第5章 Hésitation - 青息吐息
Et l'une de ses cadettes de ne pas se présenter, ça fait hésiter l'autre.

 

【1】

「――がたー……遠方ッ!!」
「んぁいっ!」
 藪から棒に現実世界へと引き戻され、恒幸は、机がガタンと音を立てるほど荒々しく立ち上がった。
 寝ぼけ眼で教壇を見やると、数学担当の渡川とがわというちょっと年を食った教師が青筋を立てて睨んでいるのが見える。 これから褒められたり励まされたりするのではないということだけは確かに思えた。
「お前寝すぎや」
 渡川の関西弁が、それ自体を面白がるクラスメイトたちに大うけして、どっと周囲から笑いの波が立つ。
 こういうとき、関西のひとはどう返すのだろうと恒幸は考えた。「寝る子は育つって言いますし」は安直すぎる。「メ ラトニンの分泌メカニズムが正常じゃないんです」、この生物チックな言い回しはたぶん、数学教師の渡川には通用 しない。「深夜番組はやっぱり日本男児として欠かせないですし」、いやいやこれを言っては嘘になる。自分は十時 すぎには寝ているのだし。
「あぁその……妖精さんが現れて僕を夢の世界に……」
 とりあえず、恒幸は適当にアドリブを捻り出してみた。
 教室中が一瞬、シーンと静まり返る。そのあと、反動で笑いの爆弾が爆ぜた。
「アホはええから早よ答案取りに来んかい」
 湿った目つきで恒幸を睨みつけながら、渡川は彼の答案をひらひらと翻らせる。
 ……って、そんなことをされては困る!
 クラスメイトたちの視線が徐々に答案に集まり始めていたのに気付いた恒幸は、慌てて教壇の渡川のもとへ駆けつけた。 幸い、渡川は点数の書かれている部分が見えないように答案を持ってくれていたために、恒幸がなにより心配していた、 点数を晒されるということだけは免れた。
「……お前、家で寝とんのか?」
「あ、はい。八時間ぐらい」
「ようそれでまだ居眠りできるなあ……居眠り魔人ちゃうか自分?」
 がはははっ、とクラスメイトたちが大げさな笑い声を立てる。横目で彼らのほうをちらっと覗き見ると、勝流が首を 反らせて額に手を当てているのと、長束が腕を頭の後ろで組んで、我関せずといった態度でどこともつかぬ空間を見て いるのが確認できた。
 ……笑えよ。お前らもいっそ俺の痴態を笑ってしまえよ。
 破れかぶれに、恒幸はそんなことを思った。
「寝るのもええけど勉強せえよ。お前どんどん成績悪なっとるからなぁ」
 聞き耳を立てているクラスメイトたちに向かって無思慮に成績のことを口に出され、恒幸は冷や汗をかく思いだった が、それでも点数を公表されていないだけましだと思った。
「次、尾崎ー」
「はい」
 次の生徒が答案を取りに行くのをぼうっとした目で眺めながら、恒幸は自席に戻って答案を確認した。
 四十二点。要注意点すれすれだ。一問目からいきなり豪快に下ろされたらしい、力の入った不正解のチェックマーク。三角 のチェックで部分点をもらっている問いもいくつかあるが、十点中二点なんていう、ひどい有り様だ。総じて、丸の数は 少ない。途中で最後まで見る気をなくして、恒幸は用紙の表面を内側にして答案を折り畳むと、筆箱の下に敷いて再び 机に突っ伏した。
 このままでは卒業が危ぶまれるとか、親にどう説明したらいいのかとか、そういう類の考えを巡らせる余裕なんてない。
 一昨日の美咲とのデートの場面が今もなお脳裡でスライドショーのように再生されるので、気も漫ろになって、真面目な ことが考えられなくなってしまうのだった。
 ――デートなんて自分とは違う世界に住む人間同士がするものだと思っていたのに、自分がしてしまった。
 他人に貢ぐぐらいならむしろ自分のために浪費する方針を掲げていたのに、自分のためでない多くの出費があった。
 キスなんて一生することはないだろうと思っていたのに……その味を知ってしまった。
 美咲とデートすることによって生まれたいくつもの場面は、去年まで恒幸が描いていた青写真の中の風景とはまったく 違う。美咲は恒幸の味気ない、古い青写真を破り、ばらばらになった断片の一つ一つに彼女なりのアレンジを施した。そ して、その“創り変えた”断片を繋ぎ合わせて、恒幸に返したのだ。
 自分が描いた未来なのだから、すべてが思い通りになると思っていた。
 他人に定められる未来なんて――“定められた運命”なんて、あってたまるものかと思っていた。
 でも、訪れた未来は、自分が予想だにしなかったもの。
 ただただ、人生なにが起こるかわからない、というのは強ち間違ってもいないのだなと思う――
 心地良い時間が過ぎ、再び彼が目を覚ましたときには、例のふたりの姿が彼の近くにあった。
「哀しい点数だなあ……ツネさん」
「南ぁ無ぅ〜」
 気の毒そうな顔で恒幸の答案を拡げて見入る勝流と、なぜか目を閉じて両手を合わせ拝む長束。
「勝手に見るな」
 起き抜けに、恒幸が強引に答案を奪い返す。
「委員長も勝手に俺を殺さないでください」
「でも点数は死んでるよね」
 間を置かず、長束は返す。
「……」
 つっこもうとして、つっこめないことに恒幸は気付いた。
「余計なお世話かもしれないけど、平均点ぐらいは取ろうぜ」
 両手を恒幸の机についた勝流が、俯けた顔を横にぶんぶんと振りながら言う。
 そういえば、平均点を聞かないまま居眠りモードに戻っていたなと、恒幸は思い返した。勝流の言葉からすると、自分は 平均点を取れていないということになる。五十点ぐらいはあったのだろうか。
 当て推量から恒幸が弾き出した点数に、長束が容赦なく訂正を加えた。
「平均点、七十点だって」
「うそっ!?」
 教室の天と地がひっくり返って、遠心力を味方につけた自分たちと机と椅子とが重力に逆らい、またひっくり返って 今の状態になるような映像を、恒幸は錯覚のうちに観たような気がした。
「ぐらいって、イナズマ!」
「俺八十六な」
 救助船を勢い良く発進させて、勝流が遠い沖に消える。
「委員長っ」
「悪いね。私満点」
 恒幸の出したSOSに脇目も振らず、長束の操縦するヘリは積乱雲の彼方へと消えた。
「そんな……確か自信ないって」
「でも全部合ってたものは仕方ないでしょ?」
 顎に手をやって、長束は斜め上方に黒目を移動させる。
 そりゃ仕方がないよ。満点よりもいい点なんてあるわけがないんだし――一切の気力をふたりに奪われた気がして、恒 幸は、長束の言った平均点を聞いて仰け反らせた体を、再びぺたんと机の上に倒した。
「鬼です。あなたたちはオーガです」
 口を尖らせて、恒幸はふたりに向けて不快感を吐露した。
「そういうことを言う遠方クンは嫌い」
「……だ、そうですが」
 長束を陣頭に置いたふたりの反撃に、恒幸は無言で顔をうずめた。
「なぁんか、見損なっちゃったな。遠方クンのこと」
 溜め息混じりに、長束が言った。
「いいよ俺。もとから見る価値なんてないし」
「違うよ、クラブのこと。ほんとにやる気あるの?」
 話の舞台袖から姿を現した、テストとは無関係な単語が、恒幸の耳をぴくっと動かした。
「……そりゃ、なかったら今頃やめてるさ」
 長束の目を見るでもなく、ぼんやりとした顔で恒幸は答えた。
「ほらまた、中途半端な言い方」
 苦々しい顔になって、長束が鋭く指摘する。
「遠方クン男なんだからさ、こう、もっと、聞かれた質問にはイエスかノーかで、はっきり答えたほうがいいと思う」
 長束の心添えに耳を傾けながら、うんうんと勝流が目を閉じたまま首を縦に振る。
 恒幸は、それは生まれもった自分の性格がそうさせるのだから難しいだろう、と心の中で反対した。さっきも長束は、 自分の飛ばした不満の言葉を聞いて、嫌いだなんて言ったけど、自分なら絶対、好きじゃないという気がした。なぜ なら長束はサバサバした性格を、自分は優柔不断な性格をそれぞれ持っているから。今日明日に性格を正反対にすること なんて至難の業だと、自分では思う。
「イエスだと思わなくもないような気がしなくもないです」
 半ば捨て鉢になって、恒幸は態と中途半端な物言いをしてみた。
「……そういう気でさ、遠方クンはこれからもずっといるつもり?」
 長束の顔から、冗談めいた色が消える。
 恒幸は、自分の言ったことを少し後悔した。
「この際はっきり言わせてもらうけど……遠方クンの今の性格じゃ、なにもかも成功に持っていくのは難しいよ」
「委員長の言うとおりだ」
 腕を組んでいた勝流も、厳しさを含んだ真剣な目つきで恒幸を見る。
「例えばツネさん、お前の家が火事になって、あぁ燃えてるー……って、お前はそういう見方をするのか?」
「……それはしないだろ」
 勝流の挙げた例は誇張が過ぎている気がしたが、原理は同じことだと思って、恒幸はそう答えた……つもりだった。
「遠方クン、もっかい訊くよ?」
 長束は恒幸の目を真っ直ぐに見つめて、
「クラブ、やる気ある?」
 今一度、同じ質問をした。
「…………まぁ」
 勝流と長束が、同時にがくっと体勢を崩す。
 恒幸も言ったあとになって、ふたりのようにがくっとコケてみたい衝動に駆られた。
「……どうしましょうか、生徒会長サン」
「……もう少し、様子見かな」
 ふたりの言葉が自分の意識を掠めそうな少し上の高さを羽ばたいて通り過ぎていくような気がして、しばし恒幸は狐に 抓まれたような顔になった。
 言えるものなら、コンマ数秒の差でイエスと言ってやりたい。
 だけど、どうしても後輩たちの心に近づくことを先に考えてしまって、軽音部の活動に対する情熱の炎は揺らいでいた。
 優柔不断な、恒幸自身の持って生まれた性格のように。

 

 放課後。
 掃除を早めに終え、職員室に寄って取ろうとした部室の鍵が所定の場所に掛けられていなかったのを確認すると、恒幸は なにも持ち出さずに職員室を出て、部室を目指した。掃除をしていたから、活動精神旺盛な美咲と優鶴に出し抜かれてしま ったのだろう。単純に、彼はそう思った。
 今日からまた、後輩たちとの部活動が始まる。
 長束に答えたとおり、やる気があると言い切るだけの自信はまだない。自信をつけるためにはまず、美咲と優鶴の 思考に歩調を合わせてやる必要があるのだ。
 大丈夫、まだまだ文化祭まで時間はたっぷりある。この計画が遅れたら、夏休みも返上する覚悟だ。そうでもしない と、三年にもなってから、しかも未経験だったベースに挑んだ意味がなくなってしまう。
 時間がかかってもいいから、今は目先のステップを着実に踏みたい。恒幸としては、その一心だった。
 やがて彼は、部室への階段を降りるための扉の前に着いた。今日は閉まっている。いつもなら、少しだけ隙間が空いて いるはずなのだけど。
 ドアノブに手をかけて回してみても、果然扉は開かなかった。
 ……あれ、おかしいな。
 鍵はもう、職員室から持ち出されていたのに。美咲と優鶴のふたりが先に部室に来て準備をしているものだと思い込んで いたけれど、彼女たちの気配すらない。どうしたものかと、恒幸は思案投げ首をした。
 土肥先生あたりに訊いてみればわかるかも……と思い、歩を回らせて再び職員室を目指そうと、校舎の影から飛び出した 恒幸に――
「うわっ!」
「……きゃっ!」
 ひとりの生徒がぶつかった。
 景色がぐるりと回転し、空が視界に飛び込んだ直後、
「……っでっ!」
 恒幸は肘に激痛が走るのを覚えた。
 どうやら体勢が崩れたのは自分のほうで、なんとか倒れる体を支えようとしたが間に合わず、肘を思い切り アスファルトの地面に打ちつけてしまったらしい。歯を食いしばって、恒幸は、襲い来る痛みを堪えた。
「大丈夫ですか、先輩っ!?」
 きつくつぶっていた目を見開くと、ひどく焦った美咲の顔が視界に飛び込んできた。
「んっ……あぁ、なんともない……ったたっ」
「なんともなくないですよ! すごい血が出てるっ」
 美咲に抱え上げられたほうの腕を見て初めて、肘の擦り傷がひどいことに恒幸は気付いた。患部の皮膚は原形が 半分以上失われ、血液が滲み出している。こんな状態であるにもかかわらず、恒幸は、夏服って不便なところも あるんだな、と思った。
「大丈夫だって。こんなんで死にゃしないから」
「だめですよ、早く保健室に行かないと!」
 美咲が抱え上げたのとは反対の手をふと見ると、恒幸はそこに、部室の鍵を発見した。
「あぁ。鍵、美咲ちゃんが持ってたんだな」
「そんなことはいいですから、早くっ」
 美咲の手に引かれ、恒幸は重い体を立ち上がらせる。じんじんと神経に痛みを伝える患部を見て、恒幸はまたぎゅっと 目をつぶった。

 

 美咲に連れられるまま、恒幸は保健室向かいの手洗い場にやってきた。
 彼が蛇口に手を伸ばすのよりも先に、美咲の手が蛇口を掴む。彼女が捻った蛇口から、水が流れる。続けて、恒幸の負傷 したほうの腕を抱えて、彼女は患部を流れる水に差し入れた。びりっと、転んだ直後以上に鋭い痛みが、恒幸を襲う。 反射的に閉じた目をゆっくりと開いて、彼は、傷口と向き合う美咲を見た。
 とても、真剣な表情。それはまるで、昔、自分が公園で転んでしまったときに負った傷を同じように水で洗い流して くれた、献身的な母親のようだ。
 美咲は蛇口を逆に捻って水を止めると、懐からハンカチを取り出して、恒幸の水に濡れた患部を拭った。患部からハン カチに、未だ凝固しない血液が移る。痛みを堪えながらも、恒幸は穏やかな顔を美咲に向けた。
「……ありがとうな、美咲ちゃん」
「そんな……あたしは、当然のことをしただけですよ」
 なおも眉が逆さに曲がったままの、美咲の気遣わしげな顔。
 彼女は血液と水を吸ったハンカチをポケットに忍ばせて、再び、一回り大きい恒幸の肩を支えた。
 保健室のドアを美咲がノックして、開く。一礼して、ふたりは部屋の中に足を進めた。
「あら、どっかで見たと思ったら、あのときの……」
 保健の先生が、ふたりの顔を見て思い出すように言った。
「どうも、リピーターです」
「同じくです……」
 苦笑して言う恒幸に続けて、美咲も恥ずかしそうに言った。
「あんまりそういうのは募集してないんだけどね……」
 生半に間接を折り曲げた指を頬に当てて、煩わしそうに先生が言う。
 ふうと短い溜め息をつくと、彼女は、
「遠方くん、だったっけ? そこに座って」
 と恒幸に指示を下した。
「はい」
 返事をして、先生に言われた椅子に恒幸は腰を下ろした。
 部屋を見回すと、三つ並んだベッドのカーテンがひとつしまっているほかは、とくに異状なしといった感じだ。以前 不良の暴力を受けてここを訪れたとき、去り際に訪問者リストをちらっと見ると三十人以上の名前が書き連ねてあった けれど、今日は比較的平和なのかな、と思った。
「遠方くん、三年何組だったかな?」
「A組っす」
 見ると、先生は訪問者リストへの記入を代筆してくれているようだった。
「あ、フルネーム要ります?」
 恒幸がそう尋ねると、
「大丈夫なんじゃないかしら。珍しい名字だし」
 先生は笑ってそう答えた。
 確かに、“緒方”とか“緒形”はあっても、“えんぽう”で“おがた”はそうそうないだろうと思って、恒幸は納得 した。
 ボールペンを置くと、先生は恒幸のほうへ歩み寄ってきた。
「今日はどうしたの?」
 日々何十人という患者を診ているにもかかわらず、苦るでもなく先生は優しい声をかける。
 患部と対面させるのが手っ取り早いと考えて、恒幸は腕を曲げて、負傷した肘を彼女に見せた。
「このへんが、こんなになってしまいまして……」
「あららら……痛そう」
 しゃがんで目の高さを恒幸の肘に合わせると、途端に先生は眉根を寄せた。
 これまであらゆるタイプの患者を診てきたことが、彼女が痛みや疾患の感覚を不完全ながらも共有することを可能に しているのではないかと、恒幸は思う。
「とりあえず、消毒液塗らせてもらうわね」
「あ、はい」
 先生は立ち上がると、薬剤が収められている棚の扉を食器棚みたく観音開きにして、消毒液を探した。ひとつの瓶を 取り出して、彼女は扉を閉める。
「これはけっこう効くわよ」
 得意顔の先生が、瓶のキャップを二本の指で反時計周りに回しながら言う。
 取り外したキャップを置くと、備え付けの綿棒を一本引き抜いて、彼女は再び膝を屈めて恒幸の患部に目の高さを 合わせた。
「ちょっと染みるけど、我慢してね」
 患部に綿棒が当てられたことで改めて感じた鋭い痛みに、恒幸は肘を引っ込める。
「……つっ!」
「先輩……大丈夫ですか?」
 引き攣った恒幸の顔を覗き込んで、美咲が心配する。
 涙が出そうな痛みだったが、恒幸は彼女に余計な気を遣わせたくなくて、平気だと頷いた。
 しかし、美咲の表情は恒幸の言葉も空しく曇りがかったままだ。
「ごめんなさい、先輩。あたしのせいでこんな……」
「美咲ちゃんのせいじゃないって」
 言葉を湿らせる美咲に、恒幸は居た堪れずフォローを入れる。
「……何があって、こんなになったの?」
 罪悪感に顔を歪ませる美咲を不思議そうな目で見つめながら、先生は訊いた。
「俺がこの子とぶつかって、それで、跳ね飛ばされたんです」
 事実を曲げるでもなく、恒幸は事故の内容を端的に説明した。
 説明を受けて、先生が美咲に聞き質す。
「あなた、あのとき遠方くんを担いできてくれた子よね?」
「はい……」
 潰れてしまいそうなほど弱々しい声で、美咲は返事をする。
 親指の腹で下顎を受ける仕種で、先生は少しの間考え込んだ。
「あなたが遠方くんを助けたとき、目つきの悪そうなふたり組の男子生徒を見なかった?」
 先生の問いかけを聞いて、恒幸ははっと思い出した。
 あの日保健室で意識を取り戻したとき、隣のベッドに気を失った不良ふたり組の姿があった。彼らは生指の先生に 担がれてきたと保健の先生は言っていたけれど、もし自分を含めた三人の気絶した姿を美咲が目にしていたとすれば、 彼女はわざわざ不良のほうを無視したのだろうか。それとも、自分と不良は別の場所で倒れていたのだろうか。
 あのとき周りの状況すらわからなかった自分には、不良の暴行に意識を失いかけてから保健室に運ばれてくるまでの一切 の状況がわからなかった。
「いえ、見てないです」
 美咲ははっきりと、そう答えた。
 つまり――不良はあのあと、気を失った自分を放置してどこかへ行ってしまい、別の場所で誰かに、なんらかの理由で 殴り倒され、自分のあとを追うように気を失った。そして、通りかかったか、通報を受けた生指の先生がのびた彼らを 保健室まで運んできた可能性が高い。恒幸は、そう確信した。
「そう……じゃあ、あなたは藤波と間渕のことは知らないのね」
 消毒液を恒幸の肘に塗り足しながら、先生は静かに言った。
「いえ、名前は噂で聞いたことがあります。二年の先輩に、学校じゅうが恐れる悪い生徒が居るから、気をつけたほうが いいよって」
 真剣な目で、美咲は先生を見つめる。
「だから先輩はきっと、そのひとたちにやられたんだなって、想像はつきました」
「うん。あとで遠方くんに確認したんだけど、そうらしいわ」
 恒幸も小さく頷いた。
「でも……どんなひとなのかは、まだ実際に見たことがないんです」
 先生から視線を逸らせて、美咲は俯き気味に言う。
「少なくとも、知らぬが仏よ」
 諭すような調子で先生が言う。
 恒幸も、心の中で彼女の言葉に同意した。君子危うきには近寄らず。臭い物には蓋。これ以上美咲が、自分を打ちのめした 不良のことを知ってしまったら、彼女は怒りのあまり部活動に対する集中力や、優鶴を守り抜くという使命をおろそかに してしまうだろう。あんな経験をするのは自分ぐらいであってほしいと、恒幸は切に願った。
「そうですね……」
 押し殺したような声で、美咲は先生の言葉を呑んだ。
「これでよしと。あとは絆創膏だけど、ちょっと大きいのが要るわね…」
 真っ赤に染まった綿棒をごみ箱に捨て、消毒液の瓶のキャップを閉めてからそれを可動式の棚の上に置くと、先生は さきほど消毒液を取り出した棚の引き出しを漁りだした。
「いいっすよ先生、たぶん家に帰ったら腐るほどあると思いますし」
「駄目。その傷だと空気に晒しておくほうが危ないわ」
 恒幸の遠慮を制して、先生はなおも絆創膏を探し続ける。
 ここに来る前、美咲にも保健室に行くことを強要された。強がって遠慮しても結局は言い包められるのだなと、今更ながら 恒幸は自分が美咲に言ってやったことを思い返した。
 ややあって、何枚かの微妙に面積の異なる絆創膏を、先生は手に集めて持ってきた。
「うーん……これがぴったりね」
 その中の一枚を患部の面積と照らし合わせて、先生は裏紙に手をかける。
「あっ、先生」
 そのとき、美咲が先生の手を止めた。
「なに?」
「あの、それ……あたしに貼らせてもらえませんか?」
「いいけど、どうして?」
「その……先輩にぶつかってしまったお詫びに……」
 縮こまりながら言う美咲を見て、先生がルージュの鮮やかな唇の両端を持ち上げる。
「遠方くんは?」
 不完全な質問だったが、先生に絆創膏を貼られるのがお好みか、美咲のほうがお好みかを聞こうとしているのが 容易に想像できてしまい、恒幸はうら恥ずかしくなった。
「あ、えーと……美咲ちゃんって言ったら怒りますか」
「怒るわけないじゃない。はい、どうぞ」
 そう言って、どこか楽しげな顔で、先生は美咲の手に裏紙を外した絆創膏を渡した。
「すみません先生、我がまま言っちゃって」
 ようやく顔を綻ばせて苦笑した美咲が、それを受け取った。
「女の子は、ちょっと我がまますぎるぐらいがちょうどいいのよ」
「え……あ、はい」
 なにかを懐かしむように、しかし上機嫌で言った先生に、美咲は少し含羞んだ。
 美咲は恒幸の前に回って、先生がしていたようにしゃがむと、彼の目を見つめた。
「先輩……いきますよ」
「あ、ああ……」
 これから特別なことをされるというわけでもないのに、恒幸の胸は早鐘を打つ。
 狙いを定めて、美咲はガーゼ部分に恒幸の肘の患部が収まるように、正確に絆創膏を宛った。そして、粘着部分を、 空気が入り込まないようにしっかりと伸ばしながら押し拡げた。
「どうですか?」
「うん、問題はないよ」
 ふたりの様子を見て、くすっと先生が笑う。
「あの一件以来、すっかり仲良くなっちゃったみたいね」
「……はい」
 恒幸も美咲も、顔から火が出そうになるのを必死で抑えた。
「えーと、あなた、なんて名前だったかしら?」
「はい。一年B組の、柿本美咲です」
「覚えとくわ」
 先生は笑って、デスクのほうへと戻っていった。そして、お礼をして保健室を後にしようとしたふたりに言った。
「でも、リピーターはなるたけ遠慮してね」

 

 保健室を出て、再び部室を目指していたふたりの耳朶に、聞き慣れた声が届いた。
「おうお前ら、どこ行ってた?」
 声がしたほうを振り向くと、脇に出席簿を挟んだ土肥の姿があった。
「あっ土肥先生」
「探したぞまったく」
 眉を寄せて、土肥は呆れた調子で言う。
「ちょっとその、保健室に居まして…」
 恒幸の説明に、美咲が先刻の場面を思い起こして顔を俯ける。
「なんだ遠方、また貧血とか起こしたのか?」
 またというのも、恒幸が去年、一昨年と仮眠を取るため保健室に向かおうとしたときのつけたりは決まって“貧血”だ った。そう言って彼はよく授業を脱け出し、今の若い女の保健の先生が来る前の保健室で、白髪の老けた男の保健の先生に 不快な顔をされるのを意に介するでもなく、堂々と仮眠を取っていた。
 それがもとで、恒幸は、何人かの同学年の女子生徒から「貧血ってツライよねぇ」などと共感を持たれたことがあった。 彼からしてみれば、貧血自体が嘘なので、共感を得られないというのが正直なところではあったが。
「いえ……」
 はっきりとしない口調で、恒幸は否定する。
 土肥はそれを聞いて、一段と訝しげな顔をした。
「じゃあなんだ? 柿本と口論でもして張り倒されたのか?」
「そっ、そんなことしてないですっ」
 美咲は顔を赤らめて、間髪入れず否定した。
 目線を空ざまに態とらしく長い溜め息をつくと、土肥はふたりに向き直って再び話し始めた。
「……まあいい。それはそうと、鍵持ってないか? 部室の」
「あっ、ちょっと待ってください」
 土肥に言われて、美咲がチョッキのポケットに手を入れる。目的のものを取り出すと、彼女はそれを土肥に見せた。
「お前が持ってたのか、柿本」
「はい。すみません、持ったままうろうろしちゃってて」
「用事があるときはべつに置いといてくれたら、俺が開けておくから」
「はい、次からそうします」
 美咲はそう言って、素直に頭を下げた。
 これが中学時代の美咲だったらこうはいかなかっただろうなと、恒幸は彼女の話を思い出しながら考えた。
 素直になれなかった美咲。他人を受け容れようとしなかった美咲。
 彼女が打ち明けた“過去の自分”と、今素直な気持ちで土肥に頭を下げている彼女の姿とを比べてみても、恒幸に とってはやはり、目の前にいるほうが本当の美咲で、過去の彼女はそうでない気がした。
「とりあえず今から部活ということになるけど……体は大丈夫なのか?」
 保健室に行っていたというふたりを心配して、土肥が尋ねる。
「大丈夫です」
 恒幸は答えた。
 仮に美咲が同じ部位を怪我していたとしたら、彼女はドラムを叩くぐらいだから、腕の曲げ伸ばしに支障を来して いただろう。
 自分の場合もまだ痛みは尾を引いていたが、美咲ほどの支障はないだろうと思った。

 

 部室に移動して、おのおのが使用する楽器のセッティングに集中していると、土肥が口を開いた。
「秦野はどうした? 休みか?」
 言われて、恒幸は始めて気付いた。そういえば、優鶴がいない。昼休みや放課後といった時間帯には、必ずといって いいほど美咲と手を繋いで行動を共にしているはずなのに。
 真っ先に、体を酷使して体調を崩したのではと彼は気にかけた。
「いえ。ホームルームのあと、すぐに帰っちゃったみたいです」
 みたいです、の部分が恒幸の思考に割り込んできた。
 普段の美咲なら、こんな言い回しはしないはずだ。「帰っちゃいました」とか、「帰りました」とか、そんなふうに 言い切るのが、優鶴のことをよく理解している彼女だ。それをいかにも不確定であるように言うなんて、どういう つもりなのだろうか。恒幸は、美咲の訳ありげな物言いを、疑わしく感じた。
「風邪か?」
 土肥が尋ねる。
「体調が優れなかったみたいです」
 いつにない言い回しだけど、美咲の顔には不安の色があった。
 恒幸が部室の鍵を取りに職員室を訪れる前に、美咲は一足早く鍵を持ち出していた。そのあと、優鶴を誘いに行くのを 忘れた彼女は、鍵を手にしたまま一旦学生棟に戻り、一年C組の担任から優鶴のことを聞き出した。優鶴が帰ってしまった ということを聞き、昇降口の下駄箱を見てみたものの、言われたとおり、そこに入っていたのは下靴ではなく上履きだった。
 美咲は、恒幸が部室に向かっている間の自分の行動について、そう説明した。
「なるほど、わかった。でも、秦野がいないとけっこう困るな」
 土肥はそう言って、ギターアンプに目をやった。
 いつもはここからシールドが優鶴のギターに繋がっていて……彼女はそのギターで、ベテランギタリスト顔負けの演奏を 披露してくれるのに。
 そう思うと、三人ともが寂しい気持ちになった。
「そうですね……」
 美咲は目を伏せた。
「仕方ないっすよ。病人を扱き使うわけにはいかないでしょうし」
 残念ではあるが、諦めた調子で恒幸は言った。
 彼は正論を垂れたつもりだったが、なおも美咲は浮かない顔をしている。
「仕方ないといっても、リズム隊だけでは演奏が寂しいぞ」
 土肥も別の正論を垂れた。
「そう言われてみればそうっすね……」
 恒幸は、土肥の言葉のほうが説得力があるな、と思った。
 リズムを取るだけの自分と美咲に対して、リフやメロディー、ソロを奏でる優鶴の演奏は、よくよく考えてみれば不可欠で、 それ自体軽音部の花とも思える。
 バンドはメンバーがひとり欠けるだけで務まらないものだということを、彼は改めて痛感した。
 しばらく三人は、無音空間の中で考え込んだ。
 ややあって、土肥がおもむろに口を開く。
「……俺が代わりをやるしかないか」
「えっ、先生が!?」
「先生がギター弾くんですか!?」
 ふたりは驚いた。
「お前らなぁ、俺が弾いたらだめみたいな言い方するなよ」
 呆れ返った顔で土肥が言う。
 しかしふたりは、土肥が優鶴の代わりにギターを弾くということを、すんなり容認するわけでもなかった。
「でも優鶴ちゃんには優鶴ちゃんの弾き方があって、先生には先生の……」
「どっちもあんまり変わらんだろ」
 ぃえぇ、とふたりして大声をあげる。
「……あのなぁ」
「先生、それは自信持ちすぎですよ!」
 美咲が迫るような調子で言った。
 そうですよ、と恒幸も続けた。
「やってみないと、わからんぞ?」
 小鼻をうごめかせながら、土肥は、にやりと笑った。
 美咲はどことなく不満そうだが、恒幸は、土肥が言ったのと同じ言葉を優鶴にかけられることで彼女に励まされたのを 思い出して、少しだけ、土肥の演奏を聴いてみたいという気になった。
「まぁ、そんなに自慢できるものでもないけどな」
 呟くように言った土肥に、
「どっちなんですか!?」
 と、ふたりは声を合わせてつっこみを入れた。
 肝心のギターについては、恒幸が発見した部室奥の倉庫にストックがあるとのことなので、美咲は、持っていた部室の 鍵を土肥に手渡した。
 鍵は六つあって、そのうちひとつが階段を上りきったところにある外の扉の鍵、ひとつがスタジオルームの鍵、ひとつ が部室奥のサブ倉庫の鍵で、あとの三つはどこを開ける鍵なのか、土肥にもよくわからないのだという。
「……お前たちは、向こうに行ってろ」
 興味をそそられ奥の倉庫の前までついてきていた美咲と恒幸を、土肥は追い払おうとする。
「なんでですかっ」
 美咲は上体を乗り出して抗議した。
「あれだ、見てたらわかる」
「……先輩」
「……うん、なんとなく嫌な予感がする」
 恒幸は美咲の手を引いて、土肥から離れた。人ひとり寝かせたほどの距離を開けて立ち止まると、土肥はそれだとまだ 近いと言って、野良犬を追い払うみたいに、手首にスナップを利かせて手を前後に振った。更に歩いて、ふたりは人三人ぶん ほどの距離を空ける。五メートル近く前方の土肥が、腕で丸を作った。
 倉庫の扉と向き合い、土肥は扉の錠を外す。彼の動きが不意にぴたりと止まり、直後、ふたりの耳に聞こえた小さな カウントの声が、ワン、ツー、スリー。土肥が勢い良く引き開けた扉の奥から……。
 ――ズカラドゴドゴグワシャンッ!!!
 ふたり、耳を塞いで顔を俯けた。ゆっくりと目を開きながら顔を上げると、三秒前とは、まったく違う光景が土肥の 居たあたりに広がっていた。もうもうと舞い上がる埃の中から、うっすらと覗く机、椅子、木材、鉄材、その他なにか 得体の知れないもの。ふたり、漫画で整理整頓の行き届かない主人公が押し入れを開けたときのような惨事に、 目が点になった。
 土肥の姿がないことに気付く。まさかと思って、ふたりは焦った。
 開いたドアが押し戻され、バランスを失った椅子が落ちて、またガタンと音を立てる。ドアの向こうから、土肥が ぬらりと姿を表した。どうやら彼は、間一髪でガラクタの崩落を躱したようだった。
「ふぅー……危ねぇ」
 九死に一生を得た土肥が、腕を額に、扉の内側へと回る。
 ふたりはというと、ガラクタと一緒に吐き出された埃のために、土肥に近づくことができずにいた。
 ……本当にこんな廃墟のような空間にギターが?
 ふたりは依然として開いた口が塞がらない。
 ガラクタの山を越えて、がそごそと大きな音を立てながら、土肥は瓦礫に埋もれた行方不明者の捜索でもするかのよ うにギターを探した。
「これだな」
 ガラクタの奥から、ヴォリュームが下がった土肥の声が聞こえる。舞い上がった埃越しにふたりが土肥のほうを 覗き見ると、確かに彼の手には一本のエレキギターのネックが握られていた。
「……それ、いつのギターっすか?」
 思わず気になったことを口に出して尋ねた恒幸に、土肥は、
「さぁな。ここは七、八年開かずの間だったから、それよりも前なのは確かだろう」
 と、埃に噎びながら説明した。
 未だ視界を覆い尽くす埃とガラクタの間から、どうにかこうにか、土肥はギターを手に戻ってきた。彼の持っている ギターを、ふたりはまじまじと観察する。弦はいちばん細いものと三番目に細いものが切れていて、辛うじて残っていた 弦も、見るも無惨な錆びようだ。
 ボディー全体をこんもりと埃が覆い、社名のロゴすらも隠される有り様。まずはこの分厚い埃を拭き取って、 弦を張り替え上げないことには、到底使えそうにない。恒幸は、土肥から受け取ったギターを、ひとまず床に置いた。
「で……アレはどうするんですか、先生?」
 崩落したガラクタの山を指差して、恒幸が尋ねる。
「決まってるだろ。元に戻すぞ」
 土肥の目は明らかに、散らかしたガラクタを片付けるのを手伝えと、ふたりに命令していた。
「俺らもやるんすか!?」
 自分は散らかしてもいなければ、散らかそうとも思っていない。それなのに、なぜ手伝わされなければならないのかと 思って、恒幸は顔全体で不平を表した。美咲も、困った顔で土肥を見る。
「当然だろ。部員なんだから」
「いや散らかしたの先生じゃないっすか!」
「遠方。いい知らせだ。まだ一学期の評点が出るまで時間がある」
 言われて、恒幸はぎくっとする。土肥がなにを言おうとしているのかが、すぐに理解できたから。
 それを世間一般には職権乱用と言いませんかと、彼は心の中で土肥に減らず口を叩いた。
「柿本も、嫌と言うなら担任に伝えておくが?」
「あはははっ、喜んでお手伝いさせていただきまーす!」
 美咲は腕を高く挙げて強引に笑いながら土肥の言いつけを嚥下すると、恒幸と向き合って、またあははは……と空しく 笑った。
 それからおよそ半時間の間、三人は埃に噎びながら、ガラクタを倉庫の中へと押し戻すのに費やした。
 恒幸も美咲も、そして土肥までもが片付けは得意なほうではないので、ギターが一本外へ出たところで、倉庫内の 状態は、扉を開ける前にそうであったろうものと近いものになった。
 無理矢理気合いで閉めた扉を施錠すると、土肥は、開口一番ふたりに言った。
「お前らの血液型がBじゃなかったら、百円ずつやろう」
 ふたりとも、かくんと項垂れた。
「……先生もBっすか」
「見事にBが揃いましたね……」
「今日から三人合わせて『ものぐさトリオ』とでも名乗るか」
「そんなの……カッコ悪いです」
 言いながらも、美咲は半ば土肥の提案を顔で認めていた。
「優鶴ちゃんが居たら、もっとましだったかもな」
「柿本、秦野は何型だ?」
「あーと……確か、ABだったと思います」
 聞いて、土肥は例の失意のポーズを取った。
 血液型のことはよくは知らないが、優鶴も助っ人と認めるには不十分なのだろうと、恒幸は思った。
「ものぐさに革命を起こすには、少なくともAが要る」
 土肥が薀蓄を垂れる。
 恒幸は、すぐに心当たりを見つけた。勝流だ。彼には、幼少の頃から今までに、何度「お前は面倒臭がり屋だ」と 言われてきたかわからない。
「優鶴のお父さんだったら、Aだと思うんですけど……」
 苦笑しながら言う美咲。
「それはちょっと呼べないな」
 土肥も笑って言った。
 改めて、土肥が、倉庫から取り出したギターを持ち上げる。
「これはまず拭かないとな……。柿本、あそこの棚に雑巾が入ってると思うから、取ってきてくれないか?」
「あっ、はいっ」
 言われた棚を目指して、美咲がぱたぱたと走る。引き出しを探ると、彼女は雑巾を発見したらしく、それを持って戻って きた。見かけによらず不自由しない部室なんだなと、恒幸は思った。そんな彼の思い込みを覆すように、
「じゃあ遠方、お前にはこの雑巾を外の洗面所で濡らしてきてもらおうか」
「げっ、マジっすか!?」
「おう、まじっすよ」
 恒幸の口真似をして、土肥が言う。
 四十のオッサンにしては、妙にサマになっているなと恒幸は思った。
「ガンバですよ、先輩!」
 美咲がぽんと恒幸の肩を叩いて発破をかける。恒幸には、心なしか、ぽんと叩かれたのがずんと響くように感じられた。
「りょーかーい……」
 渋々、恒幸は美咲から三枚の中途半端に汚い雑巾を受け取り、スタジオルームの出入口を目指した。
 軽音部って、こんなに重労働を課される部だっけ……と思った彼は、美咲や優鶴、そして土肥と一緒に機材を運んだ ことを思い出して、納得したような、そうでないような複雑な気分になった。
 階段を上りきってドアを抜けると、運動部員たちの威勢のいい掛け声が、第二グラウンドのほうから聞こえてきた。 こんなにも暑いのに……いや、“熱い”のに、よく体を動かせるものだなあと、意味もなく感心した。
 扉の真向かいの洗面所の前で足を止める。蛇口を捻って、勢い良く流れ出した水に雑巾を突っ込んだ。冷たい水が 気持ちいい。家では、蛇口を捻ってもぬるい水しか出てこない。ここぞとばかりに顔を洗ってすっきりしようと思ったけれ ども、運動部員でもないのにそんなことをしたら変に思われそうなので断念した。
 蛇口を逆に捻って水を止める。水をたっぷりと吸った雑巾を力任せに絞ると、少し濁った水が滴り落ちた。
 ある程度水を切ったところで、恒幸はこう思いながら踵を返した。
 ……出てきてみると、案外重労働でもなかったな、と。
 恒幸は、物事を始めるまでは億劫だと思い込むものの、一度手をつけてしまえば苦に感じないという性格の持ち主だ。 体育の授業も、嫌だ嫌だと言いながら、いざ実技に入ると勝流と絶妙なタッグを組んだりするし、日直の仕事も、 気が進まないと言いつつも、ふと気がつけば日誌にユニークな文章を綴ろうと楽しんでいたりする。
 美咲とのデートの前には心が浮ついていたのが、実際天城橋で彼女と会ってしまうといつも通りのナチュラルな 自分に戻ってしまっていたのもそのせいかな、と思った。
 階段を降り、スタジオルームの扉を抜けて、恒幸は美咲と土肥のもとへと帰還した。
「お疲れさん」
 土肥が労いの言葉をかける。美咲も、暑い中お疲れ様です、と続けた。
 土肥は恒幸から濡れた雑巾を受け取ると、ギターを覆っていた埃を、ボディーの裏側から順に拭き取り始めた。 あっという間に雑巾が真っ黒になる。
「すげぇ汚れてますね……」
「そりゃまあ、七、八年分の埃だからなぁ」
 倉庫から取り出された直後の姿と比べると、見違えるほどに綺麗になっていくギターのボディー。過去にこのギター を使っていた人間の、演奏しているときのスタイルとか表情とか、そういったものを、恒幸は垣間見たような気がした。
 三枚の雑巾に有りっ丈の埃を移したギターは、風呂上がりの人間みたいに、外気を全身で受け止めた。
「弦は……確か、ここに入ってるはずだ」
 パイプ椅子に座っていた土肥が、ギターを抱えたまま、足元の道具箱に手を伸ばす。
 恒幸は、そういえばこの道具箱を優鶴が開け閉めしていたな、と思い出した。
 1stと書かれた袋と、3rdと書かれた袋を取り出すと、土肥は3rdのほうを脇に置いて、1stのほうの袋の封を切った。 中から細い弦を取り出して、巻かれていたそれを伸ばした。
「裏は、蓋が取れてるな」
 ボディーの裏側にあるトレモロユニットを確認する土肥。どうやら、彼の取り出したギターはストラトタイプらしい。 優鶴のギターはレスポールタイプだったような気もするが……記憶が曖昧だ。
 恒幸と美咲のふたりは、土肥が弦を張り替えるのをじっと見つめた。
「先生は、いつからギターやってるんですか?」
 作業に打ち込んでいる土肥に構わず、美咲が尋ねる。
「やってたのは、大学の頃だな。バンドをやめてからは、触る機会もめっきり減ってしまったけど」
 過去を懐かしみながら、土肥はふたりに話した。
 大学に入ってから、それまで趣味で弾いていたキーボードの才能に友人の友人が目をつけ、彼をバンドに引き入れたのが 始まりで。そのあとも、五、六のアマチュアバンドに参加して、未経験だったギターやベース、ドラムにブルースハープ、 果てはアコーディオンなどにも手を拡げた結果、今のようなマルチプレイヤーになってしまったのだという。
「音楽で食っていこうとか、思わなかったんすか?」
 バンドに染まった者なら一度は考えそうなことだと思って、恒幸は尋ねてみた。
「そりゃ俺には無理な話さ。なにせいろいろやってたから、柿本とか秦野みたいにひとつだけの楽器に打ち込むのに 比べたら、ひとつの楽器のスキルが弱くなるだろ? 当然、自信もなかった。マルチプレイヤーってのは、それこそ必死に なって各楽器のスキルを極めないと、生業にはできないわけだ」
 授業をしているときのような語り口で、土肥はふたりに言い聞かせた。
 やがて、錆びているからこの際張り替えてしまおうと土肥が提案した、切れずに残っていた弦も含めて総入れ替えを 終えると、彼はギターを胸の前に抱えた。
「もう五時半だけど……せっかくギターも復活したことだし、なんか一曲合わせてみるか」
「はいっ」
 いつの間にか活動意欲を取り戻していた美咲が、元気に返事をして、ととと、と持ち場のドラムセットへと移動する。 恒幸も、壁に立てかけてあった持ち運び用のバッグのファスナーを開いて、中からベースを取り出した。
「何やりましょうか?」
 今日一日部活を仕切った土肥に、恒幸はリクエスト権をも譲って、彼の独壇場にさせようとした。優鶴が欠けている 以上、土肥以外の三人でいつも練習している、文化祭ライヴのための曲は難しいだろうと考えて。
「俺がリクエストしてもいいのか?」
「どうぞどうぞ、今日は特別ですから」
「はははっ。それじゃあ俺の十八番で……っつかこれしかできないけど、『レイラ』いっとくか」
 がくっ……とふたりはコケた。
 ……これしかできないって、駄目じゃん。
 それでもふたりとも、過去に何度か『レイラ』については聞いたことがあったので、セッションのつもりでひとつ やってやろうじゃないかという意地を、コケた状態から起き上がるなりたぎらせた。
 土肥がシールドを繋ぎ終え、アンプのスイッチを入れる。軽いノイズが発生した。
 同じようにして、恒幸もベースとアンプとの接続を終えた。
 ふたりの準備が終わるのを今か今かと待ち構えていた美咲が、
「先輩、先生。準備オッケーですか?」
 と尋ねる。
「こっちはOKだ」
 ショルダーストラップを肩にかけた土肥が、まずは美咲にゴーサインを出す。
「俺もおっけー」
 続けて、恒幸は親指を立てて美咲に準備完了を伝えた。
 うー、緊張するなぁ、と土肥がトーンの高い声を出す。美咲は笑って、軟体動物ぐらい肩の力を抜いてもぜんっぜん 大丈夫ですよ、と土肥に告げた。土肥も笑って、美咲のアドバイスを飲み込んだ。
 三人が無言になり、ノイズだけが空間を支配する。恒幸と美咲、美咲と土肥、土肥と恒幸が、互いに目を見合わせた あと、美咲がばっと腕を振り上げる。チッ、チッ、チッとスティックが鳴り響いて、土肥と恒幸がフレーズを入れた。
 ――ダララララララーン。
 ソロを奏でる土肥に対して、恒幸はコードを支える。美咲はバスとハイハットだけで、まずはリズムを整える。 いちばん特徴的でもあるフレーズを二度繰り返したあと、すべてのパーツを使った派手なフィルを美咲が繰り出し、 土肥がぎゅいーんとピックを滑らせた。
 イントロの賑やかさが倍増する。ミドルテンポの曲を、三人ともが、太い音でなぞりながら演奏していく。
 メロに入る部分で、恒幸が移調を掴み損ねてミスをした。が、勘を頼りに、彼は直ちに軌道修正した。
 短いコーラスを原曲どおり三度繰り返すと、土肥はアドリブを繰り出した。優鶴のソロに比べると、やっぱり少し 不安定ではある。だけど、彼のソロも、途切れることなく滑らかに続いた。
 土肥と美咲のアレンジの頻度が増えてくる。アドリブをまだマスターしていない恒幸は、リズムを取りつつコードを支え るのに精一杯だ。しかし、演奏を最後まで持たせるためには致し方ないと割り切っての選択だった。
 次第にテンポを遅くしていき、フィニッシュは美咲のシンバルとバスの連打から、Dシャープマイナーのコードで ブレイクという形だった。
 大音量が、一瞬にして消える。
「うおぉ、気分爽快だな!!」
 土肥が吠えた。
「さすが先生。ギターの弦は錆びてたけどスキルは錆びてませんね」
「ははっ。不思議と弾いてたら感覚が蘇ってきてな」
 お世辞をお世辞とも受け取らない土肥の手前味噌に、恒幸は苦笑した。
「……どうした、柿本?」
 演奏のときは真剣だったのに、なぜか俯いている美咲に、土肥が声をかける。
「あっ、いえ。先生の演奏もすごく良かったんですけど……。あたしはやっぱり、優鶴と合わせてる方が気乗りするなあ って……そう思っただけです」
「そうだな……」
 苦い顔をするでもなく、土肥は言葉を濁した。
 恒幸もなんとフォローしていいかわからず、しばし途方に暮れた。
「今日はここまでにしておいて、明日も秦野が風邪で休みだったら……クラブはなしにするか」
 美咲の意志を汲み取って、土肥はそう提案した。
「はい……。すみません、今日はせっかく演奏してくださったのに」
「いや、俺のエゴだったから。柿本、お前にも迷惑かけたと思ってる。俺からもすまない」
 気まずい空気が漂ったことを、アンプのノイズたちは気にしていないようだ。
 土肥と恒幸はそれぞれアンプのスイッチを切ってシールドを外すと、楽器を壁に凭せかけた。
 美咲もスティックをバスドラムの上に置き、三人がそれぞれ拡げたパイプ椅子を一脚ずつ片付けると、無言のまま、 スタジオルームの電気を切って、部室を後にした。
 土肥が外の扉を施錠している傍らで、
「明日は来るといいな、優鶴ちゃん」
 恒幸が美咲に言った。
「そうですね……」
 結局美咲の顔は、恒幸が彼女と桜台駅で別れるまでの間……ずっと曇ったままだった。

 

【2】

 翌日の放課後。
 美咲が優鶴と手を繋いで教室まで呼びに来なかったことを、恒幸は心配していた。
 期末テストの前は、担任の先生がホームルームを終えるのをふたりして扉の外で待っていたのに、今日も彼女たちの 気配はない。優鶴の風邪が長引いて、今日はクラブを諦めなければいけなくなってしまうのかと思うと、 恒幸は塞ぎの虫に取り付かれたような気分になった。
 なにも、優鶴のことを悪者にしたいわけじゃない。
 だけど、期末テストの前は元気な顔をしていた優鶴が、美咲になんの連絡もせずに突然帰ってしまうなんて……あれ ほどの仲からすると考えがたいことだと、恒幸は思う。
 教室を出て、美咲を迎えに行こうとした恒幸と、土肥が鉢合わせになった。
「おう、遠方」
「先生っ」
 土肥は恒幸と顔を合わせるや否や、少し目を逸らせて言った。
「……一時間目のあとの休み時間に、柿本がうちの教室に来たぞ」
「えっ……」
 恒幸は一瞬声を呑んだ。それって、やっぱり……。
「美咲ちゃん、なんて?」
「秦野が休みとだけ伝えて、暗い顔で戻っていった」
 美咲も、恒幸と土肥のふたりも、あらずもがなと願っていたことだった。
「……ってことは、今日はクラブないんですよね」
「ああ、そういうことになるな」
「やばっ……急がないと!」
「おいっ、遠方!」
 土肥の制止を振り切って、恒幸は駆け出した。
(早くしないと、美咲ちゃんが帰ってしまう――)
 優鶴の欠席のことで、美咲ひとりに悩んでほしくない。悩むんだったら、自分と一緒に悩んでほしい。
 あのとき恒幸が差し伸べた手を、確かに、美咲は握り返した。手を繋いで、感じた嬉しさや怒り、悲しみや楽しさを、 恒幸とも分かち合うことを、彼女は暗黙のうちに約束した。それなのに、彼女ひとりが索漠とした気持ちになるなんて おかしい。
 階段を一段飛ばしで駆け降り、ぶつかりそうになった生徒に目もくれず、恒幸は走った。
 やがて辿り着いた昇降口の下駄箱の前に――彼女の姿はあった。
「――美咲ちゃんっ!」
 周りには何人か別の生徒が居たが、恒幸の目に見えているのは美咲だけ。彼は咄嗟に、美咲の名を呼んだ。
「……先輩っ」
 下駄箱の扉を開いて、中から下靴を取り出そうとしていた美咲が、恒幸のほうに振り向く。彼女はきょとんとした目つきで、 ぜえぜえと息を切らす恒幸を見つめた。
「はぁ……間に合ったな」
「………」
 なにを言うでもなく、美咲は、下駄箱に向かって伸ばした手を引っ込める。そして、顔を俯けた。
「優鶴ちゃん、今日休みなんだってな」
 張り裂けそうな動悸に邪魔されながら、恒幸は言った。
 美咲に追いつくことができればそれでいいという思いで夢中になって走っていたので、心臓への負担は予想していた 以上だ。なんとか下駄箱の扉に手をついて、もう片方の手で胸を押さえて、彼は体を支えた。
「……はい」
 俯いたまま、美咲が弱々しい声で答える。
「その……具合とか、聞いてみた?」
「はい。昨日家に帰ってから優鶴に電話してみたんですけど、体のほう●●●は大丈夫だって言ってました」
 少し顔を持ち上げて、恒幸に声が届くように美咲は話した。
 その言葉を聞いて、恒幸がほっと胸を撫で下ろす。
「そっか…。熱とかもないって?」
「それは聞いてないですけど……聞いた感じ、元気そうな●●●声でした」
「うん。それじゃあ、明日こそ学校に来てくれるといいよな」
 三度目の正直という言葉を信じて、恒幸は穏やかな笑顔を美咲に向けた。
 ところが、完全に顔を持ち上げて真っ直ぐに恒幸の目を見つめた美咲は、なおも愁いの色を呈している。
「……先輩」
「ん?」
「もしかしたら、優鶴は……明日も来ないかもしれません」
「えっ……!?」
 恒幸は、と胸を衝かれた。
 昨日は不完全ながらも、優鶴が来ることを期待した恒幸に、美咲は同意したはずだった。
 だけど今、美咲は優鶴の具合がそれほど悪いものでないと分かっても、敢えて彼女が来る可能性を否定した。
 手を繋いだはずの自分と美咲の考えが後ろ合わせになってしまい、恒幸は心の奥底にざらざらとした感触を覚えた。
「そんなっ、どうして……?」
 せっかくぐっと縮まったと思った美咲との距離がまた開いてしまいそうだと思って、恒幸は縋るように尋ねた。
「あたしは……今度だけは、優鶴がホントに風邪とか疲れとか、そういうので学校を休んでるとは思えない」
「それって、優鶴ちゃんが仮病を使って休んでるってこと?」
 心にしこりをひとつとして持たないように見えた優鶴が、仮病なんて――恒幸は、美咲の言葉を信じるのを躊躇った。
「あくまで、あたしの思い込みですけどね……」
 目線を斜め下方に落として、美咲は言う。
「仮病で休むなんて、まるで美咲ちゃんのこと避けてるみたいじゃないか」
 恒幸は口調を強めて言った。
 仮病というのは、恒幸も使ったことがあった。というよりは、常習者のようなもので、去年と一昨年の二年間、居眠りを 注意されることに倦んでいた彼は、それならばと授業の頭だけ教室に居て出席を取ってもらい、十分ぐらい過ぎたところ で頭が痛いだの吐き気がするだの貧血を起こしたのと言って、睡眠の場を保健室に移すことがしばしばあった。
 ほかの生徒にとっても、授業中にせよ、登校する前にせよ、授業を受けること自体に気が乗らなくなって、口実を つけて学校をサボる――これが、“仮病”というものだろう。
 ただ、優鶴は違う。
 彼女はいつでも直向きだから、授業に倦んでしまうことなんて、まずありえない。
 だとしたら、彼女の心の中には今、美咲を受け容れることのできないなんらかの理由がある。恒幸は、そう思った。
「それは、間違ってないと思います」
 美咲は、恒幸の考えを無反論のうちに肯定した。
 手を繋ぎ合っていたはずの自分たちの間に生じた間隙を、どうして美咲は素直に認められるのだろう。それで、 苦しいとも辛いとも思わないのだろうか。恒幸は優鶴の気持ちをズバリ言い当てておきながら、なおも複雑な心境を 改められない。
 美咲は、静かに言葉を続けた。
「昨日の電話で優鶴、言ったんです。心配してくれてありがとう、でも今は話したくないから、って」
「話したくないって……なんで?」
 その言葉を聞けば、優鶴が美咲を避けているということは確かだ。
 だけど、肝心の理由まではわからない。わかろうとするならば、優鶴の心のいちばん奥深い部分に、それこそ保健の先生や 長束がするように触れてやる必要があるだろう。
 その術を見出せず気を揉んでいた恒幸に、美咲は彼が思いも寄らなかった言葉を投げかけた。
「もしかしたら、優鶴はあたしと先輩のデートのこと、知ってたのかもしれません」
「う、うそだろっ!?」
 言われて、恒幸の脳髄がぐらっと揺らぐ。
 強すぎるショックを受けてから、美咲の話が思い込みだということを思い出して、彼はなんとか我に返った。
「あたし、あのあと先輩と別れてから思い出したんです」
「……うん」
「優鶴が、不定期なんですけど、天城橋でギターを教えてるのを」
 恒幸には、初耳だった。
「優鶴ちゃんが、ギター教室の先生?」
「そうです」
 美咲は、知っていることのすべてを、恒幸に話した。
 優鶴は、毎週とまではいかないけれど、学校が休みになる土曜日と日曜日、それに祝日が来ると、天城橋にある ギター教室でギターを教えることがちょくちょくあって。
 そもそものきっかけは、優鶴の兄である雄慈の友人がその教室を経営していて、彼が優鶴の腕に目をつけたことから 特別講師として招き入れたいと、雄慈と優鶴に願い出たことだった。
 大人しそうに見える優鶴が、華麗でテクニカルなプレイングを見せてくれるというだけあって、彼女が特別講師として 参加するようになってから、教室は以前とは一線を画した繁盛にありつくことができた。
 優鶴は教室ではとても人気者だ。たとえ、土日祝の限られた時間にしか教えてやることができなくとも。
 そして、彼女が自分の受け持つ生徒たちにギターを教える勤めを終えて、教室を出てくる時間と――あの日、恒幸と 美咲とがMASのゲームセンターを後にして、ショッピングに向かっていた時間とが、同じだった。
「それで、偶然時間が重なって……」
「はい。もしかしたらの話ですけど、あたしたち、見られてたかも……」
 美咲に言われて、恒幸はデートの日の時間帯のことを思い出す。
 そういえば、一度だけ、美咲の足を止めた。ふと誰かが見ているような気がしたと言って。
 なんとなく感じたことがある視線のように恒幸には思えたが、美咲は、そういうのはあんまり気にしないほうがいい ですよ、と言って、強いてでも彼の気を自分から逸らすまいとした。
 結局恒幸は美咲と別れて、家に帰ってベッドに潜り込んでから、少しだけ、この得体の知れない視線のことを 思い起こした。そして、天城橋に優鶴が居るなんてな、と一笑に付して眠りに落ちた。
 だけとあの視線は、もしかすると、本当に優鶴のものだったかもしれない。
 少なくとも、美咲の話を聞いた限りでは。
「もしそうだったら……優鶴ちゃんに謝らないとな」
 馬鹿な話だと、恒幸は思う。
 デートなんて、公の場でするものだ。どこかひっそりとした山あいの村とか、私有地でない森林の奥深くとか、 川の源流とか……そんな極端な場所でない限り、必ず人の目がある。このひとは絶対に見ていないだろうと、 決め付けることなんてできない。
 それをわかっていて、見られたら謝れば許してもらえると思っていたなんて。
 なんと自分たちは軽率だったのかと、後悔するのを禁じ得ない。
 少し間をおいて、美咲が口を開く。
「でも、もし明日も仮病で学校に来なかったら……」
 声は戦慄き震えていた。
「とりあえず、今日も電話してみるしかないな」
「そうですね……」
 不安の色で覆い尽くされた、美咲の顔。
 言葉では恒幸の提案を飲んでいても、表情では微かに抵抗している。
「美咲ちゃんっ!」
「はいっ」
 唐突に恒幸に強い口調で名前を呼ばれ、美咲はほぼ反射的に返事をした。
「このまま、優鶴ちゃんが抜けたままでもいいのか?」
「……嫌です」
 なにも言わないまま軽音部に顔を出さなくなって。
 なにも言わないまま軽音部から消えて。
 なにも言わないまま、美咲と繋いだ手をするりと離して…。
 そんなことになるのは絶対に嫌だと、美咲は心の中で猛反発した。
「俺と、優鶴ちゃんと三人で、ライブ成功させるって決めたんだろ?」
「もっ、もちろんですよっ!」
 食ってかかるような調子で美咲が言う。
「だったらさ、明日こそ出てきてくれるように、優鶴ちゃんを説得するしかないだろ?」
「それはわかってます。でも……」
 美咲は言葉を濁して、少しの間沈黙した。
 そして再び口を開いて、意のあるところを吐露した。
「電話するのが、怖いんです」
「どうして……?」
 恒幸は訝った。
「また、優鶴に怒られたらどうしよう、って……言われたとおりに今は、優鶴のことをそっとしておいてあげたいんです」
 美咲は、多かれ少なかれ、思いやりの気持ちを含めてそう言っているのかもしれないけど――それは結果的に逃げ口上 になるだけだと、恒幸は思った。
「……でもさ、美咲ちゃん」
「……」
 なにも言えず、美咲は、俯いたまま固まった。
「俺は、優鶴ちゃんからほんとの気持ちを聞き出すチャンスは、今しかないと思うんだ」
 恒幸は、こう思った。
 ひとたび美咲との間に隙を生じさせてしまった優鶴は、放っておけば、これから先、美咲との距離を広げていく 一方なのではなかろうか。だったら、距離がいちばん近いときに――なるべく早くに、優鶴と話をしたほうがいいんじゃ ないか、と。
「はい……」
「今思ってることを忘れてからじゃ、手遅れになると思う」
「先輩……」
 恒幸の前向きな考えに、美咲は同調し始める。少しずつ、彼女は、双眸に明るさを取り戻していく。
「ほら、言うだろ? 聞くは一時の恥」
「聞かぬは、一生の恥……」
 気が付くと、美咲は、おのずと恒幸の言葉に続く部分を補っていた。
「うん。だからさ、勇気を出して、もう一回優鶴ちゃんに電話してみなって」
 美咲の気持ちの急上昇を察して、恒幸が表情を柔らかにする。
「でも……なんて言ったら優鶴を説得できるのか、あたしにはわからないです」
 ひとつだけ残されていた美咲の逡巡の種を取り除いてやるために、恒幸は言った。
「簡単だよ。それは――」

 

【3】

 翌日の放課後。
 テスト後の授業も三日目になり、ほぼ全ての教科の答案が恒幸のもとに返却された。
 辛うじて平均点を上回っていたのは、土肥の担当する英語が七十一点の平均に対して九十点、現国が六十点の 平均に対して六十八点、それから古文が六十五点の平均に対して七十四点。そのほかの教科は、押し並べて平均点を 下回っている。
 総合的に見れば、やはり、数学や物理などの理系教科が足手纏いになって、成績は中の下といったところになるだろう。
 読む本といえば、文学作品や新書というよりむしろコミックや音楽雑誌、ゲーム雑誌。それなのに、いやに自分は 文化系の頭だなと、恒幸は不思議に思った。
 下校の支度を整え、ホームルームの待ち時間に入る。今日は、例のふたりのクラスメイトが来る気配はない。
 見ると、勝流も長束も、ほかの話し相手を選んでいるようだ。彼らには恒幸以外の選択肢があるのに、恒幸には 彼ら以外の選択肢がない。物寂しい気分になって、恒幸は机に突っ伏した。
 そして、今朝見た妙な夢を脳裡にロードした。
 ――ふと気付くと、雨が降っていた。しかしその雨はほどなく止んで、目の前に、一筋の虹が現れた。
 虹は見渡すとたくさんかかっていて、錆びついた都会の風景を、華々しく彩った。
 やがて、数ある虹の中からひとつを選び、七色って何色があるんだっけ……と確認しようとしたとき。
 その虹が、消えた。
 ひとつ消えたって、まだまだたくさんあるんだ。ほかの虹を使って調べればいいじゃないか。そう思って、 別の虹に目を移すと。
 その虹も、消えた。
 やがてすべての虹が消え、束の間の美しい風景は、元のコンクリートジャングルへと戻った。
 なぜだか、すごく心が痛んだ。涙が出そうだった。
 怖い夢でもなければ、嫌な夢でもない。ただ、変な感じのする夢だと思った――。
 担任が教室に入ってきて、ホームルームが始まる。来週から始まる長い夏休みを、進学を志す者は勉強を怠らず、 就職を志す者も自分が社会に出て本当にやりたいと思うことを決めて、有意義に過ごすようにと、担任は話した。
 そして、夏休みが明けて課題テストも終わると、いよいよ高校生活ラストの文化祭だと告げた。
 文化祭では今年初の試みとなるライブを自分たちが行うというのに、軽音部の活動が思わしくない。優鶴が無断で 練習を休み、彼女の欠席に、恒幸、美咲、土肥の三人が気落ちした。
 今日も、優鶴が来なかったら――いや、その心配はない。
 昨日美咲に言ったことを、彼女がちゃんと優鶴に伝えていれば……きっと、優鶴は来てくれるはず。
 担任が話を終え、長束が号令をかける。礼をして、教室があっという間にざわついた。
 勝流と、同じ列に座っている長束が掃除当番にあたったが、ふたりとも、地位的特権を行使して掃除を回避した。そんな ふたりに、じゃあ俺先に帰るわ、と告げて、恒幸は教室を出た。
 クラスメイトが大半を占める廊下の生徒の中に、その姿はあった。
 そう、美咲は今日こそ、ひとりならずして、恒幸の教室を訪れたのだ。
 その手に、親しい友達の手を握り締めて。
「優鶴ちゃん!」
 優鶴はなにも言わず、瞼を下ろして、控え目に恒幸を見つめた。
「来てくれたのか……良かった」
 安堵感が、恒幸の顔を綻ばせる。
 しかし、美咲の表情は険しいままだ。
「先輩……今から、土肥先生に会わせてもらえませんか?」
「あ、ああ。先生なら、まだD組の教室に残ってると思うけど……」
 隣に優鶴が居ることにまるで嬉しさを感じていない様子の美咲を、恒幸は訝るように見た。
 美咲は確かに、優鶴に出席してほしいと願っていたはずだ。それが叶っているにもかかわらず、どうして美咲は 厳しい顔つきをしているのだろう。
 考えても、美咲本人に聞いても答えを知るのは難しいと判断した恒幸は、素直に彼女たちを、土肥の受け持つ 三年D組の教室の前まで案内した。
 恒幸はD組の教室の中を覗き見た。教壇を離れ、土肥は掃除の監督をしているようだ。
「先生ー」
 呼ぶと、間も置かず土肥が反応した。
「遠方、どうした?」
 たったっと小走りで駆け寄ってくる土肥。教室の入り口から首を乗り出して廊下のほうを見やると、土肥は驚いた。
「秦野じゃないか!」
 その声に、優鶴は、無言のまま肩を竦めた。
「具合、良くなったのか」
 土肥が、穏やかの表情で優鶴に聞き質す。
 優鶴は、土肥と恒幸の目の前で、今日始めて口を開いた。
「はい……」
 か細いながらも、期待に添った返事を聞くことでき、
「そうか、それは良かった」
 土肥は、微かな笑みを顔に作った。
 そして、笑顔を保ったまま、彼は続けた。
「これなら、今日は部活ができるな」
 恒幸も、土肥と同じ思いだった。
 ところが、そんなふたりの期待を欺く言葉を、美咲が言い放った。
「先生……今日も、クラブはなしにしてもらえませんか?」
「えっ!?」
「お、おいっ。どうしてだ、柿本?」
 恒幸と土肥が、同時に驚いた。
「せっかく三人揃ってるんだ。また秦野にあの華麗なギターの演奏をやってもらおうじゃないか!」
「そうだよ、美咲ちゃん。優鶴ちゃんがせっかく戻ってきたのに」
 土肥も恒幸も、美咲の言ったことが腑に落ちなかった。
 睨むように力の入った顔を崩さずに、美咲は言う。
「今日は、優鶴と、先輩と三人で、じっくりと話し合いたいんです」
 頭痛のポーズを取る土肥の前で、恒幸は悟った。
 優鶴がなにかに深く思い悩み、それがもとで、仮病を使って欠席していたということを。
 美咲の言葉を僅かながら理解した彼は、土肥に向かって言った。
「先生、俺も……ふたりと話し合ってみます」
「遠方っ」
 三人の真剣な眼差しが、土肥に集中した。
 ややあって、観念したらしい土肥が、溜め息をついて言った。
「……わかった。でも、なるべく早くクラブが再開できるように取り計らってくれよ」
「はい」
 返事をしたのは、三人の中で、恒幸ひとりだけだった。

 

 三人は、屋上に移動した。
 眩しく照りつける日光を避けて、出入り口のスペースが作る陰に入った。
 この時間なのに、珍しく今日はほかに屋上でのんびりとしている生徒の姿がない。もともと穴場のようなところだから、 ここはそんなに生徒でごった返しになるというわけでもないのだけれど。
 最初に口を開いたのは、優鶴だった。
「昨日と一昨日は、本当にすみませんでした」
 やや恒幸寄りに体を向けて、優鶴は深く頭を下げた。
「気にするなって、二日ぐらい」
 優鶴を責めるでもなく、恒幸はもの柔らかな笑顔を優鶴に向けた。
 一時は断りなしにクラブを欠席したとはいえ、優鶴はまたこうして自分の前に姿を見せてくれている。彼女の姿が 見られるのなら、たった二日のブランクなんて物の数ではない。恒幸は、そう思った。
「いえ。二日も空けてしまって……反省してます」
 目線をいささか下げて、詫びるような調子で優鶴は言う。
 恒幸にとっては、優鶴が再び姿を表すことで短く感じられた二日間も、その間、美咲と恒幸のふたりと距離をおいて いた優鶴にとっては、短く思えるものでもないらしい。そのギャップに、恒幸はもどかしい気持ちになった。
「テスト明けの最初の練習では、土肥先生が優鶴ちゃんの代わりにギターを弾いてくれたんだけど、やっぱり優鶴 ちゃんがいないと寂しいというか……なんていうのかな、演奏に花がないって思ったよ」
 一昨日土肥が弾いたギターは、それ自体下手な演奏ではなかったものの、優鶴のギターと比べると、あからさまに 小技を中心としたキャラクターが異なっていた。
 その違いは、経験の長さで説明できるものではなくて――プレイヤーの違いというほうがむしろ妥当だと、恒幸も美咲も 感じた。優鶴がギターを弾くのと、土肥がそうするのとでは、演奏が生み出す空気がまったく違うのだ。
 優鶴は少し表情を穏和にして、恒幸に言った。
「美咲ちゃんから、その話については聞きました。土肥先生にも、わざわざ私の代わりを務めていただいて、とても 迷惑をかけてしまって……」
 少し俯いて、申し訳なさそうに苦笑いする優鶴。
「私、どうしようもない部員ですね」
「そんなことないって」
 自責する優鶴に、恒幸は、矢も楯も堪らずフォローを入れる。
「優鶴ちゃんは、なにかで思い悩んでて……それで、仮病を使って休んでただけなんだろ?」
「はい」
 もともとは美咲の思い込みで、彼女にとっても、恒幸にとっても不確かだった憶測を、優鶴はあっさりと認めた。
 仮病の原因がなんだっていい。デートを見てしまったことでもいい。
 今ここで優鶴に思いの丈を話してもらえたら、文化祭のライブに向かって伸びるレールの上にまた、恒幸も、美咲も、 そして優鶴自身も乗り直すこができるだろう。恒幸はそう考えた。
「だったらさ、俺と美咲ちゃんが相談に乗るから。そんな憂鬱の種なんかぶっ飛ばしてしまって、また三人で一緒に 楽しく部活やろうぜ」
 自分に今できることは、優鶴の気持ちのすべてを聞き入れること。
 そうすることで、美咲と共謀したデートという軽はずみな行いの、責め塞ぎができればと、恒幸は期待した。
 ところが、優鶴は、首を縦には振らなかった。
「いいんです、遠方先輩」
 笑顔の優鶴は、その穏やかな顔とは裏腹に、恒幸の提案を拒絶した。
「いいって、なにが?」
 期せずして投げかけられた遠慮の言葉を、恒幸は訝る。
 優鶴は目を閉じて一度深呼吸をすると、恒幸に言った。
「私、この二日でじっくり考えて、決めたんです」
「……」
 恒幸が声を呑む。これから示される優鶴の答えに、美咲が目を逸らす。
 そして、優鶴は――優しい顔で、恒幸の期待を裏切るのだった。
「私、軽音部辞めます」
「なんだって!?」
 恒幸は、思わず大きな声を漏らした。
 自分の提案に優鶴は乗ってくれなかったのに、彼女を責める理由が見つからない。気持ちの悪い怒りだった。
「もう、私には、バンド活動をする資格なんてありません」
「言ってることがわからないよ。資格って、いったいなんなんだよ?」
 声を荒げる恒幸の傍らで、美咲もなにかを心に引っ掛けたような顔をしている。
 優鶴は、少し顔を俯けた。そして、感じている辛さを、そのまま表情に出して言った。
「先週の金曜日に、父が発作を起こして倒れたんです」
「……えっ?」
 恒幸だけでなく美咲も、優鶴の言葉にひどく驚いた。
「そんなことが、あったんだ……」
 衝撃のあまり、恒幸の言葉がスローになる。
「お父さん……今は大丈夫なのか?」
「はい。運ばれた日の夜には目を覚ましました。今は、兄が代わりに看病してます」
 優鶴の話を聞いて、恒幸は思い出した。
 彼女が言った先週の金曜日、つまり美咲とデートをする前日、確かに、彼女は兄からの連絡を受けて、ホームルーム が終わってから下校してしまったと、美咲に告げられた。
 優鶴の兄……雄慈からの連絡の内容が、父親の発作だったとすれば、筋が通る。
 気の毒な話ではあったが、今現在優鶴の父親の病状が悪くないとわかると、恒幸は彼女につられて安心した。
「だったらさ、なにも今すぐクラブをやめるなんて必要はないんじゃないのか?」
 勝手な願いだとわかっていても、今は、優鶴にクラブにいてほしい。
 恒幸はそう思っていたけれども、優鶴の見解は違った。
「いいえ。病気の父を放ってクラブ活動なんて、私にはとてもできません」
「……」
 わかっている。発作を起こして倒れた人間は、自分にはなんの関係もなくても、優鶴にとっては血の繋がった父親 なのだということは。
 それでもまだ、恒幸は諦めきれない。
「父は……私がそばに居ると、とても安心してくれるんです」
 父親を安心させたときにそうなるのであろう顔を、優鶴はふたりに向けてしてみせる。
「だから、少しでも長く、父のそばにいてあげたい……」
「優鶴ちゃん……」
 優鶴の切実な態度に、恒幸は鼓動が高まるのを感じた。
「――ねぇ、優鶴」
 ふと、それまで一言も喋らなかった美咲が、落ち着いた声で優鶴の名を呼ぶ。
「なに、美咲ちゃん?」
「全部、嘘なんでしょ」
「えっ?」
「……っ!」
 優鶴と恒幸は、それぞれ違う驚き方をした。優鶴は、予想だにしなかった美咲の言葉自体に。恒幸は、美咲が優鶴の 話を素直に認めようとしなかったところに。そして、ふたりともが、美咲の言葉以上に、彼女の冷ややかな口調に 驚いていた。
「ホントはもっと、別のことで悩んでたんでしょ?」
 美咲の言葉に、恒幸ははっと思い出す。
 美咲は、自分の発心した、デートを優鶴に見られてしまっていたという思い込みを、譲らないつもりだ。
 もしも美咲の思い込みでなく、優鶴の話のほうが事実だとすれば、優鶴は、美咲にいわれのない呵責を浴びせられる ことになってしまう。
 不安な目で、彼はふたりの後輩を見守った。
「なに言ってるの、美咲ちゃん。私はただ、お父さんのことが心配で……」
「本当のこと言ってよ! あたし、怒ったりなんかしないから」
「美咲ちゃんっ!」
 食い違いに対するもどかしさから語調を強めた美咲に、恒幸は歯止めをかけようとした。
「本当のことって……? 私、美咲ちゃんがなにを言いたいのかわからないよ?」
「惚けなくてもいいよ。優鶴、見たんでしょ。あたしと先輩が、デートとしてるところ」
 美咲と優鶴の言い分が、衝突する。
 手遅れだと、恒幸は思った。
 しかし――優鶴は、美咲の言葉を受けて、目を丸くした。
「えっ……そんなことしてたの?」
「……えっ?」
「……!?」
 どう見ても純粋に驚いている優鶴に、今度は、美咲と恒幸のふたりが呆気に取られる。
 去就に迷いながら、輪郭の曖昧な声で、優鶴は言った。
「私、知らなかったよ」
「うそ、天城橋でギター教えてて、その帰りにあたしたちを見たんじゃなかったの?」
 未だ納得できないと言いたげな顔で、美咲が問い質す。
「ううん。土曜日から昨日まで、ずっと病院でお父さんにつきっきりだったよ」
 優鶴は、首を横に振って答えた。
「ホントに?」
「だって、寂しそうなお父さんの顔を見たら、どこへも行けなかったんだもん……」
 優鶴の言葉と、彼女が披瀝した気持ちに、ふたりは言葉を失った。
 バイトに明け暮れる雄慈に代わって見舞いに来てくれる優鶴のことを、父は大切に思った。ひとりのときの寂しい気分 を……心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる彼女が、不可欠な存在だった。
 だから優鶴も、そんな父の気持ちに応えようとして、クラブを離れ、父を看病することを選んだ。
 そう考えると、これ以上、反論の余地はふたりには与えられなかった。
 少しの間、風が吹く音だけが空間を満たす時間が流れたあとで、優鶴がおもむろに話し始めた。
「――それより美咲ちゃん、羨ましいな。先輩とデートなんて」
 彼女の顔はもう、すっかり晴れている。
「お、怒らないの……優鶴?」
 純粋に羨ましがられて、美咲はいかにも拍子抜けだという顔になった。
「怒るわけないよ。だって……」
 にっこりと笑った優鶴の前髪を、二つ縛りの髪の毛を、風がそっと撫でる。
「美咲ちゃんがそこまで前向きな女の子になってくれるなんて、思ってもみなかったから」
「ゆ、優鶴……」
 優鶴の屈託のない笑みに、心を動かされる美咲。
 天使と見まがうほどのオーラを放ちながら、優鶴は続ける。
「私ね、少し前までは、私がそばに居ないと……お互いに手を繋いでないと、美咲ちゃんは自分ひとりで判断を 出せないひとだって思ってたの」
「うん……」
 頷く美咲を見て、恒幸も思い出す。
 機材の返却が決まったとき、美咲は土肥に対して、自分ひとりだけに謝ってほしくないと言った。自分は許せても、 優鶴がどう思うのかがわからなくて。
 だけど、恒幸にデートを願い出たときにはもう、彼女の判断は、優鶴を頼りとしないものになっていた。
 恒幸が危惧していたその判断を、優鶴は今、大いに評価している。
「だから、いつかは私のほうから無理矢理手を離さないと、美咲ちゃんはなかなか自分の力を信じることができないん じゃないかって……そう考えた」
「……うん」
 美咲は、優鶴の話の節目ごとに、相槌を打った。
「でも、美咲ちゃんは、自分の力で羽ばたいてくれた。だから、私はそれが嬉しくて……」
「……馬鹿だよ、優鶴は」
「うん……」
 苦笑する美咲に、優鶴も倣って頷いた。
「そんなの、素直に怒ったらいいのに……。そんなこと言って笑ってるなんて、ホントに馬鹿だよ」
 そう言って、美咲は、小柄な優鶴の体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き締めた。そして、自分の頬を優鶴の頬に ぴったりとくっつけて頬擦りしながら、優鶴の肩に顔をうずめた。とびきり優しい笑顔を、優鶴も作った。
 ややあって、美咲との抱擁を終えた優鶴は、恒幸のほうに向き直って言った。
「遠方先輩」
「ん?」
「ひとつ、お願いを聞いてもらえませんか?」
「ああ……」
 無垢な優鶴の顔を、恒幸は、瞳を凝らして見つめる。
 優鶴の願いを断る理由なんてない。たとえそれが、どんな願いだとしても。
 恒幸に思いを寄せていたかもしれない彼女の気持ちに、彼は気付いてやれなかったのだ。言いたいことを言うための 機会を彼女に与えなかった美咲に、同調するあまり。
 美咲が下手に出た今、優鶴と恒幸の間には、なんの障害物もない。
 優鶴は言葉を続けた。
「とっても、我がままなお願いかもしれません」
「うん」
「でも、美咲ちゃんのこと見てたら、時には我がままもいいんじゃないかって思うんです」
 優鶴に目を向けられた美咲は、恥ずかしそうに下を向いた。
 我がままな美咲と、自分のやりたいことよりも大切な親友の行く末を案じてやまなかった優鶴。
 成長した美咲を見て安心した優鶴は、ちょっとだけ、美咲の我がままな性格を妬んでいるように見えた。
「だから、先輩」
「……」
「迷惑じゃなかったら、いつか、私ともデートしてくださいませんか?」
 言われて、恒幸は、美咲の言葉を思い返した。
 ――優鶴がもし不満を言ってきたら、優鶴ともデートしてあげるってことで!
 優鶴は、少なくとも不満を顔には出さなかった。もしかすると、心の奥底には少しだけ、不満があるのかもしれない。 それでも彼女は、混ざり気のない羨望を、美咲に向けている。
 美咲の考えは、間違っていなかった。恒幸は、そう思った。
「私、知りたいんです。前向きになった美咲ちゃんが、どんな気持ちで先輩とデートしてたのか……同じように隣を 歩いてみて、美咲ちゃんが感じたことを、私も感じてみたいんです」
「優鶴……」
 美咲は温かい目で、優鶴を見つめた。
 美咲は確かに言った。優鶴は恋に奥手だと。
 だけど、どこか恋にこだわらない、別の次元に根差す原動力を得て、優鶴はポジティブな態度になったのだから。
 美咲にとっては十分、優鶴の積極的な言葉も成長だと感じられた。
「本当に、それだけでいいのか? 優鶴ちゃん」
「はい。私の、最初で最後の我がままなお願いです」
 莞爾とした表情で、優鶴は言った。
 女の子は、ちょっと我がまますぎるぐらいがいい。
 そんなことを言ったひとも居たっけなと、恒幸は苦笑した。
「うん。行こうぜ、デート」
「本当ですか?」
「美咲ちゃんも、構わないよな?」
 はっと我に返って恒幸を見た美咲は、一瞬間延びした顔になって、そのあと笑って言った。
「あっはいっ。それで優鶴が満足するんだったら、あたしはなんにも言いません」
「よしっ、決まった。絶対デートしような、優鶴ちゃん!」
「はいっ、ありがとうございます!」
 幸せいっぱいの笑顔で、優鶴はお辞儀をした。

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