第8章 Vengeance - 密かなる復讐
Cette fois l'autre ne se présente pas au club. Et elle de subir un malheur.

 

【1】

 優鶴が部活への復帰を決意してから、一ヶ月。
 夏休みが明け、二学期も十日以上が経過した。
 優鶴の復帰を直接彼女の口から聞いた土肥は、大人気なくも舞い上がって、その日の帰り道、知り合いの経営する バーに立ち寄って晩酌をしながら翌日の授業の予習をしていたという。
 彼のその話を聞いたとき、三人は、「てるてる坊主の恩恵を受けた者がここにもひとり」と苦笑した。なんのことを 言っているのかわからず目を点にしてしまった土肥をよそに。
 実に一ヵ月半ぶりとなる、三人の音合わせ。それは、ブランクが空いたということを感じさせないもので……。
 以前にもまして自信で輝く部員たちの顔を見た土肥は、とても満足げな様子だった。
 ――恒幸、美咲、優鶴の三人が文化祭ライヴという正念場に臨むその日まで、残すところあと三日。
 手を伸ばせば届きそうな距離に、恒幸は、彌猛心を弾ませた。
 長束の号令で、一日の課程が終わる――といっても、掃除当番や日直を除いて、だが。
 机をうしろへ下げると、恒幸は鞄を肩に、教室を飛び出した。廊下に出てみるものの、後輩たちの姿はない。今日は どちらかのクラスのホームルームが長引いているのだろうと、彼は思った。
 だとすれば、今日は自分が職員室まで部室の鍵を取りに行って、扉を開けておくことぐらいはしてやらないといけない。 先輩だからといって、悠々と構えてはいられないのだ。むしろ先輩だからこそ、後輩たちの面倒を見てやる必要が ある。
 なぜか、土肥の思いつきで軽音部の部長は優鶴ということになっていたが、彼は縦の繋がりを意識して、強引に そう考えるようにしていた。
「――あっ、遠方先輩!」
 職員室へ急ぐ恒幸とすれ違った生徒が、彼を呼び止める。
 頭の中の住人たちが噂をすれば、当人の影。振り返った恒幸の目が、小柄な体には多少荷の重そうな、ギター入りの レザーケースを背負った後輩の姿を捕らえた。
「優鶴ちゃんっ」
 優鶴は微笑んで、礼儀正しくぺこりとお辞儀をした。丁寧に膝に添えられた彼女の手には、恒幸が取りに行こうと 思っていた部室の鍵がしっかりと握られている。
「それ、部室の鍵……」
「あっ、はい。私が取りに行ってきました」
 どうやら、優鶴のクラスでは、恒幸のクラスよりも早くホームルームが切り上げられていたらしい。今は部長だとか 先輩後輩だとか言う前に、手間を省いてくれた彼女の働きを、恒幸は、多とせねばと思った。
「ああ、ありがとうな」
「どういたしまして」
 こんな些細なことでも、お礼を言ってもらえる――優鶴は、嬉しさを顔全体に表した。
「あっ、そういえば優鶴ちゃん」
 恒幸はふと、優鶴を中心とした風景に違和感を覚えた。
「はい」
「美咲ちゃんは?」
 二学期に入ってからも、相変わらず、優鶴と手を繋いで恒幸の前に姿を現していた、美咲の姿がない。
 彼女のクラスのホームルームがいちばん長引いているとしても、その場合は優鶴がB組の教室の前で待っていることに なるから、今ここで単独行動している優鶴に会うことはないはずだ。
 その理由を、優鶴は端的に説明した。
「はい。ホームルームのあと先生に呼ばれて、ちょっとお説教を聞いてから部活に来るそうです」
「そっか。でも説教って、わざわざそんなありがたくないものを……」
 自分でさえそう思うのだ。美咲のことならば尚更だろう。彼はそう思った。
「そんなことを仰ったらいけませんよ。先生方は真剣にご指導されてるのに」
 眉を八の字にして、優鶴は苦笑する。
 自分にはそう思えないのは、何故だろうか?
 数秒間考えたのち、恒幸は、原因の大半が自分の居眠りにあると悟った。
「まぁそうだけどな……ってか、そもそもなんで説教?」
 思い半ばに過ぎたが、彼は念のため優鶴に聞いてみた。
「たぶん……夏休みの宿題にほとんど手をつけてなかったのと、それが響いて、課題テストでも良くない成績を取って しまったせいだと思います」
 極度に困ったような顔をして、優鶴はそう説明する。
 この学校では、春、夏、冬の長期休暇が明けた、言い換えれば各学期の始めに、出された宿題をどれほどきちんとこなせ たかをチェックする、課題テストというものが実施される。
 春休みや冬休みの課題テストならまだしも、夏休みの課題テストとなると、宿題の量が段違いに多いために、定期 テスト並に、思うような成績が取れない生徒が続出するのだ。
 八月三十一日に行われた始業式の翌々日、二日の猶予期間となった週末を経て実施された課題テストで、恒幸は、 思わぬ好成績を弾き出した。なかでも、英語が満点にそれこそ一歩及ばずの九十九点だったのと、低迷していた 数学が六十点の壁を越えたのは、彼にとっても驚きだった。
 彼とは反対に、夏休みの宿題をおろそかにしていた者は、与えられた束の間の猶予期間 を使って俄か仕込みをするきらいがあるというが、美咲もその仲間だったのではないかと、彼は思った。
「ああ、そういえばそんなこと言ってたな……」
 課題テストの話題を持ちかけられるたびに、美咲は『あははっ、玉砕でしたよー』と言って笑っていたのを思い 出して、恒幸は納得した。
「だから、先に部室に行って弦のメンテナンスとか、チューニングとかをやってて、とのことです」
「まぁ美咲ちゃんはあれだもんな……あんまり準備する必要ないもんな」
 部室に入った美咲は、持ち場に就くなり、弦のメンテナンスに勤しむ優鶴と恒幸に目もくれず、しばしばフレーズを 絞って、ふたりよりも先にパート練習を始めていた。
 思えばドラムは、ひとりで扱うぶんにはお手入れ要らずだなと、恒幸は思う。たとえば、ふたりが交替で使ったとき に、そのふたりの利き手が違っていれば、その都度タムやハイハットの位置を変えたりしなければいけないのだろうけど。
 いつもパート練習できる長さを自分たちよりも多く取ることができる美咲を、恒幸は、ちょっとだけ羨ましく思った。
「ふふっ、そうですね」
 優鶴も、恒幸の考えを汲んで笑った。
 確かに、美咲に比べれば準備に手間がかかる自分たちだけど、手間をかけただけの面白さが、軽音部の活動にはある。 それは本当に焼き魚が好きなひとが、骨を一本一本丁寧に取る手間を惜しまなかったり、本当に盆栽が好きなひとが、 何時間もかけて剪定をしたりするのと、ほとんど変わらない。
 それに、パート練習だって、楽器のメンテナンスだって、各々のメンバーが単独でやっていることにすぎない。本当 の楽しみは、三人でやる音合わせが始まってからなのだ。
「それじゃ行こっか、優鶴ちゃん」
「はいっ」
 ふたりは別段、文化祭の三日前だということも意識せず、いつもの調子を従えて部室を目指した。

 

 部室に入り、拡げたパイプ椅子に腰掛けたふたりは、それぞれの楽器の弦のメンテナンスに取りかかった。
 さすがにこの段階に入ると、真剣な顔の優鶴に気安く声をかけることは憚られる。
 これまで美咲が恒幸との対話権を独占していたぶん、世間話でもいいから、できるだけたくさん会話を交わした い――そう思う恒幸にとって、優鶴とふたりきりのときほどチャンスと呼ぶに相応しい時間はないというのに。
 気持ちをそわそわさせながら、しぶしぶ彼は無言のまま、ベースのチューニングを進めた。
 しばらく経ってから、部室に、三人目の関係者が現れた。
「おーっす」
 やにっこい低音。振り向いて声の主を確認せずとも、土肥だとわかる。
 結局は会釈をするために振り向いた恒幸と優鶴のふたりに、彼は、白く輝く歯を見せた。
 早速と言わんばかりに、並べられていたパイプ椅子を一脚手に取り、拡げて腰を下ろす。「おいしょっとぉ!」などと 勿体らしく発せられた掛け声が、否応なしに、彼の年齢を感じさせる。
「えーっと、遠方、秦野は出席……っと」
 出席簿を開いて、部員の出欠を取り始める土肥。
「柿本は出席拒否、と」
「なんでそうなるんですかっ」
「ああいやいや、冗談だ。冗談に決まってるだろ」
 笑い声まじりに、土肥がどこか楽しげに言う。彼は改めて、美咲の座っていないドラムセットを見やって、 ふたりに尋ねた。
「それで、柿本はどうした?」
「あ、はい。なんかその、説教垂れられてるらしいです」
 美咲が優鶴に伝え、優鶴が恒幸に伝えたことを、彼はリレー形式で土肥に伝える。
 すると、土肥は大袈裟に笑い声を上げて、
「はっはぁ! さては成績のことだな」
 と、説教を食らうことになった理由を、躊躇いもなく言い当てた。
 まだそうと決まったわでもないけれど、教師である土肥が同じような見当をつけたのなら、疑う余地がなくなるという ものだ。恒幸は、呆れ返った声で言った。
「おそらく……」
「一学期の中間、期末、それに今回の課題テスト……さすがにあれだな」
 出席簿を閉じて、表紙にペンを挟むと、土肥は顔つきを正して言った。
「Even the gentlest will lose his temper at last.」
 冷房の音だけが引きも切らず鳴り響いていた部室に、突如として響く、土肥の流暢なイングリッシュ。
 まさか授業以外の時間帯に飛び出すことはないだろうと思い込んでいた恒幸は、完全にあっけらかんとしていた。
「えーと……」
 イーブン、ぐらいしか聞き取れなかった彼が、目線を天井に頭を悩ませていると、
「仏の顔も三度、ですね」
 その横で、優鶴があっさりと翻訳してしまった。
「お見事、秦野」
 ぱちぱちぱちと手を鳴らしながら、土肥が優鶴を評価する。
 恒幸は、ただ自分に不可能だったことをやってのけた彼女に、心を打たれた。
「へぇ、凄いな。優鶴ちゃん」
「いえ、そんなことないですよ……」
 面映ゆさから、少しだけ顔を俯けた優鶴は、小声で言った。
「……というかまあ、秦野の言うとおり、ちゃんと英語を勉強していれば中学生でもわかるだろうがな」
 土肥は溜め息をついて、さっきのイングリッシュが初級レベルであったことを、それとなく告げた。
「そんな……俺の立場はっ」
「遠方、先輩として恥ずかしくないぐらいのアタマは持てよ」
「ふふふっ」
 土肥の言葉をもっともだというように笑う優鶴を、恒幸は今ほど憎らしく思ったことはない。
 思えば、どうして課題テストの英語では満点の一歩手前だった自分が、これほどまでに土肥の口から出た英語に しり込みする必要があるのだろう。九十九点という点数からすれば、部分的にでも和訳できて当然のはずなのに。
 少し考えて、彼は、自分にリスニングの才能が欠けていたことを思い出すのだった。
「というか、先生」
「うん?」
「部員のことだから、美咲ちゃんと優鶴ちゃんの成績ぐらいは把握してるんでしょ?」
 恒幸は気になって、土肥に訊いてみた。
 それが、天に向かって吐いた唾となることも想像せずに。
「柿本は確か……下から十人の中に入ってるはずだ」
「うぁー……」
 期待を悪い意味で裏切った美咲の成績に、恒幸は苦い顔をした。
「そこまで下だったなんて……私も初めて知りました」
 残念そうな顔で、優鶴もそんなことを言う。
 お互いのことを心の奥底まで理解し合っている仲でも、成績のことだけはお互いに内密にしておかなければいけない のだなと、恒幸は意外に思った。
「秦野の成績は……言っていいか?」
 美咲はこの場に居ないからいいとして、目の前に居る優鶴に、土肥は念のため確認を取る。
「あっ、はい」
「遠方も、言っていいか?」
 なぜか優鶴の成績を明かす許可を、恒幸にも求める土肥。
「えっ、ちょっ、それって……!」
 恒幸の制止に構わず、土肥は言った。
「文句なしのトップ賞だ」
「凄すぎるよ、優鶴ちゃんっ!」
 道理でさっきの土肥のイングリッシュがすらすらと和訳できたわけだ。
 恒幸は納得しつつ、優鶴の席次自体も称えた。
「そんな……私はただ、普通に勉強して、普通にテストを受けただけですよ」
 優鶴はそう言って、あくまで自分のアタマをひけらかさないという姿勢を立て切る。
「うっそぉ……」
 彼女の言葉を、恒幸は俄かに信じることができない。
 なぜなら、彼も優鶴と同じように、普通に勉強して、普通にテストを受けているから。
 自分と優鶴では、普通の基準が違いすぎるのだと、彼は思う。
「あー、授業をどれだけ寝倒したかでこれだけの差が出るということを理解しておけよ、遠方」
「……あい」
 土肥の言葉を否定することもできず、恒幸は、力なく頷いた。
 それからしばらく、恒幸と優鶴は、再び弦のメンテナンスに集中した。
 恒幸のベースは部室に置いてあるので、特に問題はないけれども、優鶴は体力づくりも兼ねてギターを家から学校 まで持ち運んでいるので、時たまに、移動中に弦が切れたりする。今日も、ケースから取り出してみたら切れていた という二弦を、彼女はせっせと張り替えている。
 ふたりの準備の様子を見ているだけでは飽きたのか、土肥は、恒幸のべースと並べて立てかけられていたギターを 持ってきた。優鶴が居ないときに、美咲と三人で“レイラ”を合わせたときに弾いたギターだ。
 椅子に腰掛けて足を組み、太腿の上に載せたギターを弾き始めた土肥を見て、
「あ…」
 優鶴がペグを巻く手を止め、ふいに声を漏らす。
「それ、フォンダーのストラトキャスターですね」
 美洲屋に居たときに引き続いて、優鶴はボディーを一瞥しただけで、メーカーとタイプを言い当ててしまう。
 恒幸が目を細めて、土肥の抱えているギターの、ペグが並んだヘッドの部分を見ると、確かに、“Fonder”と筆記体 のような文字で書かれているのが見えた。
 フォンダーといえば、ギターを弾かないひとでも、ギターのメーカーであることがわかるぐらいの知名度を持つメー カーだ。ギターという楽器の元祖でもあり、今なお世界中のギタリストの間でトップシェアを誇るフォンダーの音は、 一部のアンチを除いて、かなり受けがいい。確か、恒幸の家にインテリアとして飾られて終わったギターも、フォンダー 製だった気がする。
「ほう。今まで気づかなかったけど……それならピックアップが拾う音も納得だな」
 土肥は笑って、まだシールドも繋いでいない状態のギターを掻き鳴らす。もちろん、これだけではフォンダーの良さが わからないということは、彼も承知だ。張り替えられた弦は確か、フェルナンドス製のものだったはず。フォンダーの音 だと確認できるのは、シールドを繋ぎ、アンプと接続して、アンプのスピーカーから音を出したときなのだ。
「そのボディーだと、おそらくだいぶ昔のモデルだと思います」
 優鶴は、土肥のギターをまじまじと見つめながら言う。
「ああ、ビンテージってやつだな。五十年とか六十年ぐらいの……」
 ビンテージと聞いて、恒幸の頭に最初に浮かんだのは、なぜか円マーク。ビンテージの良さを、音ではなく値段の 高さで捕らえていた恒幸は、そう聞いた瞬間、心にもなく、これは高く売れるのではないかと思った。
 値段のことを言えば話の腰を折ってしまうとわかっていても、彼は、落ち着かない。
「それ、十万ぐらいしますかね」
「するだろうな」
 土肥はにやりと笑って、俄然、抱えていたギターを大切そうに扱い出す。
「いえ……確か、お兄ちゃんのお友達のひとが、それと同じようなギターを……十八万円ぐらいで買ってたような 気がします」
「十八っ!?」
 恒幸の頭を、円マークが埋め尽くす。一瞬だけ理性を失ったあとで、彼は土肥の抱えているギターが一度は軽音部 の活動を支えたことを思い出して、熱暴走を未然に防いだ。
「まさに、廃墟から宝ですね……」
「うちに軽音部がある限り、家宝として置いておきたいものだな」
 土肥はギターを立たせて、矯めつ眇めつボディーを観察する。部室の照明を受けて光るストラトキャスターのボディ は、やはり気高い。まとわりつく輝きの一つ一つが、フォンダーだとか、ビンテージだとか、十八万だとかいう言葉の 代わりになっているように、恒幸には思えた。
「秦野」
「あ、はい」
「ちょっくら、セッションっぽいのをやってみないか?」
 土肥は得意げに笑って、提案する。
「セッションですか……」
 二つ返事を避けて、優鶴は、張りに乏しい声で言った。
「どうした? 乗り気じゃないか?」
「あっ、いえ……セッションは、私もやったことがないんで、上手くできないかもって思っただけです」
 優鶴は苦笑して、答えた。
 そうだ、優鶴の演奏仲間といえば、美咲と、自分ぐらいのものだ。プロのギタリストがセッションに乗り気なのは、 スタジオを歩き回り、数知れぬギタリストとの競演を実現させているから。それに比べれば、優鶴はレパートリー を弾くことには慣れていても、いきなりセッションというのは不慣れじゃないかと、恒幸は思った。
「そんなに難しいのをやろうってわけじゃないから。お前らの演奏は割とメタル寄りだから、基本的なメタルの リフとかで、ちょっと合わせられたらな、と思ったんだが」
 土肥は優しい口調で、優鶴に誘いかける。
 なにしろ、今さっきフォンダーのギターだとわかったのだ。シールドを繋いだときにアンプから出る音を聴きたくて うずうずしているのだろうと、ふたりは忖度した。
「基本的なリフでしたら、ブルースとか、ロックンロールでも構いませんよ」
 優鶴はにっこり笑って、ペグを回す手を止めた。どうやら、切れていた弦の張り替えが終わったらしい。 じゃらーん、じゃらーんとコードを鳴らして、彼女はまたペグを回す。弦を張り替えたあとも、チューニングという 作業が残っている。だんだんと完全な形に近づけられていく優鶴のギターの弦を見て、恒幸は、なんだか病床に 臥していたひとが回復していくようだな、と思った。それを、優鶴の父親の姿に重ねながら。
「遠方はどうだ? 参加するか?」
「あぁいや。俺は外野に居ます」
 恒幸は、ベースを太腿の上に寝かせると、ふたりのセッションを見学する態勢を作った。
「そうか。じゃあちょっとやってみるか、秦野」
「はいっ」
 土肥と優鶴がそれぞれパイプ椅子から立ち上がって、シールドの一方の端子を各自のギターに、もう一方の端子を アンプに接続する。アンプのスイッチが入り、いつもの心地良いノイズが流れる。たまに、キーンと鼓膜をつつくような ノイズが立つこともあるけれど、それも含めて、演奏開始の合図のように思える。
 弦をストロークして、ドライブが強すぎると思ったのか、土肥は、アンプのツマミを弄る。ロック向けの鋭い歪みが、 角の取れた明るい音へと変身する。
「それじゃまぁ、ブルースでいっとくか」
「はい」
 軽音部の活動でブルースを聴くのは、恒幸も初めてだ。日本発祥でないこのジャンルを、優鶴と土肥のふたりは どう料理するのだろうかと、恒幸は期待に胸を膨らませる。
 ふたりが目を合わせたのち、土肥がBフラットメジャーのフレーズを弾く。それに乗り込むように、優鶴がぎゅいー ん、とピックスクラッチをして、ジャッカ、ジャッカ、ジャッカ、ジャッカ、という弾むようなリフが始まった。
 シャッフル・リズムだ。聴いたその瞬間に、体を左右に動かしてしまいたくなる。
 自然な表情と自然な体の動きでリズムをとる優鶴。足で床を踏み鳴らしながら、大振りにリズムをとる土肥。 その絶妙なタイミングを見ているうちに、恒幸の体も動き始める。
 先にソロを奏でたのは、土肥。優鶴のリフが低音を、土肥のソロが高音を出し、音の高低がダイナミックになる。 土肥の弾くフォンダーの音は、ぱっと聴きゴージャスな感じはしないけれども、垢抜けている。ピックアップに 音を拾われた瞬間、野暮ったさが取り払われているという感じだ。
 また、土肥の演奏がリフに戻る。ワンコーラスを過ぎて、お次は優鶴のソロだ。
 速い! 土肥のソロとは比べものにならないぐらい、運指がスムーズだ。まるでスウィープを弾いているような 彼女のソロは、形だけを取れば、ブルースには到底合うはずもない。それなのに、どういうわけか、彼女の速弾きは、 確実に土肥のリフの上に乗っかっている。テクニシャンの成せる技だと、恒幸は思った。
 ソロを終えて、またリフのみの演奏が続く。
 本当に、このふたりはセッションをやっているのだろうか。セッションなんて言いながら、実は土肥が曲の頭で 弾いたフレーズは、なにか有名な曲のフレーズで、それを察知した優鶴が合わせているのではないか。そう思ったけれ ど、以前優鶴もメタルやハードロック以外のジャンルはあまり聴かないと言っていたのを思い出して、恒幸は、 ふたりのセッションがドッキリではないということを悟った。
 ブルース特有の半音下降で、ふたりのセッションは幕を閉じた。
「すっげ! カッコ良すぎっすよ、ふたりとも!」
 手を打ち鳴らしながら、恒幸は、未だ自分が追いつけないほどの演奏をしてのけるふたりを評価する。
「やるな、秦野」
「えへへ、先生こそ」
 笑うふたりを見て、恒幸は、セッションというのは、特別なものだな、と思った。
 ふたりが協力してやる演奏とも言えないし、試合をするための演奏とも言えない。ただ、頭の中で自然に湧き出てくる フレーズやリフをインプロヴァイズする。その行為が、セッションをする人数分、倍増しているだけなのだ。
 演奏が終わったあとのふたりの言葉は、まるで試合をしていたかのようだったけど、演奏中は、まったくそんな 感覚がなかった。こういうのは音楽にしかないのかもしれないなと、彼は考えた。
「柿本が来たら、今度は四人でセッションやってみるか」
 土肥の提案が、エスカレートする。
「えっ、俺もやるんすか?」
 四人ということはもちろん、そういうことだろう。だけど、強引に誘われた気恥ずかしさから、恒幸は無意識の うちに、土肥にそう聞き質していた。
「当たり前だろう。部員なんだから」
 土肥の口からはもう何度も聞いている言葉だけど、どこか過剰に期待されている気がして、恒幸は、素直に 頷くことができないのだった。
「美咲ちゃん、遅いですね……」
 ふと、優鶴から、細い声が漏れる。
「そうだな……」
 恒幸と土肥のふたりも、気配すら漂わせない美咲のことを心配した。
 土肥が腕時計を見る。
「もう五時になるな。追試でもやらされてるんじゃないのか?」
「いえ、追試を受けるとは言ってませんでしたけど……」
 優鶴はそう証言したが、恒幸は、追試もありそうだと思った。
 以前、同じクラスの生徒が、職員室に呼び出され、その生徒は、職員室に行ってからペナルティを喰らったという話を 聞いたことがある。そのときのペナルティは、芸術棟の五階にある会議室の掃除。会議室というよりは、来賓のための 応接間と呼ぶべき場所で、閑古鳥が鳴くような部屋を掃除したってなんの意味もないだろう、とその生徒が愚痴を 零していたのは記憶に新しい。
 ペナルティというと、校則違反に対して課せられることがほとんどだ。成績の低迷に対しては、抜き打ちの追試も 考えられると、彼は考えた。
 土肥は長大息を漏らしたあと、お決まりの憮然たるポーズを取って言った。
「柿本の場合は性格も飛び抜けて明るいし、ドラムの腕もいいんだが……アタマがちょっと問題ありだからな」
「こんなとき同じ部員としては辛いっすよね……」
 苦笑しながら言う恒幸。
 次の瞬間、土肥はストラトキャスターのショルダーストラップを肩から外して、それをパイプ椅子の上に置くと、
「よっしゃ!」
 と声を張り上げた。
「またしても俺の出番か?」
「……えっ?」
 優鶴と恒幸のふたりは、土肥の言葉に目をぱちくりさせた。
 土肥が言おうとしていることはもちろん、優鶴が部活に姿を現さなかったあの日と同じこと。その才能溢れる(?)マ ルチプレイヤーのテクニックを駆使して、今度は美咲の代わりにドラムを叩くつもりだ。
 実に活動成心旺盛な人間だと思ったけれど、彼があくまで軽音部の顧問であるということと、彼に代わりを務めてもらった 優鶴の前例を踏まえて、恒幸は言った。
「いや先生、それだと後になって美咲ちゃんが申し訳なく思いますって」
「そうか?」
 どうやら土肥は、自分とは違うことを考えているらしい。おそらく、彼は美咲の図々しさを考慮して、代わりを務めても なんとも思われないものだと考えているのだろう。恒幸は、そう考えた。
「ほら、優鶴ちゃんも言ってたみたいに、先生に迷惑かけてしまうかもしれないって」
「実際かかってるんだから仕方ないだろ」
「……うっ」
 それもそうだ。
 でも、土肥が代打でギターを弾いたあの日、確かに美咲は、音合わせに気乗りがしないと言った。むろん、恒幸にも、 優鶴のギターと合わせるときと、土肥のギターと合わせるときの感覚のずれははっきりと感じられた。
 ならば、もしここで土肥がドラムを叩いて音合わせをしたところで、また違和感に苛まれるのではないか。文化祭 三日前ともなった今日、敢えて彼が美咲の代役を買って出るのは、時間の無駄にはならないだろうか。
 なんとかして美咲のためにドラムの席をキープしてやろうと思っていた恒幸を差し置いて、優鶴は言った。
「先生」
「どうした、秦野」
「美咲ちゃんは、本当にお説教されに行ってるんでしょうか?」
 彼女の声は、少しばかり震えていた。
 予想外の言葉に、恒幸ははっと息を呑んだ。
「そんなの俺に訊かれてもなあ……」
 困った顔で、土肥が優鶴に返す。
「もしかしたら……それは口実で、なにか悩みがあって出られなくなってしまったとか……」
「優鶴ちゃんっ」
 土肥が出席を取ったときの冗談が、瓢箪から駒になったような優鶴の言葉を、恒幸は素直に嚥下できず、声を上げた。
 美咲が悩み? そんなことは考えられない。
 いつだって彼女の心と口とは直線で繋がっていて、言いたいことをずけずけと言ってしまわないことには気が 済まない性格なのだ。そんな美咲が――恒幸と優鶴のふたりを、誰よりも信じているはずの彼女が、優鶴と同じように 無断で部活を欠席するはずがない。
 恒幸の心は、焦燥感の炎に取り囲まれた。
「それは心配しすぎだろう、秦野」
 土肥も、優鶴の言葉を揉み消すように、彼女に意見した。
「でも……」
 優鶴も優鶴で、ふたりの反論を認めることができない。
 居住まいを正して、土肥は、真面目な顔を提げて優鶴に言った。
「お前も、親友ならわかってるはずだろう……柿本が悩みを隠さない性格だということぐらい」
「そうだよ、優鶴ちゃん。仮に悩んでたとしても、たかだか成績のことぐらいだって」
「先輩……」
 三人の声が、徐々に、空調の動作音と、アンプのノイズの中へ消え入る。
 会話が途切れてしまった、まさにそのときだった。
 
 ――ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピッ。
 
 クレシェンドしていた救急車のサイレンが、突然、ふっと鳴りを静めた。
「……っ!」
「……停まったな」
「……みたいですね」
 三人は、袂を連ねて、消えたサイレンに意識を向けた。
 なんという、不吉なタイミングだ。いつもなら元気な顔を引っ提げて部活に臨む美咲が、今日はなかなか姿を現さない ということを話題に上せていた、この時間が選ばれるなんて。
 恒幸は、俄に動機が昂ぶるのを覚えた。美咲を運びに来たのではないようにと、心で願っていても。
「運動部員だろう。まだ残暑も厳しいから、熱中症で倒れた線だな」
 冷静な口調で、土肥が言う。
 恒幸は、その言葉に妙に落ち着かされる気がした。
「それか、ボールの当たり所が悪かったとか……」
 運動部員なら、そのあたりが考えうる事故だろう。
 文化部員でも、救急車の需要がまったくないわけではないはずだ。たとえば、料理部では、器具の取り扱いを 間違えば事故は起こるだろうし、科学研究部では、薬剤が発火したり、爆発したりする可能性も、無きにしも非ず だろう。
 それに、なにも部活に限ったことではなくて、それ以外にも、階段での転倒事故などが思い浮かぶ。
 想定されうる事故は、十指に余る。美咲が事故に巻き込まれたという確率は、そう考えても低いのだ。
 どうにかして、募る鼓動を抑えようとしていた恒幸に、優鶴は、戦慄いた声で言った。
「……私、嫌な予感がします」
「優鶴ちゃんっ!」
「美咲ちゃんにもしものことがあったら、私……っ!」
 優鶴は正直だ。彼女はいつでも、無意味な否定をしたり、持って回ったような言い方をしたりするようなことはしない。 ただ、目の前にある状況や、自分が思うことを、彼女は一片も枉げずに口に出す――そういう性格の持ち主なのだ。
 けれども、恒幸は違う。
 彼は、今だけは正直になりたくないと思った。
「優鶴ちゃん、物事をそんなに簡単に結び付けちゃだめだ!」
「そうだ、秦野」
 恒幸に同じく、不吉な予感を否定する立場で、土肥は言う。
「だいたい、柿本が運ばれる理由がどこにある?」
「でも……私は心配ですっ!」
 ショルダーストラップを外し、ギターをパイプ椅子の上に置くと、優鶴は、ふたりに背を向けて――スタジオルームを 飛び出した。
「優鶴ちゃんっ!!」
 ベースを手に持ったまま立ち上がった恒幸が、叫ぶ。しかし、優鶴は戻ってこない。
 空しく開け放された扉を見たまま、彼は立ち尽くした。
「そんな、ありえないっすよ……美咲ちゃんなんて」
 恒幸は項垂れた。
 気の重さに、ベースの重さが加わって、今にも床に崩れそうになるのを、彼は辛うじて堪える。
 恒幸の背中に、土肥は、鈍い声をかけた。
「遠方は……跡を追ってやらないのか?」
「っ……もちろん追いますよ!」
 持っていたベースを、パイプ椅子の上に置くと――土肥に見向きもせず、恒幸は、扉の開け放されたスタジオルームの出 入り口を、全速力で駆け抜けた。

 

 外の扉を抜け、辺りを見回す。何人かの生徒が、正門のほうへ走っていくのが見える。
 あっちか――正門の内側に停められた救急車の、赤く光る回転灯を視界に捕らえるや否や、恒幸は、再び走り出した。
 グラウンドから、校舎の窓から、たくさんの生徒や教師の顔が覗く。
(美咲ちゃんじゃありませんように、美咲ちゃんじゃありませんようにっ……!)
 何度も心の中で祈りの言葉を反芻させながら、彼は、遮二無二走った。
 渡り廊下が作る陰に煽られ、並木道の玄関を通り抜け、彼は正門前のスペースに到着した。野次馬の叢を強引に掻き分け ながら進む。人垣を抜け切った彼の目に、今まさにリアゲートが隊員の手によって閉められた救急車と、両膝を 地面について固まっている優鶴の姿が飛び込んだ。
「優鶴ちゃんっ!」
 衆人環視も意に介さず、恒幸は、優鶴の名を大声で呼ぶ。しかし、彼女は返事をしない。
 前に回って、彼女の顔を覗き込む。直後、恒幸の背筋が震えた。
 絶望的な表情――そう言っても、言い過ぎではない。
 目は大きく見開かれているものの、焦点が定まっていない。小刻みに震動する肩。不自然に持ち上げられたまま 硬直してしまった両手。
「そんな……どうして……」
 声は、涙でひどく掠れていた。
 居た堪れず、恒幸は救急車のほうへ走った。リアゲートの前で、彼は声を荒げた。
「開けてくださいっ!!」
 助手席に乗り込もうとしていた隊員が、彼のところへ駆け寄ってくる。
「悪いけど、一刻を争う事態だから今はできない」
「そんなっ!」
 反吐を吐き出すような調子で、恒幸が言う。
「友達が倒れてるかもしれないのにっ!!」
「……すまないね」
 隊員はヘルメットの下から申し訳なさそうな顔を覗かせて、しかし落ち着いた声で言った。
「君、車動かすからちょっと離れててくれないかな。危ないよ」
「……っくっ!」
 声にもならない声が漏れる。厳しい目つきで、恒幸は、隊員と救急車とを睨んだ。
 彼が車両から離れると、救急車は、ゆっくりと方向を変えながらバックを始めた。そして、正門の方向にフロントを 向けると、再びけたたましいサイレンを鳴らして走り去っていった。
 ざわざわと、取り巻いていた野次馬が喋り始める。それは恒幸にとっては、ノイズにしか聞こえない。
 野次馬たちが校舎の中へ、正門のほうへてんで散り散りに動いていくなかで、動くことすらままならない気持ちを 携えたふたりに、声が届いた。
「やっぱり……柿本だったのか」
 ふたりの跡を追ってこの場に辿り着いた土肥が、ただならぬ雰囲気を察して目を伏せる。
「どうして美咲ちゃんなの!?」
 直後、ヒステリーの域にまで達しそうな、優鶴の叫び声が響いた。
「私、わからないよ!!」
「優鶴ちゃん、落ち着いてっ」
「落ち着けるはずありませんっ!!」
 ――バシッ。
 肩に置かれた恒幸の手を粗暴に振り払って、優鶴は、涙雑じりの声を上げる。
「つ……っ!」
「秦野っ!」
 恒幸の手を払い除けた優鶴と、思わず手を引っ込めた恒幸とを見て土肥は叫んだ。
「どうしてこんなことになるんですか!?」
 彼にも勝る舌鋒と剣幕とで、優鶴は声の限り咆哮した。
「なんで……なんで美咲ちゃんじゃないといけないんですか!!?」
 危うく崩れそうになった優鶴の体を、咄嗟に、恒幸が抱き止める。彼の腕に顔をうずめて、優鶴はわあんと泣き出した。 その甲高い泣き声は、彼の肌を貫き、心臓にまで響いた。
 震えの止まらない優鶴の背中に、彼は手を当てる。焼け石に水だとわかっていても、彼は、優鶴を宥めたい一心だ。
「……遠方」
「……」
「秦野を連れて、一旦部室に戻るぞ。ここではちょっと都合が悪い……」
「はい……」

 

 絶望感に立ち上がるための力を奪われていた優鶴を背負い、恒幸は、土肥とともに部室へと戻ってきた。
 彼女が自然と座った姿勢になれるように、パイプ椅子の前でしゃがんで、ゆっくりと、彼女をそこに降ろす。するする と、彼女の腕が恒幸の肩から落ちる。どうにか、優鶴は椅子に腰掛けた。
 以前にも一度、優鶴を背負ったことはあった。だけど、前は造作なく運ぶことができた彼女を、今日運ぶのは 一苦労だった。それには、彼女の気の重さも関係しているのかもしれない。でも、むしろ、いちばんの原因となったのは、 自分が落胆しきってしまっていたことだと、恒幸は思った。
「……っく、ぐすっ……」
 優鶴のしゃくり上げる声と、空調の音だけが部室を支配する。三人がここに戻ってきたときには、すでに、 アンプのノイズは消えていた。土肥が、去り際にスイッチを切っていたのだろう。アンプのノイズの有無で状況が どう変わっていたのかは、恒幸にはわからない。しかし、この物悲しい空間に居ると、胸が息苦しくなってくるのだけは 確かだ。彼は、重々しい雰囲気を改めようとして、優鶴に声をかけた。
「落ち着いたか、優鶴ちゃん……」
「……はい……」
 しばらくぶりに、優鶴は、恒幸の呼びかけに反応した。
 目の前の光景に動揺を極めた優鶴の頭は、最悪の事態に対する疑問一色で塗り潰されていたのだろう。それゆえに、 自分や土肥の歩み寄りを拒絶したと考えれば、辻褄が合う。
 恒幸は、数分前の優鶴の心には露ほどの余裕もなかったということを悟った。
「すみません……っ、ずっ……でした、いきなり、大泣きしちゃって……」
 真っ赤に泣き腫らした顔を俯けたまま、優鶴は言う。
「いや、こんなことになっても平気でいられるほうがおかしいって」
 恒幸は、先刻の救急隊員の冷酷さへの陰口を兼ねた言葉で、優鶴にフォローを入れる。あのとき隊員が、もう少し 駆けつけた自分たちのことを考えてくれてたなら。リアゲートを開いて、自分たちが救急車に同乗することを許してくれて いたなら。美咲の顔を見ることもできただろうに。美咲の顔から――もし彼女が言葉を返せない状態だったとしても――彼女の 悩みを読み取ることができたかもしれないのに。
 悔しくて、恨めしくて……恒幸は、眉間に皺を寄せた。
「私……ひっく」
 涙を振るって、優鶴は話し始める。
「私、美咲ちゃんにどんなことがあっても……しっかりしてなくちゃいけないって……そう決めてたはずなのに……。美咲 ちゃん、いつも私のことを守ってくれてたから……もしなにかあったときに、ずっ……私が逆に、美咲ちゃんを守って、 あげなきゃ……っく……いけないのに……私、涙を流して見てることしか、できませんでした……。いえ、顔を上げて 見ることもできませんでした」
 優鶴と美咲が繋ぎ合っている、お互いの手。それは、お互いに助け合いながら歩んでいこうと彼女たちが約束した、 確かな証。
 繋ぎ合った手を通じて、ふたりはお互いに、相手のことを思い遣ってきた。
 決して詰り合うこともなく、罵り合うこともなく、憎み合うこともなく……。
 弱者となった一方を、もう一方が優しく包み込み、守ってきた。
 そんな理想的ともいえる関係にあった、美咲と優鶴。
 しかし、今回の事態で、守られるべき立場となった美咲を……優鶴は、守ってやることができなかった。
 揺らぐふたりの関係。これ以上距離が開いてしまっては、ふたりは、二度と手を繋ぐことができなくなるかもしれない。
「私……非力すぎますよね」
「そんなこと言ったら……俺も同じだよ」
 自分だってそうだ――恒幸は思った。
 美咲と手を繋ぎ、お互いに手を取り合って歩んでいこうと約束したはずなのに、彼女を守ってやることができなかった。 罪悪感と無力感を意識するたびに、美咲との距離が開いていく気がした。彼女から、自分がみるみる遠ざかっていく――そんな 錯覚を、彼は覚えた。
「いいえ、先輩は……」
 恒幸の言葉を真っ向から否定して、優鶴は言う。
「どうにかして、救急車に乗り込もうとしましたよね」
「……ああ」
「私には……そんなことする余裕も、なにもありませんでした……」
「……」
 恒幸は黙り込んだ。
 今の自分と優鶴を比べれば、優鶴のほうが、明らかに弱い立場にある。
 悩みの成すがままになった美咲と、非力さの成すがままになった優鶴。
 ふたりともを守りきれなかったと思うと、自分は今まで、なんのためにふたりの後輩に付き添っていたのか――そう 自問することしか、彼にはできなかった。
「私……失格ですよね。美咲ちゃんの友達として……」
「もう自分を責めるな、秦野!」
 突然、土肥の声が轟いた。
「……先生?」
 ぽかんとした顔で、優鶴が、土肥を見つめ返す。
 土肥は、厳しい表情を保ったまま、彼女に言った。
「たとえ柿本がああなった責任がお前にあったとしても……自分を責めたってなんにもならないだろ」
「……」
 優鶴にもわかっていた。自分を責めることが、相手のためにならないということは。
 だけど、ほかにどうすればいいのか、思いつかない。自分を責めることで、まとわりついて離れない罪悪感を 追い払うことができれば、それでいい。彼女は、そう考えていた。
 静かに、土肥は続ける。
「確かにお前が大事にしてる友達だ。あんなところを見たら混乱するだろう」
「……はい……」
「でも、もう一回冷静になって考えてみろ。自分を責めて相手に詫びるのが友達か?」
「……いいえ、違います」
「友達なら……誰が悪いとか、誰のせいでこうなったとか、そういうことで言い合う前に、どうしてこんなことになって しまったのか、考えてやる必要があるんじゃないのか?」
「はい……」
 優鶴は、顔を俯けたまま、土肥の質問に対して、気強い答えを出した。
 言い疲れたのか、土肥は溜め息をついて、間を置いてから、再び口を開いた。
「ふぅ……とにもかくにも、柿本がどうして運ばれたのかを突き止めなければな……」
「あの、先生」
「ん?」
 自分を呼んだ恒幸のほうに、土肥は顔を向ける。
「俺と優鶴ちゃんは、美咲ちゃんが運ばれた病院に行ってみます。そこでご両親に会えれば、美咲ちゃんが抱えてた 悩みとか、聞かせてもらえるかもしれないし……」
 優鶴や、自分以上に、美咲のことを理解できる人物――彼女の血族にあたる両親なら、なにかを知っているかもしれ ない。微かな望みの光に頼るべく、恒幸は、そう提案した。
「ああ、いいけど……この近くには急患が運び込まれる病院が、大きいので三つはあるはずだ」
「大丈夫っす。なんとか総当りしてみますから」
 今自分が行動を起こさなければ、美咲と優鶴を守れる者はいない。
 責任感に気負い立ちながら、恒幸は、明るくなった顔を土肥に向けた。
「無理はするなよ……。秦野の心もまだ、不安定だろうからな」
 目線を優鶴に移して、土肥は言う。
「私は……大丈夫です」
 恒幸に支えられ、優鶴は、覚束ない笑顔を作った。
「なにかあったら学校に連絡してこい。いいな」
「はいっ」

 

 土肥から伝えられた三つの病院のうち、ふたつは学校から歩いて行ける距離にある。
 学校の裏手、つまり北側に位置する、“椿第一病院”。かつては第三病院まであったが、経営困難のため統合され たという病院だが、医師の腕は悪くないらしい。
 もうひとつは、恒幸も通学の折に見かけたことがある、桜台駅界隈の“くまねこ病院”。名前だけを聞けば 動物病院のようだけど、開院した院長が、無類のパンダ好きであるためだと、土肥は語る。
 そして三つ目は、医療事業のほか、お年寄りの介護サービスなども手掛 ける、“夢のしま医院”。桜台駅まで歩いた あと、支線に乗り換えて、一つ目の駅の近くに建っているのだという。方角の上では美咲の家と同じだが、学校からの 距離だと、いちばん遠い。
 恒幸は、無難に、最も近い距離にある病院から訪ねてみることにした。
 あれだけ隊員が急いでいたのだ。わざわざ遠く離れた病院まで美咲を運ぶことはないだろう。彼は、そう目星を つけていた。
 学校の裏門を出て、歩くことおよそ十分。ふたりは、椿第一病院に到着した。この間、優鶴とは一言も言葉を 交わさなかったが、ふたりは、しっかりと手を繋ぎ合っていた。
 自動ドアを抜けて、ロビーへと入る。院内の照明は薄暗い。趣のある薄暗さというよりは、気持ちの沈む薄暗さだ。 それに比例するように、空気も重い。心と体のケアを図る病院の空気にしては、居心地が悪すぎる気がした。
 恒幸は優鶴に、待合スペースで待っておくように言った。彼女は頷く。
 平均年齢の高い患者たちの、湿っぽい視線の集中砲撃を受ける。彼は気にせず、受付の窓口に向かった。
 窓口で美咲のことを訊こうとして、彼は、急患の搬入があったかどうかを訊くほうが手っ取り早いことに気付く。 結局はその理由を尋ね返され、美咲の名を出したが――受付の女性は、恒幸に、十三時十一分以降急患の搬入が なかったという事実を告げた。
 お礼を言って、待合スペースに踵を回らせる。
 心配そうな顔で問いかける優鶴に、恒幸は首を横に振った。
 再び、正面玄関の自動ドアを抜ける。なに、選択肢がひとつ減っただけのことだ。まだ諦めてしまうには早すぎる。 気を取り直して、ふたりはもと来た方角へ進み、学校の東部にある桜台駅を目指す。
 道中、時刻を確認する。既に十七時半を回っていた。ここから桜台駅まで歩き、もしも、“くまねこ病院”に美咲が いないとすれば、さらに時間を割く必要がある。いずれにせよ、部活の日の帰宅時刻である十八時四十分は過ぎてしまう だろうと思って、恒幸は、優鶴に許可を取って、母親に電話した。そのあとで、優鶴も同じように、兄の雄慈に 連絡を入れた。
 椿第一病院を出発してから十五分、ふたりは、“くまねこ病院”に到着した。このふたつの病院を最短距離で結ぶ 国道の脇を、ふたりは歩いてきた。頭上には高速道路も通るこの道は、ちょうど、ふたつの病院と学校とで作られる 直角三角形の、斜辺にあたる。そのため、学校を経由するよりも、大幅に時間を短縮できたらしかった。
 正面玄関に入る。シャンデリアなどが飾り付けられた洋館風のロビーに、原寸大はあろうかという大きなパンダの ビニールマスコットが置かれている。その周りで、場を弁えずはしゃぐ子供たち。彼らは、母親の叱りつけに、まったく 聞く耳を持っていないように思える。
 今度は優鶴と手を繋いだまま、恒幸は受付を訪れた。担当の女性に尋ねると、ふたりは、番号札を持って ロビーで待っているように言われた。急患の有無を確かめにきただけなのに、患者と同じ扱いを受けてしまったことに、 ふたりはやきもきする。窓口の上に点灯する数字と、恒幸の持っている番号札の数字との差が、余計にふたりの 気を焦らせた。
 長すぎる時間を経て――再び窓口に向かったふたりは気落ちした。
 ここにも、美咲は運び込まれてきていない。
 となると……残る病院は“夢の洲医院”、ただひとつだ。
 最後の選択肢にすべての望みをかけ、ふたりは、暗澹に向かう空の下、くまねこ病院を後にした。
 桜台駅の改札に、優鶴は定期券を、恒幸は切符を通して、美洲線のホームに入る。“夢の洲医院”への支線は、優鶴の 通学路ではあっても、本線のみを使う恒幸には、馴染みのない路線だ。
 三分ばかりホームで待つと、アナウンスがあって、間もなく列車が到着した。支線の車両だけあって、二両編成と 短い。本線を運行する六両編成の普通列車や、八両編成の急行列車と比べると、かなりコンパクトだ。
 開いた扉を、ふたりは潜る。乗り合っている客も少ない。がらんと空いた座席の端に、ふたりは並んで腰掛ける。 ベルが鳴って、扉が閉まる。ゆっくりと、車両は動き出した。
 ふと恒幸は思った。
 もしも次に行く“夢の洲医院”にも美咲が居なかったら。
 彼女は土肥の予想とは違う、中規模以下の病院に運ばれていることになる。
 もちろん、そのことを、直ちに土肥にも報告しなければならない。そして今日はタイムアップとなって、明日改め て、土肥が美咲の両親から聞き出した病院に向かうことになるだろう。
 でも……果たしてそれで済まされるだろうか。
 自分たちが失うものは、今日という機会だけだろうか。
 今日という機会を失えば、同時に、美咲を失ってしまうことになるかもしれないという予感が、彼の心の中には 微かにあった。
 だけど、こんなことを、優鶴に面と向かい合っては言えない。言えば、それだけで今までの労力を棒に振ることに なって――三人の関係がバラバラになってしまう気がして。
 ただひたすら、“夢の洲医院”に美咲が居ることを、彼は願った。
 ほどなく列車は、桜台のひとつ北東の駅、久里原へと到着する。この駅の東改札口から五分ほど歩けば、目的の 病院に着くらしい。ホームへと降り立って、改札口を目指す。美洲方面は西側のホームなので、ふたりは一旦改札を 出て、踏切を渡ることで、駅の東側に出た。
 少し歩くと、ふたりの視界に、“夢の洲医院”の建物が映った。
 互いに顔を見合わせて頷くと、ふたりは自動ドアを抜けた。
 落ち着いた院内。過不足ない照明の光に、恒幸は、安堵感を覚える。派手すぎず、地味すぎない待合スペースの インテリアも、同様に彼を安心させたが、病棟に通じる通路の暗さと、すでに電源が切られたテレビは、その逆だった。
 これまでのように、受付の窓口で急患の有無について尋ねようとしたふたりに――声がかけられた。
「――優鶴ちゃん?」
 振り返ったふたりの目が、ひとりの女性看護士の姿を捕らえる。
「あっ……!」
「優鶴ちゃんね?」
「おばさんっ!」
 優鶴は、女性看護士のことをそう呼ぶなり、走って、彼女の胸の中に飛び込んだ。両腕で優鶴の細い肩をしっかり抱き 止めると、彼女は、瞼を落として言った。
「良かった……絶対来てくれると思ってた」
「もちろんです…っ!」
 看護士の制服にうずまって、曇ったように聞こえる優鶴の声。
 間違いない――恒幸は、看護士の女性の身元を見抜いた。
「そちらの方は……?」
 女性は恒幸に目をやって、訊いた。
「あ、俺……優鶴ちゃんの先輩で、三年の遠方っていいます」
「初めまして。私はここで看護士として働いてる、美咲の母の智恵です」
 恭しく頭を下げて、智恵は自己紹介をする。
「どうも……初めまして」
 恒幸も彼女に倣って、頭を下げた。
 美咲が看護士の母親を持っていたということを、彼はここに来て初めて知った。
 それと同時に、違和感も覚えた。智恵の顔に表れた優しさは、美咲よりもむしろ、彼女の腕の中に居る優鶴のそれ と瓜二つだ。美咲は父親似なのだろうかと、恒幸は思った。
 違和感の種は、それだけではない。智恵はどう見ても、高校生の娘を持つ母親には見えない。少し年を食ったひとの 目から見れば、もしかすると、女子大生に間違われることだってあるかもしれない。
 彼女から実年齢を聞き出す術はないが、ただ容姿を見る限りでは、若そうな女性だと思う。
 智恵は穏やかな笑顔を作って、恒幸に言った。
「優鶴ちゃんをここまで届けてもらって、本当に感謝するわ」
「いえ……病院に行きたいって言い出したの、俺のほうですから……」
 咄嗟に上辺を繕って、恒幸は返した。
 本当は、自分が最初にこう望んで、土肥に言葉をかけたわけではないのだ。あのとき自分は、美咲も優鶴も守って やれなかった気がして、なにも言えないぐらいに打ち沈んでいた。そんな調子で、では今から病院に行ってきます、 だなんて言い出せるはずがなかった。
 彼は、ゆくりなく助力を得て、それを決意したのだった。
「先輩……」
 智恵の胸にうずめていた顔を、優鶴は恒幸に向ける。とても、気遣わしげな表情だ。
「ううん、私にはわかる」
 智恵は、軽く首を横に振った。
「優鶴ちゃんが、行きたそうな顔をしてたんでしょ?」
 図星だった。
 そう、土肥が優鶴の自責を諌めたあと――確かに、彼女はせっつくような眼差しを、恒幸に向けた。彼女は目に物 言わせて、暗黙のうちに、美咲の運ばれた病院に行きたいという意志を、恒幸に伝えたのだ。
 どういう風の吹き回しなのか、優鶴に目で訴えられたとき、彼は理解できなかった。
 でも、優鶴が望むことなら、叶えてやらないわけにはいかない。理屈を考えている余裕なんて、あるはずがない。 そう思って、恒幸は、土肥にも、智恵にも、あたかも自分が発心したかのように言い繕ったのだった。
 しかし、土肥の目はごまかすことができても、優鶴のことを娘の美咲と同じぐらい理解しているであろう智恵には、 見透かされていたらしい。
 決まり悪くなって、苦笑しながら恒幸は言った。
「……あ、やっぱりわかっちゃいますか……」
「すみません、先輩……無理を言ってしまって」
 余計に気を遣わせてしまっていたことを、優鶴は、申し訳なさそうに詫びた。
「無理なんて……俺もその、美咲ちゃんのことが心配だったから、無理とかそれどころじゃなかったよ」
 目線を下げて、恒幸は言う。
 彼も優鶴も、美咲のことを案じてここを訪れたのだ。
 当初の目的を思い出して、優鶴は智恵の胸を離れ、弱々しい声で彼女に尋ねた。
「美咲ちゃん……いったいなにがあったんですか?」
 言われて、智恵は顔を歪ませる。彼女とて、軽々しく娘の身に起こった不幸について口火を切ることはできない。
 ふたりは、智恵の口からそれが語られるのを、息を詰めて待つ。
 竦ませていた肩を持ち上げて、智恵は、真っ直ぐにふたりの顔を見つめた。
「……私もね、まだ詳しいことは学校から聞けてないんだけど……」
 改めて呼吸を整える智恵。一段と険しい表情になって、彼女は言った。
「どうも、カッターで手首のあたりをばっさり切ってしまったみたいなの」
「ぇえっ!?」
「……っ!?」
 恒幸の吃驚の声が、ロビーに響き渡る。
 優鶴の顔も、途端に強張った。
 リストカットという言葉が、恒幸の脳裡に閃いた。
 古くは推理小説の中の、自殺に見せかけて密室殺人を行った犯人が、被害者の頭を浴槽に沈めて溺死させたのち、 カッターナイフでその手首を切り、傷をつけたほうの腕を浴槽に漬ける……というシチュエーションに見られる ものだった。
 しかし、若年層に親しまれるコミックにこのようなシーンが採り入れられることによって――リストカットは、 悩みに押し潰された若者の取る自殺手段として、具現化してしまった。
 特番で放送されていた内容をなぞるうちに、恒幸は、血の気がすうっと引いていくのを感じた。
「救急車に乗り込んできたときは、もうかなりの出血があったみたいで……」
 目を逸らせつつ、智恵は、声の調子を落とす。
 恒幸は、彼女の言葉を飲み込もうとして、「乗り込んできた」の部分を、咽喉に詰まらせた。
「……おばさん、あの救急車に乗ってらっしゃったんですか?」
「ええ……遠方くんが乗り込もうとしてくれてるのも見たわ」
 再び恒幸の顔を見て、智恵は言う。
「でも、美咲は完全に気を失ってて、早急に輸血手術が必要だってわかると……苦しいけど、母親の私としては、 搬送を急いでもらうように頼むしかなかったの……」
 なんということか。
 そこまで美咲が深刻な状態だったと、恒幸は、掻い暮れ疑わずに――ただ美咲の顔を見たいという一心で、 救急隊員に掣肘を加えていたのだ。
 彼の心配は、もしも彼の思い通りに、救急隊員が、彼と優鶴が乗り込むのを許し、救急車がしばらくの間学校の正門に 停まっていていたとしたら……裏目に出ていたかもしれない。かえって美咲の命の灯に、息を吹きかけるような 結果になっていたかもしれない。
 自分の取った行動の浅はかさを、彼は悔いるとともに反省した。
「すみません……なにもわからずに引き止めるような真似をしてしまって」
「ううん。美咲の命に別状はないようだから、遠方くんが気にするようなことじゃないわ」
 また首を軽く横に振って、智恵は言った。
「それに……美咲のために、顔も見たことないひとがあんなに必死になってくれてるなんて……それだけでも私、 涙が出そうだった」
「おばさん……」
 自分の判断は、必ずしも凶と出たわけではない。智恵にとっては――美咲を想う母親である彼女にとっては、 少なくとも、吉と出ていたのだ。
 嬉しいような、でも不届きなことをやってしまったような……複雑な心境に、恒幸は立たされた。
「優鶴ちゃんも同じよ」
「えっ……?」
 自分のほうに視線を移してきた智恵に、優鶴は一瞬どきっとした。
「あのとき、ひどく泣いてたでしょ?」
 彼女を咎めるには程遠い表情で、智恵は言う。
 あのとき智恵が救急車の中に乗っていたのであれば、彼女は面識のない恒幸の訴えるような姿だけでなく、 地面に膝をついてくずおれていた自分の悲嘆に暮れる姿をも見ていたことになる。
 優鶴は、智恵の言葉と、自分の本心の両方を受けて、顔を俯けた。
「その、ごめんなさい……」
「謝らなくていいの」
 優しさを絵にしたような顔を崩さずに、智恵は言う。
「あれで、十分美咲のことを心配してくれてる気持ちは伝わったから」
「私……ただ泣いてただけですよ? 先輩みたいに、救急車に近寄ることもできないで……」
 優鶴の声が、僅かに潤む。
 自分を責めてもなんにもならない。土肥は彼女に、確かにそう言った。それでも彼女は、自分が涙を流すことしか できなかったということを意識すると、せめて恒幸のように、救急車の傍らまで走ってやることぐらいはしなければ ならなかったはずなのにと、自分の非を咎めるのを禁じ得ない。
「でもね、優鶴ちゃん」
 膝を曲げ、十五センチほどの身長差を取り去った智恵の目が、優鶴の目と同じ高さになる。
 それは土肥の言葉にも似た、これ以上自責しないでほしいという、智恵自身のサインでもあり。
 自分が優鶴のことを咎めているのではなく、称えていることをわかってほしいと願う気持ちの表れでもあった。
「怖くなって、逃げ出したりはしなかったでしょ?」
「そんなこと……っ」
 嗚咽を上げながら、
「できるはずがありませんっ!」
 優鶴は再び、智恵の胸の中に顔をうずめた。
「それが、優鶴ちゃん……あなたが美咲のことを思い遣ってくれてる、なによりの証拠だと思うの」
「私……なにもっ……」
 本心を否定したいのに、否定できない。
 もどかしさから、優鶴は、瞳をかたく閉じる。
 縺れた心の糸を解くように、智恵は、優鶴の頭を撫で擦った。
「いいのよ、そんなに我慢しなくても」
「っく……わたしっ……!」
 言って、優鶴は啜り上げた。
「あなたにとって、美咲はかけがえのない存在……私とおんなじぐらい。こんなことになれば、哀しくないはずがないわ……」
「……わああぁぁんっ!!」
 感情の箍を外し――優鶴は、声を上げて泣いた。
 恒幸にとっては、初めて見る、心全体を使って泣く優鶴の姿。
 最悪の事態を目の当たりにしてしまった辛さ。
 守るべき友達を守れなかった腑甲斐無さ。
 改めて事実を知らされたときの悲しみ。
 最愛の友達のそばにいてやることができない寂しさ。
 そして、こんな事態を招いた元凶への、怒り。
 一つ一つの気持ちを偽ったり、匿ったりすることなく、原因となりうるすべての感情を露にして、今、優鶴は 泣いている。
「……」
 無性に切なくなって、恒幸は言葉も出せず、俯いた。
 もしも優鶴が言っていたように、美咲が悩みを抱えていたのなら。彼女はその悩みに抵抗するのに、どうしてこんな やり方をすることしかできなかったのだろうか。
 どうして打ち明けようとしなかったのか。
 そもそも、自分たちは、どうしてその悩みに気づいてやることができなかったのか。
 かつて恒幸は、人の心を読む能力があればなあと思ったことがあった。保健室の先生や、委員長の長束――彼女たち から図星を喫したとき、一瞬どきっとすることはあっても、彼はそのあとで、筆舌に尽くしがたい安堵の 意を得ることができた。それは、単に心の内側を見透かされてしまったことに対する恥ずかしさだけでなく、 自分を理解してくれているという感覚を同時にもつからなのだと、彼は思う。
 では仮に、自分がそういう力を持っていて、思うこと考えることを暖気にも出さない人間に図星だと言わせる ことができたなら、その人はあとになって安心してくれるだろうか。それは、彼にはわからない。
 だけど彼は、文化祭のライブのためにも、美咲と優鶴の心の内側ぐらいは覗けるようになろうと、努力した。 演奏のとき、音合わせよりも確かな、息を合わせるための指標が欲しくて。彼女たちの考えていることが わかれば、意識的に音を合わせる必要さえなくなるのではないかと思って。
 だから、このままじゃいけないな、と思っていた。
 でも、それは、ライブでへまをやらかしてしまいかねない、ということを危惧しての思い込みで……まさか、 人の心を読み取ることが苦手だという短所が、こんな事態にまで繋がってしまうなんて。
 もう少し自分が、人の立場に立って考えることを得意としていたなら。
 もう少し、人の心に入り込むための勇気があったなら。
 美咲も優鶴も、こんなことにはなっていなかったはずなのに……。
 結局は優鶴みたいに、自分が気を利かせてやれなかったことを嘆いたり後悔したり、責め問うたりしてしまうの だな――最後まで気持ちの強さを立て通すことができない自分を、彼は腹立たしく感じた。
 どれくらい、優鶴は泣いていただろう。その時間を知ることもできなければ、知りたいとも思わない。ただ、 ロビーの照明が半分消え、受付に居たひとが正面玄関のカーテンを閉めてしまったところからすると、外来患者の診察時間は 終わったのだな……ということだけは、なんとなくわかる。
 雨が沛然と降り、やがて人々の刺々しい気を宥めるように、弱まっていく。
 過ぎ去った夏のような天気を齎すそんな雲と、優鶴の目とが、重なって見える。彼女が啜ったり、しゃくり上げたり する程度まで落ち着いた機会を選んで、恒幸は口を開く。
「――あの、おばさん」
「なあに?」
 優鶴をぎゅっと腕の中に抱いた智恵が、顔を上げて恒幸を見る。
 ――そこでご両親に会えれば、美咲ちゃんが抱えてた悩みとか聞かせてもらえるかもしれないし……。
 自分の言葉を信じて、彼は言った。
「その……美咲ちゃん、なにかに悩んでるみたいなこと言ってませんでしたか?」
「悩み?」
「はい」
 少し時間を置いて、智恵は、僅かに首を左右に振った。
「ううん……あの子はそんなこと、一度も言ってなかった」
「そうですか……」
 恒幸は項垂れた。
 そうだ、ほんの少し前まで――いや、つい昨日まで、美咲は、見渡す限りブルーの青空のような笑顔を見せて くれていたのだ。そんな彼女に、悩みなんてあるはずがない。
 否定しようとしていた彼に、智恵は、
「あっ、でも……」
 と、なにかを思い出したような息差しで、待ったをかける。思いつめた感じの表情になって、彼女は言った。
「あの子が夜中に独り言を言ってるのを聞いたことがあるの」
「独り言、ですか……」
「うん」
 独り言。それは、公然と言いたくはないけれど、それとなく相手に伝わってほしいと願いながら発することば。
 悩みがあるとは言っていなくても、それに似たようなものがあるのは確かだ。
 躍起になって、恒幸は尋ねた。
「それってどんな……?」
「よくは覚えてないんだけどね……」
 記憶を呼び起こしているのか、それとも、ただ口に出して言うのを躊躇っているだけなのか。
 逸らした目と、俯けた顔とを元に戻して、智恵は言う。
「これで良かったんだよね。わたし間違ったことしてないよね……って」
「えっ?」
 恒幸はその言葉に、年度始めの事件の記憶をロードすることを強いられた。思い出したくはないものの、 非常に鮮烈な記憶なので、彼がそれを思い返すにはほとんど時間を要さなかった。
 あの場面を、頭の中で再び描画してみても、やはり信じることはできない。小柄で、ドラムを叩くところを 除けば女の子らしい美咲が、あの不良生徒たちを気絶させてしまうなんて。
 それに、彼女自身の口からも、不良たちのことを見ていないという証言が立った。
 それでもやはり……彼女が不良を気絶させたという可能性が完全になくなったわけでもない。彼女が嘘を ついている可能性だってあるのだ。
 不安な面持ちの恒幸に、智恵は言う。
「一度きりじゃなくて、何度も言ってたわ」
「それって、いつ頃から……?」
「確か、最初に聞いたのは、五月ぐらいだったと思う」
「……!」
 智恵の示した時期が、事件の時期と一致する。恒幸は、息を呑んだ。
「五月の、いつ頃ぐらいだったか覚えてますか?」
 彼の心の中で、焦りが募る。
 五月とわかっただけでも、美咲が仇を討ってくれた可能性が濃くなる。だけど、完全に納得できるように、 もう一押しが欲しい。智恵の口から、あと正確な日付が明示されれば、美咲に対する一切の疑念が晴れる。そして、 この疑いが晴れたなら――彼は、美咲のすべてを恕して、受け容れてやるつもりだ。
 答えが出るまで、そう遠くない。
 そう思っていた彼に、智恵は応えようとして、必死に記憶の糸を辿った。
「うーん……」
 しかし、しぱらくして彼女は、
「ごめんね……私も、そこまで細かいことは思い出せないの」
 と言って、顔を俯けてしまう。
 恒幸は慌てて、智恵に手を焼かせてしまっていたことを謝った。
「いえ……俺のほうこそすみません。しょうもないこと聞いちゃって……」
「ううん。思い出せたら、少しは役に立てたかもしれないのにね……」
 残念そうな顔をする智恵。
 恒幸も、顔を下向けた。智恵に失った記憶を探らせるということは、無謀だとわかっている。でも、彼はそこから 導き出されるであろう答えをよすがとしている。それだけに、残り多い気持ちは、彼も同じだったのだから。
 少しの間、会話が途切れる。ややあって、智恵が話し始めた。
「――私、美咲のお母さんなのに、よくお母さんらしいことをしてあげられてないな……って思うことがあってね」
 子を思う母親の目。
 美咲と同じひとりっ子である恒幸も、これほどまでに愛情の込められた目つきを、自分の母親に見たためしはない。 神様のようなオーラさえ放つ智恵に心を奪われたまま、恒幸は、彼女の話に傾聴した。
「もちろん美咲は私のこともお父さんのことも大好きで、私たちに分け隔てなく接してくれる子なんだけど……お父さんが ね、ちょっと我がままなところがあるの」
 聞いて、やっぱり美咲は父親似だったのかと、恒幸は思った。
「それで私が美咲のことを気遣ったつもりで言葉をかけても、お父さんに違うって言われてしまうことがよくあってね。 一家の大黒柱が言うことだからって、私も美咲も、どうしても最後にはお父さんの決め付けに折れてしまうの。
 だから私は、親として美咲にしてやらなきゃいけないアドバイスを的確に出せていないんじゃないかって、そう 思うことがよくあったわ……」
 智恵の表情に、翳りが差す。
 けれども彼女は、物憂さの重圧に負けじと、閉じかかった瞼を持ち上げた。
「でも美咲は、そんな私を見て、どんまいお母さん、っていつも笑ってくれる。私はそれがすごく嬉しくて……。だから、 お父さんにもめげずに自分の、お母さんとしての意見を言ってあげることができたと思うの」
 そこまで言って、再び、智恵の瞼が下がる。
「でも……結局美咲はお父さんのいうことばかりを聞いて育った子だから、私は自分の意見には自信が持てないまま で……」
 そして、彼女の話は、今日の事態へと合流した。
「もしかしたら、今度のことも、私の言うことを聞いてしまったばっかりに……」
「……えっ?」
 自分に非があることを半ば認めている智恵に、恒幸は、我に返ると同時に驚いた。
「少し前にね、美咲が私に相談をしてきたの」
 これまでにない、深刻そうな顔つき。
 いつの間にか涙を止めていた優鶴も顔を上げて、智恵の顔を見る。
 そして、智恵の口から――ふたりが気に留めていた美咲の“悩み”が、ようやく語られた。
「もしかしたら、わたし学園祭でドラム叩けなくなるかもしれない、って……」
「えっ、なんで!?」
 恒幸は、無意識のうちに声を張り上げていた。
 彼の脳裡を最初によぎったのは、美咲の成績。土肥は彼女の席次について、下から十番以内だと言った。それで 追試を受けるなり補習が課されるなり……最悪の場合、部活の制限が言い渡されるなりしたら、文化祭のライブも 危ぶまれるだろう。
 でも、たったそれだけのことで、そう悩むことはあっても、手首を切ってしまうようなことまで、普通するだろうか。 確かに、恒幸は、美咲から、どこか普通でない印象を受けていた。だけど、それが今日の一件を引き起こすほどの ものだとは思えない。成績なんて、文化祭が終わってから挽回しようと努力すればいいのだ。彼女はまだ、一年生 なのだから。
 次に脳裡をよぎったものを、恒幸は、頭から追い払った。
 ところがそれを――智恵が引き戻す。
「美咲はね……入学したてのときに犯してしまった罪を、今までずっと、ほかのひとに言わないまま隠してたらしいの」
「罪?」
 純粋無垢に見えた美咲からは、想像もつかない単語。
 その単語が意味するところを、智恵は、険しい顔つきで口にした。
「そう、あの子……二年生の先輩を殴ってしまった、って」
「……っ!!」
 恒幸の心臓の鼓動が、脈が、一気に跳ね返るような勢いで打った。
 与えられなかった記憶が、埋められた。
 あの日、保健室で意識を取り戻した自分の傍らで気絶していた不良生徒、藤波と間渕は、美咲が仇討ちのために 殴り倒したとみて、間違いない。
 そして美咲はおそらく、自分がそのようなことをする生徒……いや、女の子だと知られたくないと思って、変な生徒 だと思わないでという、あの約束を、何度も確認させてきたのだろう。
 それがてっきりドラムのことだと思い込んでいた恒幸は、その陰にあった本当の理由に、やっと今、気付いたのだった。
 智恵は、僅かに肩を震わせる。
「それが未だに生徒指導部には知られてなくて……もしも知られるようなことがあったら、自分は停学処分になって 学園祭のステージには出られなくなるんじゃないかって……」
「そんなっ、黙ってればわからなかったはずじゃ!?」
 恒幸の声が、ロビーの空気を揺るがす。
 ――美咲は、素直じゃなかった●●●●●●●●女の子だ。 だからそれを悔いて、反省して、高校生になってからは素直になろう●●●●●●と、臍 を固めた。だからといって、どうしてこんな時期にまでその態度を持ち込む必要があるのか。ライヴのためなら、 ちよっとぐらい素直じゃない●●●●●●態度を取っても 良かったんじゃないか。
 苛立つ彼に、智恵は言う。
「うん。私も美咲にそう言ったわ。もうすぐなんだから、打ち明けるのは学園祭が終わってからにしなさい、って」
「じゃあどうして美咲ちゃんはあんな!」
「美咲は自分が悩んでるなんて、確かに口に出しては言わなかった……でも、心の奥底では、毎日のように 悩んでたと思うの」
 心苦しさにひどく顔を歪めながら、彼女は言った。
「だから、耐えられなかったんだと思う……これ以上、嘘をつき続けることが」
「嘘なんてついて……なんになるんだよ」
「遠方くん……?」
 智恵でもない。優鶴でもない。現実に見えるものでもないようななにかに焦点を合わせる恒幸の、煮え返った表情に、 智恵は気を呑まれる。
「どうしてちゃんと言ってくれなかったんだよ、美咲ちゃんっ!?」
 膝に手をついて、くずおれる上体を支えながら、恒幸は、目の前に居ない、愚かな後輩に向かって叫んだ。
「……」
「先輩……」
 智恵も優鶴も、思うところは、彼と同じだ。
 嘘を見抜けなかった自分たちも悪いけれど、嘘をつき続けていた美咲も悪い。
 素直になることを目標としていた●●●●●●●●●●●●●●●美咲が、 もう少し素直であったなら●●●●●●●●●●●●、早いうちに この問題は解決できていたかもしれないというのに。
 後悔だけが、三人の心を支配する。美咲の嘘さえ最初からなければという、どうにもならない後悔が……。
 重たい口を開いて、恒幸は話し始めた。
「俺、美咲ちゃんに助けられたんです」
「えっ……?」
 智恵が、不意に顔を上げる。今なお、恒幸の目線は定まっていない。
 彼は年度始めの事件をフラッシュバックさせながら、穏やかな口調で言った。
「その二年の生徒に絡まれてたところを……いや、こてんぱんにぶちのめされてたところを」
「……!」
 智恵の表情が凍り付く。
 それを確認しないまま、恒幸は続けた。
「そのとき意識をなくして倒れてた俺を介抱してくれたのが、美咲ちゃんでした」
「美咲が、そんなことを……?」
「はい」
 智恵の言葉を受けて、恒幸は思った。
 美咲は、一緒に楽しく活動することのできる先輩に巡り合えたことを、端から智恵に伝えていなかったか、もし 伝えていたとしても、年度始めの事件については、自分だけがかかずらっていたかのように打ち明けたのだろう。 そうすることで、彼女は少しでも、恒幸に迷惑がかからないように配慮したのだ。
 腕に抱き締めていた少女を見つめて、智恵は言った。
「優鶴ちゃんしか信じてなかったあの子が……」
 恒幸は、伏せていた上体を起こした。
「あのとき、美咲ちゃんは迷ったと思うんです。俺に暴力を振るってきた二年の生徒に、同じ苦しみを与えてやろう かって。もちろん美咲ちゃんは倒れてた俺のことを知らなかったから、本当に優鶴ちゃん以外のひとを信じてない んなら、大袈裟な演技かなにかだろうと思って、取り合わなかったばすです。でも、美咲ちゃんは二年の奴らを 殴った……その瞬間から、俺のことを理解して、信じようとしてくれたんです」
「……」
 言われて、智恵は、返す言葉を失った。
「罪を犯したとはいえ……見ず知らずの人間で、しかもふたつ上の先輩の俺を、美咲ちゃんは信じることができた。 だから、あんなに必死になって俺を保健室まで運んでくれたり、一緒に部活頑張ろうって言ってくれたり、デートして くれたり、優鶴ちゃんと俺の間を取り持ってくれたり……いろいろ尽力してくれたと思うんです」
 今なら、美咲の積極的すぎるほどの態度が、単に彼女の我がままな性格によるものではないと証明できる。
 恒幸は、豁然とした顔で言った。
「美咲ちゃんはほかの誰よりも偉い女の子で……小さな勇気を振り絞って、いつも大きなことにチャレンジして……。 俺も、今までに何回も励まされました」
「うん……」
「去年まで無気力に過ごしてた俺の生活を楽しくしてくれたのも、美咲ちゃんなんです!」
 瞳を大きく見開いて、恒幸は声高に言った。
 美咲が居なかったら――彼女と巡り合えていなかったら、自分はどうなっていただろう。
 彼女は自分にとって、いったいどういう存在なのか。
 美咲は、彼の人柄や心の持ち方、生活を良い方向に持っていくために、強引に彼に代わって舵を取り、夢というものに 向かって進むことの楽しさを教えてくれた――それこそ、幸せを運んでくる天使のような、はたまた、喜びを操る 魔法使いのような――てるてる坊主のような。
 一緒に居るだけで楽しさを感じることができる、かけがえのない存在だ。それはたぶん、目の前に居る優鶴にとっても、 智恵にとっても同じことだろう。彼は、思いつめた目つきで、ふたりを見た。
「だから……」
「ごめんね、遠方くん……」
 逡巡ののち、智恵は彼に、お詫びの言葉をかけた。
「どうして……おばさんは謝らなくても……」
 智恵はうちばに首を横に振って、静かに言った。
「ううん、私がもうちょっとしっかりしてたら……ちゃんとお父さんにもこのことを伝えられてたら、こんなことには ならなかったのに……」
「おばさん……」
「……美咲の目が覚めたら、言っておいてほしいの」
 恒幸の目を真っ直ぐに見つめて、智恵は言う。
「最後まで気付いてあげられなくて、本当にごめんね、って……」

 

【2】

 翌日の昼休み。
 恒幸と優鶴のふたりは、校内放送の呼び出しを受けて、職員室を訪れた。
 ふたりを呼び出したのはほかでもなく、土肥だ。きっと、昨日別れたあとで彼が独自に調べて知り得たことを伝えるためな のだろう。美咲の身になにが起こったのかは、あらかた彼女の母である智恵から聞いていた。けれど、この場に来て 初めて聞かされることもあるかもしれない。
 不穏な気持ちを携えたまま、恒幸は、職員室のドアを引き開けた。
「失礼しまーす」
 そう頻繁にはないであろう男女ペアの訪問に、何人かの教師が顔を向ける。しかし、あまり興味を持たなかったのか、 ふたりを見遣った教師は、すぐに机上に視線を戻してしまう。
 恒幸が完全に職員室の中に入り込むと、優鶴も、小さな声で失礼しますと言って頭を下げた。
 教師の座る席は、入り口側から窓側に向かって、一年生の担任、二年生の担任、三年生の担任という順番に並んでいる。 三年D組の担任を務める土肥の席は、窓のすぐそばだ。
 教材やプリント、ノートを抱えて慌ただしそうに歩き回る教師たちの間を縫って、ふたりは土肥の席を目指す。途中で ふたりの気配に気付いた土肥が、俯けていた顔をおもむろに持ち上げる。
「おう、来たか」
 萎びた声。顔の様子も、暗くもなければ、明るくもない。良くも悪くも、教師らしい体裁だ。
 あれほど部員たちの活動を見て心を躍らせていた土肥と比べると、別人のように見える。
 椅子を九十度ほど回転させて、彼はデスクの傍らまで辿り着いたふたりに、体ごと向き直る。そして、目と目を合わせて、 落ち着いた口調で話し始めた。
「今日お前らを呼んだのは言うまでもない。昨日の柿本のことについてだ」
「……はい」
 ふたりは頷いて、全神経を土肥の話に集中させる。
 土肥も、表情に少しの変化も持たせずに言った。
「柿本の所属する一年B組と、保健室をあたってわかった話だが、あいつは昨日……同じクラスのやつにカッターを 借りて、それで自分の手首を切ってしまったらしい」
 土肥の話と、智恵の話とが、符節を合する。
 とりあえず、美咲が運ばれた原因を疑う余地はなくなったようだ。可能ならば認めたくはないけれど、恒幸も、 優鶴も、もはや首を縦に振らざるを得ない状況下に置かれていた。
「美咲ちゃんのお母さんに、病院で会って聞きました」
「そうか……」
 土肥が、ふたりから僅かに目を逸らす。
 二度目に聞くことだったけれど、二度目で良かったとも、恒幸は思う。もしここでこのことを初めて聞かされていた なら、大声を上げて驚いて、職員室全体を騒然とさせてしまうだろうから。
 再びふたりと目を合わせて、土肥は話を続ける。
「それで柿本は、トイレでドアを押し開けて倒れたのを発見されて、居合わせた女子に保健室まで運ばれたんだそうだ」
「トイレで……倒れた?」
「ああ。おそらく、すごい混乱してたんだろう。それで鍵をかけるだけの余裕が無かったと考えれば、筋が通る」
「手首を切って……そのショックで……」
「……そうだろうな」
 恒幸は、美咲の立場になって考えてみた。混乱した自分の手には、クラスメイトから借りた、一本のカッターナイフ。 それをなんのために使うのかを知られないように、ポケットに手ごとカッターナイフを忍ばせて、教室を飛び出す。 廊下を走る。人目につかない場所なら、どこだっていい――そう思っていた自分は、偶然横目に見た、人の居ない トイレに駆け込む。ドアを閉める。ポケットからカッターナイフを取り出し、刃を出す。傷をつけようとしている 手首と、カッターナイフの刃先とを交互に見て、ぎゅっと目をつぶる。そして、折れそうなほど歯を食いしばって……。
 当たり前のように、ドアの鍵を閉める余裕なんて無かった。
「柿本を運んだ生徒が言うには、それほど傷口はひどいものじゃなかったらしい。でも出血がひどかったから、 慌てて自分のハンカチを使って止血したそうだ。制服の袖口まで真っ赤だったらしいからな……」
 倒れた後の美咲について、土肥はそう説明した。
 一年生の廊下にあるトイレで彼女を発見し、応急処置を施したのは、余程のことがない限り、一年の生徒だ。 そう考えたところで、恒幸はふと、夏の日の海岸で美咲と優鶴が打ち明けた事件を思い出した。
 自分の知らない時期……たぶん、四月のことなのだろう。その頃に、優鶴は同級生の嫌がらせを受け、持っていた ペン助の縫い包みを切り裂かれてしまった。つまり、彼女たちの同級生のうち、同じ中学校から進級してきた 生徒は、かなりの確率で、幸せを独占したふたりに憎悪を抱いているはずなのだ。
 にもかかわらず、事が起こったときに居合わせた女子は、美咲の結末をざまあ味噌漬けと嘲るのではなく、慌てて 傷口の止血を行った。
 きっと美咲は、違う中学校から入学してきた生徒か、卒業式の出来事にマイナスの見解を持っていない生徒に、 偶然助けられることになったのだろうと、彼は思う。
「その子……お礼を言っとかなくちゃいけませんね」
 ただただ胸を撫で下ろして、恒幸は言った。
「そうだな……」
 土肥も頷く。
 少し間を置いたあとで、彼は、表情を一段と険しくして、口を開いた。
「……それで、今から言うこと、お前らには心を入れ替えて聞いてほしい」
「はい……」
 恒幸と優鶴が、同時に返事をする。
 これからなにを説明されるのかを、ふたりは心得ている。
 正直に言えば、二度も聞きたくはない。だけど、美咲が抱えていた“悩み”を完全な形で理解するためには、致し方ない ことだと割り切って、素直に受け容れるしかない。
 張り詰めた面持ちで、ふたりは、土肥の言葉を待ち構えた。
「柿本は、手首を切る前……つまり、成績のことで説教を受けに行ってるんじゃないかと俺らが思い込んでいたときに、 生指で注意を受けていたそうだ。なんでも、今年度の始めに暴力沙汰を起こしてしまったことを、今までずっと 隠してたらしくてな……。俺もまさか、柿本がそんなことをするような生徒とは思えない」
「……」
「でも柿本は……正直な顔をして白状したそうだ」
「…………二年の、あいつらが告げ口したんですよね」
「……!」
「遠方、お前……どうしてそれを!?」
 彼が言い当てたことは、それをいきなり口にしようとはしなかった土肥を驚かせただけでなく、まさかそうとは思って いなかった優鶴の表情をも強張らせた。
「美咲ちゃんは、自分からそんなことを言ったりなんかしない……。だからこそ、実際今までなんともなくやってこれた んです」
 恒幸には、痛いほどわかっていた。美咲が、抱え持つ悩みに、そう簡単に潰されてしまうような人間ではないという ことが。なぜなら、悩みを堪えられるだけの意志を、彼女はふたつ●●●持って いるから。
 中学生のとき素直じゃなかった●●●●●●●●性格を呼び起こして、 文化祭が終わるまで嘘をつき通そうとする意志と、今素直になろうとしている●●●●●●●●●●●性格 を活かして、恒幸と優鶴を含めて三人で居られる時間を大切にしようとする意志。
 ある意味、美咲は、その性格が成長の過渡期にあったからこそ、今まで平穏無事な生活を送ることがてきていたの だろう。彼は、そう考えていた。
「お母さんも言ってました……。今は文化祭のライブをやることだけを考えて、苦しいかもしれないけど、文化祭が 終わってから言うようにしてくれ……って」
「お母さん……って、柿本のお母さんか?」
「はい。真剣に悩んでた自分への言葉だったから、美咲ちゃんもそれを信じて、もう少しだけ我慢しよう、って 思ったはずです」
「……なるほど」
 土肥は片肘をデスクに載せ、頬杖をしてしばらく黙り込んだ。
 そして、一旦手から顔を離すと、支えになっていた手を裏返して、手の甲を上に向けた。その指の第三関節に軽く 頬を当て直して、彼は、再び口を開く。
「――最初は生指も、あの二人組の告げ口だったから、聞く耳を持たなかったそうだ」
「……」
「普段から嘘をついてるようなやつは、本当にそういう緊急事態になったときに、誰の助けも借りることができない。 あのふたりも同じことだ。いつも悪さをやってるから、告げ口をしてもどうせ相手を陥れるための手管だと思われて、 自業自得を見るのが関の山だろう」
 また少し間を置いて――真剣を極める目つきで、土肥は言った。
「でも今度のあいつらは違う……。柿本と同じ、一年の女子をバックにつけてたんだ」
「……!」
 まさに、美咲と優鶴の同級生の中には敵と味方が同居している、ということを信じさせるという言葉だった。
 出血のショックで気を失って倒れた美咲を介抱した生徒も居れば、彼女をここまで追いつめた生徒も居る。感受性 や好みのギャップでは説明のつかない行動の違いに、恒幸は、言いようのない腹立たしさを覚えた。
「もちろん、今朝あいつらが女子とつるんでるところを俺が盗み聞きした話だ。告げ口するタイミングを窺ってた なんて言ったら、自分たちのほうが悪者にされてしまうのは火を見るより明らかだからな」
 土肥の話を総括して、恒幸は、不良二人組が気絶したのちに取った行動の全貌を把握した。
 美咲に殴られ気絶した藤波と間渕は、意識を取り戻したあと、すぐにこのことを生指に告げ口しようとした。そんな 彼らに同じく美咲を恨む一年生の一部の女子が、彼らに加担した。彼女たちは、美咲に復讐するという二人組の 意志を汲んで、どうせ復讐するなら、もっと派手にやったほうがいいと入れ知恵し、告げ口を、文化祭直前まで 先送りさせた。
 そして、今になってから二人組が告げ口をしたことによって――復讐組の目論見どおり、美咲の夢は潰えた。
「最低ですよ……美咲ちゃんの気持ちもなにもわからないで、ただ自分たちの復讐のためだけに美咲ちゃんの夢まで 壊してしまうなんて……」
 悵然とした顔で、恒幸は、声と肩とを震わせる。
「そうか……柿本は、文化祭でライブをやるのを夢にまで思ってたんだな……」
 気付いた時期の遅さを悔いるように、土肥は、声の調子を落とす。
「先生……ライブは、もう……」
「ん……校長先生からも、正式に中止の決断が下った」
「そんな…っ!」
 ライヴの取りやめ。
 それは、美咲の夢が潰えたことを意味するばかりではなく――恒幸の目標と、優鶴の願い、そして土肥の期待が、 いちどきに消えてしまったということを意味している。
「六月の入部から、ほとんどの時間を練習にかけてきたお前らにとっては、素直に聞けるようなことじゃないだろう……。 でも、柿本がああなってしまった以上、ライブは不可能だ」
「……くっ」
 歯痒さから、恒幸が牙を鳴らす。
 土肥は感情を抑えたまま、冷静な口調で続けた。
「怪我だけならまだ治ることはあっても……生指からも、来月の十五日まで、一ヶ月の停学が言い渡されてるからな」
 確かに美咲は、二重の障害に行く手を阻まれている。そのうえ、タイムリミットも残りわずか二日だ。常識で考えれば、 ライヴを諦めるほかに選ぶ道はないだろう。
 だけど恒幸は、こんなときに、常識ではこうだから、なんて言って妥協したくない。
 美咲自身が、素直じゃなかった●●●●●●●●性格を逆手に 取って今まで何事もなく過ごしてきたように……今だけは、彼女のかつての性格を範として、最後の最後まで、ライヴを 実現させる意志を貫徹したい。
 夢が――たくさんの人間の想いが馳せられたライヴを、おいそれと手離すわけにはいかないのだ。
 睨むように力強い目つきを、彼は土肥に向けた。
「このまま引き下がることなんて、俺にはできません」
「先輩……」
 心配そうな、でも恒幸と同じように諦め切れない顔をして、優鶴は彼を見守る。
 両手を太腿に、両腕で菱形を描くような姿勢になって、土肥は言った。
「そうは言っても遠方、柿本の停学を解いてやるためには、あのふたりが故意にこの時期を狙って告げ口したということ を、お前が暴かないといけないんだぞ」
「……わかってます」
「もちろん、あいつらは自分で自分の非を認めるような真似はしないだろう。あいつらにとって悪いのは、自分たちを 殴った柿本のほうで……告げ口自体が間違ってるなんて思うつもりは、毛頭ないだろうからな」
「俺は……なんとしてでも、美咲ちゃんの気持ちを証明したい」
「そのためにはあいつらと裁判ばりの言い合いをすることになるかもしれないし、そもそも柿本が今は居ないんだ……。 明後日のライブには間に合うはずがない」
「それでもっ……俺は煮え切らないんです!」
 土肥のまだるっこい態度に、恒幸は、声を大にして言った。
 何事かと、近くに居た教師や生徒がこちらを振り向く。構わず、恒幸は、土肥の目だけを見つめる。
 ややあって、土肥は、臨戦態勢を一度崩して、鈍い声色で言った。
「これからどうするつもりだ……遠方?」
「……突破口は、どこかにあるはずです」
 次に取るべき案があるのなら、こんなに思い迷ったりなんてしない。
 自分たちに残された時間は、あと二日。だけど、裏を返せば、まだ二日あるのだ。美咲の夢を叶えてやるための 猶予は。
 彼女の夢をふいにするわけにはいかない。
 そして、自分と優鶴の夢も叶えたい。
 弥が上にも輝きを放つ恒幸の双眸を見て、土肥は言った。
「……俺も、なにか考えてみよう」
「先生っ…」
「お前らの顧問なんだ。部員のお前らだけに問題を解決する責任を負わせるわけにはいかないだろう」
「先生っ!」
 そのとき、今まで会話に入り込まなかった優鶴が、土肥の言葉に反応するように、声を上げた。
「本当のことを仰ってくださいっ……! 先生は、美咲ちゃんのことを心配して、そう仰ってくださってるんですよね?」
「優鶴ちゃん……」
 美咲のために行動を起こせたらと思っているのは、なにも恒幸だけではない。
 優鶴だって同じなのだ。
 切羽詰まった調子で問い質した優鶴に、土肥は向き直って、口を開く。
「当たり前だろう、秦野」
 そして、彼女の手をそっと握って、言った。
「お前も、遠方も……柿本も、軽音部の部員である前に、俺の大事な生徒なんだからな……」

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