第4章 La première Aventure - 恋の冒険 第一幕
Il comprend le cœur d'une cadette par un rendez-vous.

 

Si vous, par exemple, qui avez vu un pont d'arc-en-ciel flattant le regard après la pluie,
例えば雨が止んだあとの空に渡された目も絢な虹の橋を見たあなたが
arrogez le droit d'admirer la beauté,
その美しさを称える権利を独り占めしたならば
vous en serez accusé plus tard
あとになってそれを知らなかったひとから
par ceux qui l'ignoraient.
責め詰られることでしょう
Par surcroît vos amis ne vous parleront pas d'arcs-en-ciel qu'ils voient,
それだけでなく友人は以後あなたに自分たちが見た虹のことを話さず
leur conversation sur les arcs-en-ciel QUE VOUS NE SAVEZ PAS s'animera SANS VOUS.
あなた以外の仲間と、あなたが知らない虹の話に話を咲かせるでしょう
Si vous les aviez fait connaître le vôtre,
もしも初めにあなたの友人に虹のことを知らせていたならば
vous n'auriez dû perdre que 《le droit d'admirer l'arc-en-ciel tout seul》.
あなたが失うものは“独り虹を愛でる権利”だけだったに違いありません
Jeter le plaisir à vous seul,
自分だけの満足を捨てるか
ou tout sauf vous.
自分以外のすべてを捨てるか
Ça dépend de comme votre cœur est clair――
それは、あなたの心のほんのわずかな明るさの差で決まるもの――

 

【1】

 ――今回もまた、派手に駄目かもしれない。
 うしろの席から回ってきた答案の束の上に自分の答案を載せて無気力に前の席に渡すと、恒幸は机に突っ伏した。
 軽音部への入部を果たし、ベースの基本的な弾き方を覚えるのに奮闘するあまり、以前よりも心に余裕がなくなって しまったが、それでも美咲に駄目押しされたとおり、勉強にも精を出した。
 なのに、なんだろう……この手ごたえのなさは。
 期末テストを締め括る数学のテストから解放されのびのびと羽根を広げる生徒の中で、恒幸は後味の悪い感覚を 引き摺っていた。
「豪華客船沈没、って顔してるね」
 目の前にスカートの襞が迫った。どうやら、また机に尻を載せられているらしい。
 これはあれだな。打ち沈んだ俺に対して、女子生徒が心を慰めようとしてくれているんだな。
 そう思って恒幸が伸ばした手が、
 ――ぺちんっ!
 あっさりと叩き落される。
「セクハラ禁止」
 恒幸が目を上げると、そこには、彼を俯瞰する長束の不愉快な顔があった。
 そっちがセクハラじゃないのか、と恒幸は心の中で抗議する。
「豪華客船は俺には似合わない。せめてゴムボートかなんかにしてくれ」
「じゃあカラスに穴空けられて沈められたっていうシチュエーションだね」
 長束はこういう、暇潰しになるような話ならなんでもいいらしい。話の内容が無意味であればあるほど時間を潰すには もってこいということになるから、彼女は基本的にうちに寄生するのだろう――ある種おめでたいひとだな、と恒幸は 思った。
「どうでもいいけどさ、委員長は今の数学どうだったよ?」
 どうせ長束の口からはトンデモナイ自信が吐き出されるのだ。それを聞いて開き直るほうがすっきりするのではと、恒幸は 考えた。
 ところが、長束は一旦向こうを向いて、うーんと唸り声を上げ、また振り向きざまに、
「ムズかったよね。私も自信ない」
 と苦笑しながら言った。
「ふーん……。意外だな、委員長がそんなことを仰るとは」
「ってか最後の問い問題集になかったもん、解ける訳ないじゃん」
 なぜか恒幸を直視して、まるで彼のせいであるかのように八つ当たりをする長束。
 それも確かに濡れ衣ではあるが、彼女が言うほど応用力を持っていないということに、恒幸は妙な安心感を覚えた。
「遠方クンさぁ」
 不意に長束に名前を呼ばれて、恒幸は机に伏せたままの姿勢で、再び彼女に意識のベクトルを向けた。
「クラブ入ったら勉強にも身が入りそうだって言ってたよね」
「ああ。おそらく」
「実際、役に立ってなさそうじゃない?」
「……う」
 鋭利な長束の指摘が、恒幸の肺腑を貫いた。確かな自信もなしに、口から出任せで大層なことを言ってしまったことを、 彼は後悔した。
 長束は軽く息を吸って鼻で溜め息をつくと、少し冷ややかな顔で言った。
「そんなクラブだったらいっそ辞めてしまうか――」
 目線が、どこともつかぬ高い位置を泳ぐ。
「――とことん頑張っちゃいなよ」
 恒幸が再び長束の視線を受けたときにはもう、彼女は柔らかな笑顔を作っていた。
「今の遠方クンはたぶん、クラブも中途半端にしか頑張れてないから、勉強も中途半端で、結局全部が中途半端に なってしまってる状態なんだと思う。そうでしょ?」
 同意を求める長束に、恒幸は素直に頷いた。
 彼女の十分すぎるほど正鵠を射た理屈は、恒幸に反論の余地を与えなかった。そもそも部活動を原動力に成績の立て直しを 図ろうなんて言ったのは自分だから、そこに因果関係が成り立つのは当然のこと。そして、美咲たちと真剣に活動していく という決心はしたものの、ベースを弾くことにはまだ自信が持てずにいる――これでは中途半端だといわれても仕方が ない。
「私はクラブやってないけど、私が知ってる頭のいい友達で部活もやってるひとって、みんな部活頑張ってるよ」
 得意顔で、長束が鼻にかける。けれども、不思議と恒幸にはそれが嫌味には感じられなかった。
「頑張ってるっていうよりも、楽しんでる、っていうのかな……楽しんでるから、外から見たら頑張ってるふうに 見えるんだと思う」
 本当に長束は他人を観察する目が肥えているなと、恒幸は思う。クラスメイトだけでなく、普段付き合っている 友達のことまで彼女はよく見ている。それも、ただ見るだけじゃなくて、性格や、意のある所までをしっかり見抜いている。
 もしかすると、保健室の先生と互角に勝負できるのでは……ふと彼はそう思った。
「楽しむ……か。具体的にどうやったら楽しめるのか、そこをまずは考えないとな」
「簡単じゃん、そんなの」
 また別の声が、恒幸の背後から届いた。
「相手の心を読んだらいいだけさ。自分ばかり見てたって、クラブはなんにも面白いことないしなっ」
「あれっ? 生徒会長サン、遠方クンとは最近背中合わせじゃなかったっけ?」
 手の裏を返したように打ち解けた態度で接してくる勝流を不審に思って、長束が問い質す。
「やめた。馬鹿馬鹿しいから」
「なんだよそりゃ」
 今まで隙間を空けていたのが無駄だったように思えて、恒幸も、勝流の翻り様に呆れ返る。
「別にもっと前にやめてても良かったけど……お前が中間で成績落としたって言うからごちゃごちゃ干渉しないでやろう と思ったまでよ」
「いや非常に言いにくいことだけど、イナズマ。……今回中間よりも悪い成績取りそうな気がする」
「ちょっ、えぇ、マジっすか!?」
 自分の気遣いが徒になっていたと聞かされ、勝流はショックを受けた。
「らしいよ。遠方クン、想像以上にクラブに気を揉んでるみたい」
 恒幸に代わって、長束が彼の状況を勝流に説明する。
 勝流はむうと少しの間唸ってから、口を開いた。
「まあツネさんがバンドだもんな。俺もまさかそう来るとは思わなかったし」
「……!」
 やはり、勝流は知っていた。なんとなく、防音工事の進捗が早かったのは彼のおかげだと思っていたが、恒幸の心の中 で、その思いは確信へと変わった。
「知ってたのか」
「当然だろ。機材を返却するように俺が校長に言おうとしたときに、いくらなんでもあの慌て方はおかしいって思ったさ。 あとで顧問の土肥に訊いてみたら、それらしい答えが返ってきたしな」
「教師を呼び捨てにするな」
「ったっ!」
 絶好のタイミングで、なぜか担任でもないクラスの教室を訪れていた土肥が、教科書の背で勝流の側頭部を叩いた。
「先生っ、なんでここに? っつか体罰ですよこれ!」
「新聞部に『生徒会長、教師を呼び捨てにする』なんていうスキャンダル記事を一面に大々的に載せるように言っといて やろうか?」
「いえ、結構です……土肥先生」
 ぷっと恒幸が吹き出し、長束もふふふっと笑った。
 美咲のときもそうだったけど、土肥は本当に、生徒の弱みに付け込んで言いくるめることに長けた教師だな、と恒幸は 思った。
 そのあと土肥は恒幸たちのクラスを適当にぶらりと歩き回って、持ち場のD組の教室へと戻っていった。どうやら、 偵察に来ていただけらしい。偶然にもその偵察に引っ掛かってしまった勝流を見て、長束がまたふっと笑う。
「なにが可笑しいんだよ、委員長」
 不愉快極まりない顔つきで、勝流が言う。
「さぁ? 自分の胸に手を当ててみたらわかるんじゃない、スキャンダラスな生徒会長サン?」
 フォローのかけらもない言葉を、長束は勝流に突きつけた。開き直ったのか、言われるままに胸に手を当てて 心臓の鼓動でも感じ取ろうとする調子の勝流を差し置いて、長束は恒幸に言う。
「ごめん遠方クン、私も知ってた」
「マジで?」
「うん。この前さ、後輩のコ来てたでしょ?」
 長束の言う後輩とは、ほかならぬ美咲と優鶴のことだ。彼女たちは最初のミーティングのあとも、決まって放課後になると ふたり揃って――もちろん、お互いにしっかり手も繋いで――恒幸を迎えに来ていた。
「あぁうん」
「噂であのコたちのことは聞いててね。なんでもプロ並の演奏をするとか……」
「ああ、なんかすげぇらしいな。どんな子だろうなあ」
 なにをお前、あのとき見ただろ……と咽喉まで出かかった言葉を、恒幸は押し戻す。あの場面があって、勝流と自分とが お互いに距離を置き始めたのだ。今それを蒸し返すのはタイミングが悪い。
「見た感じは普通のコだよ」
 端的な説明で、長束が勝流の期待を軽やかに裏切った。
「そりゃあまあ、髪染めてたりなんかしたら風紀か生指が黙ってないだろうけど」
 勝流の言うとおり、この学校における風紀の取り締まりは、けっこう厳しい。風紀委員と生徒指導部がタッグを組み、 前者が捕まえてきた鼠に後者がくどくどと説教を施すという連携プレイが行われている。
 髪型については、染髪はもちろんのこと、生徒らしからぬけばけばしいスタイルが風紀委員の目に留まれば、あとは 生指が強制的にその生徒の髪を必要に応じて剃り落とす。もっとも、風紀と生指の判断の基準は、恒幸たちの推し量る ところではないが。
 しかし時たまに、恒幸に暴力を振るった二年の不良コンビのように、生指でも手を焼く生徒の場合は好きにさせて おく例もあるらしい。
 そういえば美咲の髪の毛には少し赤みがかかっていた気が、と恒幸は思い出す。彼女の場合、地毛なのだろう か、それとも……?
 もしも染髪だとすると難解な図式が成り立ちそうなので、彼はその先を押し切って考えないようにした。
「俺にもいつか紹介しろよな、ツネさん」
 にやりとしながら、勝流が恒幸の二の腕に軽くエルボーを入れた。
「つうか、ライブやるんだからどうせ見ることになるだろ」
 目を細めて、恒幸がつっこみで応戦する。
 それもそうだなと、勝流は笑った。
「ねぇねっ、遠方クンてなにやるの?」
 場外から、きらりと双眸を輝かせながら、長束が横槍を投げ入れる。
「まぁ……このままいけば、たぶんベースかな」
「おおぉっ、大分県民ですなっ」
「……はい?」
 長束の言葉と、自分がベースを担当していることとが瞬時に結び付かず、恒幸は間の抜けた反応を見せた。
 うははっ、と勝流が笑って言う。
「委員長、こいつあんましテレビ見ないんだわ」
「あぁそうなの? 残念」
 受けを外したことを意に介するでもなく、長束は微笑んで言った。
「大分県出身のベーシストでね、地元の嘆きを歌にしてCD出してる芸人が居るの」
「……ふーん」
 長束に解説されても、恒幸にできることと言えば、生返事が関の山だ。勝流が言ったように、そういう芸人だか なんだかが出てくる、いわゆるバラエティ番組というものを見ないのは興味がないせいだし、別段そういった知識を 身につけて流行りを語り合おうとする気もなかった。
 そんなことより、委員長ってお笑いとかも好きなのか――長束の意外な素性をひとつ知るたびに、恒幸の中にあった もともとの彼女のイメージが塗り替えられていくようだった。
「んでその芸人、頭がとんがってて――」
「みんな席についてくださーい。今からホームルームをしまーす」
 ちょうどそのとき、担任が教室に入ってきて、三人の会話は中断された。
 長束も勝流も含めて、教室中に散らばっていたクラスメイトたちが各自の席に戻り、着席する。
 ホームルームの間、恒幸は、担任の話のヴォリュームを四分の三ほど下げてバックグラウンドミュージックとし、 勝流に言われた言葉を思い返していた。
 ――相手の心を読んだらいいだけさ。自分ばっか見てたって、クラブはなんにも面白いことないしなっ。
 正直言って、ベースと奮闘していた自分には、美咲と優鶴の考えていることを十分に揣摩してやる余裕なんてなかった。 更に言えば、自分は、それ以前の問題として、他人の心中を推し量るのが苦手だ。
 長束にしろ保健の先生にしろ、たとえ女の勘というものがあるにしても、他人の胸の中にあるようなことをいとも 容易く見透かしてしまうことが、恒幸にとっては驚きだった。
 でも、彼女たちにはべつに特殊能力が備わっているわけでもない。常日頃から他人の言動を事細かに観察して、 それを分析しているうちに、おのずと心の内側を察することができるようになったんじゃないか。“読心術”のような 力は、自分自身にこだわるばかりでなく他人にも目を向けるという習慣の賜物ではないか。
 だとすれば、“読心術”が苦手な自分は、言い換えると、美咲と優鶴のことを真剣な目で見ていないことになるん じゃないか――そう考えると、恒幸は、美咲たちへの自分の接し方がとても心苦しく感じられた。
 もっと、彼女たちのことを真剣に見てやらなければならない。
 せめて一度でも、美咲に「図星です、先輩!」と言わせないことには、文化祭のライブまでに後輩たちとの息の合った 演奏を完成させるのは難しいだろう。
 心機一転美咲たちの心を読むことができる力を身に付けようと決意した彼を、のちに彼女たち自身が思わぬ形で サポートすることになろうとは、このとき彼はまったく考えつかなかった。

 

 帰り道――
 ホームルームが終わったあと、恒幸は結局、勝流に防音工事のことを聞きそびれてしまった。なにか生徒会関係の 用事があるらしく、特権行使で掃除を免除してもらって勝流は教室を飛び出してしまったのだ。
 でも、もし勝流が工事をうしろから押していたということが事実だとしたら、自分ひとりでは彼に礼は言えないと、 恒幸は思う。美咲と優鶴、それに土肥も含めて、軽音部一同で彼に感謝したい。
 遅くとも、文化祭の日にライブをするまでには――
 そのとき、突然、
「だぁれだっ」
 という声とともに恒幸の視界が真っ黒になった。
「うおっ、前が……」
 方向感覚を奪われ、恒幸はふらふらと覚束ない足取りで歩く。
「当ててくれるまで、放しませんよっ」
 これほどまでに耳慣れた元気な声を、どうやったら外せるというのか。
 再び光を取り戻したい一心で、恒幸は悪戯っ子の名を呼んだ。
「いや危ないって……美咲ちゃんっ」
 言って、ぱっと視界か開けたかと思うと、恒幸の顔からげんこつ二つ分の距離に電信柱が迫った。あわや大惨事という ところで危機を逃れることができて、彼はほっと胸を撫で下ろす。
「間一髪でしたね、先輩っ」
「……あぁ、まあな」
 相変わらず本気で言ってるのかどうかがわかりにくいけれど、いや、この場合は冗談であってほしかったが――恒幸は 美咲のとんでもない行動に呆気に取られていた。
 美咲のほうに向き直る前に、恒幸はふと思った。両手で目隠しをされたということは、彼女は鞄を……しっかりと 肩に掛けていた。
 ……って、そうじゃなくて。
 肩に掛けていたとしても、美咲が目隠しをするのは難しいはずだ。
「あれ? 今日は優鶴ちゃん休みか?」
 振り返った恒幸の目が捕らえたとおり、下校時でもいつも美咲と手を繋いでいるはずの優鶴の姿がなかった。
「いえ、ホームルームの前に帰っちゃいました」
 残念そうな表情で美咲が答える。
 彼女の言葉からすると、優鶴はホームルームまでは居て、テストもちゃんと最後まで受けていたということになるの だろう。テスト期間中だというのに、また無理をしたせいで体を壊したのではと心配したが、いちおうは大丈夫そうだな、 と恒幸は思った。
「どうしてまた?」
「二時間目のテストのときにお兄さんから電話があったらしくて」
「電話って……学校にか?」
「はい。優鶴はたいしたことじゃないから気にしないでって言ってたんですけど、あたしはちょっと心配なんです」
 優鶴を気遣う心が、美咲の目つきにそのまま表れている。
 恒幸には、授業中に親から連絡をもらった経験はないけれども、学校に連絡を寄越すぐらいだから、非常事態なのは 確かだということが彼にも理解できた。
「確かに、只事じゃない気はするな……」
 美咲は頷くと、少し目を伏せた。
「でも美咲ちゃん」
「はいっ」
「今は優鶴ちゃんを信じようぜ。俺らがどれだけ心配したって、結局しっかりした気持ちでいなきゃいけないのは、 優鶴ちゃんなんだし」
 恒幸は思った。優鶴が美咲に言い聞かせるようにかけた心遣いの言葉が、彼女自身の心をも強くさせていたのではないかと。 どんなことがあっても挫けまいというように。
「そうですよね……」
 また目を伏せつつ、声のトーンを下げて美咲は言った。
 優鶴とは手を繋ぎ合うほどの仲である美咲と、クラブ仲間でしかない恒幸。当たり前のように、優鶴に対するふたりの 考え方は違った。
「優鶴ちゃんは見てないけどさ、美咲ちゃんが心配する気持ちは、ちゃんと伝わってると思うんだ」
「はい」
 美咲の笑顔に優鶴が笑い、優鶴の真剣な気持ちに美咲も動かされる。そんな場面を、恒幸はもう何度も目にした。
 繋がれた手からも、向かい合わせた顔からも、互いの気持ちが移される様は、まさに拈華微笑だと彼は思った。
「優鶴ちゃんは美咲ちゃんの気持ちをちゃんとわかってる。だから今度は、美咲ちゃんのほうが優鶴ちゃんがきっと 大丈夫だってことを、わかってやらなきゃいけないんじゃないかな?」
 少し俯いてから、美咲は笑顔を恒幸に向けた。
「えへっ、それもそうですね」
 折り曲げた指を頭の横に当ててちょっとだけ舌を出す仕種が美咲らしいなと、恒幸も苦笑する。
「先輩……あたし、嬉しいです」
 美咲がにっこり笑う。
「……目的語がないとわからん」
 目線を美咲とは反対の方向へ流して、恒幸は半ば呆れた調子で言った。
「先輩が、優鶴のことをそんなに考えてくれてるなんて。それだけでも、とっても幸せです!」
「おっおい、声でかいって……」
 注意はしたけれども、もう出てしまった大声は取り返しがつかない。近くを歩いていた何人かの生徒が、開けっ広げな 美咲の主張に噴き出したり、オバサンよろしくひそひそ話をしたり、白い眼差しを送ったりしている。側杖を食った――と いっても、当事者はまったく気にしていないようだが――恒幸は、はなはだ決まりが悪くて汗顔の至りだった。
「そんなこと言われても仕方ないですよー。自然にこうなっちゃうんですもん」
「いや、わざとだ」
「無意識ですっ」
「deliveratelyだ」
「unconsciouslyですっ」
「そういえば美咲ちゃん、テストはどうだった?」
「ぅへぇっ!?」
 話題が急転回し、美咲はひどく驚き慌てた。
「そっそれは先輩……訊かないでおくのが人情ってものじゃないですか?」
 要するに言い憚るほど自信がないんだろう……と、恒幸は迷わず判断を下した。
「英語が出たら、普通自然にそういう話になるだろ」
「なりませんっ」
「なる」
「絶っ対ならないです! 先輩が三回回ってワンって鳴いても絶対なりません!」
 ぐるり、ぐるり、ぐるり、ぐるり。
「わんっ」
 美咲が言った三回よりも一回多めに回って、恒幸は両手を垂らして犬の空音をしてみせた。
「なーりーまーせーんっ!! もう、先輩のいぢわる〜」
 最後に念押しをして、美咲は頬を膨らませる。しかし、恒幸がはっはっと大きな笑い声を上げると、それにつられて 美咲もぶふっと噴き出して笑った。
 しばらくふたりは、学生らしく無意味に笑いあった――まるで、笑い茸でも食べたかのように。
「おかしいです、先輩。なにもないのに笑っちゃって」
 ややあって、笑い過ぎて出した涙を人差し指の背で拭いながら、美咲が言った。
「美咲ちゃんこそなんでもないのに笑っちゃってさ。おかしいぜ」
 鳩尾のあたりを手で抑えて、恒幸が同じ言葉を返す。ふたりまた、へへっ、と笑った。
「あ〜あ……こんなに派手に笑ったの、久し振りだなあ…」
 腕を拡げて深呼吸を一つしてから、恒幸は、青と白とのコントラストが映える空を見上げた。
 今の笑いは、どう考えたって、歴代トップクラスの笑いだ。小さい頃から心の許せる唯一の親友だった勝流とも、 せいぜい冷めた会話を交わす程度だったし、他人が笑えるものを見たり読んだりしても同じような感覚を味わう ことはできなかった。
 それなのに、いち後輩の美咲と他愛ない話……いや、言葉のキャッチボールをしただけでこんなに笑えたのは、 なぜだろう。
 そんな疑問を抱いたそばから、考えるだけ無駄だと思って、恒幸は答えを探るのを諦めた。
「あたしもです……」
 今度は同じように、美咲が空を見上げて言った。
「さすがにこれだけ笑ったら、憑き物も落ちるよな」
 空から美咲へと、恒幸は目線を運ぶ。
「えへへっ、そうですね。なんか、すごくすっきりしちゃいました」
 美咲は恒幸の視線を受け取ると、手に握り拳を作り、両腕を曲げて、今の心境を身振りで表現した。
 このふたりはいったいなにを考えているのだろう、とでも言いたげに、西日が恒幸たちを背後から照らす。
 持ち上げた肩に顔を埋めて、美咲はなんとなく口を開いた。
「先輩、良かったら、明日デートしませんか?」
「ぁえっ!?」
 完全に予想の外にあった提案を持ちかけられ、恒幸は一瞬、脳味噌の中をホワイトアウトさせた。
 冗談好きの美咲のことだから軽い気持ちで言ってみただけなのかもしれないとも思ってはみたものの、改めて彼女の 顔を覗いてみると、どうも本気らしい。少しの間、恒幸は返す言葉に迷った。
「明日って、土曜日だよな。練習明日からできるんじゃなかったっけ?」
 この際、彼は馬鹿ほど素直に考えてみた。
 定期テストの一週間前から始まる部活動の制限は、テストが終わる次の日には解除されるらしい。つまり、明日は 三時まで音合わせができる。それにもかかわらずデートとは、どういう魂胆なのだろうか。
 恒幸がいたずらに勘繰っていたということを、美咲の続く言葉が証明した。
「それなんですけど、土肥先生に訊いてみたら、明日は部室のメンテナンスするっぽくて」
 言われてみれば確かに土肥はそんなことを言っていたっけ、と恒幸は思い出す。
 部室自体の保守作業ではないけれど、天井裏に多数の配管があるために、業者が定期的に水漏れなどのチェックに 訪れるということらしい。
「そうか……。でも、デートなんて……優鶴ちゃんに悪い気がするな」
 美咲と優鶴とを別々に扱えば、一方だけを贔屓してしまうことになる。気が引けて、恒幸は憚り気味に言った。
「だいじょぶですよ。優鶴、そういうのはけっこう奥手ですから」
 にひひと小悪魔みたいな笑顔を美咲が作る。
「…いや、そういう問題じゃなくて…」
「いくら優鶴でも、学校が休みの日ぐらいは自分でしっかりやってますよ。ほら、先輩も言ってくれたじゃないですか」
「……まぁなあ……」
 知らずして美咲に悪態をつかれている優鶴のことを、恒幸はちょっぴり不憫に思った。
「そもそも、ひとりのオトコがふたりの女の子連れ回してたら、見た目すっごい怪しいですよ」
 美咲に極論を示され、確かにそれも一理あると、恒幸は納得する。デートをするからには、他人の目から見ても まっとうな形でしたいけれども、かといって美咲と優鶴には等し並みに接してやりたい。そんな葛藤が、しばらく彼の 心を支配した。
「じゃあこうしましょ。優鶴がもし不満を言ってきたら、優鶴ともデートしてあげるってことで!」
 かくんっ――美咲の大それた提案に、恒幸が項垂れる。
「おいおい、そんなんでいいのかよっ」
「きっと大丈夫ですよ!」
 親指を立てて、美咲は自信満々で言った。
 本当に優鶴がそうすると思って言っているのか、エゴのつもりで言っているのか……常に自分の理解の斜め上を行く 美咲の考えに、恒幸は前途多難の相を見出した。

 

【2】

 翌日。
 十一時十五分過ぎという中途半端もいいところな時間にベッドを抜け出た恒幸は、適当に洗面をして、朝と昼とを 兼ねた食事をトースト二枚で済ませると、着替えもせずに家を出た。
 自転車のロックのボタンを暗証番号どおりに押し、錠を外す。サドルに跨り、ペダルに載せた足にぐっと力を入れる。 体を伸ばして腰を浮かせ、出発。目指す場所は、隣町にある大型書店だ。
 十日ほど前からだんだんと分厚くなってきた蝉たちの鳴き声と、灼熱の太陽に辟易しつつ、走る。頬を撫でる風は、 生温い。赤信号で止まったときにどっと吹き出す汗を、ポケットに忍ばせていたハンドタオルで拭い取る。まだ一度汗を 拭き取っただけだというのに、タオルはびっしょりだ。弥が上にも夏らしくなってきたなと感じながら、信号が変わった のを確認して、再び自転車を発進させる。できることなら赤信号は突っ切りたいけれど、隣町への道には幅員の広い県道が 立ちはだかっている。交通量も多く、おまけに通る車といえば、ほとんどがトラックだ。少し気を緩ませて赤信号を無視し ようなどと思えば、四、五十メートルは軽く跳ね飛ばされてしまうだろう。むろん、生きて返ってこれるという保証もある はずがなく。
 ものの十分自転車を走らせると、目的の書店に到着した。まだまだ開店から三十分しかたっていないから、利用客は 疎らだ。自転車は何台かあるが、三十台は収容可能な駐車場に、車は二台しか停められていない。先客たちの自転車の横に 並べて停め、車体を傾けて飛びのくように降りる。ロックをかけると、先に入り口を抜けていく客に続いて、恒幸も自動 ドアをふたつ抜けた。
 ひんやりとした空気が恒幸を包む。間髪入れず、店員のいらっしゃいませボイスが彼の耳に届けられた。
 店内を一通り見回すと、たまに学校の帰りに立ち寄るときとは違った客層が目を引いた。学校帰り、すなわち夕暮れ時 には、背広に身を包んだ、ちょっと年を食った感じのビジネスマンが多いけど、今の時間帯はラフな出で立ちの若者が多い。 夕方見るオバサンたちは、今も居る。よっぽど、やることがないらしい。
 雑誌のコーナーまで歩くと、メンズファッションの雑誌を探した。それらしきものは見つかったが、なにやら種類が 多い。こういうのにも派閥があるのだろうかと思って、一瞬手を伸ばすのを躊躇った。もし自分が取った雑誌が、 実は非難の集中砲撃を受けている派閥だったらどうしようかと思ったのだ。
 その様子をちらっと横目で見た先客が、訝しげな顔をした。金髪で、ノースリーブの黒いシャツ……タンクトップという のだろうか。下は、群青のジーンズ。肩のあたりから逞しい腕を辿っていくと、手首にブレスレットやら鎖やらと、 ごちゃごちゃしたものをつけている。自分とのギャップを痛感して、ますます恒幸はしり込みしてしまった。
 ここでおずおずと引き下がってしまったりなんかしたら、せっかくここに足(車輪?)を運んだ意味がなくなって しまう。勇気を出せ、自分。なんでも初めは、痛みを伴うものなんだ。臍を固めて、伸ばした手が掴んだ雑誌を、彼は 無造作に取り上げた。
 表紙をめくると、そこには、たまにテレビで見るアイドル歌手のような目鼻立ちをした男たちが、これまたたまに テレビで見るようなスタイルで撮影されたグラビアがあった。
 自分の着こなしとは、まったく違う。着こなしやセンスの違いを超えて、どこか異民族のようだ。無理はない、 自分は、流行にはまったくもって無関心なのだから。
 ページをめくれどめくれど、表紙裏と同じ趣旨のグラビアが延々と続いた。どれも一緒に見える。これって、分かる ひとには一つ一つが違って見えたりするのだろうか。たとえば、メンズファッションが和食だとしたら、これが鯖の塩焼き で、これが肉じゃがで、これがきゅうりの酢の物で、これが揚げ出し豆腐で、これが出し巻き卵で、これが味噌汁 で、これが煮豆で、これが散らし寿司で、これが茄子の田楽で、これがきんぴらごぼうで、これが掻き揚げで、これが……と いう具合なのだろうか。
 どうでもいい考えに気を取られて、肝心の流行のファッションがほとんど頭に入らない。数学の問題を解いているとき に、「こんな公式いったいどこの誰兵衛さんが考えやがってんでい」と横道に逸れ、無駄に腹が立つのとどこか理屈の 上で似ている気がする。
 あっという間に、一冊を読み終えてしまった。いや、めくり終えてしまったというほうが正しいだろう。
 雑誌を元の場所に戻して、恒幸は心の中でコメントを述べた。
 ――ファッションてその、金太郎飴ですね。
 なんとなく二冊めを手にとって、ページをぱらぱらとめくりながら考えてみる。
 自分はデートなどというものをやったためしがない人間だから、服装とかの勝手がよくわからない。こういう場合って、 自分の個性を貫くよりも、世間の見る目に配慮して流行のスタイルを採用したほうがいいんだよな。
 ……と、隣のニイちゃんに訊ねてみたかったが、変人に思われそうなのでやめた。
 上の空からダイブして我に返ると、目の前に並んでいるのはやはり、どんぐりが背比べをしているようなグラビア だった。これほど続けて“同じようなもの”を見れば、同じことを再三再四聞かされしまいには耳に胼胝ができるのと 同じ状態に陥ってしまう。堪り兼ねて、最後まで読み切らないうちに雑誌を元の場所に戻すと、恒幸は音楽系の雑誌の コーナーへと移動した。
 ここなら、置かれている雑誌が、なにを自分に伝えようとしているのかがはっきりと理解できる。安心感を得て、 恒幸は溜飲を下げた。
 特にベースのパート雑誌を貪るように読んで、小一時間の立ち読みを終えた。
 ベース関係の本を買いたいのは山々だが、親にまだクラブのことを隠したままでいるのと、文化祭が終われば 自分の役目にもピリオドが打たれるだろうということを考えると、それには及ばなかった。
 結局、当初の目的を逸れて、エアコンの冷気の恩恵を享受するのみで、恒幸は書店を後にした。世間ではこういうのを 冷やかしと言いますが、冷えたのは自分の体のほうだったのですー、などと、座布団も取れそうにないギャグを 炎天下の熱気に向けて放ちながら。

 

 帰宅して、自分の部屋に戻ると、恒幸は真っ先に時計を確認した。
 十二時五十四分。まだ余裕はたっぷりある。
 洋服箪笥の引き出しを開けて、おぼろげに残っていたメンズファッションの記憶を呼び覚ましつつ、それに近いウェアー がないか、探してみた。
 上から一段め、学校のカッターシャツ及びズボン。こんなところにあったら笑う。ほどなく引き出しを閉める。
 二段め、シャツと上着類。どれも、今着ているのと似たようなものだ。押し戻す。三段目、パンツとジーンズの類。 これもどちらかというと、雑誌で見たグラビアの中のひとのスタイルよりは、今自分が着ているもの寄りだ。終了。
 最下段、下着類。これをどうやったらグラビアと照合できるというのか。見当もつかない。押し戻す。
 まぁ、べつに、今着てるようなやつでもいいじゃん。
 比較的速やかに出された結論が、書店に無駄足を運んだという事実を、太い線でなぞって強調する。
 ふと思った。美咲はいったい、どんな格好をして自分の目の前に現れるだろうか。彼女もやっぱり女の子だから、流行には 敏感に違いない。もしかすると、あの開放的な性格も助けて、露出度なんかも全開だったりして。
 いかん。なにを考えてるんだろうか俺は。全壊しているのは、自分の思考回路のほうではないか。
 どれだけ肌が出たって、、美咲は美咲だ。別の女性になるはずがない。
 でも、露出度に胸を躍らせるのは、男児に生まれた者としてはごく自然な行いだ。
 目線を天井に打ち入れてつくねんとした顔で妄想の糸を手繰り寄せては伸ばし、手繰り寄せては伸ばししていると、不意に 二階から掃除機の重たい音が聞こえ始めた。母よ、無情にも父から幸せな時間を奪い去ることを決意されたか。
 夫たる者歩み行くは茨の道、苦難は付き物だぞ……などと心の中で独り言を並べていると、案の定、鉛のようなずっしり としたテンポで、父のものと思しき足音が階上から階下に向かって移動するのが聞こえた。ご愁傷様です。くじけるな マイファーザー! 頑張れ一家の大黒柱っ。
 届かぬ声援に区切りをつけると、恒幸はまた美咲のことに思いを馳せた。
 彼女はデートの経験があるのだろうか。つまり、自分以外の男と。
 もしそうだとすれば、デートの勝手がわからない自分は、彼女に気を落とさせてしまうかもしれない。それどころか、 下手をすれば今日一日自分は“デートさせられる”ことになるかもしれない。恋愛経験の不等号の、窄まったほうを自 分に、開いたほうを美咲に置いたときに、はたして自分はまっとうなデートができるのか。それがものすごく心配だ。
 なんとなくさっき漁った箪笥から今着ているのと同じような服を取り出して、着替えをすることを思い立った。そうい えば、今の服装は、昨日帰宅してから着替えたそのまんまだ。シャワーのあと、同じ服を着て一晩ベッドの中で 過ごしたので、生活臭というのか……そういうものがちょっとだけ染み付いている。書店で隣に居たニイちゃんが 不快な顔つきをしたのはこのせいだと思った。自分でにおう生活臭とか体臭って、ほかのひとには鼻を抓むほどにおう って言うし……。
 これから美咲とデートすることを考えれば、ギリギリセーフだといえた。

 

 パソコンショップでウインドーショッピングでもするのかと訊ねてきた父親に「まあね」などという曖昧な返事をして から、午後一時三十分、恒幸は再び家を出た。
 目的地は、天城橋あまぎばし
 テレビでもよく祭事や食べ歩き、ショッピングなどの特集が放送される繁華街で、地下鉄や私鉄、コミュニティバスなどの 終着駅が集まるターミナルでもある。他県からの観光客なんかも珍しくないところだ。
 ただ、出不精な自分は、言うほどそこを訪れたことがなかった。
 中学校の頃、趣味が昂じて受験した情報技術検定の試験会場まで、父親に送迎してもらったぐらいだ。なにかを買ったり しようという目的でみずから杖を曳いた経験は……そうだ、ほかでは売っていないようなマイナーなCDを探すために 何度か行ったことがあった。でも、本当にそれぐらいのものだ。勝流を誘って、というのも記憶を掘り起こす限り、たった 一度だけだ。
 親から借りた地図を頼りに、電車を乗り継いでいく。うっすらと、過去に辿った道程の記憶がフラッシュバックしてくる ような気がした。幾多のデジャヴュが、長期にわたる遠出のブランクを埋めていく。
 途中環状線の乗り場で迷いながら、どうにか天城橋駅に到着した。
 満員電車から雪崩を打ってホームへと降り立つ人。ホームや改札付近を席巻する人。土曜日のターミナルは、立錐の 余地もないほど人で溢れ返っている。
 人波に揉まれながら、待ち合わせ場所を目指す。美咲に言われた北出口は、割合人通りの少ない場所だった。南出口 のほうにショッピングモールへ連絡する歩道橋があって、多くの人はそちらの方向に向かっている。
 複数の出口があるということを今初めて知った自分に対して、待ち合わせに適したポイントを心得ている美咲。
 ――初っ端から、美咲に引けを取った気がした。
 あたりを見回す。まだ美咲は来ていないらしい。
 無理もない。こちらが時間に十分余裕を持って出てきたのだから。
 携帯電話を開いて時間を確認する。現在時刻、十四時二十八分。まだ三十分以上ある。
 五分前の行動を心がけよという生指の繰り言とか、十五分前の行動を習慣づけさせようとする親の躾とかとは訳が違うのだ。 多少早すぎるぐらいの行動がいちばんだろうと、自分に言い聞かせた。
 行き交う人々が織り成す雑音に紛れて待つのは、停留所でバスを待つのよりも、幾分か気が楽だ。話し声を片方の 耳から拾って反対側の耳から捨てるだけでも、暇潰しをするには事足りる。
 午後三時を目の前にして、恒幸は、額の内側に軽い痛みが巣食うのを覚えた。ちかちかと、夜の信号機が点滅するような 断続的な頭痛。べつに雑踏が嫌いというわけでもないのだけど、大勢の人間がぞろぞろと歩くのを見ていると、自然と頭が 痛くなってくる。この空間的余裕の乏しさは、軽音部のだだっ広い部室とは真逆だと思う。
 圧迫感が引き起こした頭痛を助長したのは、ちょうど十五時を示した携帯電話の時刻表示。少なくとも、美咲の頭の中 には、早め早めの行動、という標語はないのだと悟った。
 メールを送ろうと思って、アドレスを聞けていないのを思い出す。ちょっぴり切なかった。
 頭痛に輪をかけて脚がだるくなってくるのを感じ始めたそのとき、
「――あっ、せんぱぁーいっ!!」
 何十人分もの頭を超えたはるか先から、腕を振って恒幸を呼ぶ美咲の姿がちらりと覗いた。
 強引に人込みを掻き分け、彼女は恒幸まっしぐらに前進する。
「ふぃーっ……やっと辿り着きましたよぉ」
「よ、いきなりお疲れ様だな」
 長大息を吐いて前屈する美咲を、恒幸は嫌な顔をするでもなく迎えた。
「えへっ、今日はひとつよろしくですっ」
 にかっと笑って、美咲は恭しくお辞儀をする。
「こちらこそな」
 恒幸も笑って返した。
 美咲の服装は、至って普通だ。上は赤と白のボーダーのTシャツ。下はホットパンツで、靴は普通の運動靴。アクセサリー もつけていなければ、肩に掛けているバッグも高価なもののようには見えない。雑踏の中の女の子たちに比べると、 幾分か余所行き感が薄い気がする。
 改めて美咲の体を見ると、制服に身を包んでいるときには大して気にならなかった点が、ひとつ窺えた。
 ……なんというか、あるべき部分が無い。
 それを承知でこれほどボディラインにフィットした服を選んだとなると、本人もあまり気にはしていないのだろうな と思った。
「先輩」
「どした?」
「目つきがなんかいやらしいですよ」
「おわっ」
 図星を喰らって、恒幸は慌てた。
 あははっ、と意地悪そうに美咲が笑う。
「わかってますよ。このへんが違和感あるんでしょ?」
 自分の胸を指差して、鉄面皮にも美咲は言った。
「んん、まあなぁ……」
 なぜか自分のほうが恥ずかしくなって、目線を泳がせながら恒幸は答えた。
「あたしはぜんっぜんそういうの気にしてませんから!」
「……そうっすか」
 下手に取れば手前味噌とも思えそうな美咲の声音に、恒幸はソフトに呆れ返った。
 恥じらいを欠いた性格といい、パワフルにドラムを叩いて見せるところといい、見た目にはとても女の子らしいところと のギャップが凄まじいなと、改めて痛感する。人は見かけに依らずという言葉が、恒幸の脳裏をよぎった。
「で、どこ行きます?」
「うーん……」
 駅の周辺には、どこに何があるのだろうか?
 さっぱり不案内な自分に、この阿呆、と恒幸は心の中でつっこみを入れた。
「無難に『マス』でも行っときましょうか」
 美咲の提案した“MAS”、正式名称“マルチ・アミューズメント・スペース”と呼ばれる娯楽施設のことは、恒幸も 聞いたことがあった。ボウリング場やカラオケボックス、ゲームセンター、ビリヤードにインターネットカフェ、果ては ゴルフセンターにバッティングセンター、天然温泉などなど、ありとあらゆる娯楽の場が詰め込まれたその施設は、 コマーシャルでもよく放送されている。
「おっけー。でも、発音って『マズ』じゃなかったっけ?」
 恒幸の取った無用の揚げ足を、
「そういうのはどっちでもいいと思います!」
 美咲は軽く受け流した。

 

 ――パカーンッ!!
「うおぉっ、凄いです先輩っ!」
 べつにストライクを出したわけでもないのに、美咲は派手に感動する。
 無情にも残された二本のピンが持ち上げられて、再び十本になって戻ってきた。恒幸のスコアボードに、“8”の文字 が点灯する。
「まぁ、最初はこんなもんだろ」
 得意顔で、恒幸は一レーンめの自分の投球を評価した。
 ボウリングに関しては、勝流と対戦したときに躍起になってしまい、冷静な投球を繰り返す彼に大敗を喫したことも あって、彼からいろいろなアドバイスを伝授してもらっている。
 出だしに美咲に待ち合わせの場所や、行き先のイニシアティブを握られてしまったので、ここぞとばかりに恒幸は 経験者の意地を彼女に見せてやろうと考えたのだった。
「次あたしの番ですねっ」
 ひょいと美咲が取り上げたボールに書かれていた数字を見て、恒幸は一瞬血の気が引いた。
「ちょっ、美咲ちゃん!」
「なんですか先輩?」
「……あぁいや、なんでもない」
「だったら呼ばないでください。集中できないです」
 真顔でそう言うと、美咲はレーンの前に立って前方のピンを睨んだ。
 ……十九ポンドってなんだよ。そんな重量の球あったのかよ。
 どう考えても、女の子が片手で持てるような重さではない。恒幸でさえ、九ポンドのボールを投げたのだ。小型犬 一匹分の体重はあろうかというボールを軽々と持ち上げてしまう美咲が、ただただ信じがたい。
「うりゃあぁっ!!」
 助走をつけて、ラウドな掛け声とともに美咲がボールを放つ。
 レーンの三分の一あたりまで転がったところで、ボールは空しくもガーターへと転落した。
「あちゃー、落ちちゃいました」
 ピンがそのままの形で持ち上げられ、また降りてくる。美咲の一レーンめのスコアに、横線が点灯した。
「これって先輩、まだ『0』って出たほうが安心しません?」
 恒幸は数字なのに自分は記号だということに、不満の意を露にする美咲。
 今度は恒幸のほうが、そういうのはどっちでもいいんじゃないか、と思った。
「まぁなあ……」
 美咲がガーターを出すのは、彼の想定の内にあった。
 しかし、ボールの重さについては完全に予想外で、未だに彼はそのことにぽかんとしていた。
 二レーンめを好調の波に乗って九本倒しで終えた恒幸に対し、美咲はまたガーターだった。
「はぁ……なかなか真っ直ぐ転がってくれないです」
 深い溜め息をついて、美咲は肩を落とした。
「前だけ見てても、けっこう失敗するぜ。床の矢印と前のピンを直線で結ぶように見るんだ」
「あっ、これですか。こんなものがあったとは!」
 レーン上のスパットに目をやって、美咲がまた感動の声を上げる。
「俺のレーン使って練習してみるか?」
 流石に十七点差をこれ以上広げるのは後ろめたく感じられて、恒幸は美咲にそう提案した。これはあくまでデートで あって、勝負ではないのだ。さっきまでの意地を捨てて、彼は美咲をレーンに呼び寄せた。
「えっ……いいんですか?」
「どうせ俺そのうちストライク出すから」
「自信過剰ですよ、先輩っ」
 湿っぽい視線を向けてそう言いながらも、美咲はちゃっかり恒幸の三レーンめで投げるボールを手にしている。
「それじゃお言葉に甘えて使わせてもらいますね!」
 言って、美咲はレーンの前に立った。今度はしっかり前のピンと、床のスパットとを交互に見て、投球のフォームを 練っているようだ。
「うぉりゃーーっ!」
 勇ましい掛け声とともに、ボールが放たれる。
 ふたり、ボールの行く先に目を瞠った。
 ――パカーンッ!!
 爽快な音を立てて、十本のピンすべてが倒れた。
「……おおぉ」
「すげぇ……」
 しばらく、開いた口が塞がらないふたり。恒幸のスコアボードの三レーンめが、対角線で色分けされる。
「これって続けてできるんですよね」
「あぁうん」
「どうしましょう?」
 美咲に言われて、恒幸は迷った。
 普通に考えれば、ストライクを出したプレイヤーが続けて投球するのだろうけど、今の美咲のストライクがまぐれで なかったとしたら、無駄に自分の得点が増えてしまいスコアボードを参考にする意味がなくなってしまう。
 まぐれだったとしても、今後のレーンでの美咲の得点が心配だが、とりあえず恒幸はこう結論を下した。
「俺がガーター投げて終わらせとくわ」
 狙ってガーターを投げるのは乗り気ではなかったけれど、各々のレーンでプレイするのがいちばんフェアだと割り切った ゆえの判断だ。
「あははっ。すいませんねぇ、ひとのレーンでストライク出しちゃって」
 美咲がきまり悪そうに笑って言った。
 彼女の介入で二十七点に増えた自分の得点を、恒幸は四レーン目で更に七点伸ばす。美咲の投球は、さっきと同じ ように構えたにもかかわらず、三本のピンを倒すのみだった。
「あれ……? さっきのまぐれだったかな…?」
 首を傾げて言う美咲。
 続く五レーン目でもガーターを出してしまい、彼女は軽く凹んでしまった。
「えへへ……全然だめですね、あたし」
 苦笑いを浮かべて言う美咲に、
「いやいや、もうちょっと構えを正したら、安定すると思うよ」
 と恒幸はフォローを兼ねたアドバイスを送った。
「どんなふうにですか?」
 聞かれて、恒幸は言葉に詰まった。ボウリングの投球フォームを、口で説明するのは難しい。自分のフォームを 教えてやればいいだけのはずなのに、頭の中で表現を整理することができなかった。
「腕をこう、このへんから伸ばしたまま前に出して――」
「せっ、先輩っ!?」
 気が付くと、恒幸は美咲の腕に触れていた。
「あぁごめんっ。……迷惑だったかな?」
「いっいえ……その、いきなりなんで、ちょっとびっくりしちゃって……」
 お互い目を逸らして、恥ずかしい気持ちを堪えた。
「えっへへっ……先輩って、たまに積極的なんですねっ」
「……んまぁ、そういうことになるかな」
 なにかぎこちない遣り取りをしているという感覚が、恒幸にも美咲にもあった。
 そのあとは七レーンと九レーンで恒幸がストライクを出す程度の盛り上がりで、両者の最終的なスコアは恒幸が九十六 点、美咲が二十点という塩梅だった。

 

「あっ先輩っ、ちょっとゲーセン寄ってっていいですか?」
 三階のボウリング場を後にして、一階のゲームコーナーに差し掛かったときに、美咲が恒幸の足を止めた。
「おう。手持ち厳しいから、クレーンゲームとかは難しいかもしれないぞ」
 まだ学生の身分である恒幸の貯金は、小学校を卒業するまで親戚から掻き集めたお年玉と、去年の夏休みに勝流の姉に 誘われてやった郵便局のバイトで得た賃金から成り立っている。それゆえ、あまり温かいとはいえない懐事情だ。
「だいじょぶですよ。ひとつ、やってみたいのがあるだけです」
 ちなみにクレーンゲームじゃないですよ、と美咲から聞かされて、恒幸はひとまず安心した。
「どんなゲーム?」
「えへ、先輩と一緒にできるゲームですっ」
 美咲は笑ってそう説明した。
「えっ? 俺もするのか?」
 驚いて訊ねた恒幸に、
「じゃないと、デートの意味がないじゃないですか」
 唇の両端に皺を作った美咲が得意そうに言った。
 ゲームコーナーに足を踏み入れると、何種類ものBGMやドカン、ガスンとなにかを叩く音、ピロピロ、チャララーン といった効果音などが一挙にふたりの鼓膜にアタックした。
 部活である程度大きな音には慣れてきたと思っていたが、この音は勝手が違うな、と恒幸は思う。
「こっちですよ、先輩!」
 音の洪水の中でも、美咲の声はしっかりと聞き取れた。
 バンドの作り出す大音量の演奏の中で、演奏を仕切るパートであるドラムを担う彼女は、知らず知らずのうちにこの ような存在感のある声を得ることができたらしい。
 美咲に導かれながら、恒幸はゲームの内容を想像した。ふたりでプレイするということは、エアホッケーのような 対戦ゲームだろうか。それとも、案外タロット占いのような運試しだったりして。
「おっ、今空いてますよ、先輩!」
 美咲が目的とするゲームの筐体を見て、恒幸は、なるほどなと思った。
「美咲ちゃんらしいな」
「でしょ? えへへっ」
 備え付けられていたスティックを引き抜くと、美咲は、筺体の前の椅子に腰を下ろした。
「これ一回やってみたかったんですっ」
 ちょうどモニターにゲームのタイトルが映し出される。“漢一匹 ドラムバカ一代”。美咲は女の子だけど、十分 お似合いのタイトルだと恒幸は思った。
「でも俺はどうすればいい?」
 ゲームタイトルに“一匹”とあるように、そのドラム演奏シミュレーションゲームは一人用のようだ。
「先輩はこっちです」
 隣の筺体を指差して、美咲が言った。
 見ると、タイトルのドラムの部分がベースに変わっただけの、同じ企業が制作したらしいゲームがあった。
「通信対戦で同時にプレイできるのか」
 説明書きに記されていた文章を、ほぼそのままの形で恒幸が読み上げる。
「ちなみにその横にはギターもありますよ」
 確かに、美咲の座っているほうから順に、ドラム、ベース、ギターの演奏シミュレーションゲームの筺体が並んでいる。 しかも、ギターの筺体にはふたつの専用コントローラーが備え付けられている。
「……これって、優鶴ちゃんが居ても楽しめたな」
 ふと思い出して、恒幸は少し細めの声で言った。
「先輩っ!」
「うん?」
「今はふたりきりのデートなんですから、優鶴のことを言ったら浮気と見なしますよ!」
「ぁえっ!? そんな理不尽な」
 どうやら美咲は、とことん恒幸とふたりきりの時間を過ごしたいらしい。
 そうだ、いくら優鶴が居ないことを残念に思ったって、自分は美咲のデートの望みを聞き入れてやったのだ。部活仲間 として睦み合っている優鶴も、今だけはしがらみのように思われた。
 渋々美咲の言い付けを受け入れてベースの筺体の前に立つと、備え付けのコントローラーのショルダーストラップを 頭から通して、構えた。財布を開いて取り出した百円玉を、一枚ずつそれぞれの投入口に入れる。
「準備はいいですか、先輩っ?」
「ああ。自信はないけど」
「だいじょぶですよ。このゲーム、ミス連発しても途中で止まりませんし。三曲ぶっ通しでやって、最後に評価が出るんです」
「ふーん………って、えぇ、三曲!?」
 聞いてないよ、と叫びそうになった。
「三曲ぐらいで根を上げてたら、ライブなんてできませんよ!」
 スポ根漫画のコーチばりの形相で、美咲がびしっと言い放つ。
 やれやれと思いながらも、美咲の言葉も間違っていないなと思って、恒幸はやる気ゲージを上昇させた。
「ゲーム、スタートですっ!」
 美咲の真剣な目つきに、恒幸も倣った。
 レディー、ゴーッというボイスのあとに、イントロが流れる。アップテンポなハードロックだ。
 モニターの上部から降りてくるバーが最下部の太いラインを通過するタイミングに合わせて、両者コントローラーで 演奏する。言わずもがな、スティックを振り回している美咲のほうが、体の動きがダイナミックだ。
 時折歓声のようなサウンド・エフェクトが流れるも、美咲の言ったとおり、ゲームは止まらない。恒幸としては、はた して自分の演奏は合っているのかという疑念に苛まれながらのプレイだった。
 なんとか一曲目が終わる。そのあとで束の間の休息が与えられると思いきや、
「ぼーっとしてたら出遅れちゃいますよ!」
 美咲が、そんなものはないということを裏付ける発言をした。
 間も置かず、二曲めが始まった。今度は、爽やかなポップチューン。マイナー調だった一曲めに比べて曲調は明るい ものの、難易度は逆に増したようだ。
 特に、コンピュータープレイのギターソロが恐ろしいことになっている。これを優鶴ならやってのけるだろうかと 考えながら、一曲めに同じく出来に自信が持てないまま、演奏が終了した。
 今度はなにも言わずに、美咲とも目を合わせず、恒幸は息を凝らして次の曲を待ち構えた。
 三曲めに流れたのは、ヘヴィメタルナンバー。のっけから、天城橋駅に着いたときに見た人込みのようなバーが モニターの上部から降ってきた。もうここまできたら破れかぶれとばかりに、恒幸はコントローラーを掻き鳴らした。
 美咲も隣でなにか、ロボットのように人並外れたプレイングをしている。ふたりとも、額から流れ出す汗のことも 忘れて、フィニッシュを目指した。
 ゲームイズ・オーバー、というボイスが流れ、三曲すべてが終了した。
「つぁーー! 全然できた気がしねぇっ!」
「あたしもですぅ……」
 ふにゃふにゃと、美咲は上体をドラムパッドの上に倒した。
 ややあって、モニター上にふたりのプレイの評価が現れた。
「七十六点、これっていいほうなのか?」
「あたしは五百四十八点って出ました」
「……!!」
 あまりの得点の開きに、恒幸は唖然とした。
 次に現れた画面にハイスコアランキングがあったが、トップのプレーヤーは八百九十三点というとんでもない 点数を叩き出していて、ふたりは足元にも及ばなかった。
「どんまいですよ、先輩っ。ほら、これはゲームですから!」
 ハイスコアランキングを見て目が点になっていた恒幸に、美咲がフォローを入れる。
 確かに、実際に部活で音合わせをするのと、ゲームをプレイするのとでは評価の基準が違うということは、恒幸も 承知の上だ。しかし、千点満点か、もしくはそれ以上の得点があるかもしれないというのに七十六点というのは、 学校のテストで一桁の点数を取るのと同じような気がして、ちょっと心が痛かった。

 

「すみませんねぇ先輩、今日はいっぱい遣わせちゃって」
 申し訳なさそうに言う美咲の手には、紙袋がふたつばかり入ったビニールの買い物袋があった。
 繁華街に立つビルではよく知られた店で、恒幸は美咲のために、ペンギンの縫い包みと、猫のキャラクターの 携帯ストラップを買ってやった。形に残るものはちょっと値が張るけれど、美咲がそれをずっと持っていてくれる のならと思って、彼は出費を惜しまなかった。
「いや、俺も『東京ヘンデ』には初めて行ったけど、面白い店だって思ったよ」
「あそこは名前のとおりけっこう変なものいっぱい置いてますしね」
 笑ってそう言うと、美咲はビニール袋からペンギンの縫い包みが入っているほうの紙袋を取り出した。
「はいっ、これ」
 突然、美咲に買ってやったはずのものを差し出され、恒幸は戸惑った。
「これって……どうして俺に?」
 すぐには受け取れず、恒幸が尋ねると、
「違います。先輩には、預っててもらうだけです」
 と美咲が言った。
「預るって、なんで?」
「もうすぐ、優鶴の誕生日なんですよ」
 物柔らかな顔で言う美咲に、恒幸は心を打たれた。
「だからこれは、先輩がいいタイミングだな、って思うときに、優鶴に渡してあげてください」
「美咲ちゃんが渡すんじゃ駄目なのか?」
 恒幸は思った。部活仲間であるだけの自分より、手を繋ぎ合う仲である美咲にプレゼントされるほうが、優鶴も 喜ぶんじゃないか、と。
 ところが、
「駄目です」
 断言するように美咲は言った。
「なんで……?」
 恒幸としては、その理由を聞くまでは美咲に差し出された紙袋を受け取ることができない。
 少し間を空けてから、美咲が言った。
「優鶴、先輩のことが好きなんだと思います」
「えっ……?」
 予想だにしなかった言葉を聞かされ、恒幸は一瞬我が耳を疑った。
「ほら、先輩が機材運びを手伝ってくれたときも……」
 言われて、恒幸は思い出した。
 あのとき優鶴の一声がなかったら、自分は機材を運ぶのを手伝うには至らなかったかもしれない。優鶴は、どうにか して手伝わせることで、一緒に機材を運びたかったのかもしれない。
「あぁ、あのとき……」
「それに、土肥先生がクラブから先輩を追い出そうとしたときも、優鶴は先輩のことを必死で庇いました」
「……」
 言葉が出なかった。
 いつもふたりを代表して挨拶したり、自分との会話をほぼ独占している美咲の陰で、優鶴はもしかすると、美咲に 取って代わるためのチャンスを窺っていたのかもしれない。そう考えると、今まで優鶴の気持ちを無視して美咲に ばかり愛想を振り撒いていた自分が、途端に恨めしく思えて。
「確かに、あたしがしゃべってばかりいたから、優鶴はなかなか言い出せなかったと思うんです」
「……うん」
「でも、先輩もわかってたはずです。優鶴の気持ちを」
「……」
「だから、無理にでも優鶴に声をかけてあげなかった先輩も悪いと思います」
 どうして俺が悪者にされるんだよ……なんて言えるはずがなかった。
 実際、優鶴に対して抱いた罪悪感は大きいのだから。
 引っ込み思案で、発言力が弱いにもかかわらず、優鶴はいつでも、恒幸に直向きな思いを抱いていた。
 彼女の切実な思いを裏切ってしまったという行為は、自分でも許しがたい。
「ごめん……」
 そう言って、ようやく恒幸は、美咲から紙袋を受け取った。
「謝る相手が違いますよ」
 苦笑して、美咲が言う。
「そうだな」
 恒幸も苦笑して、バッグの中に紙袋をしまい込んだ。
 そのとき、
 ――きゅう〜……。
 美咲の胸のあたりから、可愛い腹の虫の鳴き声が聞こえた。
「えへへ、もうこんな時間ですもんね」
「それもそうだな」
 笑って、携帯電話を閉じたままの状態で時刻を確認する。十八時五十二分だった。
「ご飯、食べてくか?」
「あたしは構わないですよ」
 優鶴だったらあと八分でアウトだったと聞かされ、彼女に午後七時の門限があるということを、恒幸は初めて知った。
「どこがいい?」
「うーん……川辺の水上カフェとかどうですか?」
 言われて、恒幸は、そんなものがあったのか、と思った。
「綺麗な夜景が……もうちょっと暗くなったら見れると思うんですけど」
 空を見上げた美咲に続くと、陽が落ちて青と赤の光が混ざり合った幻想的な風景と対面した。真っ暗になるまでには、 あと半時間はかかる。でも、食事をしている間にそれは実現しそうだ。
「じゃ、そこにするか」
「はいっ」
 美咲の提案に異論を唱えるだけの知識も、余裕も、資格さえも持ち合わせていないように、恒幸には思えた。

 

 七時半を過ぎ、辺りは暗くなった。
 美咲が言ったとおり、見る者の目を楽しませる光景がふたりの前に現れた。川に架かるライトアップされた橋と、 駅ビルや百貨店の窓から漏れ出す光。まるで、光のオーケストラのようだ。
 水上カフェで夕食をとり終えたふたりは、川辺の遊歩道を、やおら落ち着いた足取りで歩いた。
 夜風が、木の葉と川のにおいをふたりに運んでくる。都会だからお世辞にもいいにおいだとは言えないけど、 ここでにおう自然の香りは、家の周りでにおうそれとはどこか違った。
 車道の喧噪から解き放たれた静けさの中で、美咲が話し始めた。
「先輩……今日はいろいろと、ありがとうございました」
「ああ、どういたしまして」
 半分だけ美咲のほうに顔を向けて、あとは目線を移動させることで補って、恒幸は言った。
 見ると、美咲も同じような角度だけ振り向いて、同じような目遣いで恒幸を見ていた。
「たくさん我がまま言っちゃって、迷惑かけたかもしれませんね」
 少し俯いて、しおらしそうに言う美咲。
「迷惑ってほどでもないけど……」
 恒幸が目線を前方に移して、
「……久し振りによく動いたから、疲れたな」
 と言った。
 今まで恒幸にとって、週末というのはたいてい家でマンガを読んだりCDを聴いたりして、家事も積極的に手伝わずに ぼけーっと過ごす時間だった。それが部活を初めてから段々と変わってきて、ついには今みたいに、滅多に出てこない 繁華街にまで足を運ぶようになった。そういう意味では、自分の世界を広げてくれた美咲には、むしろ感謝したい ぐらいだ。
「情けないですよ、先輩。あたしでもまだこんなに元気なのに」
 身振りでスタミナやヴァイタリティーといった言葉を表現する美咲を見て、恒幸は、美咲ちゃんは特別だろ、と 言おうとしてやめた。
 美咲は、特別がられたり、羨望を向けられるのがあまり好きではなかったのを思い出して。
「ははっ。美咲ちゃんにはやっぱり敵わないよ」
 謙遜する恒幸に、美咲は、得意顔でえへっと笑った。
「先輩」
「ん?」
「後悔、してませんか?」
 また目を伏せて、細めの声で美咲は言う。
「貢がされたことか?」
 夕食のときは割り勘にしたのにまだ引き摺っているのかと思って、恒幸が問い質す。
「いえ。あたしなんかのために、一日遣ってくれたことです」
 含羞んだ美咲の笑顔。
 先輩後輩の関係からするともっともだけど、ここまで謙ってものを言う美咲が、恒幸の目にはなんとなく奇妙に映った。
「なに言ってんだよ今更。美咲ちゃんが頼んだことじゃないか」
 もしかすると今日一日、美咲は嬉しさという仮面の下に、心苦しさという顔を匿っていたのかもしれない――そう心配 して言葉をかけた恒幸に、美咲は、
「確かにあたしのお願いでした。でも……」
 瞼を半分ほど閉じて、静かに言った。
「……差し出がましいお願いだったから、断られたらどうしようかな、って思ってたんです」
 恒幸の心の中で、美咲のヴィジョンか小さくなっていく。あれだけ恥知らずだと思っていた美咲が、実は当たって砕けろ の精神でデートを願い出ていたということを、恒幸は意外に思うと同時に、殊勝だと思った。
「馬鹿なやつだな」
 美咲の頭の上に手を載せて、恒幸は言う。
「えへ……どうせ馬鹿ですよ、あたしなんて」
 口では不貞腐れつつも、美咲の顔は笑っている。
「でも、馬鹿だったから……今こうして、先輩と並んで歩けてるんだと思います」
「……それもそうだな」
 言われてみれば自分も馬鹿だと、恒幸は思った。
 本当は優鶴のことを考えて、美咲とのデートを断りたかった。優鶴は、美咲とは一対の蝶の羽根のようであるのに、その 羽根を毟り取るようなことをして、寂しい思いをさせたくなかった。
 でも自分は、強いて優鶴に寝返りを打って、美咲とデートをしてしまった。
 こんなにも自分は無節操だったのかと思うと、自分自身を、本当の意味で馬鹿だと罵ってやりたかった。
 けれども今……美咲と並んで歩いているこの時間が幸せだと言うのは、変えがたい事実だ。馬鹿だから駄目元でデート の約束を持ちかけることができた美咲と、馬鹿だから彼女を選ぶことができた自分の運命を、恒幸は胸いっぱいに 感じ取った。
 それから少し歩いて、ふたりはベンチに腰掛けた。
 傍目にはこれほどアベックらしい光景はないだろう、と恥じらいながら。
「なぁ、美咲ちゃん」
 今度は恒幸のほうが先に口を開いた。
「はい」
「ひとつ、訊いてもいいか?」
「なんですか?」
 恒幸は鼻で呼吸を調えると、美咲の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「始業式のときからずっと、優鶴ちゃんとは手を繋いでるけど……あれって」
 言われて、美咲は顔を俯けた。
 やはり優鶴の話はまずかっただろうかと思って、恒幸は少し慌てた。
「……やっぱり、気になりますか?」
 神妙な顔つきで美咲が言う。
「その……なんとなくな」
 未だに恒幸の心の隅のほうには、美咲と優鶴が同性愛の関係なのではないかという類いの、気持ちの悪いわだかまり が巣食っている。そのわだかまりを取り払うためにも、美咲には、本当のことを聞いておきたかった。
「えへ、いつまでも隠し立てはできませんよね……」
 場打てからか本心からか、美咲は観念して腹を割る体勢を作った。
「先輩」
「ん?」
「あのときの約束、もいっかい思い出してくださいね」
 美咲に“約束”という言葉を使われると、その心当たりはただひとつに絞られる。自分のことを変と思わないでくれと いう、あの約束だ。相当気にしているのだな、と思いながら、恒幸は首を縦に振る。
「あたしと優鶴は、中学も一緒だったんです」
 恒幸から一度目を逸らせて前を見ると、美咲は記憶の糸を引き寄せ始めた。
「でも、そのときはお互い友達でもなんでもない、ただの同級生でした」
 美咲の言葉を、恒幸は俄かには信じることができなかった。
 なにしろ、部活ではぴったり息の合った演奏をするし、まるで感情を共有しているかのように続けざまに笑ったり、 恥ずかしがったり……迷惑ではないかと思うぐらいに、手を繋いでいたり。
 恒幸には、美咲と優鶴は友人や親友といった関係を越えて、双子のようにさえ見えたのだから。
「もっと言えば……あたしは優鶴のことを、友達だなんて認めていませんでした」
「……えっ?」
 今のふたりの関係からは想像もつかない言葉を聞かされ、恒幸は驚いて息を呑んだ。
「当時のあたしには、優鶴の思いやりを受け入れるだけの、器の大きさがなかったんです――」

 

 ――あのときのあたしは、今よりもずっとずっと我がままで。
 ひとの言うことを素直に聞けない、性格が捻じ曲がった人間でした。
 先生の注意にもそっぽを向いて、親の心配にもにべもない顔をして、ただ、自分がほんとうに心を落ち着かせられる 場所はどこなんだろうって、必死になって探してました。
 そんなあたしに愛想を尽かしてしまうひとたちの中で、優鶴はあたしから、目を逸らそうとはしませんでした。
 純粋な気持ちと、純粋な眼差しで、いつもあたしのことを心配してくれたんです。
 でも、それなのにあたしは、優鶴の気持ちに応えてあげることができなかった。しつこくあたしに素直になってと せがんでくる優鶴を、あたしは邪魔者扱いしていました。
 あたしと違うことを考えてるひとは、みんな敵だ、悪魔だ、っていう目をして。
 嬉しいはずなのに。
 優鶴に泣きつけば、素直になれると思ったのに。
 結局、中学を卒業する間際まで、あたしは優鶴を拒み続けました――

 

 ――卒業式の二週間ぐらい前に、あたしは自分の将来を本気で気にかけてくれた先生の気持ちをないがしろに して、遣る瀬なくて、この手で先生の顔を……思いっきり殴りました。
 すぐに生徒指導に呼び出しを喰らって、親も電話で呼び出されて。
 無期停学って、告げられました。
 目の前に卒業が迫ってたのに、こんな醜い行いをしてしまったあたしを、優鶴はとても恨みました。絶対一緒に 卒業しようねって、聞く耳をもってなかったはずのあたしに、何度も言ってたらしくて。
 あたしの胸に飛び込んできて、優鶴は泣きじゃくりました。弱い拳で、ぽんぽんとあたしの肩を叩きながら。
 でも、そこまでしてもらったのに……あたしは優鶴に言ったんです。
 いいよ、卒業式には行かない、って――

 

 ――卒業式の前の日の晩に、優鶴からあたしに電話がありました。
 これからなにを言われるか、あたしはわかってました。
 絶対に、卒業式に出てって。お母さんとお父さんも連れて、出席してって。
 だけど、あたしは怖かった。式に出ても、先生に追い出されるかもしれないし、クラスメイトに白い目で見られる かもしれないし。
 それになにより、あたしの名前が呼ばれなかったら。
 一切から逃げるように、切るよ、って言いました。そしたら優鶴、涙まじりの声で、なにかあったら私が責任を取る 、って……。
 すごく、心が張り裂けそうでした。
 こんなにも優鶴は健気だったんだって、初めて気付いたんです。卒業式の前の日になってやっと。いくらなんでも、 遅すぎますよね――

 

 ――結局あたしは卒業式に、暗い顔を引っ提げて出席しました。
 なんとか席にもつけて、だけど周りの生徒の汚い物を見るみたいな目つきに怯えました。
 やがて卒業証書授与のときが来て。
 壇上の担任の先生は……あたしの名前を飛ばしました。
 その瞬間、優鶴が式の最中にもかかわらず立ち上がって、大声で叫ぶように言ったんです。
 先生、誰か忘れてませんか、って。
 むろん先生は優鶴の言葉よりも、式の厳かな雰囲気に水を差したことを注意するために、優鶴にすぐさま座るように 言いました。でも、優鶴は、構わずに続けました。
 名前だけでもいい。証書はなくてもいい。呼んであげてください、柿本さんの名前を。
 会場は言うまでもなくざわつきました。無理もないです。予行演習ではなかったはずのシナリオを、優鶴が 演じたんですから。
 あとで聞いたんですけど、親はあたしに、最終的な学校側の措置が無期停学じゃなくて、仮退学だってことを 隠してたらしいんです。あたしを、無駄に安心させようとして。
 それであたしは結局卒業する資格のない生徒だったんですけど、式の雰囲気を取り戻すためには致し方ない ことだと思って、先生はあたしのクラスの生徒の名前を読み上げるのをやり直しました。
 二度めにあたしの名前が呼ばれて……大きな声で返事をして立ち上がったら、あたしはぼろぼろと涙を流してました。
 拍手がどこからともなく湧き起こって……どうしたらいいのかわからなくなって、とにかくあたしは泣き崩れました。
 泣き腫らしてぐちゃぐちゃになった顔を、ずっと隠したままで――

 

 ――式のあと、あたしと優鶴、それとあたしたちの親は、揃って校長室に呼び出されました。
 式を台無しにした責任を取らされることを、その場に居た全員が覚悟しました。
 でも校長先生は……優鶴という勇気ある、素晴らしい友達を持ったあたしを称えて、証書をじかに手渡して くれたんです。
 あたしはなにもしてないのに。
 あたしが卒業にこぎつけたのは、ひとえに優鶴のおかげなのに。
 校長先生は、あたしのほうを向いて、にっこり笑ってくれました。
 優鶴もあたしに向かって一言だけ言いました。
 がんばったね、美咲ちゃん……って――

 

「――それからあたしは、かけがえのない友達になった優鶴をなにがあっても守りたいって思って、優鶴の手を 繋いでるんです」
 途中幾度となく俯きながらも、最後には美咲は笑顔になって、誇らしげに言った。
 目を閉じ、恒幸は実際の場面をイメージする。
 打ち沈んでいた美咲を、不退転の決意で卒業させようとしていた優鶴。教師にも両親にも成し得なかっただろう 大役を、彼女は見事に果たしたのだ。ただ、こう褒めてやるしかない。
「へぇー……強いんだな、優鶴ちゃんって」
「はい」
 親友に馳せる美咲の思いは、やはり誇らしそうだ。彼女の得意顔が、そう物語っている。
「でも、それに引き換えあたしはどうしようもなく弱くて……」
 苦笑して、美咲が言う。
「もしかすると……手を繋いで守られてるのは、あたしのほうかもしれません」
 両肩に顔をうずめて、気恥ずかしそうに彼女は言った。
 ドラマーだったり、元気いっぱいだったり、ざっくばらんに思いの丈を言い表したり――美咲の女の子らしからぬ 特徴は、彼女が強くあろうとするゆえにみずから装った仮面で、その下には、素直になれない性格とか、誰かを 頼りにする弱い気持ちが隠されていて――。
 そのせいで虚勢を張ってるんじゃないかと、恒幸は思った。
 すっと、恒幸が美咲の前に手の平を差し出す。
「……?」
 不思議そうな目で、美咲は彼の手を見つめた。
「俺とも手を繋ごうぜ。そしたら、今よりもっと安心できるんじゃないかな?」
「そうですね……」
「……?」
 すぐには手を握らなかった美咲を、今度は恒幸が不思議そうに見た。
「……でもそれじゃ、あたし、もっともっと弱い人間になっちゃいそうな気がします」
 少し、美咲の顔が歪む。
 きっと彼女の笑顔も自分自身を鼓舞するための道具にすぎなかったのだろう――恒幸はそう忖度した。
「馬鹿言うなよ。そんなに無理して強がってるほうが、辛いだろ?」
「無理なんて……してないです」
 気丈な言葉とは裏腹に、美咲の顔は地面を向いた。
「美咲ちゃん……」
「あたしっ、無理なんてっ……!」
 再び持ち上げられた美咲の顔には、隻眼から流れ落ちた涙の跡があった。
 間髪入れず、彼女は恒幸の肩に顔をうずめる。
「うぅっ…」
「馬鹿。頑張るっていっても、無理したら逆効果だろ?」
「すみまぜん……せんばいっ」
 声涙倶に下る調子で、恒幸が差し出した手を、美咲は両手で握り返した。
「弱くたって、頼れるひとが居るんだったら、無理して強がる必要なんてないんだ」
「……はいっ」
 しばらく、美咲は昂ぶった感情が落ち着くまで、恒幸の肩で泣いた。
 恒幸の嗅覚を、何度も美咲のシャンプーと香水の心地良い香りが刺激する。女の子のにおいを、体を、そして 心を――こんなにも近くで感じたのは、初めてだった。
 風にそよいでざわめく木々の葉は、どことなくふたりを冷ややかな目で見ているように見える。けれども 恒幸は、そういう目で見たいのなら勝手に見ておけばいいと思った。美咲が必死だったということを理解しているのは、 今この場では、自分ひとりだけなのだから。
 美咲のしゃくり上げる声が止まるまで、恒幸は赤子の子守でもするかのように、無言で、彼女の髪を撫でて宥めた。
「ごめんなさい……先輩」
 顔を伏せたまま、美咲は仮面を取り去った、本来の心で謝った。
「これからも、たぶん、いっぱいごめんなさいすると思います」
「うん……」
「それでも、先輩は……あたしを許してくれますか……?」
 真っ赤になった顔を上げて、美咲を恒幸の目を真っ直ぐに見つめる。
「ああ、もちろんさ」
 穏やかな顔と、穏やかな声で――恒幸は、美咲を受け容れた。
「嬉しいですっ……!」
 美咲は涙を振るって、心からの笑顔を作った。
 そして、恒幸の顔のすぐ近くに、自分の顔を持ってきた。彼女の目と鼻と唇、顔のすべてのパーツが、恒幸のそれらと 同じ高さになる。
「……初めてですか?」
 泣き腫らして赤くなった顔を更に赤く染めながら、美咲が言う。
「ああ。どきどきする」
「あたしもです」
 ふたり、いよいよ動悸が激しくなるのを感じた。
 美咲の華奢な肩を、恒幸が両手でしっかりと支える。
 瞳を閉じて数秒ののち、ふたりの唇は重なった。
 柔らかな感触が、お互いの神経を敏感にさせる。
 何秒の間、こうしていたかはわからない。気が付くと、お互いの唇の間に再び距離ができていた。
「先輩……あたし、先輩のこと、好きです」
「俺も……」
「……その言い方は、不公平ですよ」
「ごめん……。好きだよ、美咲ちゃん」
 好き嫌いの“好き”じゃなくて、男女の“好き”。
 テレビや映画では恥ずかしくて耳を貸すのも憚られたこの言葉を、恒幸はおのずと美咲に向けて発した。
「……えへへっ」
 照れ臭そうに笑う美咲がたまらなく可愛いと、恒幸は思った。
 部活動に精を出すのもいいけど、たまにはこういう、心を通わせる日があってもいいと思う。
 なぜなら俺は――美咲ちゃんの気持ちを深く理解しようと努めているのだから。

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