第2章 Trahis - 生徒会長の裏切り
A l'insu des cadettes, le grand plan qu'elles espèrent fut empêché.

 

【1】

「ふぁ〜あ〜あ〜あ」
 午前の授業から、ようやく解放された。
 溜まりに溜まった疲れを体の外に逃がしてやるために両腕を斜め上方に展ばすと、同時に長い欠伸が恒幸の口から うにょろうにょろと脱出した。そのさまは、まるでマヨネーズのチューブを絞っているようで、やたらと緩慢だ。
 そんな自分の欠伸から、彼はとある金融機関のコマーシャルを連想した。金融機関といえば、もちろんキャッシングを するところ。キャッシングといえば、長いお付き合い。長いものといえば、地中から伸びる野菜とか、鳩時計から飛び出す 鳩とか。……それから、自分の欠伸とか。この手で新たなコマーシャルを作れそうな気がしたけれど、平和を絵に描いた ような欠伸のシーンでは、却って企業価値を下げることになるかもしれない。
 以前ふと興味をそそられ立ち読みしたビジネス誌の記事の内容を想起しながら、しかしそんなことは今の自分たちには 豚に真珠だと思いつつ、彼は目をこすって視界の靄を取り払った。
「睡眠は計画的にな」
 計画的に、と言われたのは実に奇遇だった。なにしろ、恒幸は頭の隅のほうで金融機関のことを考えていたのだから。
 しかし、ヤミ金のお世話にはなっていないはずの遠方家のことだ。債鬼が自分を人質に取りに来るのもなにか 変だと思って、彼は声の主を確認した。
「夜更かしの慰みものもない俺に睡眠を遣り繰りする必要はないと思うけど」
「んなこと言って、ベッドの下はマンガの主人公みたいになってんじゃないか?」
 上機嫌で邪推を起こす勝流。
 恒幸は彼の問いに、変化球を投じた。
「それがごく普通の男子だとすれば、俺は普通を脱け出した、一歩先の男子ってとこだな」
「ならば一歩先であることを証明してもらおう。英語と世界史の答案を見せい」
 どてっ。
 現実世界では上体が少し前に倒れただけだったものの、心象世界では派手にコケていた。
 なんと見事にこの男は話題を転換させてしまうのだろう。まるでマジックでも見ているかのように、睡眠の話がテストの 答案の話と挿げ替えられてしまった。そのタネを探ろうと会話を遡ってみるが、頭が正常に働かない。勝流に話しかけられた のはついさっきのことだし、それより前は居眠りをしていたのだから…。
 ただ、テストの答案を見せろと言われて、おいそれと見せることができないのだけは確かだった。
「…なんでそうなる?」
「自然の摂理だ」
 この男は、本当に生徒会長だろうか?
 事実だと知っていながら、もう何度も、この疑問を恒幸は生じさせていた。
「……要するに、見たいだけなんだな?」
「そうとも言う」
 なるほど、この言い方なら勝流が占める地位のことも納得できる。彼の武器は、拳でもなく、脚でもなく、フライパン や鍋でもなく…舌だ。舌といっても、実際になにかを舐めるために使うのではない。弁舌の舌だ。勝流はときに校長先生と 議論を交えたりもするから、駆け引きに長けていなければならない。それゆえ、自然と持って回ったような言い方を、 彼は普段の会話でもよくすることがあるのだ。
「言っておくけど、期待はするなよ」
 結果が結果だけに、恒幸はひとまず勝流にそう釘を差す。
「期待しないわけがないだろう。俺はいつだって、ツネさんの成績アップを望んでるんだし」
 しかし勝流は、恒幸のせめてもの願いを没却し、差された釘をぐにゃりと曲げてしまった。彼はどうしても、恒幸の成績が 気になるらしい。
 …俺の保護者じゃないんだから、そこまで心配することはないだろうに。
 少しの間躊躇ってから、恒幸は潔く答案を机の中から引っ張り出した。後悔することを厭うなら、最初から見せてくれな んて言わないはずだ。そうと割り切っての捨て鉢だったと、言えるかもしれない。
 いつにない焦燥感を恒幸は感じていたが、一方で、渡された答案を受け取る勝流のほうは自信たっぷりの面構えだ。
 と、ここで――勝流の表情が固まった。
 たぶん、相当なショックに支配されているのだろう。
 ほうら言わんこっちゃない、と言ってやりたかったが、不穏な空気がそうさせてくれない。
 しばらくして、勝流は重い口を開いた。
「……気合いが足りんな、気合いが」
 恒幸の予想通りのコメントが返ってきた。
 確かに、気合いは足りなかった。それでも、普段と同じ時間を恒幸は試験勉強に費やしたし、べつに彼は勉強方法を変えた というわけでもなかった。だから彼は、少なくとも“いつものような”結果が出るものだと信じていた。にもかかわらず、 勝流の手に渡ってしまった彼の答案には、普段の二十パーセントないし三十パーセントオフ程度の得点が書き記されている。
 女子生徒の発育記録における体重とか、スーパーマーケットの生鮮品売り場ではないのだ。どうしてこんなものを喜ぶ ことができるいうのか。喜ぶことができる者が居るとすれば、それは、恒幸の成績不振のおかげで、特別な手段を講じずとも 席次を上げることができた、もともと彼と同じぐらいの成績の生徒ぐらいだろう。
「まあ……最近やけに授業もムズくなってきてるしなあ」
 あくまで恒幸は、第三者に成績を落とすよう仕向けられたと言い張る意向だ。
「授業がムズくなるのは当たり前。それについていくだけの努力をするべきなんだよ俺らは、わかるか?」
 教師にも似た剣幕でまくし立てる勝流。彼の言葉をありがたいアドバイスとして受け取りたいのに、なぜか恒幸にはそれ ができない。それどころか、僅かに不快感を覚えさえした。
 …おそらくは、度重なる“フィクションめいた出来事”に、心を奪われているせいなのだろう。
 始業式の日に見た美咲の気炎と、それに手を焼く優鶴。そんな彼女たちに辻占の良さを感じた矢先、不良の二年生、 藤波と間渕から受けた不当な暴力。そしてなによりも、人見知りであるはずの自分が、ふたりの後輩の、しかも女の子と 向かい合った瞬間に、親しく対話できてしまっていたこと。
 今までに経験したことがないような出来事が、矢継ぎ早に起こる――そのことが、恒幸の心をひどく 不安定な状態に陥れていた。
「っつうか、仕方ないといえば仕方ないよな…」
 勝流は一転して、語気を和らげた。
「ツネさん、不良に殴られたんだし」
「殴られただけじゃないぞ。蹴られもしたし、血も吐かされた」
「…鼻高々に言うことかよ、それ…」
 呆れた調子で、勝流は顔を手の平にもたせかける。
 だけど、勝流が暴行事件のことを引き合いに出してくれて、むしろ良かったなと、恒幸は思った。なぜなら、突然成績が 落ちたことを、彼は勉強態度が悪いせいだとしたくなかったから。
「まぁなあ…。まったく、平凡な生活だけど成績は安定してるっていうのと、少々刺激的な生活だけど成績が落ちるのっ て……どっちが幸せなんだろうな」
 溜息混じりに、恒幸は言った。
「私は――」
 明後日の方向に向けられた彼の視線を、その女子生徒は追いかける。彼女は惑うことなく、恒幸の示した二つの選択肢から、 一つを選び取った。
「いろんな出来事が起こるほうが楽しいと思うな」
 見上げると、ゼリー飲料片手に、恒幸の隣の席の机に腰掛ける長束の姿があった。悠長な目でこちらを見ているところから すると、今日は言いたいことだけを言って雲散霧消したりはしないのだろうか……。恒幸は、不思議なものでも見るような 眼差しで、ストローを唇で挟む彼女を見つめた。
「今の生活がもっと賑やかになるんだったら、私はちょっとぐらい成績を引き換えにしたっていいと思うよ」
 笑顔で言ってのける長束だが、やはり恒幸にとっては彼女の言葉は意外だ。委員長たるもの、自ら模範的であろうとする ために成績を下げないよう努力するものだと、彼は思い込んでいたから。
「マジかよ委員長。賑やかってったって、不良に殴られるんだぜ?」
 結び付けられたものがものだけに、今度は恒幸も勝流の言葉に気分を害した。
「確かに、それは気の毒だと思う」
 恒幸のほうに顔を向けて、気を遣っているらしい言葉を投げかける長束。どこかの口さがない生徒会長とは違って、さすがに クラスメイトのことをよく考えてくれているなあと、恒幸は感心した。
「でも、今の遠方クンは――」
 長束の諭すような言葉を頼って、恒幸はごくりと唾を飲む。
「前と比べて、大きく見える気がする」
 それは、精神的な成長を果たしたということを意味するのだろうか、それとも……?
「まぁこの時期が成長期だからなあ」
 少なくとも、勝流が言ったことは間違いだと信じたい。
「私が縮んじゃったのかもね」
 しかし、長束までもが、勝流の冗談に敢えて同調することで、恒幸の期待を欺いた。もしも彼女の言葉もジョークでなく 本気だったとすれば……お友達紹介キャンペーンにことよせて、恒幸は、長束ともども呪ってやりたい気がした。
 結局彼は、長束の言葉の最初の部分だけを取って、彼女が成長を感じ取ってくれていることに対して、心の中で お礼を言っておいたのだった。
「ところで委員長は――」
 話題を変えようとした恒幸の言葉に最後まで耳を傾けないまま立ち上がると、
「私、英語は九十八点。世界史は九十四点。じゃあね〜」
 と言って歩き出し、教室の入り口近くに置かれているゴミ箱に飲み干したゼリー飲料の容器を捨てて、にっこり笑顔を 今一度ふたりのほうに向けてから、教室を後にした。
 ……どうやら、彼女が現れた瞬間から、雲散霧消は時間の問題だったらしい。
 捨て科白も含めて、恒幸は改めて長束の思惑に幻滅するのだった。
「……」
「……これが言いたかったわけね」
 勝流は、いつも恒幸に見せる、呆れた気持ちを表現するためのジェスチャーを、遅ればせながら不在となってしまった 長束に向けて示した。
「俺ですら八十五と八十四だってのに……まったく生徒会長の名が廃るぜ」
 聞きたくはなかった。
 しかし、聞かされてしまった。
 成り行きで勝流と長束の得点を知ってしまった恒幸に残された気力は、もう普段の一割未満にまで落ち込んでいた。
「なあ、イナズマ」
「ん?」
 恒幸のことなどお構いなしだった勝流は、呼びかけられてようやく我を得た。
「なんか俺、今日気分が乗らないから学食行って弁当食ってくるわ」
「マジっすか。寂しいなあ……」
 勝流の眉が、逆に曲がる。
 ――確かに長束は、自分の成績を自慢する前、プラスの言葉をかけてくれた。だけど、その真意はわからない。それゆえ、 今はどうしても成績のことを意識してしまう。三人の中では、長束がいちばん頭が良くて、その次は勝流で……自分には、 たぶんどう足掻いたってこのふたりを超えることはできないだろう。
 勉強に対する熱意が不足しているせいなのか。それとも、新鮮な出来事のオンパレードのせいなのか。はっきりこちらの せいだとは、やっぱり決め付けられない。今はただ、こんなにも不安定な心を自分が携えているということに、恒幸は プレッシャーだとか、ストレスだとかいうものを感じていた。
 だからせめて、周囲の人間にこのことをとやかく言われない、自由な時間が欲しかったのだ。
「たまには一人で食いたくなることもあるさ。そんじゃあな」
 恒幸は席を立つと、弁当包みを手に提げて、学生食堂へと向かった。あっけらかんとした表情を保っていた勝流を、 置き去りにして。

 

 昼休みの残り時間のことを思考から切り離し、悠長な足取りで恒幸は階段を降りていく。
 あのとき彼は、不注意から不良生徒たちと派手に衝突した。……というのは大袈裟で、実際は足に躓いて転んでしまっただけ なのだが……。そのことがきっかけとなり、彼は、学校の基本中の基本たる決まり事を少しだけ意識するようになった。 “廊下を走るべからず”という、小学校の頃から口うるさく言われ続けていたあの決まり事を。
 それを意識させてくれたのが不良生徒であったということは不本意だけど、だからといって懲りずに自分の都合を優先 して廊下を走っていたりなんかしていたら、同じ過ちを犯すことは目に見えている。
 他の生徒に対して迷惑をかけず、また自分の身の安全にも繋がる。
 一つの石を投げて二羽の鳥を落とすことができると考えると、自分の都合なんてどうだっていい。それに、なにしろ のんびりと歩いているだけで、事故が減るのだ。可能な限り厄介事を避けたいと願う性格がら、恒幸はおのずと“急がば回れ” という結論に辿り着いた。
 そのとき――ふと後ろから、
「あっ、せんぱぁーいっ!!」
 記憶に新しい、元気な声が響いた。
 その声の進行方向からして、こちらに向けられているものだと恒幸は悟る。振り返ると、なにやら慌ただしそうに駆けてくる 美咲と優鶴に、一人の教師を加えた三人の姿が一挙に恒幸の視界へと乗り込んできた。
「こんにちは、先輩」
 元気一杯の美咲に対して、優鶴は後輩らしく会釈をして挨拶をする。
「おっす。なんか忙しそうだな」
 今さっき恒幸は、自分に“廊下を走るべからず”と言い聞かせたばかりだ。なのに、ふたりの後輩はおろか、教師までもが 一緒になって堂々と廊下を走っている。これはいったいどういったパフォーマンスなのかと、彼は不思議に思った。
「なんだ。遠方とは知り合いか」
 先に口を開いたのは、後輩たちに同伴していた教師のほうだった。
「あ、土肥先生。こんにちはっす」
 その教師は、恒幸もよく知る人物だった。
 昨年、一昨年の二年間、恒幸はこの土肥奏一という教師の世話になった。担当教科は英語で、 現在は三年D組の担任を務めている。年は確か、四十路に入ろうとするところだったはずだ。メリハリのある授業と、 俳優を思わせる渋いルックスで呼び声が高かったりする。
「教師を生徒の付属品みたいに見るな」
 順序を後回しにされたことに、土肥は不平を漏らす。
 そのあとに、「あははっ」「ふふっ」という後輩たちの笑い声が続いた。
「食玩の付属品とかは本体よりも価値があるって聞きますよ」
 恒幸はとあるクラスメイトから、このような話を聞いたことがあった。その生徒は、過去に食玩に付属しているおもちゃの コレクションを学校に持ち込み、一度は生指に没収されたものの、その後テストで凄まじい点数を取ってコレクションを 奪還したという伝説を持っている。
「磯村か……次の授業でいのいちばんに当ててやる」
 許せ、磯村。……たぶん、俺のせいではない。
 本人はどうせ気にも留めないだろうことについて、恒幸は心の中で謝った。
「それはそうと……なんで先生まで走ってるんすか?」
 さきほどの場面の中で最もパラドキシカルな部分を取り上げて、彼は土肥に訊ねてみた。
「荷物運び。おかげで昼飯が水の泡だ」
 恒幸が手に提げていた弁当にちらりを目をやりながら、残念そうに土肥は言う。教師は忙しさに押されて昼食をとる余裕 なんてないものだと恒幸は思い込んでいたが、どうやら、中には貪欲な教師も居るらしい。
「昼休みいっぱい使うんすか?」
「そう。荷物の量がハンパじゃないからな」
 土肥はガタイのしっかりした男手だからわかる。美咲も、自分を保健室まで運んできてくれたぐらいだから、わからない こともない。たけど、優鶴は見た目にも、頼み少なそうだ。第一、荷物運びをするのなら、どうして一年の、しかも女手を、 二人分しか土肥は借りてこなかったのだろうか。
 …ということも気になったが、それを聞き質すよりも先に、申し出たいことが恒幸にはあった。
「あの、先生。俺で良かったら手伝いましょうか?」
 物を運ぶのなら、人手が多いほど能率が上がるのは誰にだってわかること。ただ目の前の三人に一介の助力をしてやりた いという一心で、恒幸は土肥の返答を待つ。
「あー…部外者を手伝わせるわけにはいかんなあ」
 しかし、土肥は恒幸のことを“部外者”であるとして、その申し出を断った。
「そうですよー、先輩。これからおべんと食べにいくんでしょ?」
 美咲もやはり恒幸が持っている弁当に目をやり、土肥の遠慮に倣う。
 優鶴もなにか言いたそうにしているが、言葉を探り当てられず、躊躇っているようだ。
「あ、あぁいや、これは別に食わなくても死なないし、その点は大丈夫ですけど」
 本当は、恒幸は言を食んでいた。
 実を言うと、二時間目の世界史の授業中からいきなり腹の虫が騒ぎ出していたのだ。おそらく朝、目玉焼きとトースト一枚 しか食べて来なかったせいなのだろう。腹の虫たちが食物をせっつく声は、周囲のクラスメイトたちだけでなく、自らの 地獄耳をフルに活用した世界史担当のE組の担任、田川にも巧みに捕らえられ、みんなしてそれを笑う塩梅だったのだ。
「いや柿本、弁当のことじゃなくてだな」
「ふぇ?」
 部外者を、昼食をとる必要があるひとのことだと解釈してしまった美咲に、土肥はやれやれという顔を向ける。
「遠方に手伝ってもらうには、こいつが関係者である必要があるからな」
 関係者とか部外者とか、いったい土肥はなんのことを言っているのだろうか。そもそも、部外者だなんて呼ばれる筋合い はないだろう。土肥は二年間自分を世話してくれた元担任なのだし、美咲と優鶴は屋上までわざわざ会いに行った、 自分が“後輩”と呼ぶことのできる後輩だ。どちらにしても、初対面というわけではない。
 美咲は恒幸の考えではなく土肥の考えを汲み、焦りながら言った。
「とっとにかくっ、先輩はお腹を満たしてきてください! あたしはさっき早弁したんでだいじょぶ……あいっ」
 声を上げると同時に、美咲の体勢が不意に前に傾く。
 彼女の頭の後ろからごつい手が覗いたので、土肥が軽やかに美咲の後頭部めがけてチョップをお見舞いしたという 図式が、恒幸の頭の中で成立した。
「…柿本、今から生指行くか?」
「嫌ですっ」
 むすっとした顔を引っ提げて、美咲は土肥に反抗する。
「優鶴ちゃんは…?」
「あ、はい。私は食べてませんけど……大丈夫だと思います」
 にこりと笑う優鶴だが、彼女もどこかしら無理をしているように見える。
「っと、こんなところで漫才やってたら昼休みが終わってしまう。急ぐぞ」
 土肥が、美咲と優鶴のふたりをせきたてる。
「あのっ土肥先生」
 いざ行かん、という身構えになった土肥と美咲を、すんでのところで優鶴は引き止めた。
「どうした、秦野?」
「あの……その、今は関係者とか、部外者とかじゃなくって……遠方先輩にひとりの人間としてお力を貸していただいて、 作業を捗らせることって、できないでしょうか……?」
 無理にではあるけど、ちょっとずつ、優鶴は言葉を押し出していく。彼女の目は、言葉が覚束ないぶん、それを補う ように、彼女自身のとても真摯な気持ちを代弁している。
 土肥は難しい顔を崩さず、優鶴に言った
「まあ…無駄に働かせるのは教師としても忍びならんしなあ」
「むっ、無駄になんてならないと思います!」
 急にしゃちほこ張った優鶴に、美咲も、土肥も。
 恒幸も含めたその場全体が、強張る。
「だって遠方先輩は――私たちのことを考えて、手伝いたいって言ってくださってるんですよ」
 少しの間、四人の会話が途切れた。
 言ったあとで後悔したのか、優鶴は顔を俯けてたじろいだ。
「あ…ごめんなさい。『私たちのために』なんて、いくらなんでも厚かましすぎますよね……」
 不器用な作り笑いで口不調法さをごまかそうとする優鶴。
「あのっ、先生!」
 優鶴の言葉に気を取られていた美咲が、ふと土肥のほうに向き直る。
「できればあたしも、先輩と一緒に運びたいですっ」
 どういう風の吹き回しか、美咲の意見は百八十度方向転換していた。
 そんな美咲を見て、土肥がふーっと深い溜息を一度つく。
「……元はといえば、柿本、お前が頼んだんじゃないのか?」
 土肥の目の形状が変わる。それはちょうど、除算記号の上の点を取り去って、下の点を左に動かしたような感じだ。 今さっき優鶴が自分の真摯な思いを目つきに託していたように、土肥も、自らの呆れ返った所感を目で表現している ようだ。
「ぅあーっとぉ……でっ、でもいいんですっ! 気持ちが変わったんです!」
 美咲の態度のあまりの変貌ぶりには、優鶴も目を瞠っている。
「美咲ちゃん、頼んだって…?」
「あうぅ……」
 土肥と恒幸のふたりから言い迫られた美咲は、ついに自身をフォローするだけの余裕を失った。
「まぁ、お前がその気なら、べつに遠方に手伝ってもらっても問題はないと思うが……」
 土肥の視線はなおも美咲に向けられている。
 いきさつはよくわからないが、どうも美咲が最初に荷物運びの作業を手伝わせることを遠慮していたらしい――断片的な 美咲と土肥の会話から、恒幸はそう推し量った。
 美咲の顔を見ると、彼女は今も葛藤に苛まれているようだ。どう答えを出していいものかと思案に暮れる気持ちが、 リアルに伝わってくる。
「――先輩っ!」
 と、そのとき。
 突然、美咲が恒幸に向かって声を張り上げた。
 彼女は豁然となにかを悟ったようではあるが、それでも恒幸は、異様に吊り上がった彼女の眉と、睨んでいるといっても 過言ではないほどの鋭い目つきに気を呑まれた。
「あたしのこと、絶対変って思わないって、約束してくださいっ!」
 パワフルな声量に、傍を通り過ぎていった教師が訝しげにこちらを振り返る。
 変って……始業式の日からすでに、普通じゃないと思っていたのだけれど。
 そう口に出して言いかけて、咽喉元までその科白が出かかった時点で、恒幸はそれをぐいっと心の奥へと引き戻す。切羽 詰まった美咲の表情を見ると、迂闊なことは言えないと思ったのだった。
「あぁうん、約束するよ」
「ほんとーですか? 嘘偽りはありませんね!?」
 言い寄り、ずいっと体を近づけてくる美咲に、恒幸は苦笑いして頷きながら、右手の小指を立てて差し出した。
 彼の小指を見ると、美咲はまた顔を上げて、にひひっ、と破顔一笑した。
 そして、同じように右手の小指を立てて、小指どうしを絡ませる。
「ゆーびきーりげーんまーん」
「うっそつーいたーら、生卵青汁飲ーますっ」
「ぃえっ!?」
 生卵、青汁っ!?
 針じゃないものを飲ますと宣言され、恒幸は一瞬度を失った。
「にひひっ。生卵青汁は、とっても美味しくないんですよ!」
 これでもかと言わんばかりの自信を味方につけた、美咲の笑顔。それがかえって“生卵青汁”なるドリンクの不味さを 証明しているようで、恒幸には恐ろしく思えた。
「柿本」
「あはいっ」
 土肥のどっしりとした低い声音に、過敏に反応する美咲。
「おかげで、食欲が半分ほどなくなったぞ。ありがとうな」
「俺もっす」
「あの……私も、ちょっと」
 この瞬間から、美咲の“生卵青汁”は、恒幸を中心とするコミュニティーの中で、最強無敵の武器として君臨すること になるのであった――

 

「ほら早く、急げっ。あと十五分しかないぞ!」
 ――さっきから、すれ違いざまに生徒たちの顔を十あるうちの八、九振り向かせていることを、土肥も美咲も優鶴も まったく気にかけず真剣に走っている。
 生徒が廊下を走っているだけでも注目されるには十分だというのに、それを先導しているのが教師ときた。この事態に 無関心を貫き通すほうが不思議だと恒幸は思う。
 そして、走っている最中によくこんなことを考えられるな、と、彼は改めて自分の特殊なアビリティを独り勝手に 褒めそやすのだった。
「せんせー、お腹痛いですうぅ」
 張り詰めた表情で、美咲が訴える。
 そうか、それならば周りの生徒に目もくれず走っているのも筋が通る――って、そうじゃなくて。
「大丈夫か、美咲ちゃんっ」
 いちばん大きな自信を見せ付けていたはずの美咲がいちばん最初に根を上げてしまっている。予測していなかった展開を 案じて、恒幸は彼女に声をかけた。
「心配ご無用ですっ」
 無理に顔を笑わせる美咲。その不自然な笑い方だけでなく、鳩尾のあたりに当てられた手からも、彼女がどうにか 胃の痛みを堪えながら走っているということが見てとれる。
「たぶん、食べてからあんまり経ってないせいだと思います! さっき三時間目の授業中に教室脱け出して階段で食べた ばっかりなんで……あいてっ」
 今度は走っている最中だったので、美咲の体がぐらっと前に倒れそうになる。
 どうやらまた土肥にチョップを喰らわされたらしい。
「そんなところで食べる奴があるか!」
「じゃあトイレかどこかで食べろって言うんですかーっ!」
 土肥と美咲の声は、まるで口論でもしているかのようだ。走っているから自然に声に力が入ってしまうとはいえ、これは ちょっと踏ん張りすぎなのではないかと、恒幸と優鶴は思う。
 そして、その二大怪獣の決闘シーンのような映像を見ていたふたりは、同時に、怪獣たちの会話の内容に呆れもしていた。
 美咲のように、授業を脱け出して定められている時刻よりも早く弁当をつついた経験などというものは、もちろん恒幸と 優鶴のふたりにはない。それゆえ、彼女の主張は、ふたりの理解のかなり上方を飛んでいた。土肥がストレートに 美咲の非を咎めなかったということもまた、同じように。
「美咲ちゃんっ、怒ったら無駄に体力遣っちゃうよっ」
「ぅわーん神様ぁ、あたしにマラソンランナーみたいにいくら走っても疲れない体をくださぁいっ!」
 右腕を天に向かってピンと展ばし、美咲はその手を神様に取ってもらおうとする。しかし神様は、順番待ちしていた 先客を優先するために、美咲に番号札を渡したように恒幸には思えた。しかも、無情にも、神様が呼んだ“次の救済を願う 者”の番号札に書かれた数字が五桁の半ばで、美咲の渡された番号札に書かれた数字が六桁の半ばだったりして…。
 そうこうしているうちに、四人は昇降口に辿り着いた。土肥に促されるまま素早く上履きを脱いでめいめいが下靴に 履き替えると、それが終わった者から順に昇降口の扉を潜った。
 目の前に突如として現れた、一台の大きな運送会社のトラック。側面にはボクサーグローブを装着したカンガルーのイラ ストが描かれている。「相良さがら急便」という、この学校が指定 運送会社として使っているところだ。
 扉が開かれた後部へ近寄ってみると、すでに従業員がダンボールに詰められた荷物を地面に降ろす作業に取り掛かって いた。
「あっどうも、すみません」
 まずは四人を代表して、土肥が従業員に頭を下げる。
「あぁいえいえ。私どもの仕事は積荷をトラックから降ろすだけと伺っておりますんで」
 会釈をしてから、従業員の青年はとびっきりの営業スマイルで土肥にそう返した。
「あっ……優鶴じゃないか!」
 改めて恒幸たち四人の姿を確認した従業員の口から、意外な一言が漏れた。
 知り合いなのだろうか――と恒幸が思ったのと、優鶴が反応したタイミングがほぼ同じだった。
「おっ、お兄ちゃんっ!?」
 目を丸くして驚く優鶴。居合わせたほかの三人も、思いがけぬ兄妹の出会いをまじまじと見つめる。
「あっえーと……妹がお世話になってます」
 恥ずかしそうに額に手をやりながら、優鶴の兄でもあるらしい従業員はぺこりと頭を下げた。
 こういう出会いって、本当にあるもんなんだな…。
 マンガを地でいく二人の出会いに、恒幸はなおも目を瞠る。
「いや、奇遇ですね」
 土肥は笑って、余所者向けの対応を改める。
「はい、秦野雄慈と申します。見ていただいての通りですけど、日夜こうやってバイトに励んで家計を支えてま す――あ、もちろん 妹の授業料も含めて」
 アルバイトの従業員らしい、曲線的な滑舌。これだけでも、雄慈が幾多の仕事をこなしてきたということがわかる。 きっと彼は、数え切れないほどの顧客やバイト仲間と付き合ってきたのだろう。自分が今彼のような立場にあったとしたら、 おそらく、赴いた配送先でまずは自分を不審者だと見てしまいそうだ。初対面の教師相手にすらすらと喋ってしまう雄慈を、 恒幸は僭越ながら心の中で賞賛した。
「でもお兄ちゃん、先月はリブランシャンに居たよね……?」
 自信たっぷりのアピールをあっさりと妹に砕かれ、雄慈はどきっとした。
 “リブランシャン”というのは、聞いた感じセレブな雰囲気ではあるけども、ブランドメーカーの名前ではない。実は、 全国に七百を超えるチェーン店舗を構える古本屋のことだ。恒幸も何度か、リブランシャンを訪れたことがあった。 やたらと従業員のテンションが高く、元気な店かと思いきや、在庫の本の扱いがかなり雑。しかも、訪れる客のほうも、 座り読みを展開したり、本棚から抜き出した本を飛び道具にしてしまうという、ある意味恐ろしい店だ。
 先月雄慈がそこで働いていて、今運送業者のアルバイトをしているということは、考えられる確かな事実が一つ―― その間に彼が自主的にリブランシャンを辞めたか、辞めさせられたかということだ。
 もしも後者だとすれば、ここで彼の面目はガタガタと音を立てて崩れてしまうことになる。
「いやっそのっ、雰囲気が合わなかったんで辞めちゃったんですよ…!」
 優鶴のぽけーっとした顔をよそに、慌てて雄慈は自分自身をフォローする。
 しかし、咄嗟の自己弁護も空しく、美咲と土肥のふたりは態とらしく首を縦に振って、『なるほどね』という顔をした。
 この際だから、自分もそっちの方向で解釈しておこうか……恒幸はなんとなく、そう考えた。
「ううん、私は嬉しいな、お兄ちゃんが一生懸命働いてるんだってわかると」
「優鶴、お前……」
「いつもありがとう。お仕事頑張ってね」
「勿体ないお言葉感謝しまっす!」
 なぜか軍隊の敬礼よろしく指を伸ばした手を垂直に額に当てて、もとの従業員らしい士気を取り戻す雄慈と、混じりけの ない笑顔で兄の働きぶりを叱咤激励する優鶴。一見調和のとれたいい兄妹のように見えて、必要以上にお互いの事情に 踏み込んだりはしない――その関係が現に問題なのではないかと、心のどこかで恒幸は危惧していた。
「さっ秦野、次はお前が働く番だぞ」
 なにかを諦めたらしい顔つきの土肥が、ダンボールの一つを抱え上げ、優鶴に差し向ける。
 きっと諦めたものは、自分と同じなのだろう……。
 恒幸はそう思って、苦笑した。
「はいっ!」
 兄から活力を分けてもらった優鶴は、勇み逸った調子でそれを受け取った。
「お前らも一個ずつ運べ」
「りょーかいっ!」
 雄慈の仕種を、美咲が真似る。ようしその意気だ、と言いたげな得意顔を見せる雄慈に対して、恒幸と優鶴は、美咲の その行動を純粋に可笑しがった。
「うわこれっ、重たいっすね」
 ダンボールを持ち上げようとして、軽々と持ち上がらないことに恒幸は気付いた。これは一度、腰に力を入れて、 下手をすればオナラが出るほど力まないと持ち上げられないぞ……と思いつつ、隣でひょいっと同じような大きさのダン ボールを持ち上げてしまった美咲を見て、彼は顎を外しそうになった。
 ダンボールの大きさに関係なく、中に入っている物体の重量がまちまちなのだろうか。それとも……?
「……何が入ってるんすか、これ?」
 率直に、浮かび上がった疑問を恒幸は土肥に投げかけてみる。
「言ってもいいか、柿本?」
「あっいや、開けてからのお楽しみということにしといてくださいっ」
 片手でダンボールを持ち替え、美咲は空いたほうの手を振って反対する。彼女の言葉と、今度はダンボールがいとも 簡単に彼女の片腕に移ってしまったことに、恒幸は余計に期待を募らせた。今の心境を語るなら、竜宮城を出たばかりの 浦島太郎というところだろうか。ダンボールが玉手箱で、美咲が乙姫様。亀は誰かということはさておいて、恒幸は 抱え上げたばかりのダンボールを足元に降ろした。
「あっだめですっ、今開けていいとは言ってませんっ!!」
 ガムテープの端を爪でカリカリと引っ掻き始めた恒幸を見て、美咲はそれ以上先の行為を制した。もしも浦島太郎が 竜宮城でもらったばかりの玉手箱の紐を解こうとしたなら、乙姫様はこのように慌てていたのだろうか。そう考えると、 恒幸の口許から自然に笑いが零れた。
「はいはい。俺も、年取るのを急ぐ気はないしな」
「……へっ?」
 いきなり妙なことを口にした恒幸に、首を傾げる美咲。前方では、ダンボールを抱えたまま立ち位置をキープしている 優鶴がくすっと笑っていた。どうやら、彼女には伝わっているらしい。
「早く行こうよ、美咲ちゃんっ。あと十分切ってるよ!」
 仕切り直して、荷運び作業のスタートラインを優鶴は一番乗りで踏み切った。
「あっ、優鶴っ、待ってよ! 今笑ったでしょ、なんでか教えてよ!」
 ダンボールを片腕に載せたまま、美咲は器用にダッシュをして優鶴を追いかける。
 こちらの声が届かない場所までふたりが進んだことを確認してから、土肥はにたりと笑って恒幸に言った。
「遠方の持ってるやつは、たぶんギターアンプだろうな」
「アンプっ!?」
 ……道理で重いわけだ。
 ダンボールに目をやってから、今一度恒幸は、それを慎重に扱わなければいけないということを認識した。
「ってことは先生、この学校にも軽音部ができるんすか?」
「せいかーい」
 正解の『解』の部分をわざわざ長く伸ばして言う土肥。
 このとき恒幸は、いくつかの引っかかっていた疑問を晴らすことができた。
 ひとつは、屋上で後輩たちと面と向かい合って会話をしたときに、優鶴がギターを弾いていたこと。昼休みの正しい 使い方というのは教室で昼寝か、教室が賑やかな雨の日は図書室に移動して昼寝、と思っていた恒幸にとっては、 ギターを弾いて昼休みを潰すというのはとても奇妙に見えた。
 それ以前に、本当にギターなんて持ってきてもいいものかと疑いもした。コミックや雑誌、ミュージックプレイヤーを 持ってきている生徒はよく見かけるけれども、ああいうのは全部没収対象なのだ。だから、見つかる前に、彼らはそれを 鞄や机の中に隠してしまう。ギターなんていったら、慌てて隠そうとしたって、鞄の中にも机の中にも入らない。 それでどうして生指にとやかく言われなかったのか。
 憶測だけど、軽音部の部員として認められているのであれば、没収は免れるのだろう。
 もう一つは、土肥に“部外者”とされていたこと。これは、“関係者”である美咲と優鶴が軽音部の部員で、 “部外者”である自分が帰宅部の部員であると考えれば筋が通る。
「まぁ、まだ今は“バンド同好会”という位置付けなんだけどな。お前は一年、二年とクラブに入ってなかったから知らな いだろうけど、うちの学校では、生徒がこんなクラブあったらいいな、と思うクラブを作ることができるんだ。実際それで 今部員が増えてきてる部も多い。たとえば格闘技クラブは二十人ぐらい部員が居るし、料理部も最初はなかったけど今は 女子の中に何人か男子が混ざるほどになってる」
「へぇー…」
 確かにそんなことを入学式のときに説明されもしたっけな、と思い出す。
「で、なんでもかんでもそういうふうにちゃんとしたクラブになるんじゃなくて、もちろん、人数が集まって初めて、 クラブと認定されるわけだ。最初は思いついたクラブを“同好会”という形で提案するんだけど、部員を五人集められない ことには、クラブとしては認めてもらえない。
 でも必ず五人じゃないとダメだってことはなくて、例えば試合をするのに最低十人必要なスポーツをやるクラブの場合 だったら、十人集めないとちゃんとしたクラブにはならない。バンドの場合だと、俺が思うに一通りの演奏ができるんだっ たら三人でも四人でもいいと思うけどな」
「確かに、ドラムとベースと、あとギターを弾くひとが歌ってたら三人でも成り立ちますよね」
 ギターを担当する優鶴がボーカルも兼任し、美咲とあと一人がドラムとベースを担当すれば、一応演奏ができる。 しばらくは、不足分のもう一人のメンバーを募集するという形をとるのだろう。
 まだ美咲と優鶴が軽音部の部員だと確かに決まったわけではないけれども、頭の中で想像したことが上手く繋がった ので、今のところはこれで納得しておこうと、恒幸は思った。
「ああそうそう、遠方」
「はい」
「こいつらを運ぶのは地下の倉庫な。まあわからなかったらついて来い」
 そう言って、土肥はダンボールを抱え上げ、一足先に歩き出す。
 学生棟の五階に余分な椅子や机を積んでいる倉庫があるというのは知っていたが、地下にも倉庫があるというのは 初耳だ。むしろ、この学校に地下なるフロアが存在するということすらも、今初めて知ったことだったりする。
 そんな具合なので、恒幸は素直に土肥のうしろについていくことにした。
 渡り廊下の下を抜け、芸術棟とテニスコートの間を、恒幸と土肥はそれぞれの荷物を抱えて、よいせこらせと気合いを 入れながら進んでいく。テニスコートからは、食後のエクササイズを行う生徒たちの、活気に満ち溢れた声が聞こえてくる。
 前のほうから走ってきた何人かの生徒が、あわや土肥とぶつかりそうになる。なんとかそれを躱すと、土肥は自分たちの 歩いてきた方向へと駆けていく彼らを不快な眼差しで見ながら、注意の一喝をした。
「くぉら危ないだろがお前らっ!」
「すんません先生ーっ」
 反省しているのか、否か。考えずともわかる。
 まったく、自分のような始末にだけはならないでほしいものだ――恒幸はそう願うばかりだった。
 やがて芸術棟の北の端まで到達すると、ふたりの視界に、半開きになった扉が現れた。ガラスには“関係者以外の者の 立ち入りを禁ずる”の文字。土肥は荷物の下から手を伸ばしてドアノブを掴むと、ゆっくりと扉を引き開けた。
「ここだ」
「先生……俺は“部外者”ですけど、大丈夫っすかね?」
「気にするな」
 さっきと言ってることが違うじゃないか、と恒幸は渋い顔をした。
 でも、確かに土肥の言うとおりではある。いつまでも“関係者”とか“部外者”とかいう区別にこだわっていたら、 なまじ美咲と優鶴のふたりに力を貸しているような感覚が残ってしまう。せっかく、優鶴が「一人の人間として」と言って くれたのだ。これ以上この区別にはこだわらないでおこうと、恒幸は心に決めた。
 おもむろに扉を潜った土肥に、恒幸も続く。アンプを落としてしまわぬよう、足元の戸閾とじきみに注意を払って。
 中に入ると、すぐに地下に降りるための階段を発見することができた。屋上もそうだったけど、こんな場所を見たのは 初めてだ。おそらく、こんなところにまでなると、あの勝流でさえ知らないのではないだろうか。期待に胸躍らせて、 恒幸は階段を降りていく。
 踊り場を二度過ぎると、開け放された扉が彼の目に映った。
 土肥に続いて、その扉を通り抜けると――
「うっわー……なにこれっ! すんげぇ広いじゃないっすか!!」
 恒幸の感動の快哉が、室内に反響する。
 教室四つぶんの広さは優にあるだろう地下倉庫。もともと保管されていたものが処分されてしまったのか、 四人が運んできたダンボール以外にはなにも置かれておらず、がらんとしている。剥き出しになったコンクリートの壁は、 どこか殺風景だ。
「どうだ、恐れ入ったか」
 あたかも自分自身の持ち物であるかのように、土肥が誇らしげに言う。
「――先生、第二陣行ってきまーす!」
 入れ違いに、美咲と優鶴が残る荷物を取りに出発した。ふたりとも、額に汗の粒をびっしりとくっつけて、かなり 張り切っている。美咲のほうは、どうにか胃痛を遣り過ごすことができたらしい。
 彼女たちが扉の外に出てしまうのを確認してから、恒幸は土肥に倣って荷物を置くと、彼に訊ねた。
「ここが部室になるんですよね」
「その通り。うちの学校のクラブでは文句なしで最大の活動スペースというわけだ」
 まだ不確かではあるものの、美咲と優鶴が軽音部の第一期部員になるのだとしたら、彼女たちは入学早々ものすごく 手厚い待遇を受けるということになる。早合点の赴くまま、恒幸は彼女たちをとても羨ましく思うのだった。
「すげぇなあ……あ、俺たちも第二陣に行かないと、まだたくさんあるんでしたよね」
「乗り気だな、遠方。さてはお前、あいつらに気があるな」
 ニヤリと笑って、土肥は恒幸をからかった。
「そう言われてみれば、そうかもしれないっすね」
 しかし、恒幸は敢えて、土肥の言葉を否定しなかった。
「ひとつ言っておくけど、校則第十四条第三項、生徒間の不純異性交遊は禁止だぞ」
「やだなぁ先生、俺はいつでもピュアっすよ」
 土肥の懸念を無用だとして、恒幸は彼を英語教師だと意識しての返答をした。もちろん、ピュアを英語っぽく発音する ことも忘れずに。
 それより、よく不純異性交遊の禁止が掲げられた校則の条項をよく土肥は覚えているな、と感心する。確かに、ほかの 規則とは毛色の違った決まり事だから、覚えやすいといえばそうなのかもしれないけど……。
 どのみち自分は知らなかったのだ。そのぶんだけ、土肥がやり手だということを感じさせられる。
 そのあとも、美咲と優鶴のふたりと荷物を搬入するタイミングがずれていることを利用して土肥から軽音部のことを 聞き出しながら、全部で四往復を果たすことによって、恒幸は役目を終えた。
 途中、美咲が一回り大きなダンボールを両肩に載せて全速力で走っていたのを見たような気もするけど、大丈夫だった のだろうか……?
 理屈で考えれば、美咲は相当無理をしていたと思う。けれども、いちばん疲れていたのは、明らかに自分だ。その次に 同じぐらい優鶴が疲れていて、土肥も少しではあるが息を切らせている。肝心の美咲は、見た感じでは、ほとんど体力を 消耗していない様子だ。
「とりあえず残り二分、セーフだな」
「お疲れ様ですっ」
 腕時計を一瞥してタイムリミットを確認した土肥に、美咲が満面の笑みで労いの言葉をかける。
「お前らもな。特に柿本」
「はいっ! なんでしょうかっ」
「お前のスタミナはギネス級だな」
「ぅえっ、そっ、そんなことないですよ!」
 慌てて、美咲が謙遜する。
 恒幸も優鶴も、的を得た土肥の言葉に笑うばかりだった。
「良かったな美咲ちゃん、神様が微笑んでくれて」
 お腹が痛いと訴えながら美咲が施した願掛けを、恒幸はふと思い出した。
 美咲の願いが叶ったということは、神様が彼女の切実な気持ちに動かされ、順番待ちしていた何人もの“救済を願う者” を無視したか、美咲が意地で順番抜かしをしたか、そのどちらかだろう。
 どちらにせよ、神様の心は広いのだなあと思う。
「せっ、先輩までひどーい!」
 パイプ椅子から急に立ち上がって、恒幸に顰めっ面を向ける美咲。
 そんなことを言われたら、隣で涙が出るほど笑っている優鶴だって同罪になるように気がするが――まぁ、親友柄、 小さなことには目をつぶっているのだろうと、恒幸は解釈した。
「おっと、俺は次の授業の準備があるから先に失礼するぞ。お前らも遅れないようにな」
 土肥は立ち上がると、美咲へのフォローもなしに、倉庫を後にした。
「先輩っ」
 さきほどとは違う落ち着いた口調で、美咲が呼ぶ。
「おべんと食べる時間遣わせちゃって、ホントにすみませんでしたっ」
 ぐいっと上体を深く前に傾けて、頭を下げる美咲。少し戸惑ったあと、優鶴も続けて軽く体を倒す。
「いいっていいって、言い出しっぺは俺なんだし」
 後輩たちだけの責任にしたくはなかったので、恒幸は咄嗟にそう言い繕った。
 しかし。
 ――ぎゅるるるるる…。
 腹の虫たちは、正直だった。
「もう、強がりは禁物ですよっ」
 恒幸の二枚舌ではなく、敢えて腹の虫たちの主張を酌み取って、美咲は彼に箴言をする。
 そして、数秒たったあとで。
 ――くぅー、きゅるるるぅ……。
 恒幸のものと比べるとワンランク控え目だが、同じ種類の音が彼と美咲の間から立った。
「あはは……お恥ずかしい限りです…」
 鳩尾に手を当てた優鶴が、言葉どおり恥ずかしそうに言う。
 そういえば、優鶴も昼食返上で事にあたっていたのだった。
「お互い四時間目が大変そうだな、優鶴ちゃん」
「そうですね…。でも、頑張りましょう」
 頑張るにはどうすればいいのか。そもそも、何を頑張ればいいのやら。そんなことも考えられなくなるほどに 体力をすり減らしてしまっていたけれど、不思議と、今の荷運び作業で担いだ疲労を、次の授業で思いっきり寝倒す ための口実にしようとは思わなかった。
 ――キーン、コーン、カーン、コーン。
 土肥が預けた鍵で、倉庫の扉を施錠する。予鈴は、階段を昇る途中で鳴った。
 階段を昇りきり、外側の扉の施錠が完了したところで、後輩たちは揃って恒幸のほうに向き直る。
「今日は、手伝っていただいて本当にありがとうございました!」
 いつものように美咲がふたりを代表して元気にお辞儀をし、それに優鶴が続いた。
「どういたしまして。またなんかあったら、遠慮なく呼んでくれよな」
「はいっ!」
 恒幸の厚意に応える気持ちから、ふたりの後輩の返事は自然と重なった。
「それではまたっ」
 最後にもう一度お辞儀をすると、美咲は優鶴の手を引いて、校舎の昇降口へと戻っていった。

 

【2】

 次の日の朝――
 恒幸は、いつもよりも爽やかな顔で、いつもよりも時間に余裕をもって教室に入った。
 昨日の労働で担いだ疲労は、昨晩ベッドにもぐりこんだ恒幸を、十分と経たないうちに眠りの中へと誘ってしまった。 そして、そのおかげで今朝は、いつも彼を起こしてくれている母親の度肝を抜くほど、早起きした。
 朝起きてから、学校に辿り着くまでの時間が、こんなに気持ちよかったことなんて過去にあっただろうか。
 中学生の頃まで遡っても一度としてない経験だし、それ以前の登校風景は記憶が朽ちていてよく覚えていない。もしか すると、眠気から解き放たれた目で、ありのままの景色を捕らえたのも、これが初めてなのかも――そう思うと、ここに 通い始めて間もない新入生たちの気分を味わえたような気さえしたのだった。
「よぉ、珍しく早いな」
 自分の席まで辿り着き椅子を引いた恒幸に、勝流が声をかける。
「馬鹿にするな。こんな俺でも、朝の貴重な時間を勉強に使いたいと思うことだってある」
「マジかよ。ありえねえ」
「……ご名答」
 かなりの勢いで否定されたので、恒幸はそれ以上気取ることはできなくなってしまった。
「実は、早く来てもやることがないからちょっと後悔してたりもする」
「だめじゃん」
「…………」
 こんなことなら、もうちょっと布団の中でもぞもぞしていれば良かったかな、と恒幸は思った。しかし、もぞもぞする にはちょっと、意識がすっきりとしすぎていたのだ。普段の自分なら、二度寝など容易いことのはずなのに、今朝の自分に 限って、活性化した神経が二度寝することを許さなかった……というよりは、二度寝したいという感情をお空の彼方にまで 吹き飛ばしていた。
 時計を仰ぎ見ると、八時十一分。まだ、朝礼まで十四分もある。
 いつもなら彼は、朝礼の二、三分前に校門をすり抜ける。そのため、鞄を一度昇降口のところに放置しておくという、 生指がお薦めしない行為を、彼も働いている。生指がお薦めしないというのも、この手段をとる生徒が、全校生徒のおよそ 半数近くにも上るからだ。みんながみんなギリギリの時間に校門を抜け、教室まで行って鞄を置いてくる時間がないから、 昇降口に放置する。誰が最初にやり出したのかはわからないけど、今や、鞄は靴を履き替えるための踏み板にまで陣取る ようになってしまった。それで、真面目に登校している生徒や、教師から、苦情が殺到しているのだ。
 今までは恒幸も、毎日のように鞄を昇降口に置いてそのままグラウンドに向かっていたから、教室に寄ることもほとんど なかった。そんな彼の放縦な登校態度を、生指と同じ目を通して見ていたぶん、勝流にとっても今朝の結構尽くめの彼は 驚くに値するものだった。
「まぁ、世間話でもしときましょうや」
 白い歯を輝かせて、勝流がにんまりと笑う。
「ああそうそう、イナズマ」
 イナズマ、というのは小学校時代に恒幸がつけた、勝流のニックネームだ。恒幸はかつて、小学校のころ、勝流の名前に 濁点をつけて、本来は三文字目で区切らなければならない彼のフルネームを、四文字目で区切って呼んでいた。しかし、 いつの頃からか、勝流がよそ聞きを意識するようになり、『サルだけはやめろ、ハズイから』と恒幸に訴えたことから、 猿を除いた残りの部分が彼のニックネームとして定着したのである。
「昨日一つ面白いことがあったんだけど」
 この面白いことがあったからこそ、自分は適度な疲労を感じることができた。そして、それが質の良い睡眠と早起きに 繋がり、結果としていつになく早い登校ができている。
 予め話の筋書きを立てた恒幸は所得顔になって、話を始める前に大層らしく“面白い”と請け合うことで勝流の関心を 煽ってやろうと企てた。
「面白くなかったら、百円頂こうか」
 お前がその気なら、という気になって、予想される時間の浪費に対する代償を前もって請求する勝流。
 べつに賭けをすることまでは望んでいなかったが、恒幸は、自信を味方につけて啖呵を切った。
「よし、乗った。面白いと思ったらこちらが百円頂く」
「了解。ではレディッゴー」
 中途半端な勝流の合図で、ふたりの賭けが幕を開けた。
「お前はさ、地下に倉庫があるのって知ってたか?」
「うん、知ってる」
 ――がくっ。
 開始四秒、いきなり恒幸の目論見が揺らいだ。
 薄気味悪く唇の両端を吊り上げて、勝流は仰向けた手の平を恒幸に差し出す。
「待て、まだ話は終わってないっつーの」
「……オッズ一・五倍な」
 またもや、生徒会長には不似合いな言葉を、勝流は口に出す。
 ここで勝負を辞退すれば貴重な百円玉と五十円玉とが一枚ずつ奪われてしまう。今更、恒幸に土俵を降りようとする 意志はなかった。
「…オーケイ。で、昨日の昼休み、俺もそこを初めて見たんだ」
「まぁ確かに、関係者以外は入れないところだしな……っつーか、ツネさん、あんなところで何してたよ?」
「荷物の搬入」
「へぇー……。学食行く道すがら、先生に拉致されて強制労働させられたとか?」
「いや、俺から願い出た」
「んなにぃィッ!?」
 余裕の面構えで恒幸をからかっていた勝流が、途端に周囲の空気をも震わせる勢いで驚いた。
「ちょっと待て。お前とは長い付き合いだけど、俺はお前がそんなに自発的で積極的だったところとか、一回も見たことが ないような気がするんだけど」
 そりゃそうだろう。
 なにしろ恒幸は、小学生のときから、欠席していた給食当番の代わりを頼んできた先生に対して「面倒臭いから僕は やりません」と胸を張って断るほどの億劫屋だったから。
 彼が残した伝説は、数知れない。うさぎの飼育当番にあたっていたときは、しばしば仕事をほったらかして帰って しまったため、翌朝うさぎが空腹に顔を歪ませていたり。トイレ掃除のときは、ブラシで擦らず、ホースから出る水で 床を濡らしておくだけだったり。ゴミ袋を焼却場まで持っていかなければならなかったときは、なんと、ほかのクラスの 教室の入り口にこっそりとゴミ袋を置いたり。もちろん、体育の授業で引っ張りだしたマットや平均台、ボールの入った カゴを片付けるのを手伝おうとしたことなんて、一度もなかった。
「天地がひっくり返っただろ、お前の心の中で」
 ようやく目論見が勝流にヒットしたことを受けて、自然と恒幸の顔が笑う。
「うむ……。不覚にもツネさんの言ってること自体は嘘だと思えない」
 劣勢を覚悟して、勝流は少しだけ声のヴォリューム下げる。
「現にその甲斐あって昨日はぐっすり眠れたし、早起きもできたから、 今こうやってミョーに早く登校できてるわけだしな」
 言いたいことは言ってやった。あとは、勝流から百五十円が手渡されるのを待つだけだ。
 しかし、勝流はもう少し戦いを延長できると思ったのか、更に続ける。
「待て。お前が自主的に荷物運びを手伝った理由がまだ明らかになってない」
 さすが、生徒会長。そつがない。
 恒幸もそう来なくてはと思い、彼の設けた延長戦へと乗り込んだ。
「いやさ、先生に荷物の中身を訊いてみたら、バンドの機材だって言うからさ。それで、興味を持って手伝ったんだけど、 結局中身をこの目で確認する前にチャイムが鳴ってな。無駄働きになったようなもんさ」
 後輩たちのことをまだ勝流には話していなかったので、今はそうとしか言えないけど。自分の心の中では、昨日の 荷運びは最高の仕事だったと、恒幸は思う。
 ところが――勝流の顔には、焦りの色が見え始めていた。
「なんだって? なぁツネさん、一つ訊いてもいいか?」
「あ、ああ」
 それまでとは一線を画した勝流の真剣な表情に、思わず恒幸はしり込みする。
「機材を運んだとき、地下倉庫に防音壁みたいなのってあったか?」
 みたいなものと言われても、それがどのようなものであるかが分からないと、証言のしようがない。ただ、昨日の 記憶を呼び起こす限り、地下倉庫の壁がコンクリートだったということは確かだ。
「さぁ……無かったと思うけど」
 曖昧な証言をする恒幸の横で、勝流の目つきが突然鋭くなる。
「……ちっ。あれほど言ってたのに校長のやつ、自分勝手な判断を下しやがって」
 校長先生に対してこんな物言い――もっとも、遠く離れた教室で、であるが――ができるのも、勝流ならではだ。 彼の取り仕切る生徒会は、しばしば校長の判断を動かすことがある。しかし、勝流に言わせてみれば我がままな校長先生は、 あまり進んで生徒会の決議案を受け入れようとはしない。それゆえ、勝流は生徒会を代表して、校長先生の一家言に 異を唱えたりすることも多いのだ。
「なんだよ、校長が一枚噛んでんのか?」
「噛んでるもなにも、今年の新入生の中に実力派のミュージシャンがいるってことを聞いただけで部活を作ろうとする ほどの単細胞人間さ」
 それを聞いて、今度は恒幸のほうが驚いた。
 実力派かどうかも定かではないし、まだ部員と決まったわけじゃないけど……ひょっとすると勝流の言うミュージシャン な新入生が、美咲と優鶴のふたりを指すことだってありえる。むしろ、そうであるなら、これからが楽しみだろうと 恒幸は思う。
「ふうん。校長もお目が高いな」
 恒幸としては、昨日の出来事をありがたいと思うところがあったので、校長先生の企てについてはそれなりの評価を 下したいところだった。
「呑気なこと言うな。校長は一旦採り入れた俺の申し出をシカトしたんだぞ」
 しかし、恒幸の言葉は、かえって勝流の神経を逆撫でしてしまった。
「くそっ……今からでも怒鳴り込みに行って――」
「ちょっと待てよ、イナズマ。落ち着けって。お前の申し出ってなんなんだよ」
 校長先生を、一瞬にして悪魔の装いにしてしまった勝流を、恒幸は訝しげな目で見る。自分自身の物差しで勝手に話を 進めてしまう勝流に、彼は考えを追いつかせたい気持ちでいっぱいだった。
「言っただろ? 先に防音工事をしないと、あそこは結構下にあるように見えて、音が漏れるんだよ。だから機材を届けて もらう前に、施工業者に頼んで防音工事をしてもらうほうが先決だって言ってたのに……あのやろうめ」
 よくもプライドを傷つけてくれたな――勝流の煮え返った顔が、そう語っている。
 そう、勝流はクラスメイトの前ではちょっと優等生に見えるだけの生徒でも、教師や校長先生に向ける人柄は違う。 それはもう、プライドの塊、という一言に尽きる。少しでも自分の能力を嘲り笑われるようなことがあると、彼は 癇癪玉を爆発させるのだった。
「俺ちょっと今から話つけてくるわ。朝礼には出られないかもしれないから、先生に言っといてくれ」
「ちょっ、イナズマ!」
「悪ぃ、これは俺だけの話だから。ほれっ」
 こみ上げてくる怒りをコントロールしながら、勝流は財布の中から取り出した百円玉と五十円玉を一枚ずつ、恒幸の 机に置いた。そして、彼の制止を振り切って、教室を飛び出してしまった。
(――“俺だけの”話って、お前はともかく、美咲ちゃんや優鶴ちゃんはどうなるんだよ!)
 嫌な予感がして、恒幸は心の中で唸り声を上げた。
 もしもすんなりと勝流の異議が認められて、防音工事が行なわれると決まれば……昨日恒幸が後輩たちと土肥を合わせた 四人で汗水垂らして運び入れた機材は、一旦返却されることになるだろう。
 部活を始めるにあたっては、不可避の事態ではある。だけど、今はもしもそうなってしまったときに、後輩たちにどうい った言葉をかけてやったらよいのだろうか――それが心配だった。

 

 その日の放課後。
 ――できることなら、今は顔を合わせたくはない。
 そう思っていた恒幸の願いを実に軽やかに打ち砕く声が、昇降口で靴を履き替えている最中だった彼の背中に届いた。
「あっ先輩! 今帰りですか?」
「あ、ああ……そうだけど」
「先輩って、駅どっちです?」
「俺は、桜台から来てるよ」
 この学校には、二つの最寄り駅がある。学校よりも東側にある「桜台」という駅までは、学校から歩いて十分、西側にあ る「深ノ森」という駅までは、歩いて五、六分というところだ。所要時間だけで比べるならば、後者を選ぶのは当然のこと。 実際、この学校の生徒の八割が、深ノ森駅から登校してきているのだ。
 だけど恒幸は、残りの二割のほうに入っていた。距離が遠いにもかかわらず、二割の生徒がこちらを選んでいる理由は、 運賃だ。通学定期を買う場合、ほとんどの駅から、桜台駅まで乗るのと、深ノ森駅まで乗るのでは、値段が違う。三ヶ月定期や 六ヶ月定期となれば、その差は歴然だ。
 恒幸の家もそれほど裕福ではないから、運賃も浮いて彼自身の体力づくりにもなる桜台駅を、彼は親に半強制的に選ばされ たのだった。
「うはっ、おんなじですね!」
 あろうことか、恒幸が二割だろうと踏んでいたほうに、美咲も乗り入れてきた。
「もし良かったら、ご一緒させてもらえませんか?」
「あー、えーと……」
 状況だけが望まない方向にどんどん一人歩きしていくので、恒幸は判断に迷った。
「何か用事でもあるんですか?」
 もどかしいリアクションをする恒幸に、間髪入れず美咲は気遣いの言葉をかけた。
 会ってしまい、かつ駅の方向も聞かれなかったならば用事があると言おうと思っていただけに、恒幸は頷くことも首を横に 振ることもできなかった。
「あぁいや……女の子と帰るのなんて初めてだし……ちょっと緊張するかも、って思ってな」
 恒幸がアドリブで作り上げた言い草を聞いて、美咲がにたりと北叟笑む。
「へぇーっ。先輩って、見かけによらずウブなんですね」
 見かけによらずということは、自分は、美咲に恋愛経験豊富な男として見られていたのだろうか。
 確かに、恋愛とはいかにも縁の無さそうなマジメ君に比べれば、自分はいくらかラフなほうだ。だからといって、異性と 馴れ合っているものだと決めつけてしまうのはちょっと強引なのではないかと、恒幸は思った。
「別に女の子に抵抗があるってわけでもないんだけどな」
 恒幸にとって、女子生徒というのは、アレルギー物質にもならず、煩悩の種にもならない、つまるところただの他人 だ。べつに、同じ学年にちょっと胸が大きい子がいるからとか、学生としての本分そっちのけで年齢詐称してアレなお店で 働いている子がいるからとかいう理由で、彼は血道を上げたりはしない。ある意味、真面目な勝流の近くで育ってきたから こうなってしまったのだろう、と彼は思う。
「そりゃあそうですよー。実際あたしたちの前でもどうってことないんですもん」
 楽しそうに言う美咲の隣で、「私はどうってことあるんだけど……」と言いたそうな顔をしている優鶴。このふたりの、 男性を意識する程度には、かなりの開きがあるらしい。
「ちょっと待っててくださいねっ。今靴履き替えてきますから」
 ぱたぱたと駆けていく美咲の手には、やはり優鶴の手がしっかりと握られている。昨日の荷運び作業が終わったあとも そうだったし、その前も、始業式に遡るまで彼女たちはずっとこんな様子だったけど、これって、仲の良さだけで証明 できるようなものなのだろうか。彼女たちが手を繋いでいるのを見たのと同じ期間だけ、彼もそのことが気になっていた。 けれども、そのことを開けっ広げに彼女たち自身に訊くだけの勇気はなかった。
 しばらくして、昇降口の扉のほうから、下靴に履き替えたふたりが姿を現す。
「それじゃあ先輩、行きましょうか」
 美咲に促され、恒幸は、もう後戻りはできないな、と悟った。そして、脱ぎっ放しにしていた上履きを急いで靴箱に しまうと、後輩たちのあとについていった。

 

 校門を通過して、少し歩いたところで最初に話し始めたのは、美咲だった。
「ねぇ、先輩」
「――うん?」
 未体験の下校風景に浮わついていた恒幸は、美咲に呼びかけられて我に返った。
 どうも、学校の外に出てもなお美咲と優鶴のふたりが傍らにいるというシチュエーションに、自分は緊張させられて いるらしい。公の場ではどうしても、プライベートな場所に居るときと比べて、人との距離を感覚的に広くとって しまいがちだ。その感覚的な広さと、現実的な狭さとのギャップに、彼は惑わされるのだった。
「昨日の約束、まだ覚えてます?」
 顔の位置を少し下げて、恒幸を覗き込むような感じで見つめながら、美咲が問う。恒幸の答えを聞く前から、 彼女は気持ちを逸らせているせいか、明るい顔をしている。美咲の表情を天候に例えるなら、快晴は望めずとも、 それに限りなく近い晴れという感じだ。
「変と思わないでくれ、っていうやつか?」
 恒幸が荷運びを手伝うきっかけにもなった約束を、彼は今一度思い出してみる。
 もう何度も、美咲に対しては、他の女子生徒とどこか違った印象を持っている。だから、実際のところ、その約束は 恒幸にとって、焼け石に水をかけるようなものだったのだが。
「はいっ。覚えててくれたんですね。良かったぁ」
 恒幸の口から望んでいた言葉が出されたことを、美咲はとても喜んだ。
「あのっ先輩!」
 どういうわけか、いちいち恒幸を呼ぶ美咲。
 おそらくは、言葉をひとつ紡ぎ出すたびに、気持ちもそれに足並みを揃えて変わっていくから、話の節目ごとに仕切り 直しをする必要があるのだろう――恒幸はそう解釈した。
「あたし、優鶴に言われたんです」
 出し抜けに自分の名前を挙げられ、優鶴は引き寄せられるように美咲のほうに顔を向ける。
「どうせ近い未来に知られてしまうことなんだから、今話しとくほうが安心するんじゃないか、って」
 少し俯き加減になる美咲だったが、その柔らかな表情からは、自分にアドバイスをくれた優鶴を心から必要不可欠な 存在だとして大切にする、彼女なりの気遣いが読み取れる。
 自分が与えたアドバイスを口ずから恒幸に伝えた美咲の真っ直ぐな行動を、優鶴は恥ずかしく思ってわずかに目を逸らす。
「先輩っ、実はあたし――」
 土肥から聞かせてもらった軽音部のことを打ち明けるのか。それとも優鶴との仲が良い理由を語ってくれるのか。 はたまた、優鶴の目の前だと言うのになんの予告もなしに告白したりするのか……。
 “変な”美咲のことだから、どれも同じ確率で起こりそうだと、恒幸は期待した。
「あたし、優鶴と一緒に、バンド演奏するクラブを作るんです!」
 言ってすっきりしたのだろう、美咲は、恒幸が数学の授業中一つの問題に半時間を費やしてようやく答えを出すことが できたときのような顔をしている。
 次元は違うけれども、もやもやを振り払ったときの解放感は、美咲にとってもひとしおなのだろうなと、恒幸は思った。
「軽音部ができるってことは、土肥先生から聞いたよ」
「う、うえっ? まじですかっ」
「うん。でも、美咲ちゃんたちが部員第一号になるっていうのは、今初めて聞いた」
「ぅあっ、じゃあ先輩っ、あたしたちが荷物運んでたときはもう、中身が機材だってこともご存知だったんですか!?」
 恒幸がこくりと頷く。
 あのときはまだ優鶴のアドバイスを聞く前で、とにかく自分がバンド活動をするということを恒幸に知られたくなかった のに――そんな気恥ずかしさから、美咲は、体温と脈拍とが次第に上昇していくのを感じた。
「でもカッコいいじゃん。俺は弾ける楽器っていったらせいぜい幼稚園で習ったピアニカと、小学校のとき習ったリコーダー ぐらいだから、バンド系の楽器が弾けるひとって羨ましいな」
 そのほかにも確か、幼稚園の卒業祝いに貰ったハーモニカを吹いて遊んだり、マラカスやカスタネットを鳴らしたこと もある。だけど、それらの楽器はすべて、手元にありさえすれば、どんなに経験がなくともそれなりの演奏ができる 楽器だ。生半可なテクニックでは弾けないギターやベースなんかに比べたら、ずっととっつきやすい。
 そういった羨望を美咲に送ることで、恒幸は彼女の心の迷いを解消してやろうと試みた。
「羨ましいって思われたことは、今までにもたびたびあったんです」
 それまで無言だった優鶴が、初めて口を開いた。
「でも美咲ちゃんは、それをあんまり嬉しいとは思ってないらしくて……」
「そ、そうなのか? じゃあ……」
 なにか別のフォローとなる言葉をかけてやらなくては。そう思って慌てた恒幸と、申し訳なさそうな顔をする優鶴の 間から、美咲が不完全な笑顔を見せる。
「あっいや、いいんです。実際、普通の女の子はしないようなことですから」
 それは恒幸の羨望の言葉を半分ありがたく思い、半分厭っているような顔つきだった。
 美咲を安心させてやるには、どうしたらいいのか。簡単なことだ。彼女が“変な女の子”でないということを証明して やりさえすればいい。しかし、そのための手近な証拠を探すとなると難題だ。
 身長や体重、その他女の子の身体的特徴を聞き出しても話の腰を折るだけだし……。
 それならば――
「なぁ、美咲ちゃん」
「はいっ!」
 体育の授業でも耳にしないような、威勢のいい美咲の返事。
 元気なところも、確かに彼女の長所ではある。だけど、彼女が今本当に求めているもの――それは、周囲の女子生徒たち と、同じ心の背丈を持った自分。
「好きな男の子とか、いる?」
「うえぇっ!? いっいきなりなにを訊くんですかっ!?」
 美咲は慌てふためいた。当たり前だ、今の質問は、話の流れからしてもどう考えたっておかしい。それでも恒幸は、 自分の投げかけた質問が結果的に彼女を安心させることを、半ば確信していた。
「もっもしかして、それって……」
 そうそれそれ、そのそれだよっ、美咲ちゃん。
 息を呑んで美咲の直感に頼った恒幸だったが、
「あたしと交際をご所望ってことですかっ」
 ――こけっ。
 お決まりの展開になってしまい、彼は危うくリアルでもでこぼこな地面に躓いて転倒しそうになった。
「いやまぁ、訊いてみただけだけど」
「はへっ? そうなんですか?」
 美咲の両目が点になる。優鶴に玉手箱の話が伝わったときもそうだったけど、案外美咲は飛んできた玉をキャッチ し損ねてしまうのだな、と恒幸は思った。
「今は、いないですよ」
 狼狽と誤解とを経て、質問に対する回答を、ようやく美咲は果たす。恒幸の予想とは違う答えだったが、将来そのような 異性が現れるだろうと考えれば辻褄が合う。そう思って話を続けようとした彼の先を美咲が越した。
「好きなひとはいないですけど……夢ならあります」
 夢。それは、一見抽象的な単語のようでもあって、一人の人間の人生をも左右する計り知れぬ原動力。
 自分にはないものを持つ美咲を、彼は心の中で評価した。
「へぇ。どんな夢?」
「もちろん、この学校を出たあとで優鶴とバンドを組んで、思いっきり活動することです!」
 真正面を見て、自信満々に言う美咲。もしも彼女のようなざっくばらんな性格を優鶴ももっていたとしたら、「えへへっ、 実はそうなんですよー」なんて言ってくれるのだろう。
 ……って、美咲ちゃんみたいな女の子が二人も居たら凄い空気が生まれるな。
「ということは、優鶴ちゃんも夢は同じ?」
「はい。美咲ちゃんと一緒に、有意義なバンド活動をしたいなって思ってます」
「先輩の夢って、なんですか?」
 目をきらきらと輝かせながら、美咲が尋ねる。
 ……う。そこまでは考えていなかった。
 自分だけ秘密だとか言ったら、きっと美咲は執拗に暴露を迫ってくるだろう。それに、秘密なんじゃなくて、もとから 無いのだ。またもや彼は、アドリブに頼ることを余儀なくされた。
「そっそりゃもう、ゴージャスな車を乗り回して、あ、もちろん助手席には金髪美女な。で、家にはプール付きのでっかい庭、 あとは身の回りの世話をしてくれる使用人を何十人も雇うとか!」
 身振りまで大袈裟な恒幸に一瞬虚を衝かれたあとで、
「ほわーっ、でっかい夢ですねえ!!」
 美咲が真面目に感動のコメントを彼に送った。
「でも、持ってないよりはましだと思います」
 優鶴に言われて、恒幸は、ちょっとそれは痛いコメントだな、と思った。
「もし美咲ちゃんに今持ってるような夢が無かったら……どうなってると思う?」
「うーん……えーっとぉ」
 少しの間悩んでから、穏やかな顔と口調とで美咲が返す。
「今ほど楽しい生活が送れてないと思います」
 ちょっとだけ遠回りをしたけど、美咲が“変な女の子でない”ことを証明するものを、恒幸は手に入れた。
「そうさ。みんな夢を持ってて、それに向かって進もうとするからこそ、楽しく過ごせるんじゃないか。な?」
 もう、自分がほかの女の子と違うことをしているからといって、コンプレックスを持つ必要なんてない。自分が バンド活動を頑張ろうとしていることも、“人が持つべくして持つ夢”であることに変わりはないのだから――。
 美咲は、今日一番の輝かしい笑顔を恒幸に見せた。
「そうですよね、先輩!」
「だから、自信を持って。部活動、頑張れよ」
「はいっ! どうもありがとうございますっ!」
 美咲がそう言って深くお辞儀をする頃にはもう、桜台駅が三人の目の前に近づいていた。
 結局恒幸は、今朝勝流が言ったことを、正直に彼女たちに伝えることはできなかった。それどころか、逆に美咲達の 向上心を助長するような言葉をかけてしまった。
 ――どうせ近い未来に知られてしまうことなんだから、今話しとくほうが安心するんじゃないか、って。
 少し前に聞いたばかりの、美咲の言葉。厳密に言うと、優鶴のアドバイス。
 ふたりの意見というものがあったにもかかわらず……いつかは明るみに出ることだとわかっていても。
 今この場で美咲と優鶴のふたりをがっかりさせてしまうことだけはしたくなくて、恒幸は、複雑な気持ちを携えたまま、 支線に乗るために別のホームに向かうふたりが、笑ってこちらに手を振るのを、しみじみと見送るのだった。

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