第3章 Changement - 変わりゆく日常
Voilà les jours agréables qui viennent au lieu des secs.

 

【1】

 苛立ちを覚えるほどむんとした熱気と、照り焼き人間メーカーと化した夏の太陽。
 六月に入った途端、天候は激変した。
 あれほど積極的に心地良さを煽ってくれた風たちは、どこへ行ってしまったのだろうか。はたまた、どうして彼らはこんな、 蒸し風呂を擬似体験させてくれるような熱風にバトンを受け渡したりなんてしてしまうのだろうか。
 天の気持ちはときにひとの賞賛を買い、ときに人の顰蹙を買う。
 ある意味、同じ物を買い続けると飽きてくる人間とどこか理屈のうえで似通ってもいるなと、 相変わらずどうでもいいことを考えながら、恒幸は階段を降りる。
 一年生の教室がある二階を過ぎ、一階へと向かっていたとき、危なっかしくも一段飛ばしで階段を駆け下りてきた 生徒が、彼の横を通過した。
 見ると、軽やかな足取りを披露しているというよりも、なにかを急いでいるようだ。
 そしてそのうしろ姿は――
「美咲ちゃん!」
「ぅあっ、せ、先輩っ!」
 恒幸が咄嗟に下した判断のとおりだった。
 振り向いた美咲の顔には、緊急事態の文字が浮かび上がっている。
「ちょうど良かった! 一緒に来てくださいっ!」
「どうしたんだよ。いったい何があったんだ?」
「詳しいことは行けばわかります。だから、早くっ!」
 恒幸を待たずに、彼の死角へと美咲は消えてしまった。
 取りあえず、彼女を追わないと。
 このときばかりは恒幸も、自分の脳味噌の中で、「廊下を走るな、階段を駆け下りるな」と注意を促している部分の スイッチを切った。美咲があれほど差し迫った状態でいるというのに、一段飛ばしを剣呑がってなどいられない。
 廊下に出たときにはすでに小さくなっていた美咲の背中を、恒幸は躍起になって追いかけた。昇降口を、彼女は靴も 履き替えずに突破する。恒幸もいちいち、靴箱の前で止まることはしなかった。
 美咲は左折して、以前荷物を運んだ、テニスコートと芸術棟の間のルートを、第二グラウンドの方向へと北上していく。 だんだん、恒幸の中で嫌な予感が募る。この道を通るということは、まさか――
 ――その、まさかだった。
 第二グラウンドへの通用口である裏門と、地下倉庫へ通じる扉の間に、あの日見たのと同じ「相良急便」のトラック が停められていた。そのスタッフと、土肥がなにやら会話をしている。いや、会話というよりも、小競り合いだ。土肥の 表情は険しく、対峙する運送会社のスタッフの表情は詫び入るような感じだ。
「先生っ! これはどういうことなんですか!?」
 食ってかかるような調子で、美咲が土肥に問いかける。
「柿本……っ! うわぁマズイな……」
「マズイって何がですか!? 説明してください!!」
 まるで、尻尾を踏まれた犬がわめき立てるような猛攻。近くを通り過ぎる生徒が、修羅場であることを推測して、 心配そうな顔つきや、醜いものを見るような眼差しを美咲たちのほうに向ける。
 土肥も、居丈高に咆哮する美咲に気を飲まれているらしく、言葉に詰まる。
「落ち着いて、美咲ちゃん。まずは先生に話を聞いて――」
「とうしてこのトラックがここに来てるんですか! なんでなんですか!?」
 美咲の詰問は、もはや山林に点いた火のようだ。恒幸の消火作業も空しく拉がれた。
 土肥から答えが返ってくるまでの時間さえ惜しみ、自らの目で確認しようと、美咲は地下倉庫の扉に向かって走り出す。
「待てっ、柿本。地下の扉は閉まってるぞ!」
 土肥が叫び、美咲がぴたりと足を止める。恒幸も、業者のスタッフも、美咲の背中を見た。沈黙が訪れ、束の間の平和が 生まれる。
 美咲はあちらを向いたまま、震えるような声で言った。
「……先生、言わなくたってあたし、わかってます」
「……」
 濁った空気が流れた。
 土肥は少し俯き、美咲はこちらを振り返らない。
 居た堪れず、恒幸も目を伏せた。
「機材、返すんですよね」
 美咲の声音が、初めて、彼女の気持ちと立つ瀬を分けた。さっきまでの動揺を引き摺っているはずなのに、明らかに、 声は落ち着いている。
 恒幸が美咲に知ってほしくないと願っていた事実が――彼女自身によって、剔抉されてしまった。
 土肥や業者の人までもが顔を曇らせているというのに、まして自分が美咲になにか言ってやれるのか。
 鉛のように重いムードの中で、美咲はひとり、言葉を続けた。
「あたし、すごく嬉しかったんです。機材が学校に運ばれてきたとき」
 やがて修羅場はモノローグへと変わり、彼女に目をやる生徒の数も少なくなる。きっと、事なきを得たものだと誤解 しているのだろう。それに反して、こちらの空気は徐々に重々しくなっていく。
「本当に夢が叶ったんだって。優鶴とも感動を分け合えて、幸せだったんです」
 美咲の声が微かに揺れる。
「優鶴のために、恩返しができたんですっ!」
 再び彼女は、語気を強めた。
 親友である優鶴の名を、しきりに強調する美咲。彼女はいつだって優鶴に対して真剣で、思いやりの心を忘れることは なかった。繋いだ手から、美咲が感じとった感動も、嬉しさも、楽しさも、驚きも――一切の感情を優鶴に伝えている ように、恒幸には思えた。今ここに優鶴が居たならば、美咲はその悔しさをも、優鶴と分かち合うのだろう。
「優鶴はなにも言わない子で……でも、顔と身振りで、いつもあたしのことを励ましてくれて」
 土肥が一瞬だけ美咲のほうに目をやって、また他の場所へと逸らす。
「すごく嬉しかったけど、あたしは元気付けられてばっかりで、優鶴に申し訳なくて……」
 二度目の沈黙が訪れる。
 いざというときに気が利いた言葉をかけてやることができない自分に、恒幸は牙を鳴らした。
 夢を叶えるためのチャンスや、優鶴に対して何度も抱いた、自分への励ましに応えようとする気持ち。
 機材が返却されることで美咲が失うものは、あまりにも大きすぎた。
 だから、所詮“部外者”でしかない自分の言葉なんて、ジグソーパズルの一ピースにも満たないだろう――無力な自分 を、大っぴらに責められるものなら責めたいと、恒幸は思う。
「……柿本」
 土肥が、無気力に美咲を呼ぶ。しかし、美咲は返事をしない。
「今はお前に謝るのがいちばんだろう。本当に、すまなかった」
 今なおこちらからは後ろ姿の美咲に、見えるはずのない平身低頭で、土肥は謝罪をする。
「やめてください先生っ!」
 美咲の声が轟く。
 怒りと懇願の入り混じった言葉に、恒幸ははっと息を呑んで、彼女のほうを見やった。
「そんな言葉……今は聞きたくありません!」
 ようやく恒幸たちのほうを振り返った美咲の目には、涙があった。単なる悔しさでは説明しきれないぐらいに、彼女の 顔は沸き返っている。土肥が背水の陣で示した謝罪の意志さえ突っ撥ねて、彼女が求めたのはただひとつ――
「優鶴が一緒じゃないと、ダメなんです!!」
 美咲とは表裏一体の存在でもある優鶴。彼女は今日、体調を崩し、午前中の授業が終わったあと早退してしまった ということを、恒幸は昼休みに学食の自販機の前で会った美咲から聞かされていた。
 優鶴がいない以上、美咲はいかなる判断をも下すことができない。勝手に自分だけが事の始末をつけてしまうのは、 優鶴を置いてけぼりにするのと同じことなのだから。
「秦野は、今日は……」
「早退して帰ってしまったそうです」
「……そうか」
 成す術を失い、土肥はまた、もとの精彩を欠いた表情に戻った。
 ずっ、ずっと、美咲が啜り上げる。見るに見兼ねた恒幸は、美咲のもとに歩み寄り、ポケットの中にしまいこんでいた ハンカチを取り出すと、無言のまま、しかし目でそれを使ってほしいと訴えながら、彼女に手渡した。
 が、美咲が選んだのは彼が差し出したハンカチではなく――彼の腕。
 恒幸の右腕に顔をうずめるなり、彼女はそれまで抑えていた感情の箍を外して、大泣きしてしまった。
 たとえ美咲の悔しさがどれほど深いものだったとしても……今の恒幸には、彼女の髪をそっと撫でてやることで、 及ばずながら彼女を宥めてやることぐらいしかできなかった。
「――ちょっ、ツネさん!」
 ちょうどそのとき、最悪のタイミングで、サッカーウェアに身を包んだ勝流が、恒幸の横を走って通り過ぎようとして、 異様な光景に足を止めた。
「なに女の子泣かしてんだよ、お前馬鹿か!?」
 ぐいと上体を乗り出して問い詰める勝流。
 とんだ誤解をされているはずなのに、恒幸は上の空だった。
「稲津っ、それは誤解だ!」
 美咲を泣き止ませることに必死だった恒幸に代わって、土肥が異を立てる役を買って出た。
「土肥先生! これのどこが誤解だって言うんですか? 俺には遠方が泣かせてるようにしか見えない」
「その子を泣かせたのは遠方じゃない……俺だ!」
「っ……なんだって!?」
 自ら進んで汚れ役となった土肥に、勝流は派手に驚いた。恒幸も、できることならば土肥の言葉を否定したかったが、 美咲を落ち着かせるのが先決だと判断して、土肥にすべてを委ねることにした。
「ありえないですよ先生! どうして教師が生徒を泣かせられるんですか!?」
「あれを見ろ、稲津」
「……!」
 勝流の顔が引き攣る。遅かれ早かれ、いずれは勝流の目にも留まったであろう配送業者のトラックが、裏門を入った ところの駐車スペースに、どっしりとその躯体を構えている。
「この状況を止められなかった俺が、全部悪いんだ。遠方のせいにしないでやってくれ」
 藁にも縋る思いで食い下がる土肥をよそに、勝流は愕然とした顔つきで業者のトラックを見つめていた。
 ……まさか自分の下した判断が、こんな結果に繋がってしまうなんて。
 土肥に言われるままにトラックを見た瞬間、勝流は、恒幸でもなく、土肥でもなく、自分に咎があるということを悟った。 それなのに、校長との議論をこのような場面に持ち出すことはできなくて、 自分が罪人だと名乗り上げることは言い憚られた。
「……あとでよーく言っときますよ、遠方に。先生にまで自分を庇わせて、なにやってんだってね!」
 恒幸も土肥も、勝流の執拗な誤解――もっとも、勝流自身と、恒幸にはそれが責任逃れであることがわかっていたが――に 眉根を寄せた。
「違うんだ、誤解だと言って――」
「イナズマぁっ!!」
 焦れったい土肥の反論に我慢がならず、恒幸は意を決して、自ら矢面に立った。
「なんだよお前、諦めが悪すぎるんじゃないか!?」
「そっちこそ、魂胆が丸見えなんだよ! 生徒会長とは名ばかりのご都合主義者じゃねーかよ!」
「なんだと! 人がせっかく自首を勧めてやってんのに、お前はどこまで自分の罪を隠し通せば気が済むんだよ!」
「――やめてくださいっ!!」
 丁々発止のふたりの口論よりもインパクトの強い美咲の仲裁の声に、ふたりも、土肥も、第二歩を制される。
「けんかなんてしても、どうにもならないです! 醜いだけです!!」
 涙を振り切って、自分が泣いていることよりも深刻な事態を、美咲はただ止めたかった。これ以上、仲間同士の軋轢を、 彼女はひどくさせたくなかったのだ。
 しばらく、その場に居た全員が、黙り込んだ。
「もういいよ、イナズマ。お前、部活あんだろ? さっさと行ってこいよ」
「……ああ。邪魔して悪かったな」
 勝流は結局、誤解をしたことについても、機材を返すよう願い出たのが自分であることについても謝らず、恒幸たちに 余計な気力と時間とを遣わせてしまったことだけを反省して、第二グラウンドへと走っていった。
 しかし、恒幸としては、あわや殴り合いの喧嘩にまで発展しそうだった口論が収まっただけでも、憑き物が落ちる 気分を味わうには十分だった。
「ごめんなさい、先輩。あたしが、バンドやりたいなんて言い出さなかったら、こんなことには……」
「みっ、美咲ちゃんが謝ることはないだろ? 悪いのは――」
 機材を返すよう願い出た勝流であって、業者の侵入を食い止められなかった土肥であって、そもそものきっかけを作る ことになってしまった美咲と優鶴でもあり……このことを知っていながら黙っていた自分でもあった。
「俺がもうちょっとこのことを早く美咲ちゃんに話してたら、こんなに悲しむことはなかったのにな……」
 自分自身の非を匿いきれず、恒幸は遅ればせながら、正直に白状した。
「えっ……先輩、知ってたんですか?」
「ごめん……。さっきの奴に聞いて、ちょっと」
 実のところ、勝流からこのことを直接伝えられたわけではなかった。しかし、彼が校長先生に直訴しに行ったところから して、このような事態がいずれ訪れるのではないか……という想像がついた。それも、恐ろしいほどの予感を伴って。
「そんな……ひどいですよ」
 弱々しい声で、美咲は恒幸の非を詰る。
 彼女の言葉を受けて、恒幸は自分のことを、改めて、独り善がりで腑甲斐無い人間だと思った。
 美咲にこのことを黙っておこうなんて思ったのは、決して彼女のためになんてならなくて――自分のせいにされるのが 嫌で、ただ単に逃げていただけなのだ。「どのみち知られることなのだから、早く話したほうが安心する」。美咲の 言葉でもあり、優鶴のアドバイスでもある戒めを聞き流してしまったことに、恒幸は臍を噛んだ。
「知ってるのに黙ってるなんて、いちばんいけないことだと思います」
 美咲が恒幸から少し目を逸らして言う。
 彼女でさえ、言い憚られた軽音部のことを、後ろ髪を引かれながらも、思い切って恒幸に伝えたのだ。やっとの思いで 口に出して言った言葉が人を感動させることになるにせよ、がっかりさせることになるにせよ、それはそこで初めてひとつの 事実になる。遅ければ遅いほど、事実を知ったことで芽生える感情が大きくなるのは当然のことだ。
 自分の過ちで美咲のショックがより大きくなってしまったことを、恒幸は反省した。しかし、それを彼女に詫びるには 遅すぎた。
「…なぁ、美咲ちゃん…」
 美咲は返事をしなかったが、じっと恒幸の顔を見つめていた。
「俺は、どうしたらいい?」
 時宜を逃してしまった以上、美咲に対する償いが必要だと、恒幸は思った。だけど、どういう償いをすれば自分の 過ちが雪げるのかすぐには考えつかず、彼は、よそ聞きには馬鹿げた質問を美咲に投げかけた。彼女自身に、決定権を 譲りたいとも思っていたから。
「先輩……」
 恒幸の意を汲んで、美咲が口を開く。
「もし、ご都合がよろしかったら……あたしに、付き合ってもらえませんか?」
「……えっ?」
 まさかと思って、恒幸はうろたえる。
 土肥も聞き捨てならないと思ったのか、眉間に皺を寄せた。
「美咲ちゃん、それって……」
「……やだなあ、先輩。今あたしとデートかなにかができる、って思ったでしょ?」
 ここに来てから初めての、美咲の笑顔。それは、長雨のあとの、虹が添えられた青空のようだった。
「違いますよ。練習に、付き合ってもらえたらなって」
 両手を腰のうしろで組んで、ちょっと前屈みの姿勢で美咲は言う。
 恒幸の心の中で、彼が発心した早合点が、けらけらと彼を嘲った。
「練習に付き合う……ってことは、美咲ちゃんたちのバンド演奏を聞いて評価したらいいのか?」
 逸る気持ちを抑えて、恒幸は美咲の動静を探りながら話を進めていく。
「いえ」
 またもや、恒幸の投球がキャッチャーミットの中へと消える。
 こうも違いますを連発されてしまうと、彼としても、美咲ひとりに終止喋らせておきたい気がした。
「部活、入ってくださいっ!」
 わしっと恒幸の手を掴んで、美咲は頭を下げた。
「おっおい、柿本。無茶を言うな」
 しばらく口を閉じていた土肥が、打てば響くように反応する。
 恒幸の担任を二年間務めていたのだ。彼にこれといった趣味がなく、また煩わしいことを好まないのを、 土肥はよく知っていた。
「あたしは、無茶を言ってるつもりはありません。先輩となら、うまくやっていけそうな気がするんです」
 恒幸がバンド系の楽器に疎いということを理解していながら、美咲は敢えて、自分の願いを主張する。
 対する恒幸は、どうして彼女がこのように願うのかということを、解せずにいた。
「先生」
 美咲の真剣な顔つきに心を動かされ、恒幸が続ける。
「俺、やってみたいです。美咲ちゃんの気持ちも、無駄にはできないし」
 美咲が一緒に部活動をしようと言う理由は、恒幸にはわからない。けれども、それで美咲が満足してくれるのなら。 自分の犯した罪が晴らせるのなら――彼は、美咲の願いを進んで引き受けたい心積もりだ。
「……」
 顔を手で覆い、土肥がしばし考え込む。
「……やめとけ。ものすごい確率で後悔することになるから」
 かなり、遠い目だった。
「なんでですかっ先生」
「なんでも」
 理由をごまかそうとするなんて、教師らしくない。
 相手が土肥であるだけに、恒幸はおめおめと引き下がれなかった。
「じゃあどうして、美咲ちゃんはこんなに必死なんですか?」
「………」
「先生には、美咲ちゃんがどういうつもりで俺にこう言ってるのか、わかるんですか?」
「……遠方は、どうなんだ?」
 土肥があくまで不承知を貫徹しようとする意志は、彼の細い目にも表れている。
 恒幸には、わかるはずもない。土肥もまた、わかっていないのだろう。
 ただ、このふたりの間には、ひとつの相違点があった。
「俺は、わかりません。でも、もしかしたら……俺が美咲ちゃんと一緒に部活動したら、なにかわかってくることがある かもしれません」
 土肥は教師で、恒幸は美咲と同じ生徒。美咲の意図を、より早く、よく深く理解することができる立場にいるのは 自分のほうだという自信が、恒幸にはあった。
「………」
 再び、土肥は考え込んだ。
 恒幸が土肥を説得している間もずっと、美咲の目は真剣そのものだった。
「……どうなっても、俺は知らんぞ」
 不貞腐れつつも、土肥はしぶしぶ了承したということを、態度で示した。
「やったっ!!」
 恒幸と美咲の手の平がぶつかり、ぱちんと爽快な音を立てる。
 多少強引な展開にはなってしまったけれど、恒幸は嬉しかった。美咲に対して償いができるのと同時に、これからも、 彼女のことを傍にいて見守ってやれるのだから……。
 そうして、彼は美咲とともに、軽音部員として歩んでいくことを誓うのだった――まだ美咲の意図も、彼女の本当の 実力も知らないままで。

 

 数日後。
 父親から無心した昼食代の五百円を携え、恒幸は学食へと足を運んでいた。いつも弁当を拵えてくれる母親が、今朝は 体調不良を訴えて寝込んでしまっていたのだ。
 毎日のように繰り広げられる、購買部のパン争奪戦。よくもまあ、パンの種類なんかにこだわることができるものだなと、 恒幸は、死闘の渦中にある生徒たちを、興ざめた目で眺めた。
 食券の券売機に無造作に五百円玉を突っ込み、カレーライスのボタンを押す。お釣りは出ない。
 味に自信があるものと、そうでないものの価格差が激しいのは、なんとなくわかる気がする。だけど、自分の好物に限って こうも高価だというのは納得できないな、などと彼は心の中で御託を並べた。
 カウンターで実物を受け取る。適当に空いていた席を選んで確保すると、恒幸は、空きっ腹を満たしてやるべく、 食事に取りかかろうとした。そんな彼の隣の席に陣取ろうとする生徒が、突然現れた。
「おっす、遠方クン。今日は学食?」
 振り向かずとも声でわかる。委員長の長束だ。
「……これが弁当に見えるか?」
 素直に首を縦に振ると思ったら大間違い。
 目には目を、歯には歯を、質問には質問を、という具合で恒幸は長束の問いかけに応じる。
「おっとと、眼鏡眼鏡」
 持っていた苺メロンパンを一旦テーブルの上に置き、余裕の仕種でチョッキのポケットを探る長束。
「今日も大勝利か……おめでとうさん」
「それを言うならお疲れ様。残念だけど、私は百戦百勝なの」
 そんなところに置いていたら誰かに盗られてしまうかもしれないと恒幸が危ぶんでいた苺メロンパンを、眼鏡をかけ終えた 長束が再びわしっと掴む。
 苺メロンパンといったら、購買部の花形だ。その麗しいまでの見目形もさることながら、一頭地を抜くテイストが評判に 評判を呼んで、いつしかノーマルメロンパンに取って代わって“購買部の黄金トロフィー”の名をほしいままにしてしまっ た……みたいなことを、誰かが言っていたような。
「ああ、れっきとしたカレーライスだね!」
 長束が、態とらしく感動の声をあげる。
 ……嗚呼、どうして俺はカレーライスに手をつけるのにこんなに時間をかけているのだろう。
 長束が突然現れたのも自然現象だし、自分が惚けた質問をしたのも自然現象……ということはやはり、学食の平和な空気が そうさせるのだろうか。なにか間違っているような気もしたが、恒幸は、とりあえずそういうことにしておいた。
「でも遠方クンさ、私が眼鏡をかけたら、カレーのお皿にスプーンが載ってないのも見えちゃったんだけど」
 …なんだって?
 恒幸は、長束に言われるまま、自分が運んできたカレーライスの皿に目をやった。
 確かに、いちばん大事なものが欠けている。
「俺はインド人なんだ」
「どこからつっこもうかな……」
 インドではご飯がつかないこと。右手は神聖だとして使わないこと。そして日本語が話されないこと。ほかにもまだある かもしれないけど、ただひとつ確かなことは、そう言った長束自身が、つっこむ気を起こしていないということだった。
「鼻の穴から、ってのは勘弁な」
「……やめてよ、ご飯がマズくなっちゃう」
 長束に言われて、恒幸はふと、美咲の“生卵青汁”のことを思い出した。これから美咲たちと付き合っていく上で、 いつの日か実物を賞味するときがやってくるのだろうか……だとすれば、美咲の誘いは有難迷惑だ。
「それはご飯ではなくて、あからさまにパンのような気もしますが」
「どっちも炭水化物であることに変わりないでしょ」
 ぬっ……そう来たか。
 というより、長束のような女子生徒が炭水化物の存在をあっさりと認めてしまったことが、恒幸には意外だった。いくら 自分よりクラスメイトを気にする委員長でも、自分の体型ぐらいは気にするものだと思っていたのに。
「そんなことより、さっさとスプーン取ってきたら? いつまで経っても食べられないよ?」
 尤もなご意見だ。さっきからカレーライスに手をつけられずにいた真の理由がここにあるということを、恒幸は 身を以て再認識した。
「それもそうだな……。ご指摘感謝するぜ、委員長」
「どういたしまして。それじゃ私は、教室に戻るから」
 能事終われりと言いたげないつもの愛想で、長束は椅子を引いて席を立った。
 あれ? イートインではなかったのか。
 恒幸はてっきり、長束が隣の席で手に持っていた苺メロンパンを平らげていくものだと思い込んでいたので、 ちょっと拍子抜けしてしまった。
「――あっ、そういや委員長」
 間一髪のところで、恒幸は長束を呼び止めた。なにしろ、教室で彼女を呼び止めようとしたときには、決まって その場からはすでに姿を消してしまっているほどの俊敏性の持ち主なのだから。
「ん? 何?」
 恒幸の思ったとおり、長束は反応したときにはもう、彼から席五つ分ほど離れていた。普通の生徒ならば、 椅子をテーブルの下に押し戻したその手が、まだ背凭れの部分に載っかっているだろう。
「あぁいや、ひとつ聞きたいことがあるんだけど、今いいかな?」
「うーん……モカブレンド」
 にこやかに笑う長束。彼女の言葉の意味を理解した恒幸は、手の平に顔をうずめた。
 まだ財布の中に小銭はあっただろうか。ポケットから取り出した財布の小銭入れを覗き、ある程度持ち合わせ があることを確認すると、彼は百円玉を二枚ばかり抜き出した。
「これで足りたっけ?」
 なぜかもう目の前にあった長束の手の平に、恒幸はそれを載せる。
「十分。はい、お釣り」
 そう言って、長束が一枚の百円玉を恒幸に返した。モカブレンドまで百円で買えてしまうのかと、彼は意外に思う。 ドリンクの自販機を利用する機会は彼にもよくあるが、ほぼ烏龍茶一徹なので、ほかのドリンクの価格については 知らないのだ。
「私はモカブレンド。遠方クンはスプーン。三十秒後にここで待ち合わせね」
 委員長らしい物言いだと恒幸が苦笑する頃には、長束はもう姿を消していた。
 早いっ! 自分も急いでスプーンを取りに行かなければ。
 長束の素早さを見習って、しかし急いて事を仕損じぬよう、彼は行動に移る。
 三十秒後――かどうかは恒幸には不明だが、ふたりはもとの席へと戻ってきた。
「それじゃご厚意に甘えて、いただきまーす」
 満ち足りた表情で、長束は紙コップに入ったモカブレンドを一口啜る。
 そういえば、長束と昼食の席を共にするのも、女子生徒と一緒に昼食をとるのも、学食で誰かと一緒にお昼を食べる のも、恒幸にとっては初めてのことだった。
 勝流以外の生徒が横にいるだけで昼食の時間がこんなにも変わるものなのかと、馬鹿正直に驚きながら、 恒幸は、しばらく長束の幸せそうな顔に見入っていた。
「ん? 私の顔、なんかついてる?」
「いや……べつになにも」
 黒子がふたつ、と言いかけてやめた。無駄口を増やすほど、昼休みの残り時間は減っていく。
 アツアツからは少し遠ざかってしまったが、やっとのことでカレーライスを口に運ぶ瞬間がやってきたというものだ。 恒幸が一口めを頬張った横で、長束もようやく苺メロンパンの包み紙を裂く。彼女もとりあえず、戦利品を一口頬張った。
「もいひー」
 気兼ねせず、長束は口の中に物を収めたまま言う。
 恒幸の中の、長束を象ったイメージの一部分が、また音を立てて崩れた。
やっふぁうぉれにはひうぅ(やっぱこれに限る〜)
「……」
 なんと言ったらいいのか、恒幸は途方に暮れた。その前に、まだ口が開ける状態ではなかったが。
 以前男子生徒で、食事を一緒にしたくない女子生徒ナンバーワンに長束の名を挙げる者がいたような気もするが、 恒幸はなんとなく、それに同意したい気分だった。
 咀嚼していた一口めを嚥下してから、恒幸は、長束に有りっ丈の不満をぶちまけた。
「遠慮のかけらもございませんね、委員長」
「生憎私の辞書にそういう単語は載ってなくてね」
 そう言って、音こそ立てなかったが、長束は再びモカブレンドを啜る。
「実に不便な辞書だな」
「リブランシャンで売ってても、誰も買わないかもね」
 それ以前に値段がつかないだろう、と恒幸が心の中でつっこみを入れる。
 しばらく、お互い二口目の咀嚼が続いた。
 ややあって、長束が切り出す。
「で……聞きたいことって?」
「ああ。クラブに入部するのって、どうしたらいいか教えてほしいんだけど」
 本来ならば、長束よりも先に勝流に聞けばよかったのだけど、折悪しく、今は勝流との間に遣る瀬ない距離がある。 機材の返却が決まったときの一悶着以来、恒幸は彼と顔を合わせることにさえ嫌気が差していた。
「クラブ? へぇー、遠方クン、部活やるんだ」
 流し目に頬杖で、興味津々といった顔つきになる長束。
「どこに入るの?」
 言われて、恒幸はいささか躊躇する。長束にも、そうそう簡単に話せるようなことではない。軽音部に入ると答えた ところで、入部のきっかけをごまかすのが、楽器経験のない恒幸にとっては至難の業だ。
「それは秘密」
「えー……教えくれたっていいじゃない」
「モカブレンド代に含まれるってことで」
「んー……まぁ、しょうがないか。いつかはわかることだろうし」
 他人行儀らしく、長束は諦めるのが早かった。
 しかし、これまで事実を隠してこっ酷い報いを受けてきたことを考えると、恒幸は少し不安でもあった。
 願わくば、事実が明らかになったときに、委員長が派手に感動してくれますように。
「で、なんかいろいろと手続きがいるらしいんだけど、どうしたらいいんだ?」
 委員長の長束ならそのあたりのこともよく知っているだろうと、恒幸は踏んでいたが、
「さあ。なんか入部届もらってきて、それに親の判かサインみたいなのもらってくるんでしょ?」
 語尾が上がった答えが、彼女の口から返ってきた。
「私も、一年、二年と帰宅部だったし、よくはわからないけど」
 苦笑して、長束は苺メロンパンの残りを頬張る。
 彼女がずっと帰宅部だったということを、恒幸はまたしても意外に思った。彼女がことあるごとに素早い動きで 去っていくのは、何かクラブ絡みの用事があるせいだと思い込んでいたから。
「遠方クンも、去年までは帰宅部だったんでしょ?」
「まぁ……そうだけど」
「どうして今頃、三年になって部活始めようって思ったの?」
 ――うっ。
 結局、長束の誘導尋問のおかげで、遣り過ごせたと思った試練が、恒幸のもとへと戻ってきてしまう。
 いつものアドリブ精神を働かせて、恒幸は彼女の質問に答えた。
「んまぁ、こないだの中間の成績も落ち込んだし……勉強以外のことと並行したほうが、能率も上がるんじゃないかって 思ってな。ほら、アイツ……生徒会長もすげえ頑張ってるじゃん?」
 勝流の名に触れるのは気が進まなかったが、彼ぐらいしか例が思い浮かばなかった。
「あれは、単なる意地っ張りなんじゃないの?」
「……」
 さすが委員長。人の聞いていないところでは、惜しみなく本音を出してくれる。そんな長束の陰日向ある性格を評価して、 恒幸は彼女を、座布団一枚分高い目で見た。
「でもまぁ、気変わりするだけのことがあったってことだよね。私にはそういうきっかけみたいなものがないから、 今からでも部活をやろうとする遠方クンが羨ましいな」
 半ば羨ましそうな、半ば切なそうな目をして長束は言う。
「委員長もなんかやってみたら? 無理矢理にでもきっかけ作ってさ。きっと楽しいぜ?」
「ううん。気持ちはありがたいんだけど、私はとくに好きなこととかないし」
「パン買い必勝部とか」
「……うぐっ!」
 飲み込もうとしていた苺メロンパンを詰まらせる。胸をとんとんと叩いてどうにか詰まらせたぶんを食道へと 送り込むと、モカブレンドを一口啜って、長束は平静を取り戻した。
「遠方クン、それは企業秘密っ」
「残念だな。委員長がそういうクラブ作ってくれたら、俺も掛け持ちで入部して必勝法を伝授してもらおうと 思ったんだけど」
「掛け持ちはあれだよ。二兎を追う者はなんとか、って言うし」
 つまり、ふたつの部活にかける情熱のバランスを失って、どちらからも追放される羽目になり、ひいては勉強にも 身が入らなくなって――大失敗を仕出かすということだ。
 苺メロンパンへの道が閉ざされるのも惜しい。だけど、軽音部で頑張っていくための機会が失われるのは、 もっと惜しい。だから、委員長は帰宅部のままでオーケイ。恒幸は、スキップでもするかのように、軽やかに結論を 出した。
「そうだな。入部届は、職員室に行ったらもらえるのか?」
「たぶん。詳しいことは先生から聞いて」
 長束が飲み干したモカブレンドの紙コップが、無駄金を払ったことの空しさを物語っていた。
 こんなことなら最初から先生に聞いておけばよかった……ような気もするけれど、長束と一緒に昼食をとることが できた経験も捨てがたい。そう思って、恒幸はやれやれと思いつつ、長束の笑顔でその空しさを中和した。
 しばらく経って、長束は苺メロンパンのほうも腹の中に収めて、昼食を終えた。
「美味しかったぁ。ありがと、遠方クン」
「礼には及びませんってことよ」
 長束に感謝されては、もはや文句のつけようもなかった。
「俺のほうからもありがとうな。クラブのこと教えてくれて」
「ふふっ。私の中途半端な知識でも役に立ったんなら、どういたしまして」
 長束の微笑む顔は、ギブアンドテイクが成立したというなによりの証だ。
「あっそうそう、遠方クン」
 もう立ち上がってテーブルの下に椅子をしまい終えていた長束が、去り際に、なにかを思い出したように言った。
「最近、生徒会長と仲悪いみたいだけど、なにかあったの?」
 長束は、一見自分勝手に振る舞っているようで、クラスメイトたちの対人関係なんかをよく観察している。揉め事などを 未然に防ぐための配慮らしいが、それが自分のこととなれば、恒幸は途端に気恥ずかしさを感じた。
「……いや、べつになにも」
「そう? それならいいんだけど」
 親身になって心配してくれている長束には悪いけれど、今はどうしても勝流との間の確執を意識したくない。
 最後になって後腹の病める気持ちを引き摺ったまま、恒幸は、去っていく長束の後ろ姿を見送った。

 

 日を改めての放課後。
 梅雨いちばんの強い風雨が、今しがた一日の課程を終えて体力と精神力のほとんどを使ってしまった生徒たちに、追い 討ちをかける。
 天気予報でもそれらしいことを言っていたので、いちおう、手元に傘はある。しかし、昇降口まで降りてきたところで、 さらば往かんという気にもなれず、恒幸は、暗鬱とした空を無意味に眺めていた。
 恒幸は、雨が嫌いだ。
 まだ彼が小さかった頃、母親に頼まれたお遣いの行きしなに突然大雨に降られ、傘を持たされていなかった彼は、 急いで戻ろうとしたものの道に迷ってしまい、すべてから突き放されたような孤独感に苛まれたことがあった。
 この期に及んでもなお、その忌まわしい体験は、彼の心の奥深くにトラウマとしてわだかまっている。
 昇降口から一人、また一人、なんの躊躇いもなしに雨の中へ進んでいく生徒たちを、恒幸は苦りきった顔で見る。 彼らはみな、仲の良い友人と連れ立ったり、携帯電話と睨めっこしたりして、降り頻る雨を完全に除け者にしていた。
 自分にも、そのような味方がいれば――と思っていた恒幸に、ふと声が届けられた。
「あれっ先輩、そんなとこでぼーっと立ったままで、帰らないんですか?」
 振り向いた恒幸を、後輩コンビこと美咲と優鶴が出迎える。目が合った優鶴が、空かさず会釈をした。
「いや、ひどい雨だなって思ってな……」
 恒幸に続いて、美咲と優鶴も揃って外を見やる。心なしか、彼女たちの表情にも翳りが差したように恒幸には思えた。 この雨を見て嬉しがるものといえば、蛙か、カタツムリか、農作物ぐらいだ。人間にとっては、メリットにもなんにも ならない。過去に雨にまつわる良いエピソードがあるひとは別として。
 ややあって、美咲がもとの明るい顔を引っ提げて恒幸に言った。
「一緒に帰りましょ、先輩。そしたら、きっと雨なんて気になりませんよ!」
 傍らで、優鶴も微笑んだ。
 前に美咲たちと一緒に桜台駅まで下校したときは、胸中に支えるものがあったが、今はない。それに、美咲の言うとおり、 恒幸はこの雨の中へ繰り出すためのきっかけを求めていた。まさに、彼女たちこそ、神様の思し召しによって棚から 落とされた牡丹餅だった。
「そうだな。じゃあそうするか」
「はいっ!」
 美咲の会心の笑顔は、それ自体今の天気とは正反対だ。もし彼女が魔法使いかなにかだったら、その眩しい笑顔に、 雨雲たちもたじたじなのだろう。子供向けの啓発的なアニメが作れそうだと、恒幸は思った。
 美咲たちに付き添われ、ようやく彼は校門を抜けた。
 ふと思う――彼女たちが現れていなかったら、はたして自分は雨が止むまで昇降口に留まっていたのだろうか、と。
 梅雨にはまだ入ったばかりなのだ。毎日のようにあの場所で美咲たちを待って、言葉をかけてもらうのは気が引ける。 だからといって、教室まで彼女たちを呼びに行くにしても、その日その日で都合というものがあるだろう。
 恒幸は、自分の雨嫌いが災いして美咲たちに迷惑をかけることになるのだけは避けたいと思っていた。
「そういえば優鶴ちゃん、体の具合はどう?」
「あっ、はい。二、三日ゆっくり休んだらなんとか治りました」
 業者のトラックが再び現れたあの日から、恒幸は、体調を崩して早退してしまったという優鶴のことを気にかけてい た。けれども、彼女が今目の前で元気そうな顔を見せてくれているので、彼は長い間携えていたその心配を払拭すること ができたのだった。
「あのあと急に熱を出してしまって……早退したのは、賢明な判断だと思っています」
「危機一髪ってところだったな」
「そうですね。美咲ちゃんには、本当に頭が上がらないです」
「えへへっ」
 苦笑する優鶴と、得意げに笑う美咲。いまいち優鶴が早退したときの事の運びが不明瞭だったため、恒幸は、少し掘り下げて 訊ねてみた。
「美咲ちゃんが、優鶴ちゃんに早退を勧めたんだっけ?」
「そうですよ。優鶴ったら頑固者で、なかなか帰る気になってくれなくて」
 例の『お恥ずかしいです』の代わりに、顔をちょっとだけ俯ける優鶴。美咲の言葉と彼女の仕種を比べると、やはり、 美咲が優鶴の保護者役を務めているというイメージが、恒幸にはあった。
「今日うちのクラスでも三人欠席してたし、風邪には気をつけないとな」
「あっいえ、たぶん……」
 優鶴が咄嗟に、恒幸の言葉を否定する。すっと目を逸らして、ゆっくりと再び彼のほうを見向く。
「無理が祟って、疲れていたせいだと思います」
 なんとも、物憂げな顔だ。
 恒幸にとっては、それは意外な理由だった。学生の疲れなんて、いくら溜まっても、週末を迎えれば取り去ることが できるものだろうと考えていたから。体が弱そうな優鶴は特別なのかもしれないが、そう考えてもなお、違和感は 消えない。
 美咲は目を細め、優鶴を気遣うような優しい声で、そっと恒幸に言った。
「優鶴のおうち、お母さんがいないんですよ」
「えっ……そうなのか?」
 恒幸は一驚を喫した。
 これまでに、そういった話を聞いたことは何度かあった。最近では、昨年の暮れに同学年の生徒が、まだ五十代だった らしい父親を胃癌で亡くしたということが朝礼の場で校長先生によって告げられ、全校生徒が黙祷を捧げるということ があった。それでも、付き合いのない生徒のことだからといって、恒幸は、そのことをあまり気に病まなかった。自分の 両親が元気ならそれでいい。彼には、そう思うことしかできなかったから。
「はい。父とは、離婚したんです。私がまだ小さかったときに」
「……」
 離婚という言葉は、恒幸の理解の範疇外にあった。彼の両親はとても仲が良く、彼の目の前でいざこざを起こしたこと すらない。
「そのとき私はまだ分別もなかったのでわからなかったんですけど……兄は、とても悲しんだそうです」
 優鶴の兄――恒幸たちが機材を倉庫へ運び入れる日に、トラックから現れた運送会社のアルバイトスタッフでもある 雄慈は、彼女とは六つ年が離れている。当時、雄慈は小学校に入りたての頃だったと、優鶴は説明する。
 そもそもどういうわけで離婚に至ったのかということについては、兄妹ともに、父親からは聞かされていない のだそうだ。結局、お母さんにはどうしてもやらなければいけないことがあると、御伽話の別れのシーンのように、 父親は雄慈に言い含めたということだった。
「それで、父も兄も汗みずくになって私の学費を稼いでくれてるんで、食事の用意とか、家事とかはできるだけ私が 担当しようって決めてるんです」
 荷の勝つほどの役割を担っているというのに、優鶴の表情は満足そうだ。父親と雄慈のためにも、自分は家事全般を 担当する“義務がある”というのではなく、純粋に彼らの負担を軽くすることで“喜んでもらいたい”という優鶴の 本心を、恒幸は悟った。
 ぽん、と恒幸は優鶴の頭の上に手を載せた。
「偉いっ、優鶴ちゃん!」
 彼女の頭に置いた手を、そう言いながら、恒幸は左右に動かす。
「そっ、そんなことないです……」
 優鶴は紅潮して縮こまってしまった。
「そんなことなくないよ、優鶴っ。先輩の言うとおり、優鶴は立派な兼業主婦だって」
「ありがとう、美咲ちゃん。先輩も、どうもありがとうございます」
 目を半分ほど閉じて、穏やかな顔つきで優鶴はお礼を言った。ふたりから反論を受けてしまっては、これ以上我意を 貫き通そうとするのも無駄なことのように思えて。
「美咲ちゃんさ」
「はいっ」
「優鶴ちゃんの家に手伝いに行ってあげたらどうだ?」
「無理です」
 矢庭に返ってきた美咲の答えに、恒幸はコケた。
「なんでまたそんなにきっぱり……」
「えへへっ。あたしが行ってもたぶん、優鶴の手を煩わせるだけかと」
 美咲も優鶴も苦笑した。
「うちはお母さんに家事を任せっきりだから、あたしはあんまり料理とかできないんですよ。お恥ずかしいながら、 炊飯器とか洗濯機とかもあんまり触ったことがなくて」
 恒幸は昔、こんなゲームをプレイしたような気がした。旅の途中で主人公が結婚することになり、タフだが家庭的な ことが苦手な幼馴染みと、体が弱いが家庭的なことに長けている良家のお嬢様のどちらを花嫁に選ぶかという、苛酷な 選択を強いられるロール・プレイング・ゲームだ。
 そのとき自分がどちらを選んでゲームを続けたのかは覚えていないが、そのふたりの花嫁候補が、後輩たちの姿と 重なって見えてしまい、懐かしくもこそばゆい感じがする。
「優鶴みたいにてきぱき家事がこなせたらいいんですけどねぇ」
 美咲から羨望の混じった視線を頂戴した優鶴は、「私だって同じ、美咲ちゃんのようなスタミナがあればなあと思い ます」とでも言いたそうな目で美咲を見ている。
 お互いに自分には欠けているものを相手が持っているからこそ、美咲たちも持ちつ持たれつの関係なのではと、 恒幸は思う。
「あっ、ところでさ、美咲ちゃん」
「はいっ」
 まだ恒幸に名前を呼ばれただけだというのに、嬉しそうな顔をする美咲。確かに、三つ並んだ傘の下だけが晴れて いるのかも、と恒幸は苦笑する。
「言われた通り、入部届出してきたぜ」
「ぅえっ!?」
 なぜか美咲は派手に驚いた。彼女が言い出したことのはずなのに、どうしてそう大仰に驚くのだろう。恒幸は、いささか 訝るような顔で美咲を覗き込んだ。
「ほっ本当に、入っちゃったんですかっ!?」
「……えっ?」
 今度は、恒幸のほうが呆気に取られた。
「どっどうしようか、優鶴?」
「……えーと……?」
「…………」
 話の流れが掴めずきょとんとした目をする優鶴の傍らで、恒幸と美咲もまた、しばし二の句が継げない。雨の音が、 ここぞとばかりに三人の上に立った。
「ぁえーと先輩……あれはいわゆるジョークってやつで……」
 美咲は作り笑いをして言ったが、あの日の食い下がるような彼女の態度を思い起こすと、恒幸は彼女がジョークのつもり で入部を頼んできたとは思えなかった。
「……まっ、マジかよっ」
「えっへへーっ……まじです」
「……?」
 異様な空気が、三人の間に流れた。
 土肥になんとか許可をもらい、美咲と手を打ち鳴らして――そのあとも、長束に指示を仰いだり、担任教師に妙な顔つき をされたり、親に不審な目で見られたりと幾多のハードルを越えて、恒幸は軽音部への入部にありついたはずだった。
 しかし、ゴール地点で彼を待っていたのは、美咲と優鶴の持つゴールテープではなく……空しい空間だった。
「あのお」
 遠慮気味に、優鶴が口を挟む。
「先輩は、どこの部活に入部されるんでしょうか?」
「いちおう……軽音部に」
「へっ!?」
 恒幸の思ったとおり、優鶴もこの事実に驚いた。美咲の願いがまさかジョークだとは思いも寄らなかったけれど、 それならば、優鶴が知らないでいたのも無理はない。
 無謀な行動に呆れられるかと思いきや、彼は、意外な言葉を優鶴にかけられた。
「先輩と一緒に活動できるなんて、夢みたいです」
 ……あれっ?
 恒幸は疑問に思った。確か、美咲と優鶴には、自分がバンド系の楽器には疎いということを伝えていたはずだ。もしかする と、優鶴はそのことを綺麗さっぱり忘れていたりするのだろうか?
「先輩は、私と美咲ちゃんが一緒じゃ嫌ですか?」
 不安そうな顔で、優鶴は問いかける。
 嫌だなんて、思うはずがない。美咲や優鶴と会話を交わしている時間は、ほかのいかなる時間よりも価値があるように 思えるし、今年度に入ってから、彼女たちの恩恵に与ったところは大きい。
 ただ、部活に入ったところで、後輩たちの演奏をサポートしてやれるだけの能力があるかということが、恒幸は気掛かり だった。
「先輩っ!」
 恒幸の返答を差し置いて、美咲が声を張り上げる。
「それじゃこうしましょ。練習に付き合ってもらうっていうのは、あたしたちのバンドでベースを弾いてもらうってことで」
「ぃえぇっ!?」
 あわや心臓が口から飛び出しそうになるほど恒幸は驚いた。
「それはちょっと……できるかどうか」
「なんですか先輩。部活に入っておいて、それはちょっと意気地なしなんじゃないですか?」
 いや、メンバーになれと言われた覚えはないし、そもそも美咲の切実な態度に応えてやるべく入部を果たしたわけだ し――だけど、美咲がこんな狡猾な罠を仕掛ける人物だとは思えない。恒幸の心の中では、天使と悪魔が口角泡を飛ばす 論争を繰り広げていた。
 美咲と優鶴のふたりから、「どうなんですか、先輩!?」と目で訴えられ、恒幸は今一度しり込みする。
「あぁいや、うーん……まぁ、ちょうどなにか変わったことがやってみたかったし、俺なんかで良ければ付き合うよ」
 はっきりしない恒幸の返答に、美咲の眉が吊り上がる。
「結構です。今すぐ退部願いを出してきてください」
「おいっちょっと待て、なんだよそれっ!?」
 自分よりも大きなスケールで話を進める美咲に、恒幸はなかなか追いつかない。傍若無人な人間というのは、美咲の ような人間のことを言うのだな、と思った。
「やる気はあるんですか、先輩っ!?」
 反比例のグラフを右から駆け上がるように、美咲の声は大きくなっていく。そのヴォリュームだけを取れば、口喧嘩 を売っていると言っても差し支えないだろう。恒幸は改めて、その威勢に圧倒された。
「いくら先輩だからって、そんななまじっかな理由じゃ、あたしが入部をお断りします!」
 美咲は捻くれているわけではない。正面きって、恒幸に真剣勝負を挑んでいた。
 やるからには、心を入れ替えて部活に臨んでほしい。
 美咲の魂がメラメラと音を立てて燃え盛っているのを、恒幸もようやく感じ取った。
「おっしゃわかった、美咲ちゃん。俺スタジオ通って毎日三時間ベース弾くから!」
 実際、家で食器洗いや風呂掃除を手伝わされたりするので、それほど時間的な余裕は無かったような気もするけど、 今は、美咲への決意表明のほうが先決だ。
「いいでしょう、入部を許可します! その代わり……」
 更なる条件を、美咲は提示する。
「勉強も頑張ってくださいね。先輩は、三年なんですから」
 最後には破顔一笑、からかうような調子で彼女はそう締め括った。
 美咲に入部を強要され、メンバーとして積極的に活動していくことも約束させられて、本業の勉強もちゃっかり自分を 拘束していて――こんなにたくさんの荷を担いで、はたして、長束に宣言したような成績の挽回を実現させることは できるのだろうかと、恒幸は考えあぐねた。

 

【2】

「……ぁーい…、…んぱぁーい……」
 朦朧とした意識の中で、流動物のように動く声があった。
「……いきてますかぁー……」
 お願いだ、邪魔しないでくれ。もう少しだけ、俺はこの世界を彷徨っていたい。
「……しんでますねぇー……」
 なにを言うか、自分は死んでなどいないぞ。ほら、この通り、生きている。
 そのことを証明したくて自らおびき寄せた光を受けて、恒幸は重い瞼を持ち上げた。
「……!?」
 目の前にふたつの見慣れた顔が並んでいた。
「おはよーございますっ、先輩!」
 美咲の頗る付きの元気ヴォイスが、教室中に響き渡る。にもかかわらず、恒幸の顔は、ドッキリ企画のリポーターに 夜明け前に無断で起こされたタレントのように、間延びしている。
「えぇと、あぁ、おはようさん」
 それこそ朝母親に起こされたときと寸分違わぬ反応を、恒幸はふたりに後輩にして見せた。どうやら自分は、かなり 深く眠り込んでいたらしい。
 普通なら、授業の最後に長束が号令をかけるときに、近くの生徒か教師に起こされるのが筋だが……机の上に開かれていた 世界史の資料集を見て、彼は納得した。
 世界史担当の田川は、敢えて授業中に舟を漕いでいる生徒を放っておく。そしてテストで悪い点を取った生徒を、 片っ端から“おねむちゃん”と呼んで馬鹿にする。だから、そう呼ばれまいとなんとか起きている生徒は多い。
 そんなシステムがあるというのに平気で寝ていた自分はなんなのだろうかと、恒幸は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「いい夢見れました?」
「いや、たぶんノンレム睡眠だったと思う」
 ノンレム睡眠とは夢を見ないほどぐっすり眠り込むことだと説明されて、美咲はなるほどと首を縦に振った。
「早速ですけど先輩、クラブの活動ですよっ」
 言われて、恒幸は驚いた。大半の部活動は、六時限の授業を終えたあと、つまり放課後に行なわれるはずだ。今はまだ、 三時間目が終わったところ、すなわち昼休み。こんなに早くから活動なんてしてもいいのだろうか。
「えらく早いな……ベースなんて持ってきてないぞ?」
「違いますよ。機材の再搬入です」
 美咲の嬉しそうな顔を見ながら、恒幸は、なるほどなと思った。
 防音工事のために機材が返却され、一度は期待で膨らんだ風船に穴をあけられたような心境だったが、待ちに待った 再搬入のときが来て、美咲は前よりも一層楽しげに胸を躍らせている。
「えっ……てことは、もう防音工事は終わったんだ」
「あたしたちも、さっき土肥先生から聞いたところなんですけどね。早く先輩を誘って裏門まで来いとの言伝です」
 美咲がもたらしたビッグニュースに眠気を吹き飛ばされ、恒幸は席を立った。
「そういうことなら今すぐ行くよ」
「はいっ」
 美咲たちと教室を出て、裏門に向かう途中で恒幸はふと考えた。
 機材の返却が決まったときはまだ、正式に部活動を始めることができるようになる日についての目処は立っていなかった。 だけど、あれから二週間と経たないうちに、再搬入が行われる運びになった。
 もしかすると、あのとき偶然傍を通りかかり、恒幸を悪者にしようとした勝流は、実はすべてを知っていて、可及的 速やかに防音工事を済ませてくれるよう業者に手配していてくれたのかもしれない。
 未だに勝流とは会っても短い挨拶しかしなかったり、昼休みになれば彼はどこかへ行ってしまい、昼食を共にする機会も まったくないという状態であったりするけれども、不思議と、恒幸には勝流が助力をしてくれたものだと信じることができたの だった。

 

 ボール遊びをする男子生徒や鬼ごっこをする女子生徒の間を縫って、三人は裏門に到着した。
「おっ来たな。遠方も一緒か」
 半袖シャツに首にはタオルという、一時間目に見たのとはまったく違うスタイルの土肥が、恒幸たち三人を迎えた。
「当たり前ですよ。俺ももう関係者ですから」
 したり顔で、自信たっぷりに恒幸が言う。
「ああ、そういえばそうだったな」
 あれほど恒幸のことを思って非推薦の立場を取っていた土肥は、もう彼の入部を他人事のように思っていた。
「とりあえず、今回は部室に近い裏門のほうに車を停めてもらってあるから、運ぶのは前よりも楽だろう。ドラムのパーツ とかも今のうちに組み立ててしまうからな」
 説明しながら土肥は、すでに業者のスタッフが降ろしてくれていたダンボール箱を抱え上げて、三人に一つずつ配った。
 さすが教師は一度に何種類ものことができるなあと、恒幸は感心する。
 その直後、彼は恐ろしい記憶を呼び覚ました。
「……あのー先生、今回も昼休みフル消費っすか?」
 土肥は薄気味悪くニヤリと笑って、恒幸に返した。
「参考までに遠方、俺は朝食にご飯大盛り一膳とハムエッグといわしの塩焼きとカップラーメンと残り物の ハンバーグを食ってきた」
「あたしもフレンチトースト三枚とドーナツとからあげ三つと白身のフライとサラダと牛乳とスクランブルエッグとバナナと 魚肉ソーセージ二本食べてきました!」
「私も、いつもよりちょっとだけ多めに…」
 指折り朝食のメニューをリストアップする土肥と美咲に、恒幸は失意のあまり体前屈したい気持ちに駆られた。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。先生はわかるけど、なんで美咲ちゃんと優鶴ちゃんまで!?」
 確かに、美咲は機材を再搬入するという事実をさっき聞かされたばかりだと言っていた。土肥は昨日授業が終わってから 業者からの連絡を受けていたと考えれば納得できるけど、美咲たちは嘘でもついていない限り不条理だ。
「あたしは今朝の占いで、たくさん食べるといいことがあるかもって聞いたんで」
「私は、兄にもっと食べろって勧められたので…」
 このときばかりは恒幸も、テレビをつけずコンポでCDやカセットを鳴らすことが多い父親や、息子の少食を認めて 疑おうとしない母親を恨んだ。
「はっはは、お前らも強運に恵まれてるな!」
「お前らも、って先生、どういうことっすか!?」
「いやな、実は昨日の夜帰ってから胃が痛み出してな。なにも食う気がしなくて、胃薬だけ飲んで寝たんだけど、 今朝は逆にものすごい食欲でな。おかげさまで馬力が出てるというわけだ」
 恒幸は見慣れた風景の中に、どういうわけか、自分が隠れるための穴を探した。すると、これから自分たちが入っていく 地下倉庫に通じる扉に目が留まった。
「先生、穴見つけたんで入ってていいですかね?」
「はぁ?」
 突飛な恒幸の言葉を、土肥が訝る。
「ほら、俺今穴があったら入りたい気分なんで、部室で見学してていいですかね?」
「当然、却下する」
 見ると、土肥だけでなく美咲も、恒幸の怠慢を許すまじといった顔つきをしている。優鶴はというと、さっきまで 遠慮気味に朝食の自慢をしていたとおり、空きっ腹の恒幸を働かせるのはまずいだろうと言いたげに心配そうな面持ちだ。
「さぁさ、運べ運べ。今度は大手を振って部活を始められるんだからな!」
「はいっ!」
「はい」
「ほぇ〜い……」
 向こう鉢巻きで機材の搬入に取りかかった美咲と土肥に遅れを取って、優鶴と恒幸も出発する。
「頑張ってください、先輩」
 優鶴に励ましの言葉をかけられ。恒幸は思った。そういえば、前に機材を搬入するのを手伝おうとしていたときに、 遠慮する土肥と美咲に異を立てたのも優鶴だったっけ。
 彼女の月並みな言葉のうちに自分への後押しの気持ちが含まれていることを、恒幸は悟った。
「仕方ない。ここは一つ、俺のど根性ってものを見せてやるか」
 倦んでいた恒幸の顔が血色を取り戻したのを見て、優鶴は、ほっとしたように微笑んだ。

 

 一通り機材を搬入し終え、恒幸には縁のないドラムセットのパーツを体力派の土肥・美咲ペアに組み立ててもらうと、 この元地下倉庫を、いちおう部室として使うための準備が完了した。
 防音設備も備え付けられ、スタジオらしさを増した部室は、学校の中の一施設というにはどこか分不相応なほどだ。
 見違えるほどの変身を遂げた部室の全貌を、土肥はしばし腕組みをして無言のまま見回した。
「ほんとに、学校という感じがしないな」
「そうっすね」
 堂々たる風格を誇示するドラムセットを始め、ギター用アンプにベース用アンプ、シンセサイザーにマイクスタンド。 各種エフェクターに、こんなもの使うのだろうか、キーホード用ミキサー。その他素人の知識では使用目的がわからない ものが多々並んでいる。
 しかし、なかんずく恒幸を感動させたものは、これだけの機材を置いてもなお余裕がある、この空間の広さだった。
「やっぱほかのクラブで活動してるやつには悪い気がするなあ…」
 勝流の所属するサッカー部もグラウンドの半分を占めるので広くはあるが、向こうは二十二人、こちらは土肥を 含めても四人だ。人口密度というものが違いすぎる。
「なにを言ってる。使わせてくれるっていうんだから、思う存分使ったらいいじゃないか」
 与えられたチャンスは無駄なく使え。これが、土肥の信条だ。それゆえ彼は、授業中にも居眠りしている生徒を 見かけるとすぐさま駆けつけ、教科書の角で頭をぶつという心遣いをする。実際、恒幸もよく彼の親切に与っている。
「せんせー」
 反響効果で音の聞こえがいいというのに、美咲の声は所構わず力強い。
「なんだ、柿本」
「今から優鶴のギター持ってきて弾いてもいいですかぁ?」
「アホか。昼休みは残り五分しかないんだ、また放課後にしろ」
「えぇーっ」
 ブーイングを土肥目掛けて飛ばすと、美咲はぷくっと頬を膨らませた。
「放課後まで待てませーん」
「じゃあここに居るか? 担任に、お前の評点下げておくように言っといてやるが」
「教室戻りまーす」
 ずてっ、と恒幸は別の次元でコケた。
 きっと美咲も、担任をがっかりさせるような成績を、先月の中間テストで叩き出したのだろう。
「まぁそれはさておき。放課後にはどのみちお前らにまたここに集まってもらう。部活動の内容とかを説明するからな」
 言われて、恒幸は気付いた。
「もしかして、先生が顧問っすか!?」
「……遠方、お前今まで俺をなんだと思ってた?」
 側頭部に手を当てて、頭痛のジェスチャーをする土肥。
「さぁ……英語教師?」
「……もうなんとでも言え」
 ここが軽音部の部室であることも忘れて、恒幸と土肥は漫才コンビ、美咲と優鶴がそのオーディエンスになったような 構図が、四時間目の予鈴が鳴るまで続いた。

 

 放課後――
 掃除をぞんざいに済ませ、恒幸は急いで部室へと向かう。
 外の扉はすでに開いていた。掃除をしていたぶんだけ出遅れてしまったかと思い、階段を一段飛ばしで駆け下りる。 スタジオルームの扉を引き開けて中に入ると、美咲と優鶴の姿は確認できた。土肥はまだ来ていないらしい。
「おっす、ふたりとも」
「あっ、先輩。今日も授業お疲れ様ですー」
 パイプ椅子を並べて座っていた美咲が恒幸を労い、続けて優鶴が会釈をする。
 優鶴の膝の上には、恒幸が幾度が目にした彼女のギターが載せられている。それを入れて運ぶためのバッグを、 美咲が持っていた。ギターのペグに手をつけているところからすると、彼女たちもついさっきここに来たばかりのようだ。
 手近にあったパイプ椅子を取り、美咲たちの近くで拡げると、恒幸も腰を下ろした。
「慣れた手付きだな、優鶴ちゃん」
 ペグを調節する手を一旦止め、優鶴は首を擡げて恒幸の顔を見た。
「えへ、もう三年近く触ってますから」
 にっこりと笑ってそう言うと、優鶴はまたペグを弄り始めた。弦を弾いて音を出しては、その音程を頼りにペグを 回していく。チューニングというのは音叉を使ってするものだと聞いたことがあったが、どうやら、優鶴は絶対音感を 手がかりにしているらしい。
 チューニングを終えると、彼女は簡単なコードストロークを始めた。さきほど一本ずつ弦を弾いていたときとは違い、 まとまりのある心地良い和音が奏でられる。隣にいる美咲の表情が、だんだんと柔らかくなっていく。優鶴の生み出す 和音にメロメロというか、首っ丈というか、そんな感じだ。
「そういや美咲ちゃん」
「はいっ」
 いつもどおりの元気な返事。これがあるから、話を進めやすい。
「俺にベースを弾くように言ったけど、美咲ちゃんってボーカル? それともキーホード?」
「えへへっ。あたしはもちろん、あれですよ!」
 部室でいちばんの存在感を漂わせるドラムセットを指差して、美咲は言った。体力派だからもしや、とは思っていた ものの、本当にそうなんだとわかると、恒幸は改めて驚いた。
「すげえなあ。美咲ちゃんは何年ぐらいドラムやってるの?」
「あたしは、うーん……二年ちょっとぐらいかな?」
 人差し指を下唇に当て、上目遣いで記憶を辿る美咲。しかし明確な答えを割り出せず、彼女は恒幸のほうへ視線を 戻して苦笑いをする。
「ごめんなさい、先輩。詳しく思い出せないです」
「いや、無理に思い出す必要ないって」
「というより、あまり思い出したくないんで」
「……?」
 恒幸は疑問符を浮かべた。思い出したくないとは、一体どういうことなのだろうか。ドラムを始めたきっかけが不純だ ったのだろうか。それとも、誰かに押し進められて、やむなく始めたのだろうか。いずれにせよ、そのあたりの話をする ことは美咲に無理を強いることになると考えて、恒幸はこの話題を打ち止めにした。
 ちょうどそのとき、スタジオルームの扉を通過する人影が見えた。
「悪い悪い。職員会議が長引いて遅れてしまった」
 片方の手の平をこちらに向けて、笑いながら土肥が歩み寄ってくる。
「お、全員揃ってるな。遠方に柿本に秦野、全員出席、っと」
 土肥は腕に挟んでいた出席簿を手にとって開き、差し込まれていたボールペンを引き抜いてキャップを外すと、 なにやら記入し始めた。どうやら、部活で出欠を取るための役割も兼ねているらしい。
 記入を終えると、土肥もパイプ椅子を拡げて、三人の近くに陣取った。
「あー、とりあえず昼はお疲れ様だったな」
 機材を搬入したあとで言いそびれていた言葉を、土肥は遅ればせながら、再び部員たちが集まったこの場所で口に出した。
「あのあと四時間目の授業中にお腹がぐうぐううるさくて、恥ずかしい思いをしましたよ」
 運を味方につけて朝食を食い溜めしていた土肥を半ば恨みながら、恒幸はあけすけに不満を漏らした。美咲と優鶴が、 その言葉を聞いてふふふと笑う。
「ほう。で、その責任を俺に取ってもらおうとしてるわけか」
「ああいや、なんでもないです。はい」
 土肥の不敵な笑みに、恒幸が鼻白む。教師を敵に回すと、後が怖い。
「まあいい。それより遠方」
「はい」
「前にも言ったが、退部を考えるなら今のうちだぞ」
「……えっ!?」
 二度目に同じ言葉を聞かされて、恒幸は驚いた。
 あのとき恒幸の入部を、土肥は戯言のつもりで認めたというのか。確かに彼は、しぶしぶ了承したという印象ではあ った。だからといって、この場に及んで一度決まった入部に物言いをつけるなんて……と、恒幸は小鼻を膨らませる。
「お前、軽音部がどういう活動をするクラブかって知って、ここに入ったか?」
「そりゃもちろん、バンドで演奏するクラブじゃないっすか」
 優鶴の膝の上にはギターがある。ふたりのうしろには、美咲が使うドラムセットがある。ありのままの部室の景観を 見て、ありのままの見解を恒幸は述べた。しかし、そのありのままの見解の中には、一つだけ、彼が見落としている 部分があった。
「お前になにか演奏できる楽器はあるのか?」
「それは……」
 聞かれて、恒幸は言葉を濁す。そう、自分自身のことを、彼は差し引いて考えていた。
 なにか、演奏できる楽器――胸を張って、ベースを弾きますだなんて言えるはずがない。言ったところで、土肥に ベースを弾いた経験などを根掘り葉掘り問われて、返答に困ってしまうことになるのはわかっていたから。
「まさか、歌いますなんて言い出すんじゃないだろうな?」
「……いや」
 ここでも恒幸は音痴だから無理です、と言い渋った。言えば、音痴の証明を求められるのが落ちだ。
「お前は確か、ここに入ればなにかがわかるかもしれないと言ったな」
「はい」
「たとえそうだとしても、実質なにか楽器ができなければ活動する意味がない。そうだろ?」
 土肥の真剣な表情は、美咲たちの軽い気持ちからの誘い入れとは勝手が違った。参加することに意義があると 美咲たちが考える一方で、土肥は、あくまでもまっとうな活動を軽音部に望んでいる。
 こんなことなら、父の知り合いが貸してくれた(もののインテリアの役目をするだけで終わってしまった)ギターを 触っておくべきだった、幼稚園に入る頃に習っていたピアノを続けておけばよかったと、恒幸は噬臍の後悔をした。
「先生っ」
 言われ放題になっていた恒幸に見兼ねて、美咲が声を上げる。
「どうした、柿本」
「遠方先輩には、あたしからベースを弾いてもらうように頼みました」
 美咲に言われ、土肥は彼女のほうに向けていた目線を、再び恒幸のほうに移す。少し間を置いて、土肥は目を閉じ、 溜息をついた。
「お前もお前だ、柿本」
「あいてっ」
 持っていた出席簿を軽く美咲の頭に載せる土肥。叩かれたわけでもないのに、美咲は身を縮ませて痛がった。
「ドラムのお前が、遠方にベースの手解きをしてやれるのか?」
「うーん……ちょっとできないかもです」
 耳のうしろに手をやって、緩み切った笑顔で美咲が言う。直後、土肥は手の平に顔をうずめるお決まりのポーズを 取った。
 広い部室を、無音が支配した。空気も読まず自分の耳のすぐ横を通過した蚊の飛行音に、恒幸は反射的に手の平で、 その音を捕らえたほうの耳を打つ。成果物が手に残らず、彼は一層気持ちをやきもきさせた。
「私は――」
 小さく、遠慮気味の声で、優鶴が静寂の間を切り開いた。
「せっかく頑張ろうとしているひとの気持ちを無駄にしてしまうのって、やっぱり良くないことだと思います」
「優鶴ちゃん……」
 否定と肯定が入り混じったような顔を、土肥は作った。
「じゃあ秦野、お前は遠方の意志を汲み取って、ベースの手ほどきをしてやれるか?」
「……まだやってもいないのに、できないなんて言えません」
 頑なに恒幸にべースの弾き方を教える義務を主張する土肥に対して、優鶴は自分なりの反論をぶつけた。
「それに、私や美咲ちゃんが先輩にベースを教えたからといって、必ずしも上達するとは限りません」
 自説に楯突かれ、土肥が眉を顰める。
「最後に目標に辿り着くのを決めるのは美咲ちゃんでもなくて、私でもない――遠方先輩自身なんです」
 優鶴は眦を決して言った。美咲も彼女に続いて、泳がせていた視線を土肥に向ける。
 土肥はすぐには反論せずに、唸りながら考え込んだ。彼を除いた三人にとっては長すぎるほどのシンキング・タイムを 経て、ひとつの提案が彼の口から出された。
「よし、秦野。ギターをアンプに繋いでくれ」
「えっ? あ、はいっ」
 言われて椅子から立ち上がると、優鶴は、床に置かれていたシールドの片方の端子をギターアンプのインプットジャックに 差し込み、再び席についてからもう片方の端子をギターのアウトプットジャックに差し込んだ。
 スイッチを入れると、パサパサと、軽いノイズがギターアンプのスピーカーから立った。
「柿本も、持ち場に移動な」
「あはいっ」
 席を立って、ぱたぱたとドラムセットのほうへ駆けていく美咲。最早土肥に聞き質すまでもなく、彼女たちがこれから 実際に演奏を始めるのだということが、恒幸にも理解できた。
「遠方」
「はい」
「今からふたりの演奏をお前に聴いてもらう。そのあと、もう一度お前自身の判断を訊く。いいな?」
「……はいっ」
 美咲と優鶴の演奏で士気を挫こうとする土肥の企みも、なんとなく想像がついた。でも、このハードルを乗り越えられた なら、きっと土肥はすべてを認めてくれるだろう。恒幸は、一切のしがらみを棄てて、後輩たちが演奏の準備を整えている のに倣って、心の準備を整えた。
「秦野、チューニングは大丈夫か?」
「はい、さっき先生が来られる前に合わせました」
「柿本はどうだ?」
「あはいっ、ちょっと待ってくださいっ」
 美咲は二本のスティックを左手に握ったまま、右手でタムのポジショニングやシンバル類の角度などを調整していく。 そのまごつき様は、態と時間を稼いでいるようにも恒幸の目には映った。
「準備オッケーですっ」
 腹を括って、美咲が青信号を点灯させる。
「お前らがいつもやってるように、やりやすいほうのカウントでな」
 土肥の言葉を受け、美咲と優鶴がお互いの目を見合わせて、首を縦に一度振る。
 美咲が両腕を高く上げ、スティックを打ち鳴らすこと一、二、三度。バスとスネアのフィルに優鶴のピックスクラッチが 重なり、次のシンバルの一打で、部室全体を耳を聾する重低音が一気に満たした。
 凄まじい音が恒幸の鼓膜に貼り付く。その音にだんだん慣れてくると、今度はふたりの息が合っていることを意識し 始めた。一音一フレーズも外さず、完璧なまでに歩調を揃えている。CDで聴くような演奏と比べても、なんら遜色がない。
 イントロが終わり、優鶴のボーカルが入った。
 内気で引っ込み思案な普段の彼女のイメージとはかけ離れた、力強い歌声。まるで別人が歌っているようだ。
 サビで美咲のコーラスが加わり、ツーピースとは思えない迫力と一体感が生まれる。隣で立ち上がった土肥が、腕を 組んだまま、体全体を使ってリズムを取る。
 サビを抜けてワンコーラスが終わり、優鶴がソロを弾き始める。滑らかな運指。スピード感のある音の移動。ふと恒幸は デジャヴを覚える。こんな映像を、どこかで見た気がした。確か、自分が買った好きなハードロックバンドのCDに、セットで 付いていたDVDを再生したときに現れた、ギタリストの弾き方――あんな感じだ。
 ハンドビブラートやピッキングハーモニクス、スウィープなどといった奏法を、次々と正確に優鶴は繰り出していく。 小さな体の動きと、ダイナミックな音の動きがコントラストを醸し出す。
 一瞬のブレイク。美咲のソロを兼ねたフィルが入る。また優鶴のギターがぎゅいーんと唸り、最後のサビへと突入する。
 アウトロを抜け、テンポが徐々に下がり、ラストのキメでふたりの演奏は終了した。
 あっという間の、三分間だった。
「いやー、あっぱれあっぱれ」
 なにか場違いな言葉とともに、土肥がふたりに向けてアプローズを送る。
 恒幸も無意識のうちに手を叩いた。
「あいやぁ、それほどでもないですよー」
 ふたり揃ってお辞儀をしたあと、美咲が謙って言った。
「いきなりの演奏だったし、まだ本気も出せてないもんね、優鶴」
「うん。私もちょっと甘かったと思う」
 お互い目を合わせて、自分たちの演奏を過小評価する美咲と優鶴。
 さっきからいまいち動きに乏しい空間に土肥は目をやり、声をかけた。
「おい、遠方」
「……」
「生きてるか?」
 恒幸の顔の真ん前で、土肥が手を上下に振ってみせる。
 当の恒幸は、後輩たちのハイレベルな演奏を受けて、完全にあっけらかんとしていた。
「……まあ、なんとか」
 抑揚のない、直線的な声で恒幸は返事をした。
 土肥がまた、手の平に顔をうずめる。
「このぶんだと、いい返事は望めそうにないな」
「先生!」
 美咲が声を上げる。しかし土肥になんだと聞き返されたところで彼女は言葉に詰まり、伏し目がちに「あっ いや、その……」と声量をフェードアウトさせた。
 優鶴も演奏中に全幅の自分自身を曝け出したときから一転、恒幸に対する罪悪感から気まずそうな顔をする。
「お前らもわかっただろう。こんな状態の遠方に、軽音部員が務まるとは考えにくい」
「そんなっ、先輩があたしたちの演奏を聴いたのは初めてなんですよ!」
 居た堪れず、美咲が反論する。
「ぜったいに不可抗力ですっ」
 拳を握り締めて弁を立てる美咲を、優鶴は心配そうに見守る。
「回数を重ねたら必ず慣れてくるという証拠はあるのか?」
「このままとも限らないじゃないですか!」
 意見を出し合っているつもりが、美咲の咽喉のアンプを通すと、さながら口喧嘩のようだ。あくまで恒幸に冷淡な態度を 取る土肥と、恒幸を弁護する美咲。対峙するふたりの間に、か細い声が割り込んだ。
「あの……先生」
「どうした、秦野?」
「いえ……その、どうして先生は、そこまでむきになって遠方先輩を追い出そうとされるんですか?」
 そうですよ、と美咲は言いかけてやめた。自分が張り合っても、土肥の難色は変わらない。優鶴なら――これまで幾度も 事態を上手く処理してきた彼女なら、土肥の心を動かせるかも――。美咲は優鶴に自分の立場を譲って、彼女にすべてを 託した。
「決まってるだろう」
 体重をかける脚を変えて、土肥が微妙に体勢を調える。
「俺はこいつの担任を二年やってる。遠方が面倒臭がりなのも、飽き性なのも、よくわかってる。軽音部の荷物は、 こいつにとっては重過ぎるんじゃないかと、俺は思ってる」
 美咲も優鶴も、真剣な眼差しで土肥の言い分に傾聴する。
「もしもこの重荷に遠方が潰されたときは……」
 近くに居るほうから優鶴、美咲の順で土肥が目を向ける。
「お前らの責任になるんだぞ」
 厳しい顔と声で、土肥はふたりに言った。すぐには反論することができず、ふたりは黙り込んだ。
 確かに自分たちは我がままだ。恒幸が楽器の演奏に疎いことを知っていて、彼と一緒に活動したくて頬被りを決め込んで いる。
 だけど、恒幸は意を決して、自分たちと活動を共にすることを一度は選んだのだ。今更彼を手放すわけにはいかない。 美咲は、土肥に我意を曲げさせるまでは屈すまいと、目で優鶴に伝えた。
 そのとき、ふたりの虚を衝いて恒幸が口を開いた。
「美咲ちゃんたちの言うとおりだと思います」
 恒幸を除いた三人の視線が、彼に集められる。
「今はかなりビビってましたけど、たぶん、三回も聴けば慣れると思います」
 恒幸が自分たちの肩を担いでくれていると感じて、美咲と優鶴は嬉しそうな顔をした。
「俺、そういうやつですから」
「ほぉ……。俺は逆に、遠方は三度目には投げ出すやつだと思ってたが」
 意想外だという顔つきで、土肥は恒幸を見た。
「好きなことはまた、別っすよ」
 自信を湛えた笑顔で、恒幸は土肥にとどめを刺した。
「……まあ、その点についてはまた後日にでも、お前の好きなバンドについて職員室で小一時間語ってもらおうか」
 顔を綻ばせて、土肥はしばらく振りの白い歯を見せた。
「ぅ、ぅえっ!?」
 びっくりする恒幸。あははと大袈裟に笑う美咲。くすっと微笑む優鶴。
 縺れたムードの糸が、するりと解かれた。
「いちいち真に受けるな。冗談に決まってるだろ。それとも、スピーチは朝礼の壇上をご所望か?」
「あぁいや、職員室でいいです、はい」
「原稿用紙四百枚分にまとめるって選択肢もありますね!」
 目に涙するほど笑っていた美咲が、土肥の冗談に乗った。
「それで期限は一週間とかな!」
 ここよりも更に深い穴はないだろうかと、恒幸はいたずらに部室を見回した。すると、今まで気が付かなかった場所に、 ひっそりと扉がしつらえてあるのを、彼は発見した。
「先生、あの扉の奥ってなんなんですか?」
「ん? あれか? あれは倉庫の名残だ」
「もしかして地下二階とかになってません?」
「はぁ? べつにここと同じフロアだと思うけど……」
 残念無念、恒幸の企ては無に帰した。
 しかし、彼の突拍子もない言葉に首を捻っている美咲と土肥の傍らで、優鶴の顔だけはにこっと笑っている。この中では 自分は優鶴といちばん考え方が似ているのかな、と恒幸は思った。
「まぁ戯言はさておき……遠方がそういうつもりなら、今から俺が言うことも大丈夫そうだな」
 すっかり機嫌を良くしたのか、土肥は鼻の下を人差し指で弄りながら言った。
「こういう部活が発足した以上、お前たちもわかってるとは思うが、今年の文化祭からライブをやる計画が持ち上がってる。 俺が軽音部の顧問としてお前らに願うことは一つ、そのライブを成功に導いてくれることだ」
 綻んでいた美咲と優鶴、それに恒幸の顔が引き締められた。
「九月の文化祭まで、時間的な余裕も少ない。テストの前の週からは部活動の制限もあるから、尚更だろう。それでも、 俺はお前たちの素質を見越して、期待をかけてる。……まあ、遠方は別として」
「なんすかそれっ!?」
 土肥に真顔で言われて、恒幸は、ふざけた顔で言われるのとはまたちょっと違った傷つき方をした。
「まあそうカッカするな。消防車が来るぞ」
「……」
 腕を小刻みに振りながらわざわざショックを煽る土肥の気が恒幸は知れない。
 率直なところ――実に無駄の多い教師だなと、彼は思う。
「……で、急な機材の返却とかもあって開始時期が大幅に遅れてしまったから、期末テストまでの活動は、今週の土曜日 までということになる」
「土曜日?」
 恒幸が怪訝な顔で訊き返す。
「土曜日はまあ、さすがに六時までとはいかないけど、三時までなら部室が使える」
「っていうか先生、土曜日っていったら普通ゴロ寝デーじゃないっすか?」
「遠方、最後の質問だ。お前は軽音部に居たいのか、それとも家に居たいのか、どっちなんだ?」
 言われて、恒幸は、自分もけっこう無駄の多い人間だなあと思った。
「そりゃもう、前者で」
 本音と建前が交錯したような気がしたが、恒幸は敢えて笑ってごまかす。
「……まあそれはそうとして。ウオホンッ」
 仕切り直しに、土肥は一つ咳払いをした。
「部活の時間は平日は六時、土曜は三時まで。テストの一週間前からは、テストが終わるまでの間活動禁止。ここまで 質問はないか?」
「はいっ」
 三人の返事が符節を合した。
「あとは……遠方のベースだな。まずお前は持ってないよな」
「ええ」
「じゃあ俺のを貸してやる」
「ありがとうございます…………って、えぇっ!?」
 あわや土肥の提案を完全に飲み込んでしまいそうなところで、恒幸はそれを呼び戻した。
「不満か?」
「いや、そうじゃなくて……先生がベースを持ってるということは、もともとは先生が美咲ちゃんたちをサポートする 予定だったんじゃあ……?」
「いかにも、その通りだが」
「うっわあー……」
 そう――なんとか部員の一人として実際にベースを弾いて、バンドに参加することは決まったのだけど――土肥に取って 代わってまでベースを弾くことになるなんて、彼は思ってもみなかった。
「ちなみに遠方、俺はマルチプレイヤーだから、ベースを取られたとしてもキーボードが弾ける。まあ、大船に乗った つもりでいろ」
「そんな! 俺の立場はっ!?」
 今の科白を、恒幸は天に手を翳したポーズで叫んでみたかった。土肥まで自分を術策に陥れているような気がして、そ れならばと神様を頼ってみたかったのだ。
 それでもやはり……自分で決めたことだからと、結局任務の重さを再認識する自分が居たりして。
「柿本、秦野。お前らのほうからなにか訊いておきたいことはないか?」
「いえ。今は特にないです」
 美咲が莞爾として言った。優鶴もそれに続いてこくりと頷く。
「よし、それじゃ今日は終わりだ。どのみちベースがないとなにもできないからな」
 そう言って活動内容を伝える役目を終えると、土肥は優鶴にギターのシールドを外してアンプのスイッチを切るように 指示した。
「あ、そうそう。それと最後に遠方」
「はい」
「柿本と秦野は女の子で、お前は男の子なんだから、くれぐれも俺の見てないところで変なことはするんじゃないぞ」
「しませんって!」
 恒幸はツーに対してカーを吐くように、誓約を兼ねた反論をした。
 大仰に笑う美咲の横で、ギターをバッグに直しながら含羞む優鶴。
 こうして軽音部最初のミーティングは、恒幸が一方的に責められる形で幕を閉じた。

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