第1章 Rencontre - ふたりの後輩
Il rencontre deux cadettes par un coup de hasard.

【1】

「それじゃ、今日は終わります。委員長、号令お願いします」
「起立っ。礼!」
「――ありがとうございました!」
 クラス委員長の号令に導かれて挨拶を済ませるやいなや――中には起立した直後に行動に移る生徒もいたが――椅子を 逆さにして机の上に載せる音がクラスの人数分の倍率を伴って、教室中に響き渡る。
 ガタンガタンと、耳障りなまでのその轟音を聞けば、ホームルームと夢想の境界をトラベルしていたせいでなにやら 後遺症を引き摺っていた恒幸も、さすがに強制的に現実へと誘われるままに帰還してしまうのだった。
 とりあえず今自分がやるべきことは――まず椅子を載せた机を後ろへ下げて。
 それから、四時間目から空白になっている日直日誌の『授業の感想欄』『生徒の態度の所見欄』を、 曖昧な記憶を自らのフィクションで補ってなんとか誤魔化しつつ埋めること。それができたら、 黒板の日付と日直ふたりの名前を更新して黒板消しをクリーンナップ。あとは日誌を職員室まで届ければ任務は完了する。
 まったく、日直というのは重労働である。
 朝礼ではクラスの人数を確認するために点呼を取り、欠席者がいれば担任に報告する。次いで毎授業後に、 寝倒していた生徒が黒板に残る『授業の最後の部分』をノートに写し取るのを待って板書された内容を後続の時限までに 消す。昼休みになると、水筒やペットボトル飲料を持参していない生徒のために、保健室脇の給湯室まで走り、お茶の入った 薬缶を取りに行かねばならない。これが最も厄介だ。
 日直とはいえ、どうして自分に他の生徒をオアシスへと導いてやる必要があるのか。 明らかに、お茶を希望する者だけが給湯室に赴き必要なだけ頂戴しに行くのが合理的だろう。
鳩でさえ、自らのための飲み水を自らで確保しているというのに。
 無駄に考えを巡らせているとわかったのは、自分も日直でないときにその薬缶から飲み水を確保することがあるという 事実を再認識したときだった。
 そして、今立ったままの姿勢でせっせと書いているこれが、『日直日誌』というやつ。 一限から六限までの各時限に際して、教師の授業に対する感想と、 生徒の態度についての記録を取らなければならない。むろん自分も授業時間のほとんどは寝倒しているので、 記憶が欠落している部分についてはフィクションを捏造するというわけだ。
 あれやこれやと思考を走らせているうちに、前日の日直の記録に比べれば大雑把ではあるが、 いちおうそれらしきものが書けたので次の作業に移ろうとすると、
「おいおいツネさん」
 今し方書き終えたばかりの"それ"が、無造作に取り上げられてしまった。
「もうちょっと丁寧に書こうぜ」
「俺的には上々の出来のつもりだけど」
 不真面目な一生徒と、生徒会長の丁寧の基準が違いすぎるのは、誰にだってわかることだ。 恒幸は、敢えてその意見を踏まえて自分のステータスを勝流につきつけた。
「ホラここ。『まきとりにくかった』ってのはなんだ?」
 …巻き取る?
 はてさて、自分はそのようなことを書いただろうか。
 勝流の指差す位置に注目すると、確かに、『間き取り』などという摩訶不思議な日本語がそこには書き記されている。 世の中には、小学校で十分な教養を身につけることなく高等学校の、それも三年生まで進級できる人間もいるのだという 事実が、その一節によって克明に語られていた。
「ああそれ、『聞き取りにくかった』のミスだわ。ごめんごめん」
 恒幸は、にへら顔になってその誤字に朱筆を入れた。
 勝流は手の平の付け根の部分を額に押し当て、四十五度ほど天を仰ぎ見て、 無言のうちに呆れ果てた感情や失意、その他やりきれないものを多々ジェスチャーを介して表現する。
「ミスの軽さもオドロキだけど、そのコメントはモモノキだな」
 おそらく勝流は、曲がりなりにも日直日誌の誌面たる場所に、『聞き取りにくい』などと いうマイナスの感想を書くこと自体に呆れているのだろう。
「だとしたら、二十世紀はこのへんか」
「……!」
 恒幸の指し示した場所を見て、勝流は一瞬言葉を失った。
 『今日の感想』という、総まとめを書き入れる欄に堂々と『もう少し生活態度を見直して居眠りの時間を減らしたいと 思う』などという、生徒会長の地位にある人間にはちょっと刺激の強かろうコメントが記されている。
「ツネさん、時代は変わったんだ。今は二十一世紀。二十世紀的なコメントとはおさらばしようぜ」
「仕方ないだろ、二十世紀に生まれたんだし。二十一世紀は…俺らの子供の時代だ」
「なんか……俺とお前では、隔世の感があるな」
 勝流は自分の発したウイットを、そういう結論で締め括った。
 なにせ不真面目な一生徒と生徒会長だ。隔世の感なんていう言葉を使われても納得できてしまうものはできてしまうのだ。
「んじゃま、日誌はこれでよしとして。お次は黒板――」
 ――ズシンッ!
 何だ!?
 振り向くと、閉じられた日誌の横に、軽く四十冊近くはあるノートが置かれていた。
「遠方クン今日は日直なんでしょ? これもお願いね」
 声の下、そそくさと去っていく女子生徒。まるで、猛獣かなにかにエサを与えるような調子だ。サバサバとした性格と リーダーシップとを兼ね備えたこのクラスの学級委員長、長束である。
 その積極的かつ自発的な行動は教師にも生徒にも大ウケで、一年生のときから委員長を続けているというカタブツらしい。 しかし、あのしゃなりしゃなりとした身のこなしは、カタブツのイメージとは相反するように思える。
 まあ、そう言ってしまえば隣にいる勝流も同じだ。彼も、生徒会長という地位にいながら恒幸のような不真面目な一生徒 にかかずらったり、サッカー部で体を動かしていたりもする。
 堅実な性格と、気さくさ。長束にせよ勝流にせよ、二兎ともに逃がすまいとする人間もいるのだなあと、二兎ともに逃がす ことの多かった恒幸は不思議に思うばかりだった。
「委員長も人使いが荒いねえ」
 すべての生徒の上に立っているはずの勝流にも、彼女の行動力にはなにか気圧されるものがあるらしい。
「なんとなく、委員長の十年後とか、二十年後とかが見えてきたような気がする」
「キャリアウーマン・アンド・カカア天下ってところだろうな」
 勝流の意見はいつも簡潔だ。彼の意見によって、恒幸が朧げに想像した長束のスパルタヴィジョンが、徐々に具現化して いくのだった。

 

 一通り黒板の掃除を終えると、白墨に塗れた両手を清めるために、恒幸はトイレ脇の洗面所まで足を運んだ。蛇口を捻って 出てきた水に手を差し入れると、そこから下の水が瞬時に白く濁る。大雑把な洗浄で普段の手へと復元させると、彼は教室に 戻ってきた。いくら自分が面倒臭がり屋でも、それを理由に他の生徒のノートに白墨の跡を残すことはしない。 そんなことをもしそ知らぬ顔でやってのけてしまったら、翌日から口を聞いてくれる者がいなくなるだろう。それだけでなく、 教師からも、次回から日直の仕事を任されなくなってしまうかもしれない。まあ、日直の仕事はむしろ免除してもらうほう がかえって好都合だけど、自分の体面を自分で傷つけるのだけはしたくない。それが彼の思うところだ。
 自分の机に長束が置いていったノートを改めて見る。なんという、手綺麗な積み方だ。一冊として、傾いているものがない。 なるほど、ここまで手際が良いのなら長束が委員長を任ぜられ続けてきたのもわかる気がする。それに比べて、面倒臭がり屋 の自分といったら……ノートを丁寧に積むことさえ考えない。載っていれば、それでいいのだ。丁寧に積み上げられたノート と、日直日誌を交互に見て、彼は今一度腹の底から長嘆息を吐き出した。
 これを職員室まで運んでしまいさえすれば、日直の仕事にもピリオドが打たれる。そのあとに残るのは、汗をかきかき 部活動に勤しむ殊勝な生徒たちを横目で見つつもっぱら家を目指すという、帰宅部ならではの部活動だけだ。
 心の中で今日一日の自分の働きに労いの言葉をかけてやると、恒幸は鞄を肩に掛け、ノートの上に日誌を載せて、それら を胸の前に抱えて教室を後にした。

 

 会話に花を咲かせる生徒たちの間を「ちょいと御免よ!」という心意気ですり抜ける。芸術棟の二階にある職員室を 目指して、数秒たりとも疎かにするまいと、速歩きを展開する。
 こういった荷物運びの任務は、ミスを冒さないようにしようと意識すればするほどミスをしてしまうものだ。恒幸は、 今までの経験で培ってきたノウハウを活かして、いかに安全に運ぶかということよりも、いかにスピーディーにこの 任務を完了させるかということに重きを置いていた。
 階段を降り、左折して十字路を過ぎれば、職員室はもう目と鼻の先。
 このとき既に恒幸の思考からは、ある事柄に対する注意が減じられていた――十字路に差し掛かったときに、左右から 飛び出してくる生徒と出合い頭に衝突してしまうという可能性があることが。
「――っ!!」
 十字路で右のほうから突然生徒の声と姿を認識したかと思うと、次の瞬間には自分の体はバランスを失い、宙に浮き、 抱えていたノートと日誌とが遥か前方に投げ出される形で廊下に体の前側を打ち付けてしまった。
 バサバサッ、と情けない音を立てて、クラスの人数分のノートが撒き散らされる。
「ってぇ……やっちまったか」
 気をつけていた傍からドジを踏み、恥ずかしさが込み上げてくるのを恒幸は覚えた。なんたってこんな、マンガの中のよう なドジを自分は踏んでしまうのだろう。
 最初に打ち付けてしまった肘と膝とに鈍い痛みが走り、立ち上がることができない。だけど、廊下に打ち付けた痛みは感 じても、誰かにぶつかったような痛みは不思議と感じなかった。おそらく、十字路で出くわした生徒の足に躓くかなにか して転んでしまったのだろう。だとしたら、ぶつかった以上に哀れなシーンだ。こんな場面をもし勝流に見られてしまって いたら、腹を抱えて大笑いされていたに違いない。今は、彼と別行動だということを神様の導きだとして感謝するほかにな い。ここはキリスト教の学校に非ず、というつっこみはさておき――
「おい、てめえ」
 廊下に伏せた体をなんとか起こし、四つん這いの姿勢になった恒幸が、散らかしたノートを拾い集めようとしたのを、 どすの利いた言葉が制した。
「ひとの足に蹴り入れといて、ゴメンの一言もナシかよ」
 恒幸がうしろを振り向くと、額に青筋を立てた二人の生徒の姿があった。耳朶にはピアス。カッターシャツはボタンが 全開で、その開き口から覗く黒いランニングシャツは、確か校則では認められていないはずだ。むろんシャツはズボンから 出されていて、ズボンの裾は廊下を引き摺っている。一目で、不良生徒だとわかった。
「ちょっと立てよ。向こう行ってゆっくり話そうや」
 不良生徒のひとりが、恒幸の腕を掴んで引っ張る。強引に立ち上がらせると、不快感に満ちた顔を間近で向き合わせた。 隣に居たもうひとりの生徒も、同じように低気圧な表情をしている。
 これが俗に言う、因縁をつけられるというやつなのか。
 不良の行動自体は、べつに怖いものでもない。そういった行動をする人物を、何度もブラウン管の中で見ているから。
 ただ、自分が袋の鼠になってしまったということだけは、どのアングルから見ても明らかだろう。その証拠に、周囲の生徒たちが 眉を逆に曲げてこちらに気遣わしげな視線を注いでいる。
「待ってくれ、俺は日直の仕事をまだ済ませてないし、それが終わってからでも――」
「ああ!? ざけんじゃねえぞクソ野郎!」
 恒幸を強引に立たせたのとは別の生徒に、髪の毛を掴まれる。ここまで来ると、さすがに身の危険を感じた。
「誰がてめえの都合なんか考えると思ってんだ。こっちがてめえのツラ借りんのが先に決まってんだろが」
 腕を掴んだほうの生徒が、顔を傾けて恒幸を睨みつける。乱雑な物言いとともに彼の口から飛ばされる唾が、恒幸の顔に 降りかかった。
「オラァ、来いよ!」
 力ずくで腕を引っ張られた恒幸は、不可抗力の成すがままだった。

 

 ふたりの不良生徒に連れてこられた場所は、屋漏と呼ぶには十分すぎるほどひっそりした、体育館の裏。何度かこの場所で 暴行事件が起こったり、授業をサボった不良生徒たちが煙草をふかしていたと聞いたことがある。にもかかわらず、恒幸は 動じない。あくまでも、彼は争いや不和を嫌う、“事勿れ主義者”なのだから。
「そのー、さっきはごめん。躓いたこと、根に持ってるんだろ?」
 不良相手に、謝るという行為は暖簾に腕押しかもしれない。それでも、敢えて恒幸はその言葉を口にした。
 一毫の沈黙のあと、
「ギャッハッハッハァ!」
「笑わせやがるぜコイツ。クソ真面目に謝ってやがんの!」
「ヒャハハハハッ!!」
 甲高い不良たちの笑い声が恒幸の鼓膜を揺るがした。
 本当に不良生徒というものは下品な笑い方をするものだなと、心の中で恒幸は呆れ果てる。こんな生徒が居るから学校の イメージがダウンするんじゃないか――そんな遺憾の念に輪をかける光景を、彼は見た。
 …不良たちの締めている、というよりは首にかけているネクタイの色が、自分のそれと違う。
 なんということだ。彼らは、緑色のネクタイを着けている。三年生である自分たちが青色で、今度入ってきた新入生 が赤色だから、この生徒たちは自分より一つ下の二年生じゃないか。
 不良でもネクタイを着けているということは存外だったが、下級生に因縁をつけられていると知ったところで、初めて 恒幸はプライドを踏み躙られたということを悟った。
「君たち、二年生だよな」
「ああそうだけど? 知らねえんだったらこの機会に教えといてやるよ。俺が藤波健吾」
 あっさりと、不良生徒は自らのフルネームを晒した。今更隠すまでもないほど、彼らは威圧的な活動を行なっている らしい。
「俺は間渕洋介。向かうところ敵ナシのワルってやつな」
「ヒャハハハッ!」
 何がそんなに面白いのだろうかと、恒幸は思った。今すぐにでも、人体解剖をやってみたい気がする。不良特有の 馬鹿さ加減を生み出している遺伝子構造が発見されて、その手の学会を震撼させることだってありそうだ。もしそうなれば、 今自分の目の前でキミョーキテレツな行いをしている彼らでさえ、医学に貢献できるということになる。これは ビッグニュースではあるまいか。
「つーかてめえ三年だろ?」
 丁寧語そっちのけの言葉遣いで、藤波は言った。
「そうだけど」
「わかってると思うけどさ、俺らにはトシなんて関係ねえんだよ」
 つまり、彼らは先輩後輩という縦の繋がりを意識していないということだ。 いちいち自分の頭の中でこちら側の●●●●●言葉に変換してやらねばならないというのが、 不良相手だと厄介だ。
 ――ところで、さっき自分がばら撒いたノートはどうなっているだろうか。
 ここに来たときからずっと、恒幸はそのことが気掛かりで仕方なかった。
「で、どうでもいいけど、どうやったら俺をここから帰してくれる?」
 焦燥感に唆され、つい口走ってしまった科白。恒幸は、薮蛇だったか、と後悔した。
「ああ!? 何がどうでもいいんだよ? 言わせとけばでけぇ口叩きやがってよ!!」
 藤波は、恒幸をここへ連れてくる前に彼に示した剣幕の、まだ一段上をいきそうなほどに逆上した。この態度の転じよう には、平静をキープしていた恒幸もさすがに焦りの色を隠せない。
「さっきもさっきで前見てねぇで足踏んづけやがってよ。てめぇ一回死んだほうがいいんじゃねぇのか!?」
 本当ならば、それはお前たちのほうだろう、と返してやりたかった。
 しかし、もう遅い。恒幸は既に、藤波に胸倉を掴まれていた。こんな状態で反抗しても、火に油を 注ぐようなものだ。もっと言えば、反抗しようという考え自体が幼稚だ。そう思ったところで、人間的なレベルが目の前の 低脳な輩と同じぐらいにまで落ち込んでしまう。
 何かこの危機を回避するための言葉が欲しい。だけど、こういうときに限って、上手い言葉が口をついて出てこない。
 恒幸の体温が、急に上昇する。過去に感じたことのない焦り。冷静になって考え直すことさえできれば、自分自身の弁舌 を使っていかなる問題をも解決できたはずなのに――それさえもままならない緊急事態。
「あっ謝っただろう? どうでもいいってのは、撤回してやるから――」
「ゴタゴタうるせぇんだよクソ野郎ォ!!」
 コンマ数秒の時間差で、恒幸の意識が遠のいた。
 痛い、という感覚ではない。脳髄が揺すぶられる、といったほうが正しい。
 痛みは自分の体が地面に倒れたあとで、初めてやってきた。
「ぐぅ……ッ」
 なんて力だ。
 子供のころ失態を晒して親から頂戴した体罰とは、まるで訳が違う。
 しばしの間恒幸は、起き上がることさえできなかった。
「嫌でもわからせてやるよ、俺らの流儀ってモンをなッ!」
「うがぁっ!」
 またしても脳が揺れた。
 世界の色が、褪せていく。
 視界に映る物すべてがぐるりと一回転する。
 そのあとで、脇腹を蹴られたという事実が痛みを通じてやって理解できた。
 ――どうして俺は、こんな状況に陥ってしまったのだろうか?
 わかっているはずなのに、更なる答えを求めてしまう。
「くらえ!!」
「おぶふぅッ!」
 ――どうして、俺の平和な日常は破壊された?
 ――どうして、俺はこんなに苦しむことを強いられる?
 ――どうして、俺は、なにもできない?
 意識が、消えかかっていた。
 もう、自分が言ったとおり、不良のことなんてどうでもよかった。今はただ、無意識のうちに浮かんでくる答えのない 問いに対して、どうにか答えを模索しようとするのが関の山だった。
 手の甲に、べっとりとついた血。これは、俺の血?
 血なんて、皮膚を切ったり擦り剥いたりしないと出ないものだと思っていた。
 でもそれは……明らかに、自分の口から吐き出されたものだった。
 これは夢だ。
 夢に違いない。
 だとすれば、速く脱出しなければ。
 こんな夢を見るぐらいなら、早く起きて朝食を取りたい。
 何も考えられなくなり、無我夢中で這い上がった意識の丘の上から――
「くたばりやがれェッ!!」
 ――ガスッ!
 恒幸は、転がり落ちる。
 意識が途切れ――視界が、黒一色となった。

 

 見開かれた自分の両目に、最初に映し出されたのは乳白色の天井。次いで嗅覚を刺激する薬剤のにおい。なんとなく、 ここが保健室なのだろうと悟った。
「――意識、戻ったみたいね。調子はどう?」
 それまで無音だと思われていた空間に、突如としてこだまする声。それは優しくもあり、冷静でもあり…多少、厳しそう にも受け取れた。どうやら、自分の五感は辛うじて正常らしい。
「最悪っす」
 天井に目を向けたまま、恒幸は開口一番鼻持ちならない気持ちを吐露した。
 しかし、彼がそう思ったのも意識を取り戻してから少しの間で……次第に、保健室の静けさや、病人を癒す独特のオーラ が恒幸の心の圭角を削り取っていった。
「ちょうど今ご両親に連絡させてもらおうと思ってたところなんだけど、どうする?」
「あー……結構です。事が大きくなると面倒なんで…」
 保健の先生は真剣に心配してくれているというのに、やはり自分には最小限に物事を食い止めるための答え方しか できない。恒幸の信条でもある“事勿れ主義”は、時と場所、ひいては状況をも選ばずに彼にネガティヴな提案をさせる のだった。
「そう? まあ、幸い病院に行くほどの怪我でもないみたいだし、あなたの意見を尊重するわ」
 そう言って、保健の先生は椅子から立ち上がると、恒幸の臥せているベッドの脇に歩み寄ってきた。
 保健の先生とはいえ、怪我人や病人と体の不調を共有することまではできないのだ。ある程度の処置を施したあと、 行動を本人に任せるのは当たり前のことである。
「今、あなたに最高のお薬があるんだけど」
 誘惑するようなきわどい言い回しで、彼女はそんなことを言う。
 何を企んでいるのだろうか、この先生…いや、女性は。まさか、体を張って自ら怪我人の心を慰めようとしているのでは なかろうな。
 彼女に近づかれたこの際だから、少し不埒なことを考えてみた。
「あっ、今変なこと考えたでしょ? 表に出てる」
「……!」
 得意顔で、先生は恒幸の顔を指差した。
 女の勘は鋭いというが、ここでまた自分は藪蛇を犯してしまったようだ。
「…なんすか? その、『薬』っていうのは」
 渋々不埒な考えを捨てて先生に問いかけると、彼女は脂下がって、
「隣のベッド。ほら」
 顎で他のベットの方向を指し示す。
 曲がるかどうかも怪しい首を恐る恐る曲げてみると、そこには常識では考えにくい、一瞬脈絡がつかめなくなるような 光景があった。
 ……こんなことが、有り得るのだろうか?
 いや、実際にこの目でしかと見ているのだから、眼前の光景は疑う余地もない事実だということになる。まだ夢が 続いていないかと思って、試しに、恒幸は自分の右の頬を抓ってみた。
「…つぁいたぁっ!!」
 痛い、という表現を優に超える痛みが走る。もはや口で言い表すには、この痛みはちょっと度を過ぎていた。
 そりゃあ、殴られた部分を抓ったのだ。普通に抓るときの何十倍も痛いのは、小さい子供にだってわかる。 思いっきり馬鹿なことをやってのけてしまったと、恒幸は空しく後悔した。
「これは夢でもない。れっきとした現実」
 落ち着きを保ったまま、起伏を欠いた調子で先生は言う。
 現実だとわかってもなお、眼前の光景にはやはり違和感めいたものがつきまとう。
「ヤツらは……えーと、なんでこうなってるんすか?」
「お生憎様だけど、それは私が聞きたいぐらいよ」
 先生は目を細め、困ったような顔をする。
「生徒指導の先生たちが背負ってここまで運んできてくれたんだけど、まさか先生が、これほどの体罰を生徒に加えるな んて想像できない」
 同感だった。
 たとえ生指が体罰を加える気になったとしても、あれほどの力を誇示する不良生徒のことだ、取っ組み合いの喧嘩に発展 したところでここに運ばれてくるのは生指の先生のほうだろう。
「それで……生指の先生はなんて?」
「信じられないって。なにせ、藤波と間淵っていったら、中学の頃から喧嘩では負け知らずの不良だったんだもの。そんな ふたりが運ばれてきたっていうんだから、どう考えたって驚かないほうが不思議よ」
 説き伏せるような調子で話す先生。
 つまりは、自分だけではなく、保健の先生をはじめ、生指にも、学校中の生徒たちにも衝撃的なニュースとなっている らしい。
 左頬に色濃い青痣を作った藤波と、左目と右頬に同じような痣、それと明らかに鼻の形が変形している間渕が、 ふたり揃って保健室のベッドの上で横たわっているという事実が。
「おかげで、さっき部活中に気分が悪くなったって訪ねてきた運動部の子を、そのまま家に帰しちゃったわ」
 残念そうな顔で、先生は言う。
 そういえば、この学校の保健室にはベッドが三つしかなかったんだっけ。
「あ…すいません。なんか占領してしまってたみたいで…」
 申し訳ないという面持ちで恒幸が謝ると、
「あなたのせいじゃないわ、気にしないで。それにその子、あの二人組ののびた様子を見たら、すっごい噴き出しちゃった みたいで。体調はアレだけど、気分がすっきりしたから自力で帰るって言ってたわ」
 一転して笑顔になる先生。これには、恒幸もつられて笑う以外になかった。
「それで、先生」
「なに?」
「俺も、生指の先生に担がれてここに来たんすか?」
 恒幸の問いかけに、先生の表情がしばらくの間強張った。
「あなたにそれを言うと、たぶんショックを受けると思う」
 …なんだって?
 俺がショックを受ける人物というと、勝流? それとも委員長?
 両親にはまだ連絡を入れていないということらしいので、考えられるのはそれぐらいだ。
 それとも、もしかして…。
「先生が運んでくださったんですか?」
 意識を失っていた人間は、どう想像したって自分を運んでくれた人物に思い当たるはずなどない。そう割り切ったのか、 先生の顔にもふと安堵の色が戻る。
「惜しいけど、はずれ。実はあなたを運んできたのは――」
「コウノトリとか?」
「がっく」
 先生は、効果音をわざわざ声にしてまで項垂れた。
「あんたは赤ちゃんですか?」
「あながち間違ってないとも思うんですけど……不良と対等に張り合ってしまったし」
「もう高三でしょ? 少しは成長を自覚する」
「ふあい」
 生返事を使って、先生とのウイット合戦に幕を下ろす。やはり、合戦が最も長く続く相手というと、勝流と決まって いるらしい。それ以外の人間だと、いまいちノリに欠けていたりでつまらない。今度、委員長にでもボケをかまして みようか。
「で、あなたをここまで運んできた生徒のことなんだけど…」
 恒幸は、無意識のうちにゴクッと唾を飲み込んだ。
「今年入ってきたばっかりの、一年の女の子なの」
「まっ、マジっすか!?」
 予想だにしない答えだった。
 そんな……入学してきたばかりの新入生の、しかも女の子に、躯体はでかいほうだと自負できる自分がここまで運ばれて きていたなんて……いったい、どうやって運んできたのだろう?
 リヤカーみたいなものに自分を乗せてくれたとも考えられるけど、女の子自身が自分を背負ってくれたと考えられなくも ない。その女の子が、か細い体つきだと決めつけてしまうのは偏見なのだ。もしかすると、新入生の中には身長百八十センチ で体重が百キロを超えるような、柔道のオリンピック選手みたいな女の子も居るかもしれない。だけど、そんなガタイを 持ち合わせた女の子に、少なくとも恒幸自身はお目にかかったことがない。
「あの…やっぱり俺を運べるぐらいだし、その、なんつーかマッスルボディの持ち主だったりして…?」
 ちょっと期待して先生に訊いてみたものの、
「ううん、見た目にも普通の女の子」
 彼女は首を横に振って否定した。
 標準的な躯体を持った高一の女の子が俺をねえ…。
 何度考えても信じがたい。
「名前とか、聞いてます?」
「うん。ちょっと待ってね、調べるから」
 ベッドを離れ、デスクへと戻る先生。訪問者リストに目をやっているらしい。彼女の話だと、不調を起こした運動部の 生徒が最後の訪問者で、おそらくその前はこの不良たちを運んできた生指の先生、その前が自分を運んできてくれた一年の 女子生徒ということになるのだろう。隣で、未だ失った意識を取り戻さないでいる不良二人組。彼らと自分の、どちらが 先にここに運ばれてきたのかは定かではないが。
 いずれにせよ、先生が名前を録ってくれていると、後でお礼を言いにいくことができるから助かる。
 半ば放念しきっていた恒幸を再び驚かせたのは、先生の口から発せられた、その女子生徒の名であった。
「名前は……一年B組のカキモトさん。“カキモト ミサキ”っていう子ね」
 聞き覚えのある名前。
 始業式の日の登校風景を、恒幸は思い起こす。

『よっしゃあ、思い出いっぱいつくるぞおっ!』
『みっみさきちゃんっ。声大きすぎるってば…』

『ゆづるっ、こっちだよ! 早く早くっ』
『待ってよぉ、みさきちゃん!』

 間違いない。あの日の朝、校門を通り抜け昇降口に差し掛かった恒幸の後ろから、気勢を漲らせて叫び声をあげた新入生の 女の子と、彼女のテンションにやっとの思いでついていくことができていた親友らしき女の子だ。あのとき耳にした断片的な 会話から察するに、周囲を憚らず大音声を上げていたほうの新入生が、“みさき”ということになる。
 しかし、“みさき”という名前を持つ女子生徒も、学年で一人だけだとは限らない。極端な話、新入生の女の子の中に 十人ぐらい“みさきちゃん”がいることだってないとは言い切れないのだ。
 どっちつかずの状況である以上、同一人物であるという決定打を打つことはできなかった。 「その顔だと、なにか“知ってる”雰囲気ね」
 得意げな顔をする先生。
 彼女の前では、考えることすべてが見透かされるようで恥ずかしい。
「…はい。でも、本人かどうかは、確かじゃないですね」
「会ってみたらわかるわよ。ちゃんとお礼も言っとかなきゃいけないし」
 尤もなご意見だ。実際、自分もそのつもりでいたのだから。
「わかってますよ。それに……」
「それに?」
 彼女――“みさきちゃん”が、俺のモノトーナスな学園生活になんらかの変化をもたらしてくれるような気がして。
 おっと……この先生は保健の先生でありながら読心術師でもあるんだった。
「……いえ、なんでもないです」
 興味を示してくれた先生にはちょっと悪い気もするけど、どうせならこのことは自分の心の中に隠しておきたい。そう 思った恒幸は、慌てて心の窓を施錠した。
「そう? 私には訳アリっぽく見えたけど?」
「気のせいですよ、たぶん」
 恒幸はそう言うと、意識を取り戻してから初めて上体を起こそうと試みた。
「いつつっ…」
 先刻の出来事で生じた痛みの余波が、恒幸の神経に襲いかかる。なんとかその痛みに耐えながら、自分は大丈夫だと、 彼は保健の先生に向けて笑顔でアピールした。
「これ今日帰ってから親にごまかすの大変だな…」
「体育で扱き使われたって言っときなさいよ」
「ああいや……今日体育なかったです」
「あ、そうなの…?」
 直球を投じたつもりが的を外してしまい、いささか慌てる先生。
「昼休みに自主トレしてたとか?」
「俺そんな体力派じゃないんすけど……」
「あらら………」
 それからしばらくの間、先生の投げる球は的を外れた。
 結局辿り着いた答えが『クラスメイトに体力強化月間だと言われて強制的に昼休みと放課後にグラウンドを走らされたり 筋トレをさせられたりした結果、精神的に参ってしまってひどい頭痛が起こった』だったところからすると、 この先生もけっこう意固地なのかもしれない。
 勝流ぐらいとしか付き合わない恒幸にとってはきわどいラインだったが、辛うじて外傷だけは免れたことを考えると、 先生の案を可決に持っていくしかなかった。

 

【2】

 翌日――。
 辛うじて全身の痛みを無理矢理頭痛に置き換え、無意味だとわかっていても飲まなければいけない頭痛薬を飲んで 親の心配を遣り過ごした恒幸は、今度は精神的に参っていた。
 つかなければいけない嘘をつくためには、多くの神経を削ることが要求される。彼は、幼い頃から、必要以上に神経を遣う 仕事というのが嫌いだった。それゆえ、“しなければならない”という言葉を、ある種の脅し文句のように受け取っていた。 それがもとで今は、「できるときにしよう」という意志が働くタイミングを見計らって、学校の宿題や試験勉強などに 取り掛かっていた。
 これほどまでに義務感を意識したのは、かなり久々のことだと思う。

 

 ほどなく昼休みが訪れる。
 授業が終わるやいなや『遠方っ、やかんやかん!』と急かされていた昨日とは、打って変わっての大違いだ。授業の疲れを ほぐすために、一度両腕を拡げて深呼吸をし、十数秒間の瞑想に耽る。日直の日は、これをしている余裕がない。恒幸に 言わせてみれば、深呼吸と瞑想のない昼休みなど、本来の価値を八割方失ったも同然なのだ。
 そんなこんなで、貴重な回復タイムを満喫していると、
「聞いたぜ、昨日の話」
 無断にもかかわらず、その生徒は恒幸の机に自分の尻を載せた。
「こらっ。そんな穢いもので俺のヴィジョンを埋め尽くすな」
「おっと失礼……で、どうなのよ? 体のほうは」
 勝流は一旦机から腰を持ち上げ、中途半端に方向転換してそう切り出した。
「痛む」
「どのへんがよ?」
「あんなトコとか、こんなトコとか……」
 それを聞いて、手の平に顔を埋めるジェスチャーをする勝流。声はなくとも、やれやれと言われているような気がした。
 そしてその仕種は――彼とのウイット合戦の幕開けのサインでもあった。
「ひょっとことか?」
「従兄弟とか」
「…」
「……」
「もうないな」
「親と子?」
「それは反則だろう」
 それもそうか。
 “親と子”がOKなら、“母と子”“父と子”“伯父と子”“伯母と子”“祖父と子”“祖母と子”なんかもOKという ことになってしまう。
 今回はあまり盛り上がらなかったものの、ネタ切れによる沈黙タイムを含めれば時間的にはよくもったほうである。
「知床」
 いきなり現れた参戦者。それはなんと委員長、長束であった。
「じゃあ私は友達と一緒に学食行ってくるから。じゃあね〜」
 またしても、彼女は必要最小限のことを言い残すと、雲を霞とその場を去ってしまった。
「……」
「……」
 しばし、呆気に取られる二人。
 狐ならぬ、長束に抓まれたような表情という感じだ。
「委員長、考えることがわかんねーよなぁ…」
「同感」
 でも、意外とノリがいい人物ということだけはわかった。わからないのは、やはり委員長という肩書きや彼女の持つ堅実 な性格とは相反する、能天気な振る舞い。なんというか、性格と行動にギャップがあるというか……。
 まぁ、こんな委員長が一人ぐらいはいたっていいかな。
 『委員長=カタブツ』という偏見にこだわるのも気が咎めて、恒幸は強引に自分自身を納得させた。
「――で、話戻すけど。相手ってあの、喧嘩では最強とか言われてる藤波と間渕だったんだろ?」
「ああ」
 いつ、どこでそんな情報を…?
 と普通の生徒になら訊けたかもしれない。だけど勝流には彼の身分柄、昨日の出来事がなにからなにまで筒抜けだった のだと割り切ると、彼にそう訊ねることはスキップされた。
「よく生きて帰ってこれたな」
 まるで、恒幸がどこかの危険地帯に冒険しに行って、命からがら生還したかのような言い草を、勝流は何食わぬ顔でする。
「勝手に殺そうとするな。俺はそうそうのことでは死なん」
「なんか、ギャグマンガの主人公みたいで頼もしいねえ」
 本気で言っているのだろうか、この生徒会長は。
 そうだとしたら、是が非でも呪ってやりたい。
「あぁいやいや、冗談冗談。で…その二人も気絶してたんだってな」
「ああ。俺が目を覚ましたら、なんか知らないけど横でのびてたよ」
 昨日あれほど我が目を疑った光景を、恒幸は一言で説明する。やはり、昨日のことは昨日のこと。今日になってしまえば もう、自分は昨日とは異なった視点からあの光景を見ているらしい。
「ということはよ、ツネさん」
 ずいっと上体を近づけて真面目臭い顔を作る勝流。こういう素振りを見せるときの彼に限って真面目とは程遠い言葉が 発せられることを、恒幸はよく知っている。
「単純に考えて、この学校にやつらよりも強い人間がいるってことだよな」
「だろうな…」
 二人の間になんらかの軋轢が生じて内輪揉めをし、あのような状態になったとは考えにくい。そもそも、ごく普通の 脳味噌を持つ生徒たちに比べれば、彼らの脳味噌に刻まれた皺の本数はずっと少ないはずだ。たぶん、知能指数だって 三十か四十かそこらしかないに違いない。ギャーギャーと騒ぎ立てることだけを楽しみとする彼らに、どうして仲間割れ をすることが必要だろうか。否、断じて無用である。
 となると……この学校に居る、あの不良たちよりも強い人間とはいったい?
 ……はっ!
 恒幸の脳裏を、あの名前がよぎる。
 気を失った自分を保健室まで運んできてくれたという、一年の女子生徒、“かきもと みさき”。
 始業式の日に恒幸が感じ取った彼女の気炎と、男子生徒を運ぶだけの体力。……それだけでは不良に打ち勝つには不十分か。
 第一、自分を運んでくれた“みさきちゃん”と、始業式の日に見た“みさきちゃん”が同一人物であるという 確証すらまだ持てていないというのに。
 彼女に実際に会ってみるまでは、この名前を封印しておこう――思い浮かんだばかりの名前を、恒幸は削除した。
「どうした? 思い当たる節アリか?」
 勝流までもが、昨日の保健の先生よろしく恒幸の微細なリアクションを着実に捕らえる。
「いや……。生徒個人の情報なら、たぶんお前のほうが詳しいだろう」
 生徒会長を務めている勝流のことだ。きっとその几帳面な性格を有効に利用して、生徒の個人情報を管理しているに 違いない。
「残念だけど、それほど詳しいわけでもなかったりするんだよな。数年前までは生徒会長に生徒のプロフィールを管理させて さ、怪しいやつはマークしておく、っていう任務があったらしいんだけど…。今は世間一般にもプライバシーがどうのこうの 言われて問題視されてるせいで、生徒会長すら迂闊に生徒のプロフを知ることができなくなった、って寸法な」
「ふうん」
 要するに、学校側も世間の風潮に倣い、万が一情報を漏洩させてしまったときの責任の重大さを気にするようになった ということなのだそうだ。
 学校側といっても、校長先生や教頭先生はその辺りのことについてはノータッチらしい。となるとやはり、現時点で最も 生徒のプロフィールを手広く把握しているのは、生指になるのだろうか。いや、生指も社会でいうところの警察のような ものだから、問題を起こさない生徒にはまったく手をつけていないはずだ。
 万策尽きて、あの不良二人組を倒したのが誰なのかという疑問は、結局闇に葬られることとなった。
「あ、そういや俺ちょっと挨拶したいやつがいるから、ちょっと席外すわ」
 持っていた弁当の風呂敷を開きかけていた勝流をよそに、恒幸は立ち上がる。
「おっおいっ、メシはどーすんだよ?」
 一緒に雑談しつつ昼食に有り付けるものだと思っていたのだろう。予想とは異なる方向へと矢庭に動き出した恒幸に、 勝流は一瞬狼狽する。
「時間が残ってたら食うよ。そんじゃあな」
「四時間目の化学、教室移動だから遅れんなよ!」
「わかってるって!」
 余計な忠告だったかもしれないが、親友柄、かけてくれた恩には与っておくに限る。
 海馬の空き領域に勝流の忠告を瞬時にインプットすると、恒幸は教室を後にした。

 

 階段を二階分降りる。
 一年生の教室が並ぶ二階の廊下にも、四階と同じように雑談で盛り上がっている生徒たちが大勢居る。
 B組は……っと、ここか。
 行き過ぎかけて、後ずさる。プレートに書かれている文字が“1−B”であることを確認すると、恒幸は、教室の入り口 付近に居た生徒にひとまず声をかけてみた。
「あのー、ちょっといいかな?」
「あはい、なんでしょうか」
 突然現れた二つ上の先輩に、軽く周章する女子生徒。
「このクラスに、柿本っていう子いるよな」
「あ、ええ。柿本さんなら、お昼休みはC組の子を誘っていつも屋上に行ってますよ」
 明らかに焦りが窺える、女子生徒の表情。なにかに怯えているようでもあるが、単に滑舌が悪いだけだとも受け取れる。 第一、なんの前触れもなく先輩がお目見えになれば、新入生たる者慌てずにはいられまい。
「そうか、ありがとう」
「…あのおっ」
 早速踵を返して屋上に向かおうとした恒幸を、女子生徒が咄嗟に呼び止める。
「ん?」
「あっいや、その……あんまり、柿本さんたちには関わらないほうがいいと思いますよ」
 声は僅かに震えているけれども、目つきは真剣だ。
「えっ…どうして?」
「あのひとは……『幸せを独り占めした子』だから…」
「……?」
 あまりにも女子生徒の声が聞き取りづらかったので、恒幸は首を傾げた。
「いえっ、なんでもありません。気にしないでください」
 途端に笑顔になって言う女子生徒だが、それは作り笑いのようで、なにかを隠している気がしてならない。
 かといって、掘り下げても面倒なことになるだろう。
 やはり恒幸には、深入りしようという気は起こらなかった。

 

 降りてきた階段を再び上り、ようやく屋上のドアの前へと辿り着く。
 この学校の屋上は、昼休みと放課後にのみ開放される。心地良い風を求めて、購買部で激戦を勝ち抜いた者や、 お互いを慕い合う親密なカップル、それにマイ座敷を持参して仮眠を取りにくる生徒までもがここを訪れるらしい。
 らしいというのも、恒幸自身、屋上なんていう場所に出るのが初めてだったから。
 重たい扉を押し開けると、爽やかな初夏の風が、恒幸の全身を包んだ。教室や廊下で全開になった窓から受ける風よりも、 体育の授業で受ける風よりも、格段に清々しい。
 このような癒し系スポットがあるということに、彼は二年以上気付かなかった。なので、損をしていたといえば、そんな 気もした。
 何人かの先客が、彼のほうに目をやる。しかし、それが知らない生徒だとわかると、数秒と経たないうちにもとの位置に 視線を戻してしまう。帰りがけに近所の商店街を抜けるときにオバサンたちがするような仕種と重なって見えてしまい、 どことなく気恥ずかしい。
 改めて屋上の風景を見渡すと、ざっと七人の生徒の姿があった。
 雑談をしている三人組と、地べたに座り込んで購買部での戦利品にありついている二人組、それから…。
 ギターを弾いている生徒と、それにうっとりと聴き惚れている生徒の二人組。
 最初に目をやった三人が女子生徒で、座り込んでいるのが男子生徒、ギターの二人組が女子生徒だから……。
「君が、一年B組の柿本美咲ちゃん?」
 ギターを抱えている、高校生にしては二つ縛りのヘアースタイルが子供っぽいほうの女子生徒をターゲットにして、 恒幸は問いかけた。
 彼女はギターを弾く手を一度止めて、顔を上げる。
「…残念です」
 苦笑いをしながら、そう答えた。
 そして、傍らで演奏に聞き惚れていた、赤いカチューシャと右トップサイドで結んだヘアースタイルが女の子らしくて 印象的な女子生徒を手の平で示して、彼女は付け加えた。
「柿本美咲ちゃんは、こっちですよ」
「えへへっ。あたしになにかご用ですか?」
 アルバイト店員やセールスレディが放つ虚構のスマイルよりも遥かに愛嬌のある笑顔で、ギターを弾く女子生徒に 聴き惚れていたほうの女子生徒――柿本美咲が恒幸を迎えた。
 次の瞬間、
「……って、あなたはっ!」
 美咲は驚いたように目を大きく見開いた。
「無事だったんですねっ、良かったぁ!」
 またまた彼女の顔がはちきれんばかりに笑う。言葉と表情とが百パーセントに近い確率でシンクロしているところから すると、美咲が感情を飾らない人物であることが分かる。
 恒幸は、昨日の放課後からずっと胸に引っかかったままだった疑問を、彼女に投げかけた。
「君が、俺を保健室まで……?」
 どう見たって、保健の先生が言ったとおり、美咲はこれといった身体的特徴を持ち合わせていない、ごく普通の女の子 だ。恒幸が想像していた柔道選手のような体型とはかけ離れた、割合小柄な躯体。ギターの女の子に比べれば少し二の腕や 太腿の肉付きが良くしっかりとしているようにも見えるけど、マッチョではない。
 やはり、自分が彼女に運んでもらったと信じるのは少し無理があった。
 しかし、
「そうですよ」
 美咲はあっさりと肯定した。
「昨日あたしは掃除当番で、ゴミ出ししなきゃいけなかったんですけど、近道しようと思って体育館の裏を通ったら 先輩が口から血を流して倒れてて…ホントびっくりしましたよ!」
 あのときと同じ調子で……とまではいかないのかもしれないけど、びっくりした様子を、大振りに腕を拡げる ジェスチャーで再現する美咲。
「でっ、そのときはもう先輩を保健室まで運ぶことしか頭になくて……えへっ。あ、そういえばあのゴミ袋どうなったんだ ろ?」
 がくっ――恒幸は心の中でコケた。
 真剣に話し込んでいたと思ったのが、気がつけば掃除当番の話へと逆戻り。なんか、自分の周りにはあまり一つの話題で 長く喋り続ける人間がいないものだなあと、改めて彼は感じた。
「誰かが持ってってくれてるといいよな」
 恒幸も同じだ。あのとき、不良に連れて行かれる前にばら撒いてしまったノートと日直日誌は、今朝職員室の前を通り かかったときにはもうなかった。当然といえば当然なのかもしれない。職員室に用があって赴いた生徒、職員室から 出てきた教師、学校の管理人さん……考えれば、あのノートと日直日誌を回収できる人間はたくさんいる。だから、 それを拾い集めてくれたのが誰なのかということを、彼はべつに気に留めなかった。
「そうですね。あっ…差し出がましいことしちゃってたんなら、すみませんっ」
 一方的に話をしていたことに初めて気付いた美咲は、慌てて恒幸に頭を下げた。
「あ、いやいや。昨日は助かったよ。本当にありがとう」
「えへへっ、礼には及びませんよっ!」
 にっこり笑顔でVサインを見せつける美咲。
 やはり、この明るさなら、同一人物だと思っていいかもしれない。そう思って恒幸は、さっき美咲のことを当て損ねた失敗を 挽回するための、二度目の賭けに出た。
「あのさ、柿本さんってさ」
「もう、水臭いですよ先輩。美咲って呼んでください」
「ああ……美咲ちゃんってさ」
 どきどき、わくわく。
 餌を待ち侘びる犬のように、美咲は瞳を輝かせる。
「けっこう、大胆なんだな」
「ぅえっ!?」
 予期せぬ科白を聞かされ、彼女は取り乱した。
 それを聞いた隣のギターの女の子が、手を口許に添えてくすくすと笑う。
「ぅあぁのっ、先輩っ、それはいったいどぉゆぅ意味でございましょうかっ!」
 美咲の表情に、紅葉が鏤められていく。
「あのとき先輩、美咲ちゃんの決意表明を聞いてたんだよ」
 ギターの女の子が、恒幸に代わって彼の発言の根拠を説明する。
「ええぇっ!?」
「ですよね?」
 ギターの女の子に確認を求められたので、恒幸は素直に頷いた。
「そっそんなあ……お恥ずかしい限りです」
 美咲は既に、紅葉が鏤められたというよりもむしろ、敷き詰められたと表現するほうが妥当なまでに顔を赤らめている。
 始業式の日の朝はやっぱり、無鉄砲に、かつ気分任せで叫び声をあげていたということになるのだろう。もしも美咲が 恥ずかしさを意識する女の子ならば、あんなことはしない。たとえそのときに恥ずかしいと思っていなくても、後々誰かに 蒸し返されたときの恥ずかしさもあるのだ。それさえも考えず、彼女は大音声をあげた。それゆえ、恒幸は彼女のことを、 “大胆である”と評価したのだった。
「じ、じゃあ先輩っ。あたしと優鶴が手を繋いでたところとかも……もしかして見てました?」
「……!」
 恒幸は聞くだろうなあと思っていたが、優鶴と呼ばれたギターの女の子にとっては、予想外だったらしい。彼女も その言葉によって、美咲と同様焦りを顔に出していた。
「あ、まあ……ちょっとだけな」
「…お恥ずかしい限りです…」
 美咲の言葉を拝借して、ギターの女の子は少し紅潮した。
 欄干のところまで歩くと、恒幸はくるりと体の向きを変えた。そして、ふたりの後輩と同じ顔の向きで、恒幸は彼女たちの 心の焦りを鎮めてやるべく言葉をかけた。
「なんつうか、すげえ仲良さそうだって思った。そんだけさ」
 あの日恒幸は、手を繋ぐふたりを見て、同性愛者だとかなんとか勝手な妄想を起こしてしまっていたが、純粋に考えれば 仲良しこよし――そういうふうに解釈できたから。
 美咲たちはお互い顔を見合わせると、あははっ、と笑った。
「そうですよ。あたしたち、とーっても仲がいいんです!」
 自信に満ちた調子で、美咲は恒幸に向かって言う。
 そこまで開き直ったような言い方をされると、疑いの種は完全に消えないのだけど……。
 恒幸は、なんとなく複雑な面持ちになった。
「ねー、優鶴ーっ」
 再度ギターの女の子の顔を見て、美咲はオバサンのような物言いをした。
「う、うん」
 ちょっと無理をしてそうな感じではあるが、ギターの女の子も美咲に同意した。
「えーと、C組の子だったよな」
「はい。申し遅れました、一年C組の秦野優鶴っていいます。どうぞよろしく」
「俺は三年A組の遠方恒幸。こちらこそよろしくな」
「あたしは一年B組のっ」
「美咲ちゃんはもうわかってるからいいって」
 笑う恒幸と優鶴に挟まれて、美咲はぷくっと頬を膨らませた。
「なんでですかーっ。改めて名乗らせてくれたっていいじゃないですかー」
「ごっめんごめん、それじゃやり直すか」
 美咲をフォローしてやるために、恒幸は優鶴にリプレイを促した。
「私は、一年C組の秦野優鶴と申します。どうぞよろしく」
「同じくB組の柿本美咲。よろしくお願いしますっ」
「三年A組の遠方恒幸。ふたりとも、よろしくな」
「はいっ!」
 ――キーン、コーン、カーン、コーン。
 絶妙なタイミンクで、四時限目の予鈴が鳴る。
「あっ俺、次教室移動だった。それじゃまたな!」
「また会いましょうねっ、先輩!」
 午後の授業の準備に向かう恒幸を、ふたりの後輩は、笑顔で手を振って見送った。

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