第5章 綺麗な嘘と、醜い嘘
La vérité cachée sous un beau mensonge, elle est soudainement venue chez moi.

 ――今、私が背中におんぶしてる佳耶ちゃんは……お兄さんがよくご存知の佳耶ちゃんじゃないんです。
 その言葉を聞いた瞬間、僕の心臓の鼓動は俄かに早くなった。
 佳耶が、佳耶じゃない?
 文音ちゃんの言ったことは、まるで空を掴むかのようだった。
 佳耶が佳耶でないというのに、僕がそのことに気づかないことがあるだろうか。僕は、佳耶のことをいちばん理解してい る人間だ。彼女の考えることも、外見も、仕種も、他人の知らないところまで知っていると言える自信がある。そんな僕の 目に、佳耶が生まれてから今まで、佳耶は佳耶として映っていたはずだ。
 なのに、文音ちゃんは、それを否定した。僕が佳耶と認めていたはずの少女を、佳耶ではないと言い切った。当然、僕が その言葉を理解できるはずがない。
 僕は、心の中になんともいえない気持ち悪さを感じた。それは、無念だとか、憤りだとか、悲嘆だとか、そういった感情 とは種類の違う、一言で言えば変な感覚だった。
「佳耶じゃないって……なんだよそれ?」
「言葉のとおりです」
 文音ちゃんは、真面目な表情を保ったまま言った。
「じゃあ、文音ちゃんが背負ってるのは、佳耶以外の誰だっていうんだよ」
 僕の口調が、自然と強くなる。文音ちゃんの説明に感じたもどかしさが、だんだんと憤りに変わっていくせいだ。
 昨日まで――いや、さっき電車に揺られていたときまで僕の目には佳耶だった佳耶が、いつの頃からか、文音ちゃんの目 には佳耶じゃなかったというのだ。そもそも、どうして、そんなことになったのか。僕は、そこから理解に苦しんでい る。
 文音ちゃんは、そんな僕をさらに混乱させる言葉を口にした。
「結論から言えば、佳耶ちゃんです」
「……え?」
 一瞬、脈絡が掴めなかった。
 佳耶が佳耶でないと言った舌の根が渇かぬうちに、文音ちゃんはまったく正反対のことを言った。佳耶を、佳耶だと認め たのだ。
 どっちが正しくて、どっちが間違いなのか。僕の頭の中で、正解と間違いとが引っ切りなしに入れ代わっていく。
「今、そうじゃないって……」
「ええ。確かに、私が背負ってるのはほかならぬ佳耶ちゃんです。でも……」
 文音ちゃんは、辛そうな気持ちを顔で描いて、僅かに僕から目を逸らす。
「お兄さんが知っていらっしゃるところまでは、佳耶ちゃんになりきれていない……不完全な佳耶ちゃんなんです」
「………?」
 まるっきり、意味がわからなかった。
 佳耶が不完全だって? いったい、なにが不完全だというのだろう。
 その前に、一個人に、完全や不完全なんていう言葉を使うのがおかしい。
「それじゃなんか、佳耶が物だって言われてるみたいじゃないか」
 僕は言った。
 物――たとえば作品には、製作途中を意味する不完全な状態と、出来上がりを意味する完全な状態がある。でも、ひとり の人間をこのふたつの状態に分けることはできない。なぜなら、生まれたときから、常にひとりの人間として“完成されて いる”からだ。
 僕の言葉を聞いた文音ちゃんが返した言葉。それは、僕の心を深く傷つけるものだった。
「そうです。この佳耶ちゃんは、『物』と考えてもらって差し支えありません」
「……!?」
 佳耶が、『物』?
 ついさっきまで、僕が人間だと思っていた佳耶が……?
 すぐには信じられなかった。
「『物』でしかない佳耶ちゃんに、お兄さんは到底気持ちを許すことはできないと思います」
「ち、ちょっと待ってよ。『物』って、いったいどういうことなんだ?」
 慌てながら、僕は尋ねる。
 文音ちゃんは、詫びいるような顔をして答えた。
「今、私の背中にいる佳耶ちゃんは……本当の佳耶ちゃんではありません。本当の佳耶ちゃんにできるだけ似せて造ったも のです」
「つくった……って!?」
「文字通り、人造人間とか、クローンとか……そういうふうに考えてもわらなければなりません」
「…………」
 文音ちゃんの説明に、僕は言葉を失った。
 人造人間、クローン。そういった“進みすぎている科学”を、僕は何度もテレビの中で見た。何本もの大きな試験管のな かに液体が満たされ、そこに、母親のお腹の中にいる胎児のような生き物が入っていて……たくさんのコードが試験管から 伸びている、薄暗い研究室。そこで育った『人造人間』は、姿こそ人間そっくりだけど、気性が荒かったり、知性を欠いて いたり。現実世界に生きる人間とは、根本的に違う生き物だという印象があった。
 そんな環境で、僕が今目にしている佳耶は生まれ、育てられ、この姿になったとでもいうのか。そんなものは、この時代 ではまだ、アニメや映画の中でしか起こり得ないことのはずだ。姿も佳耶で、性格も佳耶で、考えかたや身体的特徴まで佳 耶そのものである彼女は、何度人造人間だと言われたって、そうは考えられない。どう見ても、生身の佳耶だ。
「嘘だろ……? これは、僕の妹の佳耶だよ。人造人間なんかじゃなくて、本当の佳耶だよ」
 僕は、文音ちゃんの言ったことを鵜呑みにしたくなくて、それを真っ向から否定した。
 それを聞いた文音ちゃんはまた、口を噤んだ。
「僕が今まで体で感じたぬくもりも、心で感じた温かさも、全部ひっくるめて佳耶だよ。それが人造人間のものだなんて、 僕は信じない。絶対に有り得ないよ!」
 僕は、目玉が落ちそうなほど大きく目を見開いて、文音ちゃんにまくしたてた。
 そんな僕を見て、文音ちゃんは、さらに顔を俯けて、目を細くする。
「どんなにお兄さんが力強く否定されようと……この佳耶ちゃんが造られたものだという事実は覆らないんです。なぜな ら……」
 文音ちゃんは、顔を上げて、僕と目を合わせた。
「この佳耶ちゃんを造ったのが、私だからです」
「………っ!!?」
 まさかとは思っていた。でも、そのまさかだった。
 僕は、驚きのあまり言葉を返すことができない。目の前の、少し頭が良くて思いやりを心の奥深くに秘めた少女が、佳耶 を――いや、佳耶に似せた人造人間を造った張本人。常識では太刀打ちできないことだった。
「どうして、文音ちゃんが佳耶を……?」
 造らなきゃいけなかったの、と聞きたかったけど、僕の口からそんな言葉が出てくるはずはなかった。それほど、佳耶が 造られた存在だという事実を認めることを、僕は拒んでいたのだ。
「私が佳耶ちゃんを造ったのは……少しの間だけでも、お兄さんのことを安心させてあげたかったからです」
「……えっ?」
「お兄さんにとっていちばん辛いことは、最愛の佳耶ちゃんが自分のそばにいないこと……そうですよね?」
「そばにいないって……佳耶はいつも僕のそばに居てくれたじゃないか」
「その佳耶ちゃん……お兄さんが佳耶ちゃんだと認めてあげることのできる佳耶ちゃんは、今は、病院に居ます。受け入れ がたいとは思いますけど、ベッドの上でたくさんの器具を装着させられて……明日をも知れない命を生きています」
「なっ……!?」
 文音ちゃんの言っていることが真実だとすれば、それは、初めて耳にしたことだった。
 少なくとも、家族からは、そんなことを一度も聞かされた覚えはない。何度か検査入院とかはしたことがあったけど、そ のまま入院を続けねばならないとお医者さんから言われたことはなかった。判断力と記憶とを失うその瞬間だけが佳耶の病 気の症状で、それ以外のときは、健康な少女と言ってもなんら問題のない状態だったのだから。
「それは、本当の話なの……?」
 もはや、文音ちゃんが今まで打ち明けてきたことのうち、どこからどこまでが真実なのかすら判別がつかなくなっていた 。だから僕は、ひとつずつ、真実なのかそうでないのかを確かめていこうと思った。
「本当です。佳耶ちゃんが今入院しているところは、桃ヶ丘総合病院というところの、集中治療室……それほど、深刻なん です」
「……いつから、佳耶はそこに居たの?」
 僕は尋ねた。それに対する文音ちゃんの答えに、愕然とすることも予期しないまま。
「今年の三月からです」
 文音ちゃんの言葉が、急に僕の脳裡に辛い記憶のかけらを呼び集める。
 高校にあがるちょっと前。僕は、横断歩道の上で立ち尽くす妹の姿を見た。彼女は、歩行者用の信号が赤に変わってしま っているにもかかわらず、一歩も動こうとしなかった。僕は我を忘れて駆け出した。大通りの信号が青に変わり動き出した 車に目もくれず、足がちぎれてしまいそうな勢いで走って、佳耶を抱き留めた。耳のすぐ横で、けたたましいトレーラーの クラクションが鳴った。ふたりは、間一髪のところで歩道に転がり込んだ。佳耶が提げていた買い物袋からたくさんの野菜 や果物が散乱するのが見えた直後、僕は頭に鈍い衝撃を受けて、意識を失った。
 “勇気の歩道”の上で起こった、僕が今まで生きてきたなかで最も強く佳耶を助けたいと願った事件。それは、文音ちゃ んの言った三月に起きたものだった。
「それって、僕が佳耶を庇って気を失ったころじゃないか……」
 思えば、文音ちゃんが毎日のように家に遊びにくるようになったのも、そのあとだった。それまで僕は、彼女の名前は聞 いたことがあっても、顔は見たことがなかったのだ。
「そうです。あのとき、お兄さんに庇われた佳耶ちゃんは……一週間の間気を失われていたお兄さん以上の深手を負ってい ました。お医者さんの話だと、後頭部から脳内出血があったらしくて……打ち所が悪かったんだと思います。意識不明の重 体でした」
「重体……そんな……」
「その出血でできた血のかたまりは、手術では取り除きにくい、とても危険な場所にあったんです。お医者さんはそれでも、 わずかな可能性に賭けて手術を行われ、最低限生命の維持に差し障りのないところまで、血栓を除去されました。でも……そ のあとも、佳耶ちゃんは意識を取り戻す様子はありませんでした。だから、お医者さんは……苦しいけど、佳耶ちゃんに余 命宣告を出したんです。あの事故の日から、もって二ヶ月、と……」
「………!?」
(余命だって!?)
 僕は脳味噌が揺さぶられるような感覚を覚えた。
 余命を宣告されるということは、死を約束されるということ。言い換えれば、生命にピリオドを打たれるということなの だ。
 お医者さんの余命宣告は、必ずしも正しいものではない。亡くなった僕のおじいちゃんが、それを証明している。彼は、 幼少の頃体が弱く、お医者さんから、五歳まで健康でいられることはないだろう、と言われた。さらに、十五歳まで生きる ことはないだろう、とも言われた。だけど、おじいちゃんは、日々の生活を見直して、長寿に努めた。その努力が実を結び 、彼は、僕が小学六年生だった年、七十八歳になるまで矍鑠と生きた。佳耶も、もし病院の集中治療室で文音ちゃんが言っ たような有り様になっているにしても、宣告より二ヶ月も長く生きていることになる。
 けれども、佳耶がおじいちゃんのように長らえるかどうかは、半々の確率であるにすぎない。宣告の期限を過ぎている以 上、明日死んでもおかしくはない状況なのだ。
「四ヶ月も僕は……佳耶を無視してた……」
 僕は、あの事故のあと意識を取り戻したとき、傍らで寝ていた『佳耶』を見て、一週間も意識を失ったままで――なにも してやれなくて、すまないと思った。
 だけど、僕が佳耶になにもしてやれなかったのは、一週間じゃなかったのだ。それよりももっともっと長い、四ヶ月。僕 は、こんなにも長い間、本当の佳耶を気遣ってやることができなかったのだ。
「どうしてあのとき、僕に言わなかったんだよ!?」
「お兄さん……」
「それって、文音ちゃんが僕に言わなかっただけじゃなくって、母さんや父さん、それに病院の先生まで僕に佳耶がなんと もないみたいに嘘をついて、僕を喜ばせようとしてたんじゃないか!」
「………はい」
「どうしてそんな、僕だけが騙されなくちゃいけないんだよ。なんで本当の佳耶を大切にしたいって気持ちを、邪魔されな きゃいけないんだよ!?」
 口から唾が飛ぶのも省みず、僕は大声で言った。額のあたりに、有りっ丈の体温が集中するような熱さを感じた。
「……申し訳ありません」
 文音ちゃんは、頭を深く下げて僕に謝った。
 しかしそれは、気が動転した僕にとって、暖簾に腕押しだった。
「こんな、人が造った人間で僕が安心できるわけないだろ!!」
 叫んで、僕は文音ちゃんと『佳耶』の前から走り去った。「お兄さん……!」という、文音ちゃんが僕を呼び止める声は 僕の耳には微かに聞こえたけど――僕の心には、まったく聞こえなかった。

 

 すべてが嘘に見えた。行き交う人々の笑った顔も、商店街の賑やかさも、明るい太陽の光も、商店街の賑わいも――僕を 取り巻く世界が、全部、嘘に見えた。
 走りながら、僕は考えた。人は、どうして嘘なんかつくんだろうと。
 答えは簡単だ。真実が醜いものだから。女の人は醜い顔を隠すために化粧をするだろうし、利益が伸び悩む会社は売り 上げを水増しするだろうし。嘘を使うだけで、あたかも真実が綺麗になったように見える。皮肉ながら、便利な道具だと思 う。
 でも、その嘘がばれて、隠されていた醜い真実があらわになったとき、嘘はカムフラージュの道具ですらなくなってしま う。人は隠れていた醜い真実を正当化しようとして、それまで綺麗だったはずの嘘を、真実よりも醜いものとして見ようと するのだ。
 僕は最初、あの事故のあと意識を取り戻してベッドから起き上がったとき、難を逃れた佳耶の姿を見て、胸を撫で下ろし た。そのあと、僕が退院してからも、以前とは何ひとつ変わらない佳耶の立ち居振る舞いに、僕は、自分が彼女を庇ったこ との意義を噛み締めた。冗談を言って笑わせたり、ちょっとからかってみたり、僕のことを心から励ましてくれたり……陰 となり日向となり、佳耶は僕を支えてくれたはずだった。
 だけど、それは全部嘘だったのだ。本当の佳耶は、僕をからかったり、笑いかけたりすることもできずに、ただ、病院の ベッドの上で生死の境をさまよっていた。もっと言えば、本当の佳耶は、文音ちゃんに造られた佳耶に、僕に接する機会の すべてを奪い取られてしまっていた。嘘の微笑みを僕に向けて、嘘のからかい文句を僕に贈り、嘘の約束を僕にさせ た……造られたほうの『佳耶』が、今は憎くて憎くてしょうがない。
 商店街を抜け、運よく青信号だった大通りを渡る途中で、僕の目から大粒の涙が零れ落ちて、頬を伝った。それを腕で拭 うこともせずに、顔を俯けて、僕は走った。周囲の人間――とくに、文音ちゃんが『佳耶』を本当の佳耶に見せかけていた という嘘から逃れたいがために、遮二無二走った。
 やがて中猪公園に入った僕は、ある場所を目指した。それは、公園の真ん中にある、少し盛り上がった丘のような場所だ 。僕はその場所で、昔、佳耶とたくさん遊んだ。そこには、成羽もいた。三人で、丘の頂上までかけっこをして、そこから 段ボールの橇で滑り降りたり、雑草をいっぱい服につけながらごろごろと転がったり。母さんたちを困らせるくらい、たく さん遊んだ。
 今でも、その記憶を呼び覚ませば、小さな三人が遊ぶ場面は鮮やかに僕の脳裡に甦る。成羽も、もしかしたらそのことを 覚えてくれているかもしれない。
 だけど、文音ちゃんが造った『佳耶』は、成羽のことを覚えていなかった。三人で遊んだ頃の記憶を持たなかった。そん な大切な思い出を忘れてしまうなんて、本当の佳耶じゃ有り得ない。三人の思い出は、発作に潰されるようなやわなものじ ゃないのだから。
 ひたすら、思い出の丘を目指す。犬を散歩させている人にぶつかりそうになりながらも、走った。そこに、僕と本当の佳 耶との確かな思い出がある。僕の求める“真実”があるのだ。
 僕は走った。涙で顔が歪んできてもなお、走り続けた。ふと顔を上げれば、正面には思い出の丘。確か、高見の丘なんて いう名前がついていたっけ。
 丘の麓にたどり着いた。もう少しだ。もう少し走って、頂上に着けば、僕の思い出が鮮やかに甦る。醜い嘘がハンマーで 叩かれた硝子のように割れて粉々に砕け散り、真実が姿を現すのだ。
 息をするのが辛い。脚が痛い。でも、思い出に触れたい。真実に触れたい。僕は、必死に頂上を目指す。
「……ぅあっ!」
 あとちょっとで頂上にたどり着くというところで、僕は足を絡ませて転んだ。でこぼこ石に思い切り膝を打ちつけてしま い、焼けるような痛みが膝で起こる。脳髄まで痛みが走った。僕はぎゅっと目をつぶって、痛みを堪えた。立ち上がって 、もう一度頂上を目指そうと思った。けれども、脚が言うことを聞かない。打ちつけた右膝から、右脚全体に痛みの波動が 伝わって、脚がコントロールできなくなってしまったのだ。
 僕は、真実に触れる一歩手前で挫折してしまったことに、遣る瀬ない悔しさを感じた。歯を食いしばると、また涙が目か ら零れ落ちて、地面を濡らした。
 嘘から逃げて、でも真実には届かなくて――僕は、すべてのものから見放されるような感覚になった。僕をこの世界に繋 ぎ止めている糸みたいなものが、ひとつまたひとつ、音を立てて切れていくような気がした。心がどんどん僕の親しんだ 風景から遠ざかっていくような錯覚が、僕を惑わせた。
 ――これが、『孤独』?
 なんともいえない気持ちだった。寂しいという感覚じゃない。空しいという感覚でもない。悲しいという感覚でもなけれ ば、不幸という感覚でもない。ただ、僕はすべてのものから見放された存在だという思いが、僕の頭の中を駆け巡るだけだ った。
「――おにいちゃんっ」
 僕が転んで、動けなくなってしまってから、どれくらいの時間が流れていたのだろうか。その声を、僕はしばらく振りに 聞いた気がした。
「……佳耶……」
 振り返ると、佳耶が立っていた。彼女は心配そうな目で、僕を見つめている。
 彼女は、真実だろうか。それとも、真っ赤な嘘だろうか。
 僕の心は――体がこんな状態になっているというのに、ジャッジを下すのが早かった。
「僕に、近寄るな」
 僕は、声を震わせながら言った。いや、出した声がどうしようもなく震えていたというほうが正しいかもしれない。それ くらい、自分では感情を操ることが困難になっていたのだ。
「……どうして」
 僕を見下ろす佳耶が言った。
「どうして、近寄っちゃだめなの?」
 佳耶は問いかけた。彼女の声は強く、僕とは違う震えかたをしていた。
「決まってるだろ……お前が、僕の知ってる佳耶じゃないからだ」
 僕は言った。
 目の前の佳耶が、真実なのか、嘘なのか。頭で考えるよりも先に、僕の心が――すべてのものを嘘だと見ていた心の闇が 、彼女を佳耶だと見做すことを拒絶したのだった。
「わたしが、佳耶じゃなかったら、おにいちゃんに近寄っちゃだめなの?」
 佳耶は、責っつくように僕に訊ねた。
「………」
 僕は、言葉を返さないまま、佳耶から顔を背けた。
 目の前にいる佳耶は、嘘の『佳耶』だ。つい昨日まで佳耶だと信じていたのに、そうじゃなかった『佳耶』だ。僕は、彼 女を否定しなければならない。彼女から目を逸らし、真実に目を向けなければならない。
 それしか考えられないでいる僕に、佳耶は続けて言った。
「なんで、わたしが佳耶じゃなかったら、おにいちゃんに近寄っちゃだめなの? どうしておにいちゃんはわたしから逃げ ようとするの?」
「うるさい! もう僕のことおにいちゃんなんて呼ぶな!!」
 僕は、感情に任せて叫んだ。振り返り、再び見えた嘘の『佳耶』は、固まっていた。僕を見ているようで、なにかほかの ものを見ていそうな、焦点の定まらない目。小刻みに震える、小さな唇。釣り上がった両肩。ぐっと握られた拳。彼女は、 赤らんだ顔を俯けた。
「どうして、おにいちゃんって呼んじゃいけないの……? わたしが佳耶じゃなかったら、おにいちゃんって呼んじゃいけ ないの……? ……そんなの変だよ!」
 佳耶は、がばっと顔を上げた。
「今までずっと、わたしはおにいちゃんのこと、おにいちゃんって呼んでたはずだよ。おにいちゃんも、わたしのことずっ と、佳耶だって認めてくれてたはずだよ!?」
 声を荒げて、彼女は言った。
「………」
 僕は言葉を発しない。嘘の『佳耶』に言葉をかけて、彼女の言い分に頷くこと自体が、本当に手にしなければならない真 実を裏切り、落ちぶれて醜くなった嘘を認めてしまうことになる気がした。
「わたしは……昨日のわたしと同じだよ。姿も、考えかたも、全部、昨日までおにいちゃんが見てくれていたとおりのわた しだよ。でも、おにいちゃんのほうが、なんか変わってしまったんだよね。だから、わたし、おにいちゃんに逃げられてる んだよね。……そうだよね!?」
「…………」
「返事してよ! うんとか違うとか、なんでもいいから言ってよ! じゃないと、わたし、おにいちゃんのことがわからない 。おにいちゃんの気持ちがわからないよ!!」
「…………」
 佳耶の顔が真っ赤に染まるのを見ても、僕はなにひとつ言葉を返さなかった。
 嘘の『佳耶』が口に出す言葉もまた、真実だとは言えない。彼女が、僕のことをわかろうとしているかなんて、やすやす 信じられることじゃないのだ。
「……ほっといてくれよ。僕は、佳耶じゃない佳耶となんて、喋る気になれない。僕の気持ちを嘘の『佳耶』に伝えたって 、なんにもならないんだ」
 なにも言わないつもりだったけど、僕の口からは、『佳耶』をさらに遠ざけようとする言葉が自然と漏れた。
「……なんにもならないって、どうしてそう言い切れるの? わたしが……ほんとうの佳耶じゃないわたしが、おにいちゃ んの気持ちを理解できないっていうの? そんなの、勝手に決めつけないでよ」
 佳耶の声のトーンは、少し落ち着いた。しかし、震えは依然として止まらなかった。
「そんなの……おにいちゃんが自分勝手に思ってるだけだよ。わたしは、おにいちゃんが今のわたしを見て思うことが知り たい。おにいちゃんが、どうしてわたしから逃げたいのか、ほんとうの気持ちが知りたいの。それを知って、そうならない ように今の状態を変えたいだけだよ!」
 佳耶は、声高に言った。
 彼女が言いたいことは、痛いほど理解できた。目の前に立っている嘘の『佳耶』は、まるで本当の佳耶がそうしているみ たいに、僕のことを心配してくれている。僕の心を雁字搦めにしている鎖を、ひとつずつ解いていこうとしてくれているの だ。
 でも、それはみんな、僕の信じることができない、嘘の『佳耶』が考えていることだ。ベッドの上で人事不省の時に身を 委ねている本当の佳耶の考えじゃない。僕が信じられるのは、僕が知っている本当の佳耶の考えることだけだ。
「……僕は、本当の佳耶に気持ちを伝えたい。それで、本当の佳耶が僕の話を聞いて思ったことを、本当の佳耶の口から聞 きたい。だから、もう……」
 一瞬、言うのに躊躇った。けれども、言わずにはいられなかった。
「僕には、君の心配も、なにもかも必要ないんだ」
 その一言で、僕は、目の前の『佳耶』のすべてを否定した。彼女と一緒に過ごした四ヶ月を、一切合切否定した。
「………ばか」
 顔を伏せて、佳耶は、消え入りそうなくらい細い声を漏らした。
「おにいちゃんのばか……。ほんとは、わたしの気持ちをわかろうとしないんじゃなくって……わたしの気持ちも、ほんと うのわたしの気持ちも全然わかってないくせに」
「…………」
 僕は、返す言葉を探らなかった。
「……確かに、わたしはほんとうの佳耶じゃないよ。おにいちゃんの、本当の妹じゃないよ。でもね……」
 一瞬、佳耶の言葉が途切れる。しかし、すぐに彼女は続けた。
「わたしは、ほかの誰よりもおにいちゃんのことが大好き。いつも優しくしてくれるおにいちゃんが、そばにいてくれるか ら、わたしは生きていける。これだけは、絶対おにいちゃんに信じてほしい。嘘じゃないんだって、思ってほし い……」
「………佳耶」
 僕は、そのとき、心の奥でなにかが壊れるような音を聞いた。
 今、僕は、目の前に立っている嘘でしかないはずの佳耶を、佳耶と呼んだ。佳耶とは認めたくなかったはずの造りものの 少女を、佳耶という名前で呼びかけた。
 なぜなのか、わからなかった。心でも、目の前の佳耶を否定していたはずだった。だけど、僕は彼女の名前を呼んだ。な にか得体の知れない力に動かされ、僕は無意識のうちに、ほんの少しだけ、彼女を認めたのだ。
 佳耶は僕の顔を見て、目に物を言わせるような目つきで言った。
「ほんとうのわたしも、今は病院のベッドで意識をなくしてて、伝えたいことをおにいちゃんに伝えられないまま眠り続け てるけど……きっと、長い長い夢の中で、早く元気な顔をおにいちゃんに見せて、喜んでほしいって思ってるよ。大好きな おにいちゃんともう一回幸せな時間を過ごしたいって。そのためにも、早く今の状態を打ち破らなきゃって思って、必死に 格闘してるはずだよ!」
 佳耶の目から、涙が零れ落ちる。その涙の粒は、憤りや苦しさなどのあらゆる感情が赤く染め上げた頬を伝い、不規則な 早さで筋を描いた。
 佳耶の言葉をひとつ聞くたびに、僕の心に絡みついていた鎖が壊れた。嘘をただ醜いと思い、彼女を否定しようとした心 の闇が、太陽のような佳耶の言葉に照らされた。
 嘘の『佳耶』は、不必要な存在なんかじゃない。彼女は、なくてはならない存在だったんだ。本当の佳耶の気持ちを、気 強く代弁してくれた『佳耶』。もし、彼女が最初から僕のそばにいなかったなら……僕は、本当の佳耶の気持ちを知ること ができないまま、永遠に自問自答を繰り返していた気がした。本当の佳耶の気持ちから自分を遠ざけて、独り善がりな答え ばかりを自分に与えていそうだと思った。
 目の前の佳耶が嘘でしかないからといって、彼女のことを必要ないなんていう筋合いは、僕にはない。彼女は、僕の欲し かった答えを届けてくれたのだ。僕が探し求めていた――丘の頂上にたどり着いていても得られなかっただろう“真実”を 、彼女は僕に示してくれたのだから……。
「……ごめんな」
 僕は、心から詫び入るように言った。
「……僕、大事なことを忘れてた。問題は佳耶が本当の佳耶なのかそうじゃないのかってことなんじゃなくて、僕が本当の 佳耶の気持ちを端から考えようとしなかったことなんだ……。僕は、嘘が間違いで、真実が正解だとばかり思ってた」
「………うん」
「……でも、佳耶は嘘じゃなくて、真実を僕に教えてくれた……。そこまでしてくれたのに、なにもかも必要ないなん て……僕のほうが間違ってたよ。……ほんとうに、ごめんっ……」
 佳耶とはもともと姿勢が違っていたけど、僕はそんなことも考えずに、額を地面につけて土下座みたいな格好で謝った。
 それに対する佳耶の反応は、思いのほか温かかった。
「まったく……どうしておにいちゃんは、どうしてこんなに物分かりが悪いのかなあ……。わたし、いい加減嫌になっちゃ いそうだよ……」
 僕が佳耶の言葉に惹かれるように顔を上げると、彼女が左の手で涙を拭うのが見えた。佳耶は、そんな僕の顔の前に、右 の手を伸ばしてきた。
「つかまって」
 佳耶が言った。僕は頷いて、彼女の小さな手を取った。ぐっと足に力を入れて、立ち上がろうとする。まだ膝を擦り剥い たときの痛みは尾を引いていたけど、佳耶の助力を得て、僕はなんとか立ち上がることができた。
「ありがとう……佳耶」
 僕は、赤い顔の佳耶に向かって言った。
 僕も、彼女を否定していたときは、満面朱を注ぐような表情を彼女に見られていたかもしれない。そう思うと、さっきま での意地が、途端に恥ずかしく思えてくるのだった。
「わたし……もう、おにいちゃんのこと、おにいちゃんって呼んでもいい……?」
 さっきまで見下ろしていた僕の顔を見上げて、佳耶は、そう問いかけた。
「うん……いいよ」
 僕は頷いた。
 もう、嘘だからといって、佳耶を否定したりなんかしない。嘘であれ本当であれ、僕が向かい合っているのは佳耶にほか ならない。佳耶以外の何者でもないんだ。
「……おにいちゃん、わたし……っぐ」
 佳耶は、僕の胸の中に顔を埋めて、しゃくりあげた。きっと、これから自分が作ってしまうであろう泣き顔を、僕に見ら れたくないんだろう。
 僕が、佳耶の幸せを見つけてあげたときもそうだった。背後からそっと腕を肩に回したとき、佳耶は、びっくりしたよう に僕のほうに向き直るやいなや、僕の胸に顔を埋めた。そして、声をあげて泣いた。小さな肩をぶるぶると震わせなが ら、泣いた。
 今も同じだ。気強い言葉を僕に贈り続けていたはずなのに、僕が立ち直ると一転、佳耶は額を僕の胸に預けた。たぶん、 こうやって僕自身が立ち直れたことが、彼女にとっての幸せだったに違いない。僕の荒んだ姿を一目見たときから、佳耶は 、僕に正しい心を取り戻してほしいと切に願っていたんだ……。
「僕は……本当の佳耶のことが好き。でも、『佳耶』のことも……大好きだよ」
 腕を拡げて、僕は華奢な佳耶の肩を抱きしめた。温かい、佳耶の体。すっかり熱くなってしまった、佳耶の額。彼女の体 温は、彼女の心が温かいことの証だ。
(なにもわかっていなくて……なにもわかろうとしなくて、本当にごめん。それから、ほんとうの佳耶の気持ちを伝えてく れて、ありがとう……)
 何度もそう思いながら、僕は、殊勝な『妹』の柔らかな頬に、頬擦りをした。

 

 仲直りといったら、変に聞こえるだろうか。
 本当の佳耶の代わりを務めてくれている『佳耶』を受け入れた僕は、駅の駐輪場に自転車を取りに行くため、佳耶の手を しっかりと握って、歩き出した。
 僕が小さかったとき、毎日こんなふうに、佳耶とは手を繋いでいた。それで、幼稚園にいるときや、公園で遊ぶとき、佳 耶のもう一方の手には、いつも成羽の手が握られていた。いちばん小さい佳耶が真ん中で、先輩の僕と成羽が彼女の両脇に ついて、仲良く三人でスキップをしたりしていた。そんな懐かしい思い出を語っても、『佳耶』は、首を縦には振らなかっ た。「楽しい思い出があるおにいちゃんが、わたしはとっても羨ましいよ……」と言って、苦笑いをするだけだった。
 だけど、それならばそれでいい。『佳耶』がそのことに心当たりがないのは、発作で記憶をなくしてしまったからじゃな くて、最初から知らされていなかったからなのだ。文音ちゃんもきっと、本当の佳耶が心の中に大事にしまっていた思い出 までは想像しなかっただろう。
 過去の思い出も大切だけど、今という時間は、もっともっと大切だ。繋いだ手が本当の佳耶の手じゃなくても、それが幸 せだと思えるなら、過去にこだわる必要なんてない。僕は、本当の佳耶にはちょっぴり疚しいことを考えながら、繋い だ『佳耶』の手をぎゅっと握りしめた。今、ふたりがこうやって手を繋いで歩いている幸せは、ほかの誰の幸せにも負けや しない。僕の手の握力を感じたのかこちらを振り向いた『佳耶』に、僕は笑顔を見せた。すると彼女も、えへへ、と笑っ た。

 

「……あれ?」
 再び駅前商店街を抜けて、駐輪場に戻ってきた僕の目は、文音ちゃんの姿を同じ場所に捕らえられなかった。
「ふみちゃん、いないね」
 佳耶もあたりをきょろきょろと見回す。改札の近くにも、ビルの影にも、彼女はいない。ちょうど、トイレにでも行って いるところなのだろうか。念のため、駅員さんに尋ねに行こうとした僕の肩を、
「ああ、きみきみ」
 と言いながら叩いて呼び止める人がいた。
「はい」
 僕は、返事をして振り返った。すると、声の主が見えた。何度かお世話になっている、自転車監理のおじさんだ。
「僕ですか?」
 そう尋ねると、おじさんは佳耶のほうをちらっと見て言った。
「横からもこっと髪の毛が出てる女の子と一緒に歩いてきた男の子……だから、たぶんきみのことだと思うんだけど」
「もこっと……ああ、たぶん合ってると思います」
 僕は答えた。
 もこっとというのは、きっと、佳耶のヘアースタイルのことを指していっているのだろう。また、文音ちゃんはえらく言 い得て妙な表現を使ってくれたものだなと、僕は苦笑した。
「眼鏡で白衣の女の子がそう言ってたんですよね」
 僕が言うと、
「あ、ああ。そうだよ」
 言おうとしていたことを言われて焦ってしまったのか、おじさんは歯切れの良くない返答をした。
 僕は、おじさんの言葉を聞いた段階で確信していた。こんなことを言うのは、文音ちゃんをおいてほかにいない。彼女は 、僕が佳耶を連れてここに戻ってくるとわかっていたのだ。そう信じていたから、おじさんに言伝を残したんだろう。
「なんて言ってました? その子」
 なんとなく想像はついたけど、僕は一応おじさんに尋ねてみた。
「えーと、そうそう。先に家に帰ってるからって言ってたよ。その子のうちじゃなくて、きみのうちに」
 おじさんは、顔を佳耶のほうに向けて言った。
 つまり、文音ちゃんは自分の家じゃなくて、僕たちの家に先に帰ってしまったということだ。彼女が真っ直ぐ家に帰らな くても両親がなんとも思わない理由は、未だにわからない。でも、文音ちゃんがこの時間になるとうちに来るのはいつもの ことだから、大して僕は驚かなかった。
「どうも、ありがとうございます」
 僕はおじさんにお礼を言って、会釈をした。佳耶も、それに続いて体をぐいっと前に倒す。おじさんは「いやいや」と言 って笑った。
 保管してもらっていた自転車に鍵を差して、ロックを外す。左手でハンドルを、右手でサドルを支えて、僕は自転車を引 っ張り出した。
 自分の体の前に現れた自転車を見て、佳耶が口を開く。
「ねぇ、おにいちゃん」
「うん?」
「帰りは、わたしに漕がせて」
「……えっ?」
 僕はびっくりした。
 佳耶が自転車を運転して、僕がうしろ。街でそういった、あべこべにバイクや自転車に乗っているカップルを見かけたこ とはあるけど、僕たちがそれをやったらどうなるだろう。きっと、すごく不自然だぞ――率直に僕はそう思った。
「行きはわたしが乗せてもらったから、今度はおにいちゃんがうしろ。だめ?」
「……だめ」
「えーっ、なんで?」
 駄々をこねる子供みたいに、佳耶は、口をとんがらせて僕に抗議する。
 僕は、三人の女の子を前にして、いつも決定権を奪われてばかりだ。文音ちゃんにも先に帰られてしまったし、成羽には 、もう何度言いくるめられてしまったか思い出せない。だから、せめて佳耶の上には立ちたいと思ったのだ。
「なんでって、恥ずかしいから」
 僕は、思ったことをストレートに言葉にする。
「……それ変だよ」
 佳耶の顔に表れた不満の色は薄らぐどころか、より濃いものになっていく。
「わたしたち、兄妹だよ?」
 佳耶は、あっさりとその言葉を口にした。もしも、この言葉を十五分前の僕が聞いたら、怒りを爆発させていたかもしれ ない。
 でも、今の僕には、そんな感情は起こらなかった。それどころか、佳耶が言った言葉が、本当の佳耶が言いそうなほど鉄 面皮だったことに、僕は笑い出しそうになった。
「おいしょっと」
「あーっ、ちょっとおにいちゃんっ、ひとの話をちゃんと聞いてよお!」
 佳耶の言葉を無視して自転車のハンドルを握り、ストッパーを蹴り上げてサドルに跨がろうと脚を上げる仕種をした僕に 、佳耶は腕を上下に忙しく振り動かしながら抗議をする。
 やっぱり、おんなじだ。本当の佳耶の前で同じ仕種をしたら、たぶん、彼女も同じような反応をするだろう。
 目の前にいる佳耶が、佳耶じゃないなんてことはない。彼女もまた、れっきとした佳耶なんだ。
「……っと思ったけど、やめた」
「……ほぇ?」
 僕の挙動に、佳耶は、ぽかんとした顔つきになった。
「僕、うしろでいいよ」
 蹴り上げたばかりのストッパーを元に戻して、僕はハンドルから手を離した。
「えっ……ほんと?」
 言うが早いかうしろの荷台の前に移動した僕を見て、佳耶は、ぱっと顔を明るく笑わせる。
「うん。商店街に入るまでなら」
「……がくっ」
 佳耶の肩が沈んだ。
「それじゃやだよ。っていうかおにいちゃん、やっぱり恥ずかしいんじゃん……」
「あははっ。冗談だって、冗談。うちまで乗せてってくれたら僕の脚が疲れないから大助かりだよ」
「………途中で降ろすよ?」
「ああいやいや、冗談冗談。これも冗談だから。だジョーォダンいじんっ……」
「……………」
 佳耶が白けた顔をして黙り、僕が冷汗を流す。少しの間、時間が止まったような気がした。
「よいしょっと」
「……おいおいっ!」
 今度は、佳耶のほうが僕に構わず、ストッパーを上げてサドルに跨がった。
「早く乗って。じゃないと、あと五秒で発進しちゃうからね。いーち、にーい……」
「うわととと……っ」
 佳耶のカウントが早かったので、僕は慌てて荷台に跨がった。またしても、僕の言い分は通用しなかった。まあ、 しょうもない冗談で時間を稼いでいれば、呆れられて当然なのかもしれないけど……。
「しーい、ごっ。それじゃあ、出発しんこー!」
「うほぁーっ!」
 僕が荷台に乗った直後、自転車は勢い良くスタートした。なんとか佳耶の肩を掴み、僕が思ったこと。意外と佳耶って、 二人乗りの運転が上手いんだな。

 

「ただいま!」
 僕を乗せた自転車が、だんだんと家に近づく。佳耶が挨拶をしたときは門扉の前で誰かが僕たちのことを待ってくれてい るのかな、と思ったけど、僕の目にも、ほどなくその人物の姿は映った。
「おかえりなさい」
 優しい笑顔で僕たちを迎える文音ちゃん。彼女の前で、佳耶は自転車を急停止させた。
 ――キキーッ!
「うわっとっ!」
 前につんのめり、浮いたお尻が荷台の骨組みに打ちつけられる。じんわりと、お尻のあたりで衝撃が広がった。
「こら、佳耶っ」
「あわっ。は、はいっ」
「急ブレーキなんてかけられちゃ、びっくりするじゃん」
「えへへ……ごめんなさい」
 うなじを指先で引っ掻きながら、佳耶は決まり悪そうに苦笑した。それを見て、文音ちゃんも口元に手を宛ててくすくす と笑う。
「なにかの罰ゲームですか?」
 文音ちゃんが訊ねる。
「いや……まあ、そんなんじゃないんだけど……」
 文音ちゃんにほくそ笑まれると、僕まで恥ずかしくなってしまう。
 罰ゲームと言われれば、そうなのかもしれない。佳耶のことを嘘の『佳耶』だと言って否定し続けた僕に咎があるのは、深 く考えなくともわかることだ。ただ、その罰だと思えばそうなるだけで、実際に佳耶が僕に罰を与えようとしたのではない だろうけど。
 んしょっ、という掛け声を出しながら、佳耶はサドルを降りる。それに続いて、僕もお尻をうしろにずらして荷台から降 りた。
「お似合いでしたよ、逆ツーリング」
「……ばっ!」
「ふっ、ふみちゃん!」
 佳耶の顔が、一瞬のうちに真っ赤になる。文音ちゃんのいけしゃあしゃあとした冗談には、僕も俄かに頬の内側が熱くな るのを感じた。
「ツーリングって、自転車じゃなくてバイクだよっ」
 佳耶は、文音ちゃんのほうに体を乗り出して言った。
「おいおい……それ、つっこむところが違うだろ」
 僕は呆れて言った。
「……ほえ?」
 佳耶は、僕に間の抜けた顔を向けた。けれども、まだ顔は赤いままだ。きっと、恥ずかしさを全身に駆け巡らせるあまり 、どさくさに紛れてギャグを口走ってしまったのだろう。僕も、文音ちゃんに恥ずかしがらせられた人間だから、漫才のよう な会話しかできない佳耶の気持ちがよくわかった。……というか、僕も実際、佳耶につっこみを入れてしまっていたのだっ た。
「さあさあ、ちょうど今夕ご飯の支度をしてるところですよ。佳耶も、お兄さんもあがってください」
「文音ちゃん……気持ちはありがたいんだけど……」
 僕と佳耶の言葉は、次のタイミングでぴったりと重なった。
「ここ、僕のうち」
「ここ、わたしのおうち」

 

 佳耶が途中から手伝ったおかげで、夕ご飯は母さんと文音ちゃんのふたりだけで作っていたときの、倍以上のペースで進 んだそうだ。食器を並べるのだけでも手伝おうとしたけれど、キッチンには、すでに僕が動けるだけの余裕がなかった。そ んな僕の代わりに配膳係を務めたのは、文音ちゃん。聞けば、彼女は佳耶と違って料理が苦手らしい。だから、配膳と皿洗 いだけでもお手伝いをして、晩ご飯を食べさせてもらっているぶんは返せたらと思う。文音ちゃんは、父さんも加わった食 卓で、そう話した。彼女が心の内を明かしたあと、お決まりのように、父さんは僕に言った。「佳人も、文音ちゃんぐらい 恩義を忘れない子だったらな」と。
 結局、晩ご飯を食べ終えるまで、母さんも父さんも、それから文音ちゃんも、僕と佳耶との間に一時生じた摩擦を疑わな かった。鏡で確認していないからわからなかったけど、僕が泣き腫らした目は、うちに帰ってくるまでに元に戻っていたの かもしれない。佳耶がなんともなかったぐらいだから。
 僕と佳耶と文音ちゃんの三人が二階に上がり、それぞれの部屋に別れて入ってからしばらくすると、いつもの声がドアの あたりで響いた。
「とんとんとーん……」
 佳耶だ。僕は席を立って、ドアのところまで歩いていく。ノブに手を置いて、ゆっくりと回す。そっとドアを手前に引い た。
「佳耶」
「おにいちゃん、今大丈夫?」
「うん」
「ふみちゃんがね、おにいちゃんに話したいことがあるんだって。入れてあげてもいいかな?」
「うん。構わないよ」
 僕がそう言うと、佳耶の影から文音ちゃんがぬらりと姿を見せた。
「よろしくお願いします」
 文音ちゃんは、何故か改まって僕に丁寧な挨拶をした。
「う、うん。なんかまた、きわどい表現だね……」
 僕は苦笑しながら言った。
「おにいちゃんっ」
「はい?」
「……ふみちゃんに、も、し、も、なんかしたら、おにいちゃんのこと未来永劫嫌いになっちゃうからね」
「そんなことしないって!」
「ふふふっ」
 いちいち出される佳耶の警告に手を焼く僕を見て、文音ちゃんは面白いものでも見ているような笑いかたをする。
「……というか、佳耶は一緒に入ってこないの?」
 僕は訊ねた。
「うーん……大丈夫そうだから自分の部屋でおるすばんしとこうかな、って思ったけど……心配だから入る」
 佳耶はそう答えた。
「なんだよそれ……」
 呆れて、僕は声の調子を落とす。
「まあ、みんなまとめて入ってよ。あんまり片付いてないけど」
「じゃあわたしが片付け係ね」
「待った!」
 僕は、広げた手の平を佳耶に向けて声を張り上げた。
「片付けなくてもいいです」
 僕が言うと、
「いいえ。それは無駄です。なぜなら、わたしには強制的におにいちゃんのお部屋をお掃除させてもらう権利があるから です」
 佳耶は変に真面目ぶった顔で、僕の口調を真似して言った。
「……また秘密の場所が増えましたか?」
 気味が悪いほどにやりと笑いながら、佳耶が僕に言い寄る。
「いえ、それは断じてございません」
「じゃあ片付けさせてね」
「あーっと!」
 もう一度、僕は待ったをかけた。
「僕からひとつ条件」
「なあに?」
「片付けてもいいけど、床の上とお布団だけね」
「じゃあ、それ以外がいわゆるハッピーワールドなんだね」
「……!」
 僕は固まった。今出した条件は、完全に……。
「薮蛇でしたね」
 文音ちゃんは、にっこりと笑いながら僕の図星を言い当てた。
「大丈夫だよ、おにいちゃん。個人的なハッピーは、プライバシーだし。侵害したら訴えられちゃうから、わたしはしませ ん」
「どうだか……」
 僕は、突然起こったある種の頭痛を堪えることを強いられた。取りあえず、佳耶を部屋の中に入れてみないことにはわか らない。佳耶が僕の条件を無視したら、摘んで外に出せばいいだけのことだ。僕は、佳耶の言葉を信用して、ふたりを部屋 の中に入れた。そして、ドアをゆっくりと閉めた。
「毎度ながら、男臭いお部屋ですこと」
 部屋に入り込むなり、佳耶はあたりを見回しながら、僕の部屋にけちをつけた。
 そりゃそうだ。男の部屋が女っぽかったら、それこそいい吐き気の材料になる。もし、佳耶がそういう部屋を体験したい と言うのなら、僕は迷わず、一度訪ねたっきり上がるのを遠慮させてもらっている、自称オタクのアマちゃんの部屋を彼女 に紹介したいと思う。
「……ベットの上ぐらいしか空いてないけど、よかったらそこ座って」
 僕は、取り急ぎベッドの上に置いてあった脱ぎっぱなしのシャツやジャージのズボンを丸めて床に下ろした。すると、床 の見えている部分の面積が、目に見えて少なくなった。
「それでは、失礼します」
 文音ちゃんが最初にベッドに腰かける。そのあとで、「ずっきょ〜ん!」という意味不明な叫び声を上げて、佳耶がベッ ドにダイブした。弾みで、文音ちゃんの体がぴょんと持ち上がる。なんというか、この状態で表情ひとつ変えないでいる文 音ちゃんが、傍目には可笑しい。
「佳耶、あんまりダイブしたら父さんから説教が飛んでくるぞ」
 僕は、老婆心ながらそう声をかけた。
 ここは、あくまでも二階だ。一戸建てだから、下の階に知らない人が住んでいるマンションよりはまだいいけど、一階に はリビングダイニングの、リビングの部分がある。あまり下に音を響かせると、ゆっくりと寛いでいる父さんや母さんに迷 惑をかけることになってしまう。
「大丈夫だよ。わたし、おにいちゃんよりも軽いから」
 楽しそうに、佳耶は言った。
「………」
 僕は閉口した。
 こんな、冗談で会話し合うところまで本当の佳耶とそっくりだなんて、文音ちゃんは、いったいどういう技術を使ってこ の『佳耶』を生み出したんだろうか。……ということを彼女に聞いたとしても、どうせ企業秘密が関の山だろうから、あえ て僕はそのことに頓着しないようにした。
「あ、そうだ。こんなことしてる場合じゃないや。わたし、お片付けをしなきゃいけないんだった」
 ベッドの上にダイブしたばかりだというのに、佳耶は思い出したように身を起こして、ベッドから降り立った。そして、 まずは、粘着シートのローラーを手に持って、カーペットの見えている部分を掃除し始めた。
 僕は、佳耶には気の済むまで掃除をさせておくことにして、机の椅子を引き出した。それを文音ちゃんの座っているベッ ドの方向に向けて、僕も腰を下ろした。
「それで、文音ちゃん……話したいことがあるって?」
 僕は、本題に入ろうと、佳耶の俊敏な動きを目で追いかけていた文音ちゃんに尋ねた。
「はい。とっても、大事なお話です」
 文音ちゃんは、佳耶から僕に目を移して言った。
「本当は、ずっとこのことは申し上げたくなかったんですけど……佳耶ちゃんが倒れてしまった以上は、佳耶ちゃん本人 にも、お兄さんにも打ち明けることを避けられなくなってしまいました」
 申し訳なそうな顔をして、文音ちゃんは言った。
 僕の喉が、ごくんと鳴った。文音ちゃんの言葉と、彼女の様子からして、嬉しいことを言われるのではないということだ けは、明らかだ。
「ちょっと待って」
「はい」
「それで……佳耶が落ち込んだりするようなことにはならないよね?」
 僕は、佳耶の精神状態を案じて、予め文音ちゃんに確認をとっておいた。
「ええ。佳耶ちゃんには先ほど、お伝えさせてもらいました。それで、本人はあの明るさですから、きっと大丈夫だと思い ます」
 文音ちゃんは、そう言ったあとで、また真剣な顔つきに立ち戻った。
「でも、問題はお兄さんです。佳耶ちゃんが造りものだという事実を認められたばかりのお兄さんには、少し、荷が重い話 かもしれません」
「うん……」
「それでも、お兄さんは私のお話を聞いてくださいますか?」
「うん」
 僕も、心構えを十分に正して、文音ちゃんの話を聞く覚悟を決めた。
 佳耶がふたりいて、そのうち、この四ヶ月のあいだ間ひとつ屋根の下で生活を共にしてきたほうの佳耶が、文音ちゃんの 造った人造人間――この事実を受け入れるだけでも、僕は、相当な労力を払った。だけど、同時に、それ以下のことには 今後一切驚かないという自信もつけた。たぶん、余程の事実が文音ちゃんの口から飛び出さない限りは、平静を保っていら れるだろう。たとえ、また僕の想像を絶するような事実が明かされたとしても、それを否定する意志さえ持たなければ、な にも恐れることはない。文音ちゃんが僕に望んでいることは、今からする話を、僕が理解することだ。彼女のためにも、そし て、多かれ少なかれ関係しているであろう佳耶のためにも、僕は、強い心を持ち直したのだった。
「わかりました。では、お話しさせていただきます」
 文音ちゃんの厳しい面持ちの中に、少しだけ安堵の色が混ざったように、僕には見えた。
「最初に、佳耶ちゃんの設計に関してなんですが……」
「……うん」
 設計、という言葉に現実っぽさを感じつつ、僕は相槌を打つ。
「当初の段階では、五年という寿命を想定して、使用する機材や薬剤などの内部構造および材料を、綿密に計算させていた だいていました。これは、お医者さんが本当の佳耶ちゃんの余命を診断された際の二ヶ月という期間を満たしつつ、それか ら先のことも展望に含めての、私独自の判断に基づくものです」
「………うん」
「ただし、この五年という期間は、佳耶ちゃんが私の想定するベストなパフォーマンスを行い続けた状況下での、寿命の最 大値だと考えていただかなければなりません。身近なものに例えるなら、食べ物の消費期限のようなものです。期限はいつ いつまでと定められていても、商品の開封や酸素に曝される時間、その他さまざまな要因によって、現在の時間から消費期 限までの時間が限りなくゼロに近づいていくという……。佳耶ちゃんの寿命に関しても、同じことが言えます」
「………」
 文音ちゃんの説明を聞いていると、否でも応でも佳耶が普通の人間じゃないことを意識してしまう。そのことを意識する ぶんだけ、僕と佳耶の間の距離が開いていくような気がした。
「八色ヶ浦で佳耶ちゃんが倒れたのは、過剰発熱オーバーヒートによるショックが原因です。これは、人間の体で考えた場合、成羽さんの おっしゃっていた熱射病のようなものだと考えても構いません」
「……うん」
「今回は海に遊びに行くということでしたので、私は大事を取って、更衣室で着替えをしていたときに佳耶ちゃんに薬剤を 投与させていただいていました。できる限り発熱を抑えて、内部の温度をイエローゾーン以下に保つための薬剤です。実験 では、四十度の環境で五時間程度、内部温度の上昇率を三分の一から四分の一程度まで抑えることに成功しています」
 淡々と、文音ちゃんは説明を続ける。
「でも、この実験結果というのは、被験体のモーションを最小限に抑えることを加味してのものです。わかりやすく言えば 、静止状態か、限りなくそれに近い状態の被験体を用いて、この結果が導き出されたわけです。……ここまで、大丈夫です か?」
 ここで初めて、文音ちゃんは小休止を入れた。
「……うん」
 話がややこしくなってきて、一瞬ついていけなくなりそうになる。僕は相槌を打ちながら、なんとか理解できた内容をよ すがとして、文音ちゃんの話に耳を傾けた。
「では続けますね。私たちの実験では、被験体が最小限のモーションを行っているという条件が付帯していましたが、今回 の佳耶ちゃんの場合、それとは異なる条件が付帯していました。すなわち、モーション の活動ダイナミック化です」
「ダイナミック……?」
「はい。お兄さんはよくご存知のことかと思いますけど、佳耶ちゃんの性質を考えてみてください。どちらかといえば、活 発で、落ち着きがないほうですよね?」
「う、うん……まあ」
「ふみちゃんっ」
 ふと、掃除にかまけていたはずの佳耶が、僕たちの話に喙を容れてくるのが聞こえた。
「やみやみとわたしをけなさないでください」
 佳耶は、しゃがんだままの体勢で、顔だけ文音ちゃんのほうを向いて、そう訴えかけた。
「ああ、気に障ったならごめんなさい。……で」
 軽く佳耶に謝ると、文音ちゃんは、それこそやみやみと話を戻してしまった。
「今回佳耶ちゃんが倒れてしまったのも、多少それが関係してると思うんです」
「……うん」
「佳耶ちゃんのモーションが活動化したとき、私が投与させていただいた薬剤の作用とは相反する作用が、佳耶ちゃんの中 では起こっていました。人間も運動をすれば代謝が活発になって体温が上昇するように、佳耶ちゃんも、激しいモーション を長時間にわたって行っていたことが原因となって、内部温度に急激な上昇が発生したんだと思います。それは、あまりに も佳耶ちゃんのモーションが活動化しすぎていたために、温度上昇を抑止する薬剤でも歯が立たなかったということを意味 します」
「……うん」
「そして……過剰発熱に耐えられず、動作回路の一部が緊急停止したことで……想定される佳耶ちゃんの寿命は、設計当初 の五年間から、半年にまで減少してしまったんです」
「……半年!?」
 僕は驚いた。
 五年から半年に縮まった寿命――それは、佳耶と一緒に居られる時間が、大きく削られてしまったということだ。
「そんな、あんなことでそこまで寿命が縮んでしまうなんて……」
「……これだけは、私の知識の範囲内で決定されていることなので、どうしようもありません」
「………」
 ショックを受けて打ち沈む僕を見て、佳耶は、眉を顰めた。
「それから、半年と申し上げたんですが、これはまだ、佳耶ちゃんが倒れた段階での想定される寿命に過ぎません。実際、 今だともう、佳耶ちゃんは一ヶ月もつかもたないかだと思います」
「……えっ!? どっ、どうして!?」
「お兄さんは、驚かれませんでしたか? あれだけ意識が戻る気配のなかった佳耶ちゃんが、お兄さんのあとを追って、今、 ここで元気な顔をしてお兄さんのお部屋を片付けてることが」
「……あっ、そういえば……」
 僕は、文音ちゃんの言葉に気づかされた。
 あのときは気が動転していて気づかなかったけど、佳耶が意識を取り戻したのが異様に早い。しかも、彼女は、海で倒れ る前のバイタリティーまでをも取り戻していた。
「本当は、佳耶ちゃんにもしものことが起きた場合を除いて、この手は使いたくなかったんです。でも、私は、佳耶ちゃん 本人にお兄さんと向き合って話をつけてもらうようにするために、切り札のセルフリカバリー機能というのを使用させても らったんです」
「……せるふ、りかばり?」
「はい。直訳すれば、『自己修復機能』です。私たちの研究所で適切な処置をするのではなく、佳耶ちゃん自身に備えられ ている内部機能を用いて、自己の異状を修復するんです。パソコンなんかにも、そういった機能が備わっているのはご存知です よね?」
「……うん」
「それと、原理的には同じことです。しかし、佳耶ちゃんの場合、セルフリカバリー機能が大きな生命消費を必要とするた め、半年だった寿命が、一ヶ月前後にまで落ち込んでしまったんです」
「………」
「パソコンのハードディスクや家電製品の基盤も、生身の人間のように、宣告された寿命を上回ることが多々あります。そ う考えれば、当然、佳耶ちゃんの動作が今後正常である期間が一ヶ月を超えることも、なきにしもあらずです」
「………うん」
「しかし、佳耶ちゃんの設計から製作まで、すべてを担当させていただいたのは私です。残念ながら……そういった“奇 跡”が佳耶ちゃんに起こることは期待できません」
「……そんな……」
 僕は肩を落とした。
 つい昨日まで、まだまだずっと一緒に居られると思っていた佳耶が、あと一ヶ月で、寿命を全うしてしまう。彼女の天使 のような笑顔とも、一ヶ月先にはお別れなのだ。
 本当の佳耶の意識がいつ戻るかもわからない状況のなか、文音ちゃんが明かした事実は、僕の心を悲しみの深淵に沈ませ た。
「……おにいちゃん」
 ふと、佳耶が僕を呼ぶ。
 僕は、佳耶の声に吸い寄せられるように、彼女に意識のベクトルを向けた。
「わたしもね、あと一ヶ月しかおにいちゃんと居られないんだってふみちゃんから聞いたときは、すごくがっかりした よ」
「……うん」
「ほんとうに、思っていたよりも短い時間しかおにいちゃんといられなくなることがわかって、どうしようって思っ た……」
「………」
「でも、どうせ一ヶ月しかないんだったら、おにいちゃんと、最高の思い出づくりができたらな、って思うんだ」
「思い出づくり……」
「うん。今日海でいっぱい遊んだのもすごく面白かったけど、それよりももっと素敵な……わたしとおにいちゃんの、ふた りだけでしかできない思い出づくりがしたい」
 佳耶は、僕に真摯な眼差しを送り続ける。
「だから、おにいちゃん……最後に、わたしのお願いごとをひとつだけ聞いてくれるかな?」
「……うん」
 僕は頷いた。
 べつに今に限らずとも、僕は、普段から佳耶の望むことは大小に拘わらずなんでも叶えてやりたいと思っていた。この期 に及んで、その意志を変えるつもりなど毛頭ない。寿命が五年でも、一ヶ月でも、佳耶の望みを叶えたいという気持ちは同 じだ。
 それに、僕には彼女の存在を否定してしまったという咎がある。それに対する“宿題”だと受け取れば、尚更逃れようと いう気持ちは薄れた。
「わかった。なんでも言ってくれていいよ。きっと、その望みを叶えてあげられると思うから」
「ほんとう?」
「うん」
 僕は、憂えた感情を捨て去って、代わりに、兄として佳耶に尽くしたいという気持ちを高らかに抱いた。
「それじゃ、言うね」
「うん」
「今度の日曜日、わたしとデートしてください」
 それは、普通の兄妹であればまず考えられないような望みだった。
 デートというのは、つまるところ僕も成羽と一度しただけだけど、好きになった他人どうしがするものだと僕は思ってい た。最初はお互いのことをなにも知らないところから始まって、少しずつ会話を交わすようになって、ある程度まで進展し た仲になるとデートをする。そんな世間の人たちとは違って、僕と佳耶は、今は形の上で繋がっているに過ぎないにせよ 、もともとは血の繋がった兄妹なのだ。お互いのことを最初から知っているし、会話だって毎日する。ふたりでお遣いに行 ったり、公園で一緒にランニングをしたりという、デートもどきなこともやった。
 果たして、“家族の好き”を互いに示し合う僕と佳耶に、“恋人の好き”を実現するためのデートなんて必要なの だろうか。僕は、思い悩んだ。
「デートって……本当に、そんなことでいいの?」
 僕は口を開いて訊ねた。
 思えば、佳耶には寿命が一ヶ月しか残されていないのだ。本当ならあと四年と八ヶ月は存在できていたであろう期間が五 十六分の一の一ヶ月に減れば、残された日を、逆数の五十六倍楽しく生きなければならない。それなのに一度デートをする だけというのが佳耶の望みだなんて、割が合わないんじゃないかと、僕は感じたのだった。
 しかし、佳耶は、
「うん」
 僕の考えとは裏腹に、笑顔で首を縦に振った。
「本当に、僕とデートするだけで佳耶は満足になれるの……?」
「うん。だって……」
 佳耶の目が、彼女の優しい気持ちによって、ゆっくりと細められた。
「わたしが今、いちばんおにいちゃんにしてほしいことなんだもん」
 心から僕にそうしてほしいと願う、佳耶の笑顔。
 今の佳耶の気持ちに、嘘偽りはない。彼女は今、僕に自分とデートしてもらえることを、純粋に願っている。
 僕は、そう確信した。だから、佳耶の本心を尊重してあげようと思った。
「うん、わかった。約束な」
「ありがとう、おにいちゃん。わたし、とっても嬉しいよ」
 佳耶の顔が、ぱあっと明るく笑う。彼女の顔をこんなふうに変えられるのは、きっと、世界中探し回っても、僕しかいな いはず。これは、僕だけが使える魔法なんだ。
 僕は椅子に座ったまま上体を屈めて、佳耶のほうに腕を伸ばす。その先端の、ぴんと立った小指に、佳耶も自分の腕を伸 ばして小指を差し出す。ふたりの小指がひっついたあと、同じタイミングで関節が曲がった。
 ――僕と佳耶の、最後になるかもしれない指切りが始まった。
「ゆーびきーりげーんまーん、うっそつーいたーら針千本のーますっ」
 上下に振り動かされるふたりの手。声も、ぴたりと揃った。
「ゆーびきった!」

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