第7章 Rêve - 夢へ
Après tout, elle décide à rejoindre le club et donne son regard au rêve de nouveau.

 

【1】

 お化け屋敷のあと、コメディアンスタッフによる喜劇を観てから、ふたりは、今日いちばんの長丁場だった グランジャルダンを後にした。
 そして、そこからは歩いて十分足らずの海岸へ到着すると、潮の音だけが響く砂浜へと降り立った。
「わあ……綺麗な夕焼け……」
「ほんとだな……」
 溶けるように柔らかくなる優鶴の声に、恒幸も、思わず声を落ち着かせる。
 真西の空に輝く金色の夕陽は、一日に見る太陽のなかで、もっとも鮮烈な光を放っていて、美しい。目が眩むほど のその光を、周囲の雲に反射させて、燃えるような赤に染め上げる。それだけでなく、水平線を軸とした対称位置に、 燦然とした輝きが揺れ動く水面を作る。日没前の太陽は、雲と、そして海の水面をゲストに呼んで、一日の明るい時間の終 わりに、あたかも壮大なページェントを催しているようだ。その光景はとても幻想的で、神秘的で――到底、人の力では 作ることのできない、天の配剤と言えた。
「学校で見るのとは全然違いますよね……」
「ああ……」
「どうされましたか?」
 ただ夕焼けに見惚れているだけではない様子の恒幸を、優鶴は、不思議そうに見つめる。
「いや……美咲ちゃんのおかげだな、って」
 恒幸は、心の奥で、昨日の美咲のアドバイスに触れる。
 昨晩彼は、彼女に言われたとおりに、ふたつのてるてる坊主を拵えた。不器用な彼は、笑った顔を描き損ねてしまう どころか、ふたつのてるてる坊主を同じ形にすることさえできなかった。だけども彼は、幼稚園児が作ったものと選ぶ ところのないてるてる坊主を作ってしまったことを、決して、恥ずかしいとは思わなかった。なぜなら、これは、単なる 快晴祈願じゃないから。
 思えば、ふたつのてるてる坊主が同じ顔にならなかったのは、自分の絵心が稚拙だからではなく、笑顔は笑顔でも、 ふたりの笑顔だからと思ったせいなのかもしれない。少し、男っぽくて厳つい感じの顔になってしまったほうが自分で、 少し、柔らかい感じの顔になってしまったほうが優鶴で。夕空の下で自分たちふたりが笑っている場面を、願い、 そして叶えたいと思ったから――ふたつのてるてる坊主は、それぞれの“個性”を持たされたのかもしれない。
 そう思うと彼は、ディス・シネマで観た、ダリー少年の操るような魔法を、昨日の晩に自分自身が使っていたのでは ないだろうか、という気持ちになった。
「そうですね……」
「……えっ?」
 調子外れな声で、恒幸は驚いた。
「え……って、どうしてそんなに驚かれるんですか?」
「だってさ……その、優鶴ちゃん」
「はい」
「もしかして、美咲ちゃんからてるてる坊主の話聞いちゃった?」
 昨日天城橋のカフェで決行された美咲との作戦会議は、その内容のすべてが、優鶴には内緒のはずだった。だとすれば、 優鶴自身が、夕焼けを見ることができたことを、美咲のおかげだとするのはなんだかおかしい。
 内心焦りながら、恒幸は優鶴に問いかけていた。
「てるてる坊主……ですか?」
 優鶴はすぐには頷かずに、いささか間延びした顔で言う。
「あ、うん」
「いいえ。なんのことかわからないです」
 優鶴の言葉は、いつだって無垢だと、恒幸は思う。知らないのに知ってると言ったり、好きでもないのになまじいに 好きだと言う人間の言葉とは違って、惚けているとか、飾っているとかいう感じがまったくない。ただ思うことを、 有り体に口に出して言っているということが、彼にはよくわかった。
「そうか……」
「はい。私はただ、この海岸からこんなに綺麗な夕焼けが見れるなんて最初は知らなくって。こんな素敵なものが あることを教えてくれた美咲ちゃんに感謝したいな、って思っただけですよ」
「そうなんだ……」
 敢えて優鶴が恒幸から逸らした視線は、彼女が映し出す美咲の思い遣りのイメージに向けられているようだ。
 美咲が優鶴にこの夕焼けのことを教えたのだと、恒幸は本人から聞いている。しかし、もはや優鶴にそのようなことを 言われてしまっては、自分も美咲から教えてもらったとは言い出せず、恒幸は、曖昧に相槌を打った。
「てるてる坊主って、なんですか?」
 予想外だったらしい名詞に、優鶴は俄かに興味を示す。
「うん。その、美咲ちゃんから助言をらったんだ」
「はい」
「今日夕焼けを見るためには、明日も晴れじゃないといけないから……二日ぶんのてるてる坊主を作っとけ、って」
「……ふふふっ」
 真面目に打ち明けたつもりの恒幸に、優鶴が頬を緩ませる。
「恒幸さんって、面白いひとですね」
「え……?」
 納得すると思いきや急に笑い出してしまう優鶴を見て、恒幸は、一瞬ぽかんとした。
 笑顔のまま、優鶴は続ける。
「今時小さい子でも作るひといませんよ」
 そこまで言われて、恒幸は、初めて馬鹿にされていることを悟った。
「……悪かったな」
「いえ、そういう意味で言ったんじゃないんです」
「……?」
 ストレートだと思っていた優鶴の言葉から真意が読み取れず、恒幸は狼狽する。
 優鶴は、また穏やかな表情を取り戻した。
「なんて言うんでしょうか……夢があるっていうのかな」
「夢、か……」
 優鶴の口から出た抽象的な言葉が、恒幸の心に不意打ちをかける。
「はい。前に仰ってましたよね、恒幸さん」
「ん?」
「お金持ちになって、大きなお屋敷に住んで、たくさん使用人を雇って、高級車の助手席に……美人の女の人を乗せて ドライブされるのが夢だって」
 美人の、と言うときに、恥じらいからか言葉を遅らせる優鶴。
 確かに恒幸は、気の迷いに苛まれていた美咲に対して、そんなことを言った気がした。
「あれ、まだ覚えてたのか……」
「もちろんです」
「でもあれは夢というか……誰がどう聞いてもギャグだって思うだろ」
 付け焼き刃のつもりでアド・リブ的に捻り出したギャグを、まさか掘り起こされてしまうとは思っていなかった恒幸は、 覚えていてくれて嬉しいような、状況が状況だけに恥ずかしいような、複雑な心境になった。
 顔まで複雑になった彼に、優鶴は微笑みかける。
「いえ、冗談だったとしても……あれだけのことをすぐに言えてしまうひとって、私は凄いと思います」
「そ、そうか……?」
 本当でもないようなことをなかなか言い出せない優鶴には、夢をでっちあげるのは少し難しいのかもしれない。ストレ ートな物言いをする彼女と、必要以上に勘繰ってしまいがちな自分とを比べて、恒幸は、そう考えた。
「今の人って、夢はなにかって聞かれても、たぶん言葉に詰まってしまうと思うんです」
 残念そうな優鶴の顔に、恒幸も共感する。
 確かな夢や目標を持たない人間が、自分にはできないからと言って人生の計画を練ることを放棄し、生業を見つける ことにさえ興味を示さなくなってしまうという社会の現状を、恒幸はもう、テレビの特番で何度も観ている。
 そういった現状があることが今は気掛かりではあるが、自分も御多分に漏れず、去年、一昨年とそうだったのを 思い出して、彼は優鶴の言葉を真摯に受け止めるのだった。
「うん……」
「それに……夢があるから頑張れるって、美咲ちゃんのことを励ましてくださったのは恒幸さんですから」
「ああ……そうだったな」
 ひどく気落ちした声で、恒幸は言った。
 確かにあのとき、美咲を元気づけたのは、突拍子もない彼のアド・リブ的ギャグともいえる夢だった。
 けれども、美咲が誇示した夢は……優鶴とのデートを約束した日に、優鶴の夢と一蓮托生になって、消えてしまったのだ。
「どうしたんですか…? 元気なさそうですよ?」
 心配する優鶴。
 できれば、こんな幸せな時間が流れているときに、彼女に言いたくはない。
 だけど、恒幸は、言わずにはいられなかった。
「いや……。美咲ちゃんの夢も、優鶴ちゃんと一緒だったな、って……」
「……そうですね……」
 それまで恒幸に向けていた顔を俯けて、優鶴は細い声を出した。
「……ほんとにもう、軽音部には戻ってこないのか?」
 あの日から優鶴は、みずからの決心にしたがって、父親の看病に専念している。そんな直向きな彼女の姿を見ると、 恒幸も美咲も、彼女に軽々しく軽音部の話をすることは憚られた。
 それでも――たとえ、優鶴が父親に馳せる思いの強さがいかほどであるか、わかっていても。
 美咲の夢でもあり、優鶴の願いでもあり、いつの間にやら、自分の目標にまでなってしまっていた文化祭のライヴを、 恒幸は諦めきれない。
「戻れたら……とっくに戻っていると思います」
「そうだな……」
 今の状況では浮かぶ瀬がないという優鶴の思いを、恒幸は、改めて感じ取る。
「すみません……。恒幸さんも、ライブを楽しみにしていらっしゃったんですよね」
「うん。でも、仕方ないといえば仕方ないことなんだよな……」
「はい……」
 ふたりの声が、会話が、寄せては返す潮の中へと消えていく。
 なおも強烈な光を放ち続ける夕陽を見やって、恒幸は、今からでもまた、この太陽みたいに燃え盛る勢いで自分たちも 輝くことができたらいいのにな、と思った。
 しばらくふたりは、無言のまま砂浜を歩いた。
 言葉が交わされない間も、どうすれば今の状況を打破できるのかとか、夢を諦めてしまった優鶴に対してなにか自分に してやれることはないだろうかとか、そんな答えの浮かんでこない問題を、恒幸は頭の中で弄んだ。
 ややあって、
「――恒幸さん、あれ」
 視界に飛び込んできたものを指差しながら、優鶴が口を開いた。
「ん? ああ、海の家ってやつかな」
「そうみたいですね」
 ふたりが見つけたのは、海水浴に来た客が休憩を取るための浜茶屋。
 三十メートルほど先に見えるその建物は、実にシンプルなつくりだ。ロッグ・キャビンのように頑丈なものではなく、 強風が吹けばたちどころに飛ばされてしまいそうな、プレハブ小屋によく似ている。
 だけど、ふたりは、その頼み少ない外観にマイナスイメージを抱いただけではない。途切れてしまった会話と、 果てしなく続く海岸のみで構成される寂莫とした空間に、浜茶屋一軒が現れるだけでも、沈みきっていたムードを 仕切り直すには十分だった。
「なんか食べてこうか?」
「はい」
 実際、ふたりとも、腹ペこというわけではない。
 しかし、待ち合わせのとき以降食べたものといえば、グランジャルダンにいるとき、お化け屋敷を抜けて、優鶴が 自身のクリーンナップを終えたあとに食べたアイスクリームぐらいだから、なにか胃袋を落ち着かせるようなものを 食べる機会を探っていた。
 唐突に現れた浜茶屋は、そういう意味ではもっけの幸いだ。
「でも……お客さん入ってないみたいだな」
 ある程度近くまで歩み寄った恒幸は、浜茶屋の中にひとりも客がいないのを確認した。
「もう誰も泳いでませんからね……」
 殺風景になってしまった辺りを見回しながら、優鶴が言う。
 恒幸は、現在の時刻を確認した。十八時三十六分。美咲の話だと、夕方の五時までには海水浴客たちが帰ってしまう とのことだったが、そのとおり、ビーチパラソルも人影もまったく見当たらない。
 もしかするとこの浜茶屋も、蛍光灯は点いているけれども、実は営業終了間際か、すでに終了してしまって後片付けをして いる最中なのではないかと、彼は心配になった。しかし、その心配は、ふたりが浜茶屋の入り口に辿り着いたところで、 少し薄らいだ。
 店主らしきひとが奥のテーブルに座っていて、新聞紙を読んでいる。その上からは、タバコのものらしき煙が、ぷかぷかと 舞い上がっていた。
「すいませーん」
 恒幸の呼びかけに反応するように、新聞紙が下ろされる。その向こうから、五十代半ばぐらいであろう、土肥よりも かなり老けた感じの中年男性の顔が覗いた。皺くちゃになった顔面は、いいたとえにはならないけれど、ゴリラやヒヒに 似ている。髪は薄く、白髪をごまかすために、明るい茶色のヘアカラーで染められているようだ。
「へい、らっしゃい!」
 商人かたぎの笑顔と太い声で、店主の小父さんは言った。
「あのまだ、ここってやってますか?」
「ああ、やってるよ」
 小父さんは、新聞紙を粗雑に折り畳んでテーブルの上に置くと、銜えていたタバコをぎゅっと灰皿に押しつけて、 恒幸と優鶴のふたりに目をやった。
「いつも、何時ぐらいまで営業されてるんですか?」
「ああ、特には決めてないんだがな。泳ぎにくる客の気配がなくなったら、適当に店を畳んでるよ」
 恒幸に倣って興味を示した優鶴に、小父さんはそう説明する。
「へぇ……それじゃ、俺たちがいることは薄々感じてたんですか?」
 恒幸は逸り気から、語調を強めて訊いた。
 自分たちは、べつに泳ぎにきたわけではない――砂浜を歩くだけにした恒幸の配慮が、実は美咲のアドバイスによる ものだということに、優鶴は気付いていない様子だったが――けれども、寂しい風景のなかに、アクセントを求めて いたのは事実だ。
 もしも自分たちがそう思っていたのを、小父さんがある種の気配として感じていたのならば、只者ではないひと だと、恒幸は思う。
 しかし、小父さんは笑って、
「はっはっは。いや、今日はそろそろ店じまいにしようと思ってたところさ」
 と言って、事の偶然性を強調した。
「あ、そうですか……」
 思わず拍子抜けしてしまった恒幸に、小父さんは、
「あんたたちゃ運がいいよ。どうだい、なんか食べていくかい?」
 と提案した。
「はい」
 恒幸と優鶴が、同時に返事する。そのつもりでこの浜茶屋――看板からすると、店の名を“美洲屋”というら しい――を訪ねたのだから、遠慮は無用だと思った。
「じゃあ、ささっ、どっか空いてるところ適当に座って」
 小父さんは立ち上がると、新聞紙をテーブルの上に置き去りにしたまま、そそくさとキッチンのほうへと行って しまう。彼のあとについて、ふたりは、キッチンに近いテーブルを選んで椅子に腰掛けた。
「メニューはそんなに多いこたぁないけど、腕によりをかけて作るよ」
「ありがとうこざいます」
 小父さんが指差す先に目をやると、ふたりはメニューを発見した。短冊形の画用紙に、お好み焼き、焼きそば、 冷やし中華、キムチラーメン……などなど、料理の名前と値段とがセットにしてマーカーで書かれたものが、 ピンで何枚も壁に留められている。簡素な装いではあるが、手作りならではの温かみが伝わってくる。
 ふたりがオーダーを決めかねていると、キッチンに頬杖をついた小父さんが、にやりとして言った。
「ニイちゃんたち、アベックかい?」
「えっ!?」
「……!?」
 恒幸と優鶴、ふたりして、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「あ、いや……その」
 恒幸は、恥ずかしくなって、言葉を濁した。
 学校でこんなことを言われても、まだ冗談を言っているのだろうと一笑に付すことができるけれども、今日初めて 会った人間に、私服姿の自分たちのことをそう言われては、返す言葉がない。
「なんだ、違うのかい」
 期待外れだと言いたげな顔をして、小父さんが溜め息をつく。
「俺にはそう見えるがな」
「いや……違わないです」
 きっぱりと言うでもなく、恒幸は、小父さんの見解にかぶりを振って、彼の言い分を中途半端に認めた。
 そうだ、自分は今日、優鶴をデートの名目で連れまわしているのだ。アベックという言葉を――なにかレトロな 言い回しのような気もするが、それは小父さんの感性によるものだから仕方ないとして――否定する理由はどこ にもない。
 その証拠して、優鶴は今日一日恒幸を先輩と呼ぶことを避け、名前で呼んでくれている。
 それでもやはり、自分たちが好一対だと見られていることを意識すると、恒幸としては、どうしても晴れがましい。
「ははっ、青春真っ只中って感じだな」
 恒幸の含羞む気持ちに之繞をかけるように、小父さんは大声で言った。
 小父さんにも優鶴にも見向きできないまま、恒幸は縮こまった。
「なに、恥ずかしがってんのか? 恥ずかしがるこたぁないだろう。そういうことは、若いうちにしかできない んだからな」
「そ、そうですね……」
 相変わらず、親父さんはいけしゃあしゃあとした調子で言う。
 恥ずかしさの基準を年齢とする彼に対して、恒幸は、その基準を心臓の鼓動と体温だとしたい気分だ。
「それより、そっちのお嬢ちゃん、大丈夫か?」
 言われて、恒幸は優鶴のほうに目をやる。すると、両の手の平で顔を覆い隠したまま、小父さんの言葉にも反応を 示さない彼女の姿があった。
「優鶴ちゃんっ」
「あっ、はい……」
 手を少しだけ下にずらして両目を覗かせながら、優鶴は、上擦った声で静かに言った。
「大丈夫か?」
「ええ……ちょっとのぼせてたみたいです」
 どうやら優鶴には、小父さんの言葉は刺激が強すぎたらしい。
 自分でさえ落ち着きを失って、はっきりと喋ることができなくなってしまっていたのだ。ましてや優鶴に平気で いられるはずがないだろう。恒幸は、小父さんにそう抗議したい気持ちでいっぱいだった。
「いいなあ若いもんは。ああ、注文決まったら呼んでちょうだいな」
 しかし、小父さんはそうとだけ言うと、なにやら材料のストックを確認するために、キッチンの内側や、冷蔵庫の中を 物色し始めた。
「……あ、はい」
 仕方なく、恒幸は再び、壁に掛けられたメニューを見やる。なにか食べたくてここを訪れたはずなのに、食事に ありつく前からこんな気持ちを携えることになってしまい、そのせいで彼は、空腹感が有耶無耶になった気がした。
 しばしオーダーの選択に迷った彼は、今度こそはと優鶴に声をかけてみた。
「なんにする、優鶴ちゃん?」
 けれども優鶴は、杓子定規に、
「あ、私は……恒幸さんと同じので構いませんよ」
 と言って、恒幸に決定権を譲った。
「そうか? じゃあ……」
 今一度、メニューを舐め回すように見ると、恒幸は、小父さんに声をかけた。
「すいません」
「あいよ」
「お薦めって、なんですか?」
 そう訊いた恒幸に、小父さんは少し困ったような顔をして言う。
「なんだい、ニイちゃんたちが食べたいものを言ってくれたら、ここにないものでも、ある程度は作ってやるぞ?」
「あ、いや。どれも美味しそうだから、つい迷ってしまって……」
 小父さんを待たせるのも気が引けると感じた恒幸は、舌先三寸でそう説明した。
 本当は、小父さんの無思慮な言葉のせいで、今なお気分がそわそわしているせいなのだけれども……。
「ははっ。そうかいそうかい。そういうことなら、俺の十八番は焼きそばになるけど、それでいいかい?」
 メニューの選択権が自分に回されたとわかると、小父さんはゲンキンにも、得意げな調子で言った。
「はい」
 ひとまずメニューが決まったことに、恒幸は心を落ち着かせた。
「お嬢ちゃんも一緒でいいんだな?」
「はい、構いません」
「よっしゃ、お嬢ちゃん可愛いから三百円にまけといてやろう!」
「えっ……?」
 突飛な思いつきから、五百五十円の焼きそばを、優鶴のために値引きすると言い出す小父さん。
「あっあの、どうもありがとうございます……」
 しどろもどろになりながらも、優鶴は、どうにか彼にお礼を言うことができた。
「ニイちゃんのほうも、今日最後のお客だから同じだけまけとくよ!」
 恒幸のほうに向き直って、小父さんはまたしても、突飛なことを言う。
「あ、どうも……」
 なにか、優鶴と自分の、値引きの理由の違いに、不条理な感覚を覚えた気がしたけれど、結果として勘定で得を するということを考えて、恒幸は覚束ない声づかいでお礼を言ったのだった。
 ――ガチッ。
 小父さんが、鉄板を載せたガスコンロに火を点ける。
 恒幸は、この音を、久し振りに聞いた気がした。彼の家のキッチンにあるガスコンロは、三年ほど前にボタンスイッチ 式のものと取り替えられ、それ以来、コンロを点火するときの音は電子音なのだ。
 油のボトルのキャップを外し、鉄板に適量を流し入れる。ボトルのキャップを閉めると、小父さんは、慌ただしそうに 冷蔵庫の扉を開けて、袋入りの生麺らしきものと、ラップのかけられた直方体型のボウル、それからチャック付きの袋 を取り出した。
 直方体型のボウルに小分けされていたらしい、カットされたピーマンやキャベツ、たまねぎ、にんじん などの野菜を、鉄板に落としていく。ジャーっという弾けるような水分の蒸発する音が立つ。家ではやかましいこの音も、 開放的な浜茶屋では、あまり気にならない。金箆で器用に野菜をひっくり返す小父さん。そうこうするうちに、一時は下火に なった食欲が、恒幸と優鶴の中で再熱し始める。
 小父さんは、とても真剣そうな顔だ。これほど引き締まった顔になったことが、自分にはあっただろうかと、恒幸は ふと思う。
 たとえベースを弾いていたときにそんな顔をしていたとしても、自分では見ることができないのだ。美咲と優鶴が、 今の小父さんのような顔をした自分を、部活動のときに見ていてくれていたらな――彼は、ぼんやりと考えた。
 焼きそばを焼くおじさんの姿に釘づけだった恒幸の耳朶に、
「あっ……」
 優鶴の細い驚きの声が触れた。
「ん? どうした、優鶴ちゃん?」
「あれ……ギターですね」
「えっ?」
 優鶴の目線が描いた軌跡を辿ってみると、恒幸は確かに、壁にギターが掛けられてあるのを発見した。
「あ、ほんとだ」
 そのギターは、優鶴が部活に持ってきていたものや、土肥が部室奥の倉庫から引っ張り出してきたもののような、 いわゆるエレキギターとは違う……アンプを必要としないタイプのものだ。
 フォークギターというのか、クラシックギターというのか……アコースティックなものに間違いはないだろう、と恒幸は 睨んだ。
「あれ、ワイバニーズのガットギターですね」
 躊躇いもなく、優鶴はそのギターのメーカーの名前とタイプを口にする。
 ガットギター。確か、犬だったか、猫だったか、なにか身近に居る動物の腸から作り出した弦を張った、硬い音を出す ギターがあったなと、恒幸は思い出した。
「知ってるのかい、お嬢ちゃん」
 調理の手を休めずに、小父さんが訊ねる。
「はい。楽器屋さんでギターのカタログを見せてもらったときに、あれと同じようなものを見たことがあるんです」
「ふうん」
 小父さんは生返事をするだけだったが、優鶴の話に関心を寄せているということが、表情でわかる。恒幸も、 ギターを見た瞬間に思いついた疑問で、ふたりの話にちょっと嘴を入れてみることにした。
「あの……なんでこんなところに飾ってあるんですか?」
 絵画とか、ペナントとか、インテリアを兼ねた飾り物といえば多々あるけれど、ギターを飾っている店といえば、 音楽をテーマにしたカフェぐらいだろう。なんの変哲もない(と言ってしまえば、焼きそば作りに打ち込んでいる 小父さんには失礼だが……)美洲屋にギターが飾られているのだ。小父さんになにか関係しているのだろうなという ことは、おおかた推測がついた。
「ああまぁ……ひとつは、客引きのためだな」
 小父さんは、少しだけ声のトーンを下げて言った。
 なるほどな、と頷いた恒幸の向かい側で、優鶴は、
「お薬屋さんの、蛙さんみたいなものですか?」
 と、彼には不可解なことを、小父さんに向けて言う。
「………蛙?」
 恒幸が優鶴の言葉に首を傾げていると、
「お嬢ちゃん、よくそんなものを知ってるね」
 小父さんは、優鶴を褒めそやすように言った。
「えっ……あ、はい」
 恒幸と小父さんの反応のギャップに気付いて、優鶴は、どぎまぎしながら答える。
「まあそんなところさ。今年はあのギターのおかげで、多かれ少なかれ客足が伸びたような気がするよ」
「へえ、そうだったんですか」
 ちょっと間、優鶴と小父さんの間に独自の世界が形成されていたような気もしたが、恒幸は、そのことについて、 敢えて頓着しないようした。
「テレビじゃ美洲の海水浴場はよく映ってるみたいだけど、なんでか、うちを特集してくれないのが寂しいねぇ」
 そう話す小父さんを見て、恒幸は、彼のことを、利己的な人間だと思った。
 彼がそう思ったのも、真昼の海水浴場が映っているのをテレビで観たときに、この美洲屋以外にも店があ った――浜茶屋がひとつだけではないということを確認していたから。
 しかし、その中でも、ギターを飾っている浜茶屋となれば、小父さんの言うことも納得できる気がする。しばし考えて、 恒幸は、美洲屋をヨイショする方向に話を持っていこうと決めた。
「確かに。ギターの浜茶屋、なんて放送されたら、お客さんたくさん入ってきそうなのに」
「まぁ……当のギターは飾ってあるだけっつうのが、玉に瑕だけどな」
 苦笑しながら、小父さんは、生麺を鉄板の上に落としていく。
「それもそうですね……」
 小父さんの表情を真似るように、恒幸も、苦笑いを浮かべて言った。
 でも、どうして飾ってあるだけなんだろうか。親父さんに、もしギターを弾くことができるのなら、オーダーの合間 かどこかで、店を切り盛りしている彼自身が演奏をするというサービスはないのだろうか。
 疑問に思った恒幸に代わって、同じことを考えていたらしい優鶴が、口を開く。
「あの、おじさんは、ギターを弾かれないんですか?」
「俺か?」
 小父さんと目が合い、優鶴は、無言でこくりと頷く。
「あ、それ……俺も気になってました」
 優鶴にも気掛かりだったとわかると、恒幸は、遠慮せずに言った。
「うんまぁ、今は弾いてないな」
「今は……ということは、お若いときは嗜まれてたんですよね?」
 語気を強めて聞き質す優鶴だったが、
「うん……まぁなあ」
 小父さんは、逆に、一層声を弱めたうえに、言葉を濁してしまった。
「……?」
「どうかしたんですか?」
 顔を俯けてしまった小父さんの反応を不思議に思い、恒幸が声をかけると、
「ああいや。ちょっと昔のことを思い出してしまっただけさ、気にするな。それより――」
 小父さんはぱっと笑って、みずから話の核心を不問に付そうとした。
 そして、ガンコンロのスイッチを切ると、すっかりソースの色に染まった焼きそばを、用意していた皿に盛った。ほわほわ と湯気の立つ焼きそばの盛られた二枚の皿を、早速彼は、ふたりの座るテーブルへと運んできた。
「焼きそばできあがったよっ」
 にっこり笑いながら、二枚の皿を、同時にテーブルに置く小父さん。
 彼が料理をしていたときは断続的に届くだけだったソースの香りを、ふたりは、余す所なく嗅ぎ取る。
「わあ……いいにおい」
「美味そっすね」
「でもこれ、私の胃だと入りきらないかもしれません……」
 明らかに小父さんの量的感覚で盛られた焼きそばを見て、優鶴がそうコメントする。その量は、恒幸の目から 見ても、ちょっと多いのではと感じるほどだ。これを大食漢の美咲なら、二皿とも平らげてしまうかもしれないと 思うと、彼は、背筋に軽い戦慄が走るのを覚えた。
「残ったら、俺がもらうよ」
 恒幸が、優鶴を気遣って、そう提案する。家で両親にしばしばされる気遣いだったので、恒幸自身には、まっとうな 提案のはずだったのだが……どうやら、傍で北叟笑んでいる人物にとっては、そうでもなかったらしい。
「お、それはよく言う間接キスっていうやつだね」
「なりませんって!」
 鉄のような面構えの小父さんに、恒幸は、間髪入れず、つっこみを入れる。彼が声を上げている傍らで、優鶴は、 アベック呼ばわりされてしまったときのことを思い出して、また、顔面いっぱいに紅葉を散らした。
「ニイちゃんも無理して全部食べなくてもいいからな。残ったら俺がふたりのぶんをまとめて食べてやるよ」
 間接キスなどと口走った、次の瞬間にはこれだ。
 この無鉄砲な態度、どこかの誰かに似ているな……。
 水族館のイルカに続いて小父さんが彷彿とさせる美咲のイメージを、今は食事の邪魔になるだけだとして、恒幸は、 次第にフェードアウトさせた。
 小父さんの余計な発言に度々ブレーキをかけられながらも、恒幸と優鶴のふたりは、備え付けの割り箸をそれぞれ 一膳ずつ抜き取ると、それをパキッとふたつに割った。
「いただきまーす!」
 ふたり同時に言うと、最初の一口を頬張った。持ち上げた麺の下から、赤や緑の野菜と、リング状の小さなイカや エビ、アサリなどの具が覗く。チャック付きの袋の中身は冷凍シーフードだったのかと、恒幸は理解した。
 嚥下したタイミングを見計らって、小父さんが声をかける。
「どうだい、お味のほうは?」
「美味いっす」
 いちばんシンプルで、いちばん言われて嬉しかろうコメントを、恒幸は返した。
「お料理、普段もよくされるんですか?」
 興味津々の表情で、優鶴が小父さんに問いかける。
 性別は違っても、料理が得意な者どうし惹かれるものがあるのだな、と恒幸は思う。
「ああ。兄貴がどこぞの料亭に暖簾を構えててね。あいつがまだ若い頃、料理修行をしてたときに、お前も手料理の ひとつやふたつはできないとモテないぞ、って釘をさされちまってな」
 小父さんは、笑いながらそう話した。
 確かに、書店に行ってみると、女性のみがターゲットだと恒幸が思い込んでいたレシピブックコーナーに、『旦那 さんのための料理帳』なる本が置いてあったり、コミックコーナーにも、『パパはコックさん』というタイトルの コミックが置かれていて、双方とも、ある程度売れ筋商品として認められているようだ。どうも、男性の料理は、 昨今ひとつのブームにもなっているらしい。料理がいわゆる、男性のアビリティとして評価されるのは、今も昔も 変わらないことなんだな、と恒幸は思う。
「へぇ……小父さんが若かった時代から、そうだったんですね」
 言われて、小父さんは、鼻のあたりを指で摩りながら返した。
「まぁあれだ、料理上手イコール心優しいひとだから、やっといて損はないと思うぞ」
 言われてみれば、恒幸には、“料理の心得”の“料”の字もない。彼に作ることができるものといえば、カップラーメン とレトルトカレーぐらいだ。卵焼きの作り方も、ご飯の炊き方も完璧にはわからない。
 両親も、「嫁にするならまず料理が上手くないと」と常々言っているけれども、彼に料理上手になる義務を負わせ ようとはしない。たとえ親に言われたとしても、興味がないうちは、料理はしない――それが、恒幸自身の言い草だ。
 何口か焼きそばを食道へと送ってから、恒幸は再び口を開いた。
「それで、小父さん」
「うん?」
「さっきのギターの話で、昔の話がどうしたとか言ってましたよね…?」
「ああ……あれな」
 小父さんはまた、渋い顔をした。
「なにかその、触れたくない思い出とかあるんですか?」
 恒幸は、小父さんが話を誤魔化してしまったときの、言いようのないもやもや感を、煩わしく思っていた。どうせなら、 片足を突っ込んでしまったことには、もう片方の足も突っ込みたい。そう思って、彼は、話を蒸し返したのだった。
「ああ。まぁ、別に思い出したくないってほどのもんでもないんだけどな」
 キッチンに凭れかかって、小父さんは、懐から取り出したタバコに、キッチンの上に置かれていたライターを取って 火を点ける。ライターを置いて、一度煙を吹かしたあと、食事中のふたりを慮って換気扇のスイッチを入れた。静かな 美洲屋に、ゴオォォ、という重い音が響く。ふたりにとっては害にしかならない白い煙が、換気扇のほうへと流れ、徐々 に薄くなっていった。
 もう一度煙を吹かして、小父さんは呼吸を整える。彼は、タバコを指に挟んだほうの手を懐に下ろして、テーブルの ふたりを見た。どうやら、話す気になったらしい。
 強引に喋らせてしまうという申し訳なさと、他人の知られざる回想録に傾聴できるという期待から、恒幸は、 胸を高鳴らせた。
「このギターはな、俺がニイちゃんたちよりもちょっと年上の……大学ぐらいのときに付き合ってた子の前で弾いた やつでな。その子も歌を歌うのが苦手だったり、あんまし流行もんの歌は聴かないほうだったんだけど、なんだかんだ 言って、俺が弾くギターを好きになってくれたのよ」
 付き合ってた、という言葉が、ふたりの心を捕らえた。
 小父さんは、どこともつかぬ視線をキープしたまま、話を続ける。
「で、俺がこのままだったらその子に告白できる、って思ってた矢先に……俺以外の野郎と、フタマタかけてたことが わかっちまってな」
「……」
 小父さんの話の急な展開に、恒幸も優鶴も、心苦しい気持ちになった。
「最初はその子のほうから、『妊娠しちゃったから』なんて俺に言ってきたんだけど、もうひとりの野郎がさ、俺が その子の気持ちを迷わせたせいで避妊が上手いこといかなくなって、それでこうなったんじゃないか、って一方的にいちゃもん つけてきてな……結局、俺は一言も返せずじまいで、そいつにボコボコにのめされたわけだ」
「ひどい……」
 居た堪れなさから、優鶴が細い哀れみの声を上げた。
「あれからしばらく、俺は女どころか、人という人を信じられなくなってな。人当たりがいいように見えて、その裏で 事を荒立ててしまうような秘密を隠してるやつが、別れたその子のほかにも、ゴマンと居るんじゃないかって。 ほとんど、人間不信の状態だったさ。それで、あのギターも、何度も捨ててやろうって思った」
 壁にかけられたギターを、小父さんは、遠い目で見つめる。
「だけどさ……捨て切れなかったんだよ。俺の、初恋の相手に弾いてやったギターだからな」
 いつしか、小父さんの話し振りには、本気で語っていることが否でも応でもわかるほどに抑揚がつけられていた。
 ――初恋の相手。
 確か美咲は、優鶴が、恒幸に想いを寄せていると言った。
 じゃあ、自分はどうなんだろう。自分は、美咲や優鶴を、初恋の相手として見てやることができるだろうか。それ ほどの想いを、彼女たちに対して抱いているだろうか……。
 事実、優鶴が軽音部を退いて以来、一日を通して彼女たちに会うことがない日もあった。そんなとき、恒幸は、異様な もどかしさを覚えた。寂しいというにはどこか的を外している気もする、謎めいた感覚。今更ながら彼は、自分にとって、 美咲や優鶴はなんなのだろうかと考え始めた。
「俺はそれまで、恋愛ってもんには、まったくの盲だった。きっかけひとつを作るにしても、どういうタイミングを 選んで声をかけたらいいのかわからなかったし、そもそもなんていえば女の子は振り向いてくれるのか、さっぱりだった。 でも、俺にはあのギターがあった。だから、言葉の代わりに、好きな子の前で、ちょっと勇気を出してあいつを弾いてみ たら、振り向いてくれた。だから、あのギターには今は触れることはなくても、近くに置いとけば、なんとなく勇気が出るか な、って……そう思ってな」
「そうだったんですか……」
 結局、小父さんにとってこのギターを弾くことは、過去の苦い初恋の記憶を辿ることを意味していたらしい。だけど 彼は、そんな苦い経験の中から、逡巡を経て、前に進むための教訓を、みずから学び取った。“結果よりも、自分の取った 行動に意義がある”。なにはともあれ、自分が勇気を出したことに、変わりはないのだということを――。
「まぁでも、今の女房は、あのギターとは全然縁がないひとでな。元彼女だった女の子との思い出の一品だから、 そんなもん目障りになるだけだ、とか言われてて……それで今、ここに飾ってあるわけさ」
 最後には穏やかな、でもどこか気恥ずかしそうな顔をして、小父さんは言った。
「あぁすまんすまん。今青春を満喫してるニイちゃんたちにはちょっと暗かったかな」
 ギターからふたりのほうへと視線を移して、彼はそんなことを言う。
「あっいえ……そんなケースもあるんだなって、参考になりました」
「そうか、そりゃ良かった」
 咄嗟に言い繕った恒幸に、小父さんは、満ち足りた顔を見せた。
「あの、小父さん」
 ふと、優鶴が声をかける。
「なんだい、お嬢ちゃん」
「あとでまた返しに来ますから……少しの間、あのギターを私に貸してもらえませんか?」
「えっ……?」
「お嬢ちゃんにか?」
 予想外の優鶴の申し出に、小父さんだけでなく、恒幸も虚を衝かれる。
「はい。あの……だめですか?」
 口篭もりながら、優鶴は言った。
「そりゃあだめだとは言わないとも。でも、なんに使うんだい?」
 怪訝な目つきで、小父さんは優鶴を見る。恒幸も彼女を見て、思った。あとで返しに来るということは、ギターを 壊すかなにかして、小父さんの苦い思い出を消し去ってしまうつもりではないよな、と。
 優鶴は少しだけ顔を俯けて、目的を打ち明ける前に、柔らかな笑顔を作った。そして、天使になったような顔を 恒幸のほうに向けて、彼女は言った。
「私が、このひとのために、一曲演奏してあげたいんです」
「優鶴ちゃん……」
 恒幸の目に、急に、優鶴の姿が若かりし頃の小父さんと重なって見えた。
 それは本当に、何気ない一言だったと思う。でも、小父さんの話を聞いたあとで、敢えてギターを弾きたいと言い出した 優鶴の心の奥には、その言葉の引き金ともなった勇気が隠れていたんじゃないだろうか。
 演奏を聴いてからでもいい――恒幸は、かねてから心に決めていた話を、優鶴にしようと思った。
「へぇ、お嬢ちゃんもギターが弾けるのかい」
 感心だと顔で示しながら、小父さんは言う。
「ええ。まだまだ練習中なんで、上手くはないんですけどね」
「見上げたもんだよ。女の子がそういう楽器を弾くだけでも」
「ありがとうございます」
 優鶴は、照れ臭そうに、声を細めて言った。
 こんな科白を聞かされたら、美咲なら間違いなく凹むだろうなと、恒幸は苦笑いした。
「バンドかなんか組んでるのかい?」
 すっかり優鶴の特技に興味を持った様子の小父さん。
「はい。といっても、まだ高校生だから、部活仲間と、ですけどね」
「そうか。高校生っつうと、夏休みが明けたら学園祭とかあるんだろう?」
「はい。私たち、その学園祭でライブをするために、一生懸命練習してきたんです……」
「……」
 優鶴の声が弱まっていくのを受けて、恒幸も、遣る瀬ない気持ちになる。
「でも……私が部活を辞めちゃったから、その話はなくなると思います」
「辞めたって、なんでまた?」
 小父さんの口調が、俄かに強くなる。
 無理もないだろうと、恒幸は思った。継続することには、相応の目的がある。となれば、それを辞めることにも、 当然のように相応の理由がある。それを、誰が気に留めず放っておけるだろうか。
 軽音部を離れることになった辛い理由を、二度も打ち明けねばならなくなった優鶴を、彼は不安な目で見守った。
「父が病気で急に倒れてしまって……それで、看病をするために、できるだけ側にいてあげたいって思って……」
 横車を押して言葉を搾り出す優鶴は、今でも心のどこかで、部活に戻りたいという希望と、父親の側に居てやりたい という願いの板ばさみになっているように、恒幸には見えた。
「……なぁ、ニイちゃん」
 少し無言の間があったあとで、小父さんは、恒幸のほうを向いて言った。
「はい」
「あんたも、部活の仲間だったんだろ?」
「そうですけど……」
「だったらよ、この子と一緒に、もちろんほかのメンバーも含めて、学園祭でライブをすることを最終目標にして、 頑張ってたんじゃないのか?」
 もちろん、小父さんの言うとおりだ。
 でも、その最終目標の比重は、優鶴が父親に馳せる思いに比べれば、あからさまに軽い。文化祭ライヴという夢を載せた ほうの浮き上がった量りに、どんなおもりを載せたとしても、父親に対する優鶴の思いを載せたほうのはかりは微動だに しないような気がした。
「はい。でも、俺は優鶴ちゃんの気持ちを尊重して……」
 小父さんはすぐには意見を返さず、今度は、優鶴のほうを向いて言った。
「お嬢ちゃんも……もし親父さんが倒れてなかったら、ギターを続けてただろ?」
「はい……」
 力なげに、優鶴も返事をする。
 体勢を改めて、険しい顔をおもむろに崩して――小父さんは言った。
「きっと親父さんは見てるさ、お嬢ちゃんたちの頑張る姿をな」
「見てる……私たちのことを?」
 自分たちよりも先に明るい顔になってしまった小父さんを不思議に思いながら、優鶴は訊く。
「ああ、そうさ。お嬢ちゃんたちが頑張ってるとわかりゃ、親父さんも安心して自分の病気を治すのに集中できるだろう」
 言われて、優鶴は、複雑な表情を携えたまま、下を向いた。
 小父さんは、言葉を続けた。
「うわべでは、お嬢ちゃんの看病を喜んでるかもしれない……。でも、もし親父さんがお嬢ちゃんの部活のことを 知ってるんなら、学園祭のこともあるわ、自分の病状のこともあるわで……毎日お嬢ちゃんに助けてもらってるほうが、 かえってお嬢ちゃんがいないときに負担になってるかもしれないぞ?」
「そうですね……」
 未だ決定的な答えを自分自身で出すことができず――優鶴は、曖昧に頷いた。

 

「ふぅ……食った食った」
「美味しかったですね、焼きそば」
「うん」
 美洲屋で食事を済ませたふたりは、小父さんが後片付けをする横でしばらくの間休憩してから、再び砂浜をゆっくりと 歩き始めた。
 結局、優鶴は、予想どおりに焼きそばを半分ほど食べたところでギブアップしてしまい、残ったぶんを食べる と言った恒幸も、自分のぶんを平らげてしまうと、それに挑戦することすらままならない状態だった。
 優鶴の残した焼きそばを家に持ち帰って、女房と二匹のビーグルに分け与えてやると小父さんが言っていたのを 思い出して、恒幸はコメントする。
「小父さんは、なんというか変わったひとだったけどな」
 真面目に語ったと思えば、次の瞬間には突拍子もない発言をして、恒幸と優鶴のふたりを翻弄した小父さん。どこか 美咲を思わせる彼の話しぶりを、美咲のことを心の中では変わった女の子だと思う恒幸は、彼女と小父さんとを、同じ 等高線に載せて受け止めていた。
「でも、いい方でしたよ」
 相好を崩して、優鶴は、飾り気のない言葉で小父さんのことを賞賛する。
「だよな」
「見ず知らずの私たちのことをあんなに気にかけてくれるなんて、優しい方だと思います」
「ああ……」
 ふたりともが、美洲屋の小父さんとは初対面の間柄だったのだ。それにもかかわらず、まるで見知り越しであるかの ように、小父さんは親身になってふたりの話を聞いてくれたり、自分の過去を明かしてくれたりもした。
 今時これほど積極的に対話をして、相互理解を図ろうとするひとも珍しいなと思って、恒幸は、小父さんの人柄を 評価した。
「それに、ギターも貸してもらえましたし……」
 右手でネックを握り、左手でボディーのボトムを支える形で、胸の前にギターを抱えている優鶴。美洲屋の壁に 掛けられていたときと比べて、小柄な彼女が抱えると、ボディーが大きく見える。
 重いから持とうかと恒幸が言うと、優鶴は、自分で持ちますと遠慮した。恒幸は彼女のその一言で、ギターを自分に 預けてくれるよう催促するのをやめた。なにしろ優鶴は、小父さんのガットギターを、自分のもののように大切に抱えて いるのだから。
「あのさ……優鶴ちゃん」
 隣を歩く優鶴に顔を向けて、恒幸が彼女の名前を呼ぶ。
「はい」
 優鶴も、それに呼応するように、彼のほうを向いて、目を合わせる。
「どうしてその、いきなり俺に曲を贈ろうなんて思ったの?」
 気恥ずかしさから、恒幸は髪をぽりぽりと掻きながら言った。
 まさか優鶴が、曲をプレゼントするためにギターを借りたいと言い出すとは、彼は予想だにしなかった。優鶴の口から その一言が漏れるまでは、彼は、優鶴と小父さんはせいぜい壁にかけられているガットギターについて、薀蓄の垂れ合い を展開する程度だろうと高を括っていたのだった。
「それは……」
 優鶴は言葉を途切れさせて、赤ら顔を少し俯ける。
「今日一日、たくさんお世話していただいたお礼です」
 恒幸は、これまでのデートコースを回想して、優鶴の言葉が、実際と不釣り合いだと思った。
「俺、言うほどたいしたことしてないぞ」
「いいえ、恒幸さんがそう思っていらしても……私は、とっても満足ですから」
 再び恒幸に顔を向けて、優鶴が言う。彼女の顔を塗り潰す喜びの色は、恒幸と一緒にいろんな場所を訪れながら行動できて、 心から嬉しく思っているということを、真っ直ぐに彼に伝えた。
「そうか……そりゃ光栄だ」
 笑みの眉を開いて、恒幸は言った。
 徐々に青紫色を帯びていく日の入り後の空の下に、朧げながら、ふたつ並んだ笑顔。ホップで今日と明日の天気を 晴れにして、ステップで綺麗な夕焼けを水平線の上に作り、そして、ジャンプでふたりの顔を綻ばせる。てるてる坊主の 魔法は大成功を収めたなと、恒幸は確信した。
 歩きながら、ふたりは、落ち着いてギターを弾くことのできる場所を探す。防波堤を見ていると、ところどころに、 石の階段が設えてあるのに気付いた。
「あの階段のところにでも座ろっか」
「はい」
 防波堤に平行な直線をトレースしていたふたりは、波打ち際から離れるように進路を変える。ざーっという単調な潮の音も、 このときばかりは、ふたりの背中に向かって“Have a good time!”と声をかけているみたいだった。
 石の階段を四段ばかり上って海のほうに向き直ると、ふたりはやおら腰を下ろす。片手で支えていたギターを優鶴は うんしょと持ち上げて、膝の上に寝かせた。
 見上げた空に、一番星がきらりと光る。よく見ると、ほかにも星はいくつかあったけれど、最初に見つけた星を 一番星ということにしておこうと、恒幸は淡い考えを巡らせた。
 ややあって、潮の音の独壇場だった空間に、ふたりのメンバーの声が戻ってきた。
「恒幸さん」
「ん?」
「来年はもう、ご卒業なんですよね」
「ああ」
 高校に入学したときにはまだまだ先のことだと思っていた卒業は、もう半年先まで迫っている。低迷する成績のせいで 卒業の見込みに翳りが差しているということはさておき……中学を出るときに校長先生が壇上で語った、高校は中学よりも もっと時間の流れが速い場所だという言葉は間違いではなかったのだなと、恒幸は、今更ながら感じていた。
「あっという間の三年だったよ」
「みたいですね」
 恒幸の顔を控え目に覗き込みながら、優鶴が言う。
「もうちょっと長く居させてくれてもいいじゃないか、っていうお顔をされてますよ」
「そ、そうか……?」
 優鶴の言葉を受けて、恒幸は、手元にハンドミラーがあれば開いて確認してみたい衝動に駆られた。
「ふふっ、なんとなく、そう見えただけです」
 笑って、優鶴はそう言った。
 でも、せっかく出会えたふたりの後輩とは、できる限り長く一緒に居たい。もし彼女が言うように、もうちょっとだけ 長く居ることができるのなら、進んで学校に留まっていたいと思う。無論、留年以外の理由で、だけど。
「でも……三年になってからはとくに時間の流れが速かったような気がするな。優鶴ちゃんと、美咲ちゃんに会った のが、ついこの前のことみたいに思える」
 視線を中空に泳がせながら、恒幸は言った。
「私も……入学したと思ったらもう夏休みで、正直びっくりしてます」
 どことない空間を彼と同じように見つめて、優鶴が言う。
「ははっ。新入生にしちゃ、珍しいほうだと思うぜ」
「えへ、恒幸さんのおかげですよ」
 こそばゆい気持ちを表情に預けて、優鶴はそう答えた。
 過ぎ行く時間の早さを三年生になってから実感し始めた恒幸と、入学して間もない頃から覚え出した優鶴。各々が 独りでは遅く感じたであろう時間の流れを、ふたりは、知り合って言葉を交わすことで、速く感じるようになった。
 今こうやってお互いに驚いているのも、邂逅があってこそなのだろうなと、恒幸は思った。
「長かっただろうな……」
 主語の抜け落ちた恒幸の呟きに、
「はい?」
 と優鶴が軽く首を傾げる。
 言葉の調子を変えないまま、恒幸は続けた。
「優鶴ちゃんにとって、中学の三年間がさ……」
「ええ……とっても長かったです」
 辛い記憶に触れながらも、優鶴は、平静を保ったままでいる。その様子は、過去を否定するのではなく、どこか達観 しているように恒幸の目には映った。
「それこそ、出口のない迷路に迷い込んでしまったみたいに……」
「でもその出口を、優鶴ちゃん、自分の力で作ったんだよな」
「いえ……私だけの力では、出口なんて作れなかったと思います」
「……うん」
 優鶴も、美咲と同じだ。彼女も、ひとりで起こした行動が功を奏するものだとは考えていない。パートナーである 美咲と手を繋ぎ合ってこそ、初めて、困難に立ち向かうためのパワーを手にすることができるのだ。
「私はその、お手伝いをしただけです。美咲ちゃんが、前に進むための――」
 ――ぽむっ。
 美咲のことを考えてやる気持ちを称えて、恒幸は、優鶴の頭に手を載せた。
「あっ……」
 そして、その手を優しく前後に動かす。優鶴の髪の毛のさらさらとした感触が恒幸の手の平に、彼の手の温かさが 優鶴の頭に伝えられる。
「まったく、優鶴ちゃんはどこまで偉い子なんだか」
「そんなことないです……」
 時期的にはまだ一歩及ばない、紅葉満開のような顔を僅かに俯けて、優鶴は細い声で言った。
「いや、そんなことなくない」
「なんかそれ、美咲ちゃんみたいな言い方ですね」
「ははっ、そうだな」
 前に優鶴の頭を撫でてやったときに美咲にかけられた言葉を思い出して、恒幸は苦笑しながら、彼女の頭に載せて いた手をすっと引いて下ろした。
 膝の上のギターを起こして、優鶴は、左手の指の腹をガットの上で二、三度往復させる。初めて弾くタイプのギター だから、感触を確かめているのだろう――恒幸はそう思った。
 弦を弾いてチューニングがほぼ合っていることを確認すると、
「それじゃあ、ギター、弾かせてもらいますね」
 優鶴は声をかけた。
「うん」
 頷いて、恒幸は優鶴の演奏を聴く態勢を拵えた。
 優鶴がギターのボディを指で叩くこと一、二、三、四回。主役の座を降りた恒幸と優鶴の話し声に代わって、ガット のタイトな音色が海辺のステージに踊り出た。
 六本のガットは、潮風に吹かれ錆びついたせいで、微かに、音程を外している。でも、錆びたガットが奏でる“不完全 な”スケールを、恒幸は、“個性的だ”とは思っても、“変だ”とは思わない。弦は錆の程度によって独特な個性を与え られ、それが、弾く者の感性と相俟って――ひとつの“独奏”となるのだ。まさに今自分が耳にしている音色は、 上手い具合に錆びたガットと、演奏にかける優鶴の思いとが織り成す、芸術的作品だと、彼は感じる。
 途中忙しそうに転調したり移調したりするコードの動きは、この曲に託された、さまざまな思いの移り変わりを 表しているようだ。この曲の主人公はひとりで、過去に経験した出来事をひとつまたひとつ、思い起こしているのだ ろうか……。それとも、複数の主人公がいて、ひとつの場面にたくさんの気持ちが集められているのだろうか……。
 潮の音をバックに、サビで高く鳴り響くガット。同時に恒幸は、心を癒すヒーリング・ミュージックを聴いているような 心地にもなった。
 部活では見たことのない、アコースティックギターを演奏する優鶴。それだけでも新鮮な気がするのに、彼女が この曲をプレゼントしてくれているということを意識してしまって、心底舞い上がりそうな気持ちだ。
 そして、なによりも――彼女が退部を決意して以来、久し振りに聴くギターの音に、恒幸は、言い知れぬ充足感を 覚えたのだった。
 テンポが段々と落ちてゆき、六弦すべてを使ったアルペジオで、四分弱にわたる優鶴の演奏は幕を閉じた。
 再び、潮の音だけのステージになる。
 ――ぱちぱちぱち。
 オーディエンスになっていた恒幸が、大きな拍手を優鶴に送った。
 実際のミュージシャンがコンサートのステージ上でするように、優鶴は彼に、深くお辞儀をしてみせた。
「なんて曲?」
 俄然曲の内容に興味を惹かれた恒幸が、優鶴に尋ねる。
 彼女はにこっと笑うと、いきなり答えを明かすのではなく、ちょっと謎をかけた言い方を彼にした。
「これは……CD屋さんで探しても、見つからないと思いますよ」
「あんまり知られてないアーティストの曲とか?」
「いえ、タイトルがつけられてないんです」
 なるほどな、と恒幸は思った。確かに、タイトルがないとなると、CDショップのスタッフをあたろうにも、インター ネットで検索しようにも都合が悪い。ごく稀に、タイトルが思い出せないときに、鼻歌を代わりに提示するとスタッフ が気付いてくれるということもあるらしいが、そう頻繁には実現しないだろうと彼は考える。
「タイトルがないってことは……クラシックでもないよなぁ」
 民放で放送されている、《Concert sans Titre》コンセール・サンティトル という音楽番組が、自社の交響楽団によるクラシック演奏を取り上げているのを思い出して、恒幸は言った。
「残念ながら、クラシックは私もよく知りませんね」
「うーん……ヒント」
 自分の貧しい知識では八方塞がりだと思った恒幸は、手を合わせて優鶴にお願いした。
「ヒントですか……そうですね」
 少し考えて、優鶴は、
「さっき恒幸さんがあまり知られてないアーティストって仰いましたけど、一部にはよく知られてると思います」
 と言って、恒幸のお願いを叶えた。
 ……つもりだったが、恒幸はというと、なおも答えを探っている。
「一部って言われても、俺が含まれてないとヒントにならないような……」
「いえ、ちゃんと含まれてますよ」
「……えっ?」
 優鶴の言葉に、思わず恒幸は間延びした顔になる。というのも、彼女が演奏した曲を聴くのは初めてだったのに、 その曲を作り出したアーティストをよく知っているずだと言われたから。
 恒幸は、小学校高学年から中学校の始めの頃にかけて、流行りの音楽を聴き漁っていたものの、高校に入ってからは、 メタルやハードロックなどの、限られたジャンルしか好まないようになっていた。彼はしばし、昔聴いていた流行曲の 記憶を脳味噌の奥から引っ張り出しては、優鶴が弾いた曲との照らし合わせを試みた。
 しかし、心当たりはない。となれば、軽音部の方向性でもあり、彼自身の好物でもあるハードロックをアレンジした ものではないか。そう考えたけれど、さっきの曲は明らかに、西洋風ではなかった。
 自分の知りうる限りのアーティストをあたってみたが結局答えは出ず、彼が途方に暮れていると……。
 優鶴は、ヒントというよりは、むしろ答えを言ったも同然の言葉を口にした。
「恒幸さんの、よくご存知のアーティスト……というには、まだまだ未熟すぎる気もしますけど」
「……もしかして、優鶴ちゃんの曲?」
 彼女の謙った態度からすると、それ以外の選択肢はないだろうと、恒幸は思った。
「うーん……半分だけ正解です」
 優鶴は苦笑して、恒幸の回答に対するジャッジを下した。
「半分……」
 記述問題の採点のような評価に、恒幸は、割り切れない心境になる。
「正しくは、私と、美咲ちゃんの曲です」
 満点から差し引かれた減点ぶんを、優鶴は、彼にそう説明することで補ってやった。
「へえ……合作なんだ」
「そうです。私が作った曲に、美咲ちゃんが歌詞をつけてくれたんです」
「ふうん」
 美咲が作詞――ということは、さっきのしっとりした曲調には似つかわしくない、美咲の得意技でもある冗談を 考慮に入れると、“さあ ふたりで おっもいで いっぱぁい つっくるぞう!”なんていう詞がつけられていそうだと、 恒幸は想像した。
「美咲ちゃんのことだから、なんか突拍子もない歌詞だったりしてな」
 しかし、優鶴は、
「うーん……それはハズレです。意外に、真面目な詞ですよ」
 と言って、恒幸の邪推に突っ込みを入れる。
「そうなのか?」
「はい。なんといっても、この曲は……」
 優鶴は前を向いて、両瞼の間を狭めた。
「私たちだけの、卒業ソングですから」
 優鶴と美咲、ふたりだけのオリジナル卒業ソング。それはきっと、中学の卒業式でそれまでの不穏当なふたりの関係 を打開することができた喜びが、冷め遣らぬうちに作られたものなのだろう。
 そして、ふたりの卒業を祝って作られたその曲は、今、卒業を半年後に控えた恒幸にとって、格好のプレゼント にもなっていたのだった。
「そうか、それで俺に……」
「ええ。でも、今はまだ気が早いですよね」
 優鶴は笑って、恒幸のほうに向き直る。
「これはあくまでも、今日のお礼として受け取ってもらえたら嬉しいです」
「うん……ありがとう」
 自然と彼の口から、優鶴の心遣いに対する感謝の言葉が漏れた。
 その言葉を聞いて、優鶴が、照れ隠しに僅かに顔を俯ける。
 不規則な潮の音は、どこかふたりのムードに水を差しているように聞こえた。
「――そういや思ったんだけどさ」
 少しの間途切れた会話を、再び恒幸が続けた。
「はい」
「優鶴ちゃんがギターを始めたきっかけって、なにかあるの?」
「きっかけですか……」
 遠慮気味に、恒幸から目を逸らせる優鶴。同じことを訊かれた美咲が、同じような反応を示していたことを 思い出して、恒幸は、今の自分の発言は余計だったかと思った。
「あ、いや。美咲ちゃんもそうだったし、言いにくいことだったら無理に言ってくれなくてもいいよ」
 それに対して、優鶴は渋る様子もなく、
「知りたいですか?」
 と恒幸に訊いた。
「あ、うん。ちょっとだけ……」
 嫌と言うなら無理に聞き出すつもりはない。だけど、嫌じゃないと言うのなら、少しでも聞かせてほしい。恒幸とて、 興味もなしにこういうことを彼女に訊いたわけではなかったのだから。
 優鶴は、落ち着いた顔つきを取り戻して、彼に言った。
「きっかけっていっても、たいしたことじゃないんですけどね」
「うん」
「兄がギターを弾いてるのを見て、羨ましいなって思ったんです」
「お兄さんも、ギター弾くんだ」
「はい」
 なるほど――それだけ身近にギターを弾く人間が居れば、触発されるのも無理はないだろう、と恒幸は思う。
「でも、兄が初めてギターを触ったのが小学校の四年生のときだったんですけど、そのときは私はまだ小さかったんで、 触らせてって声をかけても、なかなか触らせてもらえなかったんです」
 過去を懐かしむ目で、優鶴は、穏やかに語り出す。
「兄は私の言うことには耳を貸そうとしなかったんで、それならば、ということで父に頼んでみたんです。でも、兄に ギターを買ってあげるのが精一杯だったみたいで……結局、また今度って言われるばかりでした」
「うん……」
「兄がギターを手にする前は、私とは凄く仲が良くて……近所のスーパーまでお買い物に行くときも、手を繋いで 連れて行ってもらったり、お人形さんとかで一緒に遊んでくれたり、一緒にクレヨンでお絵描きをしたり、その日 あった出来事を枕元で話してもらって、それを子守唄代わりにしたり……周りのひともみんな、仲のいい兄妹だねって、 言ってくれてたんです。でも……」
 少し寂しげな表情になって、優鶴は続けた。
「ギターのことがあってから、私と兄は、だんだん距離を空けるようになってしまって……。例えば、ご飯できたよって 兄の部屋に呼びに言ったりしたときに、偶然ギターを弾いてるところを見ると……食事のときの会話がほとんどなくな ってしまったり。もちろん、一緒にお買い物に行くことも、一緒に遊ぶことも、お絵描きすることもしなくなりました。
 そうしてるうちに兄のことも、兄を依怙贔屓した父のことも……それからギターのことも嫌いになってしまって、 私は、だんだんほかのことに興味を向けていくようになったんです。今思うと、意気地ないやり方ですよね……。 欲しくても手に入れられなくて、それで嫌いになってしまって、挙句の果てには逃げようとするなんて……」
「……うん……」
 恒幸は、そのときの優鶴の気持ちになって考えてみた。
 自分だったら、どうするだろう。欲しいものを、どこまで足を運んでも、どれだけ懐を痛めても、手に入れる自信は あるだろうか。もしかすると、自分も優鶴のように、諦めてしまうかもしれない――その考えを、彼は否定できなか った。
 優鶴は、さっきよりも明るい顔になった。
「それからしばらく経って、私と父が中学校の入学式から帰ってきたときに……私の部屋に、大きな袋がひとつ 置かれてたんです。なにかと思って、すぐに開けてみました。そしたら……」
 彼女の顔が、途端に柔らかくなる。
「お兄ちゃん、無愛想な声で言ったんです。入学おめでとうな、って……」
 ついさっきまで“兄”と呼んでいたのに、“お兄ちゃん”になっている。それは、兄からのプレゼントと言葉を 受け取ったときの彼女の心境が今この場で不完全に再現されたゆえの、自然な変化なのだろうと、恒幸には思えた。
「中身を全部確認する前に、私……お兄ちゃんの胸に飛び込んで、ありがとう、ありがとうって……ただそれだけを 言いながら、嬉し涙を流しました。
 お兄ちゃんったら……父の収入を支えてやるって言いながら汗水垂らしてバイトしてたはずなのに、そのお金を ほとんど全部つぎ込んで……足りないぶんは貯金を使って埋め合わせしてまで、私のためにギターをプレゼントして くれたんです。
 もちろん、父は凄く怒りました。かんかんになって、うちにお金を入れるつもりじゃなかったのかって、何時間も 兄を説教して……私も、自分がギターをねだったせいでお兄ちゃんが怒られてるんだって思ったら、とっても 心配になってきて……。
 でも、父の説教をものともせずに私に笑いかけてくれたり、弾き方とかも丁寧に教えてくれる兄が、私は大好き でした。
 ――それで今も、兄がプレゼントしてくれたギターを使ってるんですよ」
 ギターにまつわる思い出を語り終えた優鶴の顔は、とても幸せそうに、恒幸の目には映った。
 あのとき――最初に機材が届けられた日に初めて会った優鶴の兄は、一見、妹とコントのように間の抜けた遣り取り をしているような気がした。けれども、恒幸や土肥、美咲の目には呆れるように映ったその遣り取りは、ひとえに 兄の温かな思い遣りのおかげで……それに支えられた優鶴が、彼を慕うようになった結果、自然に生まれる ものなのだと、恒幸は悟った。
「ふーん……いいお兄さんだな」
 不器用な兄の優しさを、身近にいる腐れ縁の性格と重ね合わせて、恒幸は称賛した。
「はい。私が誇りに思ってる、最高の家族です」
 優鶴はにっこり笑って、自分の目と心が捕らえる兄の姿を、如実に表現した。
「お兄さん……あーと」
 名前が思い出せず、恒幸は、言葉を詰まらせる。
「雄慈です」
「あ、そうそう。雄慈さんって、なんかバンド組んで活動してないの?」
「えーと……一回はあったと思います」
「なんていうバンドだったか、聞いてる?」
 恒幸が優鶴にこう訊いたのも、あの日雄慈の顔を初めて見た気がしなかったから。
 彼のルックスが、どことなく似ていたのだ。恒幸のこよなく愛するハードロックバンドのメンバーに。
「……恒幸さん」
 すぐには答えずに、優鶴は、話をバウンドさせる。
「ん?」
「あんまり断りなしに個人的なことを言ったら、プライバシーの侵害になってしまいますよ」
「あははっ。まぁ、それもそうだな」
 まったく、学ばずとも良い受け答えを優鶴は美咲から学んでくるものだなあと、恒幸は苦笑した。
「って、冗談ですけどね。確か、レイジングなんとかって言ってたような……」
「まっまさか、レイジングドラゴンズスクリームっ!?」
 なんとかの前の部分を聞いただけで、恒幸は飛び上がるように驚いた。
「あ……確か、そんな長い名前だった気がします」
 恒幸の気迫にしり込みしながら、優鶴は証言する。
「それって俺が大のファンで、近くのCD屋に置いてないからわざわざ天城橋まで買いに行ったやつじゃん!」
 “Raging Dragons' Scream”。それは、一年半ほど前まで日本ではあやふやだったメロディアス・ハードロック たるジャンルを、源流と比べても遜色ない形で確立した、恒幸もお気に入りのバンドだ。出身地も同じということ で、もしかしたらメンバーが近くに住んでいたりするのではないかと、彼は心を浮つかせていた。
 しかし、バンド自体は一年ほど活動したのちに解散してしまい、その筋の評論家からも、「彗星のごとく現れたが、 脱兎のごとく雲隠れしてしまったのは残念だ」と言われるほど、その実力を惜しまれていた。
「そ、そうなんですか?」
 恒幸と雄慈の意外な接点に、優鶴は目をまんまるにした。
「すげえ……そのギタリストの妹さんと今こうやって話してるなんて。優鶴ちゃん、良かったらサインくれない かな?」
 気忙しく、恒幸は、矢の催促をするような調子で言った。
 優鶴は困ったような、呆れたような顔をして返す。
「お兄ちゃんのですか?」
「いや、難しかったら優鶴ちゃんのでもいいよ」
「ふふっ。私のサインなんて、価値もなんにもありませんよ」
 優鶴はあくまでも、控え目な意見を貫徹する様子だ。
「いや、絶対あるって!」
 根拠も示さないまま、恒幸は個人的見解を言い募る。
「それに恒幸さん、まだ同じバンドって決まったわけじゃありませんよ」
 苦笑いを浮かべて、優鶴は、彼が見落としていた部分に言及した。
 すると彼は、難しい表情のまま、納得の意を呈した。
「んー……それもそうだな」
「また今度、覚えていたらお兄ちゃんに聞いてみますね」
「うん、頼むよ」
 結局、この場で雄慈のバンドのことが完全に明らかになることはなかったけれども――恒幸は、彼が“レイジング ドラゴンズスクリーム”でギターを弾いていたということを、半ば確信していた。
 そうでもなければ、優鶴はこんなにも上手くギターを弾けていなかっただろうから。
 ふたりはまた、しばらく、寄せては返す波を無言で見つめた。
 話題を大方出し尽くしてしまったこのタイミングを選んで、恒幸が口を開く。
「――あのさ、優鶴ちゃん」
「なんですか?」
「俺、優鶴ちゃんにひとつ謝らないといけないことがあるんだけど……」
「……えっ?」
 申し訳なさそうに言う恒幸を、優鶴は不思議そうに見つめる。
「俺……その、なんというか、すっごく鈍かった」
 謝罪の理由を、そうとだけ簡潔に示した恒幸に、
「……恒幸さん」
「ん?」
「はしょりすぎで、ちょっと把握しにくいです……」
 優鶴は、苦笑しながら文句をつけた。
「あぁごめん。そのさ……」
 少し慌ててしまったのを仕切り直して、恒幸は続けた。
「最初部活の機材を搬入するとき、優鶴ちゃん、俺が手伝おうとしてたのを後押ししてくれたよな」
「……はい」
 優鶴も、彼の話に歩調を合わせようとして、記憶を呼び覚ます。
「それでそのあとも、土肥先生がしつこく俺に退部を迫ってきたところを助けてくれたよな」
「はい」
「俺、美咲ちゃんに言われて初めて知ったんだ……優鶴ちゃんの気持ち」
 ――優鶴は、先輩のことが好きなんだと思います。
 美咲の言った科白が、恒幸の脳裡をよぎる。聞かされたときはもちろん、彼は半信半疑だった。だけど、事実、優鶴が 一再ならず彼のことを助けてくれているのと、彼女のことを心の奥深くまで理解することのできる美咲の指摘である ということを踏まえて、彼はいつしか、美咲の言葉を百パーセント信じきっていた。
「恒幸さん……」
 自分の気持ちに触れられ、優鶴は、俄かに心が浮き立つのを感じた。
「もちろん俺に会うなり話しかけてくるのは美咲ちゃんのほうだから、それで気付きにくかったのかもしれない。 それでも、優鶴ちゃんに目を向けることも、声をかけることも、俺にはできたはずなんだ」
「……はい……」
「それなのに俺は……今まで美咲ちゃんのことばっかり見てて、優鶴ちゃんのことも、同じぐらいわかってるふり してて、本当は無視してた……」
 本人の前で過失を白状するのも辛いことだし、それを聞かされる優鶴はもっと辛いだろう。
 だけど、このまま黙っているほうが、その辛さは自分にとっても、優鶴にとっても膨れ上がってしまうと思って、 彼は意を決して優鶴に打ち明けたのだった。
「それで言われるまで気付かなくて……本当にごめんっ」
 深く頭を下げて謝る恒幸に、優鶴は、なにひとつ不快な感情を持たず、
「いいんですよ、恒幸さん」
 と、優しい言葉をかけた。
「えっ……?」
 罪を罪ともしない優鶴の寛大な言葉に、恒幸は、一瞬呆気に取られる。
 仏像のように穏やかな顔を崩さずに、優鶴は続けた。
「遅いか早いかなんて、そんなことは問題じゃないんです」
「……」
 美咲に言われてようやく気付くほどの鈍感さを第一に申し訳なく思っていた恒幸は、そこからまず無関係だと 言われてしまったことに、はなはだきまりの悪さを感じた。
「自分で気付いたか、美咲ちゃんに教えてもらったかも……私はべつに気にしません」
「……うん」
「私はただ……いきさつはどうあっても、恒幸さん自身の口からそう仰ってもらえたことが、とっても嬉しいんです」
「優鶴ちゃん……」
 恒幸が罪だと思っていたことのすべてをゆるして――優鶴は、 自分の気持ちを理解してくれた恒幸に、満足感でいっぱいの微笑みを向けた。
 それは、中学のときに、自分のことを邪魔者扱いした美咲の態度を恕し、卒業式の一件で彼女が明るく前向きな 心を取り戻したことを嬉しく思っていたのと、まったく同じで――。
 自分の地道な努力がやがて実を結んだときに感じる幸せのために、優鶴は生きているのだと、恒幸は悟った。
 肩にかけているトートバッグから、恒幸は、あの日のままの紙袋を取り出して、優鶴に差し出した。
「こんなものじゃ責め塞ぎにもならないと思うけど……良かったらもらってほしいんだ」
「これ……なんですか?」
 受け取った紙袋を見つめながら、優鶴が問いかける。
「優鶴ちゃんへの、誕生日プレゼントになればと思って、買ってきたんだけど……」
「えっ……どうして私の誕生日を?」
 優鶴は、驚きから大きく目を見開いた。彼女は、今の今までなにも知らずにいたのだ。恒幸が、自分のために プレゼントを用意してくれていたことも、自分の誕生日を知っていて、今日――八月七日をデートの日に選んでくれた ことも。
「あ、ああ……生徒会長やってる友達から、プロフィール見せてもらってな」
 恒幸みずからが優鶴にプレゼントを手渡してほしいと、美咲は言っていた。それは恐らく、自分が恒幸にチャンスを持たせ たことを、優鶴に対して伏せたままにしてほしい……というサインなのだろうと、彼は解釈していた。
 それならばと、いささか取り乱しつつも、彼は、美咲が関与していないかのように言い繕ったのだった。
「開けてみてもいいですか?」
 逸り気からか、既に紙袋のテープの部分に手をつけた状態で、優鶴が訊く。
「うん……」
 彼女の反応を、恒幸は、息を凝らして見守った。
 開かれた紙袋の口から、ペンギンの縫い包みの頭が覗く。それを見た優鶴の顔つきが、突然強張った。
「……嘘はいけませんよ、恒幸さん」
「……っ!」
 咄嗟に思いついた言葉をあっさりと嘘だと見抜かれてしまい、恒幸は、どっと冷や汗をかきそうになるのを覚えた。
「おっ俺、嘘なんてっ」
 彼の苦し紛れの否定も空しく、優鶴の表情は変わらない。
「美咲ちゃんに、誕生日を聞いたんですよね?」
「えっ?」
「それで……このプレゼントを選んだのも、美咲ちゃんですよね」
「……!」
 そんな……確かに美咲は、自分からのプレゼントだということを隠しておいてほしいという素振りを見せたはずなのに。
 恒幸はひどく周章して、優鶴に尋ねた。
「どっ、どうしてわかったんだ?」
「それはその――」
 
 ……そのときだった。
 
「――あはっ、ばれちゃった」
 あるはずのない声が、恒幸と優鶴のうしろ上方から届いた。
「へっ!?」
「みっ美咲ちゃんっ!?」
 慌てて振り返ったふたりの目に、しっかりと、元気印を絵に描いたような笑顔が映る。
 右サイドで束ねられた、赤みがかった髪の毛。赤いカチューシャ。薄いグリーンの キャミソール……を前に押し出していない、控え目な胸。ミドルレングスのデニムパンツから伸びる素足を辿れば、白い厚底 サンダル。紛れもなく、美咲だ。
 『な』、『ぜ』、『こ』、『こ』、『に』?
 ありとあらゆる考えに先行して、その五文字がふたりの頭に浮かんだ。
 ふぅと溜め息をひとつ漏らして、髪をかき上げながら、美咲は言った。
「……驚きすぎですよ、先輩も優鶴も」
「そっそりゃ驚くなって言うほうが無理あるって!」
 正の方向負の方向、数え切れぬ種類の感情がごちゃ混ぜになった心に押され、恒幸は声を荒げた。
「い……いつから居たの?」
 優鶴も、未だかつてないほどに呆然たる面持ちだ。
 ふたりの心の中に起こった青天の霹靂をよそに、美咲は、実に軽やかな口調で言ってのけた。
「うん? さっきから」
「さっきじゃわからんだろ」
「やだなぁ先輩、今日一日ストーカーしてたなんて地球に隕石が衝突してもないですよ!」
「……」
「……」
 厄介なことになってしまったのかどうかさえ、ふたりにはわからない。
 確かに、一日中跡をつけられていたのなら、それはそれでとても厄介なことではある。
 だけど、今この瞬間まで、美咲の気配を感じていなかったのは確実なのだ。
「どうする……優鶴ちゃん?」
 もはやデートどころではなくなってしまったと思った恒幸は、今度こそはと、優鶴に決定権を委ねた。
 優鶴は困ったとも苦笑しているとも見える顔をして、彼に返した。
「来てしまったものは、仕方ありませんね……」
「さっすが優鶴、物分りがいい!」
 地軸のごとく不遜な態度で、美咲が優鶴の言葉に付け上がる。
「え……あ、うん……」
 喜んでいいのか、それともほかに取るべき反応があるのかわからず、優鶴ははっきりしない調子で返事をした。
 恒幸は、昨日の作戦会議のことを思い出す。美咲は彼に、優鶴の得手不得手も考慮に入れたデートコースを提案した。 そうすることで、彼女は、最後までそつなく事が運ぶよう、恒幸のために取り計らったのだ。自分が介入しなくても、 恒幸と優鶴のムードが終始崩れないようにと。
 しかし、まだデートも完全に終わったわけではないのに、彼女は藪から棒に、ふたりの前に姿を現した。その突飛な 行動が、優鶴を妬んでのものなのか、それとも、単にふたりを揶揄してみたいと思ってのものなのか、恒幸には 推し量る術もない。
 美咲を見るでもなく、また優鶴を見るでもない目線で、恒幸は呟く。
「なんか……大どんでん返しって感じだな」
「えへ」
 くすぐったそうな笑い声を、美咲は出す。
「……いや、べつに褒めてないから」
 あえて顔の向きを固定したまま、恒幸は呆れ返った声で言った。すぐには美咲の反応を確かめなかったけど、 どうせ彼女のことだから、きまりの悪い顔をして、片方の手でうなじのあたりを擦っているのだろうと、彼は 勘繰った。
「それはそうと……恒幸さんも、美咲ちゃんも……プレゼント、どうもありがとうございました」
 振り向いた恒幸の目に、紙袋から取り出したペンギンの縫い包みをギターの上に載せて、両手で大切そうに抱えて いる優鶴の姿が映る。
「やっぱり、優鶴にはわかっちゃうか……」
 前に屈んだ上体を、膝に手をついて支える体勢で、美咲は苦笑する。
「どういうことなんだ…?」
 ひとり状況を飲み込めていない恒幸は、訝るような口振りで、ふたりに尋ねた。
 美咲の視線を受けた優鶴が、ふたりを代表して話し始める。
「私、まだ入学して間もないときに……これと同じお人形さんを、同級生の子にカッターで切られてしまったんです」
「えっ……?」
 優鶴自身が口ずから明かしたエピソードに、恒幸は肺腑を衝かれる。
「その同級生は中学でも一緒だった子で……たぶん、卒業式で幸せを独り占めしてしまった私たちを恨んでの、 嫌がらせだと思うんです」
「そんな……ひどい」
 嫌がらせという言葉に非常識さを感じて、恒幸は苦い顔をした。
「もう優鶴ったらあのとき、あたしになにも言わないで笑ってたのに……次の日目を真っ赤にして学校に来るんですよ。 うちに帰ってから、そんなに我慢することないよって電話で言ったら、今からあたしの家に来るって言い出して……。優鶴、 あたしの胸でずっと泣いてた……」
 美咲は目を細めて、記憶を辿りながら話した。
「そんなことがあったのか……」
「はい……。だから、このペン助くんを見た瞬間、恒幸さんが選んだんじゃないなって、わかりました」
 ペン助と呼ばれた縫い包みを見つめながら、優鶴は言う。
 彼女はその柔らかな目つきで、美咲と恒幸の手によって復活したペン助に、おかえりと語りかけているのかもしれない。
 単なる誕生日プレゼントとは思えない、ふたりの想いの魔法が込められたペン助を見て、恒幸は、自分のついた嘘を 恥じるとともに、美咲の素振りに疑念を抱いた。
「ははっ、いくらなんでもこれはちょっとごまかせないだろ、美咲ちゃん」
 しかし美咲は、口をとんがらせて、
「そんなの先輩にペン助を預ける前からわかってましたよ」
 と彼に返す。
「ぃえっ?」
 またしても自分の思い込みと、美咲の心積もりとが食い違ってしまい、恒幸は驚いた。
 片手を顔に、視線を恒幸から中空へと飛ばして、美咲は言った。
「それにあたし、ごまかしてほしいなんて一言も言ってないですよ」
「ふふふっ」
 美咲と恒幸、双方の心中を悟った優鶴は、顔を綻ばせて笑った。
「ははは……それもそうだな」
 さすがにここには穴はないだろうと割り切って、恒幸は、ばつの悪さを認めたのだった。

 

「それでさあ……優鶴」
 優鶴を恒幸とサンドウィッチするようにして、彼女の隣に腰を下ろした美咲が、露出度の高い両腕と両脚を、大きく 前に伸ばしながら言う。
「うん」
「ほんとにもう、文化祭のライブ諦めちゃうの?」
「……うん」
 目線を落として、優鶴は頷いた。
 俯けられた彼女の顔を、美咲は掬い上げるように覗き込む。そして、張り詰めた顔で言った。
「お願い、軽音部戻ってきてよ」
「……えっ?」
 一度は土肥も含めて満場一致で決定がなされた退部に、今更物言いをつける美咲に、優鶴は口を開け放す。
「厚かましいお願いだってことはわかってる……」
 一旦逸らした顔を再び優鶴に向けて、美咲は言った。
「でもあたし、優鶴のギターが聴きたい」
「美咲ちゃん……」
「また優鶴と一緒に、先輩も含めて、三人で練習したいよ」
 両の握り拳を胸元に、真剣な眼差しを優鶴に向けて送る美咲。こんな顔をして大法螺を吹いたことのある彼女のことだ から不確かではあるけれど、恒幸は、今の雰囲気を重視して、彼女に足並みを揃えておこうと考えた。
「俺も……男のくせに諦め悪いけど、もう一回、三人で部活がやりたい」
「恒幸さん……でも」
 優鶴は、困り果てた顔になった。確かに、人数の上では劣勢になったけれど、選択肢の重みを考えれば、立場は 逆転する。ふたりの気持ちに応えてもやりたいが、そう軽々しく自分の決意を翻すこともできない。自分の行動の 副産物たるジレンマを後悔することもまた、優鶴にとっては難しいことだ。
「ほら、美洲屋の小父さんも言ってただろ? お父さんが安心できる環境を作ってやれば、また部活に戻れるかも しれない、って……」
 三人目の反対勢力を引き合いに出して主張した恒幸だったが、優鶴はやはり、
「そうですね……」
 と言って、煮え切らない様子を変えようとはしなかった。
「あ、そいえば先輩」
 突然なにかを思い出したように、美咲が恒幸に声をかける。
「美洲屋にギター返しに行くんですよね」
「えっ?」
「なっなんで知ってるの?」
 美洲屋という名前はおろか、優鶴が借りていたギターをそこへ返しにいくということまでをも知っていた美咲に、 優鶴と恒幸は、揃って瞠若とした顔つきになった。
「えへっ。じゃあ今返しにいきましょ」
 美咲はすっくと立ち上がって、階段三段ぶんの高さをジャンプ――実に器用に、砂浜へと着地する。
 そして、顔だけ恒幸と優鶴のほうを振り向いて、
「ついてきてくださいっ」
 とだけ言うと、美洲屋目指して、これまた実に器用に、砂浜の上をぱたぱたと走り出した。
「あっちょっ、美咲ちゃん!」
 恒幸は優鶴から、一旦ペン助とギターとを預ると、彼女を連れて、どんどん小さくなっていく美咲の背中を追いかけた。
 ……なぜ美咲は美洲屋とギターのことを知っているのだろう。
 ……なぜ彼女はこんなにも急ぐのだろう。
 ……そしてなぜ、彼女はこんなにも、砂浜の上でこんなにも安定した走りができるのだろう。
 短時間のうちに浮かび上がったたくさんの疑問に弄ばれながら、恒幸と優鶴は、美洲屋へと戻ってきた。
「――おじさんっ!」
 ふたりが追いついてくるのを待っては走り、最後には三人揃って美洲屋に到着できるよう配慮した美咲。彼女は 大きな声で、夜の海辺の静寂しじまを切り裂いた。この声に反応する であろう人物は、ただひとり……。
「おっ美咲、もう帰ってきたのか」
 恒幸たちに焼きそばをご馳走した店主の小父さんが、近しい態度で美咲に声をかけた。
「えへへっ、ただいま!」
「ちょっ、おう美咲って……小父さんっ!?」
 極めつけには、小父さんが美咲を名前で呼んだことに、恒幸と優鶴はひどく驚いた。
 くるっとふたりのほうに向き直って、美咲は言った。
「紹介します。あたしのお父さんのお兄ちゃんで、伯父の慎平さんっ」
「えぇっ!?」
「本当なの、美咲ちゃん!?」
 重ね重ね驚いてくれるふたりに、慎平は笑って言った。
「はっはっは。さっきのニイちゃんとお嬢ちゃんだね」
「驚いたでしょ?」
 見ればわかるというのに、美咲は、そんなことも意に介さず、得意げに訊いた。
「美咲ちゃんの、親戚の方だったんですか……」
 びっくりすると同時に、恒幸は、妙に納得した。
 平仄の合わない、独善的な言葉。後先考えない、向こう見ずな態度。美咲のイメージを彷彿とさせた慎平は、彼女の 肉親とまでは行かないが、彼女から二世代前に、慎平から一世代前に親を共にする親族だったのだ。
「そうだよ。知らない振りして悪かった」
 テーブルに腰を据えて、相変わらずタバコを銜えていた慎平は、おもむろに灰皿の中でタバコの火を消すと、立ち上 がって、三人のところに歩み寄ってきた。
「君たちのことは、姪っ子の美咲からいろいろと聞いてるよ」
「そうだったんですか……全然気がつきませんでした」
 慎平の素振りから美咲のイメージを連想することさえできなかった優鶴は、納得した恒幸のそれよりも、幾分か 落ち着かない感じの表情になった。
「おじさんまだ、役者でもいけるんじゃない?」
 慎平の演技を、冗談を言って称賛する美咲に、彼は笑って、
「ははっ、食い扶持稼げるほどの魂はないよ」
 と返した。
 親戚どうしの他愛ない遣り取りをスルーして、恒幸が口を開く。
「あの、慎平さん」
「ん?」
「知らない振りをしてたってことは、その……最初からバンドのことも、部活のことも、文化祭のことも全部ひっくる めて知ってたんですよね……?」
「ああ……君たちがここへ来ることもな」
「えっ?」
 慎平は確かに、ふたりが最初に美洲屋を訪れたとき、店じまいをしようと思っていたところだと言った。
 それさえも演技だったのかと思うと、恒幸は二の句が継げない。
 続く慎平の言葉が、彼が演技をしていたという事実を裏付けた。
「美洲屋はいつも、夕方の四時までしかやってないんだ。その前から、お客がちらほらと帰り始めるからね」
「それって……」
「そう、君たちがここに来るのを待ってたのさ」
 優しい顔を恒幸と優鶴に向けて言う。解けない疑問が思考の水槽からついに溢れ出してしまい、恒幸は焦りながら 慎平に問いかけた。
「なんで……?」
「ごめんなさい、先輩っ」
 美咲ががばっと上体を前に屈める。
「あたしが先回りして、伯父さんに全部話してたんです」
「美咲ちゃんが……?」
「はい」
「どうして、美咲ちゃん?」
 彼女の魂胆がわからず、優鶴も問い質す。
 ふたりから言い迫られ、美咲は少したじろいだ。
「えっと……それは」
「ふたりとも、美咲を責めないでやってくれないか?」
 美咲を庇うように、彼女の肩に手を置いて、慎平が弁明する。
「美咲は、君たちふたりを邪魔したいと思ってこういうことをやったわけじゃないんだ」
「その……つまりは――」
 慎平の助力を得て、美咲は、口ずから底を割った。
「優鶴を説得するために、伯父さんの力も借りたかったってことなんです」
「美咲ちゃん……」
 自分のせいで美咲の親戚にまで手をかけていたことがわかり、優鶴は心苦しい顔をした。
 恒幸と優鶴を交互に見ながら、美咲は続ける。
「この期に及んでまだ我がままを言うか、なんて怒られちゃうかもしれないけど……あたし、どうしてもまた優鶴と 一緒に練習したくて……」
「美咲は美咲なりの説得をしたと思うんだ。けど、伯父さんからも言ってくれれば、自分が言い逃してたことも ふたりに伝わるんじゃないか、って……そう頼まれてね」
 慎平は、美咲から優鶴へと目線を移す。
「お嬢ちゃん……いや、優鶴ちゃん」
「はい」
「もしかしたら親父さんを亡くしてしまうかもしれないし、学園祭のライブも無くしてしまうかもしれない……。どっち かを取れば、残ったほうを捨ててしまわないといけないのは、とても辛いことだって、俺もよくわかってる」
「……はい……」
「でもさ、それは当たり前のことなんだよ。どっちも上手いこといくなんていう期待はできやしない」
「……」
 慎平の言葉に、現実の厳しさを再認識して、顔を俯けてしまう優鶴。
 語気を穏やかにして、慎平は続けた。
「優鶴ちゃんは、親父さんを大事にしてあげたいそうだね」
「はい」
「でも、親父さんもひょっとしたら、長く持たないかもしれない……。だから、俺は親父さんが、もし深刻な病気じゃない にしても、優鶴ちゃんの夢とか、気持ちとか……そういうのに希望を託して生きてると思うんだ」
「……はい」
「親父さんを捨てろ、なんていうキツい言い方はしない。でも、親父さんが期待してる優鶴ちゃんの夢と、うちの美咲の 夢と……ニイちゃん、名前なんてったっけな」
「あ、遠方です」
「遠方くんの夢も合わせて、三人分の……いや、四人分の夢を叶えるために、優鶴ちゃん、どうか美咲の我がままを 聞いてやってほしいんだ」
「美咲ちゃん……」
 美咲は、我がままなんかじゃない。
 彼女自身の夢と、恒幸の夢、優鶴の夢――そして、優鶴の父親が彼女に預けた夢までもを慮って、チャンスを 呼び戻そうとしているのだ。
「やろっ、もっかい軽音部」
 屈託のない、自信に満ちた笑顔を、美咲は優鶴に向ける。
「きっと、優鶴のお父さんにも優鶴が頑張ってるってこと、ちゃんと伝わるよ!」
「うんっ…」
 愁眉を開いて、優鶴も明るい表情を作る。
「そうだよ、優鶴ちゃん。小父さんはさっきどっちか片方しか取れないって言ったけど……俺は両方もありだと思う」
 慎平と美咲に倣って優鶴のほうに向き直り、恒幸は言った。
「お父さんにライブを楽しみにしてもらって、それがもとで元気になってもらえる可能性だって、ないとは言い切れない じゃん」
「恒幸さん……」
「おう遠方くん、いっちょ前に大人の意見に楯突いてくれるじゃないか」
 恒幸の言い分を聞いた慎平が、小鼻を膨らませる。
「べつに俺は……慎平さんの意見を否定したくて言ったわけじゃないですよ」
 あくまで優鶴の肩を担ごうとしたことを、恒幸は迂回するように言う。
「はっはっは。でも遠方くんの意見も、俺は否定するつもりはないよ」
 慎平は笑って言った。
「そうだよ。やってみないとわからないって最初に言ってくれたの、優鶴じゃない!」
 倒れてしまいそうなほどに身を乗り出して、美咲は、声高に主張した。
「みなさん……」
 こんなにも、みんなが自分のことを考えてくれていたなんて。
 こんなにも、自分が必要とされていたなんて。
 優鶴は、目に涙を浮かべて、だけども嬉しさを湛えた顔で、三人を見た。
「優鶴ちゃん……戻ってきて、またギター聴かせてくれるよな」
「はいっ!」
 もはや優鶴の心に巣食っていた葛藤は――完全に、その姿を消してしまっていた。

 

 慎平にギターを返すという使命を終え、すっかり暗くなってしまった夜の海岸を歩く優鶴と恒幸、そして、強引に 登場した美咲の三人。時刻は既に、二十時を過ぎていた。
 優鶴に門限のことを訊ねると、彼女は、携帯電話に届いていた雄慈からのメールをふたりに見せて笑った。彼女から はなにも伝えていなかったはずなのに……雄慈には、すべてがお見通しだったらしい。
 結局彼は今日、臨時でバイトを休み、優鶴に代わって父親に付きっ切りということだった。
 デートのつもりだったのに、今や“優鶴復帰大作戦”と成り変わってしまっていた日の暮れに、その立て役者となっていた 人物が、静かに口を開いた。
「ねぇ、美咲ちゃん」
「なに?」
「その……美咲ちゃんのときって、先輩と……キ、キス、したの?」
 言葉を詰まらせては押し出しながら、優鶴が訊ねる。
「ちょっ、優鶴ちゃん!」
 恥ずかしさゲージを俄然満タン近くまで急上昇させて、恒幸は慌てふためいた。
 しかし、その一方で美咲は、顔色一つ変えずけろっとした様子で、
「うん。したよ」
 と優鶴に答える。
「美咲ちゃんっ!」
 ふたりの後輩のダブルパンチで、恒幸の恥ずかしさゲージは天井を突き破った。
「べーっつに今更隠すようなことでもないじゃないですかー」
 いちいち顔から火を吹く恒幸を横目で見ながら、美咲は言う。
「デートってったら、最後にキスするもんでしょ」
「そりゃそうだけどさ……」
 いや、キスした記憶を呼び覚まされたことが恥ずかしいんじゃなくて。そういうことを堂々と言えてしまうあなたの 恥知らなさが見ていて恥ずかしいんですけど。
 恒幸は心の中で、美咲にそう抗議した。
「あの、うーんと……どんな感じだった?」
 控え目ながら好奇心を起こす優鶴に、美咲は呆れた調子で言った。
「そんなの、あたしに聞くより実際に試してみたほうが早いでしょ?」
「ばっ……!」
「……っ!」
 度が過ぎた美咲のふてぶてしさに、恒幸も優鶴も圧倒されて言葉が出ない。
「えへへっ」
 美咲は笑って、後ろ手のまま片足を軸にして百八十度方向転換をする。ふたりの目からは美咲が完全に後ろ姿になって しまったところで、彼女は振り返らずに言った。
「じゃああたしは向こう向いてますから……十数える間にちゃちゃっと済ませちゃってくださいっ」
「そっ、そんな無茶なっ!」
「いきますよー。じゅーう、きゅーう……」
 恒幸の反論を軽やかに無視して、美咲はカウントダウンを始めた。
「どっどうする……優鶴ちゃん?」
「……はーち、なーな、ろーく……」
「お、お願いします……」
 言うが早いか、恒幸はしゃがんで顔の高さを優鶴に合わせると、目を閉じて、唇を近づけた。
「……ごーお、よーん、さーん……」
 場違いなカウントダウンの横で、恒幸と優鶴は、お互いの唇の柔らかさを感じた。
「……にぃーい、いーち、ぜろっ!」
 タイムアップと同時に振り返った美咲の目に、ふたりに背中を向ける前とあまり変わらない光景が映る。
「あれ? ホントにキスしました?」
「もちろんだよ!」
 恒幸は、叫ぶような調子で言った。
 まったく、そんなことを言うんだったらその目でしかと見届け……られるとやっぱり恥ずかしすぎてできなくなって いただろうな――彼は美咲の気配りを、中途半端に認めたのだった。
 美咲はにっこり笑って、優鶴にピースマークを示す。
「えっへへっ。これでおあいこだね、優鶴」
「あっ、うん……そうだね」
 嬉し恥ずかしの面持ちで、優鶴は答えた。
「さぁそれじゃお家目指して、レッツゴー、ホームっ!」
 二拍目のゴーで溜めた気合いを、三拍目のホームで一気に放出しながら、美咲は腕を天に向かって突き上げた。
 彼女がふたりとの間に思わず知らず作っていた距離を意識して、恒幸は、優鶴に耳打ちをした。
「……ほんと美咲ちゃんって、元気の塊みたいだな」
「ふふっ、そうですね」
 笑顔の優鶴の目を、恒幸は、じっと見つめる。
 今なら、美咲は見ていない。もう一回、ちゃんとしようか。
 悪魔の戯言なのか、天使のジョークなのかもわからないまま、彼は、優鶴の撫で肩に手をかけた。
「……恒幸さん……」
 優鶴も拒まなかった。再び瞼を閉じて、恒幸の唇が触れるのを待つ。
 やがて再び、ふたりの唇は重なった。
 中断せざるを得なくなったキスの続き。
 二度目の……というよりも、そんな感覚がふたりにはあったのだけれど……。
「――あぁーっ!!」
 ふたりが唇を離した直後、前方から美咲の声が轟いた。
「ずるーい先輩っ、二回しましたねっ!?」
「ごっ、ごめん……ついはずみで」
 鼻歌にスキップというテンションの美咲がこれほど早くこちらを振り返るとは思っていなかった恒幸は、結局見られて しまう羽目になったことに、ばつの悪さを感じて謝った。
「ごめんじゃ許しませんよ……これは貸しです」
 人差し指を立てて、諭すような表情で、美咲は言う。
「いつかまた、あたしとも二回目のキス、してもらいますからねっ。……あ、今ここでってのはナシですよ」
「はいはい、わかったよ……」
 どのみちそんな条件で許してもらえるのかと思うと、恒幸は、肩の力が抜ける思いだった。
「絶対ですよ? 約束ですからね?」
「……うん」
「生卵青汁ですよっ、先輩!」
「げっ……」
 出た――美咲の伝家の宝刀が。
 反射的に、恒幸はしり込みする。
「ふふっ」
「あははっ」
 どういうわけか、彼が作ったてるてる坊主はふたつだったはずなのに、夜の海岸には、三つの笑顔が並んでいた。
 それはもしかすると、恒幸と優鶴とが、それぞれの心の中に三つめのてるてる坊主を無意識のうちに作っていた せいなのかもしれない。ふたりともが、心の奥底で美咲の存在を必要としていたからこそ、彼女はふたりの前に 現れて、笑顔を届けてくれたのかもしれない。
 静けさにこだまする三人の声に反応するように……高く光る星たちが瞬いた。

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