第6章 La Deuxième Aventure - 恋の冒険 第二幕
Avec l'appui de l'une de ses cadettes, il sort avec l'autre.

 

L'arc-en ciel que vous avez vu, c'est un fantôme.
あなたが目にしたその虹は幻
Vous pouvez voir ce fantôme, mais ne pouvez pas le toucher.
目には見えても、触れることのできない幻
Beaucoup ont au moins essayé à révéler sa nature en échange.
触れることができないのならせめてその正体を暴こう、そうしたひとが何人もいました
Après tout ils ont découvert que c'est une goutte d'eau qui attrape le rayon du soleil.
結果、彼らは虹が日光を受けた水滴であることをつきとめました
Est-ce qu'ils ont vraiment pu le toucher par le moyen?
彼らはそれで、ほんとうに虹に触れることができたのでしょうか
Est-ce qu'ils ont gagné l'arc-en-ciel par la découverte de cette nature?
その本質を見出しただけで、虹を手にしていたのでしょうか
Ils ne le savent pas, et nous aussi.
それは彼らにもわからないし、私たちにもわからないこと
Mais vous――si vous vous approchez de l'arc-en-ciel de votre propre moyen,
しかしあなたは――もしもあなたが、自分なりの方法で虹にアプローチをしてみて
et pouvez le sentir près de vous après essais et erreurs,
試行錯誤のすえ、虹をあなたの“近く”に感じることができたのなら
ou il s'approche de vous,
虹があなたの“そば”に寄ってきたとしたら
vous avez déjà gagné cet arc-en-ciel.
きっと、あなたはその虹をつかんでいることでしょう

 

【1】

「――で、ここのジェットコースターは絶叫系だから、やめておいたほうが……って先輩、ちゃんと聞いてます?」
「んわ、あぁ……」
 ぼんやりとしていた視界の中で、恒幸の目が最初にはっきりと捕らえたものは、美咲のむっとした顔だった。
「まったく……いつも遅くまでテレビ観たりして夜更かししてるんでしょ?」
 漕いでいる舟を岸に到着させた生徒に向かって教師が放つような科白を、彼女は口にする。
 次第に視覚と聴覚とを取り戻していった恒幸は、次に嗅覚を取り戻した。
 甘い香りが、彼の鼻腔をくすぐる。会話に花を咲かせる人たち。ホールを忙しなく行き来する、制服に身を包んだウエ イター。ガラス越しに見える、ぞろぞろと歩く人。
 それから、黒のランニングシャツに青系チェックの半袖の上着を羽織り、下はジーンズという出で立ちの自分。美咲の ほうは下から順に厚底のサンダル、腰のラインにフィットした黒いミニスカート、ノースリーブの白いブラウス。前から では見えないけれど、 髪を縛っている位置が、いつもと違う。普段は右斜め上で縛っているのが、今日は後頭部のあたりだ。今は脱いで トートバッグにしまっている赤と白のキャップの下から、縛られた髪の毛がぴょこんと出ているのがなんとなく新鮮 だと、彼女と待ち合わせをしたときに、恒幸は思ったのだった。
「いや……十時には寝てるけど」
「早っ!」
 目を大きく見開いて驚く美咲。
「あたしでも十二時なのに……先輩それでちゃんと宿題やってるんですか?」
「おう。一日三時間ぐらいは費やしてるから、来週あたりには終わるんじゃないかな」
「ぅえ!?」
 またもや、美咲が大仰に驚く。
 彼女にとっては意外なのだろうけど、別段、自分にとっては至極当然なライフスタイルだと、恒幸は思う。
「先輩、確か『ものぐさトリオ』の一員でしたよね」
 言われて、恒幸は思い出した。
 土肥が部活動のときに、スタジオルーム奥の開かずの倉庫の封印を解くことでガラクタを散らかしたが、それを渋々倉庫 の中に押し戻すのを手伝ったふたりを、彼は自分も含めてものぐさトリオと呼んだ。
「ああ。言ってたな、土肥先生が」
「全然ものぐさじゃないじゃないですかっ」
 真顔で、美咲は恒幸にそう言い迫った。
 少し考えて、恒幸は笑って返した。
「はっは。まぁ俺ももう三年だし、あれだ、美咲ちゃん。好ましい夏休みの過ごし方の模範というものを、先輩のこの俺が 後輩の美咲ちゃんに示してるって寸法さ」
 出し抜けに驕慢な態度になった恒幸に、
「うっそばっかり」
 美咲は口をとんがらせて反発する。
「嘘じゃないぞっ。だいたい夏休みも終わりが近づいて慌てるようなやつは、社会でも通用しないんだよ」
 日ごろ傾聴している教師たちの口真似をして、恒幸が説教を垂れる。
 美咲は、軽く溜め息をついた。
「……去年までは、先輩もそうだったんじゃないですか?」
「……!」
 図星だった。
 恒幸はうろたえながら弁明の言葉を探したが、美咲に先を越されてしまった。
「そんなのわかりますよ、あたしにだって」
 呆れ果てた顔で、彼女は恒幸と、まったく彼とは関係のない空間に視線を交互に移動させる。
「俺は一言も美咲ちゃんに言った覚えはないけど」
「なくてもわかるんです」
 言葉尻を強くして、ちよっと意地悪そうな口調で美咲が言う。
「凄いな……美咲ちゃんはあれか? もしかして、人の過去とか、未来が見えたりする?」
「見えたらそもそもこんなところに居ないですっ」
 そう言って、美咲はテーブルの上のクリームソーダのストローに口をつけて、一口吸い上げた。美味しそうにごっくんと 飲み込むと、彼女は恒幸の狸みたいな顔を見てまたひとつ、溜め息をついた。
 ここは、天城橋の駅ビルの東隣に建つ、カジュアルショッピング施設“天城橋RIO”の一階にあるカフェ。ふたりは天城橋に、 デートとは違う目的で、再び足を運んでいた。
 ふたりの上にはまだ十一階ぶんのフロアがあって、ヤングファッションを取り扱う店をはじめ、知的なイメージの 大型書店や、英会話教室、パソコンショップ、ダイニングフロア、イベントスペースなどがある……ということを、恒幸は 美咲から聞いて知った。
 美咲が言ったものの中で、恒幸が知っているものがひとつだけあった。それは、CDショップだ。
 このショッピング施設に入っているCDショップは、品揃えが豊富というよりも、マイナーな需要に応えている。 過去に何度か、そのCDショップに、恒幸もお世話になった。
 けれども、そのCDショップが何階にあるのかとか、ほかのフロアにはどういったジャンルの店が入っているのか とか、そういったことを、彼は掻い暮れ気に留めなかった。早い話が、興味がないから。
 学食の自販機にしても、ファッションにしても、興味がないものにはとことん見向きしないな、と彼は思った。
「だな……。見えたら、電話で占ってもらうほうが手っ取り早い」
「っていうか、見えても言いませんよ」
 相変わらずの冷めた表情で、美咲はけんもほろろに恒幸の提案を突っ撥ねる。
 そりゃそうだ。たとえば美咲にそういう●●●●能力が備わってい たとして――彼女が恒幸の成績を占った結果、酷いヴィジョンが見えたとする。そこで、じゃあいつもより真面目に 勉強しましょうと彼が決心したところで、なんらかのアクシデントが、彼の現金な態度を挫くことになるだろう。
 いずれにせよ、恒幸は基本的に“定められた未来”を歓迎しない人間だ。そういう意味では、占いなんて信じるだけ 無駄だと言えた。
「だろうな……。言われたら、それこそ面白くない」
 恒幸はグラスのレモンティーを一口啜ると、頭のうしろで手を組んで、椅子に凭れかかった。
「だいじょぶですよ。そもそも言えませんから」
 美咲は笑って言うと、テーブルの上に拡げられたリーフレットに目線を戻した。
「で、この遊園地の近くには、夕方になるといい景色が見れる海岸があるんです」
 美咲の指差すところを、恒幸が目で追う。
 テーブルの上に拡げられているのは、ふたりの住む市の観光スポットを特集したリーフレット。その中の、“美洲みしま”と いう場所について紹介されているページが開かれていた。
 美洲は十数年前には海だった埋め立て地で、最近になってアミューズメント・パークの建設や、海岸を海水浴場として 開放するためのより良い整備を、市の観光事業を推進する団体が中心になって進めていた。
 美咲はその近くに住んでいるので、海岸の様子とか、観光事業の現状とかに詳しい。
「うん。ニュースでけっこう、海水浴客が来てるって言ってたな」
「はい。でもみんな、だいたい五時ぐらいまでには帰っちゃいますね」
「ふーん」
 生返事だけど、恒幸は美咲の話を聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
 ……なんて言いながら、さっきは迂闊に睡魔の誘いに乗ってしまいそうになったけれども。
「で、優鶴ちゃんって、泳げるのか?」
「いえ。鋼鉄製のハンマーだったと思います」
「……」
「…………」
 少しの間、途切れる会話。
 恒幸は、美咲のもたらした、季節外れの木枯らしを疑似体験したような気がした。
 ややあって、彼のほうが先に口を開く。
「泳げないわけだな」
「はい」
 なぜか顔つきを一片たりとも変えないまま、美咲は頷いた。
「じゃあ海は駄目か……」
「あっ、ちょっと待ってくださいっ」
 断念しかけていた恒幸に、美咲は待ったをかける。
「ん?」
 美咲の心の中に成心したアイディアに惹かれるように、恒幸は彼女を見つめた。
「歩くだけだったらだいじょぶだと思います」
「砂浜を?」
「そです」
 恒幸は、ときたまテレビで見る、砂浜で撮影されたコマーシャルやドラマのシーンを思い起こしてみた。
 髪を弄ぶ潮風の香りを嗅ぎながら、煩わしい悩み事とかストレスとかいったものから解放されたひとときを、ゆっくりと 砂浜を歩くことで感じる自分。
 最後に海水浴に行ったときからはもう、十年以上の月日が流れてしまっている。だけど、砂浜のイメージを想像する ことで、奇しくも、彼にはその記憶を呼び覚ますことができたのだった。
「それだったら問題はなさそうだな」
「はい。優鶴、あそこから見る夕焼けが大好きなんですよ……」
 とろけるような声並みで、美咲が言う。
 彼女の素振りは、どこか懐かしい場面に触れているらしいという印象を、恒幸に伝えた。
「夕焼けか……」
「……ってゆか、あたしの穴場だったところを教えてあげたんですけどね。そしたらすごく気に入っちゃって」
「ということは、美咲ちゃんお薦めのデートスポットでもあるわけだな」
「はい。まさか、デートに使われるなんて夢にも思いませんでしたけどね」
 照れ臭そうに苦笑しながら、美咲が言った。
「でもさ、美咲ちゃん」
「はい」
「夕焼けを見るんだったら、明日だけじゃなくて、明後日も晴れないといけないよな」
 恒幸は思った。
 デートをするということだけを考えるのであれば、明日が晴れだと確認できさえすればそれでいい。
 だけど、夕焼けを見るという計画が立ち上がった場合は、明後日の天気もあだやおろそかにはできない。もしも明後日 が曇りや雨だとしたら、夕焼けは、きたる雨雲に隠されてしまうのだ。
 そうすれば、また別に、晴れが二日間続く機会を探さなければいけないということになる。
 しかし、どうしても明日――八月七日をデートの日にしたいという意志が、恒幸にはあった。
「言われてみるとそうですね……」
 想定していなかった条件に、美咲も考え込んでしまう。
「天気予報、なんて言ってたか覚えてる?」
「ぁえーとぉー…」
 顔を俯けて、おでこに人差し指を当てて、美咲は記憶を辿ろうとする。
「明日が晴れなのは確実なんですけどぉ……」
「うん……」
 恒幸も、固唾を呑んで、脳内のメモリーにアクセスを試みる美咲を見守る。
 そして、なにかを悟ったらしい明るい笑顔で、美咲は言った。
「週間予報はあんまり気にしてないんで見てません」
「がっくし」
 項垂れる恒幸。
 同じ性格を持つ者どうし、やはり無関心なものにはまったく見向きもしないな、と彼は思う。
「てゆか、週間予報って見ててもけっこう外れるでしょ?」
「まぁ……確かに」
 持論と世間に普く存在する気象予報士への辛辣な批判とを兼ねた言葉に、気圧されるように恒幸は頷いた。
「だから今は、祈るしかないですね」
「祈るって……おいおい」
 あまりに振るっている美咲の論の展開に、恒幸はつっこみを入れた。
 しかし、それでもほかに明確な手段がないということを、彼は否定できなかった。
 そんな彼を賛同者と見なして、美咲は続けた。
「てるてる坊主をふたつ作って吊り下げとく、ってのはどうですか?」
「どうですか……って言われても、てるてる坊主自体作ったことないからなぁ」
「そうなんですか?」
 目を丸くして言う美咲に、
「お恥ずかしい限りで……」
 恒幸は縮こまって、仲間内では決まり文句のようになっている科白を口にした。
 美咲は、少し困ったような顔をして言った。
「じゃあ念のために作りかた教えときますけど、丸めた新聞紙かなにかにティッシュをかぶせて輪ゴムで止めて、笑った 顔を描くんですよ」
「いや、それはさすがに俺も知ってる」
「確認までにですよ」
 そう付け加える美咲だったが、恒幸にとっては、当たり前だと思っていることを上からそのままなぞられたような 気がして、どうにも彼女の説明が余計なもののように思えた。
 美咲の説明を何度か頭の中で復唱したとき、彼はふと気付いた。
「なんかでも、簡単そうに見えて案外失敗したりしそうだよな……」
「そですか?」
「ほらさ、笑った顔を描こうとしたら逆に不機嫌な顔になってしまって……それだと降れ降れ坊主になっちゃうかな、って」
「あははっ、それもそうですね」
 なるほど納得と言いたげに、美咲が笑う。
「美咲ちゃんだったら女の子だから多少絵心はあるかもしれないけど、俺が描けるものっていったら棒人間かへのへの もへじぐらいだしなあ……」
 コミックもよく読むほうだし、雑誌の読者コーナーに目を通していると自分よりも若い人たちがプロそこのけの イラストを描いているのを見て感心したりするのだけれど……恒幸と絵心とは、遠く離れた存在だ。
 これもやっぱり、読むことには乗り気でも描くことには興味が湧かないせいだと、彼は思う。
「それも偏見ってやつですよ」
 彼の意見に、美咲は異議を申し立てる。
「あたしも描けるのは顔文字と数学の図形ぐらいです」
「いや、美咲ちゃん」
「はい」
「顔文字描けるかそうじゃないかで、てるてる坊主のクオリティーって決まらないか?」
「あ……そでしたね」
「……」
 墓穴を掘った美咲は、いっそその中に入って隠れてしまいたい気持ちだった。
「じゃあ先輩、プリンターで顔文字を印刷しちゃうってのはどうですか?」
 真面目な提案のつもりなのか。それとも、自棄ゆえのジョークなのか。
 いつものように、恒幸は美咲の突飛な言葉に呆然とさせられた。
「……ティッシュに?」
「はい」
「パソコンで顔文字だけ打ち込んで?」
「はい」
「プリンターで出力?」
「はい」
「…………ごめん、俺んちパソコンない」
「はうっ!」
 またしても墓穴を掘ってしまい、間の抜けた声を出す美咲。
 今度は自分にも原因があるなと、恒幸は苦笑した。
「いや、それもあるけど……やっぱり、機械なんかに描かせたら、それこそ晴れてくれないと思う」
「確かに……」
 パソコンも駄目、自分の絵心も駄目とわかると、恒幸の目は、おのずと美咲に向けられた。
 彼女をおいてほかにいない。笑顔のてるてる坊主を作って、明後日の天気をも晴れにしてくれるのは。
 頼みの綱である美咲に食い下がるように、恒幸は言った。
「言っちゃなんだけど、ここはひとつ、顔文字大先生の美咲ちゃんに頼めないかな? その、俺の代わりにてるてる 坊主作って吊るしててもらえたらな……なんちゃって」
「嫌です」
「えぇっ!?」
 ほぼ即答で恒幸の頼みを願い下げた美咲に、今度は恒幸が連鎖反応のごとく驚く。
「先輩が描いてください」
 湿った目で恒幸を見ながら、美咲が言う。
「そんな……絶対雨降って明日夕焼け見れなくなるって」
「見れますっ」
「……え?」
 美咲の薄弱な態度と、舌の根が乾かぬうちに彼女が出した肯定的な意見とが噛み合わず、恒幸は、一瞬ぽかんとした 顔になった。
 自分の意見に追いつくことができていない恒幸に構わず、美咲は続ける。
「もうひとつ言わせてもらうと……あたしがどんなににっこり笑ったてるてる坊主を描いたって、天気が晴れになる 可能性は変わらないと思います」
「それって……美咲ちゃん」
 ようやく追いついてきた恒幸に、美咲は手を差し伸べた。
「もう、明日優鶴とデートするのは誰なんですか?」
 そう――確かに、美咲もいい天気を望んでいるかもしれない。
 だけど、彼女以上に、それを望んでやまない人物が居る。
「うん……。頑張って作ってみるよ」
 美咲の言いたかったことを理解して、恒幸はきまり悪く笑った。
「顔は笑ってたって、怒ってたって、ちょっと変になったっていいんです。大事なのは、てるてる坊主を作るひとが 込める気持ちですよ」
 結局は自分が出した提案を、恒幸が承ってくれるという運びになったことに、美咲は満足げに笑った。
「そうだな……ありがとう」
「えへ、お礼を言われるほどのことでもないですよ。それより先輩……」
「ん?」
「今時家にパソコンもないんですか」
「うっ」
 痛いところを指摘されたな、と恒幸は思った。
 彼の家にパソコンがないのは、家計の問題というよりも、両親の仕事がともにそれを不必要としていることに起因している。 親よりは幾分か興味があるといっても、恒幸もまた、それを買うためにお金を貯めようとは考えていない。買ったところで どういう利益があるのかと思う人間には、それこそ、無駄金を流すだけのように思えて。
「ってことは、当然インターネットとかもできないことになりますよね」
 目を細めて、美咲は言う。
「ああ……。友達んちでちょっと体験させてもらったことならあるんだけどな」
「……明らかに団塊世代の発言ですよね、それ」
「悪かったな……」
 そのあとに続けて、彼は心の中で、うちの親はその発言すらしないけどな、と不平を言った。
「までも、よくそんなでグランジャルダンのチケット取れましたよね」
「おう」
 グランジャルダンとは、先頃美洲に建設された、巨大アミューズメント・パークの名前だ。その名のとおりとにかく 敷地面積が広く、一説には東京ドーム二十個ぶんとも言われている。
 恒幸は、優鶴のデートの願いを受けてから、美洲の遊園地にするなら早めにチケットを申し込んだほうが いいですよ、と美咲に促され、電話回線の混雑するなか、三時間がかりでチケット二枚の申し込みを果たしたの だった。
 それから美咲に言われていたとおり、チケットの配送が行われるまで、更に二週間を要した。
 実際に彼がチケットを手に取って確認したのは、つい三日前の八月三日のことだったのだ。
「夏休みは家族連れとか友達とかたくさん集めて行くひとが多いから、普通はネットで予約しないとそんなに 簡単には買えないですよ」
 美咲によると、ネット経由で申し込みをすれば、そのままデータが配送業者に伝わり、申し込み順にチケットの配送が 行われて、電話で申し込むよりもかなり早くチケットが届くらしい。
 しかしながら、今更そんなことを言われても、自分は電話で申し込んだのだし、そもそもパソコンとインターネットを 用意するための手間を考えると、自分の取った手段は間違っていなかったはずだ――恒幸は、そう思った。
「へへっ、これも優鶴ちゃんにかける情熱の成果かな」
 覇業を成し遂げた自分を鼻にかける恒幸を、
「……よく言いますね。さっきまではそんな気持ちなかったくせに」
 美咲は白い目で見やった。
「うっ……」
「くれぐれも浮かれすぎて、羽目外さないようにしてくださいね」
「お、おう」
「あたしの、大切な親友でもあるんですから」

 

 勘定を済ませた恒幸は、美咲を促して、共にカフェを後にした。
「えへっ。先輩、ごちそーさまでしたっ」
 律儀にも手を合わせて、美咲はにぱっと笑いながら言った。
「おう。こっちこそありがとうな。こんなものまでもらっちゃって」
 テーブルを離れる前に美咲に手渡されたリーフレットを、恒幸は未だカバンの中にしまわないまま持っている。
 今日の勘定は、全部彼持ちだ。けれども、美咲から頂戴した情報の量とこのリーフレットが、彼女がここぞとばかり に注文したクリームソーダとチョコレートケーキ、それにアップルパイの代金を棒引きにした。
 半時間ちょっとの作戦会議だったけど、その内容は濃かった気がする。恒幸は、そう思った。
「それはあげとかないと、いざというときに迷っちゃうでしょ?」
 冷淡な表情で言ってのける美咲。
 恒幸は自分の行動力に、彼女がまったく信を置いていないということを悟った。
「まあな……」
 そうはいっても美咲の言葉を否定することもできず、恒幸は生半に頷いた。
 少し歩いて、天城橋駅構内の中央改札口に向かう人込みへと合流するふたり。見た目には、前回デートをするために ここに来たときよりも、遥かに人口密度が高い。すぐ前を歩く、リュックに五、六本ポスターのような、円筒形のものを 差した脂ギッシュな男の人の汗のにおいが、恒幸の鼻を何度もつく。そのたびに彼は息を止めて、脳内の危険メーターが 上昇するのを阻止する。時折 同じような仕種をする美咲を見て、恒幸は、カエサルの名言を心の中で読み上げた。
「先輩」
「ん?」
「明日の持ち物チェックです」
 人差し指をぴんと立てて、美咲が調った顔つきでそんなことを言う。
「ああ。これと、グランジャルダンのチケットと、ペンギンの縫い包みと、あとは適当な遊興費」
 そう言いながら、恒幸はなんとなく、交通費も含めた遊興費を暗算する。
「そこまではおっけーです。でも、もうひとつあります」
 美咲の言葉の終わりの部分につっかかり、恒幸の暗算は中途で止まった。
「もうひとつって、なにか忘れてたっけ?」
 カフェでの作戦会議の内容を思い返しつつ、恒幸は美咲に尋ねてみた。
 彼女はにたりと笑って、しょうがない教えてやるか、とでも言いたそうな顔をした。
「一日通して、優鶴のことをリードしてあげる力です」
 言われて、恒幸は気が付いた。
 優鶴は美咲と違って……自分から相手を引っ張ったり振り回したりするようなことはしない。優鶴の導きを期待する のではなく、彼女を導いてやらなければデートは不首尾に終わってしまう。
「あたしのときは先輩を振り回しましたけど、優鶴はなんにも言わないから……今度は、適切な判断力と鋭い断行力が 先輩には要求されますよ!」
「うっ……難しそうだな」
 実際美咲の示したふたつの能力を実生活で発揮できていないことに気付いて、恒幸はしり込みする。
「えへへっ。でも、踏ん張り過ぎなくてもいいと思いますよ」
「うん」
「優鶴も、いつもと変わりのない先輩を望んでると思いますから」
「そだな」
 いつの間にか改札の前まで来ていたふたりは、着いたときに購入していた帰りの切符を改札に通し、ホームに向かった。
「先輩……優鶴のこと、よろしく頼みますね」
「ああ」
「あとであたしが優鶴から、デートの印象とか聞きますからねっ」
「えっ、マジで!?」
「えへっ、冗談ですよぉ」
 オバサンがやるように手首にスナップを利かせて、美咲は意地悪っぽく言った。そんな彼女を見て、恒幸は、美咲の 性格は今後数十年、いや未来永劫変わりはしないだろうな、と思った。
「それじゃあ先輩っ、明日頑張ってくださいね!」
 腕を高く振り上げ、さよならと言いながら、美咲は自分の乗り込む電車のホームへと駆けていく。恒幸も大きな声で またなと返して、大きく手を振った。
 去り際の美咲が、少しだけ寂しそうに見えたなと意識しながら――。

 

【2】

 ――翌日。
 美洲駅に降り立った恒幸は、見知らぬ景色の連続に毒気を抜かれていた。
 早速、昨日美咲にもらったリーフレットを拡げてみるが、そこに載っているのはこの区域全体の概略図のみ。車道 なんかも示されておらず、凡例なしには解釈不可能なアイコンの群れも割といい加減だ。こんなものでよく金を 取っているなと、彼は思った。ちらっと見た裏表紙の隅に、定価百円と書かれているのを見て。
 詮方なくリーフレットを閉じて、恒幸は、駅の構内を見渡した。
 斜面を多用したガラス張りの屋根や鏡、幾何学的なオブジェが近未来を想像させる。天井の骨組みからは カモメやアザラシ、マンボウなどのプレートも吊るされていて、美洲が観光地だということをいやに強調している。
 ふと前を見れば二十一番出口とあったりで、どこから出ればよいのかさえ皆目見当がつかなかった彼は、 とりあえず改札まで戻って駅員に尋ねてみることにした。
 構内にいくつか設置されているマップを頼りに、駅員に教えてもらった七番出口を目指す。
 行き交う観光客たちと何度も衝突しそうになりながら、恒幸は、目的の出口へと辿り着いた。
 携帯電話の時計を確認する。十二時五十六分。
 やばい……予想を越えるタイムロスをしてしまった。
 慌てて周りの景色をぐるりと見回し、自分が辿り着くべき建物を探す。ほどなく、その建物を示す大きな看板が 彼の視界に入った。
 “エメラルド・シティ”と英文字で書かれた、紺とエメラルドグリーンの看板。この敷地内の、ジャルコというデパート の入り口に立っている、彼女のもとへ。
 恒幸は、全速力で駆け出した。
 走りながら、再び携帯電話を取り出す。消えていたサブスクリーンの表示を呼び出すと、ちょうど時刻が十二時五十九分 へと変わった。
 悠長なときほど時間は遅く流れるのに、急いでいる今に限って時間が経つのが早い。流れ落ちる大粒の汗をハンド タオルで拭うこともせずに、彼は我を忘れて走った。
「――遠方先輩っ!」
 やがて持てる力を使い切りなんとか約束の時間に滑り込んだ恒幸に、彼を待っていた少女の声が届いた。
「ふぅ……ギリギリセーフだな」
 ひどく息を切らしながら、恒幸は笑顔にならない笑顔を作る。
 手に持ったままの携帯電話の時刻は、まだ五十九分だった。
「そっ、そんなことより……すごい汗ですよ」
 恒幸の額や鼻の頭、首筋にびっしりと添わっている汗の粒を見て、優鶴が驚きと心配の入り混じった声をかける。 約束の時間に滑り込めるように走ることだけしか考えていなかった恒幸は、彼女に言われて初めて、その程度に 気付いた。
「暑いからなあ」
 脇役的な原因を挙げて、恒幸はトートバッグの中からハンドタオルを取り出す。それでおもむろに、顔全体を大袈裟に 拭ってみせた。
「暑いだけでそんなに息が切れることはないと思います……」
「まぁ、そうだよな」
 苦笑して、恒幸は笑顔で優鶴の心配を取り去ってやろうと試みた。
「あの、私……一分や二分の遅刻なんて気にしませんから、どうかご無理はなさらないでください」
 が、余計に気遣わしい顔をして、優鶴は言う。
 正直なところ、優鶴は何分前からここで自分を待ってくれていたのだろうかと、恒幸は思った。十分か? いや二十分?
 いずれにしても、彼女が余裕の面持ちで待ち合わせの場所に居るにもかかわらず、もう少し遅れていたら確実に 遅刻していただろう自分を、彼は、気が利かない人間だと罵った。
「ありがとな、心配してくれて」
 そうとだけ彼が言うと、優鶴はようやくにっこりと笑った。
 遅刻寸前だったのは、彼にとって心苦しいことではある。だけど、だからといって遅刻は俺のポリシーに反するだなん て主張し続けても、優鶴に無理な気遣いをさせてしまうだけだ。ここは彼女に対して歩を譲っておくのがいちばんだと 判断しての言葉だった。
「あの、先輩」
「ん?」
 見ると、優鶴は少し恥ずかしそうな顔をしている。恥じらいの赤い色が、彼女の顔だけでなく、首筋を通って鎖骨の あたりにまで広がっているように、恒幸には見えた。
「オフで先輩もなんですから……先輩のこと、お名前で呼ばせていただいても構いませんか?」
 顎を引き寄せて、上目遣いで言う優鶴。
「どうぞどうぞ。遠方でも、恒幸でも、ツネちゃまでもなんでもお好きなように」
「ふふっ。じゃあ、恒幸さんって呼ばせてもらいますね」
 彼女は無難に、恒幸の下の名前を選んだ。そう呼んでもらえると、普段自分も彼女のことを下の名前で呼んでいるから、 いい雰囲気になるんじゃないかと、恒幸は思う。最後のも、冗談で選んでほしくはあったが……美咲ならともかく、 優鶴には少し抵抗があるかもと思った。
「恒幸さんは、美洲には初めて来られたんですか?」
「ああ、たぶん初めてだと思う」
「たぶん、って?」
「あ、いや。ちっさかったときに海水浴に連れて行ってもらったことはあるんだけどさ、そこが美洲だったかどうかは 俺もよく覚えてないんだ」
「そうなんですか」
 実際、美洲が埋め立て地として認められたのは、十五年前のことだ。
 一方で、海水浴に連れて行ってもらったときの記憶は、恒幸の中では経年劣化が進み、ほとんど呼び覚ますことのでき ない状態にまでなっている。
 それでも、小学校に上がりたての頃か、それからちょっとあとのことだということは朧げに覚えているので、 もしかすると美洲に海水浴場がオープンした記念にここに連れて来てもらったことがあるのかもしれない。
 親に聞く機会もなければそもそも今の今まで思い出しもしなかったので、どうしても記憶が曖昧だ。
「優鶴ちゃんは、この近くに住んでるの?」
 美咲もこの近くということだったので、恒幸は確認程度に訊いてみた。
「はい。近くといっても、自転車で三十分ぐらいかかりますけどね」
「ふうん。今日も自転車で来たの?」
「いえ、あれです」
 優鶴が指差したほうに目をやると、恒幸は、自分が乗ってきた路面電車とは別の、高架になっている電車の路線を 発見した。
「あれは?」
「はい。臨海モノレールっていって、駅は六つぐらいしかないんですけど、美洲の近くを運行してる市営の路線です」
 そういえば駅を歩いていたときにモノレールの乗り場があったなと、恒幸は思い出した。
「私鉄でも来るには来れるんですけど、私の家からだとモノレールのほうが早いんです」
 優鶴がそう言った直後、高架を車両が通過していく。美咲の話のとおり、ここから見ても電車の中がレジャー客で満員だと いうことがよくわかる。
「すごい人だな……あの中に乗ったんだ」
「はい。遠くから来るにしてもあっちのほうが近道なんで、せっかちな観光客の人たちはみんなモノレールを利用するんです」
「近道?」
「そうです。天城橋のモノレール乗り場からここまでは、最短距離で繋がってるんです」
「へぇー……天城橋にも乗り場があったんだ」
 恒幸は、美咲に教えてもらったとおり、私鉄で一旦天城橋まで出てきてから、路面電車に乗り換えて駅を十ちょっと 過ぎて美洲までやってきた。駅と駅の間の距離が同等だとすれば、優鶴が言うように、モノレールのほうが近道という ことになる。
「でも、やっぱり時間がかからないだけに……休日は、さっきの電車みたいに満杯ですね」
 すし詰めの中で時間を短縮するか、多少時間をかけてでもくつろぎながら旅をするか。モノレールと路面電車の選択 は、そういうことを意味していたらしい。
 人いきれが苦手な恒幸は、美咲の提案に感謝するほかなかった。
「それじゃ優鶴ちゃん、最初はどこ行こっか」
 恒幸は、さっき駅で拡げたリーフレットを再びバッグから取り出して、ページを捲る。
「ええと、恒幸さんにお任せします」
 笑って、早速恒幸に決定権を委ねる優鶴。
 のっけから行き先を決めてやらねばならなくなってしまい、彼はいささか慌てた。
「うーん……じゃあ夏らしく、水族館でも行ってみようか」
 涼しそうに水中を泳ぐ動物や魚の写真が時宜よく目に留まり、恒幸はそう提案する。
「はいっ」
 嬉しそうな笑顔で、優鶴は返事をした。

 

 仄暗い館内を女の子と手を繋いで歩くのは、嬉しいけれどもちょっぴり恥ずかしい。
 見慣れた制服姿とは違って、清楚なワンピースに彼女が身を包んでいるということもまた、その気持ちを増幅させていた。
 髪型も性格も同じなのに、学校で見るのとはどこか異なる人物のようにさえ見える優鶴。
 おかげで恒幸は、水槽の中の生き物を鑑賞するというよりもむしろ、必要以上に彼女のことを見てしまっている気がした。
「あっ、恒幸さん」
 ふと優鶴が、一枚の立て看板の前で足を止める。
「ほら、見てください」
「ん?」
 優鶴が示した看板は、大きな扉の脇にちょこんと置かれていた。
「イルカのショー、一時四十分からか…」
「せっかくですし、見ていきませんか?」
「ああ、そうだな」
 水族館に入ってから、ふたりは、無数の魚が泳ぐアーチ状の水槽の下を通り抜けたり、角の生えた愛嬌たっぷりの 珍獣に見入ったり、駅のプレートにもなっていたアザラシやラッコなどのポピュラーな動物にもお目にかかり、おおかた 館内を回り尽くしていた。
 そんな折にイルカのショーとは、決まりをつけるにはもってこいだと、恒幸は思う。
 扉にも同じようなポスターが貼られていたので、彼はその扉を押し開けて中に入った。扉を押さえて、優鶴も入り込んできた のを確認すると、大きな音を立てぬよう、彼はそっと扉を閉めた。
 ショーの会場は、屋外の光を採り入れていて明るく、暗い館内に目を順応させていたふたりには眩しすぎるほどだ。
 ステージにはまだ調教師の姿はなく、観客席に腰を下ろしているひともまばらだ。
「恒幸さん、今何分ですか?」
「えっと、ちょっと待ってな」
 懐から携帯電話を取り出して、サブスクリーン横のボタンを押す。十三時三十三分という時刻が表示された。
「あと七分だ」
「それじゃ、もうすぐですね」
 観客席は全体の二割ほどしか埋まっておらず、最前列にもまだ空席がある。
「どのへんで見ようか?」
 いちおう美咲には終始一貫優鶴のことをリードしてやるように言われているが、彼女のほうから希望があるのなら 是非聞いておきたい。恒幸はそういう心積もりだったが、優鶴はやはり、
「私は、どこでも構いませんよ」
 と言って、みずから決定権を掌握しようとしなかった。
「そうか? それじゃやっぱり、迫力ありそうだし、前の席に行くか」
「そうですね」
 結局、恒幸が先導する形で、ふたりは最前列の席を取った。
 椅子に腰掛けて、邪魔になる荷物を膝の上に置く。ふたりが入ってきて扉と、もうひとつの扉から、ショーを見物に 来る客が続々と姿を現し始めてきた。
「私、こんなに近くでイルカさんを見るの、初めてです」
 湧き立つ期待に、優鶴は声を弾ませる。
「俺も。楽しみだな」
「はいっ」
 ややあって、開演まであと三分というアナウンスが、観客席上部のスピーカーから流れた。ステージの奥から、 ひとりの若い女性調教師が現れる。彼女はなにやら、ステージのコンディションをチェックしているようだ。続けてもう ひとり、マイクを手に持った若い男性調教師が現れる。彼は、恒幸と優鶴が入ってきたときよりも随分と増えた観客 に向かって、挨拶をした。
「本日は美洲アクアリウムにご来場いただき、誠にありがとうございます」
 観客席のどこからともなくアプローズが立ち上がる。恒幸たちも、手を打ち鳴らした。
「当館では、一日に二回、ご来場のお客様方にイルカのショーを披露させていただいております。テレビなどの各メディア でもよく特集していただいているので御存知の方も多いと思いますが、テレビやビデオなどの映像を通して見るのと、 実際に生で見るのでは迫力が断然違うと思います。そんなショーを彩ってくれる可愛いイルカさんたちを、今から 皆様にご紹介しまーす!」
 わいわいとがやがやと、観客席から小さい子供たちの歓声が上がる。
 男性調教師から、女性調教師にマイクが手渡された。
「良い子のみんなー、イルカさんは好きかなー?」
「はぁーい!!」
 子供たちの無邪気な声に心を動かされ、恒幸と優鶴も童心に立ち戻って微笑んだ。
「じゃあ今から元気な声で、イルカさんを呼んでみてくださーい。せーのっ」
「イルカさーん!」
 ――ざっぱーん!
 呼びかけに応えるように、水面の下から二頭のイルカが揃ってジャンプをした。
「わあ!」
「おぉすげぇ!」
 自然と出てくる感動の声を、ふたりとも抑えることができない。イルカのダイナミックなアクションに、釘付けになる。 なによりも、大きなイルカの躯体と、大きな水の音がふたりの魂を揺さぶった。
 ――ざぶーん!
 再び響き渡った観客のアプローズに、水面に潜ったイルカたちが、再び頭を出す。
「こんにちはー!」
「こんにちわー!!」
 ふたりの調教師の挨拶につられるように器用にお辞儀をするイルカを見て、恒幸たちは笑った。
「とっても賢いんですね」
「どうやって訓練してんだろうな?」
「ふふっ。きっと、私たちが想像もつかないような方法でしょうね」
「そだな」
 目の前でパワフルなショーを見せつけられてしまっては、考えを巡らせている余裕なんてない。
 ふたりは気持ちを高揚させて、再びイルカたちの演技に見入った。
 やがて演技も中盤に入り、ふたりの調教師がそれぞれイルカの背に乗って、プールを大きく周回するという演目に 入ったときのこと。
 恒幸と優鶴のふたりは、予想だにしなかったハプニングを喫することになってしまう――。
「あっ、こっちに来ますよ。恒幸さんっ」
「おっ、ほんとだ」
 笑顔の男性調教師が片手を観客に向けて振りながら、ハイスピードで恒幸たちの真ん前を駆け抜けていった、次の瞬間。
 女性調教師の乗っていた、後続のイルカが突然……。
 ――バシャッ!
 背に乗せていた女性調教師をプールの中へと振り落とし、天高くジャンプをして……。
 ――ザッパァァン!
「おわっ!」
「きゃぁっ!」
 ふたりの前の水面へと、派手にダイブ!
 水飛沫というよりは高波のようなプールの水が、勢い良くふたりを上半身から襲った。
「いや……冷たいです……」
「…濡れたな…」
 それこそコントの強引な大団円のような水の受け方をしてしまい、ふたりして茫然自失した。
 優鶴の濡れようを確認しようと振り向いた恒幸の目に、水気を含んだウンピース越しに、彼女の胸を覆う可愛らしい下着が 映る。美咲とは違って、か細い体の割にボリュームのある、優鶴の胸。どきっとして、恒幸は息を呑んだ。
「…っ! あ、あの……みっ、見ないでください……恥ずかしいです」
 真っ赤になった顔を俯けて、咄嗟に胸元を両腕で覆い隠す優鶴。
「ごっごめんっ!」
 慌てて顔を向きを百八十度回転させて、恒幸は、俄かに自分を支配した邪念を、取り払おうとした。
 女性調教師を振り落としたほうのイルカが、プールじゅうを満足げな様子で悠々と泳ぎ回るのを見て、観客たちが、 おい大丈夫かとか、ミスっちゃったのとか、どうしたのとかどよめき出す。
 しばらくして、振り落とされた女性調教師が、ステージに戻ってきた。彼女は、知らん顔で泳ぎ回っていたイルカを、 ホイッスルを吹いて呼び寄せると、向き合って、両腕をクロスさせた。その瞬間、イルカは首(?)を項垂れて、顔の 下半分をプールにうずめ、しゅんとしたような表情になった。そのリアクションを見て、観客がどっと笑い出す。
「ちょーっとストレスが溜まってたのかもしれませんねぇ。さぁ気を取り直して次の演技、キャッチボール!」
 外部アナウンスの実況が、声高に告げる。なにごともなかったかのように……いや、今の反省も演技のひとつで あったかのように取り繕われ、ショーは再開された。
「どうしようか……優鶴ちゃん」
 未だ優鶴のほうを振り向くことができないまま、恒幸は言った。
「う、うしろのほうの席に移動しませんか?」
 ふたりは席を立って、周囲の観客の怪訝な視線を受けながら、後方の座席に移動した。途中恒幸は、今の水飛沫が どこまで飛んできていたのかと、自分が座っていたうしろの席を見たが、前から三列目よりもうしろの座っていれば、 被害は免れたらしかった。
「ごめんな、俺が前行きたいって言ったばっかりに…」
 恒幸は謝って、トートバッグの中からハンドタオルを取り出して優鶴に差し出した。
「こんなんしかないけど……」
「あっいえ、そんなに気を遣っていただかなくても……」
 依然として、まともにお互いの顔を見ることができないふたり。濡れた腕を拭うためのタオルも濡れてしまっていては、 意味がない。ここに居てもショーの残りをわくわくしながら見るのは難しいだろうと、恒幸は割り切った。
「優鶴ちゃん」
「はい……」
「一旦、外出て乾かそうか……」
「そうですね……」
 結局、二十分あるショーを半分ほど残して、恒幸は、優鶴を連れて水族館を後にすることにした。

 

「ほんとにごめんな、優鶴ちゃん」
「いえっ、恒幸さんのせいじゃないです」
 自分が最前列の席を取ってしまったせいだと恒幸が繰り返すと、ショーを見たいと言い出した自分も悪いと、優鶴は彼と 同じように自分自身を槍玉に挙げた。
「その、良かったら替えの服代出すよ」
 念のために多めに手持ちを用意していたのを思い出して、恒幸はそう提案した。
「そんなっ、悪いです」
 しかし、優鶴はあくまでも、恒幸に非があるのではないということを、顔で訴えている。
 頭上高く輝く太陽はせっせと自分たちの濡れた服を乾かしているのに、明確な打開策を見つけられないふたりは、 お互いかける言葉にすら悩んで口を閉ざした。
 なにを言うべきか、言葉を模索していた恒幸にとっては長すぎる無言の時間を経て、優鶴が先に口を開いた。
「恒幸さん」
「うん?」
「さっきのイルカさん……とっても元気でしたね」
 今までの消極的な態度からは思いも寄らないことを言われて、恒幸は、自分を雁字搦めにしていた罪悪感の糸が、 少し緩まるのを感じた。
「私、もともとイルカさんは好きだったんですけど、ああいう一面を見て、もっと好きになった気がします」
「優鶴ちゃん……」
 水をかけられたというのに、優鶴はイルカを恨むどころか、意外だった一面を賞賛した。
 それは、純粋にイルカが好きであるゆえの言葉で……そんなことも知らないで、罪悪感を雪ぐことばかりを 考えていたなんて、なんと自分は大人気ないのだろうと、恒幸は思う。
「恒幸さんは……イルカはお好きじゃありませんでしたか?」
「いや。なんというかさ、俺たちに水をかけてきたあのイルカ……」
 恒幸自身も、あのハプニングに遭ったとき――消極的でないことを考えていた。
「……どっかの我がままでやんちゃな誰かさんに似てるよな」
 苦笑して言った恒幸に倣って、
「ふふっ、そうですね」
 優鶴も微笑んで、頷いた。

 

 照りつける太陽の光は、乾燥した空気も手伝って、半時間と経たないうちにふたりの濡れた衣服を乾かした。
 なんとか快適に行動できる状態を取り戻したところで、ふたりは水族館を離れ、グランジャルダンの近くにある、 《Dix Cinémas》ディス・シネマという映画館へと歩を進めた。
 ディス・シネマは、普通の映画館に比べて規模が大きく、その名の通り、常時十種類のフィルムを上映して いる。話題の新作をはじめ、アニメ映画ばかりを上映しているホールや、任侠映画ばかりを上映しているホール、 ラブロマンスばかりを上映しているホールなどなど、十のジャンルからニーズに合ったものを選んで楽しめるので、 こう名付けられているらしい。
 ここでも恒幸は、優鶴から決定権を委ねられ、アクション、SF、コメディ、ファンタジー、ラブロマンス、スポーツ、 ドキュメンタリー、アニメ、任侠、とある中から、ラブロマンスとファンタジーに的を絞って迷うこと数十秒、 後者を選択した。
 十のジャンルがあるのに選択肢が九つだった理由はいたって単純で、ふたりがともに年齢制限に引っかかってしまう ということだった。
 ふたりはエレベーターに乗り、ファンタジー映画のみを上映している、三階のホールを目指した。ディス・シネマは 五階建てで、各フロアにふたつのホールが並置されているという塩梅だ。
 三階に降り立つと、恒幸はファンタジーゾーン(それぞれのホールには、ジャンルのあとに“ゾーン”のついた呼称が 割り当てられているらしい)の扉を押し開けた。
 もちろん、ほかの映画館の入場料に比べると割高な、一人あたり二千八百円という金額を前払いしているので、 営業時間内であればどのホールに移動するのも自由だ。けれども、そうしているといくら時間が合っても足りないと 考えた彼は、多少採算の取れない出費であっても、敢えてジャンルをひとつに絞ることに決めたのだった。
 ホールの中に入ると、大音量の効果音と、驚くほどワイドなスクリーンが、ふたりの興味を掻き立てた。
「あ、この映画……『ダリー・オッター』ですね」
「知ってるやつ?」
 映画といえば、テレビで放映されている古い洋画を、たまに子守唄代わりにするぐらいの恒幸にとっては、スクリーン に映し出されているワンシーンからタイトルを導き出すことは、不可能に近い。
「はい。でも、たぶんこれは最新作で、まだ見たことがないと思います」
 どういうストーリーの映画なのかは恒幸にはわからないが、優鶴が思わしい反応を示しているとなれば、彼もその 映画をじっくり観てみたいという気になった。
 開いている座席を見つけると、ふたりは椅子を引き下ろして腰掛けた。そして、傍らにバッグを置くと、早速 スクリーンに目を移した。
 マントを身につけた十二歳ぐらいの少年が箒に跨って、勇ましく声を上げながら、意地の悪そうな顔をしたライバル らしき少年と矛を交えている。なんとなく、魔法が関係したストーリーだということが、恒幸にもわかった。
『このままじゃダリーが危ないわ』
『無茶だハーモンヨニー! そんなことをしたら反則だ!』
 ハーモンヨニーなる、ダリーの仲間らしき少女が呪文を唱える。ダリーが立ち向かっていた少年を、火の玉が囲った。
 そんなファンタジックなシーンが、映画に無頓着なはずの恒幸を、どんどんと惹きつけていく。
 時間の経過も気にならなくなるほどスクリーンに夢中になっていた彼の肩に、不意に圧力がかかるのを感じた。
 その正体を確かめるべく振り向くと――あろうことか、そこにあったのは、目を閉じ、穏やかな顔ですやすやと眠っている 優鶴の頭。
 ダリーの世界から魔法を使ったようにして瞬間移動し、現実世界に戻ってきた恒幸は、ダリーが次にどんな行動を 起こすのだろうと高鳴らせていた鼓動とは異なる種類の鼓動が昂ぶるのを覚えた。
(どうしよ……優鶴ちゃん、寝ちゃったな)
 彼の気付いていないところで眠りに落ちるのならまだしも、頭をぴったりと腕に密着させて、その部分から温かい体温を 伝えられては気が気でない。
 しばらく恒幸は、優鶴の幸せそうな寝顔のせいで、ダリーの世界に戻ることができなかった。
 ダリーの映画は一時から上映されていたらしく、恒幸たちがファンタジーゾーンに入ってから四十分と経たないうちに、 スクリーンにはスタッフロールが流れ出した。
「――優鶴ちゃん」
 恒幸は、周囲に類を及ぼさない程度の声で、そっと優鶴の肩を叩きながら目覚ましボイスを送った。
 ゆっくりと優鶴の瞼が持ち上がり、彼女は、少し嗄れた声を出す。
「……あ、恒幸さん……私」
 居住まいを正すと、優鶴は恥ずかしそうに顔を俯けた。
「寝てたよ、途中から」
「……す、すみません……」
 申し訳なさそうな顔になって、優鶴は縮こまった。
「迷惑、でしたよね……」
「いや、その……すごくあったかかった」
「えっ?」
「優鶴ちゃんの頭」
 恋人の中には、彼女に膝枕をしてもらう男性がいることを、恒幸は知っていた。
 ところが、まさか自分が優鶴に腕枕をしてあげることになろうとは、予想だにしなかった。
「……」
 恥ずかしさのあまり、優鶴は思考回路をショートさせそうになる。
「あ……映画、退屈だった?」
 恒幸は、映画や音楽をホールで鑑賞しているときの睡魔というと、寝不足か退屈ぐらいだろうと思った。
「いっいえ、そんなことないです」
「じゃあやっぱり、睡眠不足?」
「はい。お恥ずかしいながら、昨日の夜はあまり眠れなくて……」
 なるほどな、と恒幸は思った。
 自分も、普段ベッドに入り込むのは十時過ぎだけど、昨日の夜に限っては、十一時を過ぎてもまだ、瞼が半分ほど 開かれていた。
 楽しみにしているイベントの前の日の夜は、体力を温存するといっても寝るに寝れないというが、彼がそのような 夜を前に経験したのは小学校の修学旅行あたりだっただろうから、ほとんど初めて経験する感覚といっても差し支えがない。
 優鶴も同じように、期待と不安の入り混じった複雑な心に安眠を妨害されていたのだろうな、と恒幸は苦笑した。
「何時間ぐらい寝たの?」
「ええと……昨日寝たのが……あ、昨日じゃなくて、今日ですね。日が変わってから一時過ぎに寝て、今朝起きたのが 六時なんで……四時間半ぐらいだと思います」
「六時!?」
 就寝時間も未体験だが、朝に弱く、母のモーニングコールなしでは遅刻必至の恒幸は、優鶴の起床時間に、驚きと 感心とを同時に覚えた。
「はい。恒幸さんは、どれぐらい寝られたんですか?」
 興味津々といった顔で尋ねる優鶴。
「俺は、寝たのが十二時前で、起きたのは十時ちょっと前……って、寝すぎだよな」
「ふふっ。朝寝坊できるなんて、羨ましいですね」
 羨望を笑顔に載せて、優鶴はそんなことを言う。
「えっ? 夏休みぐらい、思いっきり朝寝坊したらいいじゃん」
 夏休みが訪れ、恒幸は母親に、朝起こしてもらうことを強要しなくなった。その結果、彼は、毎朝七時になると 夢の世界から引きずり出されるという仕打ちから逃れることができ、思う存分、自分自身の生体リズムに合った 起床時間まで、睡眠を引き延ばすことができるようになった。
 それなのに、優鶴はその夏休みのメリットを高閣に束ねているのかと思うと、彼は不思議な気持ちになった。
「いえ……私は朝寝坊、したくてもできないんです」
 残念そうな顔で、優鶴は言う。
「できないって、なんで?」
「この前、父が倒れたでしょう?」
 言われて、恒幸は優鶴が軽音部を退くきっかけにもなった、彼女の父親の凶事を思い出した。
「ああ」
「私、父が元気に働いてたときは、毎朝六時前に起きて、朝ご飯の支度とか、身の回りの用意をしてたんです」
 恒幸はようやく、優鶴の示さんとしている事実を悟った。
 ……そうか、優鶴にはお母さんが居なくて、代わりに家事を担当してるんだっけ。
「でも今はお父さん、入院してて家にはいないんだろ?」
「はい。でも……今でも、このライフスタイルから抜け切れなくて。六時に起きる、っていうのは、私の体内時計 みたいなものなんです」
 半ば自慢げに、半ば仕方ないと言いたげに、優鶴は説明する。
 恒幸も、毎晩十時に睡魔のお迎えが来るので、自分にも、体内時計のようなものがあるのだろうと思った。しかし、 優鶴と違って、その体内時計は不完全だ。なぜなら、就寝時間は決まっていても、起床時間が日によってまちまちだから。
 学校があるときは自分にも午前七時の体内目覚ましがあればな、と彼は思う。
「ふうん……。そんなんで、疲れたりしないか?」
 四時間半……よく寝たとしても五時間や六時間の睡眠では、恒幸にとっては、体育以外のすべての授業を居眠りタイム にしてしまわないとやっていけないほどである。
「ええ、大丈夫です。慣れてますから」
 にっこりと笑う優鶴は、確かにその明るい顔で、並外れたスタミナを表現している。美咲が恒幸の目の前で元気な 振る舞いをしてくれるのに対し、優鶴は、彼の見えないところで頑張っているのだ。そう考えると彼には、優鶴が、小粒でも ぴりりと辛い香辛料のように見えた。

 

 ディス・シネマを後にして、ふたりが次に向かったのは、待ちに待った《Grand Jardin》グランジャルダン
 美洲を訪れた者なら行かなければ損とまで言われているほどの遊園地だと、美咲は説明していた。
 チケットと引き換えに、風船を持ったうさぎのポップなイラストがプリントされたオールデイ・パスを受け取ると、恒幸と 優鶴はエントランス・ゲートを抜けて、グランジャルダンの敷地に足を踏み入れた。
 園内を埋め尽くす人。親子連れにカップル、それから、五、六人で連れ立って遊びに来ている学生ふうの若者。 夏休みというだけあって、もう十時の開園時刻から五時間以上が過ぎているというのに、賑やかだ。
 グランジャルダンの園内マップも、美咲に渡されたリーフレットの中に掲載されていた。しかし、優鶴が絶叫マシン に弱いとなると、楽しめそうなアトラクションは、全体の半分もないだろう。これだけは絶対にだめですからね、と 美咲に念押しされていたものを思い出す。確か、シューティング・スターと呼ばれるジェットコースターと、飛行機を模した 乗り物が高速回転するエア・ライダー、地上百三十メートルの高さから落下するザ・ナラク・フォール、二百七十度ほど 傾きが変わるノアズ・アーク……。
 ――絶叫マシンを除いたあとに残るものといえば、観覧車とコーヒーカップぐらいのものか。
 入場料と釣り合わない気もしたが、アトラクションを限定することで優鶴への配慮がなせるものだと思えば、 恒幸は、一切の損得勘定を捨て去ることができた。
 最初にメリーゴーランドとコーヒーカップを、それぞれ十五分待ちで楽しんだふたりは、次に観覧車に乗って、 四半時間の間、グランジャルダン――いや、美洲の全景を俯瞰した。
 そして、ふたりは……。
「……お、大きいですね……」
「うん……」
「……こっ、ここに、入るんですか……?」
「ああ……。ちょっとだけなら、いいだろ?」
「でも……私、怖いです」
「大丈夫だって、優鶴ちゃん……俺を信じて」
「……はいっ。恒幸さん、私……頑張りますっ……!」
 美咲から、『ここはいちばんのお薦めですっ』と言われたが、恒幸自身もあまり乗り気ではなかったお化け屋敷の 入り口の前で、しばらく、突入するのを躊躇っていた。
 なにしろ、サイズが大きい。お化け屋敷というと、恒幸はたかだか、学校の教室ふたつぶんぐらいの広さだと想像 していた。ところが、グランダャルダンのお化け屋敷――その名前を、“ホーンテッド・アパート”という――は、 名前の通り、幽霊たちが生活するアパートのような風采をしている。
 二階建てということは、階段を上がったり降りたりもするのだろうか。
 いくら美咲のお薦めとはいえ、優鶴にとっては負担にならないかと、恒幸は心配した。
「じゃ、入るか」
「はいっ」
 優鶴は最後に、力強く返事をすることで、士気を奮い立たせた。
 黒いカーテンが吊るされた入り口を潜る。それまで聞こえていた喧噪と、日が照り輝いていた空の明るさが消える。 その代わりに、ゴォォォ……という悪魔の唸り声のような音と、水が滴る音がふたりの聴覚を支配する。
「つ、恒幸さん……」
 震えた声で、優鶴が言う。恒幸は、彼女のほうを振り向いたが、館内にほとんど照明がないために、暗闇で 優鶴の顔の様子が確認できない。
「ん?」
「手……繋いでてもらえませんか?」
「ああ、いいよ」
 恒幸は、優鶴のいる側の腕を動かして、彼女の手を探した。なかなか触れることのできない焦れったさを少しの間 感じたあと、彼の手は優鶴の指に当たった。空かさず、捕まえて握る。細くて小さい優鶴の手から、申し訳ほど 冷汗が出ているのを、恒幸は感じる。どうやら、視覚を奪われていると、手の感覚が敏感になるらしい。
 手を握られた優鶴の顔が落ち着いたかどうかを確かめられず、恒幸は気を揉んだ。
 ――バサバサッ!
「きゃっ!」
 コウモリを模した仕掛けなのだろう――なにかが羽叩いて飛んでいくような映像と、突然の大きな音とに、優鶴は 図らずも叫び声を上げる。恒幸の手にも、彼女の握力がその一瞬だけ強くなったことが伝わった。
「……あっ」
 ぎゅっ、と恒幸が優鶴の手を強く握り返す。彼はその行為を、自分がついているから大丈夫だ、というメッセージの代わり として、優鶴に施した。それは、単に声で伝えるのよりも温かくて……切実な励ましのように、優鶴には思えた。
 恒幸が予想していたとおり、順路の途中には階段があった。二階建てのお化け屋敷なんて初めてだ――ゆっくりと 着実に階段を上っていく優鶴のペースに合わせて、彼は階上を目指す。
 さすがに階上にトラップがあったりなんかしたら、驚いた拍子にこの階段を転げ落ちてしまうだろう。恒幸がそう考えて いたのとは裏腹に、
 ――グオォォッ!!
「うおぉおっ!」
「きゃあっ!」
 階上に辿り着いたふたりを、恒幸の側の壁からクリーチャーが襲う。
 そうとは予期していなかった恒幸は、今まで保っていた平静を失って、素っ頓狂な声をあげてしまった。
「……ふふふっ」
 クリーチャーの前を過ぎると、それまで怯えっぱなしだった優鶴から、笑いが漏れた。
「なんだよ、優鶴ちゃん」
「いえ、恒幸さんも実は怖がりなんですね」
「……ほっといてくれ」
 楽しそうな声で言う優鶴を、恒幸は、冷たくあしらう。
 手を握って励ましてやったというのに、彼が同じレベルに落ちると一転、そんな彼を可笑しがる優鶴。彼女にかけた 情けが徒になった気がして、恒幸は、彼女と繋いでいた手を不意に離した。
「冗談ですよ。私はまだ怖い……きゃあっ!!」
 少し歩いたところで、今度は優鶴のほうが、クリーチャーの毒牙にかかる。
 どさっ、という音と、彼女の声が床のほうへ落ちていったのを感じて、恒幸は慌てた。
「ゆっ優鶴ちゃんっ!?」
 真横に手を伸ばしてみたが、恒幸の手は虚空を掴むのみ。
「びっ……びっくりしました……」
 並んで歩いていたときよりも下のほうから、優鶴の声が聞こえる。恒幸は、瞬時に、彼女が体勢を崩して床に尻餅を つくかなにかしてしまったのだろうと悟った。
「立てるか、優鶴ちゃん?」
 恒幸は声をかけて、闇の中に、離れてしまった優鶴の手を探る。
「はい……大丈夫だと思います」
 優鶴と恒幸の手が触れる。咄嗟に、お互い手を握り合った。
「……っしょっ!」
「……んっ」
 恒幸が優鶴の手を力任せに引き、彼女も力んだが、体が持ち上がらない。まごつくふたりの横を、恒幸の肩に膝を ぶつけた後続の客が、不快な声を漏らしながら通り過ぎていく。焦燥感から、彼は必死になった。
「頑張れっ、優鶴ちゃん」
「はっ、はいっ」
 もう一度、優鶴の手を引いて、恒幸は、彼女を立ち上がらせようと試みる。しかし、彼は力を振り絞っても、優鶴の ほうの力が抜け切っているのか、一向に彼女が立ち上がる気配はない。
「恒幸さん……だめみたいです」
 優鶴の握力がすうっと引いていくのを、恒幸は感じた。
「腰、抜けちゃいました……」
「……ぷっ、あははっ」
 切ない科白を吐く優鶴に構わず、恒幸は噴き出した。
「わっ、笑わないでください」
「いや、女子高生が腰抜かすこともあるんだって思ったら、なんかな」
 闇の中にこだまする、恒幸の笑い声。
「……恒幸さん。来世で、祟ってもよろしいですか?」
 ふと、ここがお化け屋敷だということを思い出して、恒幸は、なにか恐ろしい映像が脳裡に映し出されるのを感じた 気がした。
「……ごめん。おんぶしようか?」
「迷惑でなければ、お願いします」
 恒幸は、優鶴と繋ぎ合っている手の位置を頼りに、彼女の前と思われる場所を推測して、しゃがんだ。覚束ない 手の動きで、優鶴が、恒幸の肩や首の位置を、実際に触れて確認する。彼女が背中に上体を預けてきたのを感じ取ると、 恒幸は、繋いでいた手を離して、腕をうしろへ伸ばす。優鶴の太腿の柔らかな感触にありついて、彼はまた、どきっとした。
「優鶴ちゃん、もう少し体寄せてきて」
「はい」
 ぐっと寄せられた優鶴の体を支えると、
「しっかり捕まってろよ」
「はいっ」
「おりゃぁっ!!」
 恒幸は、持てる力の全てを下肢に集中させて、優鶴の体を背負い上げた。
「わ……凄い。力持ちですね、恒幸さん」
「まあな。火事場のなんとかっていうやつだ」
 そう言った恒幸も、そのなんとかという力を、過去に出したという自覚を持ったことがなかった。
 けれども、今の力は、そう言って問題ないように感じる。
「ひどいです……それじゃあ、なんか私がものすごく重いみたいな言い方ですよ?」
 不服そうな口調で、優鶴が、恒幸の耳元で言う。
「はいはい。この際馬鹿力はおいといて……火事場のヒーローっていうことでひとつ、俺のことを見てもらえないかな?」
「ご自分でそういうことを仰ったら、言葉の重みがなくなると思います……」
 言いながら、ふたりとも、お化け屋敷の中でするような会話じゃないな、と思った。
 下りの階段も、優鶴を背にどうにかクリアした恒幸は、クリーチャーが自分たちを驚かせてくるのを、優鶴とふたり で楽しみながら、出口を目指した。
 カーテンを再び抜けたふたりの目に、まばゆい光が届く。今日四度目となる明所への順応を、ふたりともが強いられた。 ふと恒幸は、やけに今日は暗い場所と明るい場所とを行き来しているな、と思った。
 背中の優鶴を案じて、恒幸は、お化け屋敷の出口の向かいに合ったベンチに、目をつける。
「あそこでちょっと休むか?」
「いえ……あの、恒幸さん」
 恥ずかしそうな顔をして、優鶴は言った。
「休憩する前に、私をお手洗いまで連れて行ってもらえませんか?」
 なんだ、そういうことなら恥ずかしがらなくてもいいじゃないか、と恒幸は思う。
「おっけー」
「私……恥ずかしながら、お化け屋敷の中でびっくりして転んだときに、その……ちょっとだけ、出てしまったみたいで……」
「ぅえっ!?」
 目的語が示されなかったものの、優鶴の言おうとしていることは、恒幸の思い半ばに過ぎた。
 またしても、腰抜けに続いて、こういうこともあるのかと、彼は意外に思う。しかし、今度は笑おうとしても、 純粋に驚いていたせいで、いきなり破顔するには至らなかった。
「えーと……替えの費用、出そうか?」
 考えてみれば、下着を売っている店なんて、遊園地の中にはあるはずがない。一旦ここを出て、優鶴と待ち合わせをした デパートまで戻る必要がありながら、恒幸は、ばつの悪さから、自然にそう問いかけていた。
「あ、いえ……大丈夫です」
 苦笑いを浮かべて、優鶴は言う。
「大丈夫って、そのままじゃ……」
「……替え、いちおう持って来てますから」
「マジでっ!?」
「はい……まじです」
 俄かには信じがたかった。
 いったい、優鶴以外に、どこの世界に、このようなハプニングを想定して替えの下着をカバンに忍ばせる人間が居ると いうのか。お年寄りならわからないでもないが、そう口にしたのが高校一年生の女の子だということを再び認識して、 恒幸は噴き出した。
「はははっ、すげえ用意周到だな!」
「えへ……備えあれば、憂いなしって言いますから」

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