第9章 Rejoindre - ふたりのもとへ
Elle résout de soi-même son tourment et rejoint deux amis.

 

【1】

 グラウンド一面を埋め尽くす黒。ひとつまたひとつ、形になっていく、模擬店の骨組み。
 窓から身を乗り出せば、煩わしい教室の喧騒の中に居るときとはまた違った気分になれる。
 目線を上げると、澄み切った秋の空が映った。どこまでも続く水色。猪口才な無限空間が、いやに恨めしい。
 時間や空間に限りがあることを、蒼穹は知らない。何者にも縛られず、ただ悠々と、意のままに広がっていく。その 自由気侭な振る舞いに比べれば、人間の、なんと制約されていることか。
 文化祭の開幕まで、残り二十四時間を切っている。だけど、打つ手は一向に浮かばない。焦れったさにまとわりつかれ ながら、必死に知恵を絞った。
 考え込んで丸くなっていた背中に、やがて、声が届いた。
「――明日のライブ、中止になったんだってな」
「……お気の毒さま」
 振り返る。教室のドレスアップに勤しむクラスメイトたちを背景にして、勝流と長束の姿を見た。
「ふたりとも……」
 萎れた表情を、恒幸はふたりに見せた。
 まるで力の入っていない声――自分でも驚くほど生気を欠いているな、と彼は思う。
「俺、すっげぇ楽しみにしてたのに……」
「ああ……ごめんな」
 知らず知らずのうちに気を持たせていたらしい勝流に、恒幸は詫び入った。
「なんで中止になっちゃったの?」
 心配そうに、長束が尋ねる。美咲のことを思い返して、恒幸は、一瞬言葉を詰まらせた。
「それは……」
「言えないようなことなのか……?」
 勝流が訝る。
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
 恒幸は、どっちつかずの返事をした。
 部員の自傷行為と、暴力行為による停学処分。どう考えても、あっさりと打ち明けられることではない。
 世間では、恒幸たちのようにバンド活動をしていたり、物書きをしていたりといった、いわゆる芸術家稼業を 営んでいるひとが思い悩んだとき、自分を傷つける行為に走りがちなのは、ニュースでも時折目にすることだ。
 だとしたら、それを知っている勝流や長束が話を聞かされたときのショックも大きいだろうと、彼は思った。
 でも、本当に事実を隠したままにしておいてよいのだろうか。もしかすると、勝流たちに打ち明けることで得られる ものも、あるのではないだろうか。
 迷う恒幸に、長束は言った。
「ううん、言いにくいことならいいの。理由はさておいて、まずは遠方クンが元気じゃなくなってるのが私は心配」
「委員長……」
 長束の真摯な言葉と眼差しとが、恒幸の肺腑を衝いた。口では言い表しがたい温かみが、そこにはあった。譬えるなら、 雪原を彷徨っていたときに偶然見つけた、かまくらのようなものだろうか。そのような僥倖を、手に掴み取らないわけに はいかない。縋るような目で、彼は長束を見つめた。
「そりゃ脱力もするさ……」
 溜め息交じりに言う勝流。
「いちばんライブを楽しみにしてたのは、ツネさんなんだし」
「違うの、私はそういう意味で言ったんじゃない……」
「……?」
 自分とは意見を異にする長束を、勝流は、不思議そうに見る。勝流の言葉に頷いていた恒幸も、同じような目で彼女 を見た。
 ややあって、長束は、厳しめの表情で、恒幸に言った。
「今の遠方クンは、なにもかも諦めてしまいました、っていう顔してる」
「……」
 言葉が出なかった。
 諦めるわけにはいかないと、確かに恒幸は考えていた。そう考えて、昨日家に帰ってからも、目の開いている間は、 どうにかしてライヴを行えるようにするための突破口を見出そうとしていた。
 しかし、そんな彼の意志とは裏腹に、現実に立ち返れば、ライヴが実現する見込みはほとんどなかった。一ヶ月間 の美咲の停学と、いつ戻るかも知れない、彼女の意識。この状況を打開するのは、不可能に近い。
 今となってはもう、諦めたも同然――そう思ううちに、表情が曇りだしたのだと、彼は思った。
「でもさ、委員長」
 途切れた話の接ぎ穂を、勝流が作る。
「文化祭は明日だぜ? この時期になってキャンセルなんて、取り返しつかない理由だってこともあるんじゃないか?」
「じゃあなんで遠方クンはあんなに真面目に……ううん、楽しそうに今まで練習してたの?」
 間髪入れず、長束は、太刀先鋭く切り返した。
 彼女の言葉の中に、恒幸の予想しなかった言い回しが含まれていた。彼は、腑に落ちないと感じたその部分について、 彼女に尋ねてみる。
「楽しそう……って?」
「言葉どおりよ」
 忙しそうに今度は恒幸のほうに向き直って、長束は言う。
「一学期の期末が終わったとき、私、遠方クンに言ったよね。クラブやる気あるの、って」
「ああ……」
 長束と話したすべてのことを思い出しながら、恒幸は頷いた。
 そもそも彼が長束と馴れ初めたのは、部活をやりたいけどどうすればいいのかと、彼女に指示を仰いだことだった。 三年生にもなって部活動を始めると言い出した恒幸に、長束は関心を持ち、その動機を尋ねた。すると恒幸は、彼女に 対して体よく、思いついたままに、低迷していた成績の挽回を図ってのことだと告げた。
 本心こそ見抜かれなかったものの――今思うと、慧眼を備えたこの長束が、よく本心に気付かなかったと安堵する ばかりだが――彼女はそのあとも、恒幸の部活にかける意気込みと、彼の成績とを関連付けることにこだわって きた。
 そこで期末テストのとき、中間テストの成績を下回る結果を叩き出してしまった恒幸に、長束は聞き質した。彼に、 本当に部活に打ち込む気はあるのかと。彼女の問いかけに自分が出した答えに辿り着いて、恒幸は、僅かに目を 伏せる。
 彼から目を逸らさずに、長束は続けた。
「そのとき遠方クンははっきりうんとは言ってくれなかったけど、クラブを頑張るのは楽しむことだって、私が 言ったことは聞いてくれてたと思うの」
「……うん」
「夏休みに入るまでは、楽しそうになったというより、どっちかっていうと私が言ったことと実際の練習の板挟みに なってたみたいで……なんだか、見てて息苦しそうだった」
「……」
 長束が言う“息苦しそうに見えた”ときの自分。その原因は、練習との板挟みではなくて、優鶴の無断欠席――そ して、彼女が父親の病気を受けて心に決めた、退部という選択――との板挟みであった。
 優鶴の決断を聞いたとき、恒幸は、自分たちの追い求める夢を、一旦諦めてしまわねばならなかった。優鶴を 裏切りたくはなかったのだ。彼女の願いをシカトすれば、夢以前の問題として、美咲も含めた、三人の関係が 壊れてしまう。結局は、優鶴が笑っていてくれるのなら、それでいい。そう思って、恒幸は彼女に、歩を譲ることに 決めたのだった。
「でも、私は自分の言ったことが間違ってるとは思ってなかった」
 首を擡げた恒幸と、長束の目が合う。彼女は続けた。
「稲津クンが言ってた、相手の気持ちも考えなきゃいけないっていうアドバイスも合わせて、きっと遠方クンは 自力でクラブを楽しむ方法を見つけてくれるって信じてた」
「……うん……」
 今思うと、勝流のアドバイスも、役に立たなかったわけではないような気がする。
 軽音部が活動を中断したのは、もちろん優鶴の家庭的事情があったからだ。恒幸も美咲も、そして、教師という 立場にありながら往生際の悪かった土肥も、みんなが優鶴の気持ちを考えて、彼女の退部を認めたのだ。それだけを 取れば、勝流の言葉は、逆効果だったかもしれない。
 だけど、優鶴の退部は……彼女の本意ではなかったのだ。
 美洲屋に居たときも、彼女は言っていた。もしも父親が病気で倒れていなかったなら、ギターを弾くことを続けて いただろうと。ライヴに向かって、部活に精を出していただろうと。彼女がこのまま軽音部の部員でいたいと願った ことは、不可抗力たる現実の下敷きになっていたに過ぎないのだ。
 だから、恒幸も、美咲も、彼女の伯父の慎平までもが、優鶴の夢に圧し掛かる瓦礫を取り除こうと努力をしたのだ。
 優鶴の、本当の気持ちを汲み取って。
「そしたら遠方クン、ほんとに二学期に入ってからすごく楽しそうになったし」
「……そうか?」
 未だにぴんと来ないという顔で、恒幸は尋ねる。
「うん。夏休み前とは、全然違う顔だった」
 長束は長束で、見るままに捕らえた恒幸の表情への所感を、枉げようとはしない。
「そう言われてみればツネさん、前より目が輝いてるような気もするな」
 そんな長束に同調する勝流は、恒幸の目には、尻馬に乗っているように映った。
「……俺が毎朝鏡で見る限りは、普通の顔だったけど」
 他人の見る目に賛同できるはずもなく、恒幸は自分の視点から見た意見を吐いた。
「そうじゃなくて……」
 長束の体が、少しよろめく。彼女の体勢に乱れが生じて初めて、コケるようなことを自分は言ったのかと、恒幸は悟った。
 ずれた眼鏡の位置を、ブリッジの部分を指で押して補正し、彼女は続けた。
「遠方クンさ、親にもなんか言われなかった? たとえば、最近元気な顔で起きてくるね、とか」
「いや……。うちの親もともと口数少ないからな」
 遠方家の朝のリビングダイニングに響く音は、CDコンポの音と、母親が目玉焼きを焼く音、それから、トースターの チーンという音と、父親が新聞紙を捲る音ぐらいだ。
 指折り数えて、残った小指を折るために、家族の会話を挙げられないのが実に残念だと、恒幸は思う。
 しばらく考えて、彼は、ある変化に気がついた。それは、両親の目から見た変化ではなく、彼自身が感じる変化 であったが。誰が見ても同じことだろうと思って、口を開く。
「でも、ひとつ変わったことはあるな……」
「なに?」
「最近七時前に、自然に目が覚めるようになったんだ」
「ふうん」
 したり顔で、長束が頷く。
「今までは目覚ましだったの?」
 訊かれて、恒幸はたじろいだ。
「あ、いや……目覚ましではなくて……」
「ママコールなんだよな」
 勝流が補足する。顔は薄気味悪く笑っている。
「えっ?」
 瞬時に理解することができず、長束は、間の抜けた声を出す。
「だから、お母さんのおはようコール」
 そんな受信感度の悪いアンテナをお持ちの貴女へ、と言わんばかりに、噛み砕ける限りを尽くして、勝流は説明した。
 長束が恒幸のほうに顔を向ける。彼女の目が点になっていたのを、彼は確認した。
「……そうなの?」
 瞼をぱちくりぱちくりさせながら訊く長束。
「…………お恥ずかしい限りで」
 後輩発祥の決まり文句を拝借して、恒幸は、きまりの悪さを感じながら答えた。
 そう、夜の十時には寝床に入っている彼は、その十分すぎる睡眠時間にもかかわらず、一週間のうち、四日ないし五日 の起床をママコールに頼っている。しかも、彼の部屋に、二種類の目覚し時計が置かれているというのに、だ。 そのアラームは常時オフになっていて、ひとつは時間に遅れが発生していながら、電池交換も怠っているという始末だ。
 目覚し時計はさておき、ママコールの深刻さを、長束は、オブラートに包んで糾弾した。
「遠方クン……それだけは、学校卒業するまでに直しといたほうがいいと思うよ」
「精進します……」
 間違いを指摘されれば、“お恥ずかしい限りです…”。
 努力するように言われれば、“精進します…”。
 なんだか自分は官僚のような人間だなあと、彼は思った。
「でもさ、前まではママ……じゃなくて、自分で起きてこれなかったんでしょ?」
 勝流の唱えたママコールという言葉の強烈な後味に舌を縺れさせながら、長束は言う。
「……うん」
「ということは、自分で起きてくる力の源って言えばいいのかな……その、目標とか夢みたいなものがぼやけてて 曖昧だった、ってことになるよね」
 閑話休題、再び真面目な言辞を弄されて、恒幸は気を取り直した。
「まあ、そういうことになるかな」
 目標。夢。そういった原動力が軽音部員たちの心の中にあったからこそ、優鶴は恒幸と美咲のふたりと、もう一度一緒に 頑張りたいと思い、復帰した。そして彼女が練習に加わるようになってから、足踏みしていた恒幸と美咲の夢も、 彼女の夢とともに、再び成長を始めた。
 二学期になって三人は、部活を始めたときと同じように、文化祭のライヴに向かって歩き始めたのだ。
「それが起きれるようになったってことは、目標がしっかりしてきたってことじゃない?」
「しっかり……って言っても、俺はただ文化祭でライブを成功させたいなって思ったことぐらいしか……」
「その目標を、なんに代えても譲れなかったんでしょ?」
「ああ……」
「だったらどうしてそう落ち込んだままでいるの。やりたかったことを諦めるなんて、遠方クンらしくないよ」
「委員長……俺」
 反論できるはずもない。
 自分以外の人間にどうして自分らしさがわかるんだ、なんて言えるはずがない。
 それほどまでに、長束の言葉のひとつひとつが、彼が表に出せない気持ちを、代弁しているように感じられて。
 長束は一度呼吸を整えて、感情の熱を冷ましてから言った。
「こないだの課題テスト、いい成績だったんでしょ?」
「あれはべつに、宿題をちゃんとやってたからで……」
「宿題が捗ったのも、クラブでやりたかったことがはっきりしたおかげなんじゃないの?」
「……!」
 恒幸は、と胸を衝かれた。
 確かに彼が宿題を終えたとき、夏休みはまだ、一週間以上残っていた。彼は、その残りを羽根を伸ばして過ごし、休み明けに 揃えてきちっと提出した課題に、担任はひどく驚嘆した。
 べつに彼は、担任やクラスメイトたちの目を欺きたかったのではない。課題提出による平常点を稼ごうと思ったわけでもな ければ、羽根を伸ばすための時間を作ろうとしたわけでもない。
 ただ――優鶴が心配だったのだ。
 彼女を再び軽音部に呼び戻して、ギターを弾いてもらうために。手離してしまった夢を、もう一度、彼女に掴んで もらうために。デートのとき、彼女に説得するだけの心の余裕を用意しておこうと思って、いつにないハイペースで、 恒幸は、宿題を消化していったのだった。
 そうなればもう……宿題に真面目に取り込んでいたことと、部活を再開するために気持ちを前向きにしていたこととを 結び付けられたところで、それが間違っている、なんて言えない。
 観念した表情で、恒幸は長束を見た。
 その目つきを確認すると、彼女は言った。
「私にはわかる……いや、稲津クンもわかってたはずだよ」
「……ああ」
 顔を向けられ、勝流は長束のほうを向くでもなく、首を縦に振った。
「去年までは無気力で生きてる感じすらしなかったっていう遠方クンが、今年は稲津クンがびっくりするぐらい積極的 なんだもん。これって、遠方クンがクラブに入って、ライブを成功させたいって思ったこと以外に理由が 考えつかないよ」
「そうだな……」
 語調を強めて話す長束の言葉を、恒幸は、聞き漏らすまいと耳に入れる。
「私は去年の遠方クンのことはよく知らないけど、稲津クンとか先生たちが驚いてるのを見たり、期末までは落ち込んでた 成績が今になってだけど、上がりだしたとことか見てると……クラブで練習してることが遠方クンの生活を少なからず 後押ししてるように思えるの」
「うん……」
「私たちだって、遠方クンみたいに気持ちが全部入れ変わっちゃうぐらいクラブに精を出せるひとは少ない。運動部なら 運動部で、本気になって出場した大会で優勝して、それでもまだ普通のひとが持ってないようななにかを掴むために 努力を積み重ねて……意味があるの」
 長束は、眼差しの照準を恒幸の目に合わせる。
「今の遠方クンには、その運動部員と同じぐらい、夢に近づけるチャンスがあると私は思う」
「夢……」
 “夢”。
 それはとても抽象的な言葉だけど。
 ひとりの人間の未来を動かすことだってある、大きな存在。
 それを恒幸自身に再確認してほしくて――長束は、晴れ晴れしい笑顔を、彼に向けた。
「うん。文化祭のステージで、今まで楽しくクラブをやってきたことでつけた自信を……自信に満ちた自分たちの姿を、 全校生徒の前で見せつけてやろう、っていう夢」
「……ああ……」
「なにか間違ってるところはある?」
 言われて、恒幸は、即座に百点満点を付与した。そして、念のために減点対象になりそうなところを探してみた。 でも、目から鼻へ抜けるような長束の解答には、どうやらそれは必要ないようだった。
 それまで打ち沈んでいた気持ちに浮力をかけて、彼は、愁眉を開いた。
「いや……委員長」
「うん?」
「なんかさ、俺のこと……俺以上にわかってる気がするな」
「うん……まあ、心の中を読むのは得意なほうだからね」
 話の仕舞いには、いつものようにちゃっかり能書きを垂れている長束。立つ鳥は跡を濁さないというが、彼女の 抜け目なさは、立つ鳥に譬えると、糞を落とすようなものなのかもしれない。
 けれども恒幸は、その糞のような能書きを、嫌味には感じなかった。そのおかげで心の靄を取り払うことができたのだ。 長束に対して、不快感を抱くことはできまい。むしろ、感謝さえしたいぐらいなのだから。
 長束の隣で、勝流が不満の小鼻を動かす。
「いやー……なんか腐れ縁の名が廃れた気がするねえ」
 彼がそういうのも無理はない。なにしろ、恒幸とは十年来の付き合いなのだ。恒幸とは、知り合ってまだ五ヶ月と少し という長束に一籌を輸しては、彼のプライドは無傷ではいられない。
 恒幸は、今日いちばんの笑い声を漏らした。
「ははっ、お前もっと頑張れよ、イナズマっ」
「ふふふっ」
 長束も続けて笑う。
 首の横に手を当てて、うなじを指で揉みながら、勝流は、気恥ずかしそうに言った。
「精進させてもらいやす……長束師匠のもとで」
 そんな彼の決意を、長束は、
「ふふっ。悪いね、稲津クン。生憎だけど、私弟子の募集はしてないの」
 と言って軽やかに挫いてしまった。
 負けじ魂に火をつけて、勝流は返す。
「そんなこと言われたって、なっちまったもんはなっちまったんだから仕方ないだろうよ」
「じゃあ今日が月謝の納入日ということで……えーと、受講料一万八千円、税込んで九百円プラスで徴収させていただ けるかしら?」
「ちょ、いきなりっ……しかもかなり高っ!」
 狡猾な長束の皮算用に、勝流は、下顎が地面につきそうになるほど驚いた。
 そんなふたりの遣り取りを見て、恒幸が、また声を立てて笑う。
 そして、すっかり晴れた顔を長束に向けて、彼は言った。
「ありがとう……委員長。おかげで、ちょっと元気が出たよ」
「そう? 良かった」
 にっこりと笑って、長束は頬に笑窪を作った。
「でも、どうせ元気出すんなら、フルパワーで出してほしいな」
 彼女の手がチョッキのポケットに隠れたかと思うと、瞬きする間に、その手はポケットから出されていた。一緒に つまみ出した何枚かの写真のような紙を、彼女は、恒幸に差し出す。
「はいこれ、どうぞ」
 裏向いたままの紙を、恒幸は、言われるままに受け取る。ひっくり返してみると、やっぱり写真だった。
 そこに写っていたのは、写真を手渡した本人と、紛うかたなき同一人物。だけど、服装が違う。制服とは明らかに 異なるが、これが私服だとも思えない。やたらと白いフリルのついたメルヘンチックなドレスは、演劇かなにか で使われたりするものなのだろう――恒幸は、そう思った。
 しかも写真の中の長束ときたら、いろんなポーズを決めてくれている。一枚目は、丸い木製のトレイを胸の前に 抱えるポーズ。二枚目は、欧米の気位の高い少女がやりそうな、スカートの両端を持ち上げて体を前に屈める ポーズ。三枚目は、グラビアアイドルのように、片腕を首の後ろに回して悩ましくウインク。四枚目は……これは、 なんのつもりなのだろうか。床に座って、片脚を三十度ばかり持ち上げるポーズ。背景からすると、いずれも、彼女の 部屋で撮影されたものらしい。
 長束の人格を少しだけ疑いながら、恒幸は、恐る恐る訊いた。
「なんだこれ……委員長か?」
「…………私以外の誰に見える?」
 細い目で恒幸を見ながら、長束が返す。
「さあ……世界に三人はいるそっくりさんとか?」
 語尾上げに語尾上げで答えた長束に、恒幸はさらに語尾上げで言った。
「そんなの探してたら日が暮れちゃうどころか、文化祭に間に合わないよ」
 長束の瞼は未だ持ち上がらない。
 惚けて言った言葉を、長束は完全に白眼視しているなと、恒幸は思った。
「まあなあ…」
 自己撞着した恒幸の手にある写真を指差して、長束は言う。
「これ、明日の文化祭で私が着る衣装ね」
「うそっ、こんなの着るのか?」
 恒幸がそう言って驚いたそのとき、
「こんなのとは聞き捨てならないね……遠方君」
 勝流と長束の背後から……ではなく、恒幸の真横から、新しい声が割り込んできた。
 声の主を確認しようと振り向いた恒幸の目に、いかにも退廃的という感じの生徒の姿が映る。セットされていない 髪。黒ぶち眼鏡の向こうに見える、目脂つきの目。明らかに体育系ではない、丸ぽちゃ顔。首よりも下を見れば、 がらりと景色が変わったように、きちんと着こなされたブレザー……と、胸の校章の斜め上につけられた、キャラクター もののピンズ。ほかにこのような特徴をもった人間など、このクラスには……いや、この学年にはいるはずがない。 彼の名は……。
「磯村?」
 磯村――かつて恒幸に、土肥を生徒の付属品として扱わせた生徒。だが、そのことを、彼は知る由もない。
 ただ確かなのは、方々で彼のどこか世間離れした持論が出汁にして呑まれていることと、彼が授業中、ほかの生徒よりも 教師に当てられる機会を多く与えられているということだ。
「そ。彼が今回の衣装の製作を全部担当してくれたの」
 自慢するように長束は言う。
 恒幸は、磯村をまじまじと見て尋ねた。
「製作って……これ手作りなの?」
「当然」
 手を腰に、胸を張って言い切る磯村。
「ショップで売ってるやつは当たり障りないって感じなんだけど……いまいち温かみに欠けてるっていうかね。その、 なんていうのかな……作り手がかける情熱? 想い? ああそうだよ、これが忘れちゃいけない、国民に極めて マストな萌えという概念で――」
「出た、磯村のオタクトーク」
 勝流の声が聞こえていないのだろうか。それとも、聞く耳を持っていないのだろうか。磯村は、輝く眼差しを虚空に 向けたまま、油紙に火がついたように喋り続けている。
「国民って、私たちにも必要なのかな…?」
 長束の声も聞こえていないらしい。たとえるなら、勝流と長束のふたりは、急行列車の停まらない駅で、べらべらと 喋り続けている磯村が、急行列車か、あるいは特急列車か。駅員になったつもりで、恒幸は三人を観察した。
「いや、まず要らんでしょ」
「――なんだよ稲津君」
 ようやく特急列車“磯村”が停車する。それも、派手にブレーキをかけて。
「君だって、少しは今回の企画に関与してるじゃないか」
 不機嫌そうな顔つきで、磯村は、気圧の低い声を出した。
「ん……?」
 恒幸が訝るように勝流を見る。彼は、自分たちのクラスの催し物について、喫茶店を開くということぐらいしか聞いて いなかった。勝流が関与しているとしたら、無関心を装ってなどいられない。
 恒幸の表情から説明を求めていることを読み取った勝流は、苦笑いしながら言った。
「関与もなにも、こういう喫茶店にしようって提案したのが俺だしな」
「……そうなのか?」
 少なくとも、恒幸の記憶には存在しないことだった。
「あれ? 遠方クン、聞いてなかった?」
 首を軽く横に倒して、長束が訊ねる。
「いや……たぶん、夢の世界に居た」
 恒幸は、そう推測した。
 普段の授業であれ、休み時間であれ、昼休みの残り時間であれ、テスト時間の余りであれ、ホームルームであれ……と にかく手持ち無沙汰な時間にありつくと、彼は、決まって机に伏せていた。
 周囲の生徒よりも早く寝て、朝はママコールを利用。それでもまだ寝足りず、一日の課程の中に、舟を漕ぐための 時間を見出そうとする彼は、もはや、何かにつけて不眠症ならぬ、過眠症を口実にできるほどの体質を得ていたのだ。
「そっか」
 長束の、素っ気ない返事。それが呆れたゆえの反応であることを、恒幸は気にしない。
 彼はまた、勝流のほうを向いて言った。
「それよりお前……いつからそんな趣味を?」
 たとえ喫茶店のデコレーションが凝っていても。たとえ写真に写った長束の着ている衣装を拵えたのが、磯村だとして も。これらすべてのものを提案したのが勝流ときた。恒幸は、途端に胸糞悪い気分になった。
「ばっ、べつに趣味じゃないぞ!」
 声高に、勝流は主張した。
「俺は最近巷でメイドの衣装を着たウエイトレスがオーダーを持ってきてくれる喫茶店が流行ってるってのを テレビで観てだな――」
「稲津君、稲津君」
 磯村が、勝流の話を遮る。
「なんだよ……」
 ぶっきらぼうというよりは、磯村に鬱陶しさを感じているような声遣いで、勝流は返事をした。
 眉は外側が吊り上げられた、目は輝いた、口許は引き上げられた奇妙な顔つきになって、磯村は言う。
「メイド服を着たウエイトレスさん、っていうのは正しくない表現だよ」
「あ? じゃあなんて言えばいいんだよ」
「メイドさん」
「……」
「……」
 勝流の表情が固まり、続けて、恒幸の表情が固まる。ふたりの間に流れる空気と時間とが、数十秒の間、止まったよう に思えた。
 どうにか姿勢を立て直すと、勝流は、磯村に向かって言った。
「お前あれだ、幻想の中で生きてるだろ」
 言われて、磯村はにへら笑いをしながら返した。
「いやあ、というよりはもう、人間として歩むべき道を確実に脱線してるからね」
「胸張って言える言葉かよ……それ」
 そう言って、手の平の中へと顔をうずめる勝流。
 このリアクションを、恒幸は、彼以外の人物にしばしば見ていた。
 三人から目を逸らし、斜め下の方向を見遣って、勝流は言った。
「だいたい俺らはもう三年なんだ。来年は進学するか就職するかして、それぞれが思い描いた人生の設計図に従って――」
「私はこの服も悪くないと思うな」
「げっ……委員長?」
 端的な物言いで真っ向から反対意見を投げつけてくる長束に、勝流は一歩後ずさる。時の氏神の賛同を得て、磯村は、 態とらしく御輿を担いだ。
「さっすが長束いいんちょ、良いお目をしていらっしゃる」
 長束も、純粋なご満悦顔とは少し違う笑顔を作った。
「ホントにこんな服着て接客できるお店があるんだったら、私もいつかバイトしに行ってみたいな」
「……マジっすか?」
 呆気に取られて、勝流は口の片端を持ち上げた。片側だけがぴくぴくと痙攣している顔が、なんとなく笑える。 弄ばれている彼を、恒幸は、半ば面白がって観察した。
「うん、まじ」
 あっさりとした返事。
「そりゃあ話が早い」
 握り拳でもう片方の手の平を打って、磯村が言う。
「ガッコ卒業したらいい店教えて差し上げますよ」
「ホント?」
 長束が上体を乗り出す。心の中の期待が、目つきにまで表れている。今もしも、彼女が犬だったならば、物凄い勢いで 尻尾が触れているだろうなと、恒幸は思う。
 磯村は脂下がって、長束に言った。
「しかも僕、頻繁にその店に通うかもしれない。思いっきり贔屓してね」
「うわー、楽しみだなあ」
 両手の指を押し合わせて、欣喜の声を上げる長束。
「悪いこと言わないからやめとけって……」
 首を垂れて横に振り、勝流は言う。そして、首を持ち上げ、長束の目を直視して、
「磯村に修羅の道に引きずり込まれるぞ」
 と告げる。
 おどけた顔を勝流に向けて、長束は言った。
「たまには修羅もいいんじゃない?」
「……たまにはってなあ……」
 また勝流の首が前に倒れる。
 完全にふたりの慰み物と成り果てていた彼を見て、磯村は、一癖ある笑顔を作って言った。
「稲津君もそう言って、満更でもないんでしょ? いいんちょのメイド姿」
「おっ俺はそんなオタクな衣装とか、興味は惹かれても趣味はねーって!」
 全力で勝流は否定する。声に力は篭もっているし、仕種も慌てふためいているのに、いまいち説得力が感じられないのは なぜだろうと考えながら、恒幸は、中途半端に哀れな目で彼を見た。
 そんな勝流の必死の抵抗に小気味よさを噛み締めていると、突然、声がかかった。
「遠方君はどう思う?」
「……えっ、俺?」
 心の準備を整えないまま、恒幸は磯村のほうに顔を向ける。三人が繰り広げるコントの観客として自分を位置付けていた 彼は、まさか自分が意見を求められることになるなんて、思いも寄らなかったのだ。
「いいから真面目に答えろ、な?」
 心証を害しましたよ、という面持ちで、勝流が釘を差す。
「あ、ああ……」
 助太刀を頼まれているのだろうと思って、恒幸は、敢えて長束の意見には同意しない方向でいこうと決めた。
「これってさ、明日うちのクラスの女子がみんな着るんだろ?」
 長束は、写真に写っている自分が着ている服について、明日の文化祭で着る衣装だといった。となれば当然、この 数え切れないほどフリルがついていて、風紀委員の目に引っかかりそうなほど胸元と膝上の露出が多い、お伽話という よりも性風俗店のほうが似つかわしい、派手かつ大胆な衣装が……喫茶店の制服ということになる。
 言ったあとで恒幸は、ねちねちした視線を磯村に送った。
 だけど、その視線を賛辞の代わりとして受け取ったらしい磯村は、
「そうだよ」
 と、得意顔で頷いた。
 敢えてダークな部分に齷齪しないようにして、恒幸は続ける。
「……ってことは、それなりに受けが良かったってことになるよな……」
「あの、遠方君」
「ん?」
 自分の意見に対する評価ではなく、自分の名前が返ってきたことに、恒幸は渋い面を作る。
 磯村は彼に、自分の狙いを言い聞かせた。
「あくまで僕は、遠方君自身の個人的見解を求めてるんだけど……わかってくれてるかな?」
「難しいな……」
 恒幸は、頭を悩ませた。
 個人的見解というのは、もともと他人の意見を鵜呑みにすることを嫌って、自分だけのユニークな考え方を出そう とする恒幸にとっては、どちらかというと得意なジャンルだ。しかし、それを言ってしまったあとで、自分の意見に 反論されてしまうのではないかとか、槍玉に挙げられてしまうのではないかとか、度が過ぎれば、没却されてしまう ことになるのではないかとか……。そのように考えると、彼が口に出そうとする個人的見解は、必ず、彼の咽喉の あたりで詰まってしまうのだった。
 長束は、一転にとどまらない恒幸の黒目を追いかける。
「難しいことないよ。見たまま感じたままに意見しとけば大丈夫でしょ」
「それがニガテなんだよな……」
 個人的見解を直感にまで昇華させてしまう長束の言葉を受けて、恒幸は、口吻を鈍らせる。
 見たまま感じたままの意見となれば、つっこみを入れられる確率が格段に高くなる気がして。
「じゃあこうしよう」
 また握り拳で手を打って、磯村が言う。
「言葉を組み立てるのが難しかったら、一語でもいいから」
「うーん……」
 直感に頼った、一語の、個人的見解。
 どこか互いに矛盾するような感覚を覚えたが、恒幸は、咽喉で詰まっている言葉を口の外に出しさえすればよいだけだ ということに気付いて、意を決して口を開いた。
「まあ、それなりに可愛いんじゃないか?」
「おいちょっとっ、ツネさんっ!」
 勝流に声をかけられて、恒幸はようやく、長束と磯村のふたりに鎌をかけられていたということを悟った。
「まあ、それなりに、可愛い。三語になっちゃったね」
 指折り数えながら、長束が言う。
「いや一語じゃ『いい』か『悪い』かぐらいしか言えないだろ」
 そのふたつから選択してしまうと、『いい』を選んだ場合に長束と磯村のふたりの意見と、『悪い』を選んだ場合に 勝流の意見とかぶってしまい、ユニークさを失ってしまうのではないか。
 彼はそう考えていたつもりだったが、磯村は、
「僕はそれを望んでたんだけどね……もちろん、『いい』ほうの返事で」
 と言って、彼に満足そうな顔を見せた。
「ツネさぁん、頼むよー……」
 失意に倒れた上体をなんとか支えて、勝流は、不貞腐れた声で言った。
「なんか軽やかに寝返ってくれるし」
「稲津君も、企画責任者の役職らしくメイドさん好きを認めようね」
「だぁら役職は関係ないっつーの!」
 今や意地悪剥き出しになった磯村の笑顔に、勝流は頑なに反発した。
 そのとき。
 ――ぱちんっ、ぱちんっ、ぱちんっ。
 長束が、勿体らしく手の平を打ち鳴らす。
「はいはいはい、無駄話は終わり終わり」
「無駄話ってよ……そもそも委員長がこれ●●を肯定したから、俺が こんな言われようになったんじゃないか?」
 恒幸の持っている写真を指差して、その指を振り動かしながら勝流が言う。
 長束は人差し指を顎に宛行い、目線を天井のほうに飛ばす。
「私はただ、稲津クンの意見に同意できかねたからそう言ったまでだよ」
「むう……じゃあこの写真だ。そもそもこの写真を出した委員長が悪い」
 恒幸に断りもせずに写真を一枚抜き取り、それをもう一方の手で指し示す勝流。
「私を写真を取らせる気にしたのは……」
 長束が、その人物のほうを向く。
 勝流も同じほうを見た。
 恒幸も……いちおう、ふたりに合わせておいた。
「僕ですか……」
 磯村は少し顔を俯ける。
 三人は彼を、納得したような、なにかが腑に落ちないような、複雑な目つきで見た。
「あぁまあ僕は、黒板の絵の続きがあるんで――」
 そう言って磯村は、そそくさとその場を去ってしまう。彼が向かった先にある黒板を見ると、恒幸は、そこに 花のマークやまるっこい文字、それに少女マンガのキャラクターのような絵が並んでいるのに気付いた。いつの間に こんなに賑やかになったのだろう。彼が窓辺で物思いに耽る前、黒板はまっさらだった。それが十五分やそこらで あれほど埋められてしまうなんて。
 驚きを感じ、恒幸は言う。
「あれさ、全部あいつが描いたのか?」
「いや、文字とかは女子。磯村の担当は真ん中のキャラクターだけ」
 勝流が説明する。それだけでもたいしたものだと、恒幸は思う。
 だって、オトコがあの絵だ。目は顔の長さの半分以上あって、ありえないハイライトの入れ方がされていて、 写真の中の長束が着ているのと同じような服がほぼ完全に再現されていて……あと、頭になにか、猫の耳のような 飾り物がついている。
 少年漫画にしか縁がなかった恒幸にとっては、下手をすれば、小学校低学年の女児がターゲットではないかとまで 思ってしまうような黒板の絵は、とても新鮮だ。
「ふうん……。絵上手いんだな」
 彼は黒板に向かう磯村に、淡い羨望を示した。あれほど見えないところでからかわれ、そのせいで授業中教師たちに 当てられる機会の多い磯村は、それにも倦まず、今まで自分の持ち味を出すことのできるチャンスを窺ってきた。
 それは、恒幸のふたりの後輩も同じことだ。彼女たちも、同級生に恨まれながら、文化祭に思いを馳せてきた。
 べつに茨の道に立たされているわけでもなければ、好きなこともこれといってない――そんな自分とは大違いだと、 恒幸は思った。
「まあ、なんか小学校のときから描いてるらしいしな」
 勝流が言う。
 それならあの実力があってもおかしくないなと、恒幸は納得した。それと同時に、小学生の頃から磯村はあのような “可愛らしい”イラストを描いていたのかという疑問は生じたには生じたが、敢えてそのことは問い質さないで おこうと、彼は思った。
「そゆことだから、絵のほうは磯村クンに任せて、遠方クンたちも仕事仕事っ」
「おわっ」
 長束は恒幸のうしろまで歩いてくると、強引に彼の背中を押した。急に力が加わって、彼はつんのめった。
「委員長……」
「オトコふたりがサボってたらペースがガタ落ちだよ!」
 言われて、恒幸は、改めて教室の様子を見る。デコレーションをしたり、テーブルメイキングをしてたりしている のはほとんどが女子で、男子は、自分たちと同じように教室の隅のほうで駄弁っている。ぱっと見、男子は必要では ないような気もしたけれど、長束が言うのだから、自分たちでも力になれることがあるのだろうと、恒幸は結論を 出した。
「遠方クンはちょうどいいところに居るから、教壇の上に置いてあるカーテンつけるの頼むね」
 長束がそう言った次の瞬間には、恒幸と勝流の間に脚立が置かれていた。
「じゃ、私はあっちだから」
 さっと腕を挙げて立ち去ろうとする長束を、
「あ、委員長」
 恒幸が呼び止める。
 彼女と最初に昼食をともにしたあのときのように――二メートルは距離が開いていた。
「うん?」
「この写真、どうすんだよ?」
 話に熱中するあまり返してもらうように言うのを忘れていたのだろうと思って、恒幸は彼女に声をかけた つもりだったが……。
 長束は、にたっと意地悪そうに笑って、言った。
「遠方クンにあげる」
「ぉえっ!?」
 一瞬の間に驚きと呆れが何度もループした感覚を、恒幸は覚えた。
 あげるなんて言われても、持ち歩いてたらほかの生徒や教師に片想いかなにかと勘違いされそうだし、かと言って、 家で保管していても、万一親に見つかればどんな誤解をされるかわからない。
 だけど、この派手な衣装はさておき――正直言うと、もらえるものだとは思っていなかったから、ちょっぴり 嬉しい。
 でもやっぱり……勝流は、こちらに冷たい視線を向けている。
 思考の糸を絡ませる恒幸に、イラスト製作中の磯村が、チョークを手に持ったまま、振り返って言う。
「いいなあ、遠方君」
「……そうか?」
「オーク………あぁいや、是非とも僕の部屋に飾らせてもらいたい逸品だよ」
「オーク……?」
「こらっ磯村クン、めっ!」
「あぁすんません、いいんちょサン」
「気にしないでね、遠方クン」
「……あ、ああ……」
 オーク、オーク……。
 大蔵省? 大熊さん? 巨木のオーク? ……大奥?
 少し考えて、恒幸は、磯村と長束が作ったプライベート・ワールドに自分は入り込めないということを悟った。
 そして、その不可解な単語をスルーして、それ以降の部分に進むと、磯村がこの写真を自分の部屋に飾りたいと 思うのは、彼が丹誠込めて作り上げた衣装に長束が実際に身を包んでくれたことが、嬉しく感じられるせいなのだろう と、納得した。

 

 長束に言われたカーテンの取り替え作業も、もうすぐ半分が終わろうとしている。
 勝流が支える脚立の上で、恒幸がカーテンを取り替えるという塩梅だ。普段使われているベージュの厚手のカーテンを レールから外し、その代わりに、明日の喫茶店用に用意されたものを取り付ける。文化祭の日限定のカーテンは 清潔な白で、生地もレースだ。飲食スペースとなるこの場所は、ろくに洗濯もしない汚れだらけのカーテンを吊るして いては衛生上好ましくないし、なにより演出にこだわらなければ、という意見が出されたに違いない。
 このレースのカーテンを選んだのは、こういう喫茶店に精通している磯村なのか。それとも、企画責任者の勝流 なのか。ロングホームルームを寝倒していた恒幸にはわかる由もなかったが、男子が選ぶようなシロモノではない ということだけは、どのアングルから見ても確かだ。
 前側の窓、うしろ側の窓にそれぞれふたつずつ、合計四つカーテンを吊るす箇所がある。ふたりは、黒板側、すなわち 前のほうから順に、作業を始めた。今現在、いちばん前のカーテンの取り替えが終わり、前からふたつめのカーテン を外したところだ。バランスを失って転落してしまわないように気をつけながら、勝流から渡されたレースのカーテン を恒幸が受け取る。彼がそれを拡げようとした、そのときだった。
 ――ガラガラダンッ!
 荒々しく教室の引き戸が開けられ、その音に恒幸は危うく足を滑らせそうになる。
 何事かと、クラスメイトたちも扉のほうを見遣った。
「ちょっとごめん!」
 聞こえてきたのは、扉の開き方からは想像もつかない、女性の声。扉の近くに男子生徒が固まっているせいで、 来訪者の姿が確認できない。しかし、教室には今や、ただごとではない雰囲気が立ち込めている。
 声の主は、数ある三年A組の生徒の中から、用がある者の名を呼んだ。
「遠方くん、居る!?」
「……えっ俺?」
 自分の名前が呼ばれ、恒幸は、脚立の上で焦った。聞き覚えのある声だけど、その声には勢いがかかっていて、判断が つかない。
 やがて扉付近の生徒たちを無理矢理押しのけ、教室へと入ってきた声の主を見て、恒幸は目を瞠った。
「保健の先生っ!」
 まるで怒っているかのように険しい表情。白衣はいつもよりラフに羽織られていて、肩で息をしている。彼女が ここまで走ってきたということは明らかだ。
 脚立の上の恒幸と目が合い、彼女は声をかけた。
「お仕事中のところを悪いけど、今すぐ保健室まで来てくれる?」
「……なにがあったんですか?」
「ついさっき、柿本さんが運ばれてきたの!」
「なにっ!?」
 ひどく驚き、またしても彼は、体勢を崩しそうになる。
 美咲が保健室に運ばれた――先生が言ったことを、彼は瞬時に理解できない。なぜなら、保健室に運ばれるのは、 学校に居て不調を起こした生徒でなければならない。美咲は、病院のベッドの上で眠っているはずだ。
 まさかと思って、彼は動揺した。
「とにかく早く来て!」
「あっはいっ!」
 一旦体の向きを変えて脚立を降りると、恒幸は、勝流にレースのカーテンを手渡した。
「これ頼む」
「……お、おう」
 突然の出来事に勝流も呆気に取られている様子だったが、先を急がねばと思い、恒幸は、先に廊下に出た先生の あとに続いて、教室を飛び出した。

 

 階段を二階ぶん降り、ふたりは一年生の教室が立ち並ぶ廊下に立ち寄った。
 自分だけが美咲に顔を合わせるわけにはいかない。もうひとり、美咲のことを心配してやまない者がいる。そう思いながら、 恒幸は、一年C組の教室の前で足を止めた。
 教室の中を除く。自分たちのクラスと同じように、生徒たちがせっせと準備を進めている。
 優鶴を呼ぼうと思った。しかし、美咲と優鶴が同級生から疎まれているのを思い出して、躊躇う。それでも、緊急事態 なのだから、今はそんなことを考えている場合ではない。
 なかなか踏ん切りがつかなかった彼の背に、声がかかる。
「遠方先輩?」
 振り向くと、腕に道具箱のようなものを抱えた優鶴の姿があった。
「優鶴ちゃん!」
 恒幸に続いて、保健室の先生も彼女を見る。
 優鶴はふたりの顔を交互に見ながら、言った。
「保健の先生も……なにかあったんですか?」
「美咲ちゃんが来てる、早くっ!」
 恒幸がそう言った途端、優鶴の顔色が青くなった。
「えっ!?」
 持っていた道具箱を危うく落としそうになる。
 彼女は道具箱を教壇の上に置くために一度教室に入り、ややあって、再び廊下に出てきた。そして、ふたりに導かれる まま、保健室を目指して走り出す。

 

 三人は、保健室の前に辿り着いた。さすがに明日の文化祭の準備に皆が心を浮き立たせているだけあって、この 近くをうろついている生徒の影はない。
 恒幸が先頭に立って、保健室の扉を引き開ける。
 中に入ると、いちばん奥のベッドの上に、居た――パジャマ姿の美咲が。
 虚ろな目。その目は、恒幸たちを捕らえているようでもあり、なにか別のものを見ているようでもある。
「美咲ちゃんっ!!」
 恒幸と優鶴が同時にシャウトして、彼女のもとに駆け寄る。
 美咲にしては珍しい、感情の表れない表情で、彼女は微かに返事をした。
「あ……先輩、優鶴……」
「先生っ、いったいこれはどういうことなんですか!?」
 恒幸が声を荒げる。
 先生は眉を顰めて、言った。
「落ち着いて、遠方くん。それだと話も聞けない……」
「いえっ今すぐ説明してくださいっ!!」
 落ち着けと言われて、素直に落ち着けるはずがない。
 美咲が救急車に乗せられるのを見た優鶴の気持ちが、恒幸はわかったような気がした。
 少し考える素振りをしてから、先生は口を開く。
「柿本さんね……今朝、病院から抜け出してきたらしいの」
「ぬっ抜け出した!?」
 受けた言葉を、恒幸はそのまま返す。
 本当は、美咲がそうしたことには、深刻な理由があるのかもしれない。でも、今は理由の如何を知りたいというよりも、 彼女が病院を抜け出したという事実が、家出したのと同じぐらい大事に思えてならない。
 先生は説明を加えた。
「ええ。それで、学校まで歩いてくる途中で倒れてしまったみたいで……運良く二年の女子が運んできてくれたわ」
「なにやってんだよ美咲ちゃんっ!!」
 恒幸は、先生の話を耳に入れるなり、美咲のほうに向き直って、怒鳴るような大声を上げた。
 教師が本気で怒ったときのような声のインパクトに、保健室の空気が揺れる。静かにしていなければならないこの部屋 に、今の声はどう聞いたって場違いだ。恒幸は、自分でもそう思った。
 だけど、抑えが効かない。冷静になることができず、声は自分の意志とは無関係に張り上がる。
 この場に美咲以外の患者が居なくてよかったと思う。
「……せんぱい……」
 あれほど元気に振る舞っていた美咲が、声を嗄らしている。今や彼女は、完全に虚脱感の虜となっていた。
「どうしてそんなことするんだよ!?」
「うぅ……これは、せんぱいに、嘘ついてた罪を償うために……」
 顔を俯けて、美咲は、左手首に巻かれている包帯を見る。
「傷のことじゃない! どうして病院を抜け出したりなんかするんだ!!」
「うぇっ……そ、それは……うぅ、その……」
 美咲の表情が、みるみるうちに歪んでいく。今の美咲はもはや、恒幸が過去に接してきた彼女とは、まったく違う 人物のように、彼の目には映った。
「ばかあぁっ!!」
 美咲の乗っているベッドに両手を荒々しくついて、優鶴が声を上げる。
「美咲ちゃんのばかあっ!!」
「ゆ、優鶴……」
 気を呑まれて、ぽかんとした顔になる美咲。だけど、それは辛うじて分かるほどの、微々たる変化だった。
 睨むような鋭い目つきで美咲の目を直視しながら、優鶴が問い質す。
「せっかく……せっかくお医者さんに命は助かる、って言われたのにっ、また捨てるつもりだったの!?」
「そんな……捨てるなんて……」
「ばか!! 美咲ちゃん、なんにもわかってないよ!!」
「………」
 返す言葉が見出せず、美咲は黙り込んでしまった。
「美咲ちゃんが、最初運ばれてってたとき……私と先輩が、どんなに苦しい思いをしたか、わかってるの?」
 優鶴の声が、湿り気を帯びる。恒幸も、辛い気持ちになった。
 美咲は優鶴の問いかけに真面目に答えることはせず、
「苦しいのは、あたしだって同じで……」
 と、自分自身の立場を主張する。
 斜に構えたその答えが、優鶴の神経を逆撫でした。
「それをどうして言ってくれなかったの? なんでひとりで黙って手首切っちゃうの!?」
「あたし……遣り切れなくて、もう……ふたりに相談する資格もなっ、がっ、ひぐっ……気がして……」
「ばかっ! だから美咲ちゃんはばかなんだよ! ひとりでなんでも勝手に決めつけて……私たちを放って、自分ひとりで 強がって……そんなの、友達が居るひとがすることじゃないよ!!」
 そう言って、優鶴は伏せた顔をぶんぶんと振った。
「強がって……違う」
 美咲は目を逸らす。
「あたしは弱かっただけ……どうしようもない弱さに、押し潰されただけ……ただそれだけでっ」
「じゃあどうしてひとりで、自分勝手に決めちゃうの!?」
 顔を持ち上げて、優鶴は再び、真っ直ぐに美咲の顔を見つめる。
「どうして私と先輩に頼らなかったの? 手首切っちゃう以外にも、方法はたくさんあったはずだよ!」
 言いたいことは、恒幸も同じだった。
 美咲がもう少し勇気を出して、自分の気持ちに正直になって、悩みをふたりに打ち明けていてくれたなら――優鶴と 力を合わせて、美咲の手を引いてやれたのに……。
 美咲は項垂れて、声を震わせながら言った。
「わからなかった……。これでいいのかどうかもわからなくなって……気がついたら手首からたくさん血が出てて――」
「わからなかったらひとりで結論出しちゃうの? それは違うよ! 絶対間違ってる!!」
「……優鶴……」
 美咲はゆっくりと顔を上げ、優鶴の赤く染まった顔を見た。
「いつの間に美咲ちゃんは手を離したの? 私は、ずっと繋いでるつもりだったよ。実際に繋いでないときでも、 ずっと、心で手を繋いでたんだよ!」
「……うん……」
 美咲はいつも、優鶴と手を繋いでいた。
 それは、単にふたりの仲が良いからだけじゃなくて。
 片方が悩みを抱えたり、嫌なことを経験したり、浮かない顔をしていたりするときに、もう片方が励ましてあげよう という意志が、形になったもので。
 いわばお互いにとっての、命綱みたいなものだった。
「でもっ美咲ちゃん、その手離したよ? しっかり繋いでようねって約束したのに、自分から離しちゃったんだよ!?」
「……そ、だね……」
「それじゃ前の中学生のときの美咲ちゃんに戻ってしまったみたいじゃない!!」
「………」
 優鶴の言葉に、美咲は反論できない。
 高校に上がってから、素直になろうと努力していた、今の美咲。
 中学の間、人の言うことを聞けず、素直になることさえ拒んでいた、過去の美咲。
 優鶴というかけがえのない親友を得てから、美咲の心は、着実に成長を続けていた。しかし、遅れを取ってしまった ぶん、急いで優鶴のような強い心を持とうとした彼女の気持ちは、その実とても不安定だった。
 だから、もし無理が祟って、優鶴がしばしば体調を崩していたように、自分の心も崩れてしまうとどうなるのだろうと、 美咲は、心の奥の誰にも気付かれないところで悩んでいたのだった。
「あのとき、美咲ちゃんは……私の手を取ってくれたふりして、すって離して……全然素直じゃなかったよね」
「……うん」
 中学生のとき、美咲にとって優鶴は友達ではなく――邪魔者だった。
 せめて自分に同情してくれるひとの存在を得たい。そんな美咲の願いにそぐわない打診をかけてくる優鶴を、彼女は、 寄ると触ると払い除けようとした。
 だけど、そんな自分本位の美咲に、三年もの間、優鶴は言葉をかけ続けた。美咲がみずから妥協のための術を見つける ようなひとだとは思えなかったけれど、いつか振り向いてくれるだろうと思って、優鶴は粘った。
 そうして振り向かせた美咲と繋いだ手を、優鶴はなにがあっても離すまいとした。
「おんなじだよ。今の美咲ちゃんもあのときとおんなじだよ!」
 顔を伏せて、優鶴は、過去の自分に立ち戻ってしまった美咲に対する気持ちを、率直に口に出した。
「わたしっ、素直じゃない美咲ちゃんなんて嫌い! だいっ嫌い!!」
 優鶴が顔を持ち上げる。目から、涙が零れ落ちる。
「優鶴……ごめん……」
 美咲の声が曇る。
「ばかっ! 今更謝っても、遅すぎるよ!」
「ごめん……ほんとにごめんね、優鶴……」
「ばかだよ、美咲ちゃんはやっぱりばかだよ……戻ってきてもばかなままなんだから……っ!!」
 上体を支えていた優鶴の腕が折れ曲がり――彼女は、美咲の胸の中へ倒れ込んだ。
 細い肩を力強く抱き締め、美咲も、ぎゅっと閉じた目から、涙の粒を落とした。
「ゆ、づる……っくっ!」
「うわぁあああぁんっ!!」
 優鶴が声を上げて泣く。
「もう、こんなこと、しないからっ……ひぐっ……あたし、ずっとっ、ゆづるの側に居たいからっ……もうっ、逃げない からっ……!」
 嗚咽を漏らしながら、美咲は、言葉を少しずつ押し出した。
 そして顔を下げて、優鶴の頭に、自分の頬を密着させる。
「あたしっ、ひとりじゃ嫌だから……弱くて、寂しくて、どうにも……がっ、ずっ……ならなぐでっ、だからっ……」
「わぁぁあああぁん!」
「ゆづると……もっかい手、繋ぎたいよ!!」
「みさきちゃぁあぁんっ!!」
「ずっと、ずっとっ、ゆ、づるをっ、守って……ぐずっ……ゆづるにっ、まもられでっ……ふたりで頑張りたいよぉっ!!」
 美咲の目から、止め処なく涙が溢れ出す。
 優鶴は美咲に思いの丈をぶつけ、美咲はそれを汲んで、自らの行いを反省した。
 ふたりが流す涙の中に、お互いを受け容れまいとする気持ちが含まれていてほしい。繋ぎ合った手を離してしまう 原因になるような負の感情を、この場で涙と一緒に流してしまってほしい。恒幸は、そう願いながらふたりを見守った。
 やがて、言葉の代わりに泣き声だけが響いていた空間に、先生の声が加わった。
「遠方くん……」
「……」
「柿本さん……本当に無事で良かったわね」
「……はいっ」
 ……――。
 ――どれぐらいの間、ふたりは泣いていただろうか。
 時計を見て今の時間を知っても、ここに来た時間を確認するだけの余裕もなかった恒幸にはわからない。仮に わかったとしても、それは自分の心を落ち着かせるだけで、ベッドの上のふたりにはなんの得にもならない。
 改めて、美咲の姿を見る。形はどうあれ、彼女の顔を見ることができて嬉しい。一時は、二度と見れないかもと 思うことがあった。そんな恒幸の心配をよそに、彼女はその顔を、体を、恒幸と優鶴の前に見せてくれたのだ。
 赤い水玉模様の入った彼女のパジャマは、ところどころ、ひどく汚れている。きっと、転んだのは最後に気を失ったとき だけじゃなくて、途中何度もそうなったのだろう。そうでもなければ、こんなに何箇所も汚れたりはしないはずだ。
 美咲がこれほどまでのリスクを冒して学校を目指した理由とはなんだったのだろうかと、恒幸は考える。
 彼女の心の中に、諦めが無かったのは疑いない。なにかが気になって、あるいはなにかを求めていたからこそ、 彼女は居ても立ってもいられず、病院を抜け出したのだ。
 恒幸を求めたのだろうか。
 優鶴を求めたのだろうか。
 それとも、ふたりともを求めたのだろうか。
 はたまた、まったく違うものを求めたのだろうか。
 これまで美咲の気持ちを言い当てた経験は少ない。唯一、美咲が口に出す前に恒幸のほうから気付いてやれたのは、 彼女とデートをした折に見抜いた、彼女の“弱さ”ぐらいだ。今度の彼女の自傷だとか、病院を抜け出してきたこと だとか、そういったことも、彼はまったく予想していなかった。
 正直、この期に及んでも美咲の心を掴むことに四苦八苦しているのには、歯痒さを感じる。
 でも、どうしても美咲の心が読めないときは――彼女の危なっかしい行動を未然に防ぐことが適わなかったときに は――彼女が抱いていた思いを、親身になって聞いてやるという方法もあるのではないか。せめてあとからでも、 美咲が行動を起こすときに感じていたことを聞けば、彼女にまた、一歩近づけるのではないか。
 ふたりが居る隣のベッドに、彼が腰を下ろす。出入り口から戻ってきた先生も、椅子に腰掛けた。彼女は美咲と 優鶴のふたりを気遣って、扉に“取り込み中”の掲示を設けてくれたのだ。彼女が「ちょっと待ってて」と言って 席を外したとき、恒幸は、ハンカチか、タオルか、氷嚢の入った冷たいアイピローでも持ってきてくれるのかと 思った。でも、先生は、もっと味なことをやってくれていたのだ。
 このときばかりは恒幸も、そして先生も、彼と美咲が保健室のリピーターでよかったと思った。
 やがて美咲のしゃくり上げる声が収まり、彼女は、小さな声で恒幸を呼んだ。
「……せんぱい……」
「美咲ちゃん……」
 恒幸は俯けていた顔を上げ、美咲を見る。
 彼女の胸の中では、優鶴が今なおしゃくりながら肩を上下させている。美咲が優鶴の保護者を務めているという、一学期 に見た構図が、 恒幸の脳裡に蘇った。
 赤ん坊をあやすように優鶴の髪を撫でながら、美咲は言う。
「ごめんなさい……いっぱい、心配かけちゃいましたよね」
「ああ……」
 恒幸は、正直に答えた。こんな状況なのに、否定できるはずもない。美咲は彼と繋いだはずの手を離し、自分を 救ってくれたはずの優鶴の手も離して、独断で行動を取ってしまったのだ。
 不安定な心を持つ美咲に自分ひとりで判断を下させるのは、彼としても忍びなかった。美咲が心を成長させて、 それを以てして恒幸と優鶴をあっと言わせるようになるまでは、手を繋いでいたかった。
 それなのに、手を繋ぎ合うことでできた三角形の、美咲という一点が消失することで、残った二点の存在は 揺らいだ。心配のあまり、ふたりの心は動揺した。そうさせた美咲に対して、好い気がするはずがない。
 優鶴の詰問と似た性質を持つ恒幸の眼差しを、美咲は真摯に受け止める。
「あたし……先輩と優鶴が居るのに、そんなことも忘れて……やけになって、すごく苦しかったんです」
「……うん」
「でもなんでか、すごく寂しい気持ちにもなって……それがなんでなのか、手首を切ったときはわかりませんでした」
「………」
「でも、今になって思うんです……三人で一緒に居るから、寂しくないんだって」
 そう――美咲と優鶴と恒幸は、三副対なのだ。
 三人揃って初めて、楽しさとか、嬉しさとかを分かち合うことができる。ひとりでも欠けてしまえば、分かたれた者 どうしが、寂しい気持ちになった。優鶴が退部に悩んでいたときも、美咲が病院に運ばれたときも。
 バンドは、メンバーがひとり足りないだけで、演奏を完成させることができない。
 それと同じように、三人の絆も、ひとりが欠けるだけで、その全体が揺らいでしまう。
 美咲は、腕に抱いた優鶴に目線を落とした。
「優鶴の言うとおり……あたし、なにもわかってなくて……。命の重さも、嘘を隠してた悪さも、ふたりに頼ればよか ったことも……」
 ひくっ、ぐすっ、という優鶴の声が、時折美咲の声を遮る。
 構わず、美咲は続けた。
「そういうことをわかろうともしないで手首を切ったのが、いちばん弱いとこだったと思うんです」
「……うん……」
「先輩、あたしに言ってくれましたよね……。自分がどうしようもなく弱いと思うんだったら、無理に強がって 弱さをごまかすんじゃなくて、自分よりも強いひとに頼ればいいって」
「……ああ」
 恒幸は、美咲とデートをした日、川辺のベンチで彼女にかけた言葉を思い出す。
 ――弱くたって、頼れる人が居るんなら、無理して強がる必要なんてないんだ。
 あの言葉を聞いたあと、美咲はそれまでよりも、ずっと素直になった。強さを装っていただけの彼女は、その無用の背伸び だけで、素直じゃない女の子と言えたのだから。
 無断欠席をした優鶴に不安を抱いたときも、彼女は恒幸の「優鶴ちゃんに、俺が会いたいからと伝えてくれればいい」と いう言葉を信じ、彼を頼りとした。
 そして彼女が優鶴と恒幸のデートに割り込んだとき――彼女は、自分の夢を、正直に訴えた。
 思えば、自分が美咲の気持ちを揣摩して投げかけたあの一言は、少なからず、彼女の気持ちに変化を与えていた のではないか。自分の何気ない一言が美咲を励まし、夢を諦めかけていた優鶴の手を美咲が引き、ふたりの後輩が 二学期に入ってから笑顔で練習に臨んでいたからこそ、自分は、クラスメイトの長束や、腐れ縁の勝流にも楽しそうな 顔をしていると思われたのではないか。
 恒幸は、自分があのときかけた言葉の重みを、初めて認識した。
「そう言われてまだああやってるなんて……あたし、どうしようもない馬鹿ですよね」
「………」
 いや違うとも言えないし、うんとも言えない。
 いくら恒幸の言葉が美咲を励ましていたとはいえ、彼女は正気を失っていたのだ。普段から恒幸の言葉を意識していた のならこんなことにはならなかったのだろうけど、なってしまった以上、この言葉を思い出せなかったのは仕方が ないと言うしかない。
 複雑な表情で、恒幸は美咲を見つめる。
「でも、いいんです……。あたし、ああやって今までもやもやしてた自分を壊して……生まれ変われた気がするんです」
 彼とは正反対に、美咲の表情は柔らかになっていく。
「確かに、先輩に話してたら、この傷もなかったかもしれません。でも……」
 左手首の包帯を見る美咲の目つきが、穏やかになる。
「この傷を作ったからこそ、克服できた悩みもあると思うんです」
「……うん」
 美咲の言葉に、恒幸は頷く。
 彼とて、美咲が作った傷を、彼女が自分自身に“負けた”ことの証として見ることを望んでいない。こじつけでも いいから、手首の傷を、彼女が精神的に成長するための足がかりとして見ることを可能にするような理由がほしい。
 悩みの克服。それはまさに、彼にとって、美咲に口に出して言ってほしい言葉だった。
「だから、あたし……先輩が卒業するまで……先輩と優鶴のそばに、ふたりのいちばん近くに居て……三人で、悩みも 共有して、本当に心から……作り笑いじゃない純粋な笑いを、ずっとしていたい、って思うんです」
 晴れやかな顔を彼に向けて、美咲は言った。
 彼女の決意に、恒幸も、傍で話を聞いていた先生も、つられて頬を緩ませる。
 美咲は表情を崩さずに、続けた。
「先輩はもう、あたしが停学だってことは聞きましたよね」
「ああ……」
「その間は、三人で一緒に居たくても、できませんよね」
「そうだな……」
「だから……あたしが停学を終えて、また学校に戻ってこれるようになったら……先輩と、優鶴の前に出てこれるように なったら……『おかえり』って、声をかけてほしいんです」
「……うん」
「長い停学の時間を、一日しか経ってないみたいに感じたいんです。長すぎる別れは、すごく辛いから……」
 美咲の目を見て、恒幸は思う。
 自分だって、学校に行けない日が一ヶ月も続くようなことになったら辛い。
 まして再開したときに『久し振り』だとか、『元気してた?』なんて言われてしまったら、離れ離れにな った時間の長さをいやでも意識してしまうだろうから……。
「わかったよ、美咲ちゃん」
 美咲の我がままなお願いも、もはや、今となっては状況を打開するための得策だ。
 そう思って、恒幸は、二つ返事で彼女の頼みを聞き入れた。
「先輩……絶対に、覚えていてくださいね」
「ああ。忘れたら、生卵青汁だよな」
「忘れたりなんかしたら……あたし、もう二度と先輩と口聞いてあげませんから」
「ちょっ……!」
 生卵青汁よりも遥かに厳しい罰を提案され、恒幸は一瞬度を失う。
 美咲は笑顔になって、彼に本心を披瀝した。
「えへへ……冗談ですよ」
「……好きだな、冗談」
「はい……。でも、お願いしますね」
「ああ」
 美咲の心を読みたいけれど、そう努めようとすると、つい彼女の言葉を真に受けすぎてしまって、しばしば冗談に 弄ばれることがある――これが彼女に言えない、恒幸の頭痛の種なのである。

 

 ほどなく、職員室から保健室の内線電話に、美咲の両親が到着したという連絡が入った。病院を抜け出したという 事実を美咲自身の口から伝え聞かされた保健室の先生が、慌てて彼女の両親に連絡していたのだ。
 自分で歩けると言った美咲の肩を念のため支えてやりながら、恒幸たち三人は彼女の両親が待つ、学校の正門を 目指して歩き始めた。
 パジャマ姿に履物は病院のスリッパという出で立ちの美咲を、すれ違う生徒たちは訝って見たり、けらけらと 笑ったりした。
 笑えばいい。馬鹿にすればいい。
 どうせお前たちはなにも知らないのだから。
 美咲の身に、なにが起こったのかも。
 彼女がどんな思いで、こんな状態になったのかも。
 ただひたすらに前だけを見て、三人は昇降口を抜ける。並木道の玄関をゆっくりと進み、正門のところへ辿り着くと、 そこには一組の男女と、エンジン音を立てる白い乗用車の影があった。
 その中に、恒幸と優鶴が先頃目にした人物が居た――美咲の母親、智恵だ。
 彼女はあのときと同じ姿で、看護士の制服に身を包んでいる。
 ……となれば、その隣の、作業服を着たいかつい面構えの男性は……。
「――美咲!」
「お父さんっ!」
「こんの馬鹿野郎がっ!!」
 ――バチンッ!
「あうっ!」
「美咲っ!」
「美咲ちゃん!」
 一瞬の出来事だった。
 父親のもとへ駆け寄った美咲は頬を平手打ちされてよろめき、智恵と恒幸、優鶴の三人が見るに見かねて声を上げた。
「なんでぶたれたのか、お前はわかってるだろ」
「……ごめんなさい」
 平手打ちされた左頬を両手で抑えたまま、美咲が弱々しい声で謝る。
 姿勢を崩さず、美咲の父――鉄平は続けた。
「謝る前にな、俺にぶたれた理由を言ってみろ」
「……あたしが、勝手に病院を抜け出したこと――」
 ――バシィッ!
「あう!!」
 ガードの無かった右頬に、鉄平が二度目の平手打ちを喰らわせる。
 美咲は大きく体勢を崩したものの、どうにかバランスを取って転倒を免れた。
 眉を吊り上げて眉間に皺を寄せ、鉄平は怒鳴った。
「お前自分がやったことがどういうことかわかってんのか!?」
「……」
「やめてっ、美咲はなにも……!」
 度を越えた叱責を浴びせられる美咲を見ていることに我慢ならず、智恵が仲裁に入ろうとする。
 しかし、鉄平は、
「お前になにがわかる!?」
 美咲に言ったのと同じぐらい暴力的な口調で、智恵に向かって言った。
「美咲は、下手すりゃ車に轢かれて死んでたかもしれないんだぞ!!」
「それでも美咲はちゃんと生きてここに居てくれてる……過ぎたことより、今に目を向けて……お父さん」
「じゃあお前はあれか、過ぎたことがどうでもいいっていうんなら、美咲が死んでしまうようなことになってても良かった っていうのか!?」
「今こうして美咲は私たちの目の前に居るんだから、そんなことをいちいちあげつらっていてもしょうがないでしょ!?」
「お前なぁっ…!」
「やめてくださいっ!!」
 鉄平と智恵の口論を制する大声。
 その声の主に、その場に居た全員の視線が集中する。
「美咲ちゃんは……悪ふざけのつもりで病院を出てきたんじゃないんです!」
「優鶴……」
 保健室で思いきり泣いてすっかり赤くなった目で、優鶴は鉄平を睨みつける。
 美咲は、心配そうな顔をして、自分を庇ってくれる優鶴を見つめた。
「なにも得るものがないのに、わざわざ病院を出てこれると思いますか!?」
「得るもの……?」
 鉄平が怪訝そうな顔をする。
 臆せず、優鶴は続けた。
「そうです……美咲ちゃん、気掛かりだったんです。文化祭のライブのことが」
「それはもう、諦めたはずじゃないのか? だからこうして、手首を切ったんじゃないのか?」
「いいえ、違います」
 優鶴は鉄平と合わせた目を逸らさずに、淀みのない弁舌を振るった。
「停学って言われてからも、美咲ちゃんはずっとライブのことを気にしてたと思うんです」
 優鶴の言葉に、恒幸も同意した。
 本当なら――優鶴の事情が優先されていたなら、三人は二学期に入っても、軽音部のメンバーとして集まることが できなかっただろう。当然そうなれば、三人のうち誰もが、文化祭に対して、期待とは真逆の気持ちを抱くことに なっていただろう。
 でも、美咲がこの三人で再び、軽音部員として集まって練習したいと望んだから、三人に笑顔が戻ったのだ。 彼女が文化祭のライヴに馳せる夢が、彼女自身を失望させる結果に繋がるはずがない。
 恒幸は、そう思った。
「……だったらなんでこいつは手首を切るようなことをした? それを優鶴ちゃんが説明できるとでもいうのか?」
 鉄平の口調は、依然として厳しい。
 優鶴は、徹底抗戦の構えで、彼に立ち向かった。
「だって美咲ちゃんは我がままだから……自分だけに良くなるように解釈したかったから、こうなったんだと思います」
「それは我がままにもほどがあるだろう。いくら美咲でも、自分が傷つくのをいいこととは思わないはずだ」
「でも美咲ちゃんは……そうすることで、弱い自分自身を壊したいって思ってた」
「……!」
 鉄平の表情が引き攣る。
 おそらく、彼にとっても意外だったのだろう。中学校の卒業式のとき、優鶴の助けを借りて精神的に成長したはず の娘が、未だに弱さを引きずっていたということが。
 恒幸も、正直、この期に及んで美咲が自傷行為に走るなどとは思いも寄らなかった。彼女の心が、出会ったときと 比べて随分と成長していることを、彼もよく理解していたのだから。
 だけど、美咲はまだまだ“弱かった”のだ。彼女の心の九十パーセントが自信、あとの十パーセントが不安だと するなら、十パーセントの不安はどうしても、彼女にとって“しこり”だった。それ自体は小さくて気がつきにくい ものだけれども、ふとした拍子で、心全体に広がりかねない――それが美咲の持つ“弱さ”だった。
「弱い自分を敢えて傷つけて壊して……少し遠回りをしてでも、私たちのところに近づこうって思ってたはずなんです」
「……」
 本音の中心を正確に射られ、美咲は顔を俯けた。
「そう思ったことで……確かに美咲ちゃんは、私たちのところへ帰ってくるのが遅れました」
 鉄平から智恵に、優鶴は顔の向きを改める。
「でも、おばさんの仰るとおり、美咲ちゃんは私たちのところへ帰ってきたんです!」
「優鶴ちゃん……」
 智恵は眉根を寄せて、優鶴を見つめた。
 きっと優鶴は、病院に居たとき、涙に感情のコントロールを阻まれながらも、美咲に与えた意見に自信が持てないと言ったことを、 しっかりと聞いていたのだろう。それで、こんなにも雄弁に、美咲だけでなく、自分のことも庇ってくれているのだ ろう。
 智恵は、少し涙腺が緩むのを感じた。
「美咲ちゃんは手を切る前からずっと、遅れをとったぶんも含めて、私たちに追いついてこようと……私たちの ところに合流しようと必死だったんです」
 優鶴の顔が、再び鉄平に向かう。
「だから、今まで一度も、美咲ちゃんは私たちから逃げ出そうなんて……死にたいなんて、考えたことはないと思う んです!!」
「……」
 一言もなく、鉄平は俯いた。
 威勢を挫かれてしまった彼を差し置き、智恵が口を開く。
「優鶴ちゃん……ごめんね」
「おばさん……」
「美咲のために、そんなに必死になって考えてくれてるなんて……この子、本当に自分のことだけしか考えない 我がままな子なのに……それをわかってて、美咲を振り向かせようとしてくれてるんでしょ?」
「……はい」
 小さな声で、優鶴は返事をする。やっぱり自分たちが置かれている状況は、中学校の卒業式のときに似ているな、と 彼女は思う。
 美咲は確かに、我がままな女の子だ。だけど、優鶴は、そんな美咲を放っておけなかった。我がままだからと いって、好きにすればいいと言うわけにはいかなかった。どうしようもなく、彼女のことが心配になって。
 だから優鶴は、美咲の考えをつねに自分の心の一部として取り入れることで、彼女のことを理解し、振り向いて くれるよう訴え続けたのだった。
「美咲はいつも必死で頑張ってた……優鶴ちゃんの言うとおり、あなたたちに追いつこうとして、時には足掻いたり もしてたわ」
 娘の姿を横目に見ながら、穏やかな顔で智恵は言う。
「でもね、私今になってやっとわかった。美咲がいつも笑ってるのは、あなたたちと一緒に居て楽しいって感じる気持ちを 噛み締めるためだって……」
「……お母さん……」
 潤んだ美咲の瞳に、彼女を想う優しい母親の姿が映し出される。
「にっこり笑ってみたり、冗談を言って困らせてみたり、ドラムを叩いてみたり……時にはやんちゃなこともして……そ んなひとつひとつの行動があなたたちにアプローチしてるみたいで……その反応を美咲はいつも楽しみにしてて、 いい反応が返ってきたときには、あなたたちと気持ちを共有できたっていうことだから、それで……一緒に居られる 幸せを、胸いっぱいに感じてたんだと思う。そうでしょ、美咲?」
「……うん……」
 ほとんど首を動かさずに、美咲は、声だけで頷いた。
「だから今回のことも……手を切ってしまったことも、病院を抜け出してしまったことも……優鶴ちゃんと、遠方くん のふたりに近づくための必死の努力だった……私はそう思うの」
「……」
 智恵に顔を向けられた鉄平の口からは、やはり反論の言葉は出なかった。
「……ありがとう、お母さん」
 零れそうになる涙を指で拭いながら、美咲は、愛する母親に感謝の気持ちを示した。
「あたし、ここに居られて……お母さんの話を聞けて、すごく幸せだよ」
「……うん」
 美咲のもとへ歩み寄った智恵は、娘の肩にそっと腕を回して、彼女を抱擁する。殊勝な娘の気持ちが母親に、母親の 思い遣りが娘に伝わる瞬間だった。
 ――美咲は、ふたりのもとへ戻ってきた。
 優鶴と智恵が口にした言葉を、恒幸は、心の奥で噛み締めた。
「……美咲」
 鉄平が、ぶっきらぼうに呼ぶ。その声の性質が、自分が頬を打たれたときのものとまったく違っていることに気付いて、 美咲は、驚いたように父親の顔を見つめる。
「早く車に乗れ。俺と母さんは仕事返上でお前を迎えに来てやってるんだ。貴重な時間を潰しやがったらただじゃ おかんぞ」
「お父さん……っ!」
 美咲の顔が、ぱあっと明るくなる。
 彼女の日の光のように眩しい笑顔につられて、ようやく、鉄平も顔を綻ばせた。
「……本当にいい友達を持ったな」
「……うんっ!」

 

 最初に鉄平が、運転席のドアを引き開けて車に乗り込む。ドアを閉めると、彼は、シートベルトの装着を始めた。
 智恵は、保健室から正門まで美咲に付き添ってくれた恒幸と優鶴にお礼を言って、美咲と一緒に、後部座席に 乗り込んだ。ふたりがシートベルトを着け終えたのを確認して、鉄平が言う。
「よし、じゃあ出発だ」
「あっ待って、お父さんっ」
「……ん?」
 片手をギアに、片手をハンドルに、満を持した発車態勢だった鉄平は、美咲の声に出端を挫かれて、後部座席 を振り返った。
 美咲は、半分だけ開いていたガラス窓を全開にして、そこから顔を覗かせる。狭い窓からひょっこりと現れた彼女の 顔は、まるで小動物のようで愛らしい。にやりとしそうになるのを、恒幸はなんとか持ち堪えた。
「先輩っ」
「うん?」
「明日の文化祭……あたし、元気だったら一般参加で行きますからね」
「ああ」
 惜しいところで、美咲の夢は叶わなかったけれども。
 再び笑顔を見せてくれた彼女と、それから優鶴も含めて、三人で楽しく文化祭の催し物を見て回れるなら、 それで十分だ。
 恒幸は頷いて、彼女に言った。
「俺、3Aの教室で喫茶店やってるから、絶対来てくれな」
「もちろんですっ」
「美咲ちゃん、私も待ってるからね」
「おっけー」
 にっこり笑って、恒幸と優鶴に向けて親指を立てる美咲。
 そんな娘の無鉄砲さに、智恵は呆れて唇の両端を持ち上げる。
「ふふっ……美咲ったら、元気だったら、の話でしょ?」
「お母さん、あたしはもう元気だってば!」
 くるりと上体ごと智恵のほうを向いて、美咲が抗議する。
「無理はしちゃいけないわ。もう一回病院の先生と相談してみて、大丈夫だったら行ってもいいからね」
 言われて、美咲は両の拳をがしっと握り締める。
「よぉし、絶対大丈夫って言わせてやるっ!」
「……美咲、お前にそんな話術の才能なんてあったか?」
 運転席の鉄平が、フロントガラス越しに映る前方の景色に目を向けたまま言った。
 座席と座席の間から身を乗り出して、美咲は返す。
「話術はね、お父さんっ。強引に押し倒したほうの勝ちなんだよ!」
「……はいはい。まぁ頑張れな」
 棒読みに近い調子で、鉄平が美咲の言葉をあしらう。
「なにそれー、全然応援してないみたいじゃなーいっ」
「あははっ」
「ふふっ」
 恒幸と優鶴、それに智恵を加えた三人から笑いが漏れる。
 うんと陰に籠もった顔を美咲に向けて、鉄平は彼女に文句をつけた。
「あのな、早く車発進させろ、馬鹿野郎」
「あっなにもないのに馬鹿って言った! いいもんっ、あたしここで夜の虫が鳴くまでずっと優鶴と先輩と三人で お話してるから!」
「それは美咲ちゃん……ちょっと酷だよ」
 行き過ぎた美咲の冗談に、苦笑いを浮かべる優鶴。
 バックミラーに写った優鶴の顔を一瞥して、鉄平は言う。
「友達を困らせてんじゃねえよ。ほら、早く顔引っ込めろ。じゃないと首が飛ぶぞ」
「まったくもー、お父さんはせっかちなんだから……」
 そう言うと、美咲は断頭台の受刑者とならぬよう首を引っ込めて、改めて、恒幸と優鶴のふたりを見つめた。
「先輩、優鶴……明日絶対行くから、待っててね」
「うん!」
「おう」
 ガラス窓が上げられ、声が伝わらなくなった車内から、美咲が笑顔で手を振る。両親もふたりのほうに顔を向けて、 会釈をする。ふたりも言葉が使えないぶん、笑顔で手を振って答えた。
 やがて車は発進し、ふたりは、リアガラス越しに美咲の顔を見る。
 その顔がどんどん小さくなって――車が見えなくなるその瞬間まで、ふたりは、美咲たちを見送った。

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