エピローグ

 佳耶の復活は、僕の母さんや父さん、看護士さん、それに、彼女の主治医の先生までをも仰天させた。
 佳耶が目を覚ましたあと、彼女が手を伸ばして押したナースコールを受けて、看護士さんたちが集中治療室に雪崩込んできた のだ。看護士さんたちは、佳耶が目を覚ました七月三十日の午後十一時五十分頃、すぐに僕を起こそうとしたらしい けれど、佳耶が、僕を朝まで寝かせておくように言ったのだそうだ。ずっと寄り添っていた僕を、彼女は温かく労って くれた。そのことが、僕はなによりも嬉しかった。
 意識を取り戻した次の日から、佳耶は弱々しい足取りながらも自分で歩いた。流動食以外の、たとえば三時のおやつには 惣菜パンなんかも食べた。彼女がみんなの目の前でやってみせたことは、なにもかも、前日まで昏睡状態だったとは思えな いことばかりだった。
 佳耶の精神力に感服した主治医の先生は、その日の午後から、佳耶を一般の病室に移動させた。そして、弱ってしまった 脚に、普通に生活ができるくらいの筋肉をつけさせるために、リハビリを始めた。リハビリといっても、佳耶の場合は損傷 した部位を治すんじゃなくて、筋肉を増強するだけだったから、僕の目には、彼女がスポーツジムでトレーニングをしてい るみたいに見えた。
 それから一週間。八月の六日に、佳耶は驚くべき早さで退院した。その晩は、彼女の快気祝いも盛大に行われたのだっ た。

 

 翌日の夜、僕たちは猪又神社の夏祭り会場を訪れた。
 人々の話し声とお祭りの囃子でムードが高まるなか、僕は隣に居る文音ちゃんに話しかけた。
「ねえ、文音ちゃん」
「はい」
 文音ちゃんの白衣が、風を受けてひらひらとはためく。周りの女の子はみんな浴衣に下駄というお祭りルックなのに、文 音ちゃんは今日も今日とて白衣とブーツだ。彼女はさっきから、誰かとすれ違うたびに、視線を頂戴している。相変わらず 悪趣味な黒縁眼鏡ぐらいはコンタクトに代えてほしかったけど、やっぱり恥ずかしくて、僕の口からは言い憚られたのだ った。
「佳耶は、どこに行ったのかな?」
「……私が造らせていただいたほうの、ですか?」
「あ、うん」
 僕は、言葉足らずだったことを反省した。
 あの日、『佳耶』に病院へ急ぐように言われてから、僕が認識する佳耶は、本当の佳耶のほうだった。本当の佳耶のため に、僕は彼女のベッドの近くで眠り、リハビリを支えてきた。その間ずっと、僕の意識は『佳耶』には向かなかった。『佳 耶』を意識するだけの余裕がなかったのだ。
「やっぱり……役目が終わったから、もう僕たちの前には戻ってこないんだよね」
「……そうですね」
 文音ちゃんは、僕に目を向けずに呟いた。
 『佳耶』が文音ちゃんの手によって生み出された理由。それは、昏睡状態にあった本当の佳耶に代わって僕のそばに居て くれる『妹』の存在が必要だったからだ。『佳耶』は、まるで本当の佳耶みたいに、美味しい料理を作ったり、僕のことを支え てくれたり、ムードメーカーとしてみんなの顔を笑わせたりした。だけど、同じことができる本当の佳耶が、長い眠りから 目を覚ました。彼女が僕たちのもとへ帰ってくることで、『佳耶』が僕たちの輪の中に存在する意義は失われた。『佳耶』は もう、僕たちの前から消えなければならなかったのだ。
「……寂しいですか? あの、佳耶ちゃんの身代わりがいないと」
 文音ちゃんは訊ねた。
「うん……。本当の佳耶じゃなかったけど、四ヶ月も一緒に過ごしたから……ちょっとだけね」
 僕は答える。
 今、僕のそばには本当の佳耶がいる。だけど、短い間にたくさんの思い出を一緒に作った『佳耶』は、もうそばには居な い。
 ふたり居れば、なんだかわくわくするような日常が訪れていたかもしれない。それでも、僕は本当の佳耶を選んだ。少し 寂しかったけど、『佳耶』が僕に託した“幸せのバトン”を届けるために、僕は彼女とお別れをした。これは、自分で決め たことなのだ。だから、今更『佳耶』にもう一度会いたいとは言えない。
 でも、できることなら、知りたい。“幸せのバトン”を受け取って笑顔になった本当の佳耶を、『佳耶』は、どういう目 で見ているのか。良かったね、と思っているかもしれないし、もしかしたら、嫉妬しているかもしれない。今、この瞬間 の『佳耶』の気持ちが、僕は気がかりで仕方がない。
「『佳耶』は、どう思ってるのかな……本当の佳耶が元気になったこと」
 僕は言った。
 それに対する文音ちゃんの言葉は、意外なものだった。
「それは、お兄さん自身が聞いて確かめてみてください」
「えっ……? 『佳耶』は、まだこの世界に居るの?」
 僕は、焦りを感じながら、文音ちゃんに聞き質す。
 すると、文音ちゃんは笑って、
「居ますよ」
 と答えた。
 僕は、言葉では言い表しにくい、妙な感覚に捕われた。
 てっきり、『佳耶』は文音ちゃんの手で処分されたのだとばかり思っていた。だけど、まだそうはしていないのかもしれ ない。文音ちゃんの研究所に行けば、『佳耶』の気持ちが直接彼女の口から聞き出せるかもしれない。
 佳耶がふたり存在するというお伽話の中のような話に対する困惑と、彼女に会えるかもしれないという期待。僕の心に生 じたふたつの感覚を、文音ちゃんは、同時に取り除いた。
「ただ、私の研究所では、お兄さんのご想像のとおり、『佳耶』ちゃんの非稼動化処 理ターミネーションは行いましたが……」
「……?」
 文音ちゃんは、とても穏やかな笑顔を僕に向けて、言った。
「お兄さんの心の中では、ずっと稼動していると思いますよ」
 僕は、文音ちゃんに言われて気づいた。
 『佳耶』は、この四ヶ月の記憶としてだけ僕に認められているわけじゃない。役目を終え、文音ちゃんの研究所で眠りに ついた今でも、僕の心の中で生き続けているのだ。
 本当の佳耶の復活を『佳耶』は喜んでいる。僕がそう思い做せば、きっと、『佳耶』もそう思っているだろう。四ヶ月の 間本当の佳耶の幸せを願い続けた『佳耶』は、今や、僕と一心同体だ。
「そっか。そうだよね」
 僕も笑った。
 やっぱり、『佳耶』を生み出した文音ちゃんだからこそ、『佳耶』が今どんな状況にあるかをよく知っている。それは、 不思議にも、僕自身が気づかないところにまで及んでいた。
 『佳耶』は、今も僕と文音ちゃん、それに成羽や母さん、父さん、病院の先生の中で生き続けている。本当の佳耶に幸せ を届けられたことを、満足に感じながら――。
「わたしだよっ!」
 僕たちの耳に突然飛び込んでくる、佳耶の大きな声。
「いいや、あたしだって」
 それを欺く声を出す成羽。
 浴衣に身を包んだふたりは、互いになにかを競っているようだ。
「どうしたの、ふたりとも?」
 僕は声をかけた。
「あっ、ちょっとトミー、聞いてよ。さっきかっこいいナイスミドルな外人さんがね、あたしたちの横を通り過ぎたとき に『ゆーあーぷりてぃーぐぁーる』なんて言ったんだけど、これって絶対あたしのこと言ってるよね?」
「えっ……?」
「違うよなーはちゃん。あのおじさんは、わたしに言ってくれたんだよ。可愛い女の子だって」
「佳耶ちゃんじゃないない。あたし」
「なーはちゃんじゃなくって、わたしなのっ」
「……………」
 ふたりの言い合いの原因に、開いた口が塞がらない僕。
(いくらライバルになったからって、そんな些細なことで争わなくてもいいだろうに……)
 僕は苦笑して、ふたりに言った。
「それってきっと複数形なんだよ。ほら、『ゆーあー』って、単数形でも複数形でも使えるでしょ? それで、『がーる ず』の『ず』をわっぴーが聞き漏らしてたと考えれば、ふたりとも可愛い、で円満解決だよ」
「……納得できません」
 成羽は、湿った目つきで僕を見ながら、おっ被せて言った。
「だってさ、トミーは見てないからわかんないと思うけど、その外人さん、あたしのほうを見てそう言ったんだよ」
「違うよー。絶対わたしのほう見てた」
「あたしだって」
「わ、た、し!」
「まあまあふたりとも……」
 僕は、なんとかふたりに冷静になってもらおうと、言葉をかけた。しかし、その言葉は、火に油を注ぐようなものだった らしく……。
「わかった、佳耶ちゃん。この際だから、どっちが『ぷりてぃーがーる』か、この場でトミーに決めてもらうってのはど う?」
「……ええっ!?」
「あははっ。それ賛成!」
「ちょっとちょっとっ!」
 いったいぜんたい、どうして僕が、その外人さんの気持ちを代弁しなきゃいけなくなるんだろうか。
 僕は慌ててふたりの提案を流そうとしたけれど、それはすでに手遅れのようだった。
「なぁに、文句あるっての?」
 恐ろしい顔で僕に言い寄る成羽。
「わたしは、いちばんフェアだと思う人に審判を頼んでるんだよ?」
 佳耶までもが、凄みのある顔を僕に近づける。
「あぁ、いやその……なんとかしてよ、文音ちゃん!」
 進退谷まった僕は、反則だとはわかっていても、ついつい外野に助けを求めてしまうのだった。
「ふふふっ。口は災いのもと。蒔いた種は、ご自分で片をつけないといけませんよ」
 にっこりと笑って、文音ちゃんは、僕が救いを求めて伸ばした手を、けんもほろろに払い退けた。
「うえっ!? そっそんな、僕は何も……っ!」
 こうなりゃ、蜥蜴の尻尾切りだ。
「……あっ、ちょっと待ちなさいよ、トミー!」
「逃げるの、おにいちゃん!?」
「ごめんなさいっ、僕には決められませーんっ!」
 僕は走り出した。逃がすまいと、佳耶と成羽のふたりが追いかけてくる。それにしても、ふたりとも、下駄なのによくあ んなにまともに走れるなあ……。
「この、意気地無しーっ」
「おにいちゃんのばかーっ」
「もうなんとでもおっしゃってくださあい!」
 僕は、破れかぶれになって、ふたりに追いつかれまいと走った。
 でも、ちょっぴり楽しかった。また、三人でこんなふうに無邪気に走り回ることができて――。

 きっと、僕と佳耶と成羽、それにプラスアルファで文音ちゃんを加えた四人の楽しい時間は、これからもずっと続くだ ろう。
 僕たちが、お互いのことを大切に想いながら生きている限り、ずっとずっと。

 

【おわり】

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