プロローグ

 それは、感覚だけをとれば、普段朝起きるのとほとんど変わらなかったかもしれない。まだ夢の中にいるみたいにぼけたピ ントが徐々に合わされていき、正確な風景になっていく。その景色がある程度鮮明になったと、僕の視覚が捉えたところで、 初めて違和感は訪れた。僕が、朝起きたんじゃないという違和感が。
 ひとつは、明らかに僕の部屋じゃないということ。僕の部屋には確か、ゴジラのフィギュアやら飛行機のプラモデル、そ れに、漫画の単行本がたくさんあったはずだ。それなのに、ここにはなにもない。あるのは、気を落ち着かせるには少し物足 りないぐらいの観葉植物と、飾り棚ぐらいだ。
 もうひとつは、灼けるようなオレンジ色の空と、それが染め上げるオレンジ色の室内。これが朝焼けではなく、夕焼けだとい うことは、光の鮮烈さからして、疑いない。
 僕は何度か、目をぱちくりさせた。ゆっくりと首を窓のほうに動かすと、母さんの姿を確認できた。
「……母さん……」
 なんだろう、この声は。まるで、僕の声じゃないみたいだ。僕の声は、こんなにも掠れていただろうか。それに、こんなにも、女の子みたいに弱々しかっただろうか……。
「……佳人!」
 母さんの顔が、驚きそのものになる。今までに見たことがないぐらい、度肝を抜かれたような顔。母さんがショックを受けているということは確かだ。でも、そのショックは、正のショックだ。なにしろ、顔色が悪くない。母さんはいい意味で驚いているのだろうと、僕はなんとなく思った。
「わかる? 母さんよ?」
 母さんは僕に、自分を判別してもらおうと必死になっているみたいだ。
 僕は、小声で――といっても、小さな声しか出なかったけど――返事をした。
「うん……わかる」
「佳人……良かった……!」
 母さんは、ベッドに横たわる僕の肩に頬を寄せて、幸せそうな声を出した。
 正直、もうすぐ高校生になるというのに、母親にスキンシップをされるというのは、恥ずかしいことこの上ない。だけど、母さんも幸せそうだし、僕も嬉しいから、今はべつに気にするようなことじゃないな、と思う。僕も、あのとき、もしかしたら、金輪際母さんの顔を見ることができなくなるかもしれない、という予感がしたから。
「母さん……佳耶は?」
 僕は焦りながら聞いた。
 もしも僕がこうして再び目を覚ましたのに、佳耶が僕のそばに居なかったら、僕はいたずらに車道に飛び込んだということ になる。佳耶が助かってくれるのなら、僕の命なんてどうなったっていい、ぐらいの気持ちで身を投げたのだ。僕は、心の中 では、自分の体のことよりも、はるかに、佳耶の安否が気がかりだった。
「佳耶は……そっちよ」
 母さんは、ベッドの、自分が居るのとは反対側の脇を指す。僕が顔をそちらに向けると――確かに、佳耶の顔はあった。彼 女もまた幸せそうな顔で、ベッドの上に頭と腕だけを載せて、すやすやと、安らかな寝息を立てて眠っている。頬っぺたと、 右腕の肘、それと左手の手首の外側に絆創膏が貼られている以外には、外傷はないらしい。僕は、ほっと胸を撫で下ろした 。
「寝てる……」
「うん。たぶん、看病疲れが溜まってたんだと思う。佳耶ったら、お医者さんの言うことも聞かないで、佳人に一晩中付き っきりだった日もあったんだもん……」
「……佳耶……」
 佳耶には、先天性の病気がある。べつに、それによって彼女の命が脅かされるほどのものでもないんだけど……時と場合 によっては、死に繋がるものなのだ。
 そう――佳耶は、あるとき突然、判断力をなくし――自分が置かれた状況を一瞬把握できなくなるという発作を、時折起こ すのだ。そんな佳耶が買い物に出掛けていた日の帰り道、僕は偶然、信号機が赤に変わったはずの横断歩道の上で、買い物 袋を手に提げたまま立ち尽くす彼女の姿を見た。それは、発作が起こるタイミングが、あと五秒遅かったなら、横断歩道を 渡り切れているというところだった。僕は、反対方向の信号が青になり、車のエンジンが噴き上がる音をしっかりと耳に入 れながらも――ただ佳耶を助けるため、赤の横断歩道に飛び出した。足がちぎれて飛んでいきそうなほど、走った。そして 、間一髪のところで佳耶を抱きかかえ、僕たちは歩道に転がり込んだ。買い物袋からたくさんのものが散乱するのが見える のと同時に、耳をつんざくトレーラーのクラクションが聞こえて――僕の頭に強烈な衝撃が走り――意識が消えた。
「ねぇ、母さん」
「なあに?」
「僕、どれぐらい寝てた…?」
「……丸一週間よ」
「佳耶は? 意識は大丈夫だったの?」
「……うん」
 母さんは、少し僕から目を逸らしたけど、またすぐに、穏やかな目付きを僕に向けた。
「佳耶のほうは、その日は意識がなかったんだけど、次の日の朝には目を覚ましたわ」
「そうなんだ……」
 ということは、僕と佳耶では、意識が戻るまでの時間の差が、六日もあるということになる。その六日の間――僕にとっ ては空白の時間であったその間、僕はずっと、佳耶から笑顔を奪い、その代わりに、彼女に心配そうな顔をさせてしまって いたのだ。なんという愚かな行為だろうか。たとえ僕が、自分の意志で意識を取り戻す時期を早められなかったとし ても……血の繋がった妹を、こんなにも苦しめてしまうなんて、あるまじき行いだ。
 僕が退院したら、佳耶の言うことをひとつ、なんでも聞いてあげよう。……その前に、彼女が起きて、再び話ができる 状態になったなら、真っ先に謝ろう。迷惑かけてばっかりの、駄目兄貴でゴメン、って。
 そして、佳耶のことを満足に見てあげられていなくて、本当にゴメン、って――。

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