「はははははっ」
 サーフィンから帰ってくるや僕たちに高らかに笑われてしまった文音ちゃんは、むすっとした顔をした。
「なんで笑うんですか。サングラス、そんなに似合ってないですか?」
 そう言って、文音ちゃんは、紐のようなものでウェットスーツに固定されているサングラスを外した。でも、それは彼女 がサーフィンに向かう前にも見たものだ。あの時点ではまだ、文音ちゃんの姿を可笑しいと思うどころか、かっこいいと思 っていた。
「違うよ、ふみちゃん」
「えっ?」
「そうじゃなくて……うぷぷっ、あははははっ!」
 腹の底から込み上げてくる笑いをコントロールできないのだろう。佳耶は、真面目に説明しようとするものの、再び体を よじらせて大笑いした。
「はははははっ。文音ちゃん、ナイスだよ!」
 涙が出るほど僕も大笑いしながら、文音ちゃんの身に起こった変化を称賛した。
「なにがナイスなんですか。おっしゃってもらわないと、このボードで制裁をお見舞いしますよ」
 文音ちゃんの顔に、憤りと笑みが呉越同舟。そろそろネタばらしをしないとまずそうな気がしたので、僕は佳耶の肩を軽 くぽん、と叩いた。佳耶は僕と目を合わせて、無言で頷く。
「こっちおいでよ、ふみちゃん」
「……えっ?」
「いいから、早く!」
「あ、待ってよ佳耶」
 いちばんに駆け出した佳耶を、文音ちゃんは追いかける。僕と成羽も、ふたりのあとを追って走り出す。
 佳耶は、海の家の前でぴたりと足を止めた。僕たちも、文音ちゃんを先頭になだれ込むように佳耶の目指したポイントに 集まる。四人が集まったところで、佳耶が指差したもの――それは、海の家の外壁に立てかけられている、身嗜み用の大き な鏡だ。
「はい。ふみちゃん、今からこの前に立ってください」
「……鏡?」
「うん。きっと、納得してもらえると思うよ」
 佳耶は楽しそうな声で言った。
 未だ、半信半疑といった面持ちの文音ちゃん。恐る恐る、彼女は鏡のほうに向かって歩いていく。鏡の前まで来ると、彼 女は、おもむろに体を左に九十度回転させて、鏡と向き合った。
「ああ……なるほど」
 なにかを悟ったらしい、落ち着きのある声を出す文音ちゃん。どうやら、僕たちに笑われた理由に、彼女はようやく気づ いたようだ。
「浜辺に帰ってきてから、なんか頭が重いな、と思ったら……」
「あっはははっ」
 文音ちゃんのうしろに移動して、鏡を覗き込んだ僕たちは、またしても笑いを堪え切れずに顎を外した。
 そう――文音ちゃんの身に起こった、僕たちがほぼ同時に気づいた変化とは、頭の上の様子だ。彼女はたぶん、一度サー フボードから落ちて、海中でもがいたのだろう。そのとき水面から顔を出したときに頭に載ったのであろう多種多様な海藻 が、今も文音ちゃんの頭の上で絶妙なアートを成している。今、文音ちゃんの姿を写真に納めることができたなら、朝の占 いで紹介される投稿写真として投稿できるかもしれない。……と、小さな夢を思い描いた矢先に、文音ちゃんはいともたや すく頭の上の海藻たちを鷲掴みにして、ぼとりと砂の上にかなぐり捨ててしまった。
「あらららら……そんなところに置いちゃったら、若布さんたちが生活できなくなっちゃうよ」
 僕とは違う理屈で、佳耶も文音ちゃんの非情な行いを残念がった。
「いいの。これは、若布さんが私を辱めた罰。侮辱罪の報いは、そんなに甘くないんだって、教えてやらなくちゃ」
「ほえー……」
 若布の命に対する価値観の開きに、呆然とする佳耶。彼女だけでなく、僕も呆然とした。
 今は、相手が若布だからまだいい。ところがどっこい、この若布を僕に置き換えてみるとどうだろう。文音ちゃんと僕は、 過去にとんでもない場所で真っ向から顔を合わせた。自宅のトイレだ。もしもあのとき、文音ちゃんの心の中に、表には現 れてこないくらいの恥ずかしさがあったなら……僕は、いつか恐ろしい報いを彼女から受けることになってしまうかもしれ ない。そう考えると、鳥肌が立ちそうな気分になった。

 

 ちょうど海の家から風に乗って流れてきたソースの香りに食欲をそそられたので、僕たちは次に、食事をとることにし た。
 端から、僕の頭の中には海に入って遊び尽くすことぐらいしかなかった。だから、ゴーグルとロッカーの鍵を覗けば、空 身同然。当たり前のように、財布はロッカーの中だ。僕は、女衆には海の家の前で待っていてもらい、一度男子更衣室まで 財布を取りに向かった。
 今日、財布をもってきているのは僕と成羽と文音ちゃんの三人。佳耶のぶんは、全部立て替えだ。財布を持ってきている のなら自分で払ってよ、と僕が成羽と文音ちゃんのふたりに促すと、ふたりは、取りに行くのが面倒だからツケで頼むと言 ってきた。
(面倒だからって……少しは僕の財布の中身のことも考えてくれよな)
 僕は溜め息をつきながら、ロッカーの鍵を開けて扉を開き、中から財布を取り出した。そして、扉を閉めると、ロッカー が吐き出した百円玉を再び投入口に入れて、しっかりと鍵をかけた。
 佳耶たちの元へ急ぎつつ、僕は財布の中身を確認する。なにかあったときのために、少しだけ多めに小遣いを抜き出して 入れてきたけど、役立つことといえば、お昼代の立て替えぐらいだろう。そんなに大層な額が入っているわけじゃないから 、大したことはできない。でも、ちょっとしたことで役に立てば、僕としては、それでも十分満足だ。
 海の家にあがって、僕たち四人はテーブルに着いた。メニューは、簡易レストランの割にはかなり充実している。ラーメ ンやギョーザはもちろん、豚丼やヘルシーサラダ、フルーツの盛り合わせまで扱っているみたいだ。早速、店員さんを呼ん で、注文をする。佳耶が「暑い夏にはやっぱりかき氷!」と提案したので、僕は彼女と同じ。成羽も、熱を帯びた体を幾分 かクールダウンするため、バニラと抹茶のアイスクリームコンボをオーダーした。最後になった文音ちゃんが、僕たちの選 択に流されずオーダーしたもの。それは、なんと“激辛スパイシーキムチチャーハン”という名前がつけられたメニュー。 彼女は、暑い中、体を熱くさせるものを食べようとしているのだ。夏こそ辛いもの、と言い張る美食家は少なからず居るけ れど、文音ちゃんもその一味だったとは。クールダウン派の三人は、ただただ驚くばかりだ。
 やがて、注文の品がテーブルに運ばれてきた。僕はブルーハワイのシロップがかかったかき氷。佳耶は同じかき氷に、メロ ンのシロップ。成羽のアイスクリームコンボには、さらにサクランボがふたつ添えられている。それを見て、おねだりをす る佳耶。成羽は笑って、サクランボをふたつとも佳耶に譲った。あとでこっそり聞いたことだけど、成羽は、あまりサクラ ンボが好きじゃないらしかった。
 そして、僕たちがかき氷やアイスクリームを平らげた頃に、ついにそれは運ばれてきた。店員さんの手によってテーブル の上に出される、真っ赤なチャーハン。キムチだけじゃなくて、唐辛子や鷹の爪なんかの存在も見受けられる。これは、一 口口に運べば本気で火を噴いてしまいそうな逸品だ。
 いただきます、と言って、文音ちゃんはスプーンで掬い上げたチャーハンを口に運ぶ。さあ、文音ちゃんの口から火は出 るか。出たときのために、消火器の位置を確認しておこう……としたが、生憎消火器は備えつけられていない。たぶん、店 の裏側にでもあるのだろう、と僕は思った。
 火は噴かなかったものの、激辛チャーハンを一口食べただけで、文音ちゃんはグラスの水を飲んだ。そんなに食べにくい ものをわざわざ選ぶ必要はなかろうに、と思いながら文音ちゃんを見ていると、彼女は突然、感動の波が体中を駆け巡った かのように身震いして、「くわーっ!」と叫んだ。どうやら、彼女は正真正銘の辛党らしい。
 二十分ほどかけて、文音ちゃんは激辛チャーハンを平らげた。途中彼女は何度も、辛さの衝撃に感動しているらしい声を 出した。
 僕は、文音ちゃんの胃が落ち着いてきたのを見計らって、みんなをテーブルから立たせた。そして、カウンターにビルを 持ち込んで、精算を済ませた。かき氷ふたつ三百円に、成羽のアイスが二百八十円、文音ちゃんのチャーハンが五百五十円 。合計千百三十円。足りるだろうか。財布を探ると、どうにか代金よりも多い額が納まっていた。
 精算を済ませて海の家をあとにすると、佳耶と成羽は、先にビーチパラソルのほうに走っていってしまった。僕は、文音 ちゃんに先にパラソルのほうに行ってくれるように言ってから、財布をロッカーに入れるべく、再び男子更衣室に向かっ た。
 更衣室に入って、さっきと同じやりかたで財布を仕舞ったロッカーに施錠すると、僕は女衆の待つパラソルの下へ急い だ。
「――あれっ、佳耶と成羽は?」
 パラソルのところまで戻ってくると、そこに居たのは文音ちゃんひとりだけ。
「とっくに海のほうに遊びに行っちゃいましたよ」
 僕のほうに顔を向けて、文音ちゃんは言う。
 彼女の傍らには、僕と成羽が必死になって空気を入れたイルカの浮き袋とビーチボールが置きっぱなしになっている。今 度は、泳ぎにでも行ったんだろうか。食事を済ませたばかりなのに、また海に入るなんて、本当に佳耶は疲れ知らずだ。
「そっか……。文音ちゃんは?」
「私ですか?」
「うん。一緒に遊びに行かないの?」
「いえ。今食べたばかりですし、もう少しあとにしようかな、と思います」
 文音ちゃんはそう言って、僕から顔を逸らして、ビーチに群れる人たちに視線を馳せた。
 僕も、空気を入れるのとくらげに刺されるのとで疲れたから、ちょっと休憩を取ろうと思った。けれども、パラソルが落 とす影の三分の二以上が、文音ちゃんに占領されてしまっている。
「隣、いいかな……?」
 僕は、含羞みながら文音ちゃんに声をかけた。
「ふふっ。構いませんよ」
 優しく笑って、腰を持ち上げる文音ちゃん。彼女が少し左に移動すると、もうひとりぶんだけ影に余裕ができた。その場 所に、僕はやおら腰を下ろす。隣の文音ちゃんに倣って、脚を前に大きく伸ばした。
 どうして含羞んだりするのだろう、僕は。文音ちゃんには、もう何回も至近距離で勉強を教えてもらっているはずなの に。佳耶の目がないからだろうか。いや、そうでもない。実際、文音ちゃんに勉強を教えてもらっているときに、佳耶が席 を外す場面はたびたびあった。
 だとすれば、僕は今、文音ちゃんのことを、ひとりの女の子――異性として意識してしまっているのだろうか。なんとな くそわそわした気持ちになって、なかなか顔が彼女のほうに向かない。
 僕が話のきっかけを作れずにいると、
「お兄さん」
 先に、文音ちゃんのほうから言葉が漏れた。
「佳人でいいよ」
 僕は、文音ちゃんに言った。
 中間試験以来、僕は文音ちゃんのことを名前で呼んでいるのに、彼女は未だに僕のことをお兄さんと呼ぶ。ここまで深い 付き合いをしておきながら、お兄さんというのは、どこかよそよそしいと感じたのだ。
「佳耶ちゃんが角を生やしますよ」
 文音ちゃんは、苦笑しながら言った。
「大丈夫だよ。今だけなら聞かれないから」
 僕も笑いながら言った。いくら地獄耳を備えた佳耶でも、波打ち際まではこの距離だ。僕と文音ちゃんの会話を判別する ことまではできまい。僕は、自分でも変に思うぐらい、心の底から自信が湧いてくるのを感じた。
「それもそうですね」
 文音ちゃんは、すぐに僕の言ったことに納得した。
 思えば、僕が文音ちゃんの隣に座ることも危ぶまないで、成羽と走っていった佳耶も馬鹿だ。文音ちゃんが僕の部屋で家 庭教師をしてくれているときは、あんなに鋭く目を光らせているのに。楽しい時間は、日頃感じている小さな心配事や悩み を包み隠してしまう、ということだろうか。僕は、頭の中の記憶にアクセスして、そんなことを歌った諺がないか、思い出 そうとした。
「――佳人さん」
 そんな僕の思考の糸を、文音ちゃんはあっさりと裁断した。
「うん?」
 返事をしてから思った。やっぱり、家族以外の女の子に名前で呼ばれるのは気恥ずかしいな、と。
 文音ちゃんは、伸ばしていた脚をすっと引っ込めて、体を前に倒した。そして、両腕で膝を抱えて、三角座りみたいなポ ーズを取った。
「佳人さんは、今の佳耶ちゃんが好きですか?」
「……えっ?」
 聞かれて、僕は答えるのに戸惑った。というより、文音ちゃんの質問自体が、なんだかまともじゃないな、と思った。
 “佳耶が好き”?
 確かに、佳耶のことは嫌いじゃないし、疎ましくも感じない。でも、好きなんて言ってしまうのも考えものだ。
 好き、という言葉には、何段階ものレベルがある。好みの好き、友達の好き、恋人の好き、夫婦の好き。いろいろあるけ れど、友達の好きと、恋人の好きは互いに干渉できない。恋人同士が友達の好きを使うはずがないし、友達同士で夫婦の好 きなんて言うのは幼稚園児のおままごとぐらいだろう。つまり、僕と佳耶がもし、お互いのことを好きと言うのなら、それ は友達の好きであってもいけないし、恋人の好きであってもいけないのだ。
 じゃあ、兄妹の好き? いや、違う。家族の好き、だ。異性だったり、発想が違っていたりという垣根さえ意識しない、家 族の好き。
「うん、好きだよ」
 答えにたどり着くのに少し手間取ってしまったけど、僕は、思うそのままのことを言葉にして言った。
「そうですか」
 文音ちゃんは、一度前を見て間を置いてから、顔の向きを変えずに言った。
「それならきっと、佳耶ちゃんも幸せだと思います」
「うん」
 僕は、文音ちゃんの言葉に頷いた。
 佳耶には、いつだって幸せでいてほしい。佳耶がそう感じることが、僕が彼女を大切にしていることであっても、家に帰 ればいつも文音ちゃんを含めた家族に会えることでも、楽しい時間を過ごせることであっても。
 佳耶の辛さは、僕の辛さ。佳耶の幸せは、僕の幸せだ。それだけは、胸を張って言える。
「あのとき……覚えてますか? 私が、佳耶ちゃんの作ったアップルパイを独り占めしようとしたときのこと」
「うん。そんなこともあったね」
 文音ちゃんの言葉に、僕は思い出し笑いをする。
 文音ちゃんに対する僕の第一印象は、“厚かましい女の子”だった。
 鍵もかけずにトイレにこもっていたり、佳耶がみっつ作ったアップルパイを、僕が戻ってくるまでにふたつも平らげてし まったり。佳耶と肩を組んで、父さんや母さんの前で僕のことを茶化したり。佳耶に比べれば、随分と扱いにくい子だな、 と思った。
「それに、三人でランニングした夜のこと。あのとき私は、佳人さんに、佳耶ちゃんをしょわせたまましゃがんでもらいま したよね」
「うん」
「全部、私がああいうふうにお厚かましいことをさせてもらったのは、そうしても、佳人さんが佳耶ちゃんのことを煩わし くお思いにならないか、っていうことを、試していたんです」
「えっ……?」
 僕は、文音ちゃんの口から初めて聞いた彼女の胸算用に、驚きを感じた。
「どうして、文音ちゃんがそんなことをするの……?」
 焦りを感じながら、僕は問いかけた。
 今だから文音ちゃんと呼ぶ間柄にまでなっているけれど、僕は、高校にあがるまでは、彼女のことを名前でしか聞いたこ とがなかった。顔も性格も、ほかにはなにもかも知らなかったのだ。
 そんな彼女が、僕の勉強の手助けをしてくれることはあっても、佳耶を大切にしているかどうかを試すなんて。僕には到 底、そのことが必要だとは感じられない。
「……知りたかったんです。佳人さんが、どの程度まで佳耶ちゃんに心を許されてるのかを」
「そんなの、文音ちゃんが知ってもなんにもならないんじゃ……」
「いいえ、そんなことはありません。私としても、とても参考になります」
「………?」
 僕は首を傾げた。
 参考になるってことは、文音ちゃんにも、実は年下の兄弟がいたりするんだろうか。それで、どうすれば僕と佳耶みたい な軋轢のない関係を築けるのかを、家庭教師をする代わりにこっそりと学び取っていたのだろうか。いや、そうだとすれば 、矛盾することがある。文音ちゃんは、“学び取る姿勢になった”んじゃなくて、“知っていることを試した”だけのはず だ。アップルパイの横取りも、佳耶を背中に乗せたまましゃがむように言ったのも、そこに僕の佳耶を大切にする気持ちが 表れるということを知っての行動だった。だから、どう考えても、文音ちゃんが参考にした僕の気持ちが、彼女の私生活に 反映されるとは思えない。
 だとしたら……。
「参考にして、どうしようって思ってたの? まさか、それで僕たちが今よりももっといい関係になるようにするつもりだ ったとか……?」
「それも、あながち間違っていないと思います」
「えっ?」
 僕は、ふと文音ちゃんのほうに顔を向けた。だけど僕が見た彼女の顔は横顔で、その表情は把握しにくかった。
 文音ちゃんの言っていることはつまり、僕が佳耶を大切にする気持ちから、僕と佳耶の関係を揺るぎないものにする秘策 を見出だそうとしているということだ。
 だけど、そこまでわかっても、家族でもない僕たちの仲を取り持とうなんていう彼女の企ては理解できない。
「私は、佳人さんに尽くしてもらえて幸せそうに笑う佳耶ちゃんが大好きです。でも、そうすることで、佳耶ちゃんと幸せ を共有していらっしゃる佳人さんの嬉しそうなお顔を拝見するのも、なんだか胸がほっとして温かくなるんです」
「……」
「佳人さんが佳耶ちゃんに幸せを与えられて、佳耶ちゃんは、佳人さんほどは器用じゃないかもしれないけど、しっかり幸せの お返しをして……恩返しをしているんだと思います。佳人さんに優しくしてもらったぶんだけ、自分もなにか、佳人さんの ためになるようなことがしたいって……佳耶ちゃんは、いつもそう思って努力をしてるはずです」
「うん……」
「だから、佳人さんもそれに応えて、佳耶ちゃんの気持ちが伝わったことを態度で示されます。それを受けて、また佳耶ち ゃんが笑って、佳人さんが笑って……。私は、おふたりのことを拝見していて思うんです。この兄妹は、幸せの連続の上に 成り立ってるんだな、って……」
「……」
「だから、いつまでもそれが続くように、私も微力ながらおふたりのことを応援させてもらいたいんです。それこそ、兄妹 の輪に入り込んだみたいに……」
「文音ちゃん……」
 彼女の話を聞いて、僕は思った。文音ちゃんは、“厚かましい子”なんかじゃない。親友と、その家族のことまでを想う 、思いやりのある女の子だ、って。
「佳人さん」
「うん?」
「もしもの話ですけど……もし、ある日突然佳耶ちゃんが佳人さんのことを忘れてしまったら、どうなさいますか?」
「……えっ?」
 文音ちゃんの言葉に、僕は驚いた。
「知ってたんだ、佳耶の病気のこと……」
 文音ちゃんは、確かに、今まで僕たち家族に深入りするような話はしなかった。だから僕は、彼女が佳耶と、深くはあっ ても表面的な付き合いしかしていないものだと思い込んでいたのだった。
「はい。始めの頃、佳耶ちゃんが部屋で宿題に取り組んでるときに、お母さんから聞かせてもらったんです。突然記憶をな くしてしまう病気を患っていて、もしかしたら私のこともある日突然忘れられてしまうかもしれないけど、それでもいいか 、って」
「母さんが……?」
「そうです。後日、お父さんからも同じことを聞かれましたけど……私は、答えを変えませんでした」
 思い詰めた顔で、文音ちゃんは続ける。
「たとえ記憶をなくしてしまったとしても、佳耶ちゃんは佳耶ちゃんです。私の親友が“佳耶ちゃん”という存在であり続 ける限り、私と佳耶ちゃんは親友どうし。だから、記憶が戻るまで、私はずっと待ちます」
 言葉の終わりに、穏やかな微笑みを添える文音ちゃん。
「……佳人さんは?」
 文音ちゃんの質問は中途で切れていたけど、僕はなにを聞かれているのかを瞬時に判断した。
「僕なら、できるだけ思い出してもらうように努力すると思う」
 文音ちゃんが家康なら、僕は秀吉だ。
 僕が言うと、文音ちゃんは途端に眉を寄せた。
「思い出させるのは、かえって佳耶ちゃんにとって負担になるんじゃないですか?」
 言われて、僕は、駅に集合したときに取り繕ったことを思い出す。佳耶に一切を忘れられていた成羽に、僕は、佳耶に負 担がかからないように、自分のことを思い出させないように言ったのだった。
 でも、それは成羽だからの話だ。お医者さんは、目にする機会が多いひとほど忘れにくいとは言っているけれど、もし、 僕自身の一切が忘れられたならば、僕は佳耶を佳耶として見ない。家族である僕が佳耶の目に他人と映れば、僕にとっても 彼女が佳耶でなくなってしまう。万一そうなったら、僕自身が彼女を佳耶に――兄のことならなんでもよく知っている妹に 戻してやらなければならない。
「構わないよ。僕は、記憶をなくした佳耶が、佳耶だと思えなくなることのほうがよっぽど堪えられない。僕にとって、佳 耶はいつでも、佳耶じゃなくちゃいけないんだ。だから、少しでも早く僕のことを思い出してもらって、なくした幸せをも う一度、佳耶と一緒に掴みたい」
「どれだけ、佳耶ちゃんが頭を痛めてもですか?」
「……うん。そのぶんだけ、僕も同じ痛みを抱えるから……少し荒療治だけど、僕は、佳耶が僕を忘れてる時間をできるだ け短くして、切り詰めた時間の長さだけ、幸せに変えることができたらな、って思うよ」
「……そうですか」
 僕の意見を聞いた文音ちゃんは、とても満足そうに笑った。
「やっぱり、佳人さんの佳耶ちゃんを想う気持ちには敵いませんね」
「……うん」
 血の繋がった妹だから。大切な家族だから。ともに幸せな時間を過ごすことが、僕たちの絆。もしもその絆が突然切れて しまったときは、僕が意地でも元通りに修復してみせる。みんなが笑顔になれるような、ベストな状態に僕が戻してや る。
 佳耶が僕のことを忘れる確率は、とても低い。でも、明日大地震が起こるかもしれないのと同じように、それは明日のこ とかもしれない。僕は、望まない不幸が万一佳耶の身に降り懸かったときのために、今から気を強く持とうと思った。
 僕はそれから、佳耶の話を一旦終わりにして、食事を取る前に文音ちゃんがやっていたサーフィンについて、いろいろと 聞いてみた。初めて波に乗ったのは、意外に最近のことだったり。彼女の着ているウェットスーツと、脇に置いているボード も、実はレンタルしている商品だったとか。お父さんが若い頃サーファーだったとか……。
 そのあとで、ふたつ年上の僕に勉強を教えることができるほどの頭の良さを作り上げたものはなんなのかを、僕は文音ち ゃんから聞き出そうとした。けれども、それは薮蛇だったかもしれない。彼女は、僕の勉強にかける熱意が足りていない、 と主張するだけで、その気があれば誰だって頭は良くなります、と豪語したのだった。
 どれくらいの時間が経っただろう。すっかり文音ちゃんと話し込んでしまっていると、前方から、見慣れた影がこちらに 歩み寄ってくるのが見えた。ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくるのは、先に遊びに行ったという成羽だ。しかし 、元気に走り出した割には、妙に足取りが重い。熱中症で気分が悪くなりでもしたのだろうか。
 僕がそう思っていた人物は、成羽が近づいてくることで急に変わった。
 佳耶だ。成羽は、佳耶を背負ってこちらに歩いてきている。僕は途端に立ち上がって、パラソルの影から飛び出した。
「佳耶っ!」
 僕は走った。どうして佳耶が成羽に背負われているかはわからないけど、とにかく心配になって走った。
「佳人っ」
 成羽は、駆けつけてきた僕の名前を呼んだ。彼女の肩には、眠っているような表情の佳耶の頬。
「どうしたの、佳耶?」
 僕は、ほとんど成羽を頭ごなしにするように、佳耶の安否を尋ねる。
 しかし、成羽に背負われた佳耶は、僕の問いかけに目も口も開かなかった。
「さっき急に倒れちゃって……それで、取りあえず連れて帰らなきゃって思って……」
 成羽の言葉は、彼女の心を支配する焦りのせいで、不均一なトーンを出している。
「倒れたって……」
 僕の脳裡に、また佳耶の発作のことがよぎった。佳耶が記憶をなくしたとき、状況が理解できなくなると、彼女の発作は ひどくなる。茫然として、自分がどうして今のような状態になったのかをあてもなく考えて、混乱して――最後には、意識 を失ってしまいかねない。佳耶の主治医は、確かにそう説明していた。これまで一度たりとも立ち会わなかったその最後の 段階が今、佳耶の身に起こっているのだ。
 だけど僕は、どうしてこうなったのかということよりも、佳耶に意識がないことのほうが気掛かりで仕方がない。
「一度パラソルのところまで戻ろう」
 僕は、成羽を促した。
「……うん」
 頷いて、成羽は佳耶を背負ったまま歩き出す。僕も踵を返して、ふたりでパラソルの下に向かった。そんな僕たちをパラ ソルの下で迎えてくれた文音ちゃんも、佳耶の顔を見るなり、心配そうに目を細めた。
 僕は、成羽の背中から佳耶の体を預かった。気のせいか、彼女の体重が軽く感じられるような気がする。
 童話の中のお姫様みたいに胸に抱きかかえた佳耶を、僕は、ゆっくりと下ろしていく。パラソルの影に頭から膝までが入 るように寝かせる。改めて佳耶の顔を見ると、それはまさに、感情のない顔だった。さっきまで輝いていたはずの笑顔はも う、面影すら残らないほどに消えかけている。
「佳耶……大丈夫か?」
 か細い妹の肩を軽く揺り動かしながら、僕は彼女の耳元で呼びかけた。が、なおも返事は返ってこない。
「……あたしはたぶん、熱射病になっちゃったんだと思う。佳耶ちゃん、倒れるちょっと前に、頭がくらくらするって言っ てたから」
 成羽が言った。
 彼女は、佳耶が倒れたときの仔細を知っている、ただひとりの人物だ。だから、僕は、彼女の言うことを信じたい。発作 のせいだなんて、認めたくない。
「気分が悪いとか……例えば、吐き気がしたとか、そういうことは言ってませんでしたか?」
 文音ちゃんが訊ねる。
「ううん、それは言ってなかったけど……」
 成羽はそう答えた。
 文音ちゃんが成羽に訊ねたこと。それは、どこかしらお医者さんを思わせるものだった。
(もしかして、文音ちゃんは本当にお医者さんの……娘さん?)
 僕は、俄かに期待を寄せた。しかし、次に文音ちゃんが考え込むような仕種を取ったのを見たとき、僕の期待はうたかた のように消滅したのだった。
「喉が渇いたとか、そんなことは?」
「ううん、それも言ってない」
 そのあとも、文音ちゃんは成羽にいくつか証言を求めて、代理問診みたいなことをしたけれど、彼女が実際に佳耶の体に 触れて応急処置をする気配はなかった。
「なにしてるんだよ、文音ちゃん! ぐずぐずしてたら、佳耶の状態が悪くなってしまうかもしれないじゃないか」
 ふたりのやり取りを見ているのが鼻持ちならなくて、僕は声をあげた。
「落ち着いてっ、佳人」
「成羽っ。妹がこんな状態になってるのに、落ち着けるわけないよ。今すぐにでも救急車を呼んで病院に連れていってもら わなきゃ、僕は心配だよ!」
 頭に血が上って、僕は本気で自分の意見を出した。
「大丈夫だって。熱射病だったら、ちゃんと処置したら治るから、まずは救護テントまで佳耶ちゃんを運んで、そこで診て もらうほうがいいよ」
「じゃあ、もしそうじゃなかったらどうするんだよ? 熱射病なんて、成羽が勝手に決めつけてるだけだろ? それで万が一 手遅れになって、佳耶が元の状態に戻らなかったらどう責任取ってくれるんだよ!?」
「それは……」
 成羽は、僕から目を逸らして言葉を詰まらせた。彼女の顔までが、次第に、自分の力ではどうにもならないんだという失 意の色で塗り変えられていく。
 佳耶は、僕の妹だ。たとえ成羽の言うことが的を得ていたとしても、それが百パーセント真実だといえない限り、僕は納 得することができない。僕だって、同じように、発作が原因だということに自信が持てないでいる。だから、百パーセント 正しい、本当の答えが欲しかったのだ。
 それ以上言葉を紡ぎ出せなくなってしまった僕と成羽に、ふと届く声があった。
「お兄さん、聞いてください」
「……」
 僕は、無言で首を擡げ、文音ちゃんの顔を見た。
「佳耶ちゃんは、このあと私が引き取ります」
「……えっ?」
 完全に、予想の外にあった言葉だった。
「引き取るって……文音ちゃんの家に?」
「そうです」
「そっそれじゃあ、ちゃんとした処置ができないんじゃ……?」
「いいえ。できます」
 自信を湛えた、文音ちゃんの声。強い気持ちが表れた、彼女の顔。
 文音ちゃんの表情は、彼女の言った言葉に根拠がなくとも、頼もしいと感じるほどしっかりとしている。成羽に無責任な ことを言われたときは憤ろしく感じられたのに、どうして、文音ちゃんだとそう感じるどころか、逆に安心してしまうのだ ろう。佳耶のことで頭がいっぱいだった僕には、ただ、文音ちゃんの言葉が心を宥める魔法のように思われた。
「お兄さん……それに成羽さんは、なんとしても佳耶ちゃんを失いたくないはず。そうですよね?」
「……うん」
 僕は頷いた。成羽も、神妙な顔で文音ちゃんを見つめる。
「私に、佳耶ちゃんのこと、すべて任せてもらえませんか?」

 

 佳耶が突然倒れたことで、僕たちが海水浴場をあとにする予定の時刻は、二時間も繰り上がった。
 着替えが終わり、再び僕たちが集合したとき、佳耶の姿は文音ちゃんの背中の上にあった。小柄な彼女に任せるのは忍び ないと思って、僕が佳耶を背負うのを願い出ると、文音ちゃんは丁重に断った。
 電車の中では、ずっと文音ちゃんの肩にもたれ掛かっていた佳耶。僕は、表情を失った佳耶の顔を見るたびに、今彼女が 持っている彼女らしさを否定した。僕の目には、佳耶が、佳耶であることの一切を放棄して、空しい器と成り果ててしまっ たように見えたのだ。
 中猪の駅に戻ってくると、僕と文音ちゃんは、心苦しそうな顔をする成羽を見送った。そして、僕は、佳耶を背負った文 音ちゃんと、またふたりきりになった。
「……文音ちゃん」
「はい」
「君のお父さんかお母さんって、お医者さんなんだよね」
 僕は、前から思っていたことを、直接本人に訊いてみた。
 彼女が普段着ている白衣は、伊達に見えて、実はそうじゃないのかもしれない。公園でランニングをしていて佳耶が足を 捻挫したときも、さっき佳耶が倒れたときも、応急処置こそしなかったものの、彼女は佳耶のそばにいて、佳耶を安心させ てやろうとした。その献身的な態度は、どうしても僕には親譲りに見えてしまう。患者さんの健康を第一に考え、悪いとこ ろがあればなにがなんでも治そうとする意志に通じるものが、文音ちゃんの行動から幾度となく伝わってきたのだ。
「それで、腕利きのお医者さんだから、文音ちゃんも両親のことを信じて、佳耶を託そうとしてくれてるんだよね」
「そうおっしゃれば、似たようなものなのかもしれないですね……」
 焦燥感から言葉を急いだ僕に、文音ちゃんは、少し残念そうな顔をした。
「でも、私の親は、お医者さんではありません」
「……えっ?」
 驚く僕に構わず、文音ちゃんは言葉を続けた。
「お医者さんとは違います。でも、誰かを助けられる可能性が十分あるという意味では、同じだと思います」
「誰かを、助ける……?」
「はい。お医者さんが患者さんの体を治していくみたいに、私の父も、人の心と体……それを取り巻く環境までを改善する ことに心血を注いでいます。だから、私もそんな父を尊敬していて……誇りに思ってるんです」
「……」
 文音ちゃんは、どこともつかぬ中空に視線をやっている。彼女はその先に、誇らしい仕事をするお父さんのビジョンを見 ているのだろうか。さながら、文音ちゃん自身がプロジェクターとなり、お父さんの勇姿がプラネタリウムのお星様になっ たみたいに。
「……佳耶は」
 僕の漏らした言葉に、文音ちゃんはふと顔を向ける。
「本当に、佳耶は助かるの……?」
 僕は憚りながら訊ねた。
 文音ちゃんの両親が腕利きの医者ではないという事実を聞かされて、僕の、文音ちゃんを信用する心は揺らいでいた。
 お医者さんと同じ、心と体のケアを図る仕事といったら、介護士か、心理カウンセラーぐらいのものだ。そんな仕事をし ている人に、果たして佳耶が助けられるだろうか。いや、それでは畑違いというものだ。
 僕は心にもなく、文音ちゃんを疑った。しかし、彼女は、
「はい。ちゃんと、助かります」
 一度自分が出した答えを変えようとはしなかった。
「どうして、お医者さんじゃないのに助かるって言い切れるの……? どこかに、佳耶の病気を完全に治せるお医者さんがい るの……? それとも……」
 それとも、文音ちゃん自身が佳耶の病気を治すというのか。いくら頭が良くて、白衣でそれらしく着飾っているとはいえ 、そんなのは有り得ない。
 僕はただ、文音ちゃんの自信がどこから湧いてくるのか、それが知りたくてたまらないだけだ。
 少しの間、文音ちゃんは、顔を俯けて黙り込んだ。鼻だけで、彼女はいっぺん、深く息を吸って、溜め息みたいにそれを 吐き出す。そして、再び顔を上げて、彼女は、僕の目に向けて真っ直ぐに視線を走らせた。
「……お兄さん」
「……」
「もう一度だけ、お兄さんの気持ちを聞かせてください」
 眦を決した文音ちゃんの表情に、僕は一瞬圧倒されそうになる。唾をごくりと呑んで、僕は彼女の顔と同じくらい真剣な 気持ちで、ゆっくりと首を縦に振る。
「お兄さんにとって、佳耶ちゃんは誰よりも大事で……佳耶ちゃんのことが好き。それで、間違いありませんね?」
「……うん」
 僕は今一度、首を縦に振った。
 文音ちゃんも、佳耶が助かるということを二度目にも認めたのだ。ここで僕が自分の主張を飜すことはしたくないと思っ た。
 文音ちゃんはまた、呼吸を整えた。そして、僕に告げた。
「お兄さんに、本当のことを話すのは、今がラストチャンスかもしれません」
「……えっ?」
「今、私が背中におんぶしてる佳耶ちゃんは……お兄さんがよくご存知の佳耶ちゃんじゃないんです」

もどる<<< | 3章「れっつ・しょっぴんぐ!」へ<<< | >>>5章「綺麗な嘘と、醜い真実」へ