第6章 思い出
Ma sœur fait renaître l'une après l'autre nos mémoires d'enfance.

【1】
 
 一学期の終業式が終わり、夏休みが始まった。
 僕の頭の中では、あの日からずっと佳耶のことが渦巻いている。どうして佳耶は、残された日にいちばんやりたいことに 、僕とのデートを選んだのか。デートと一口に言っても、僕のほうからどう働きかけてやれば佳耶は満足してくれるんだろ うか。そもそも、こんな展開で良かったんだろうか……。いくつもの問いかけを僕は自分自身にしてみたけれど、それらは みな、答えにたどり着かないまま消えては再び現れ、消えては現れの繰り返しだった。
 そんなある日の朝、僕はどうにも晴れない気持ちを紛らそうと、中猪公園まで散歩に出かけた。もちろん、一人で、だ。 佳耶や文音ちゃんを連れてきたかったのはやまやまだけど、それでは意味を成さないと思ったのだった。
 暑い陽射しから逃れるため、僕は木陰に入った。まだ鳴いている蝉の数は少ないから、趣も感じられて、ちょうどいい居 心地だ。完全に影の中に入り込むと、僕は、顔を上に向けて、青々と生い茂る木の葉を眺めた。
 どっしりと立つ、一本の大木。たくさんの葉っぱも、太い幹も、地中で全体を支えている根っこも、みな、密接に係わり 合っている。それはまさに、家族の関係のように見えた。すべての中心になっている根っこから幹までがお父さんで、枝が 家庭内のいろいろな仕事に精を出すお母さん。それから、幹と枝に見守られている葉っぱが、子供たちだ。僕も佳耶も、そ う考えると葉っぱになる。
 でも、家族じゃなくて、僕と佳耶の関係を、この大木に置き換えてみるとどうだろう。僕が根っこで、佳耶が幹と 枝で……葉っぱは、ふたりを取り巻く楽しい出来事たちという見方にならないだろうか。それこそ葉っぱが木を賑わわせて いるように、僕たち兄妹のこれまで生きてきた日々も、数え切れないほどの楽しい時間が賑わわせていなかっただろう か。
 もうすぐ、その葉っぱは枝から落ちてしまう。役目を終えた佳耶が僕の前から姿を消せば、まだ季節は夏真っ盛りだとい うのに、ふたりの木は素っ裸になってしまうのだ。
 佳耶とのデートが、せめて葉っぱを落とすんじゃなくて、紅葉させるような結果に繋がってくれたらな――僕は、半ば心 ここに在らずな状態で考えた。
「――あれっ? トミーじゃん」
 遠ざかる僕の意識を、ぐいっと引き戻す声。その声はいやに透き通っていて、僕の聴覚を活発にさせた。
「わっぴー……?」
 見ると、いつもとは感じの違う、薄いブルーのワンピースに身を包んだ成羽が立っていた。頭には、赤いリボンが巻かれ た麦藁帽子。上から下へ彼女の全身を這うように見ていくと、右の手に、綱が握られているのが見えた。なんだろうと思っ てその先を辿ってみると、彼女とはかなりの距離を置いたところで、黒いラブラドール・レトリバーが背丈の高い雑草の匂 いを嗅いでいる。成羽の家で飼われている“はなまる”だ。
「犬の散歩?」
 僕は訊ねた。
「そだよ。見てわかんない?」
 成羽はそう言って、「はなまる、こっちおいで」と呼びながらくいっと引き綱を手繰る。成羽の声を耳に入れたはなまる は、草の匂いを嗅ぐのをやめて、こちらに駆け寄ってきた。そのまま、はなまるは尻尾を大きく振りながら、僕目がけて走 ってくる。
「ははっ。僕のとこにも来てくれたよ、こいつ」
 僕は、声色を明るくして、はなまるの頭を荒っぽく撫でる。すると、はなまるは後ろ足だけで立ち上がって、前足を僕の 腕に載せてきた。
「人懐っこいからねえ、この子は」
 成羽は言う。
 はなまるが僕を押し倒さんばかりの勢いでのしかかってくると、成羽は、「こらっ、トミーが嫌がってるでしょ」と言っ て、引き綱を引いた。
「あははっ。僕は大丈夫だよ、犬はそんなに苦手じゃないから」
「そう? よかった」
 成羽はほっとしたような顔つきになった。
「おすわり」
 僕は試しに、はなまるに命令をしてみた。しかし、飼い主の声じゃないせいか、はなまるは腰を下ろそうとはしない。顔 はなんだか嬉しそうだけど、舌を出して息を弾ませるだけだ。
「ちょっと、強さが足りないかな」
 成羽は言った。
 強さが足りないということは、もうちょっと声を大きくすれば命令を聞いてくれるのだろうか。僕は、成羽に指摘された ことを踏まえて、さっきよりも大きな声で「おすわり!」と言ってみた。しかし、はなまるが座る気配はない。彼女は僕の 顔を見て、首を傾げるような仕種をした。
「はなちゃん、おすわりっ」
 今度は成羽が命令をかける。すると、はなまるはすっと腰を下ろした。
「すごいね……」
「まあ……飼い主だからね」
 成羽は、得意そうな顔をしてそう言うと、ワンピースのポケットに手を入れた。かしゃかしゃと、ビニール袋に触れるよ うな音が立つ。少しして、ポケットから出てきた成羽の手には、犬用の餌が掴まれていた。
「はい、ご褒美。待てよー……」
 そう言って、はなまるに餌を差し出す成羽。はなまるは、成羽の言うことを忠実に聞いているらしく、餌に飛びつきたい 衝動を我慢しているように見える。彼女は口を閉じて、じっと、成羽の持っている餌を見つめていた。
「よしっ」
 成羽がそう合図を出すと、はなまるは間髪入れず口を開け、成羽の持っていた餌に喰らいついた。
「そうやってしつけてるんだ」
 僕は感心して言った。
「しつけてるのもあるけど、ラブラドールってもとから頭いいって言われてるでしょ? ほら、介助犬とか盲導犬とかさ、み んなそうじゃん」
「あっ、そうか。それもそうだよね」
 成羽に言われて、僕は、よくニュースの特集や特番、動物をテーマにした番組なんかでラブラドールが取り上げられてい ることを思い出した。今月の始めには『介助犬クイーンの一生』という映画も封切られている。世間一般にも、ラブラドー ルの知能は広く認知されているみたいだ。
「でも、黒いのはあんまり見かけないよね」
 僕は、今までに見たテレビ番組の内容を思いだしながら言った。
「黒ラブはどっちかっていうと、麻薬探知犬とかやってそうだよね」
 成羽は笑って言った。
 麻薬探知とか、障害者の手助けとか、ラブラドールとして生まれた犬には、そういった人間のサポート役として一生を過 ごすものがいる。でも、はなまるは違う。彼女は、成羽の家で飼われることになってから、ずっと、純粋に楽しい年月を重 ねてきたはずだ。どっちが幸せな“犬生”か――それは、男と女のどちらに生まれたほうが幸せかを問うようなものだけど 、ひとつ確かなことは、僕が男として生まれてきたことを幸せに思っているように、はなまるも、成羽と遊びながらここま で生きてこられたことを満足に思っているんじゃないか、ということだった。
「ところで、どうしてこんなとこに居るの?」
 成羽は僕に尋ねた。
「うーん……まあ、いろいろあってね」
 僕は言葉を濁した。
 なんでかと聞かれれば、佳耶のことで思い悩んでいるという答えが妥当だろう。今まで僕の悩みを親身になって聞いてく れた成羽のことだから、僕から話し出せば、彼女は真剣に聞いてくれるに違いない。
 だけど、つい先ごろ佳耶に再会したばかりで、しかも自分のことを忘れられていたというのに、あまつさえ佳耶があと一 ヶ月しか居られないという事実を知らされるのは、成羽自身にしてみればひどい仕打ちなんじゃないかと、僕は思ったのだ った。
「ふうん……」
 僕が曖昧な返事をしたのが気に入らなかったのか、成羽は白けたような表情を浮かべる。彼女は、僕を横目で見ながら言 った。
「なんか、親子喧嘩したとか、そんなんじゃないの?」
「……いや」
 僕は否定した。
 成羽の口から出たのは、また喧嘩という言葉だ。前にも、佳耶と喧嘩したんじゃないかと疑われて、僕が否定するとつん とした態度を取られてしまったことがあった。あまり考えたくないことだけど、成羽と、折り合いが悪いと言っていたお兄 さんとの仲は、犬と猿のようなものなのかもしれない。
「まぁ、なんか引っかかるようなことがあるんだったら、それはそれで最後に処理しなきゃいけないのはトミー自身なんだ し……」
「うん」
「とりあえず、あのへんのベンチに座ろ。立ち話もなんだから」
「そうだね」
 僕は頷いて、成羽とはなまるに導かれるまま、木陰の中にあるベンチのところまで歩いた。ふたりがベンチに腰を下ろす と、なぜかはなまるもそれを真似しておすわりをした。
 成羽は、はなまるの引き綱を持っている手とは反対の手に提げていたビニール袋を、膝の上に置いた。袋の表面には、ト ライアングルケーのプリントがある。どうやら、成羽はここに立ち寄る前に、コンビニで買い物をしていたらしい。
 彼女がその袋の中から取り出したもの。それは、焼きそばパンだった。
「はいこれ。トラケーで買ってきたんだけど、どうぞ」
 それを、成羽は一個丸ごと僕に差し出す。
「どうぞって……これ、わっぴーが食べるんじゃ……?」
「うん。食べるよ」
「……へっ?」
 僕は、一瞬成羽のやっていること自体に矛盾を感じた。
「ほら、あたしははなまるのリード持ってるから、手汚いじゃん」
「ああ、そうか」
「だから、それ、トミーが開けて」
「僕が開けるの?」
「うん」
「っていうか、手が汚れてるっていう意味では、僕もさっきはなまるの頭を触っちゃったから同じだと思うんだけど……」
 僕は苦笑しながら言った。
「あ、それもそっか……」
「トイレ行って、手洗ってこようか?」
 僕は言った。
 しかし、成羽は、
「いいよいいよ、そこまでしなくても。はなまる触った手でふたりで焼きそばパン食べてさ、もし片方が病気になって、片 方がなんともなかったら、どっちが体強いかとかわかったりしなくない?」
 と、面白ずくなことを言ってのけた。
 そこまで彼女に言われたところで、僕はあることに気づいて羞恥心を募らせた。
「ちょっ……それって、この焼きそばパンを僕がわっぴーに食べさせろってこと?」
「あたりー」
「うそぉ……」
 にやにやと愉快そうに笑う成羽に、僕はちょっとだけ尻込みする。
 まったく……ここで僕と出くわすことになるのを予期していたかはともかくとして、会えばこんな提案をするなんて、僕 も成羽にはいいように弄ばれているものだなあと思う。
 仕方なく、僕は焼きそばパンの包み紙を開き始めた。犬を撫でた手で運んだ食べ物を口に入れたら大変なことになりそう な予感がするけど、成羽が大丈夫だと言っているのだから頓着すべきじゃない。彼女は、僕と違って、長年飼い犬と一緒に 暮らしている身なのだから。
 包み紙を開いた焼きそばパンを、まずは食べやすいようにちぎって二等分しようとすると、
「ああちぎっちゃだめ」
 成羽は、すんでのところで僕がそうするのを引き止めた。
「えっ? ……なんで?」
 僕が尋ねると、
「そういうふうにちぎるとはなまるが欲しがるから」
 成羽はそう言った。
 確かに、はなまるの顔を見ると、口を半開きにして、しきりに呼吸の音を立てている。しっぽも左右に振れているし、時 折前足を持ち上げたりする仕種はおねだりそのものだ。
 でも、この焼きそばパンをちぎらずにそのまま食べたりなんかしたら、僕の食べたところから成羽が食べることになって しまう。早い話が、間接キスだ。僕は、成羽と付き合って四ヶ月が経っているけど、そんなことをした試しは一度もなかっ た。
「早く、何してるの。はなまるに食べられちゃうよ」
 成羽は言った。
「あ、うん……」
 彼女に促されても、僕は踏ん切りがつかない。焼きそばパンを口に運ぼうとすると、どうしても、僕は今から成羽と間接 キスをするんだと思ってしまう。僕は、俄かに心臓が早鐘を打ち出すのを感じた。
「早く。トミーが食べないんなら、あたしから食べるから。口のとこまでパン持ってきてくれる?」
 成羽は僕を急き立てた。彼女の言葉と、はなまるの荒い息遣いが、同時に僕にプレッシャーをかける。
「わかった。……はい」
 恐る恐る、手を震わせながら、僕は焼きそばパンを成羽の口元に運んだ。
「あーんしてください」
 僕は、なにか、自分でも滑稽な科白を口走ってしまったな、と思った。そのあとで、文音ちゃんに同じようなことを 言われたのを思い出して、少しだけ躊躇する。
 でも、成羽はというと、意外にも素直に口を開けてくれた。その口に、僕は焼きそばパンを入れる。成羽が口を閉じると 、焼きそばパンが彼女の顔のほうに引っ張られる手応えを感じた。
 一口めを成羽は噛み切る。焼きそばパンは、五分の四ぐらいの大きさになった。
 しばらく、成羽は、うんぐ、うんぐと顎を動かして、美味しそうに焼きそばパンを咀嚼する。やっぱり、僕は変なことを しているな、という感覚を否めなかった。
「どう? 美味しい?」
 自分が作ったものを食べさせているわけでもないのに、僕は成羽にそう訊ねた。
「美味しいよ。あたし的には、シックステンのを抜いてコンビニではいちばんかな」
 成羽は言った。
 きっと、焼きそばパン通の成羽のことだから、デイリーカワサキの焼きそばパンも、ファミリーマーケットの焼きそばパ ンも、ミニステップの焼きそばパンも食べてしまっているに違いない。そういえば、幼稚園の頃、大人になったらなりたい ものを決め兼ねている成羽に、僕は“焼きそばパン屋さん”を推したんだっけ。本当は、保母さんになりたいって言ってた みたいだけど。今はたぶん変わっているだろうな……。
 はなまるが涎を垂らしながらこちらを見ている前で、僕は冷淡にも、成羽に焼きそばパンを頬張らせ続けた。彼女が三度 頬張ると、焼きそばパンは、もとの半分弱の大きさになった。
「残りはトミーにあげる」
 成羽は、口の周りに着いた油を手首の外側で拭うと、僕に言った。
 僕は、躊躇した。この残った焼きそばパンの切り口は、成羽の口で噛み切られたものだ。ここを、僕は食べるべきなんだ ろうか。成羽が僕に焼きそばパンの残りを譲ったということは、たった今、この焼きそばパンの所有権は僕に移ったという こと。所有権のあるひとは、譲った人の許可不許可に拘わらず、譲られた所有物を煮るなり焼くなり好きにできる。すなわ ち……。
「あーっ、ちょっと待ったーっ!」
 僕が成羽の噛み切ったところから二センチぐらいまでを手でちぎろうとすると、やはり成羽は僕にそうするのを思いとど まらせた。
「ちぎっちゃだめ」
「なんで……? ちょっとぐらい、はなまるにあげたっていいじゃん。玉葱も葱も入ってないし、ほら、こんなに涎垂らして るし」
「涎垂らしててもいいの。はなまるはこれがあるから、それはトミーが食べなさい」
 成羽は、ポケットから取り出した餌を僕に見せて言った。
「ぅえっ……?」
 僕はまた、尻込みする。
 それって、「間接キスしなさい」って言われているみたいじゃないか……。
 手に持った焼きそばパンが、焼きそばパンに見えたり、つややかな成羽の唇に見えたりする。恥じらいと躊躇いで、心臓の 脈動がみるみる強くなっていく。今にも脚が震え出しそうだ。
 僕は、いっそ焼きそばパンの残り全部をはなまるにあげてしまおうかと思った。それなら、ちぎってはいけないという成 羽の言いつけも難無くスルーできる。でも、もし成羽が本当に、この焼きそばパンの残りを、僕に食べてもらいたいと思っ ていたら……成羽から、大目玉をくってしまうだろう。
 意を決して、僕は焼きそばパンを口の前まで運んだ。なあに、僕がこれを食べたって、がっかりするのははなまるぐらい だ。僕にとっても、成羽にとってもマイナスにはならないはず。
(ええい、食べてしまえ!)
 僕は、目を一瞬ぎゅっと閉じて、焼きそばパンを口の中に放り込んだ。味は普通の焼きそばパンだったものの、妙な後味 が舌から脳味噌に伝えられた。
「あーあ。食べちゃった」
 案の定、成羽は薄気味悪く笑いながら、そんな言葉を僕にかけた。
「食べちゃったって……ちぎっちゃだめで、はなまるにあげるのもだめだったら、食べるしかないじゃん」
 僕は成羽の反応に文句をつける。すると、成羽は、
「持ち帰っちゃだめとは言ってないでしょ? 家に持って帰ったら、ナイフかなんかで切ればちぎったことにはならない。 どう?」
 と、僕が考えもしなかった、別の手段を示したのだった。
「どうって……今更言われても遅いよ」
「あはははっ。トミーもこの辺が足りてないよね」
 成羽は、自分の頭のてっぺんを指先でちょんちょんとつつきながら言った。
「悪うござんしたね」
 僕は不貞腐れた。
「あははっ。ううん……でも、ちょっと嬉しい」
「……えっ?」
「あたしが食べたとこまで、ちゃんと全部食べてくれたこと」
「……ああ、うん」
 なんだか、成羽の言葉は、僕にとって、背筋のあたりがむずむずして落ち着かなくなるような言葉だった。
 僕は、自分から言うのはどこか恥ずかしいと思ったけど、成羽の気持ちを確認したくて、彼女に言った。
「なんというか、その……したかったの? 間接キス」
 すると、成羽は、
「まあね」
 とだけ言って、あっさり僕の言ったことを認めてしまった。
 成羽もけっこう面の皮が厚いな、と僕は思う。
「そのさ……聞いてくれる、トミー?」
 成羽は、僕を見るでもなく、はなまるを見るでもなく、真っ正面よりも少し低い位置に向かって視線を描く。その顔は、 なんだか懐かしそうに笑っている。なにか、昔のことを思い出しているのだろうかと、僕は成羽の柔らかな表情に興味を 掻き立てられた。
「うん」
 僕は頷いた。
 こういう機会だから、成羽の話を聞くと、気持ちをすっきりさせることができるかもしれない。高望みかもしれないけ ど、彼女にアドバイスをもらったり、後押ししてもらえたりするかもしれない。そう思うと、僕の聞き耳は自然に立ったの だった。
「あたしね、高校にあがって、幼稚園のとき以来久し振りにトミーに再会できて、すごく嬉しかった」
 僕の顔に目を向けず、そのままの視線で成羽は話し始めた。
「うん」
「幼稚園を卒園してから、トミーとは違う小学校に入って……ずっと一人だったから、体が成長していくのも、勉強して頭 が良くなっていくのも、全部一人でやってることみたいに思えて……正直寂しかった」
「そっちでは、友達できなかったの?」
 僕は訊ねた。ずっと一人だった、という成羽の言葉が僕の心に訴えかけたのだ。
「ううん。何人か、気の合う友達はいたよ。でも、いくら喋っても、テニス部入って真面目に練習したりしても、幼稚園の ときのような楽しさに出会えなかった。一年学年が上がるたびに……もっと言えば、夏休みとか春休みみたいな長い休みが 来るたびに、トミーのいない生活ってつまんないなー、って思うようになってきてね。四年生のとき、夜の十二時ぐらいに 家をこっそり抜け出して、トミーの家に行こうとしたことがあったの」
「えっ? 僕のうちに?」
 僕は驚いた。
 成羽が家を出たらしい時間も、随分と羽目を外していると思ったけど、なにより、彼女がそういうことを企てていたことが驚き だ。
「うん。でも、ちょうどパトロールしてた警官に見つかっちゃってね。いけない隠れなきゃ、って思ったんだけど、足音で ばればれだったみたいでさ。そのあと、家に電話されて、親にこっぴどく叱られたよ……」
「そうなんだ……」
「うん。でもあたしは、叱られたあとになっても思ってたの。あのとき、もし咄嗟に靴脱いで裸足で走ってたら、警官もあ たしが逃げた方向を見失って、なんとか逃げられたかもしれないのにな、って。今思うと、あの頃のあたしは、ものすごく 諦めが悪かった気がする」
「……うん」
 僕は、なんとなく納得した。
 成羽は、昔も今も負けじ魂と共に生きる人間だ。一度や二度の失敗では、彼女は挫折しまい。
 一呼吸置いて、成羽は続けた。
「でね、ちょっと時間を置いてから、また挑戦してみようって思い立ったの。今度は夜中の二時半。さすがに警官も来ない だろうって思ったけど、よく考えたらトミーの家も寝静まってる時間だよね」
「うん。……っていうか、その頃は十二時でも全員寝てたと思う」
 僕は思い出す。うちは、基本的に父さんと佳耶が生活態度にうるさいから、僕が小学生のあいだはずっと、十時半には強 制的に消灯させられていた、という記憶がある。
「あははっ。だよね。それでね、桃ヶ丘からトミーの住んでる中猪のほうに行く大通りまでは辿り着いたんだけど、そこで またおんなじ失敗。夜中もちゃっかり警官がチャリンコで走ってて、あえなく補導、帰ってお仕置き、っていうオチ」
「あははっ、性懲りもなく、だね」
「おっしゃるとおりで。結局、三回目をやったら体中に艾をすえるぞ、なんて実物を見せられたもんだから、それっきりで諦 めちゃったけどね。親には黙ってたけど、それほど、あのときのあたしはトミーに会いに行きたかったの」
「ふうん」
 僕は、ひとつだけ、成羽の話の中に変なところがあることに気づいた。
「そんなの、学校から帰ってきてからすぐに来たら良かったじゃん」
「ううん。平日は部活で遅くなって、帰ったらもう外に出れなくなってたし、学校が休みの日は、今と同じで店番。とても 、ゆっくり会いに行ける時間なんてなかったよ」
「そっか……」
 僕は、成羽の抱えていた事情を理解した。外出する時間すら作れなかった成羽に比べれば、僕と佳耶はのんびりとしすぎ ていたような気もする。たまに、半年に一度くらいだけど、家族で山にハイキングに行ったり、温泉やプールなんかがある リフレッシュセンターに行ったりしたこともあったし。佳耶を連れてちょくちょくランニングをしに公園まで通うようにな ったのも、僕が小学四年生ぐらいのときだった。そんな自由気侭な生活をすることを許されず、親の言いなりになっていた成羽 が、どれほど精神的に参っていたことか。それは、彼女が敢えて二度も深夜に家を抜け出したことを考えれば想像にかた くない。
「それから、中学に行ったら再会できるかな、って思って期待したけど、中学も桃ヶ丘と中猪にいっこずつあったから、小 学校のときと同じ日々の繰り返しだった。ほんとにもう、幼稚園限りで会えなくなるのかなって考えたら、涙が出てきた夜 もあったよ」
「………」
 僕は、成羽の言葉に胸がぎゅっと締めつけられるような感覚を催した。
 成羽はこんなにも僕のことを想ってくれていたのに、僕は彼女のことをあまり気に留めてはいなかった。幼稚園のときに 楽しく遊んだ旧友、という見方ぐらいしかしていなかったのだ。最初は僕も成羽と分かたれてしまったことを悲しんでいた のかもしれないけど、たぶん、側にずっと佳耶がいて、寂しさを紛らせてくれたせいだと思う。
 僕がそうやって佳耶と楽しく過ごしていた裏で、成羽は寂しさに押し潰されるような日々を過ごしていた。僕にとって、 それは大きなショックだった。
「で、高校に上がってみて……やっと見つけたの。新入生の名簿の中に、トミーの名前があったって。だから、あたし、入 学式のときは全然不安なんてなくて、むしろ早くトミーの顔が見たいって思ってたから、自然と笑えたの。あのときトミー 、あたしのこと『元気そうだね』って言ってくれたけど、そうじゃなくって、ただ、嬉しかっただけ。嬉しかったから、自 然に笑顔になれて、自然に力が湧いてきたんだ」
「……うん」
 成羽に言われて、僕は、入学式の日のふたりのテンションにあんなにも開きがあった理由がわかった。彼女は僕と再会で きることを楽しみにしていて、僕はまさか彼女と再会するなんて夢にも思わなかったからだ。
「長い長い道のりを歩いてきて、やっとゴールにたどり着いたみたいな感じだった。だから、そのあとも、トミーが百日前 までデートに行こうって言ってくれたり、海に誘ってくれたときは正直すごく嬉しかった。幼稚園のときあんなに気が弱か ったのに、今じゃいっちょ前にあたしを誘ってくれるんだもん。男の子って、成長したらここまで変わるもんなんだなって 、感心したよ」
「……そりゃありがとうございます」
 僕は、嬉しいのから哀しいのやらで、そんな相槌を打った。
「どういたしまして。だからね、もう大丈夫かなって思って焼きそばパン渡したら、ちゃんとあたしの期待を裏切らなかっ た」
「………」
 話が焼きそばパンにリターンした途端に、僕は恥ずかしさが心の奥から込み上げてくるのを感じた。
「ホントに良かった。幼稚園のときみたいに、トミーがあたしに心を許してくれる人で」
「……わっぴーだからだよ」
「えっ……?」
 ふと僕が漏らした言葉に、ようやく成羽は顔全体を僕のほうに向ける。しかし、今度は僕がさっきまでの成羽みたいに、 伏し目がちに視線を前に定めていた。
「幼稚園のとき、お互い退け者どうしだった僕たちが手を繋いで、友達になって……誰よりも楽しく遊んでるって自慢でき るぐらい仲良しだったわっぴーだから、今もこうやって、なんでも話せるし、なんでも聞いてあげられるし。心が許せるん だよ」
 僕は思った。基本的に、僕は人付き合いが苦手なほうだ。小さいときからそうだったから、幼稚園では成羽以外に友達が できなかった。小学校に上がっても、佳耶さえ近くにいれば楽しいと思って過ごしてたから、あまり積極的に友達を作ろう とはしなかった。今も、学校で成羽以外に話をする生徒といったら、出席番号がひとつ前の寺崎さんぐらいだ。
 僕があまり友達作りに積極的でないのは、佳耶と文音ちゃん、それに成羽を加えた三人が居れば僕の心が満たされると感 じるから。積極的にならないんじゃなくって、なる必要がないのだ。それぐらい、成羽は僕にとって、掛け替えのない存在 となっていた。
「もし、僕が高校に上がってわっぴーと再会できてなかったら……こんな落ち着いた気持ちにはなれなかったと思う。だっ て、わっぴーに会う直前まで、無茶苦茶へっぴり腰だったしさ……」
「うん……」
「僕がここまで気持ち良く過ごせるようになったのも、入学式の日にわっぴーが僕に笑いかけてくれたからだよ。わっぴー には、本当にありがとうって言いたい」
「トミー……」
 振り向いた僕の目と、ずっと僕を見ていたらしい成羽の目が合う。僕は、いつも気付け薬のように働きかけてくれる成羽 に、感謝の眼差しを送った。
「……あたし、そんなたいしたことしてないよ」
 成羽はまた目を伏せて、気恥ずかしそうに言った。
「トミーが明るくなれたのは、自分でそうなろうと思ったから。あたしは、なんにもしてないよ」
「ううん、全部わっぴーのおかげだって」
「そんなこと……ないよ」
 成羽の言葉が、失速する。不思議に思って、僕は彼女の表情を窺った。なにか、後悔をしているような顔だった。
「あたし、トミーから何回もお誘いを受けて、それが嬉しかったから、なにかあたしのほうからもしてあげたいな、って思 ったんだけどね……現実はそんなに甘いもんじゃなかったの」
「……えっ?」
 成羽の言う、理想と現実。そのギャップを、僕は知ってみたい衝動に駆られた。
「学校で駄弁ってるときとか、トミーっていつも佳耶ちゃんのこと話題に挙げるでしょ?」
「うん」
「それを聞いてね、実はあたしってあんまり相手にされてないんじゃないかって、そんなことを思うことがけっこうあっ た」
「……」
 僕が、成羽を相手にしないなんて。そんなことを、僕が彼女と再会してから今までの間に考えたことがあっただろうか。 いや、なかったはずだ。
「だから、あたし、心のどっかで佳耶ちゃんのこと妬いてたんだと思う。トミーにこんなに気にしてもらえるなんて羨まし いなーって。けっこう考えてた」
「……うん」
「でもね、そう考えながら過ごしてたら、あれ、いつ頃だったかな。みんなで海に行った一週間ぐらい前だったと思うけ ど、全然見たこともない女の子からいきなり声をかけられてね。『あなたのそばにいる敵は、敵なんかじゃなくて、見守 ってやらなければならない存在のはずです』って言われたの。その女の子が……海で遊んだ日に会った文音ちゃんだっ た」
「えっ……!?」
 僕はびっくりした。
 まさか、文音ちゃんが、成羽のことを知っていたなんて。それだけにとどまらず、文音ちゃんは、成羽の心の内までをも 見透かしていた。どうして文音ちゃんが成羽に声をかけることができたのか、その疑問はちょっとやそっとのことでは解け ないと思った。
「それでね、あたし、言われたの。文音ちゃんに。佳耶ちゃんが先に更衣室を飛び出していったあとで、佳耶ちゃんは実は 人間じゃなくて、アンドロイドなんだって……」
「……!」
 成羽の言葉に、僕は衝撃を受けた。
 佳耶が本当の佳耶じゃないという事実は、あの日成羽と別れてから僕が知らされる数時間前に、成羽が先に知らされてい たのだ。
「あたし、文音ちゃんからそれを聞いちゃったとき、どうしたらいいのかって迷った。こんなことトミーに伝えたら……い や、伝えても、冗談だって言われて馬鹿にされるだけだと思った。だから、文音ちゃんにも相談したの。本当に、このこと はあたしの口から伝えなきゃいけないことなのか、って。そしたら文音ちゃん、あたしの口から言ったほうが、上手く伝わ るんじゃないかって言ってきた。その理由がよくわからなくて、余計躊躇った」
「うん……」
「でも、トミーも知ってしまったんだよね、そのこと」
「うん……文音ちゃんから聞いたよ」
 僕は顔を俯けた。
 だけど、一度は否定することを諦めた事実だ。今更目を背けてなんていられない。僕は、再び顔を上げた。
「だからね……」
 すっ、と成羽の体が動いたかと思うと、彼女は僕の肩に手を載せた。目を閉じた成羽の顔が僕の顔に迫った次の瞬間、彼 女の唇が僕の唇に軽く触れた。なにがなんだかわからないうちに、彼女の唇は僕の唇から離れた。柔らかくて、温かいキス だった。今はそれだけしか考えられない。
「あたし、しばらくトミーのことは諦める」
「……えっ……?」
 未だ不意のキスに呆気に取られたまま、僕は、なぜか明るく笑った成羽の顔を見る。
「だって、文音ちゃんに言われたことをよく考えたら、佳耶ちゃんにやきもちなんて妬いてる場合じゃないってことでし ょ?」
「うん……」
「佳耶ちゃんのこと、あたしも見守りたい。今の佳耶ちゃんから、本当の佳耶ちゃんに幸せのバトンがちゃんと移るように 、トミーが今の佳耶ちゃんを大事にするのを支えてあげたい」
「わっぴー……」
 成羽の言葉を聞いて、僕の頬は自然と綻んだ。
 残り一ヶ月しかこの世界に存在することを許されていない今の『佳耶』に、僕はどう接したらいいのか。その悩みに対す る答えが、今成羽の言葉によって示された。僕は、今の『佳耶』を大切にして、彼女から託される“幸せのバトン”を、本 当の佳耶に届ければいいのだ。本当の佳耶が、笑顔で僕たちのもとへ戻ってこれるように――。
「ありがとう。おかげで、気持ちが晴れたよ」
 僕は成羽に言った。
「そう? よかった」
 成羽も、とても満足そうに笑った。
「でも、今はただ停戦状態なだけだって、覚えててよ。本当の佳耶ちゃんが元気になったら、あたしは佳耶ちゃんのライバ ルとして復活するんだから」
「あははっ。うん、佳耶もきっと、望むところだと思うよ」
 僕は言った。けれども、正直なところ、成羽では佳耶に及びがたたないだろうと思う。
 いずれ成羽が言ったような状況が訪れたときには、僕は、本当の意味で“家族の好き”と“恋人の好き”を使い分けなき ゃいけなくなるんだろうな。
 そう思うと、期待の中にちょっぴり不安が混ざった気分を味わうのだった。

 

【2】
 
 佳耶とのデートの日がやってきた。
 ……とは言うけれど、やっぱり、デートなんだという気になると、どうにも含羞んでしまう。普通の兄妹は、絶対にデー トなんてしないのだ。いくつになっても仲が良くて、ふたりで一緒に出かける人はいても、それをデートだなんて言う人は いないだろう。
 たとえ言ったとしても単なる戯け口だと笑うだけの人たちとは違って、佳耶は、本気で僕とデートしたいと言ってきた。 そんな『妹』の気持ちを、僕は鼻で遇うわけにはいかない。どうしても僕に成し得ないことを除いて――いや、できそ うもないことにだって、最善を尽くして応えてやりたい。だから、僕は今日という日のために、最高のデートコースを考えた。 ウィンドナルドで成羽と一時間近く話し合った末に決まったコースだ。まず、佳耶の期待を損ねることにはならないだろう と思う。
 出発の予定時刻は、午後二時三十分。予め決めたコースを回ると、ちょうど午後七時に花火大会の会場に着くはずだ。佳 耶も、自分からは言わなかったけれど、この日を選んだということは、僕と一緒に花火が見たいのだろう。僕は半ば、その ことを確信している。
 お昼の食卓に着いたのは、僕と佳耶、それに文音ちゃんを含めた三人だけ。今日は、母さんも朝の九時から仕事に入って いる。
 テーブルの上に広がる、佳耶お手製の料理。蒸しアスパラのベーコン巻きに、サーモンのバター焼き、だし巻き卵に五目 炊き込みご飯。これにパックの納豆がついて、ボリューム、栄養バランスともに満点だ。
「いただきまーす!」
 佳耶の合図のあと、僕と文音ちゃんも両手を合わせていただきます、と言った。
 文音ちゃんはサーモンから、僕はだし巻き卵から箸をつける。佳耶はすぐには箸を動かさずに、しばし僕と文音ちゃんの ふたりが口に入れたものを咀嚼するのを観察していた。
「お味のほうはどうかな?」
 控えめな声色で、佳耶が問いかける。
「美味しい!」
「絶品ですね」
「えへへっ。ありがとう、ふたりとも」
 僕と文音ちゃんのふたりからお褒めの言葉を頂戴した佳耶は、嬉しそうに笑った。
 本当に、佳耶の手料理は、この家を料亭に改造したら千客万来になりそうなぐらい、美味しい。もし、彼女がどこかの小 さな飲食店に働きにいったりなんかしたら、そこの料理長の面目が潰れてしまうだろう。
「……なんか、これ食べてると本当の佳耶と見間違えちゃいそうだよ」
 僕は、文音ちゃんから事実を聞かされる前だったなら出すにも出せなかった言葉を、さらりと出した。
「あははっ。これも、ふみちゃんのおかげだよ」
 佳耶は言った。
「料理のデータはレシピだけじゃコピーできませんからね……。心も、まったく同じにしないと」
「……うん」
 データやらコピーやらと言われては、せっかく思い描いていた本当の佳耶のイメージも、木っ端みじんに砕け散ってしま う。だけど、もう、そういったことには慣れた。というのも、目の前で箸を動かし始めた『佳耶』がコピーに過ぎないとい うのが、まごうかたなき事実だからだ。
「……あ、そういえば文音ちゃん」
「はい」
 僕はひとつ、大事なことを思い出した。それは、本当の佳耶をそっくりそのままコピーするにあたって、実際にコピーさ れているのかが疑問に感じられるものについてだ。
「今ここにいる『佳耶』は、本当の佳耶とまったくおんなじに見えるけど……病気って、コピーされてるの?」
 僕は訊ねた。
 病気とは、ほかになく記憶喪失を伴う発作のことだ。成羽のことを覚えていなかったのは、最初から記憶が埋め込まれて いなかったと考えれば辻褄が合うけど、ゴールデンウィークのときの記憶喪失はどうして起こったのかわからない。そもそ も、記憶喪失じゃなくて、単に文音ちゃんとぐるになって約束をすっぽかしただけかとも思っていた。
「ご病気に関しては、さすがに避けました」
 文音ちゃんは言った。
「じゃあさ、ゴールデンウィークのときはどうしてショッピングに行かないで、旅行なんかに行ってたの?」
 僕は不思議に思って、文音ちゃんに尋ねた。すると、意外な答えが彼女の口から返ってきた。
「旅行というのも、実は口から出任せなんです」
「……えっ?」
 僕は驚いた。口から出任せ、だなんて文音ちゃんは言うけれど、それは自分が嘘をついていたということを遠回しに言っ ているだけだ。
「本当はあのとき、私は佳耶ちゃんを研究所にお預かりさせていただいていました」
「研究所に……?」
「そうです。あのとき、ショッピングに行かれるという予定を目前にしながら、佳耶ちゃんはイエローライトを点滅させて いました。いわば、不具合が発生した状態です」
「うん……」
 僕は、固唾を呑んで頷く。
「その原因を探るべく、ゴールデンウィークの間研究所に佳耶ちゃんをお預かりさせていただいて、全体検査……あぁ、そ うですね……人間で言えば、人間ドックみたいなものでしょうか。そういった、包括的な検査をさせてもらっていたんで す」
「そうだったんだ……」
「はい。お兄さんには、本当にご迷惑をかけてしまったと反省しています」
 そう言って、文音ちゃんは持っていた箸を一旦お皿の上に置くと、僕に向けて慇懃に頭を下げた。
「い、いや。そうならいいんだけど……約束を無視されてたら、どうしようって思ったから」
 僕は、文音ちゃんに頭を下げてもらうのがなんだか理に適っていないように思えて、咄嗟に彼女の責任を否定した。
「無視なんて、わたしはそんなことしないよ」
「え……っ?」
 佳耶がそう言ったこと自体に、僕は違和感を覚えた。
 あのとき、佳耶は確かに、僕との約束を忘れてしまったような仕種を見せたはずだ。まさか、それが演技だったとでも言 うのだろうか。いや、佳耶に、そんな芸当ができるわけがない。だとしたら……。
 疑う僕に、佳耶は言った。
「本当は、わたしもショッピングに行きたかったよ。でも、ふみちゃんが今は行っちゃいけないって、わたしに言ったの。 行ったら、おにいちゃんの前で倒れてしまうことになるかもしれないから、って」
「……そっか」
 僕は、もしも文音ちゃんが、佳耶が発したイエローライトを無視していたら、どうなっていたかを想像した。不具合を抱え たまま、佳耶は僕と一緒に外出する。僕の目には、それこそいつもと同じ元気な佳耶に見えるけど、彼女の中で、手つかず の不具合がだんだんと大きな悲鳴をあげるようになっていって――最後には、八色ヶ浦で倒れたみたいに気を失っていたか もしれない。あのときは近くに文音ちゃんが居たから良かったけど、もしも僕だけだったらどうしていただろうと思った。 そして、それに対する答えが“救急車を呼ぶこと”以外に浮かんでこないとわかると、僕はぞっとした。佳耶が造りもので あることが、もしかしたら、大々的に報道されて、僕たちは間違いなく、人体のコピーを造ることに反対する団体なんかか ら非難の嵐を受けていただろう。
 文音ちゃんの研究は、実は国から正式に認可が下りているものなのかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。そう 考えると、彼女が終始一貫『佳耶』を管理してくれていて、本当に助かったな、と思えた。
「ふみちゃんはね、自分で造ったからには、自分で守らなきゃいけないって思って、ずっと、わたしのことを気にかけてい てくれたんだよ」
「うん……」
 佳耶に言われて、僕は、改めて文音ちゃんが背負っている責任の重さを痛感した。
「お兄さんがそうしていらっしゃるように、私にも『佳耶』ちゃんを守る義務があります。だから、あのときのことは、ど うか目をつむってあげてください」
 最後に、文音ちゃんは僕にそう頼んだ。それを願い下げる理由は、今の僕にはなかった。
「うん。わかったよ」
「えへへ……おにいちゃん、わたしからもごめんね」
 佳耶も、文音ちゃんに倣って軽く頭を下げる。
「佳耶は、あのとき必死に謝ってくれたじゃないか」
「ううん。重ねて、だよ」
 佳耶は言った。そこまでしてくれる佳耶が、僕の目には誰よりも優れた思いやりを持っているように見えたのだった。
「でも、お兄さん」
「うん?」
「私はなにも、あのときだけじゃなくて、毎日佳耶ちゃんの点検……あ、じゃなくて、健康チェックみたいなことをさせて もらっていたんですよ」
「へぇー……そうだったんだ」
 僕は感心した。
 文音ちゃんが毎日のようにうちに来るようになったのは、ただ単に遊びにきただけじゃなかったのだ。きっと、文音ちゃ んは、次の日の朝佳耶がベストなコンディションで一日のスタートを切れるように、佳耶の状態をチェックしていたに違い ない。まさに、ここまで佳耶と、彼女の“生みの親”である文音ちゃんが共に歩んでくることができたのは、彼女たちふた りの二人三脚あってこそなのだろうな、と僕は思った。

 

 そんなこんなで、午後二時三十分、ちょっと前。
 僕と佳耶のふたりは、文音ちゃんに見送られながら、デートを始めた。
 僕はそれなりに見栄えのいい服を着てきたのだけど、佳耶のファッションはちょっと味気ない。いつもと同じ朱色のシャ ツに、下は短めのグリーンのスカートとピンクのオーバーニーソックス、それから運動靴。これくらいなら、普段着のイメ ージが強い。僕が「デートなんだし、もうちょっとおめかししたらいいじゃん」と言うと、佳耶は「べつにこれでもいい よ」と言った。ナチュラルに振る舞おう、ということなのだろうか。いずれにしても、繁華街に出たら、地味な服はかえっ て浮いてしまいそうだということが、僕には気がかりだ。
 僕が自転車を引き出そうとすると、佳耶は歩いていこうと言った。どうしてかという問いに、彼女は至ってシンプルに、 歩きたいからと答えた。それに対して同じ質問を繰り返すと、今度は「なんでも」という答えが返ってきた。
 仕方なく、僕は出しかけの自転車を元の場所に押し戻して、佳耶と並んで歩くことにした。本音を言うと、視界も揺らぐ この猛暑の中、歩くよりは自転車に乗るほうが楽だと思う。だけど、僕はその私欲を諦めざるを得ない。僕は心に誓ったの だ。今日一日は、佳耶の言うことをなんでも聞いてやろうと。
 門を出て、大通りを目指す。静かな雰囲気の中で、先に話し始めたのは佳耶だった。
「ね、おにいちゃん」
「うん?」
「今日は、どこに連れていってくれるの?」
 佳耶は、目を輝かせながら僕に質問した。
 そうだ。僕は、この質問が佳耶の口から出てくることを想定して、わざわざ成羽を呼んでデートコースを練ったのだ。佳 耶は、自分から一緒に出かけようと言い出すことはあっても、行きたいところは僕任せにすることがほとんどだ。今度のデ ートでも、おそらく佳耶は行きたいところを決めていないだろうなあ、と僕は目星をつけていた。
「うーんとね、まずは……中猪駅から電車に乗って、百日前の次の南場市駅まで行くでしょ。ここの駅の近くで、三時から フリーマーケットやってるんだって」
「ふうん。いいね」
 佳耶は頷く。僕の提案は、どうやら好感触だったらしい。
「それから、ちょっと移動して、水族館に行こうと思うんだけど……ここはどうしようかな。時間は一応取ってあるけど、 バスに乗るのと歩いていくのとがあるんだ」
「うん」
「バスの待ち時間が長かったら、歩いたほうが早く着くし、クーラーにあたりたかったらバスを待ったほうがいいし。どっ ちもありだね」
「そだね」
 僕の説明に、佳耶は相槌を打つ。
「それで、まあ、あとは適当にショッピングとか楽しもうって思ってるんだけど、最後に、この間行った八色ヶ浦で七時か ら花火大会があるんだ。だから、これに間に合うように行動できたらいいな、って考えてる」
「ふうん」
 佳耶は、にやりと笑った。
「それって、成羽おねえちゃんが決めたんでしょ?」
「……え、えっ!?」
 僕は狼狽した。佳耶の言葉が、完全に図星だったからだ。
 確かに、成羽とふたりで話し合ったとはいっても、このコースを決めたのはほとんど成羽だった。僕はあまり地理やイベ ントには詳しくないから、情報通の成羽の一存に任せたのだ。
「ど、どうしてわかったの?」
「そんなの、あんまり知らないところには行きたがらないおにいちゃんの性格を考えたらわかるよ」
「そっか……そうだよね」
 僕は決まり悪く苦笑した。妹は、兄のことはなんでもお見通しなのだ。それが本当の佳耶であれ、文音ちゃんの造っ た『佳耶』であれ。
 今更ながら、僕は少し格好をつけすぎたかな、と後悔した。
 大通りに出ると、ちょうど信号が青に変わったところだった。僕たちはそのまま歩いて、北側の歩道を目指す。一度は辛 い思いをした横断歩道だって、佳耶と手を繋いで歩けばへっちゃらだ。横断歩道を渡りきると、僕たちは公園のほうへ曲が った。
「わたしね」
 ふと、佳耶が口を開く。僕は引き寄せられるように、彼女のほうに顔を向けた。
「おにいちゃんと成羽おねえちゃんが一生懸命考えてくれたコースも、悪くないって思うよ。フリーマーケットでお買い物 もしたいし、水族館でアザラシさんとかイルカさんも見たいし、花火だって見たいよ。でもね……」
 佳耶は、横断歩道を渡りきったあとに話した僕の手を――いや、手首を、がっしりと掴む。そして、ぐいっと僕を引っ張 った。
「おわっ」
「もっともっと、おにいちゃんと一緒に行きたいところかあるんだ!」
「待って、佳耶。そっちは……」
 駅に向かう歩道から脱線したかと思いきや、佳耶は僕の提案したコースとは全然違う方向へ走りだした。中猪公園の南東 口だ。
「公園だよ!」
「あははっ。いいの!」
 佳耶は、声を弾ませて、それから息も弾ませながら、僕の手を引いて公園に入る。
「……あたっ」
 入口の柵に膝をぶつける僕。それでも、佳耶は走ることをやめない。だから、僕も止まるに止まれない。そのままジョギ ングコースを横切って、僕たちは芝生の上を駆け抜けた。
「待って、佳耶! ここ、芝生養生中って書いてる。立入禁止だよ!」
 僕は、足元に見えた小さな立て札の注意書きを動体視力を働かせて読み取ると、それをそのまま佳耶に伝えた。
「あはははっ。細かいことは気にしないのっ」
「これって細かいか……?」
 走りながら、僕は思った。佳耶は気分爽快でも、踏まれている芝生はどうだろうか。雑草と違って、彼らは踏まれること に慣れていない。だから、当然、痛いだろう。苦しいだろう。
 だけど、裏返せば、この芝生たちも、苦しみながら佳耶の幸せを支えてくれているのかもしれない。自分を犠牲にして、 佳耶に尽くしてくれているのかもしれない。僕は、ちょっぴり芝生さんたちに申し訳ないなと思いながら、心の中で、感謝 の言葉をかけておいた。
「おにいちゃん、こっちこっち!」
 僕と繋いだ手を離して、佳耶はひとり先に走りだす。
「待ってよ!」
 僕は、必死に佳耶を追いかける。明らかに躓いてしまいそうな石だらけの地面や、明らかに肩をぶつけてしまいそうな密 度の高い雑木林も、佳耶は跳ねるような足取りで駆け抜けていく。僕も、途中何度も転びそうになりながら、スピードを上 げて佳耶のあとを追って走った。
「佳耶っ、前、池!」
 僕は声を張り上げる。前に見える池の水面から姿を見せている石の足場は、あのスピードでは踏み外す危険性大だ。
 しかし、
「へーきへーきっ」
 佳耶は見事に、その足場をぴょん、ぴょんと小刻みにジャンプしながら渡っていく。僕も真似をしたいのは山々だったけ ど、たぶんできそうにないから、隣の木の吊り橋を渡った。
 しばらく走ると、前方に子供向けのジャングルジムや滑り台、砂場などが集まったスペースが見えてきた。そのスペース まっしぐらに、佳耶は駆けていく。
 そのとき、佳耶が今日のデートでやろうとしていることが、僕の思い半ばに過ぎた。もしかして、佳耶は……。
 僕は、胸騒ぎが起こり始めたことも忘れて、佳耶を追った。
(もしかして……思い出したんだろうか? 僕と成羽と佳耶が、昔ここでよく三人で遊んでいたことを)
 いや、そんなはずはない。『佳耶』は、造られた人間なんだ。過去のことを思い出せるなんてことは有り得ない。だった ら、どうして佳耶はこの遊び場に……?
 佳耶がいちばんに、僕がそれに続いて遊び場に入った。突然現れた中学二年生の女の子と高校一年生の男の子のペアに、 その場にいたちっちゃな子供やその母親らしき女性たち、それに祖父母らしきお年寄りたちの視線が集中する。それをまっ たく気にする様子もなく、佳耶は、ちょうど誰も登っていなかったジャングルジムに登り始めた。
「ちょっと待ってよ、佳耶。こんなところで遊んだら、子供たちの邪魔になるって」
「おにいちゃんも早く!」
「………」
 まるで、聞く耳持たずといった様子だ。目だけを動かして、もう一度ちらっと子供たちのほうを見遣ると、母親どうしが 湿っぽい目をして耳打ちをし合っているのが見えた。
(うわあ……なんか恥ずかしいぞ……)
 僕は、足の裏から頭のてっぺんまで、ありとあらゆる部分の皮膚が赤く染まるような恥じらいを感じて、戸惑った。
 佳耶を連れて今すぐここから立ち去るべきか。それとも、彼女と一緒になって遊ぶべきか。少しだけ迷ったけど、僕が答 えを出すまでに、それほど時間は要らなかった。
(そうだ。今日は、なんでも佳耶の言うことを聞くんだった)
 僕は恥ずかしさをなげうち、思い切ってジャングルジムの鉄の棒に手足をかけた。
 奇しくも、一度ジャングルジムを登り始めると、恥ずかしさなんて気にならなかった。それまで僕の心を支配していた恥 ずかしさに取って代わったのは、懐かしさ。
 ジャングルジムは成長してしまった僕たちには随分と小さく見えるけれど、そこから見渡す景色は、確かに、幼稚園のと きと同じように僕の心を躍らせた。
「どう、おにいちゃん?」
 佳耶が尋ねる。
 もちろん、答えはひとつだ。
「うん、楽しいよ。まさか、この年になってもジャングルジムに登るのがこんなに楽しいことだなんて、思わなかった」
「えへへっ。じゃあ、今度はあっちの滑り台に行こっか」
 佳耶は、ジャングルジムの頂上から三段だけ降りると、あとの高さは、
「それっ!」
 ジャンプで飛び降りた。両足を綺麗に揃えて着地したあと、腕をぴんと横に伸ばして、前に倒れた上体をしゃきっと起こ す。着地だけ格好をつける佳耶に、彼女の挙動を観察していた保育園児ぐらいの子供たちが、「おねーちゃんすげー」と言 いながら拍手をした。
 しかし、それをもっと遠くから見ている保護者たちは、不快な表情だ。たぶん、子供の前でそんな危険なことをするな、 とでも思っているんだろう。そう察した僕は、佳耶に倣わず、普通にジャングルジムを降りた。すると案の定、保護者たち はほっとしたような顔つきをした。逆に、子供たちは物足りなそうな顔をしていたけど……。
「おにいちゃんこっち!」
 佳耶は、僕よりも先に滑り台に向かって走り出す。たぶん、彼女の頭の中には、僕が考えているようなことなんてないだ ろう。僕はやれやれという気持ちを含んだ苦笑をひとつ作って、佳耶を追いかけた。
 彼女が向かう滑り台の上では、小さな女の子が立ち竦んでいる。怖くて、なかなか滑り出せないのだろう。先に滑った友達らしき女の 子が、下の砂場で彼女が滑るのを待っているみたいだ。僕は、佳耶と一度顔を見合わせて、彼女と同時に頷いた。
 佳耶は、滑り台の階段を、一段ずつ上っていく。それに気づいた女の子は、自分よりも一回りも二回りも大きい佳耶を見 て、さらに怯えたような顔になる。でも、佳耶は女の子に笑顔を見せ続けた。大丈夫だよ、安心して。佳耶の顔が、そう語 っている。
「えへっ。おねえちゃんと一緒に滑ろ?」
 佳耶が声をかけると、女の子は、僅かに首を縦に振った。
 スロープに迫り出すように足を投げ出して、佳耶は滑り台の頂上に腰を下ろす。彼女は、次に女の子の手を引いて、自分 の膝の上に座らせた。その様は、年の離れた姉妹のようでもあり、母子のようでもある。
「準備はいい?」
 佳耶が訊ねると、彼女の膝の上に同じような姿勢で乗っかった女の子は、こくん、と小さく頷いた。
「それじゃ、出発ーっ」
 まるで子供のように無邪気な合図を出して、佳耶は前に進んだ。
 勢い良く、佳耶が滑り出す。背中がうしろに倒れて、前髪が風に揺れる。膝の上の女の子は、目が点だ。
 ほんの三秒ちょっとの滑降。スロープの終点から飛び出した佳耶は、砂場にどすんと尻餅をついた。抱えられていた女の 子は無事だろうか。僕が回り込んで確認してみると、佳耶が笑顔でVサインを作ったのに続けて、女の子も目を開いてにっこ りVサインを僕に示した。
 女の子は、次は自分ひとりで滑ってみる、と言って、また階段を上っていった。きっと、佳耶と一緒に滑ることで、怖さ を克服できたんだろう。僕は、彼女が滑り出すのを見届けたあと、佳耶の背中の異変に気がついた。
「あーあ……砂だらけだぞ、背中」
 そう言って、僕は佳耶の背中を手でぱんぱんとはたいた。砂埃がもわんと舞い上がる。少しましになったけど、やっぱり 砂の汚れは完璧には取り払えない。
「えへへっ。だから、これを着てるんだよ」
「まあ、おめかししてくるよりはましかな……」
 僕はそんなことを呟きながら、しつこく佳耶の背中に着いた砂の汚れを手で払い続ける。
「もういいよ。帰って洗えばとれるから」
「そうだね」
 僕は、仕上にぽんぽんと、二度佳耶の背中を軽く叩いた。初めよりも、砂埃は舞い上がらなくなかった……ような気がす る。
「次、ブランコ!」
 僕にクリーンナップをしてもらうや否や、佳耶はブランコ目指してすっ飛んでいってしまった。
 なんというか、まったく中学二年生には見えない。親の手を焼く小さな子供みたいだ。だけど、その無邪気さを、佳耶は 今も忘れずに持ち続けている。体とともに心を成長させていく過程で子供らしい感受性を切り捨てていく人が多いなかで、佳 耶は器用にも子供らしい心と、大人っぽい心を自らの中に同居させている。そのふたつから、彼女は、臨機応変にどちらか ひとつを選んで使うのだ。こんなことができるのは、僕の知っている限りでは、佳耶以外にはいない。
 僕は、先にブランコに乗った佳耶の、うしろに立った。全部で三つあるブランコのうち、ふたつは小さな子供が乗ってい るから、僕の役目は佳耶の背中を押してやることだ。
「いくぞ、佳耶」
「うん!」
「そらっ」
 僕は、思い切り佳耶の背中を前に押し出した。戻ってくるブランコに激突しないように、少しポジションをうしろにずら す。ブランコがうしろに下がってきたところで、僕はまた、軽く佳耶の背中を押した。
「おっけー。あとは、自分で漕ぐから」
 佳耶はそう言うと、膝の屈伸を利用して、ブランコを大きく前進させたり後退させたりした。
 そういえば、いちばん早くブランコの立ち漕ぎをマスターしたのも、佳耶だっけ。彼女はあのとき、まだ年少組だったに もかかわらず、その活発さで、僕たちを素っ破抜いた。それに負けまいと対抗心を燃やしたのが、成羽だ。彼女も、ふたつ年 下の佳耶に教えられながら、どうにか立ち漕ぎをマスターした。唯一僕だけが三人一緒にいた間に立ち漕ぎをマスターでき ず、しばしばいじけていたのは、今でもよく覚えている。でも、今なら……。
「佳耶、交替してよ」
「うん」
 僕の言葉を受けて、佳耶はブランコの振幅運動にさらに加速をつける。もしや、この展開は――。
「とりゃっ!」
 やっぱり、飛んだ。スカートがふわりとめくれ上がって……ストライプのパンツが丸見え。しかし、着地は綺麗だった。 ジャングルジムから飛び降りたときみたいに、佳耶はまた格好をつける。これには、さっき不愉快な顔をしていたはずの保 護者たちも、拍手を送った。
「えへへっ。何点?」
 佳耶は、僕に尋ねた。
「そりゃもう、文句なしの百点だよ」
 僕は返す。
「違うよ……体操競技は、普通十点満点なんだよ」
「あ、そっか……。じゃあ、十点」
 僕が前言を訂正すると、佳耶の不満げな顔がまた、にぱっと笑った。
 僕は、佳耶の乗っていたブランコに足を乗せる。あんな芸当を佳耶にされたあとでは、ちょっと漕ぎにくいといえば漕ぎ にくい。回り込んできた佳耶に背中を押してもらって、僕も彼女と同じように、前進のときに膝を伸ばし、後退のときに膝 を曲げて加速をつけていく。今なら、こんなに漕げる。僕は、幼稚園を卒業した翌年にこれをマスターしていたのだ。惜し くも幼稚園では見せられなかった成羽にも、本当の佳耶が戻ってきたら見せてやりたいな、と思った。
 ブランコを漕いでしばらく風の中を往復していた僕は、ふと、ジャンプでの着地に挑戦してみる気を起こした。佳耶にで きて、僕にできないはずはない。そう思って、立ち漕ぎもマスターしたのだ。要は、自信さえあれば成功する。僕は、前を 見て、ブランコがいちばん前まで到達する少し手前のタイミングで、台を蹴った。
「ジャンプっ!」
 体が宙を舞う。僅かな時間、空気と同化したような感覚に浸る。気持ちいい、と思いながら着地のフォームを考えている と、
「あっとっとっ……うあっ」
 着地失敗。よろめいて、左側の尻を地面に打ちつけてしまった。
「おにいちゃんっ、大丈夫?」
 佳耶が駆け寄る。
「あはははっ、なんともないよ。ちょっと着地の準備が遅れちゃっただけだから」
 僕は笑って答えた。
 それを証明するために、僕は、自分の力で立ち上がった。気づいてみれば、やんちゃな佳耶を真似てしまったおかげで 、ジーンズの左側が砂だらけだ。
「おにいちゃんも、人のこと言えてないよね」
 佳耶はそう言うと、世話焼きモードに切り替わった。砂で汚れてしまったジーンズを、さっき僕がしていたみたいに手で 払い落とす。べつに手伝ってもらわなくても自分で払い落とせる箇所ではあったけど、せっかくの厚意だから、僕はそれに 素直に与っておくことにしたのだった。
「……これでよし、と」
 佳耶は最後に、自分の両手をぱんぱんと払った。
「それじゃ、次は……鉄棒で逆上がりっ」
「えっ……まだ遊ぶの?」
「うん!」
 僕は少し疲れてきたけれど、佳耶はまだぴんぴんしている。やはり、佳耶のスタミナには敵わない。あんな底抜けの体力 が、小柄な佳耶の体のいったいどこから湧いてくるというのだろうか。それさえ知ることができれば、僕も疲れ知らずにな れるかもしれない。……あわよくば、毎朝、寝ぼけ眼を親や成羽に見せずに済むかもしれない。
 鉄棒のところまで走ると、まずは佳耶の逆上がりをお手並拝見した。「せーのっ」という掛け声とともに助走をつけて、 力強く左足で地面を蹴る。右足から持ち上がって、ちょうど百八十度回転したあたりで、両脚がぴしっと揃う。体を一直線 に保ったまま、足から着地した。とてもしなやかなフォームだ。
「やるね。逆上がりは、得意中の得意だっけ」
 僕は感心して言った。
「そだよ。おにいちゃんは、苦手中の苦手だったっけ?」
「……うっ」
 その通りだ。というよりも、苦手以前の問題で、未だにできないのだ。
 ……となると、おそらく、このあとは佳耶の“逆上がり特訓コース”が実施されたりして……。
「じゃあ、わたしが教えたげる」
 来た。
 まさに、逆上がり特別個人レッスンの始まり始まり……だ。
「はい……頑張ります」
 もうこれはデートじゃないな、と半ば諦めながら、僕は佳耶の指導のもと、逆上がりに励むのだった。

 

 結局、逆上がりはマスターできなかった。
 たぶん、僕の要領が悪いんだと思う。佳耶の指導は、体育の先生のそれよりもずっと懇切丁寧で飲み込みやすかった し……。
 佳耶の逆上がりレッスンには、僕だけじゃなくて、最終的に三人の子供たちが参加した。みんな、保育園の運動の時間に 頑張っているけれど、なかなか上達しない段階だ。佳耶は、そんな子供たちに、ひとりひとりフォームを正したりする指導 をした。鉄棒を持つ腕を伸ばしている子には、もっと脇を閉めて鉄棒に近づいてと。地面を蹴る力が弱い子には、もっと思 い切って踏み切ってと。足があまり上がっていない子には、もっとお空に飛んでいくような感じでと。そんな佳耶の熱血指 導の甲斐あって、なんと、三人全員が逆上がりをマスターすることができたのだった。
 なんとも言いづらい敗北感を味わったあと、僕は佳耶と共に遊び場をあとにした。帰り際に、子供たちが寄り集まってき て、佳耶に、「おねーちゃん、また遊びにきてね」と告げた。佳耶は笑顔で「また来るよ」と返して、子供たちとひとりず つ握手を交わしたのだった。
「楽しかったね、ちっちゃい子たちとも遊べて」
「うん」
 僕は頷いた。
 でも、どっちかというと、楽しかったというよりも、懐かしかったという気持ちのほうが、僕の中では大きかった。僕と 佳耶と成羽の三人で、一緒にジャングルジムに登って頂上から遊び場全体を見渡したり、代わりばんこでブランコを押した り漕いだり、逆上がりに躍起になったり……。それはみな、幼い頃の記憶と重なった。
 『佳耶』の中に、幼少時代の記憶はないはずだ。でも、彼女は、それと寸分違わぬことを、僕の前でしてみせた。いった いどうして彼女にこんなことができるのか、それに僕が答える術はない。それでも、ひとつ、またひとつ蘇ってくる記憶は 温かくて、心を和ませてくれる。僕は、これから佳耶が僕を導くだろう先に、期待を馳せた。
「そろそろ三時半だね。おやつ、食べよっか」
 佳耶が言う。
「賛成。なんにする?」
 僕は尋ねた。
 すると、佳耶はちょうど視界に現れた、公園の北口を出たところにある露店を指差した。
「わたし、あれ食べたい」
「ベビーカステラ……」
 僕は、その露店に書かれていた文字を読んで、またひとつ記憶を呼び覚ました。
 ベビーカステラといえば、三人がここで遊んでいたとき、よく母さんに買ってもらった食べ物だ。
 お腹が空いたと僕たちが訴えたとき、いつもおやつに食べさせてもらっていたのがベビーカステラだった。ほかにも、鯛 焼きや薄焼き煎餅なんかも買ってもらった覚えがあるけど、いちばんよく食べていたのはベビーカステラだ。
「いいね。買いに行こっか」
「うん」
 僕と佳耶は、北口を通って公園から抜け出した。そのすぐそばにあった露店の前で、僕たちは立ち止まる。来客に気づい た露店商のおじさんは、らっしゃ〜い、と間延びした声を僕たちにかけた。
「この、中くらいのください」
「あいよ。六百円ね」
 僕は、ジーンズのポケットから財布を取り出した。佳耶のショッピングを想定していたから、軽食を買うには十分な金額が 入っている。五千円札が一枚に、千円札が三枚、残りは適当な小銭。実は、これが僕の全財産に限りなく近い金額だという のは、佳耶には内緒にしていたりする。
 小銭入れを開いて、五百円玉と、百円玉を探す。しかし、五百円玉はなく、百円玉も三枚しかない。仕方なく、千円札一 枚と百円玉一枚をおじさんに渡した。おじさんは、「まいどあり」と言って、五百円玉を一枚、僕の手の平に載せた。
 五分も待つと、鉄板の上のベビーカステラから、甘い香りが漂ってきた。おじさんは、焼きたてのベビーカステラを一旦 受け皿に流して、そこから箆で掬ったベビーカステラを、手に取った紙袋に入れていく。秤で重さを量ると、どうやら少し 入れすぎだったらしく、中身をいくらか受け皿に戻してから、おじさんは開け口を折った紙袋を僕に手渡してくれた。
「わーっ。美味しそうなにおい」
 佳耶は、僕の持つ紙袋の中を覗き込むように見る。
「いただいちゃおうよ」
「待って、おにいちゃん」
「えっ?」
「まだ手洗ってないからばっちいよ」
「あ、そうだった」
 危うく紙袋の中に手を突っ込んでしまいそうになったところで、僕は佳耶に気づかされた。そうだ、僕たちはさっき、服 も砂塗れになるくらい遊び場で遊んだばかりなんだった。
 北口から公園に戻って、いちばん近い公衆トイレの蛇口で手を濯ぐ。家に帰ってから洗うのとは違って石鹸がないけど、 たぶん大丈夫だろうと思った。
「それじゃ、いただきまーす」
 佳耶は、紙袋の中からベビーカステラを一個取り出して、口の中に放り込んだ。
「美味しい?」
 僕が訊ねると、
「うん、甘くて美味しい」
 と佳耶は答えた。
 僕も、ひとつ試食してみる。黄色と茶色の卵型に懐かしさを感じながら、ベビーカステラを口に入れる。口の中に広がる 甘い味もまた、懐かしかった。
「残ったら、文音ちゃんや母さんたちにも分けてあげようか」
「うん。でも、美味しいから、たぶん残らないと思うよ」
 佳耶は、笑いながら言った。
 それには、僕も同感だった。

 

 佳耶の言ったとおり、再び公園を出て次の目的地に向かっている間に、ベビーカステラはなくなってしまった。残った紙 袋をコンビニの前の屑かごに捨てて、僕たちは閑静な住宅地の中を、北に向かって歩いた。
 桃ヶ丘通りという大通りを、東に曲がる。ここから少し歩いて右手に、僕たち三人が通った幼稚園がある。たぶん、歩い てここまで来たのは初めてだと思う。
 幼稚園の前で、僕たちは立ち止まった。
 あの頃と、なにも変わっていない園庭。
 あの頃と、なにも変わっていない教室。
 そして、僕があの頃見た面影が、今でも残っている先生たち。
 記憶の中の風景とまったく同じ風景に、僕は、幼い頃の三人の姿が映えるようなまぼろしを見た。
 気が弱くて、友達ができなかった僕。反対に、気が強すぎて、疎んじられた成羽。ふたりが手を繋いだ翌年、その間に入 ってきた年少組の佳耶。園長先生から、この幼稚園でいちばん仲がいい三人組のお友達、なんて言われていたっけ。
 先生たちは、まだ僕たちのことを覚えてくれているだろうか。仲のよさを褒めたり、たまに成羽や佳耶がやんちゃをした ときに叱ったりしたことは、まだ先生たちの記憶から風化してしまっていないだろうか。
 ただ、覚えていてくれたらいいな、と思った。仲間外れどうしのお友達――園長先生も認めてくれた僕たちのことを、い つまでも。

 

 それから僕たちは、さらに東へ歩いて、小さな川に架かる橋に辿り着いた。
 その川の手前の細い路地に入り込んで、土手の階段から河原に降りた。この川の土手は、昔、三人でよく昆虫採集をしたところ だ。春になると蝶々を、夏になると蝉や飛蝗を、秋になると蟋蟀を捕まえた。
 都会の一角に設けられた自然地帯には、やはり、蚊がわんさか飛んでいる。長く伸びた夏草を踏み鳴らすたびに、僕たち の腕に蚊がまとわりついた。追い払っても追い払っても、きりがない。この中で無邪気に昆虫採集をしていたのかと思うと 、途端に幼い頃の僕たちが偉く見えてきた。
 蚊に刺されながらも、僕たちはあの頃みたいに雑草にくっついている昆虫を探した。虫採り網や虫かごは持ってきていな いけど、こうやって蚤取り眼で昆虫を探す行為自体が、とても懐かしい。
 都会生まれなのに、なぜか虫が好きだった僕と佳耶。最初はびくびくしていたけど、僕が捕まえた鈴虫の透き通る鳴き声 を聞いて、興味を示した成羽。頻繁にこの河原に集まっては、とっぷりと日が暮れるまで無我夢中で虫採りをしていた三人 。よく母さんに「いつになったら帰るの?」と聞かれていたっけ……。
 もう虫採りの記憶なんて薄れかけていたけれど、佳耶にここに連れられたことで、その記憶は鮮やかに蘇ったのだった。

 

 河原を発ったあと、さらに僕たちは東に歩いた。こんなところまでは、歩いてきたことはもちろん、母さんに連れてきて もらったこともない。だけど、うっすらと記憶にはあった。僕の家族と成羽の家族で、一緒にこの道を通ってムトームイカ ドーというデパートに行ったのだ。行き帰りは、父さんたちが車を二台連ねて走らせていた。
 河原から歩いて十分、僕たちはデパートに到着した。傾き始めた夕日のまばゆい光から逃れるため、ふたりはデパートの 自動扉をくぐって中に入った。
 冷房が涼しくて気持ちいい。そういえば、富松家四人、湧井家五人、合わせて九人の団体でここを訪れたのも、夏真っ盛 りのことだった。僕たちは、自分たちの目から見ると“大きなお兄ちゃん”だった成羽のお兄さんたちを差し置いて、三人 であちこち走り回った。よく人や商品にぶつかって迷惑をかけていたし、親にも迷惑をかけた。三人で行動を開始してから しばらく経って、佳耶の姿が見えなくなったのだ。慌てて、僕と成羽は母さんたちに佳耶とはぐれてしまったことを告げた 。母さんが店員さんにも手分けして捜してもらうようお願いしたことで、幸い、僕たちは佳耶が無事だったことを確認でき た。彼女は、一度行って楽しかったらしい屋上のプレイランドに、ひとりで戻っていたのだった。
 そのときの話を佳耶にすると、やはり、佳耶は首を横に振るだけだった。でも、デパートまで行こうと誘ってくれたのは 紛れもなく『佳耶』だ。彼女の不十分な記憶では、僕を連れてくることなどできなかっただろう場所。なぜ、『佳耶』は僕 を幼い頃親しんだ場所へと導くことができるのか。その疑問さえ気にならなくさせてくれるのは、ふたりでこの場所を訪れ た“懐かしさ”だ。
 ウエアーショップや書店などを見て回ったあと、僕たちは屋上のプレイランドまでエスカレーターに乗って上がった。小 さいとき、佳耶が迷子になったところだ。階上に辿り着いた僕の目に、その風景は飛び込んできた。
 真っ赤に燃える夕日。美しくも物悲しい、オレンジ色の空。プレイランドの遊具も、遊んでいる子供たちも、周りのマン ションも、高速道路を走る車も――すべてのものを、朱色に染めあげる夏の夕焼け。この風景を見るといつも、成羽とお別 れの挨拶をしなければならなかった。
「おにいちゃん……」
 佳耶は、夕焼けに心を奪われて立ち尽くす僕の顔を見て、静かに言った。
「……泣いてるの?」
 佳耶に言われるまで、僕は気づかなかった。手の甲でそっと目を拭ってみると、僅かに水滴が付いた。同時に、拭ったほ うの目がじんわりする感覚を覚えた。
「……うん」
 僕は頷いた。
 自分でも、どうして目に涙が浮かんだのかわからなかった。目の前に広がる夕焼けが教えてくれた一日の儚さが、寂しく 思えたからだろうか。
 あのとき、夕焼けが西の空一面に映えると、僕たちの母さんは、みんなで遊ぶのを打ち切らせた。それは、遊び始めてか らあっという間のことだった。明日になればまた遊べるとわかっていても、その日の別れは寂しかった。それくらい、僕た ちは一日一日を大切にしながら過ごしていたのだ。
「夕焼け、綺麗だね……」
 佳耶は、フェンスのところまで歩いていく。僕もついていった。
 僕はなにも言わず、佳耶と同じように夕焼けを見上げた。一日の終わりを告げる夕日は、幼心には、なければいいのにと 願うものだった。だけど、この夕日が僕たちの目の前で燦然と輝いていたからこそ、僕は、一日の儚さを知ることができた 。そして、どうせこんなに一日が短いのなら、楽しさの限りを尽くして遊び倒してしまえ、と思った。それからずっと、幼 稚園を卒園して本当に成羽と別れてしまうまで、毎日がとても楽しくて、とても幸せだった。三人で過ごした時間は、何物 にも代えられない、貴重な時間だった。
 それは、決して、過去のもので終わらせてはいけない。本当の佳耶が元気な顔で戻ってきたときに、僕たちがもう一度掴 み取らなければいけないものだ。公園の遊具で遊んだ楽しさも、ベビーカステラを味わった幸せも、河原で昆虫採集をした 楽しさも、デパートを駆け巡った楽しさも……全部引っくるめて、僕と、本当の佳耶が取り戻さなくてはならないものなん だ。
「ありがとう、佳耶……」
 僕は顔を少し佳耶のほうに向けて、同じ方向に目を寄せて彼女を控え目に見ながら、呟いた。
「僕、気づいたよ。佳耶が今日見せてくれた風景の中に、もう一度取り戻さなきゃいけない楽しさとか、幸せがあったんだ 。あのときの楽しかった気持ちは、これからの僕たちも必要なものなんだって……気づかせてくれて、本当にありがとう」
 僕の左目から、また、涙が零れ落ちて、頬を伝った。
 もしも今日、佳耶がデートだなんて言って僕を誘っていなかったなら、記憶の中にある楽しさや、幸せな気分に気づくこ とはできなかっただろう。それが、これからの僕たちを動かすパワーになってくれるんだと、僕は悟ったのだ。佳耶が見せ た風景とリンクする、幼い頃の記憶に触れることで。
「おにいちゃん……わたしからも、言いたいよ。おにいちゃんに、ありがとうって」
「えっ……?」
 僕は佳耶の言葉を訝った。僕が今日、佳耶になにかしてあげたことはあるだろうか。デートという名目で付き合ってあげ たり、佳耶の言うことを聞いてあげたりはしたけれど、それはみんな、結果として僕が彼女の優しさを享受することに繋が ったのだ。
「今日が何の日か……おにいちゃん、完っ璧に忘れてるでしょ?」
「今日って……あっ!」
 今日という日と、佳耶の笑顔。
 そうだ、今日――七月三十日は佳耶の誕生日だ。
「思い出したよ。おめでとう、佳耶。十四歳の誕生日」
「おにいちゃん……」
 佳耶の両目にも、うっすらと涙の影が浮かんだ。
「忘れたりなんかしてて、ほんとにごめんね……」
「ううん、いいよ。それに、おにいちゃんのほうから気づいてもらうのが、わたしの願いだったから……」
 ずっ、と洟を啜って、佳耶は手で目を二、三度拭った。
「わたし、今日一日おにいちゃんにそばにいてもらえて、すごく幸せだったよ。だから……今日が終わらないうちに、本当 のわたしにもおにいちゃんが持ってる幸せ、分けてあげて」
「佳耶……」
「……おにいちゃん……っ」
 僕は、胸に深く沈んだ佳耶の肩を、しっかと抱きかかえた。
 ――本当に、これが『佳耶』と交わす、最後の抱擁になるかもしれない。そう思うと、今まで感じてきたなかでいちばん 、佳耶の体と心が温かく感じられた。
 『佳耶』が今までそばにいてくれた幸せに、僕の目からは、とめどなく涙が流れたのだった。

 

 太陽がその姿を完全に隠してしまうまで、あと半時間もないはずだ。
 僕は、涙を振り切って『佳耶』と別れたあと、本当の佳耶がいる桃ヶ丘総合病院に、ダッシュで向かった。
 桃ヶ丘総合病院は、ちょうど僕の通う高校の南側にある。ここからなら西へ一直線だけど、かなり東まで歩いてきてしま ったから、走っても十分はかかるだろう。僕の真正面にある真っ赤な夕日が完全に沈んでしまうのが先か。それとも、僕が 病院に着くのが先か。僕が願うのは、僕が夕日に勝つことだ。
 一日の終わりまで、まだ時間はある。けれども、僕たちが幼かった頃、夕日が沈むまでが一日だった。だから、勝ちたい 。あの夕日が沈むまでに、病院に着きたい。
 僕は噴き出す汗にも構わず走った。体を前屈みにして、股が裂けそうなぐらい脚を広げて、走った。心臓が暴れ狂うよう に脈を打ち、呼吸が難しくなっても、僕は走るペースを落とさなかった。
 赤信号に、幾度も行く手を阻まれる。先を急ぐために渡りたいけれど、ここで事故でも起こしたら、僕の想いは水の泡だ 。左右を見て、車が来る気配がないときだけ、強行突破した。
 向かい来る自転車や歩行者の合間を縫って、僕は走る。胸が苦しい。脚が折れそうなぐらい痛い。それでも、僕は限界を 超えたスピードで走り続ける。走って、あの夕日に勝てば、本当の佳耶への想いが報われそうな気がするから。
 僕の通学路でもある大通りの信号も赤だった。仕方なく、進路を北に変える。ここで西側の歩道へ渡ってから北に進んで も、先に北に進んでからちょうど青になった信号を西へ渡っても、距離は同じだ。時間は、信号待ちを回避すればいくらか は縮められるはず。僕は、体の左側に沈みかけの夕日の赤い光を浴びながら、死に物狂いで走った。
 さっきの交差点から三つ目の信号が、黄色に変わる。しめた、ここで渡ろう。僕は、信号が青になった横断歩道を、全速 力で駆け抜ける。渡りきって、西の歩道に入った。ここまで来れば、病院はもう目と鼻の先だ。頭までくらくらしてきたの をぐっと堪えて、僕はラストスパートを走り出す。
 コンビニを過ぎ、銀行を過ぎ、ファミレスを過ぎて、ようやく僕は“桃ヶ丘総合病院”いう看板のついた、大きな病院の 前に到着した。夕日は……まだ、頭が少し覗いている。あの夕日が完全に姿を隠して、この世界が闇に閉ざされてしまう前 に――本当の佳耶に会いたい。彼女に会って、僕の想いを届けたい。僕は、足早に玄関の自動ドアを抜けた。
 窓口まで歩いた僕は、息苦しさを辛抱しながら、用件を伝えた。
「……はぁ、はぁぁ……すっ、すみません……富松、佳耶に会いたいんですけど……」
 窓口のおばさんは、僕の苦痛に歪んだ顔を見て、ひどく心配そうな顔をした。
「大丈夫ですか……?」
「僕は……な、なんともありませんから……はぁ、早く、佳耶に……っ」
「お名前は?」
「富松、佳人です……佳耶は、僕の妹です……!」
「……!」
 僕の名前を聞いたおばさんは、びっくりしたように目を見開いた。そして、目を伏せて、言った。
「案内いたしますので、少々お待ちください」
 おばさんは席を立った。少し待つと、彼女は事務室から出てきて、僕のほうへ歩み寄ってきた。
「いつか、ご来院いただくことになると思っておりました」
「……えっ?」
 僕は、一般患者向けの対応とはどこか違ったおばさんの言葉を、不思議に思った。
「富松佳耶様の、お兄様でよろしいですね?」
「あっ……はい」
「では、こちらへどうぞ」
 おばさんの進むほうへ、僕も歩いていく。薄暗く気味の悪い廊下を歩いていくと、その病室にはすぐに到着した。
「ここです」
「あっ、ありがとうございます」
 僕は体を折り曲げてお礼を言った。
 文音ちゃんの言っていたとおり、その病室の扉には確かに、集中治療室と書かれていた。
「……中、入ってもいいんですか?」
 僕は不安になって訊ねた。
「結構ですよ。主治医から、ご家族の方の面会を避けるようには言われておりませんので」
 おばさんは言った。だけど、彼女はどこか浮かない顔をしていた。
「そうですか。どうも」
「はい。それでは、私はこれで……」
 おばさんはそう言って僕に会釈をすると、事務室のほうに戻っていった。
(この中に……僕が本当に会いたかった……想いを伝えたかった、本当の佳耶が眠っているんだ……)
 少し躊躇ったあと、僕は、そっと病室のドアを開いた。中には、今はお医者さんはいない。規則正しい、脈拍を測定する 機械の音だけが、その空間には響いていた。
 僕は、ベッドのそばまで歩み寄った。人工呼吸器や点滴などの、たくさんの器具によって生き存えている、表情のない佳 耶。トレードマークのサイドポニーも下ろされている。表面だけを見れば、ただの病人だ。でも、その内側は――佳耶の心 は、文音ちゃんによって造られた『佳耶』が雄弁を振るっていたみたいに、今までずっと、希望を失わずに自分自身との格 闘を続けてきたはずだ。もう一度、僕の顔が見たいと思っていたはずだ。
 佳耶の想いに僕が気づいたのは、とても遅かった。でも、僕は『佳耶』の言葉を通じて、確かに本当の佳耶の気持ちを知 ることができた。だから、今度は僕の番だ。今度は僕が、楽しくて幸せなふたりの時間を取り戻したいという願いを、彼女 に伝えよう。一晩中、僕の大切な妹の、いちばん近くに寄り添って。
 病室を一旦出て、玄関を出たところにある公衆電話を使って、僕は家に連絡を入れた。勝手に病院に泊まると言っては都 合が悪いから、友達の家に泊まると嘘をついた。もしかしたら見破られてしまうかもしれないけど、たぶん、文音ちゃん か『佳耶』がフォローしてくれるだろう。僕はまた病室に戻って、佳耶のベッドの脇に折り畳み椅子を拡げて腰を下ろした 。そして、夜が更けて眠気を催すと、傍らにあった毛布を、膝の上に被せた。あと数時間も経てば、僕も自然と眠ってしま うだろう。そのときは、佳耶の夢が見たい。ベッドの上の彼女の、元気に遊び回っている姿が見たい。
 
 僕と同じ夢を、佳耶も見ることができますように――。
 
 眠りに落ちるその瞬間まで、僕は、何度も何度も繰り返し、佳耶に想いを馳せていたのだった。

 

【3】
 
「おはよ、おにいちゃん」
 ――朝。
 僕を起こす声が聞こえる。佳耶の声だろうか。
 一瞬、僕は自分の部屋のベッドの上にいるような感覚を覚えた。声がした方向が、頭の上だったからだ。
 だけど、ゆっくりと目を開いていくと、最初に見えたのは、医療機器。顔を上げると、真っ白な天井があった。次に正面 を見た僕は、今見ているものが現実なのか、夢なのかの判断がつかなくなった。
 佳耶が――ベッドの上で、たくさんの機器に生命を維持させられていたはずの佳耶の姿がない。彼女は、いったいどこ に……?
 僕は、最初に声のした方向に顔を向けるため、頭をぐうっとうしろに倒していく。
「えへへっ。目、覚めた?」
 佳耶の顔が、僕の目に逆さに映る。とても、元気そうな顔だ。
「……佳耶?」
 僕は、頭を元に戻して、体を捻ることで佳耶の全身を視界に収める。この病室に僕が駆け込んできたときに見たのと 同じ、薄いピンク色のパジャマと、茶色い病院のスリッパ。『佳耶』の格好にしては、ちょっと可笑しい。
「ねぇ、ほら。これ見て」
 そう言って、佳耶は、ベッドの脇に置かれていた、グラスに水が張られた花瓶を持ってきた。
 根元が赤く染まった白い花びらが五枚。二輪ばかり、その花は控え目に飾られている。
「どうしたの、これ?」
 僕が尋ねると、佳耶は優しく笑って、
「これ……なーはちゃんがプレゼントしてくれたんだよ」
 と言った。
「……えっ?」
 “なーはちゃん”は、幼い頃の佳耶が成羽を呼んでいたときの呼び方だ。この愛称を知っているのは、僕と成羽、そ れに本当の佳耶の三人だけ。『佳耶』の口からは、今の今まで一度たりとも出てこなかった。
「ほら、これ」
 僕は、佳耶に手渡された、一枚のバースデーカードのような長方形の紙を受け取った。花柄のフレームの中には、薄い罫 線に合わせて、細く流れるような、優雅な筆跡でこう書かれていた。
 ――7月30日の誕生花、日日草です。花言葉は“楽しい思い出”。
 ――私達の大切な友達が、大切な思い出とともに蘇りますように。
「わっぴーの字だ……」
 僕は思い出した。そういえば、成羽は花屋さんの娘なんだった。
 いつの間に、彼女はこんなものを佳耶の病室に届けていたのだろうか。それはたぶん、本人に聞いてみないとわから ないだろう。
 でも、七月三十日――佳耶の誕生日を、成羽がしっかりと覚えていてくれたのは事実だ。
「おにいちゃん……わたしね」
 佳耶は、持っていた花瓶を元の場所に戻すと、瞼と声とを落として言った。
「ずっとね、夢を見てたんだ」
「……夢?」
「うん」
「どんな夢?」
「うんと……すごく恐かったけど、勇気が出てくる夢だった」
「ふうん」
 佳耶の見た夢。それはきっと、四ヶ月もの長い間自分自身と闘っていたことの、象徴ともいえる夢なのだろう。僕は俄か に興味を掻き立てられて、佳耶の話に耳を傾ける。
「わたしたちが小さかっとき、なーはちゃんと一緒に公園の林でかくれんぼしたの、覚えてる?」
「うん」
 僕は頷く。
「そのときのことがね、夢の中に出てきたの。おにいちゃんがいちばん多く鬼をやらされてて、わたしも、なーはちゃんに 簡単に見つけられてしまったりしてた」
「うん」
「でもね、夕方になって、わたしがまだかくれんぼ続けてたいって駄々をこねたから……おにいちゃんとなーはちゃんが、 先にいなくなっちゃったの」
「………うん」
「今度はわたしが鬼なんだ、って思っておにいちゃんとなーはちゃんのこと探したけど、どこにもいなかったの。気づいた ら、公園に誰もいなくなってて、それだけじゃなくって、公園の林が山の中みたいになってた。ひとりぼっちで、ここがど こなのかもわからなくなって、寂しくなって、ずっと泣いてた」
「………」
「でも、声が出なくなるぐらいまで泣いたあとに、わたし、思ったの。わたしだけがおにいちゃんやなーはちゃんを探して るんじゃなくって、きっと、ふたりも必死にわたしのことを探してるんだって」
「うん……」
「だからね、わたし、自分の足で立ち上がって歩き出したの。おにいちゃんとなーはちゃんもわたしを探してくれてるんだ って思ったら、もう涙も出なくなって……ひとりぼっちで、周りには誰もいないはずなのに、笑えたんだ」
「うん……」
「それでね、ずっとふたりのこと探してて、やっと、おにいちゃんの姿を見つけたの。わたし、嬉しくなって、おにいちゃ んに飛びついた……そしたら、目が覚めて、この部屋に居たの。隣を見てみたら、おにいちゃん、気持ち良さそうに寝て た。……ずっと、わたしのそばで、わたしのこと見守ってくれてたんだよね」
 佳耶は、僕の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「うん……」
 僕は口許を綻ばせて頷いた。
 目の前の佳耶は、どう見たって本当の佳耶だ。その証拠に、顔が少しやつれている。立った姿勢も、脚の筋肉が弱りきっ ているのか、少し覚束ない。体は、四ヶ月も床に臥せていたせいで、すっかり弱々しくなっているように見えた。
 でも、笑った顔は佳耶だ。夢の中の経験もそう。どんな苦境に立たされても、不屈の精神で笑顔を見せる彼女の心意気そ のものだ。
「ありがとう、おにいちゃん……。わたし、おにいちゃんのこと、大好きだよ」
 こんな場所で、誰かが聞いているかもしれないというのに、佳耶はそんな言葉を僕に投げかけた。そして、僕の胸に頬を 擦りつけた。そのいじらしさが佳耶らしいなと、僕は思った。
「僕だって……佳耶が好きだから、ずっとここにいたんだよ」
「……うん」
 顔を上げて、佳耶は再び僕の目を見つめる。
 輝きを取り戻した、その真ん丸な瞳に向けて、僕は言った。
「これからは、ずっと一緒だね」
「うんっ!」

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