第10章 Fête de l'école - 文化祭
Voilà le jour de la fête de l'école qui vient. Leur rêve vient-il aussi?

 

【1】

 秋の晴れ間に偶然巡り合わせた、九月の第三日曜日。
 一年に一度、学校全体がお祭り会場に姿を変える日がやってきた。

 

 正門に近づくにつれ、吸い寄せられるように学校の中へと入っていく人たちの姿が、鮮明になっていく。
 見たところ、自分よりも年齢の低そうな子供が多い。この学校の生徒の、弟や妹だろうか。姉や兄が居るとしても、 こんなイベントのために日曜日を潰すとは考えにくい。仕事があるひとは仕事、無いひとは天城橋あたりまで デートついでにショッピング……ぐらいの線だろう。一人っ子である自分には、よくわからない話だが。
 私服の一般参加者に湿っぽい目で睨まれ、なんでそういう目をされなければならない、俺はここの生徒だぞ、 と思いながら正門を抜ける。並木道の玄関に拡がるひとたちを見て、思った。そりゃ生徒らしき人物の影がひとつも ないんじゃなあ……と。
 今の時刻は十時四十五分だ。恒幸は今朝、久し振りに寝坊をした。昨晩はべつに、眠れなかったというわけでも ないのに、今朝起きたのは九時ちょっと過ぎだった。ほぼ、半日寝ていたということになる。
 そういえば昨晩、親にいつもどおりの時間に起こしてもらうように頼んでおくのを忘れていた。おそらく、 去年、一昨年と同様、文化祭に行くぐらいなら家でゴロゴロしているほうが気が楽だと思われていたのだろう。 今になるまで親に軽音部のことを隠し通してきたのだから仕方ないけど、美咲と優鶴のふたりに元気な顔を 見せるために、寝坊だけはしたくなかった。
 夢が潰えるとこんなにも生体リズムが狂うのだなと、人込みを縫って校舎を目指しながら、恒幸は思う。

 

 筆記用具だけを入れてきた鞄を、教室前の自分のロッカーに放り込む。
 普段教師が主に出入りするほうの引き戸が入口専用となっていて、その手前に、立て看板が置かれている。
 このイラストは……間違いない。昨日黒板で見たものと、同じタッチだ。コンピューターグラフィックというのだろ うか、アナログ画材でそのまま描き込んだのではなく、一度パソコンで処理したものをプリントアウトしているという感じだ。書店に 陳列されているコミックの表紙と比べても遜色のない、整った筆遣い。これは磯村のやつ、本気でマンガ家とか、イラ ストレーターとかを目指しそうだな、と 思う。
 イラストの下には、筆記体のような優雅なフォントで、《A votre service!》という文字が書かれている。ア、と、サー ビス、は読めたが、真ん中のはわからない。ぼとれ……?
 英語じゃないのは確かだろう。自分のクラスの催し物につけられたタイトルなのにな、と苦笑した。

 

 中の様子は後回しにして、先に一年生の教室へ向かう。途中すれ違った一般参加者は、やっぱり、挨拶代わりに じっとりした視線を送ってきた。
 ふと1Bの教室の前で、足を止める。美咲は停学中なんだ。クラスメイトたちの中に、制服を着て混じっている はずがない。ちらっと教室の中を覗いて、恒幸は言葉を失う。
 ――犬が居る。
 ゴールデン・レトリバーと、ラブラドール・レトリバー、ウエルシュ・コーギー、トイ・プードル、それから柴犬……あ との一匹は犬種に心当たりがないが、全部で六匹の犬が、それぞれのケージの中で、寄り集まる人たちと戯れている。 恒幸の家の近所には、やかましく吠え立てる犬がたくさん居るけれども、ここに居る犬は、皆人懐っこそうだ。 闇雲に鳴き声を上げず、尻尾を振って、お手だとか、お座りだとかいう命令にも、ちゃんと応えている。
 なんだろうこれは、と思って、引き戸のガラス窓にある掲示を見る。1−B、生徒の飼い犬によるドッグセラピー、 と書かれていた。なるほど、普段学校ではできないことの例を上手く挙げているな、と思う。それと同時に、 もしかしたら後始末が大変になるかもしれないな、とも懸念した。いずれにせよ、よくこういう企画が通ったものだな と思う。
 少し足を進めて、C組の教室に差しかかる。掲示に“1−C 射的”と書かれてあるのを確認し、恒幸は、教室の 中に入った。スパンッ!という、的が射られる爽快な音が、彼を出迎える。そのあとに彼は、聞き慣れた声に 迎えられた。
「あっ、先輩」
 振り向くと、二つ縛りのちんまりした後輩の姿が、恒幸の視界に飛び込んできた。
「よっ、優鶴ちゃん」
 顔の向きと平行に腕を立て、恒幸が呼ぶ。
 優鶴はぱたぱたと、慌ただしそうに彼のもとへと小走りで駆け寄ってきた。
「だいぶ繁盛してるみたいだな」
 1Cの射的は盛況だ。他クラスの生徒だけでなく、一般参加者も多く入り込んできている。ゴム銃で的を射るものと、 壁に掛けられたダーツ盤を専用の矢で射るものの二種類があり、黒板には、上位五人の高得点を記録したスコアランキング などもある。
 皆が皆、真剣な目つきをしてゲームに興じている。
「おかげさまで……あ、先輩もよろしかったら遊んでいかれませんか?」
 そう言って、優鶴はふたつ持っていたゴム銃のうち、ひとつを恒幸に差し出す。その様子からして、彼女がゴムの充填 を担当する生徒のひとりなのだろうなと、彼は思った。
「ああ」
 頷いて、恒幸は、優鶴からゴム銃を受け取った。
「こういうの、あんまりやったことないから自信ないけどな」
 もちろん、射的がどういった遊びであるかを、高校生になった彼が知らないはずはない。だけど彼は、夏祭りの露店で 射的をした経験がなく、父親にやってみるかと言われても、遠慮の一本槍だった。
 優鶴はにっこりと笑って、彼に言った。
「大丈夫ですよ。ビギナーズラックっていう言葉もありますから」
 優鶴の口から出たとは思えない言葉に、恒幸は目を点にする。
「優鶴ちゃんさ」
「はい」
「お兄さんが実はスロッターとか?」
「えっ?」
 優鶴も驚いて、間延びした顔になる。
「あぁいや、パチンコとかスロットとか嗜んでるのかな、って」
「いえ……そんなことありませんよ」
 少し顔を伏せて、優鶴は否定する。
「あ、そなの?」
 ますます理解しづらくなって、恒幸の声が調子外れになる。だとすれば優鶴は、どこでそんな言葉を覚えてきた のだろうか……と思考を巡らせていると、彼女は言った。
「兄は、私と父のために真面目に働いてくれてますから……」
 言われて、恒幸の頭の中にあった雄慈ギャンブラー説が、たちどころにふっと消える。そうだ、雄慈が賭け事なんかに耽っていたら、 優鶴は学校に来れないようになってしまうだろうし、父親だって病院のベッドで安心して寝ていることができない だろう。
 なんとなくわだかまっていた優鶴の思い出話を掘り起こして、
「でも、お兄さん、家にお金を入れるって言って、優鶴ちゃんのギターの資金にしてたんだよな?」
 と言ってみたが、優鶴は苦笑して、
「……それはもう終わった話です」
 と、恒幸に返した。
「ははっ、まあそれもそうだよな」
 笑ってそう言うと、恒幸は、的がずらりと並んでいるゲームスペースの前に立った。両手でゴム銃を構え、ときどき アクション映画で見るスナイパーがやっているように、顔をゴム銃に近づける。
「よし、来いっ。俺のビギナーズラックっ!」
 照準を定めて、引き金を引く。
 飛ばされたゴムは彼の狙った的を外れ、音も立てず呆気なく壁に当たって、床に落ちた。
「あー……惜しかったですね」
 優鶴はそう言って、恒幸から銃を受け取る。腰に提げた巾着袋の中から輪ゴムをひとつ取り出して、彼女は、慣れた 手付きでそれを発射溝に引っ掛けた。それを恒幸に返して、言った。
「三回の合計点を出すんで、あと二回挑戦できますよ」
「おっけっ」
 再び、恒幸が両手でゴム銃を持ち、構える。いちばん上の棚の通知簿用紙は十点。上から二段目のCDの歌詞カードは 二十点。三段目のフロッピーディスク(使用済)は三十点。最下段のテレホンカードが四十点。的を床に落とすことが できれば、持ち点が二倍。一射目の挽回のために、彼が選んだ的は……。
 ――シュッ!
 ……スカッ。
 フロッピーの横を、飛ばされた輪ゴムがまたもや、空しく通過する。
「あちゃー……調子悪いなあ」
 苦笑いして、恒幸は優鶴に銃を手渡す。弾を補填して、優鶴はそれを再び恒幸に託す。
「頑張ってください。三度目の正直です」
 恒幸の二連続ミスをフォローするため、表情を晴れやかにする優鶴。
 無難に通知簿用紙を狙おうか、それとも、最後ぐらいいい点が欲しいからテレホンカードを狙おうか。しばし迷った あと、恒幸は決心して、ゴム銃を構えた。
「当たれっ!」
 ――シュッ!
 ……スカッ。
 無念にも、輪ゴムはテレホンカードとの衝突を回避した。
「あーあ……〇点かあ」
 ゴム銃を優鶴に返して、恒幸は苦笑する。
「でも、フォームは良かったと思いますよ」
 ゲームとはいえ大敗を喫してしまった恒幸をフォローするべく、優鶴は、口を極めて言った。
「うん。最後のテレカはもうちょっと左に撃っとけば当たってたような気がするな」
 恒幸が敗因を語った、そのとき――。
「どれ、あたしにもやらせてちょうだいなっ」
「美咲ちゃんっ!」
 振り返ったふたりの目が、キャミソールにミッドレングスのデニムパンツという私服姿の美咲を捕らえ、ふたりは 同時に彼女の名を呼んだ。
 はち切れんばかりの笑顔をふたりに向けて、美咲は言った。
「えへっ、来ちゃいました」
 恒幸は、彼女の全身を見る。腕の露出が昨日のパジャマ姿のときと比べて多いぶん、左手首の包帯が痛そうに見える。 だけど、それを除けば、以前の彼女となんら変わらない。笑った顔も。女の子とは思えないほどしっかりした 腕も。……女の子とは思えない、八十パーセント、いや、九十パーセントぐらいオフな胸も。
「お医者さん、大丈夫って言ってくれたの?」
「うん。病院抜け出すほど元気があったら問題ないだろうって」
 気遣わしげな顔をして訊ねる優鶴に、美咲は、得意げに笑って答える。
「医者には病院出たこと、怒られなかったのか?」
「いえ。心配はされましたけど……怒られはしなかったです」
 苦笑いを呈して、美咲は言う。
「っていうか……お医者さんにも怒られたら四連コンボでさすがにあたしも気が重くなりますよー」
「まあなあ……」
 美咲が病院を出たのは、やんちゃだからじゃなくて、元気であることを証明するため……か。えらく前向きに医者に 受け取られたものだなと、恒幸も苦笑する。
 幸いにも文化祭の前日だから良かった。これが向こう一ヶ月、イベントのないタイミングであったなら、間違いなく 美咲は医者にも咎められ、打ち沈んでしまっていただろうと、彼は思った。
 美咲はちよっと不貞腐れたような口調になった。
「先輩と優鶴と、お父さんだけでこりごりですっ」
「ふふっ……美咲ちゃん、ほんとに反省してる?」
 物柔らかな笑顔を美咲に向けて、優鶴が訊く。
「してるよー」
 口を尖らせて、美咲は答えた。
「まあまあ、今日はこうやってせっかく三人で集まれたんだし、真面目話は抜きでいこうぜ」
「はいっ」
 美咲と優鶴が、同時に頷く。
 恒幸の目の前に、ふたりの後輩が居る。美咲の目の前に、大切な親友と頼れる先輩が居る。優鶴の目の前に、 放っておけない親友と、思い慕う先輩が居る。三人にとって、この関係がいちばん理想的なのだ。
 こうして三人で集まっているときが、ほかのどんな時間に比べて楽しくて、幸せで。それはきっと、会うだけで、 実際に手を繋いでいなくても、お互いの心が自然に手を繋ぎ合うからなのだろう。
 もう二度と、美咲と優鶴を手放してなるものか。
 心の奥底でそんな、よそ聞きにはとても恥ずかしいことを考えながら、恒幸は、笑ったふたりの後輩の顔を 見つめる。
「じゃああたし次やらせてもらうね」
 美咲は優鶴からゴム銃を受け取って、発射位置についた。
 彼女が優鶴から受け取ったのは、恒幸が使ったものとは別のゴム銃だ。もしかすると、優鶴は、美咲が今日ここに 来ることを切に願って、ゴム銃をふたつ手に持っていたのかもしれない。勘繰っているようではあるけれど、 もしそうだったら、恒幸が願っていたことと同じだ。真相を確かめることなく、彼は勝手にそう解釈しておいた。
「これは先輩、こうやって、片手で構えて狙い撃ちするんですよ」
 右手でゴム銃を構え、左手は腰に置いたままの姿勢で、美咲は的を睨む。
 ――シュッ!
 スパンッ!!
 爽快な音を立てて、歌詞カードが撃ち倒され、棚から落ちる。
「おおっ」
「わぁ、美咲ちゃんすごーい」
 一発目からいとも容易く的を射てしまった美咲に、ふたりが感動の声を上げる。
 にっこりVサインで、美咲は言った。
「こんなの、朝飯前に飲むカルシウム強化牛乳より前ですよ!」
 彼女の言葉の後半部分がなんとなく腑に落ちなくて、恒幸は聞き質す。
「美咲ちゃん」
「はい」
「牛乳って、毎朝飲んでるの……?」
「はいっ。あ、朝だけじゃないですよ。帰ってきてからと、それから寝る前にも飲みます」
「一日三杯……」
「そです。あたし牛乳大好きなんですよ!」
「……んー……」
 美咲に悟られないよう、素早く目を動かして、彼女の胸を盗み見る。やはり、キャミソールはストンと降りていて、 凹凸が現れていない。隣に居る優鶴の同じ部位も盗み見してみたが、彼女は制服を着ていても、恒幸の目からは女の子 らしいボディラインを持っていることがよくわかる。
 確か、牛乳は女の子が飲むと胸が大きくなると、どこかで聞いた気がするのだが。
 優鶴よりも七センチほど身長が高いのはともかく、どうして肝心の部分に効果が現れないのだろうと、健全なのか、 不健全なのか、去年までは考えもしなかったことを、彼は考える。
「ん、まあ、そういうこともあるよな……」
「……?」
 美咲が首を傾げる。とりあえず、彼女の口から「目つきがいやらしいですよ」という類の言葉が出されなかったことに、 恒幸はほっと胸を撫で下ろす。
 優鶴に輪ゴムをかけてもらった銃を受け取り、一射目と同じ構えで美咲が引き金を引く。弾は勢い良く三段目の フロッピーに向かって飛び、的を倒した。
 二射目を終え、美咲の持ち点は二十点の倍プラス三十点で、合計七十点。黒板のランキングを見ると、五位から順に、 八十点、百十点、百四十点、百六十点、二百点となっている。つまり、美咲が三射目でテレホンカードを床に落とすこと ができれば、彼女は一位に入ることになる。
 三射目の準備を整えた美咲の目つきは、真剣そのものだ。一射目、二射目に比べて照準を定めるのに時間を掛け て――彼女は、引き金を引いた。
 ――バシュッ!
 スパンッ!
 見事、テレホンカードが射られて、床に落ちる。
「すげえ!」
「七十に四十で二倍だから……二百二十。一位だよ、美咲ちゃん」
「えへへっ。まあこんなもんですよ」
 照れ臭そうに、美咲はぽりぽりと指で頬を掻く。
「あっ先輩、私得点の書き換えをしてきますから、ちょっとこれを持っててもらえませんか?」
 そう言って優鶴は、手に持っていたゴム銃を恒幸に差し出す。
「ああ、いいよ」
 彼が頷いてそれを手に取ろうとすると、
「あたしが書き換えに行ってあげる」
 美咲が使ったゴム銃が先に、彼の手に載せられた。
 優鶴は慌てて、恒幸の手に載せられたゴム銃を取る。
「そんな、悪いよ」
「ううん、遠慮しないで」
 そうとだけ言うと、美咲は、それこそゴム銃から射られた輪ゴムのように、黒板へと急いだ。そして、チョークと 黒板消しを手に取ると、四位から上の点数をひとつずつ繰り下げて、いちばん上に、「220」と書き入れた。消される 前の数字に比べると、美咲の板書した数字はずっと丸っこくて可愛い。筆跡女の 子らしいな、と恒幸は思った。
 チョークと黒板消しを置くと、手をパンパンと払って、美咲は恒幸と優鶴のところへ戻ってきた。
「ささ、次優鶴の番だよ」
 そう言って美咲は、まだうっすらとチョークの粉がついている手で優鶴の二の腕を掴み、強引にゲームスペースの ほうに体を向き直らせる。おいおい、優鶴ちゃんの腕が汚れるだろ、と恒幸は言おうとしてやめた。というのも、 優鶴の目が自分の腕にではなく、美咲の顔に向けられていたから。
 どきまぎしながら、優鶴は言った。
「え、えっ……私は、ここの受け付けと案内をしなくちゃいけないから……」
「一回ぐらいいいんじゃない? ほら、早く」
 優鶴の持っていたゴム銃をひとつ預って、美咲が急きたてる。
「う、うん」
 半ば観念したような表情になって、優鶴は自分の持っているゴム銃に輪ゴムを装填した。そして、ゲームスペース の前に立つと、彼女は美咲のフォームに倣って、右手で銃を構えた。
「片手で持ったらいいんだよね?」
「うん。あとは集中して」
 美咲に言われ、優鶴はゴム銃を構えた手を伸ばす。美咲が同じフォームで構えていたときはサマになっていた気が するのに、優鶴だと妙に違和感があるなと、恒幸は思う。
 ところが、優鶴が放った弾は……。
 ――バシュッ!
 スパン!!
 恒幸の偏見を良い意味で裏切り、テレホンカードを撃ち落としたのだった。
「うおぉっ」
 美咲が両手を握り口を縦に大きく開いて驚き、
「すげえ、優鶴ちゃん!」
 恒幸も感動の声を上げた。
 優鶴はふたりのほうを向いて、気恥ずかしさから、少し縮こまった。
「いえ……まぐれですよ、きっと」
「まぐれなんかじゃないよ。ど真ん中命中してたし」
 まるで、撃たれたテレホンカードの立場になったように、美咲は言う。先ほどの朝飯前のカルシウム強化牛乳 の話に続いて、彼女の言葉が引っかかるのを感じて、恒幸は訊いてみる。
「ど真ん中って……見えるのか? 弾がどこに当たったか」
「はい」
 射られた的の立場になることができるのなら話は別だが、人間にそんなことはできない。だとすれば、美咲が優鶴に そう言った理由はふたつ。動体視力が立ち勝っているか、単に優鶴を喜ばせたいがための美辞麗句か。どちらも ありそうなので、思いついたほうから先に確かめてみる。
「美咲ちゃんって、視力いくら……?」
「……えーとぉ……」
 美咲は頬に人差し指を当て、しばし考え込んで、
「うーん……忘れました」
 と、記憶へのアクセスに失敗したことを恒幸に告げた。
「あでも、視力検査のCはいちばん下までほぼ全部見えますよ」
 思い出したように、彼女はそう付け加える。
「マジで!?」
「えへ、まじです」
 美咲は笑って、自分に相当な視力があるということを認めた。
 その一方で、恒幸は驚きを鎮められない。確か美咲は、優鶴とデートをした日の前日、天城橋のカフェで打ち合わせ をしたときに、午前〇時ごろに寝ていると言っていた。それにはたぶん、観たいテレビ番組があるとか、実はゲーム に熱中しているとか、マンガを読んでいるとかいった理由があるはずだ。インターネットのことも知っていたから、 パソコンを立ち上げていることもあるかもしれない。
 それに、彼女の成績が思わしくないといっても、いちおうは学生の身分だから勉強もするし、スコアを眺めていることだって あるだろう。極めつけには、恒幸と優鶴も含めて、三人は都会に住んでいる。山や畑を見晴るかすことのできる田園の 村に比べれば、住んでいて視力が落ちるのは仕方がないことなのだ。
 それでいてCが全部見えるとは、なんたる奇跡的な目。
 美咲の視力を心の中で称える恒幸の横で、優鶴が言う。
「羨ましいなあ……。私なんか、よく見えて下から三段目ぐらいまでだよ」
「いやそれでも凄いって……」
 下から三段目ということは、一・四ぐらいだろうか。そんでもって、全部見える美咲は二・〇ぐらいだろうか。自分の 視力とはかけ離れたふたりの視力について、恒幸はそう見当をつける。
「先輩は視力が良くないんですか?」
 優鶴に訊かれ、恒幸は答えた。
「俺は確か、〇・三ぐらいだったと思う」
「えっ? それじゃちゃんと眼鏡かけないといけないじゃないですかー」
 美咲が心配そうな顔で言う。
 恒幸はけっこう、自分の悪い視力を気にしているほうだ。小学校五年生までは一・六を保っていた彼の視力は、翌年の 検査で〇・八まで下がった。そのとき彼は、どうして去年までは見えていたCが見えないのだろうかと、純粋に 頭を悩ませた。
 中学、高校と進んでも彼の視力は回復することなく下がり続け、去年からは検査後、眼科に通うように言われるまでに なってしまったのだった。
 なんとなく美咲の言うようにすることができない理由が、恒幸にはあった。
「いや、かけたらかけたで友達から『似合わねー』とか言って笑われるし、眼鏡かけてるやつには『仲間〜』だの『同 胞〜』だの言われるし……痛し痒しなんだよな」
「あははっ、それわかります」
 美咲は大仰に笑って、歯に衣着せぬ物言いをした。
「先輩って、眼鏡かけたらメガネザルみたいですもんね」
「………」
 一瞬、恒幸は返す言葉に迷った。表情を固まらせたまま、彼は、楽しそうな美咲の顔を見る。しばらく考えて、彼が 口にしたのはこんな科白だった。
「じゃあ今はただのモンキーっすか……」
 それに対して、美咲は一段と明るい笑顔で、
「つねゆキッキー、って感じですねっ!」
 などと言う。両腕を上げてふたつの円を描き、指先を頭に押し当てる剽軽な彼女のジェスチャーを見て、
「……うぷぷっ」
 優鶴が必死で、噴き出しそうになるのを堪える。
「うわっちょっ、優鶴ちゃんまで!」
 言いようのないショックを受けて、恒幸が声を上げる。
 ぴくぴくと肩を震わせながら、優鶴は落ち着きを失った声で言った。
「すっすまみせ……っく、ちょっと面白すぎて……」
「あははっ。我慢しなくても口全開にして笑ってあげたらいいのに」
 美咲と優鶴が、ふたりして恒幸のことを笑っている。目の前の彼女たちはとっても楽しそうに見えるのに、恒幸は、 できることなら、その姿を穴の中から遠慮気味に見たいと思った。
「あのお、俺の立場は……」
「ありません」
「ぅえっ!?」

 

 射的を終え、1Cの教室を後にする一行。
 さっき美咲のクラスで見た可愛い犬たちをもう一度見るために左に曲がろうとした恒幸の腕を引き、美咲は、遠回り をしてでもいいから右に曲がってほしいと彼に告げた。そんなにクラスメイトたちに変な目で見られるのが嫌なのかと 彼が訊くと、美咲は、嫌なのはクラスメイトじゃないと言う。そう、彼女が嫌なのは、犬なのだ。
 犬にまつわる言葉とか、犬の縫い包みとかなら大丈夫なのだそうだが、リアルの犬はどうも駄目らしい。なにか トラウマを持っているのだろうと、恒幸は思う。だけど、その内容を美咲に問い質そうとはしなかった。ここで 彼女にもしも「犬が嫌いなひとって変ですよね」なんて言わせてしまったりすれば、知り合って間もない頃に交わした 約束を反故にしてしまう。美咲の表情が曇りださないうちに、恒幸は、自分のクラスの催し物であるメイド喫茶に 話頭を転じた。
 迂回ルートを辿り、三年の廊下にE組側の階段から入る。これまで恒幸は、意識的に遠回りをするということをした ことがなく、学食や地下の部室、どこへ行くにも最短ルートを辿っていた。去年以前、授業の始めに仮病を訴えたとき も、彼は教師の目を逃れることを考えず、ただ堂々と、最短ルートを辿った。だから、今のような迂回ルートは、 彼にとって、それなりの負担にはなっていた。しかし、隣でにっこりしている美咲の顔を見ると、彼女から少し 元気を分けてもらえた(盗んだ?)ような気がして、疲労も有耶無耶になってしまうのだった。
 3Aの教室の前に到着する。入口専用と掲示のある、開放された前側の扉から、三人は中に入った。
「お邪魔しまーすっ」
 まるで他人の家にでも上がりこむかのように、美咲は声を張り上げる。そのパワフルな声量に、教室の中に居る 人間の、過半数の視線が向けられた。
 ――カランッ。
 乾杯のグラスの音。グラスの中の氷をかき回す、涼しげな音。テーブルに着いた客の、笑い声混じりの会話。トレイ を手に、せわしそうにオーダーの品を運ぶメイドさん●●●●●。 うしろの掲示板と校内放送のスピーカー、それに無骨な時計を除けば、ここが授業を受ける場所だと信じられない ほどのインテリアに、後輩たちの口が開きっぱなしになる。
 三人の前に、ボーイの恰好をした勝流が現れ、白い歯をきらりと光らせた。
「いらっしゃいませー……って、おうツネさん、おうおうおう」
 初っ端から営業スマイルを崩し、口を尖らせて勝流が恒幸に迫り寄る。左サイドの美咲と、右サイドの優鶴に サンドウィッチされている自分のことを妬ましく思っているのだなと、恒幸は解釈した。
「なんだお前、オットセイは大人しく動物園か野生に還ってろ」
「あはははっ」
 美咲が腹を抱えて笑う。
 自分ではいつもの他愛ない接し方で切り出したつもりだったけど、美咲にはウケたか、と、恒幸は心の中に 占め子の虎を描く。
 あたふたしながら、勝流は言った。
「ちょ、オットセイって……つうかいきなり笑われた!?」
「ご愁傷様」
 可哀相だけど、見ていて面白い。そんな気持ちから、恒幸は、おのずとその言葉を発した。
「ちょおマジっすか……」
 体面を傷つけられ、勝流は凹んだ。無理もない。生徒会長を務めている彼にとって、体面は命の次に大切なものなのだ。 初めて言葉を交わす美咲に笑われては、ショックもひとしおだろうと、恒幸は思う。
 どうにか気を取り直して、勝流は恒幸のほうに向き直った。
「……ってかツネさん。お前の連れってことは、例の後輩たちだな?」
「ま、そういうことだな」
 恒幸がどうして自信を持って返事しなかったのかというと……。
 勝流に、美咲と優鶴以外の女子については脈がないということを、それとなく指摘された気がしたから。
「あたし、1Bの柿本美咲っていいます。よろしくお願いします!」
 上半身をぐいっと四十五度以上曲げて、美咲が元気良く自己紹介をした。
 優鶴も、それに続いて会釈する。
「私は、同じC組の秦野優鶴と申します。覚えていてくださると嬉しいです」
 優鶴がにっこり笑うのと、美咲が上体を起こすタイミングが同じだった。
「俺はこいつの小学校からの腐れ縁で、この学校の生徒会長も務めさせてもらってる、稲津勝流。よろしくな」
 営業スマイルとは別の種類に属する笑顔を作る勝流に、優鶴は、
「イナズマザルさん……ですか?」
 と言って、首を傾げる。
「ああうん……」
 途端に、勝流は失速した。
 恒幸は、勝流のフルネームを聞いた瞬間にその答えに辿り着いてしまう優鶴のウイットを評価するとともに、 彼女とはどこか一脈相通じるものがあるな、と思った。
「ほへー……お猿さんがいっぱいですねえ」
 感動と驚きとがミックスされたような声を、美咲は出す。
 勝流のことを猿と呼ぶのに気兼ねしない彼女の態度よりも、先につっこみたい部分を見つけて、恒幸は言う。
「ふたりなのにもういっぱいかよ……」
「えへ。なんか、エレベーターにお相撲さんがふたり乗ったときの重量オーバーみたいな言い方ですねっ」
「…………」
 自分よりワンランク上の美咲のウイットに、恒幸は閉口する。
 彼女は果たして、こんなに頭の回転が速かっただろうかと、恒幸は考える。記憶の中にある、美咲の言葉。生卵青汁 とか、三回回ってワンとか、生卵青汁とか、鋼鉄製のハンマーとか、十数える間にキスとか、生卵青汁とか、生卵青汁 とか……。
 もしもこれらすべてが思い付きだとすれば、美咲は将来いい仕事をしそうだと、恒幸はふと思った。
「……つか、ふたり?」
 勝流も、あっけらかんとした顔でつっこむ。
「ああ。お前と、もう一匹の猿は俺らしい」
 メガネザルと、イナズマザルで、猿コンビ。
 恒幸は美咲に、座布団を十枚ぐらい進呈してやりたい衝動に駆られた。
 眉を逆に曲げて、勝流が言う。
「なんか全然嬉しくない気がするんだが……」
「俺も……」
 いくら美咲のウイットが優れているとはいえ、サルなのだ、俺らは。そう思うと、恒幸も、勝流も、遣り場のない 空しさを感じた。
「あははっ」
 そんな男衆を見て、美咲がまた笑う。
 ――なんというか、このコは先輩泣かせですね。
 恒幸も勝流も、美咲のいじらしいまでの無遠慮をどう処置すべきかと、思案に暮れた。

 

 勝流に導かれ、三人は空いているテーブルに座る。テーブルの上に置かれていたおしぼりの袋の封を切り、中身を取り 出した後輩たちが手を拭き始める。恒幸も、念のためにと、おしぼりを取り出した。
 テーブルを離れ、訪れる客の持て成しに戻ろうとしていた勝流を、
「あのっ……稲津先輩」
 優鶴が遠慮気味に呼び止める。
「ん?」
 勝流は振り返って、優鶴と目を合わせた。
 真っ向から視線を受けたことに気恥ずかしさを感じつつ、優鶴は口を開く。
「生徒会長って、どんなお仕事をされてるんですか?」
 控え目だけど、好奇心の現れた表情。それを正面から見ていたにもかかわらず、勝流は、申し訳なさそうに返す。
「ああ……それは知らないほうが幸せだと思う」
「同感」
 恒幸も頷く。
 生徒会長は確かに、生徒会執行部を纏める立場を任されたひとのことだけど、必ずしも生徒に有利になるよう 取り計らうとは限らない。学校側の事情と、生徒側の事情が対立したときに、やむなく前者を選ぶことだってある のだ。そのため、生徒会執行部の内情をよく知る人間からは、学校びいきと呼ばれることも度々あった。
「えぇっ!?」
 美咲が素っ頓狂な声を上げる。
「優鶴がこんなに知りたがってるのに! ほらこの顔っ、よぉく見てください先輩っ、これは紛れもなく好奇心満点の 印ですよ!」
 美咲は、優鶴の顔を指差して、声高に主張した。
 優鶴はおろおろしながら、美咲とは異なる所懐を露にする。
「あの、美咲ちゃん……私はべつに、どうしてもっていうわけじゃ……」
 しかし、美咲は真顔で、首を横に振って、
「ううん、その顔はどう見てもどうしてもって訴えてる」
 と自分の主張を優鶴に押し付ける。
「うーん……まあ」
 少し躊躇って、勝流が話し出す。
「基本的には、今日の文化祭の費用についての計画を立てたり、昨日は昨日でうちの飾り付けのあとグラウンドに 出て模擬店の配置をチェックしてたし、あとは全校生徒を代表して意見を出したり、執行部の膨大な資料を管理したり、 教師と対等に会議をして話し合ったり……もちろん、態度の悪い教師にいちゃもんをつけることだってできる。そん ぐらいかな」
 彼の説明を聞いて、恒幸は、実に上手いことふるいにかけたなあ、と感心した。
 たとえていうなら今の説明は、公務員が住みよい町づくりをしているとか、町の代表者としての責務を全うしている とか、正義感を持って仕事しているとか……そういうふうに説明するようなものであって。
 その実税金を無駄に遣い込んでいたり、勤務時間に無駄にゆとりがあったり、自分で考えることもせずただマニュアル に従って動くばかりの働き方をしていたり……そういう一面があることを、勝流は、口に出しては言わなかった。
 「そんぐらい」という言葉が、嘘も方便という諺の重要性を、いやに感じさせる。
「ほわー……すごいです」
 生徒会の実情を知らない美咲は、純粋に勝流の説明に感動している。
 優鶴も同じように純粋に、勝流を斟酌する。
「大変じゃありませんか?」
 勝流は、顔を綻ばせて言った。
「まぁ、とんでもないことさえ言わなかったらもつ仕事だし、そんなに重荷には感じないかな」
 そう言ったあとで、彼は、生徒会ではなく、“この場において”とんでもないことを口走ってしまった。
「それより、サッカー部で期待かけられてるから、そっちのほうが疲れるよ」
「クラブ……ですか」
「……」
 優鶴と美咲が、相次いで黙り込む。四人の囲うテーブルに、気まずい空気が流れる。居た堪れず、恒幸は、勝流を 咎める意味で、彼に苦り切った顔を向けた。
「おいイナズマっ」
「わり、ごめん……忘れてた。ついうっかり口が滑ってしまったみたいで……ホントにごめんな」
 恒幸に謝ってから、勝流は後輩たちのほうに向き直って、彼女たちにも頭を下げた。
「いいえ、気になさらないでください」
 勝流に向かって、優鶴は苦笑を返す。だけど、その表情には、夢を諦めざるを得なくなってしまったことの辛さが、 いささかながら含まれているように、恒幸には見えた。
 美咲も、優鶴と同じような苦笑を浮かべて言う。
「そうですよ。もう、なくなっちゃった話ですから……」
「ふたりとも……」
 美咲と優鶴のふたりが無理をして笑顔を作ろうとしているのがいたく感じられて、恒幸は胸が苦しくなる。たぶん、 今の勝流の発言は、ふたりの後輩にとって、ようやく痛みの引きかけた擦り傷を爪で引っかかれたようなもの なのだろうと、彼は思う。そしてその痛みを癒してやるだけの能力が自分にないことを、彼は悔やんだ。
 そのとき――。
 恒幸の背後から、ぬっと、カチューシャをつけたクラスメイトの女子の顔が覗いた。
「……ほら、なに肩落としてるの?」
 なぜかほかの三人に気付かれぬよう、彼女は小声で恒幸の耳元に囁く。
「い、委員長……」
 なによりも、声の主――長束がこのポジションに居ることに毒気を抜かれ、恒幸は体を硬直させた。
 ……近い。近すぎるよ委員長。
 このまま恒幸が彼女のほうに顔を向けると、唇が触れてしまいそうな距離だ。
 長束は口許に笑みを浮かべて、
「ここはひとつ私が手を打ってあげる」
 と囁くと、
「いらっしゃいませ、ご主人様、お嬢様。ご注文はなんになさいますか?」
 声の調子を一転させて、スカートの裾を持ち上げながらフリルを名前のとおりフリフリさせて言った。もちろん彼女が そう言ったときにはもう、恒幸の背後から、テーブルの前へとポジションを移していたわけだが……。
「わっ、メイドさんだぁ!」
「私、初めてお目にかかりました……」
 美咲と優鶴が、突然のメイドさん●●●●●の訪問に、驚きの声 を上げた。
 長束は相好を崩して、用件を繰り返す。
「ご注文、伺ってもよろしいですか?」
 テーブルの上に置かれていたメニューを美咲が手に取り、優鶴とふたりで目を通す。しばらく考えてから、美咲は メニューをもとの位置に戻して、長束に言った。
「あたし、フルーツオレ!」
「私はこの、特製ブレンドのコーヒーをいただけますか?」
 優鶴も続けて、自分のオーダーを告げる。
「かしこまりました。フルーツオレがおひとつ、特製ブレンドコーヒーがおひとつですね。遠方クンは?」
 懐から取り出した伝票にボールペンを走らせながら、長束が恒幸にもオーダーを求める。
 無性につっこみたい気分になって、恒幸は言った。
「……俺には敬語じゃないのかよ」
「だって気持ち悪がられたら嫌なんだもん」
 間髪入れず、長束は答えた。
 ……なあに、インテリアや制服は本格的だけど、やってることはママゴトに毛が生えただけのことじゃないか。
 恒幸は心の中で、更なるつっこみを入れた。
「まあなあ……あ、俺はオーダー今はいいわ」
 そう言って、彼は、自分のオーダーをパスした。
 現在の時刻は、十一時二十分。九時半にトースト二枚を食べたばかりの彼の胃では、まだ腹の虫がそれを美味しく 味わっているか、あるいはそれを平らげた満足感に高楊枝をしているかで、鳴きだす気配がない。
「かしこまりました。ご注文を繰り返します。フルーツオレがおひとつ、特製ブレンドコーヒーがおひとつ、 以上でよろしいですね?」
「はいっ」
「それではご注文の品をお届けするまでの間、少々お待ちくださいませー」
 長束はそう言うと、そそくさと恒幸たちのテーブルを離れていった。
 なんというか、物凄く楽しんでやっている気がする。クラブだけじゃなくて、こういうことも、楽しんでやると 頑張っているように見えてしまうのだなと、恒幸は、長束に言われた言葉を思い返しながら考える。
「やけに乗り気だな、あいつ」
「つうか俺、客によって敬語とタメ語使い分ける接客法なんて初めて見た」
 笑いの吐息混じりに、勝流が言う。
 そりゃそうだ。知り合いが店に入ってきたからといって、砕けた言葉使いでオーダーを取ったりなんかしたら、 それは雇われ者にとっては相応しくない行為で、減給や解雇の対象にもなりかねない。
 さすがに接客経験のない恒幸にも、それぐらいのことはわかる。
 それに、タメ語を使えば気持ち悪がられないで済むと、長束は思っていたのだろうけど、やはり恒幸 はメイド服●●●●というものにいまいち馴染めない。 長束をはじめ、女子生徒たちがこの衣装を纏って活動するさまは、お伽話の登場人物のように見える。 お伽話は、非現実。現実感というものが伝わってこないと、どうにもしっくりこないのだ。
 そういえばさっきから、教室……というか店内の隅のほうで、メイド服を着たクラスメイトの女子ふたりが、 なにか濃い感じの男性に写真を取られている。彼らのうちほとんどが、背負ったリュックサックにポスターを 挿していて、極端な体型をしている。異様に細身か、異様にデブか。その二択に尽きる。彼らは、恒幸や勝流の ようにびしっと髪の毛をセットしているわけではなく、言うなれば、磯村と同じタイプの風采だ。
 オタクという言葉はよく聞くけど、その生態は、恒幸には到底理解が及ばないものだった。
「あの先輩、今の方は?」
 長束が去っていったほうを見やって、美咲が尋ねる。
「ああ、このクラスの委員長をやってる――」
「長束絢乃です、よろしく」
 恒幸が最後までしゃべらないうちに、長束は再び姿を現し、美咲の前にフルーツオレの入ったグラスを、優鶴の 前にコーヒーの入ったグラスを置いた。
「早っ!」
 恒幸と美咲、勝流の三人が同時に驚きの声を上げる。優鶴に至っては、なにが起こったのだろうとばかりに両目をしばたたいている。
 てきぱきというよりも、まるで音速の手助けを借りているかのような調子で物事をこなす長束。彼女の素早さは、これまでに 何度も目の当たりにしてきたけれど、それが自分たちのために成されたこととなると、改めて凄いと感じてしまう。
「なぁ、イナズマ」
「あん?」
「委員長ってさ、どこにバイトに行ってもすぐ時給が最高額になりそうじゃね?」
 さっきのタメ語はともかく、本当に長束が喫茶店やら、ファミレスやらで働いていたと仮定して、恒幸は率直に 思ったところを勝流に伝えた。
「ああ。んでもって、入って一ヶ月で店長まで昇進したりしてな」
「ふたりとも、よくわかってるね」
「うわっ委員長、聞いてたのか」
 恒幸が驚いて後ろを振り返る。美咲と優鶴にオーダを運んできたあと、別のテーブルに向かっていたはずの長束は、 もう彼の背後に戻ってきていた。
 にたっと笑って、長束は言う。
「私の耳はね、選択的に面白いと判断した話に的を絞って聞けるような構造になってるの」
「マジっすか……」
 彼女の言葉は少し回り諄くはあったが、要は地獄耳の持ち主なんだなと悟って、恒幸は気後れする。
「うん。それでバイトのことだけど、私夏休みに三週間だけ働いてたの。そこでの時給が、最初の週が七百八十円、 次の週が九百五十円、最後の週が千五十円だった」
「鬼だ……鬼すぎる」
 勝流は驚き呆れて、表情を強張らせた。
「で、最後の日に、一日だけ店を仕切ってくれって頼まれて店長やってみたんだけど、いくら出たと思う?」
 確信犯的に、恒幸たちの反応に期待を示す長束。
 それならばかなり大きい数字なのだろうと恒幸は思ったが、昨今の景気も踏まえて、
「千二百ぐらい……?」
 と予想した。
「いや、店長だったら千四百はくだらんだろう」
 自信たっぷりの口調で、勝流は、長束のアビリティにかけた。
 すると長束は、首を横に振って答えた。
「ううん、日給で二万」
「ちょお!」
「ありえんな……」
 勝流も恒幸も、完全に予想外だった彼女の答えに、派手に驚いた。
「その日は全部で十一時間働いたから、時給に直して千八百いくらになるね」
「ほえー……ほかのバイトさんのお給料いっぱい巻き上げたんでしょうねぇ……」
 感動に羨望に敬意、その他もろもろのプラスの感情が含まれた眼差しを長束に向けて、美咲は言った。
「ばっ、なに言ってんだよ、美咲ちゃんっ」
 言葉だけを取れば長束がなにか悪いことをしているような美咲の言い回しに、
「んふふ、私は自分の取り分さえ良かったらそれでいいからね」
 と、当人は不敵な笑みを浮かべた。
「鬼だ……完璧に鬼だ」
「末が恐ろしいな……」
 それは今の長束の話に限ったことではなく――普段から恒幸と勝流のふたりが彼女に対して抱いている見解 でもあった。

 

「うわー、すごいお店がいっぱいですね!」
 昇降口で下靴に履き替え、グラウンドに出る。美咲が感動に声を弾ませたとおり、そこには、様々な露店が設営 されていた。
 普段恒幸たちが体育の授業でトラックを走ったり、勝流の所属するサッカー部がその半分の面積を独占したりして いるグラウンドは、露店が立ち並んだことで、順路のようなコースができあがっている。迷路を進むように あちらこちらへ方向転換する感覚は新鮮だ。
「お祭の夜店の、お昼バージョンといったところでしょうか……」
 露店の前に掲げられた立て看板を流し読みしながら、優鶴が言う。
「ははっ、そうだな」
 恒幸も、つられて露店を見回す。
 言われてみれば、これほど太陽が頭上高くから照りつける時間帯に、露店の立ち並ぶ風景を彼は見たことがない。 夏祭りには小さい頃よく連れて行ってもらったけど、そのときはいつも日が暮れかけていた。夜でなくとも見かける、 桜台駅前のたい焼き屋の露店も孤立していて、なおかつ、繁盛している様子がない。天城橋にある大きな公園では、 この文化祭のグラウンドと似たような光景に出会えるイベントもあるらしいが、そのために足を運ぶほど恒幸が アウトドア派だということもない。
 両サイドの露店から流れる香りに食欲をそそられ、
「あっ、美味しそうなにおい……たこ焼きっ!」
 美咲は、磁石を前にした砂鉄のごとく、たこ焼き屋の露店に駆け寄る。
「いらっしゃーい。買ってく?」
 彼女の気配に気付いたたこ焼き屋の女子生徒が、顔を上げて言う。意識は美咲のほうに向けられても、器用に鉄板の 上のたこ焼きをひっくり返す手は止まらない。
 あとから美咲に合流した恒幸が、たこ焼き屋のお品書きを確認する。八個入りで二百五十円、十個入りで三百円、 十二個入りで三百五十円とあった。
「八個入りひとつと、十二個入りふたつください!」
 そう言って美咲は、財布から千円札を抜き出して、たこ焼き屋の生徒に渡す。
「まいどー」
 脇から別の女子生徒が出てきて、代金を受け取ると、
「ほな、これお釣りな」
 と関西訛りの話し振りで、五十円玉を一枚、美咲の手の平に載せた。
「三箱っ!?」
「いっ一箱ずつ食べるの……?」
 恒幸も優鶴も、たこ焼きを食べるのは美咲だけだろうと思い込んでいたので、揃ってびっくりした。八個入りの箱が ひとつと、十二個入りの箱がふたつ。合計三十二個。いくら美咲の胃でも、これだけ食べたら後が支えるはずだ。 そうすれば、必然的に、一箱ずつ分けて食べるということになる。八個入りが優鶴のぶんで、残りが恒幸と美咲の ぶんとだとすれば、理に適った配分だ。
 そう考えたふたりに、美咲は首を振って言う。
「ううん。優鶴と先輩ははんぶんこ。あたしが二箱もらいますっ」
「すげえなあ……二十個も」
「違いますよ、二十四個です」
「ぉえっ!?」
 優鶴と自分に十二個入りの箱が与えられると思っていた恒幸は、たった四個の差に大仰な驚き方をした。
「いきなりよくそんなに入るね……」
 優鶴も、半分呆れた顔で、美咲と、容器に次々と盛られていくたこ焼きとを交互に見る。
 たこ焼きが詰められた三箱の容器に、輪ゴムがかけられる。それを美咲に手渡すと、たこ焼き屋の生徒は、 最後にもう一度、「まいどありー」と言った。
「えへへ……昨日と一昨日と、病院に居てあんまり食べられなかったからね」
 美咲は苦笑して、持っていた三箱のうち、八個入りのものを優鶴に渡した。
「まあそれもそうだけど、たこ焼きだけじゃなくてほかにもいろいろ食べるものがあるから空けといたほうがいいぞ」
「わかってますよー」
 美咲が口を窄める。直後、
「……あっ、フランクフルトっ!」
 彼女は二箱のたこ焼きを抱えたまま、また走り出してしまった。
「………」
「……美咲ちゃん、食べ物には目がないですからね」
 優鶴が苦笑いしながら言う。
 確かに。二度目の機材搬入の日の朝食といい、天城橋でデートをしたときに食べた三千円相当の夕食といい、優鶴との デートの打ち合わせをしたときに取った“軽食”とは呼びがたい食事といい……思い返せば、美咲の胃袋の大きさと いうのか、頑丈さというのか……そういったものを否めない。
 これから文化祭が終わるまでに、美咲がどれだけの量を口に放り込むのだろうと考えると、恒幸がふと想像した 量は、彼の気を遠くさせるのだった。

 

 しばらく歩いて、ふと鉢合わせた教師の名を、美咲は、背後から呼んだ。
「どーいせんせっ」
「柿本っ、お前……」
 土肥は慌てて振り向くと、美咲の顔をまじまじと見つめた。そして、目線を落として、彼女の左手首に巻かれた 包帯を見ると、彼は、少しばかり顔を歪ませる。
「その手は、もう大丈夫なのか?」
「あっこれですか? 全然大丈夫です!」
 言いながら、手首をぶんぶんと振ってみせる美咲。そのあとで、右手で左手の五本の指を掴み、反り返らせようと したときに、
「……あいたっ!」
 彼女は、掴んでいた手を離すと同時に声を漏らした。
 土肥はますます心配そうに目を細める。
「無理するなよ……」
「えへへ……ごめんなさい」
 土肥を安心させようとして行ったパフォーマンスが、逆に彼の心配を煽る結果となってしまい、美咲はしゅんとする。
「病院からも抜け出してきたそうじゃないか……あんまり無茶なことはするなよ」
「……はい」
 首を竦めて、美咲は素直に頷いた。
 恒幸も優鶴も、それから美咲の頬を打った父親の鉄平も、みんな美咲を咎めたのは、彼女が心配だったからだ。 美咲はそれを悟って、自分の行いを、心の中で深く反省した。
 傷を作ったことで、弱い自分自身を打ち壊したかった。病院を抜け出して、少しでも早く、恒幸と優鶴のもとへ 辿り着くことができるように急ぎたかった。美咲が胸の奥に秘めた思いは、彼女の患部を表面的に見るだけでは 到底噛みこなすことはできないだろうと、恒幸は思う。
「それより柿本」
 いつもの顔つきに戻って、土肥が呼ぶ。
「なんでしょーか?」
 その顔つきの変化に愁眉を開いた美咲だったが、
「口のこっちのところ、ソースかなんかがついてるぞ」
「うぇっまじですか!?」
 言われて、彼女は狼狽した。咄嗟に、右手の甲で唇の右側を拭う。べっとりとケチャップが手の甲に付着したのを確認 すると、あろうことか、美咲は舌を出して、ぺろりと手の甲からケチャップを舐め取った。そして、舌を唇の 右側に伸ばして、舌の先を上下させる。舌を口の中にしまうと、最後にもう一度、右手の甲で唇全体を拭った。
「とっ取れました?」
 あたふたしながら、土肥に訊ねる。
 彼女の一連の仕種をこめかみに指を当てて見ていた土肥は、呆れた口調でコメントした。
「取れてるけど……女の子なんだから、せめてティッシュかなんかで拭けよな」
「はははっ」
 恒幸も、一度は美咲の仕種に呆れていたが、ついにそれを通り越して、腹の底から笑いを漏らしてしまった。くすくすと、 優鶴も口許に手を当てて上品に笑う。
「だぁって今までそんな口にソースつけたまま歩いてたなんて思ったら慌てますもん!」
 土肥のほうへ体を乗り出して、美咲は声高に釈明する。直後、彼女はくるっと恒幸のほうへ向き直ると、背を丸めて、 両の握り拳を胸元に口を尖らせた。
「っていうか先輩、なんで教えてくれなかったんですかー」
「いっやごめんごめん、全っ然気がつかなかった」
 態とらしく、恒幸が言う。もちろん気付いてはいたけど、美味しそうにたこ焼きやフランクフルトを頬張る彼女に 心を盗まれ、ついうっかり声をかけるのを忘れてしまっていたのだった。
 彼の言葉の拵えた響きに反応した美咲が、額に八の字を寄せる。
「わざとでしょー。絶対あたしのこと見世物にするつもりだったんですよ!」
「まあ落ち着け」
 手を上下に振りながら、土肥は美咲に言った。
「お前はその手といい、生徒なのに私服で来てるところといい……もとから十分見世物だからな」
「どっ土肥先生まで、ひどーいっ!」
 言って、美咲は頬を膨らませる。
「はっははっ!」
 土肥と恒幸が、同時に笑い声を上げた。
 なぜだろう、美咲は周囲の生徒とは違った風采であることを、土肥に指摘されたというのに、凹むどころか膨れっ面 をひとつ作るだけだった。土肥になら、変と思われてもよかったのだろうか。いや、そんなはずはない。実際、土肥の 言葉に同意するように、恒幸も笑ったのだから。
 美咲が手に傷を作ってから――“悩み”をすべて吐き出してしまってから、彼女が恒幸に設けた“約束”は、確実に、 その存在意義を薄れさせている。なぜなら、自傷も悩みを解決するひとつの方法だと悟り……その結果生じたものも、 全部、彼女自身の下した判断によるものだと理解したから。“変たろうとして変になっている”ことを、彼女自身が、 半ば認めてしまっているからなのだろうと、恒幸は思った。
 土肥は美咲から、恒幸と優鶴のほうに向き直る。
「そういえば、遠方と秦野はクラスの催し物のほうはいいのか?」
「はい。先ほどちょうど交替していただいたところです」
 三人が射的を終え、1Cの教室を出るときに、優鶴は、無聊そうにしていたクラスメイトのひとりに、受付と案内の 引き継ぎを頼んでいた。そのとき優鶴の申し出を、引き継ぎを頼まれた生徒は、二つ返事で了承した。
 なんだかんだ言いながら、美咲や優鶴のことを助けてくれるひとは、それなりに多く居る。もしかすると、彼女たち 自身が今まで、心にわだかまる被害妄想から、自分たちの周りは敵だらけだと考えていただけなのではないか。はたまた、 そう思っているのは、実は自分だけなのではないだろうか。恒幸は、後輩たちの意外な積極性と、彼女たちの周りには 味方もたくさん居るという事実の両方に、ほっと安堵の溜め息をついたのだった。
「俺は……もともと役割与えられてなかったらしいですからね」
「与えられてなかったらしい、って?」
 言葉尻を捕らえて、土肥が不思議そうな目で恒幸を見る。
「たぶん、夢の中を泳いでいたかと……」
 クラスメイトは知っているのに恒幸にとっては伝え聞きでしかないことについて説明するとき、彼はいつも、居眠り を理由に挙げる。それはそれでいいのだけど、毎回、バリエーションを考えるのが大変だ。その都度「寝てました」と 言っていたら、余計に頭の悪い生徒だと思われてしまう。だから彼は、少しでも言い回しに変化をつけようと 考えているのだ。
 ところが、三年も半ばが過ぎたこの時期になって、彼の言い回しのインスピレーションは鈍り始めていた。
「お前は本当に、どうしようもなく寝すぎだな」
 土肥が呆れた顔をして言う。
 教師は生徒と違って、同じ文句を繰り返していればいいから楽だろうな、と恒幸は思う。
「それほどでもないっすよ」
 開き直って、恒幸が自信満々にそう言うと、
「………」
 土肥は言葉を失って、しばらくの間、手の平に顔をうずめてしまった。
 同時に咎め立てする気も失せてしまったのだろう、土肥は顔を上げて、話を戻した。
「で、お前はどうして仕事をもらえなかったんだ? 怠慢を見透かされてか?」
 人聞きの悪いことを彼は言う。
 恒幸は敢えてつっこまず、本当のことを口にした。
「あいや、その……直前までライブをするもんだと思われてたんで……」
 それを聞いた美咲と優鶴の顔にも、少しだけ、翳りが差す。
 土肥も小さな声で頷いた。
「ああ、なるほど……」
「いやでもっ、その代わり今日はふたりと思う存分遊びまくりますから!」
 両サイドに寄り添う後輩たちを手の平で示し、恒幸は、光沢のある声で言った。
 文化祭ライヴという、三人が共有していた夢は消えてしまった。だけど、恒幸には新たな、プライベートな夢があった。 それも、今日一日に限っての夢。後輩たちと、できるだけ長い時間一緒に居るという夢。きっと美咲も、優鶴も、想いを 馳せる方向は違っても、同じような夢を今、抱いているに違いない。
 そう思った恒幸に同調するように、美咲も口を開いた。
「あたしも……ライブはなくなっちゃったけど、先輩と、優鶴と三人で一緒に回れるっていうだけで幸せです」
 屈託のない笑顔。今や美咲も、一般参加者として、心行くまで文化祭を楽しもうという心積もりでいることが、彼女の 笑顔を介して、恒幸に伝わった。
「よろしかったら、先生も一緒に回りませんか?」
 優鶴が、温和な声で土肥に訊ねる。
 土肥は少し躊躇ってから、三人の予想だにしなかった理由をつけて、彼女の誘いを断った。
「あー……俺はライブがなくなった代わりに、外人の客の通訳を頼まれてるからなあ……」
「がっ外人さんなんて来るんですか!?」
 びっくり仰天の美咲に、土肥がにやりとする。
「ああ、今までに四人と喋った。そのうちひとりが生徒のお父さんで、あとは家族だったな」
「ほえー……うちって見かけによらずインターナショナルだったんですねえ…」
 美咲の目つきと声音とが、彼女の心の中に感動の波が立ったことを物語っている。
「つうか俺も知りませんでしたよ」
 彼女と同じ種類の感動を、恒幸も受けていた。
 土肥の話からすれば、この学校に、少なくとも純日本人ではない生徒が、ふたりは居るということになる。父親が 外国人であるほうの生徒がハーフで、もう一方は日本でない国どうしの純血か、ハーフというところだろう。
 もちろん、そういった生徒に、恒幸は会ったためしがない。だから、土肥に話を聞かされる今の今まで、自分たちの 通う学校は、日本人の、日本人による、日本人のための学校だと、彼は思い込んでいたのだった。
「でも、どうして先生が通訳をされてるんですか?」
 おずおずとした調子で、優鶴が質問する。
「英語の先生だったら、ほかにもたくさん居られるはずじゃあ…?」
「なんだ秦野、俺がやってたら不満か?」
 土肥は不服そうな顔をして問い返した。
「あっ、そういうわけじゃないんですけど……」
 さも自分が無用の質問を投げかけてしまったかのように言われ、優鶴はたじろいだ。
 彼女が土肥にそう尋ねたのは、決して、土肥の英語力を揶揄したかったからではない。彼が通訳を買って出ている 理由を聞いて、もし差し障りがなければ、是非とも彼を含めて四人で行動したかったからだ。
 土肥はまたにやりとして、得意げに語った。
「まあ単純に、いちばん外人と会話した経験が豊富なやつは誰かってことになって、俺に白羽の矢がぐっさり、って いういきさつなんだけどな」
 彼の話を聞いて、恒幸は思う。
 外人と会話した経験が豊富ということは、さぞ異国に飛び立った経験も多いのだろうと。
「へぇー……先生って、留学の経験とかあるんですか?」
「ない」
「がくっ」
 たった二文字の返答に期待を裏切られ、恒幸はコケた。
「……じゃあなんで?」
 体勢を立て直しながら彼が尋ねると、土肥は、
「うちの学校には全部で十人英語教師が居るんだけどな、ほかのやつはみんな揃いも揃って授業以外で英語を喋った ことがないんだそうだ」
 と説明した。
 つまり、土肥は絶対的に●●●●英語で会話した経験が豊富なのでは なく……彼以外の英語教師がそんな体たらくだから、相対的に●●●●英語で 会話した経験が豊富なだけなのだ。
 恒幸は、そんな土肥よりもむしろ、彼以外の英語教師の存在に空しさを感じた。
「……よくそんなんで教師やってますよね」
「遠方、それが聞こえたら生指でお叱りプラス各英語の先生方に頭を下げないといけなくなるぞ」
 土肥は空かさず自分以外の英語教師の立場になって、恒幸に恐ろしいシミュレーションを提示した。
「……すんません」
 結局は、生徒会長の勝流に言わせても詮方ないことだろうと思って、恒幸は、土肥に頭を下げておくことで その場しのぎの策を講じるのだった。
「でまぁ俺もそんなに経験はなくて、街頭でホテルの場所を尋ねてきたやつに二、三回道案内したのと、アルバイト で語学教室の先生を半年だけやってたのと、隣にフィリピン人が住んでるのと……それぐらいか」
「で、呆気なく抜擢されてしまった……と」
 改めて、土肥の英会話経験の少なさに、恒幸は驚いた。
「まったくほかの英語教師もいい気なもんだ。こういうオフのときに限って、責任転嫁してくれるんだからな」
 土肥は呆れた物言いをする。
 だからといって、実践に乏しい彼以外の英語教師が三人集まっても、文殊の知恵は出てこない。彼を手放しにしては、 外人の客に対応できないのだということを、恒幸たちはようやく心得た。
「でも、羨ましいです。やっぱり、英語がペラペラなのって」
 美咲が、輝く双眸を土肥に向ける。
「あたしと優鶴も、全米デビューとかしたら英語必要じゃないですか」
「ぜ、全米……?」
 まさか美咲の志がそこまで高かったとは思わず、優鶴は呆気に取られた。
 土肥は六割がた目を細めて、美咲に言った。
「えらく取り留めのない野望だな……柿本」
「えへっ。夢はでっかく、ですよ!」
 美咲は両腕で天を仰いで、夢の大きさを表現する。
「先輩なんて、もっと凄いんですよ。だって、プールつきの千坪の豪邸に住んでメイドさんをいっぱい雇って、 リムジンの助手席にきょにゅーの金髪美女を乗せて、高速道路貸し切りでドライブするんですもん!」
「きょっ巨乳……!?」
 明らかに脚色されたと聞いて取れる単語に、恒幸は平静を失う。
 ……待て、美咲ちゃん。最後のだって、実際にできるかどうか怪しいぞ。
 慌てる彼に、土肥は、抑揚のない声で言った。
「頑張れよ、遠方」
「うわっ……ものっすごい視線が冷たい……」

 

 ――そのとき、四人の会話に闖入者が現れた。
「おーいっ、ツネさんっ!」
「イナズマ!」
 声のするほうを見やると、腕を振ってこちらに駆けてくる勝流の姿が視界に入った。彼は既に、喫茶店に居たとき の営業用の制服を脱いで、学校の制服に着替えていた。
 四人のところに辿り着いた勝流は、荒い息遣いで言った。
「探したぞ、まったく」
「なんか用があるんなら携帯で呼んでくれたらいいのに……いてっ」
 恒幸の後頭部目掛けて、土肥のチョップが入った。
「遠方、今日は文化祭だけど、いつもと同じように携帯の持ち込みは校則違反だぞ」
「う……」
 返す言葉を封じられて、恒幸は坤いた。
 ……なんだよ、べつにいいじゃないか。こういうイベントのときぐらい。一般参加者の持ち込みは許されるのに、 生徒は許されないなんて、不公平すぎる。第一、このご時世にもなって、学校に携帯電話を持ってくるなという 考え方が古い。古すぎる。っていうか、ぶっちゃけ、携帯できない携帯電話なんて、ただの電話じゃん。
 いろいろと心の中で御託を並べては見たものの、そのうちひとつとして、彼の口をついて出たものはなかった。
「……まぁ、俺は生指じゃないから大目に見てやるがな」
 そう言って、土肥は、恒幸に対して穏便な待遇を施した。
 だったらさっきの容赦のかけらもないチョップはなんですかと、無性につっこみを入れたい気分を、恒幸は俄かに 感じたのち、結局悪いのは自分だと割り切って、諦めるのだった。
「あ、そういや先生」
「ん?」
「四人揃ってるから、こいつにお礼言っとかないといけませんよね」
「ああ、そうだな」
 口許を綻ばせて、土肥が頷く。
 思い返せば、もう三ヶ月も前のことになるけれど、恒幸たち三人の軽音部員の彌猛心を挫いてしまった勝流は、 内心ではその辛さをよく理解し……その罪を償おうと、努力してくれたのだ。
 土肥は勝流のほうを向くと、穏やかな表情を作って言った。
「すまなかったな、稲津。防音工事を早く進めてもらって」
 すると勝流は、手と首とを横に振って、
「あいや、あれは計算外の出費を切り詰めるための措置に過ぎませんよ」
 と、咄嗟に表を繕った。
 しかし、彼が示した生徒会長の本分も、美咲には通用しなかったらしく、
「稲津先輩も嘘ばっかり。あたしたちは嬉しいんですから、今更ごまかしたって無駄ですよ」
 彼女も、穏やかな、でもちょっと意地悪そうな笑顔で、勝流に告げた。
「ああ、うん……」
「本当に、どうもありがとうございました」
 ぐいっと体を前に折る美咲。それに続いて、優鶴も丁寧に両腕を胸元に寄せて、ぺこりとお辞儀をした。
「ははっ……ちょっとでも役に立てたんなら、それはそれで光栄だな」
 首筋を指で掻きながら、しりこそばゆそうに勝流は言った。
 まったく、ここにも素直じゃないやつが居るな――と、恒幸は思う。
 本当は軽音部のことをわかっていて、真剣に考えて勝流は動いてくれたのに。照れ隠しのために、敢えて主張しても 意味のない生徒会長的な言い分で、わざわざ恒幸への思いやりをごまかそうとしたのだ。
 勝流は昔から、こういう性格だった。
 出来の悪い友達に勉強を教えるときも、たまたま時間があったからだと言った。欠席している給食当番の代わりを 積極的に務めたときも、腕に力をつけたいからだと言った。サッカーの地区大会でゴールを決めたときも、自分に チャンスが巡ってきたからだと言った。
 彼はいつでも気取って、他人への思いやりを、自己満足のためだと言い換えていた。
 でも、素直じゃないから、勝流はかっこよく見えるのかもしれない。嘘をつき続けてきた美咲の心が、誰よりも 強く思えたのと同じように。
 恒幸がそう思いながら、勝流を見直したという目で見つめていると……。
「おっとそれはそうと、そのライブのことなんだけどさ」
 勝流は仕切り直して――四人が夢にも思わなかったことを提案した。
「本当にやりたかったんなら、今からやらないか?」
「……えぇっ!?」
「やっやるってったって、校長からも正式にキャンセルの命令が下ってんだぜ!?」
 美咲と恒幸の心の中で、天と地がひっくり返ったような感覚が湧き立つ。優鶴も土肥も、顔つきを変えるのみだった が、驚きのあまり言葉が出てこないだけなのだろうと、恒幸は思った。
 四人の反応を楽しんでいるとも呆れているとも取れる表情で、勝流は言った。
「だぁから、今からその校長の意見を枉げに行く」
「マジでっ!?」
 自分の地位を以てしては到底及ばない企てに、恒幸はぶっ魂消た。
「ああ、大マジさ」
 気味が悪いほど、勝流の顔がにやりと笑う。
「もっとも、ツネさんたちがやりたければ、の話だけどな」
「そっそれはできるんだったらもちろんやりたいですよ!!」
 間髪入れず、美咲が声を張り上げる。
「ね、優鶴、先輩!?」
「うっうん!」
「もちろんだよ!!」
 焦燥感さえ覚えて、優鶴と恒幸の体はおのずとのめった。
 それは、突然の予兆だった。まだライブができると、完全に決まったわけじゃないけど、勝流の提案によって 三人にラストチャンスが与えられたのは、確かだ。言わば、海に流され意識不明の状態で砂浜に打ち上げられた人間が、 懸命の蘇生処置の末、口から水を吹いたような状況だろうか。美咲の停学という風に吹かれ、一度は消えてしまった 軽音部員たちの夢の蝋燭に、勝流は再び火を点してくれたのである。
 慌て惑う三人を横目に、土肥は冷静に意見を出した。
「しかし稲津……いくら今日が文化祭といっても、柿本は停学中の身の上なんだ。学生がやるイベントに、停学を 喰らってる生徒を出すわけにはいかんだろう」
「任せてくださいよ、先生」
 勝流は手で胸を打ち、自信に満ちた顔を土肥に向ける。
「停学なんて、そんなの今は問題じゃない。遠方も、柿本さんも、秦野さんも……クラブを始めてから今の今まで、 ライブを成功させるっていう夢に向かって歩いてきたはずです」
「……イナズマ……」
「稲津先輩……」
 三人の鼓動が、漸を追って高まっていく。
 こんなにも、勝流が軽音部員たちのことを考えてくれていたなんて。
 生徒会長という立場にある彼が――すべての生徒を等し並みに扱わなければいけない彼が、その腐れ縁と、関わった 後輩たちをひいきするような行動を起こすなんて。
 三人が胸に抱く夢の大きさを……大切さを、そして、その意義を、勝流は知っていた。だから彼は、どうしてもそれ を失ってほしくないと、三人に望んでいたのだ。
 彼はちらっと三人のほうを見てから、再び土肥の目を真っ直ぐに見て、言った。
「これからの人生にもかかわる夢に比べたら、停学なんて鼻糞みたいなもんですよ!」
 親指と人差し指の腹を近づけて、鼻糞のサイズを表現する勝流。
「どうやって、停学を解いてやるつもりだ?」
 未だ割り切れないといった面持ちで、土肥が尋ねる。
 勝流は、土肥から美咲へと目線を移した。
「それは、あとで柿本さんから聞いてください」
「へ? ……あたし?」
 名を指され、美咲の目が点になる。
「ああ。柿本さん、今からライブの準備をするためにも、俺と一緒に校長室まで来てくれないかな?」
「こっ校長室ですか!?」
 驚いた美咲の脳裡に、中学の卒業式が終わってからの場面が映し出される。
 ――あのときと、同じ状況だ。
 中学のときは、卒業式というイベントを控えながら教師を殴ってしまい、仮退学処分。今回は、文化祭のライブを 控えながら藤波と間淵を殴ってしまったという行いがばれて、一ヶ月の停学処分。
 今の校長が去年の美咲を知っているにせよ知らないにせよ、彼女は、中学の卒業式のときと同じ可能性にかける しかない。
「どどっ、どうしましょう……先輩」
 美咲はうろたえた。
 わかっている。ここで自分が意を決して行動すれば、道が開けるかもしれないのだということは。
 だけど、妙に踏ん切りがつかない。なにか、あとちょっと、自分の背中を押してくれるきっかけがあったなら。
 そう思っていた美咲に、頼られた恒幸は、優しい声をかけた。
「行ってきなよ、美咲ちゃん」
「えっ?」
 自分はこれほど慌てているのに、恒幸の言葉には、落ち着きがある。そのギャップがどうして生じたのか、美咲は 一瞬理解することができず、間の抜けた反応をする。
 恒幸は、美咲の瞳を見つめて言った。
「ほんとに、夢を叶えたいって思うんならさ……躊躇う必要なんてないだろ?」
 その言葉を受けて、美咲の顔がぱあっと明るくなった。
「……はいっ!!」
 誰にも負けないぐらい元気な、そして自信を湛えた声で、美咲は返事をした。
「イナズマ」
「稲津」
 恒幸と土肥の声が重なる。
「あっえーと、先生先にどうぞ」
 地位を意識して、恒幸は土肥に先発の権利を譲ろうとしたが、
「いや、遠方。たぶんお前も俺と同じことを言おうとしてるだろう」
 土肥はそう返した。
「えっ、まさかっ」
「せーの、で言うぞ」
 ふたりの視線が、再び勝流に注がれる。その視線の性質が普通でないことに気付いた勝流は、一歩後ずさった。
「なっなんか、目つきが恐ろしいですよ……おふたりさん」
「せーの……」
「――くれぐれも、美咲ちゃんに変なことはするなよ」
「――くれぐれも、柿本に変なことはするなよ」
「しませんって!!」
 勝流は矢庭に否定した。
 美咲は笑って、楽しそうに言った。
「あははっ! もし変なことされそうになったら、あたしが正当防衛で対処しますよ!」
「うわー……」
 何故自分がそういう目で見られないといけないのかという疑問よりも、美咲の笑顔と言葉が噛み合っていないところに 圧倒されてしまい、勝流は軽く茫然自失した。

 

 勝流の隣を歩きながら、美咲は考えていた。
 稲津先輩と知り合ったのは、今日が初めてだ。なのに、自分でも気づかないうちに、彼を信じ、その力に頼ることが できてしまっていた。
 なぜだろう? 戸惑っていた自分の背中を押してくれた、遠方先輩という存在があったからだろうか。彼が稲津先輩と 幼馴染みだから、抵抗を感じなかったのだろうか。
 いや、違う――遠方先輩は確かに、あたしに決断をさせてくれたけど、あたしが人を信じるというのは、また別の問題。 自分が人を信じるということは、第三者によって、人を信じるよう仕向けられることと同じであってはいけないのだ。
 誰を信じて、誰の言うことを聞かなかったらいいのか。これは全部、自分自身が決めること。だから、あたしが 稲津先輩を信じられたのは、遠方先輩のおかげじゃなくて、あたし自身の判断が働いたおかげ。
 だとしたら――どうしてあたしは、そういう判断が自分の中で下されたことに、気づかなかったんだろう。どうして あたしは稲津先輩を信じて、彼とともに校長室を目指しているのだろう。
 簡単なように思えて、深く考えると難しくも思える疑問だった。
 昇降口で靴を履き替えて校舎の中に入り、やがて、ふたりは校長室の前で足を止めた。派手な飾り模様を階調の少ない 茶色が作り上げる、扉の表面。美咲の予想とは違って、校長室は一階にあった。
「ここだよ、校長室」
「ふわー……あたし、前を通るのも初めてです」
 美咲と勝流は、学生棟の入口にあたる昇降口から校舎に入り、渡り廊下を歩いて、芸術棟に移った。教室が大半を 占める学生棟に対して、芸術棟には、専門的な教室やオーディオ・ビジュアルルーム、ライブラリー、職員室、保健室と いった部屋が集まっている。校長室は、女子更衣室を越え、保健室を過ぎて、まだ三つ部屋を隔てた先にあった。
「緊張する?」
「……はい」
 勝流の問いかけに、美咲は正直に答えた。
 あのときもそうだった。自分に救いの手を差し伸べてくれた優鶴と、彼女の父親、そして自分の両親がついていてくれた にもかかわらず、校長室の扉を前にした美咲の胸は、早鐘を打っていた。
 自分がこれからなんと言われるかも想像がつかないし、それに……。
「上手く言葉にできなかったら、どうしようって……」
 なんと言えば校長先生には納得してもらえるのか。それがいちばん、彼女にとって気掛かりだった。
「大丈夫だよ」
 勝流は笑って、美咲の張り詰めた心を解きほぐしてやろうと試みる。
「柿本さんがホントにライブやりたいって気持ち、そのまま素直にぶつけてやればいいから」
 ――そのまま素直に。
 勝流の言葉のその部分が、美咲の心を捕らえて離さない。
 彼女は思った。遠方先輩を信じてから今まで、中学時代の捻じ曲がった心を矯正しようとしてきた努力の結晶を、今こそ 見せ付けてやるときだと。
「はいっ」
 美咲の顔にはもう、逡巡の色はなかった。
 ――ギギギ……。
 勝流がゆっくりと、校長室の扉を押し開ける。美咲に余計な心配や負担をかけぬよう、彼は先に扉を潜って、 そのあとに美咲を続かせた。
「失礼します」
 美咲が部屋の中に入り込んできたのを確認すると、勝流は静かに扉を閉めた。
 八畳ほどの、こぢんまりとした個室。清潔に手入れされた机に肘を置いて本を読んでいた校長先生が、目線を上げる。 煩わしさを感じさせない、七三分けに調えられたシルバーの髪の毛。鼻の下と下顎にも、同じ色の毛が少しばかり 生えている。顔面に刻まれた年輪からして、年の頃は六十ぐらいだろうか。中学校のときの校長先生に比べると、 見た目には厳しそうな人物だと、美咲は思う。
 校長先生は読んでいた本を閉じて、机の上にそっと置くと、勝流のほうを見た。
「ん……君は、生徒会長の稲津君だね」
「はい」
 さっきまでの柔らかな表情は、既に失われていた。その代わりに勝流に備わっていたのは、きりっとした目つきと、 話をするとき以外はしっかりと結ばれた唇。彼の心は、校長室の扉を潜ったその瞬間に、完全に入れ替わっていた。
 慌てて、美咲も顔つきを正す。第一印象をゆるがせにしてはいけないと、彼女は思った。
 ふたりと同じような、感情を押し殺した表情で、校長先生が話し始める。
「学園祭で盛り上がっているさなかに、なんの用かな?」
 勝流は落ち着いた調子で、端的に告げる。
「実は……取りやめになった学園祭ライブの件、再度検討させていただきたく思いまして」
「なに……今更か?」
 校長先生の目の色が変わる。
 それはそうだろうと、美咲は思った。校長室の壁にかけられている時計は、十二時二十三分を示している。文化祭は、 午後五時で閉幕なのだ。残すところあと四時間というときに、“検討”しても無駄だろうと、彼女は思う。
「はい」
 躊躇うでもなく、勝流は決然と答える。
「それは無理だ」
 校長先生は目を細め、険しい顔つきになった。
「ライブでドラムを叩いてくれる子が病院に運ばれたと、私は聞いている」
「あっ、それ……あたしです!」
 美咲の声が室内に響く。今まで、グラウンドの喧噪の中で会話をしていた彼女にとっては、声量の加減が難しかった。 今の声が大きすぎたと判断した彼女は、咄嗟にボリュームを下げることによって、ひとまずオーバーレベルを 回避した。
「……その、ドラムを叩くはずだったのは」
「なに、君がかい?」
 いかにも意想外だという顔をして、校長先生が美咲に問い質す。
「はいっ」
 ボリュームを提げた直後の声が、今度は反対に小さいと感じたので、美咲は、最初の声との中間の音量をとって、 返事をした。
「……バンドというから、私はてっきり男の子がやるものだと思っていたよ」
 校長先生は破顔一笑して、美咲にそう言った。
 確かに、女子がバンドを組んでいたら変かもしれない。あまつさえドラムセットに向かい、体力の限りを尽くして スティックを振り回し、バカスカとヘッドを叩きまくる女子は、女子と思いがたいぐらいに変だろう。
 だけど、そのような偏見をもう、美咲は意に介さない。父親の鉄平に、「ちょっと変に思われるぐらいに振る舞ったほうが 人生得するぞ」と言われ、半信半疑のまま始めたドラムも、今や彼女の誇りであり、天職だ。
 そしてなによりも、彼女自身がドラムを嗜んでいたからこそ、同じ趣味を持つギターの優鶴と、ちょっと強引ではあった けどベースを弾いてもらえた遠方先輩と、三人で揺るぎない夢を掲げることができたのだから。
「しかし君……えーと、名前は?」
 目許の真剣な美咲を見て、校長先生は尋ねる。
「はい。柿本美咲です」
「柿本さんは、暴力事件を起こして停学中だと生徒指導部が言っていたが……それは本当かな?」
「……はい」
 正直に、美咲は頷いた。
 ここで否定なんてしても、どうにもならない。それどころか、今まで必死になって積み重ねてきた努力が、この場で 一度嘘をつくだけで、元に戻すことができないまでに崩れてしまいそうな気がした。だから……どんなことを言われても、 それが事実である限りは首を縦に振ろう。本当のことと食い違う答えは、絶対に出さないようにしよう。
 彼女は心の中で、かたく誓った。
 校長先生は再び険しい顔つきを取り戻して、美咲に質問を続ける。
「相手はあの藤波と間渕だったそうだが……彼らがいくら校内でのさばっているとはいえ、暴力で訴えてしまうのは 良くないことだ」
「はい……」
「私は今回の生徒指導部が下した一ヶ月間の停学という処分も、妥当だと考えている」
「……」
 美咲の返事の音量は段々と落ちていき、ついには彼女は黙り込んでしまった。
 校長先生にとっても、やっぱり停学処分のほうが重要なのだろうか……。
 もともと自分も勝流とは反対の意見を持っていたということを踏まえて、美咲はそう考える。
「そのせいで学園祭のライブがキャンセルになってしまったのは気の毒なことだが……それも含めて柿本さん、 君には十分みずからの行いについて反省してもらいたいと思う」
「……はい」
 美咲は湿り声で、弱々しく返事をした。
 ――やっぱり、あたしにはできない。こんな、学校ではいちばん偉いひとを目の前にして、率直に自分の気持ちを 打ち明けることなんて、あたしにはできっこない。
 思い通りにならない悔しさが齎す涙を、彼女が流しかけたそのとき。
「校長先生っ!」
 隣で、眉を吊り上げた勝流が声を上げた。
「なんだね、稲津君」
 突然嘴を入れられたことに、校長先生は苦い顔をする。
 勝流は部屋に入ったときよりも、幾分か理性を失った物言いで、校長先生に迫った。
「柿本さんは、本当に相手を殴りたいと思ってやったんでしょうか……いや、仮にそうだったとしても、単にあの二人組 が不快に感じたから暴力を働いただけでしょうか……?」
「……稲津君」
 どっしりとした低音が、ふたりの胸に響く。
「たとえ理由はどうあっても、人を傷つけてしまうのは良くない。まだ学校の中だからいいものの、これが社会だった らと考えてみたまえ。柿本さんは、憎しみと引き換えに、貴重な人生の時間を削ってしまうことになるだろう」
「それはそうです」
 勝流も、自分の主張を譲るまいと、改めて、背筋に力を入れる。
「でも、柿本さんにはやむにやまれぬ事情があったはずです。そうでもなければ、一年の新入生の、しかも女子が 二年の先輩を殴ったりするようなことになるはずがありません」
「事情はあったにせよなかったにせよ、今は結果の重大さだけを考えなければならない」
 少しも厳しい表情を変えず、校長先生は自説を立て通す。
「それではこうしましょう……校長先生」
 堂々巡りの議論に鼻持ちならず、勝流は切り口を変えた。
「もしも、柿本さんと同等か、あるいはそれ以上の過失が藤波と間渕のほうにもあって……そのせいで 柿本さんのライブがキャンセルになったとすれば、どうお考えになりますか?」
「……!」
 勝流の言葉を聞いた途端、美咲の顔は強張った。
 勝流が示した仮定は、今この場で閃いたものにしては、出来すぎているほど事件の真相に合致している。彼の言うとおり、 美咲に手の傷を作らしめた人間こそ藤波と間渕だし、彼らがこの時期を狙って告げ口したことも、美咲にはわかっていた。 本来ならば――あのふたりの胸に一物がなければ、この手首の傷も、停学もなかっただろうから。
 問題は、どうしてそれほどの悪事を働いた不良たちの言い分が、生徒指導部に罷り通ったかということだった。
「つまり稲津君、君は彼らが柿本さんを術策に陥れたという可能性を示唆しているのだな」
 勝流の意を汲んだ校長先生は、彼の切り口に乗ってきた。
「そうです」
「それについて、君はなんらかの証拠を掴んでいるのか?」
 やはり校長先生はしぶとく、勝流の主張を丸呑みにする意志を微塵も示さない。まるで推理小説にでてくる刑事のような 言い草ではあるけれど、彼は間違ったことを言ってはいない。ただ軽率に相手の主張を良しとするのではなく、 自説と照らし合わせながら、慎重な対応をしているのだ。
「いえ」
 まだ議論の余地は十分にある――勝流は、昂ぶっていた感情を落ち着かせて答える。
「確かに彼らのことだ……その可能性も無きにしも非ずだ」
 前腕を立て、組み合わせた両手の指の上に、校長先生は、髭の生い茂った顎を乗せる。そして彼は、一段と厳しい 目つきで、勝流を睨みつけるように見た。
「しかし、確かに柿本さんを陥れたという証拠がなければ、彼らを悪者扱いすることはできない」
「……校長先生は変だと思われませんか?」
 あくまで校長先生の自説を枉げるという信念に従って、勝流は何度も彼の立場に踏み入った。
「彼らが生徒指導部に柿本さんの非行を訴えたのは三日前なのに、柿本さんは今年度の始め、五月の半ばごろに 事件を起こしているんですよ」
「なに……?」
 ここで初めて、校長先生は平静を失った。
 そして彼は、美咲が聞くことのできなかった、新たな事実を打ち明けた。
「事件が起こったのは、九月の始めだと生徒指導部からは聞いているのだが」
「……えっ!?」
「あのふたりは、確かにそう言ったんですね?」
 目と目を合わせて、勝流は校長先生に訊ねる。その言葉に、彼が部屋に入る前持っていた自信が含まれていることは、 驚きに口が塞がらない美咲の耳にもはっきりと伝わった。
「それでは……確かめてみましょう」
 勝流はそう言うと、くるりと回転して、校長先生に背を向けた。そのままかつかつと歩き、ふたりが入ってきた 扉の前に来ると、コンコンと、二度扉を内側からノックする。
 一瞬、美咲には彼がなにをしているのかが理解できなかった。しかし、彼のノックに反応するように開かれた扉の 隙間から部屋の中に入ってきた人物の姿を見て――美咲は衝撃を受けた。
「……っ!!」
「……てめえ!!」
 常人とは思えぬ顔。校則そっちのけで染められた髪の毛と、両の耳朶に装着されたピアス。ズボンからはみ出たカッター シャツ。これまた校則違反の、柄入りの黒いTシャツ。腰よりも少し下の位置で留められたベルト。踏んづけられた、 上履きの踵。
 あの日、意識を失った恒幸を見るや否や、憎しみに堪え兼ねた美咲がみずからの拳を振り上げて成敗した、藤波と 間渕、本人だ。
 彼らはがっしりと片腕を教師に掴まれ、校長室に姿を現した。
 白い半袖シャツに、下は紺色のジャージ。かつて“怪物生徒指導長”と呼ばれた、生徒指導部の和田。その節くれだっ た腕の筋肉は、以前よりも、一回りも、二回りも逞しく、勝流の目に映る。
 和田は去年の夏、当時一年生だった藤波と間渕と本気で格闘して、負けた。数々の日本武術を体得し、学校一の戦闘能力 を誇っていた彼は、喧嘩だけを得意とする藤波らに完膚なきまでに叩きのめされ、体とともに、プライドを深く傷つけら れた。
 その後彼は、長期研修の名目で、生徒指導長の座を一旦離れ、海外に渡った。日本武術に比べれば“喧嘩っぽい”海外の 武術をも体得して、学校一の戦闘能力を藤波らから奪い返そうと、躍起になったのだ。
 そんな和田が不在の折に、年度始めの事件は起こった。事実上藤波らが校内でナンバーワンの力の持ち主である のにのびてしまったということを受けて、彼らを保健室まで担ぎ込んだ生徒指導部の教師たちは、それこそ 恒幸が最初思ったように、仲間割れでもしたのだろう、と思った。後日、藤波らから同じことを聞かされ、生徒指導部 の教師たちは納得し、この事件にきまりをつけた。恒幸や、美咲の知らないところで――。
 和田の武者修行は、一年にもわたった。つい最近、夏休みの半ばに帰国したということを、勝流は聞かされていた。 勝流は、見違えるほどに逞しくなった和田を見て、これなら藤波や間渕だけでなく、この地域一帯にはびこるゴロツキ どもも成敗できますね、と笑った。
 そして今、和田は、何食わぬ顔をして、藤波と間渕の腕を掴んでいる。それは、彼の武者修行が実を結んだという、なによ りの証だ。
 改めて間渕と藤波の顔を見ることとなり、美咲は、腹の底から言い知れぬ憎悪が湧いてくるのを感じた。
(――このひとたちが、遠方先輩を酷い目に遭わせて。それでもまだ飽き足りず、あたしに殴られたことの復讐に かこつけて文化祭のライブを阻止した……。絶対に、このままの状態で帰すものか……!)
 前歯に力を入れて、美咲はふたりをきっと睨んだ。
「和田先生には、ふたりをここへ連れてきていただくよう、前以て連絡させていただいていました」
 顔だけを校長先生のほうへ向けて、取り急ぎ、勝流はそう告げる。意を了したという代わりに、首を一度縦に振る 校長先生のリアクションを確認して、彼は再び、和田と、彼が取り押さえている藤波と間渕のほうを向いた。
「どうもありがとうごさいます、和田先生」
「ん……こいつらをここまで連れてくるのは本当に苦労したぞ……」
 和田はそう言うと、ふたりの不良を掴んだまま、首を左右に倒した。
「こりゃどういうことだっ、てめえ!」
 さながら鎖で繋がれた犬が急に吠え立てるように、大声で喚き散らすのは、和田の左手に右腕を掴まれて、 行動の自由を制限されている藤波。その視線は、和田でもなく、校長先生でもなく、勝流に向けて走っている。
 ひるまず、落ち着いた調子で勝流は呼んだ。
「先生」
「……いでっ!」
 それはまさに、勝流の声がリモコンのスイッチであったかのようだった。彼が和田を呼んだ直後、和田は掴んでいた 藤波の腕を、雑巾を絞るみたいにぎゅっと捩った。そしてその直後、藤波が、痛みに声を上げた。その間、わずか一秒 前後というところだっただろうか。
「なにすんだよコラァ!」
 和田目掛けて、藤波は怒声を浴びせる。
 感情的な彼とは正反対に、和田は、冷静な態度で言う。
「ここは校長室だ。粗相は起こさないように」
「……チッ」
 藤波は苦り切って、聞こえよがしに舌打ちをした。
「ウオホンッ……時に藤波君、間渕君」
 角立った雰囲気を咳払いで仕切り直すと、校長先生は、ふたりの不良に顔を向けた。
「君たちは、ここに居る柿本さんに暴力を働かれたそうだが、間違いはないね?」
「……ああ」
 藤波は校長先生の目を見ず、どこか斜め上のほうに視線を泳がせながら、吐き捨てるような返事をした。
 そんな藤波の態度に構わず、校長先生は続ける。
「どういった暴力だったか、それがあった時期も含めて詳しく話してもらえるかな?」
「……めんどくせーな」
 間渕が開口一番、校長先生たちの辟易を煽る。その直後、
「……あぐっ!」
 彼は、和田から、藤波のときと同じような体罰を喰らい、声を上げた。
 観念したのか、藤波は重い口を開いた。
「知ってのとおり、俺らはこの学校ナンバーワンのケンカ王だ」
 いかにも頭の悪そうな切り出しに、美咲、勝流、和田の三人がコケそうになる。
 一方で、藤波は自分の言ったことを恥ずかしいとも思わずに、話を続けた。
「だから俺らは、間違いなくこの学校じゃ敵ナシと思ってた。今こうやって俺の腕を掴んでるコイツでも、本気で やり合ったらほんの二、三分ってとこで倒せるだろうよ」
 言われて、和田は眉間に皺を寄せる。
「とにかく今まで負け知らずって感じだったから、自然と俺らにケンカ売ってくるやつも減ってきたし、逆に俺らに ケンカ教わりたいって言い出すやつまで出てきて、ついにこの学校を制覇したか、って感じだったんだよな」
「ああ」
 藤波に言われ、間渕は得意そうに頷く。
「でもよ、そんな俺らと、まだマジでケンカしたいっていうやつがいた。それがコイツで、コイツは無謀にも最強王者の この俺らに挑戦状を叩きつけてきやがった」
 美咲を指差し、藤波は言う。
「で、どんなやつだろうと思って、ワクワクしながら待ち合わせの場所に向かってみたら……女だった。ケンカってのは 女がやるもんじゃねぇし、女とやり合うのは気が引けたから、挑戦状は遊びってことで片付けてやって、俺らは さっさと帰ろうとした。無駄に時間なんて遣ってられねーしな」
 にやにやしていた顔を急に不愉快そうにして、彼は続ける。
「でもコイツは、帰ろうとした俺たちの腕を掴んできやがった。せっかく俺たちのことをからかったのはなかったことに しといてやろうと思ったのに、要らねーことするもんだ。で、よく見てみたらコイツ、赤のネクタイつけてやがんの。 俺らが緑で、三年が青だから、一年だって。もうすっげぇ笑ったさ。お嬢ちゃん、悪いことは言わねーから俺たちと 関わり合うのはやめときな、とか言ってな!」
「あっひゃっひゃっ!」
 耳を塞ぎたくなるような、間渕の下品な笑い声。
 休む間も作らずに、藤波は長い舌を振るった。
「そこまで言ってやってんのに……コイツはな、俺たちとやる構え●●●●だった。 だから仕方なく、受けて立ったわけよ。そしたらなんでか俺ら、手も足も出なくてさ。気付いたら保健室のベッドで寝てた。 鏡で見てみたら、そりゃもうひでぇ顔になってたさ。まさかこっちがボコボコにされるなんて、思わなかったよな」
「おう」
 事件の“真相”を、ふたりはこのように説明した。
「なるほど……」
 最後まで真面目に耳を傾けていた校長先生は、相槌をひとつ打って、
「それで、その事件が起こったのは、いつのことだ?」
 と、ふたりに尋ねた。
 藤波は躊躇いもせず、校長先生に告げる。
「二学期の始業式の日。おかげで今年の夏休みはせっかく珍しく宿題に打ち込んでたっつーのに、課題テストはふたりとも 散々の結果だった」
「ひゃっはっはっ!! 俺なんか平均でキュージューは確実と思ってたのに、返ってきたテスト見てみたらジューゴだぜ、 ジューゴ! もう親に合わせる顔ナシって感じじゃね?」
「お前はいいよ。俺なんて殴られ所悪かったせいでテスト受けられもしなかったんだし。だいたいストレートに目ン玉に 入れてくるのとかおかしいんだよ。下手すりゃ視力なくしたりさ、失明したりするじゃん? これだからケンカの道を わかってない女は困るっつーか、相手にしたくねーんだよな」
「君たちのその言い分と……稲津君の言い分が違っているのは、いったいどういうことだね?」
 ほとんどパーティー騒ぎのようなふたりの会話の間に、校長先生の低い声が割り込む。
「……なっ!?」
 藤波の顔が引き攣る。ふたりの会話をパーティー騒ぎとするなら、校長先生の言葉は、部屋への電気の供給を一瞬にして 止めてしまう、ブレーカーにも似ている。
 虚を衝かれ動揺し始めた藤波に、勝流は言った。
「俺は、事件が起こったのは五月だと聞いたぞ」
「あんだよてめえ、自分の目で見たのかよ!?」
 突如として色を成す藤波。先輩にあたる勝流の顔を、彼は、上目遣いに、掬い上げるように睨みつける。顔は半分ほど 下を向き、口はだらしなく開けられたまま。そんなギャング同然の態度を平然とやってのける彼に、和田は一喝した。
「口を慎めと言ってるだろ!」
 反射的に、藤波は、怒りの捌け口を和田に向ける。
「チッ……クソ野郎が」
 どうやら今の注意は、効果がなかったらしい。それもそのはずだ。こいつらは、相当な馬鹿なのだから。聞けと言われて、 素直に聞くような人間ではない。
 和田は軽く溜め息をついて、また、首を二、三度横に倒す。すると、さっきは鳴らなかったはずの、パキッ、ポキッ、 という音が聞こえた。彼は、その音を聞いて少し、ストレスが緩和するのを感じる。
「おめーも、コイツの嘘認めたような顔してんじゃねーぞ」
 今度は間渕が、美咲に向けて、彼女の“非”を言い立てる。
「稲津先輩は、嘘なんて言ってません!」
 間渕を睨み、美咲は大声で主張した。
「あん? 証拠はあんのかよ。俺たちが五月に殴られたっていう、ショーコがよ!?」
「自分が殴った時期も忘れてるなんて、よっぽどタチ悪りぃなぁてめえ!」
 けらけらと笑い声を立てながら、藤波が、間渕の肩を持つ。
「あたしは……嘘なんてついてませんっ!」
 力の限り、美咲は叫んだ。
 もう、ここが校長室だろうと、どこだろうと構わない。稲津先輩は、あたしのために、確かに本当のことを言ってくれて いる。彼がどうしてそのことを知っているのかはわからないけど、彼の言っていることが真実で、不良の言っていること は虚構なのだ。それに、稲津先輩が嘘をついていないと主張したあたしも、本当のことを言っているだけなのだから。
 美咲の、心からの叫びに応えるように――彼女の背中に、光が差す。
「……そうよ」
 六人目の訪問者が、開かれた扉の向こうから姿を現す。冷静沈着を極めた表情。調った見目形。着こなされた白衣。ルー ジュの唇を開いて、彼女は告げる。
「柿本さんがこの子たちを殴ったのは、五月で間違いないわ」
「……てめぇっ!」
「保健の先生っ、どうしてここに!?」
 藤波の不快感露な声と、美咲の驚きの声が重なった。
「さっき、保健室の窓から、藤波と間渕が和田先生に連れられていくのが見えたから……それで、跡をつけてきたの。 もちろん、これも探して、持ってきたわ」
「それは……!」
 白衣のポケットから保健の先生が取り出した紙を見て、美咲は、目を瞠った。
 四つ折りされたその紙に、その場に居た全員の視線が集中する。
「そう、保健室の来訪記録」
「……ッ!」
 これまでにないほど、藤波と間渕の顔が、焦りの色に染まる。
 彼らには、ひとつだけ、事件が起こった時期を五月だと認めざるを得なくなるような証拠があった。その証拠は、 もしあのとき美咲が彼らを気絶に至らしめていなければ……作られなかったかもしれないものだ。
 開かれた来訪記録を示して、保健の先生は言った。
「これによると……ふたりが気を失って運ばれてきたのは、五月の十六日とあるわ。私もその日に、あなたたち が気絶してたのを、この目でちゃんと見てる」
「……ばっ、嘘だ!」
 藤波が咄嗟に言いがかりをつける。
「そんとき俺らが保健室でのびてたのは、仲間割れをしたからだって言ってるだろ!?」
 間渕も、声を荒げる。
「じゃあどうして……九月のこの時期に、保健室に気を失って運ばれたきたっていう記録がないの? 九月に入ってから 今日まで、来訪記録にあるのは、クラブで怪我したとか、風邪で早退したとか、吐き気がするとか、頭が痛いとか……そう いうのばっかりよ。気絶したひとが運ばれてきたなんていう記録は……ひとつもない」
「あんたが書き忘れてただけだろ! それかあんたがそのとき、保健室に居なかったか、そんなんだろ!?」
 藤波の口調は、既に、刑事に追いつめられた犯人のようになっている。美咲も、勝流も、和田も、そして校長先生も、 保健の先生が確たる証拠を提示してくれることに、望みをかけた。
「いいえ。私が保健室に居ないときでも、必ず誰かほかの生徒が代わり番をしてくれてる。どうしても授業中とかで、 人手が確保できないときでも……生徒会の生徒に来てもらってるわ。それで、確かに九月に入ってから私も何回か、 昼休みとか放課後に保健室を空けることがあったけど……そういう報告は、一回ももらってないの」
「嘘をつけ!!」
「じゃあそいつがおかしい! その代わり番とかいうやつが、俺らを無視してただけだろ!?」
「悪いけど……この来訪記録は、嘘なんて書かれないし、代わり番をしてくれる子も、みんな真面目な子なの。だから、 あなたたちが言っているようなことは、あるはずない」
「そりゃあんたの単なる思い込みだ! 中にはちょっと偽装してみようと思うやつだって……ッ!」
 藤波の言葉が途切れる。
 ――薮蛇だった。
 確かに、保健の先生にも、代わり番を務めた生徒にも、来訪記録を書き換えることはできる。しかし、そう簡単に、 保健室の関係者は藤波と間渕の言うことを鵜呑みにしたりはしない。……たとえ本当に、ふたりがそのように 申し出ていたとしても。
 そしてなによりそう口走ったことで、藤波は……自分たちがそのつもりだったということを、語るに落ちてしまって いたのだった。
 部屋の一番奥で、校長先生の顔色が変わった。
「……藤波君、間渕君」
「………」
 歯を噛み締め、顔を俯けたまま、ふたりは一言も喋らない。
 やや間を置いて、校長先生は厳しい顔つきで、ふたりに言った。
「君たちには、今すぐ学園祭の場から出て行ってもらおうか」
「うるせぇクソジジイ!!」
 藤波はみずから堪忍袋の緒を切り、顔を上気させて、和田の手を振り切る。そして、校長先生の机に向かって、 弾丸のように駆け出す。
 ――危ない!
 誰もがそう思った、次の瞬間、
「……ッ!?」
 藤波が拳を固めて引いた腕が、すんでのところで掴まれた。
 彼を制止した美咲の剣幕は、憎悪そのものだ。
「あたしは……あなたたちのことを絶対に許さない。ライブを台無しにしようとしたことも、先輩をあんなにしたこと も……あたしは絶対に許しません!!」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよこのアマぁ!」
 もう片方の手で、美咲に殴りかかろうとした藤波は――またしても、その腕を別の人物に掴まれてしまう。
「悪ふざけはそのへんにしておけ、藤波」
 そう言って、和田は、掴んだ藤波の腕を、ぎゅっと捩った。
「……グッ……クソ野郎ォッ!!!」
 最後の抵抗として、藤波はあらん限りの声量を振り絞り、精神異常者のように叫んだが……。
 それを状況を動かすきっかけとして聞く者は、誰も居なかった。

 

 項垂れた藤波と、俯いた間渕の腕を抱え、和田が一礼して校長室を後にする。
 嵐が止んだあとのような静けさが訪れたこの場所で、いちばん最初に口を開いたのは、勝流だった。
「どうもありがとうございました、佐伯先生」
 恭しく、彼は保健の先生に向かって頭を下げる。
「まさか、助けに来てもらえるとは思ってませんでした」
 保健の先生――佐伯先生の登場は、美咲を驚かせたとともに、勝流のシナリオをも書き換えていた。
 彼とて、まったく佐伯のことを考えていなかったわけではない。彼は美咲とともに校長室に向かっている間、 なにか心に引っかかるものを感じていた。
 ……誰かに、会っておきたかった気がするんだけどなあ。
 それは、喫茶店を飛び出し、サッカー部の更衣室を借りて制服に着替え、グラウンドに出てきた段階では、まだ はっきりしていたのかもしれない。しかし……土肥と恒幸から贅言を喫し、不本意にも取り乱してしまったせいだろうか。 美咲を隣に歩き出したときには既に、それが誰だったか、そして、その人物にどのようなことを伝えようとしていた のかを、彼は思い出せなかった。
 ……いつかあのふたりに、さり気なく嫌がらせをしてあげよう。
 そんな心にもないことを、その場の雰囲気に似合わず、勝流は考えるのだった。
「私も、まさかと思いながら駆けつけたんだけど……案の定だったみたいね」
 前髪を指で調えつつ、にやりとした顔で、佐伯は言う。
「いやあ、つい俺も感情的になって、証拠を先生に頼むのを忘れてました……」
 言って、勝流は気付いた。
 どのみち、感情的になって取り乱してしまったのは自分だ。土肥と恒幸の言葉がいくら癪に障ったからって、佐伯の ことを思い出せなくなったのを、彼らのせいにすることはできない。「しませんってば!」とわざわざ否定するんじゃ なくて、「おっしゃるとおり、柿本さんはアイドル並に可愛い子だから、それもあるかもしれませんね」なんて アド・リブを打ち出しておけばよかったのだ。
 言われたことを真に受けて、思わず感情的になってしまうA型に生まれて割を食ったなと、彼は思う。
「まだまだ抜かりが多いわね、生徒会長さんも」
「あははっ」
 自分の短所が齎した過失を佐伯に指摘され、ついでに美咲に笑われ、勝流は、決まり悪さに縮こまった。
「ウオホンッ!」
 物々しく、校長先生が咳払いをする。
 その音に振り返った美咲は、綻んでいた顔つきを、今一度引き締めた。
「あのふたりを追い出したところで、あとの処分については生徒指導部の先生方の裁量に委ねるとして……柿本さん」
「はいっ!」
 笑顔で、元気に、美咲は返事をする。
 その気勢を厭うでもなく、校長先生は、彼女に穏やかな顔を向ける。
「君は、とても元気がいいね」
「はい……えへへ、それだけが取り柄ですから」
 照れ臭くなって、美咲は、少し頬を赤く染める。校長先生の口からじかに聞かされる褒め言葉は、手で脇の下をこちょ こちょされているような感じだ。せっかく緊張させた肩や腕、背の筋肉も、これでは弛緩してしまうのは仕方がない。
 彼女の目を見つめ、校長先生は言葉を続けた。
「だが、それで君に課された停学処分が取り消しになるわけではない。先ほども言ったように、学校内では通用しても、 社会に出ればそれは大きな問題に繋がってしまうからな」
 優しい表情の裏に潜む、厳しい心。
 子を育てる親が持つような風格を、今まさに、校長先生は美咲に示している。
「はい……反省してます」
 美咲は笑顔を消し、真面目な顔つきになった。
「でも校長先生っ」
「ん?」
「あたしは……ライブだけはやりたいんです。今まで部活仲間と切磋琢磨してきて……文化祭のライブは、あたしにとって 最終目標というか、登山で頂上を目指してるような感覚だったんです。一歩一歩上っていくたびに、遠くにあった小さな 頂上が、だんだん大きく見えてくるようになって……それと同時に、胸の中の期待も大きく膨らんでいって……頂上に 着く前に期待で胸が張り裂けそうになるぐらい、わくわくしてたんです。それで、部活で一生懸命練習を続けてるうち に、これは単なる期待で済まされるようなことじゃないな、って気付いたんです」
「うん……」
 校長先生は、真剣な顔で、美咲の話に耳を傾ける。
「期待するのは、目的を達成できるのをただ楽しみにしてるだけですよね。……でも、そうじゃないんです。あたしたち はいつもライブに直向きで、ただそれが楽しみで、練習を続けてただけじゃないんです。あたしたちは、なにがなんでも、 ライブを成功させたいって思ってました。だって、一年ばかりだったら来年も、再来年もまだまだチャンスはある けど……軽音部のメンバーには、ベースを担当してくださってる、三年の先輩がいるんです!」
「……柿本さん……」
 恒幸のことに触れた美咲に、勝流は、心を動かされる。
「だから、あたしはその先輩に、いい思い出を作ってほしかった。あたしたちと出会って、一緒に練習して、努力と 苦労をともにしてきたことを、卒業されてからもずっと心に残る思い出にしてあげたかったんです」
 力強く弁舌する美咲の目に、うっすらと、涙の影が浮かぶ。
「あたしは先輩に対して、いろいろ我がままなことを言ってきたと思います。軽音部の機材を運ぶのを手伝って ほしいって言ったのも、先輩に部活に入部してベースを弾いてもらうように言ったのも、一旦はあたしの友達の メンバーがお家の事情で部活を辞めなきゃいけないって思ったときも、どうしたら最後まで練習を続けられるのか、 考えてもらったり……。
 でも、あたしが我がままだったのは、夢があったからなんです。先輩と、友達と、あたしの三人で必ずライブを 成功させてやるっていう夢があったから、あたしは先輩に頼りました。先輩の力を借りて……部活を立て直しました。 それから今までずっと、夢があったからっ……三人で、頑張ってこれたと思うんです!」
「……」
 目を細くして、佐伯は美咲の顔を見つめる。
 美咲の目に溜まっていた涙が零れ出し、彼女の頬に筋を描いた。
「……だから、どうかお願いします! あたしたちにもう一度、チャンスをくださいっ!」
 上体を深く曲げて、美咲は、校長先生に頭を下げた。
 ややあって、彼女の耳に、校長先生の穏やかな声が届いた。
「もちろん、ノーとは言わないよ」
「……えっ?」
 がばっと体を起こした美咲の目は、きょとんとしている。
 まだ潤んでいて、いっとき涙が止められているに過ぎないその瞳を、校長先生は真っ直ぐに見る。
「あのふたりの仕業で、君の大切な夢が叶えられなかったということがわかったからね」
「校長先生……」
 それは、美咲の切実な思いが校長先生の気持ちを動かし――。
 消えかけていた彼女の夢が、完全復活する瞬間だった。
「今から支度をして……となるとちょっと大変かもしれないけど、頑張っておいで」
 校長先生はにっこりと笑って、皺で皮膚全体がよじれた手を美咲に差し出した。
「……はいっ!!」
 その手を両手で握り返し、美咲は、窓の外の太陽にも劣らぬ眩しい笑顔を作ったのだった。

 

「せんぱーいっ!」
「美咲ちゃんっ!」
 腕を大きく振り、恒幸たちのもとへ駆けてくる美咲。校長室を訪ね、戻ってきた彼女の表情は、さっきよりも格段に 明るい。その様子を一目見るだけで、恒幸には、校長の下した判断が理解できた。
 こちらまで駆け寄ってきた美咲を見て、恒幸の両腕が、自然と前に持ち上げられる。美咲も同じように両腕を 持ち上げて、彼の手の平に、自分の手の平を打ちつけた。よろめいて、瞬時に踏ん張り、姿勢を立て直す。笑顔を 輝かせて、美咲は、恒幸にVサインを示した。
「やりましたよ、先輩っ!」
「おめでとう!」
 恒幸が美咲の右手首を掴み、そのままぐいっと自分のほうへ引き寄せる。
「きゃっ」
 足取りを崩し、美咲は恒幸の胸に顔をうずめた。美咲のシャンプーの香りが、恒幸の嗅覚を宥める。彼はおもむろに 右手を美咲の頭の上に載せた。そして、荒々しく撫で擦りながら言った。
「よく頑張ったなっ、美咲ちゃん!」
「えへへ……でもいきなりこんななんて、恥ずかしいです。優鶴も見てるのに」
 美咲は頬を赤らめ、恒幸の広い胸から顔をちらりと覗かせて、優鶴の動静を探る。そんな美咲と目が合って、優鶴は、 手を口許に当てて、くすっと笑った。
 優鶴の隣に腕を組んでどっしりと構えている、彼女とは三十センチ物差しひとつぶんぐらいの身長差がありそうな 土肥が、ぴったりとお互いの体を密着させた恒幸と美咲を見てコメントする。
「遠方、柿本」
「はいっ」
「……青春してるな」
「あははは……」
 兎にも角にも、ふたりはお互いの体の間に再び距離を設けて、苦笑した。
 恒幸には、美咲の頑張りを称えてやるつもりはあっても、ここまでの形で彼女を称えてやるつもりはなかった。つい、 彼は美咲の腕を引き、自分の胸の前に、向かい合うように彼女を抱き止めたのだ。本能的に体を密着させた、と言っても、 おそらく間違いにはならないだろう。
 彼と向かい合わせになった美咲も、ちょっと恥ずかしかったけど、彼の称え方を厭わなかった。
 美咲に遅れて、恒幸たちのもとへ、ふたりの“協力者”が歩調を合わせて歩いてきた。
「よ、ただいまっ」
 片手の親指だけをズボンのポケットに入れ、もう片方の手を挙げる勝流。
「オールスター全員集合ってとこかしら」
 悪戯っぽく唇の両端を持ち上げ、口許に皺を作る佐伯。
「イナズマ! それに、保健の先生!」
「遠方くん……いい加減私の名前も覚えてよね」
 恒幸を見る目を細めて、不満そうに佐伯は言う。
 先刻の校長室での一件で、彼女は、自分の名字が久方ぶりに呼ばれるのを聞いた。そのとき彼女は、もしも目の前に 校長先生と美咲がいなかったならば、勝流を、両腕で抱き締めてやりたいと思った。
 なにせ、校長先生を始め、教師にも、生徒にも、生徒の親御さんにも、部外の来訪者――たとえば、美咲が運ばれた ときの救急隊員とか――にも、“保健(室)の先生と”呼ばれていたのだから。
 ささやかではあるけれど、名前を呼んでもらうのは、佐伯の数年来抱いていた夢であった。
「あっ、すいません……えと、佐伯先生」
 恒幸は咄嗟に記憶の引き出しを探り、佐伯の名前を呼んだ。
 それが嬉しくて、佐伯は、うなじのあたりがむず痒くなるのを感じた。
「それとあと、先生を生徒の付属品みたいに扱わないこと」
「……はい」
 頷いてから、恒幸は思った。
 今の言葉には、デジャヴュ見た感じなら ぬ、デジャアンタンデュ聞いた感じがあるな、と。
「佐伯先生も、美咲ちゃんたちとご一緒だったんですか?」
 不思議そうに佐伯の顔を覗き込みながら、優鶴は訊ねる。
「そうよ。柿本さんに悪気がなかったことを証明するには、私の証言も必要かな、って思ってね」
 したり顔で、佐伯は言う。
 事態を収束させる役割を彼女に奪われてしまった勝流は、低気圧な顔を見せた。
「まったく……最後の最後で先生はいいとこ取りしてくれるんですから……」
「私が駆けつけないで保健室で悠長に昆布茶でも啜ってたら、どうなってたと思う……稲津くん?」
「……すんません」
 本当の意味でヒーローかヒロインになるのは、やっぱり真打ちだよな。
 そう思いながら、勝流は、佐伯に頭を下げた。
「はっはっは。どういういきさつかは存じませんが、ご活躍なさったようで」
 土肥は明るい笑い声を上げて、佐伯に言葉を投げかけた。
「土肥先生こそ、この子たちを最後まで諦めさせないために努力されたんでしょう?」
「いえ……まぁ、確かに諦めるなとは言い続けましたが……」
 佐伯から、美咲と恒幸、優鶴の三人に目を移す。
「結果として、諦めずに頑張ったのは、こいつらにほかなりませんよ」
 穏やかに笑い、土肥は言った。
「ふふっ、そうですね」
 佐伯も笑って、三人のほうに目を向ける。
 照れ臭そうに、美咲と優鶴のふたりは、顔を少しだけ俯けた。
「……なぁ、イナズマ」
「ん?」
 恒幸に呼ばれ、勝流は、彼のほうに振り向く。
「なにからなにまで、ほんとにありがとうな」
「ははっ、なんだよ。今頃改まってさ」
「いや……お前が生徒会長やってて、校長の意見枉げに行くなんて言わなかったら……こうはなってなかったな、って 思ってな」
「……ツネさんさ」
 恒幸の顔を覗き込んで、勝流は言った。
「そういうネガティブな反実仮想するのやめようぜ」
 言われて、恒幸は思い出す。
 反実仮想というのは、教科書には載っていないけれど、古文担当の本村という教師が、授業の中で生徒たちに伝授 した言葉だ。同じ理屈で言うなら、英語の仮定法。現在や過去に事実として起こったことの、まったく逆のことを仮定して、 それが導き出す結果を考える。“実際”の“反対”を“仮想”するから、反実仮想というわけだ。
 恒幸には、なにかいいことや、嬉しいことがあったときに、その反対を仮定してしまう癖がある。彼自身はそうすること で、自分が感じている幸福感や喜びを、もっと大きいものにしようという狙いを持っていたのだけれど。それを事に 触れて聞かされている勝流は、少なくとも、恒幸のそういった考え方を評価してはいなかった。
「……ああ」
「掴んだ幸せは、そのままの形で味わう。これが鉄則だ」
「そうだな」
 改めて欠点を諌められ、恒幸は苦笑した。
「それに俺だって、さっきまで自分では決心つかなかったんだぜ?」
「……えっ?」
 恒幸は驚いて、目を丸くした。
 勝流は自分で決意して行動を起こしてくれたのだと、彼は信じきっていたのだから。
「言われたんだよ、長束に」
 首を回し、勝流は3Aの教室のほうを、自分の顔で指し示す。
「委員長が?」
「ああ」
「……なんて言ってた?」
「なんとかしてよ稲津クン、私遠方クンたちのライブ、どうしても観たいんだよ〜……って」
「……!」
 恒幸は、長束の口真似をする勝流の言葉に、肺腑を衝かれた。
 確かに、自分と、美咲と、優鶴の三人は、表面上ではライブを諦めていた。しかし、心の奥底では、諦め切れない 気持ちが、時折三人の神経に訴えかけていた。だから、その微かな心の動きを悟った勝流が、助太刀をしようと 決意してくれたのだと、彼は思っていた。
 だけど、勝流もまた、自分たちと同じように、“行動させられた”ひとりだったのだ。そして、彼を行動させるに 至らしめたその人こそ、落ち込んでいた恒幸を激励し、元気付けた、長束だったのだ。
 美咲の夢。優鶴の願い。恒幸の目標。
 土肥の期待に、勝流と佐伯の応援。
 そして、長束の要望。
 この中で、どれかひとつでも欠けていたなら、三人の夢は叶えられなかった――勝流に言われながらも、恒幸は、 そう考えることで、今感じている幸福感を、より深く味わうのだった。
「ほんとに礼を言わなきゃいけないのは、あいつかもな……」
「だな」
 勝流は頷いて、にかっと笑った。
「おーしそろそろ、お前らっ」
 土肥が口を開き、場を取りしきる役を買って出る。
「けりがついたんなら、早速部室から機材を引っ張り出しに行くぞ」
「はいっ!」
 彼を見、恒幸と美咲、優鶴の三人が揃って返事をした。
 返事のタイミングを見事ぴったりと合わせた三人ではなく、土肥に顔を向けて、佐伯は言った。
「ふふっ……先生も生徒とおんなじぐらい張り切っちゃって」
「当然ですよ」
 土肥は指で顎を挟み、不精髭を何度か擦った。
「なにしろこいつらだけにステージを独り占めされては、俺もただの顧問で終わってしまいますからね」
「……えっ!?」
「ってことは、先生も!?」
 美咲と恒幸は、驚きの声を上げた。
 脂下がって、土肥は言う。
「観てるだけでも面白いだろうけど、やっぱり参加してこそ意義があるってもんだからな」
「ぅえぇっ、先生が参加するなんてあたしたち一っ言も聞いてませんよ!」
 土肥のほうへ身を乗り出し、美咲は早口に言う。
 恒幸も同じだった。土肥がライブでなにかの楽器を演奏するつもりだったなんて、一度も、彼自身の口からは聞かされ なかった。あくまで土肥は、顧問として軽音部の活動を支え、ライブには期待を寄せているだけだと思っていた。 美咲や優鶴に代わって何度か演奏をしようと思い立ったこともあったけれど、あのことに関しては、欠席した 彼女たちのパートを、都合上埋め合わせてやるだけだったと、恒幸は思っていた。
 土肥は美咲に、にやりと笑いかける。
「今言ったほうが面白いだろ」
「……先生って、たまに先生らしからぬことをしますよね」
「なんか言ったか、柿本」
「あぁいえっ」
 慌てて拵えた笑顔を土肥に向けて、美咲は、胸の前で両手を左右に振った。
「えっあの……」
 恐る恐る、優鶴は口を開く。
「先生は、どのパートを担当されるんですか?」
「キーボードだな」
 胸を張って、土肥は誇らしげに言う。
「でも先生、一っ回もあたしたちとキーボードで音合わせしませんでしたよ?」
「柿本」
「あはいっ」
 突然鋭い口調で名を呼ばれ、美咲は背筋をピンと張った。
「俺の即戦力を見縊るなよ」
 頬のあたりの筋肉を、土肥はまた思いっきり緩ませる。
「まあ、頼もしいこと」
 佐伯はさり気なく、土肥を煽てるような言葉を差し挟む。
 瞼を下げて、美咲は土肥を横目で見た。
「せんせー、自信過剰は失敗のもとですよー」
「はっはは、心配するな」
 笑って、土肥は美咲に言った。
「練習のほうはお前らが持ってたスコアと、あとは音感を頼りにして、休みのときに家でやってたからなっ」
「スコア?」
「ああ、こっそり職員室でコピーさせてもらった」
「抜かりなさすぎですよー、先生っ。っていうか無断でコピーとか、下手したら著作権法違反で訴えられますよ! あたし たちはべつに訴えませんけど……」
「はははっ」
 土肥と恒幸、それから勝流までが一緒になって笑う。くすくすと優鶴も笑い、うんうんそれも一理あると言いたげ に、佐伯は首を縦に振った。
「ささ、早く準備を済ませてしまわないと、オーディエンスも集まるに集まれないし……それに、もうひとりの スペシャルゲストも待たせてしまうことになるからな」
「スペシャルゲストっ!?」
 またしても、今まで一度も聞かされなかった言葉が土肥の口から出てきて、恒幸と美咲は、飛び上がってそのまま ロケットのように空へ飛んでいってしまうそうなぐらいに驚いた。
「ああ。ステージに上がってからのお楽しみだけどな」
「そっそんなぁ、今教えてくれたっていいじゃないですかー」
 土肥の腕を掴み、まるで神社で願掛けをするみたいに、前後左右に振り動かす美咲。
「ねぇ先輩?」
 土肥の腕をがっしり掴んだまま、美咲は、顔だけを恒幸のほうに向ける。
 一旦は驚いたものの、土肥の言ったスペシャルゲストという言葉に思い当たる節を見つけた恒幸は、自信はないけれど も、合っていればと思って、解答を示した。
「この学校のOB……は軽音部が今年からだから違うか……」
「OBは正解だ、遠方」
「……えっ?」
「おっとこれ以上は言えない。さ、部室に行くぞ!」
 力の緩んでいた美咲の手を腕から離すと――土肥は、部室に向けてスタートダッシュを切った。
「あっ待ってくださいよ先生っ、教えてくださいーっ!」
 間髪入れず、美咲がそのあとを追いかける。みるみるうちに小さくなっていくふたりの背中を見ながら、優鶴は、 静かに口を開く。
「……先輩」
「ん?」
「もしかして、スペシャルゲストって……」
「ああ……間違いないだろうな」

 

 矢継ぎ早に、地下の部室から機材が運び出されていく。ドラムセットは一旦分解され、パーツがひとつずつ 運ばれる。中には意気逸って、パーツを両手に持つ者もいたが……。
 軽音部員だけでなく、勝流や佐伯の腕にも、機材は抱えられた。それを見て、部外者に手伝わせるのは忍びないと、 意固地に言い張る土肥。だけど、美咲も優鶴も、そして恒幸も、その意見にはすぐに反対した。この場に及んで、 せっかく手伝おうとしてくれている勝流や佐伯を蚊帳の外に追い出しても、夢の実現を遅らせるだけだ。土肥は、 すまなさそうな顔をして、勝流たちに礼を言った。勝流は、そんな彼を見て笑い、まったくツネさんも土肥先生も 水臭すぎますよ、と言った。
 いつしか、機材を運び出す生徒は、当初の五倍近くまで増えた。ライブやるんですか、と興味を示し駆け寄ってきた 生徒たちが、それなら自分たちも手伝いますよ、と言ってくれたのだ。土肥が、ボランティアだぞ、と言うと、 彼らは口々に、楽しみにしていたライブが見れるのならそれで十分だ、と返した。
 グラウンドの中央に設置された空しかったステージに、機材が並べられる。ざわざわと、人集りができてきた。 シールドを集めて肩にかけて運んでいた恒幸を、ひとりの女子生徒が呼び止める。恒幸は、その女子生徒に見覚え があった。確か、美咲と同じクラスの女子だ。彼が美咲の居場所を尋ねたとき、美咲にはあまりかかずらわないほうが いいと告げた、あの生徒だ。彼女は小さな声で、恒幸に、私もライブを応援しています、と言った。いったい、なにが 彼女にそういった心変わりを齎したのか、恒幸にはわからない。だけど、ひとりでも多くの生徒がエールを送って くれることが嬉しくて、彼は、女子生徒の手を握った。そして、ありがとう、今日は頑張るよ、と返した。女子生徒は 笑って、はい、と返事をした。
 だんだんとステージが形になってくる。突貫工事だから、一週間ほど前に作られた構想図上のステージに比べると、 かなり雑だ。本当は、もっとスピーカーの数を増やしたり、紙吹雪やドライアイスなどの演出を施す機械を導入する 予定だったけど、残り時間を考えると、そこまでは手が回らなかった。
 だけど、見栄え的には壮観だ。このステージの上で自分たちが温め続けてきた夢が、それこそ卵から雛が孵るように 実現すると思うと、恒幸も、美咲も、優鶴も、胸の高鳴りを抑えられない。
 ステージが完成し、恒幸と優鶴は、休みなくチューニングに移る。美咲は、手に持ったスティックを器用に指と指の 間で回したり、イメージトレーニングを行ったりして、ウォーミングアップをする。左手首に傷のある美咲だけど、 彼女はさほど、それを障害だと感じていないみたいだ。
 恒幸と優鶴のチューニングが終わる。それを確認した土肥が、マイクを手に、ステージに上った。
 午後二時五十分。
 軽音部員たちの夢のステージが、幕を開けた。

 

「おーっすお前らぁ! ライブ楽しみにしてたかぁ!?」
 サイドスピーカーから、土肥のハイテンションな声が響く。既にステージを取り巻いていた、二百人近くのオーディエンス が、手を突き上げてわあと歓声を上げる。
「一旦は中止と噂されたライブのステージに、今俺たちは帰ってきたぁ!!」
 土肥が力の限り叫ぶ。歓声に混じって、おめでとーとか、いいぞ土肥ーとか、早くメンバー出せーとかいう言葉が、 あちらこちらから聞こえてくる。
「よぉし、じゃあ今から、お前らお待ちかねのメンバー紹介をする! まずはギター、一年C組、秦野優鶴!」
 小さな体に大きなギター。ストラップを肩からかけた優鶴が、ステージの階段を上る。土肥の隣まで歩いてくると、 彼女は、オーディエンスに向けて遠慮気味に手を振った。
 わあああ、うおおおと、土肥が切り出したときよりも力強い歓声が上がった。
 土肥のマイクを手に取り、優鶴は、含羞みながら言った。
「えっと……みなさん、今日は頑張りますので、よろしくお願いします」
 優鶴がぺこりとお辞儀をする。割れんばかりの拍手が起こった。
 そばにあったマイクスタンドを取って、土肥は彼女に向かって言った。
「無難だなあ秦野。ステージの上だから、もっと感情に任せて喋ってもいいんだぞ」
「はい……」
 土肥にそう言われても、大勢のオーディエンスを目の前にした優鶴はあがっていて、気恥ずかしさと緊張から、 それ以上の言葉を出すことができなかった。
「お次はドラ息子ならぬドラ娘……あぁいや違った、この言い方ではマズかったな。ドラム、一年B組、柿本美咲!」
 二本のスティックを手に持った美咲が、ステージの階段を、一段飛ばしで勢い良く駆け上がる。優鶴と土肥の 間に割り込むと、彼女は、優鶴が持っていたマイクを受け取った。
「みなさん初めまして! ごしょーかいに預りました、1Bの柿本美咲ですっ!」
 パワフルな美咲の声。負けじと、オーディエンスも歓声を昂ぶらせる。
「あたしはここに入学したときから、文化祭でライブをするのが夢だったんで、今日は思う存分楽しみたいなと 思います! よろしくお願いしまーすっ!!」
 優鶴とは対照的に、美咲は恥じらうことなく、元気一杯に手を振って言った。盛大な拍手が、それに応えるように 湧き上がる。土肥は自分のマイクで、彼女に難癖をつけてからかった。
「自分だけが楽しんでオーディエンスはどこ吹く風とは、大層な物言いだな、柿本」
「どこ吹く風なんてあたし言ってません!」
 美咲は土肥のほうへ体を乗り出した。漫才のようなふたりのトークに、オーディエンスからどっと笑いの声が立つ。
「はっはっは。まぁ彼女には演奏をまとめてもらわないといけないから、大いに楽しんでもらうとして……ベース、 三年A組、遠方恒幸!」
 ベースを肩から提げた恒幸が、階段を上り、ステージの上に姿を現す。オーディエンスに手を振りながら、美咲 たちのところまで歩いてくると、彼は、美咲からマイクを受け取った。
「どうも、三年の遠方です。よろしくお願いしまーっす」
 オーディエンスの拍手が合いの手となったあとで、土肥は言った。
「遠方は今年で最後の文化祭だが、最後らしくなにか思い出に残るようなことをやってみたかったそうだ。まぁ、 そう思ってからベースを弾き始めたから、ウデのほうはちょっと心許ないが……」
「ちょっと先生っ!」
 恒幸の期待を欺く土肥の紹介文句に、またオーディエンスから笑い声が上がる。自分と美咲はやっぱりこういう運命に なってしまうのかと、恒幸は項垂れた。
「ああまぁ、彼もステージの上だからさすがに本気になってくれるだろう」
 やはり土肥はそう言い繕って、今の紹介文句が冗談だったことを、恒幸とオーディエンスに示した。
「そして本日のステージに招待させていただきました、スペシャルゲストのギタリスト。略して、スペシャギスト! 本校の 卒業生でもあり、“Raging Dragons' Scream”というバンドでギターを弾いていた、秦野のお兄さん、秦野雄慈!!」
「……雄慈さんっ!」
 笑顔で階段を上ってくる雄慈の姿に、美咲は驚いて目を大きく見開いた。
 驚いたのは、美咲だけではない。スペシャルゲストが誰なのか、目星をつけていたはずの恒幸も、はなはだ驚いていた。 黒いレザーのチョッキから筋骨逞しい両腕と分厚い胸板を見せ、ドクロが三つ連なった首飾りをつけた雄慈の姿が、 恒幸の持っている“Raging Dragons' Scream”のCDジャケットに写っているギタリストのそれと、まったく同じ であったことに。
 オーディエンスの最前列に居た、雄慈の同期生らしき若者が、彼に向かって大きな歓声を上げる。目線をオーディ エンス全体に、雄慈は胸に抱えたギターを高く持ち上げて言った。
「いやぁ、僕をこんなステージに出していただけるなんて、土肥先生には感謝してもしきれません。今日はひとつ、 よろしくお願いしまっす!」
 雄慈の張り上げられた声を受け、歓声は最高潮に達した。
「そしてそして、last but not least!! 世にも美しいキーボードの音色を織り成すのは軽音部顧問のこの俺、 土肥奏一!!」
 土肥の高らかな自己紹介とは裏腹に、歓声が半減する。
「なんだお前ら、そのやる気のない拍手は! もっと湧き立たないか!!」
 しかし、そう言ったあとでも、歓声は一割はおろか、一分増しというところだった。
「まぁよしとして……今日はこの五人と、最後まで十曲ばかり演奏する間つき合ってほしいと思う!」
 土肥の言葉が終わると同時に、雄慈がフィードバックを鳴らす。美咲が一、二、三、四とハイハットを打ち鳴ら して――ライブはスタートした。

 

 五人が六曲めを演奏し終えたところで、土肥がマイクを握る。彼は、オーディエンスに向かって、真剣な目つきを して言った。
「ここでみんなに聞いてほしい。ドラムの柿本から、みんなに話があるそうだ」
 機材を運ぶとき、美咲は、土肥に頼んでいた。自分がどういういきさつで、このステージに立ったか。それを 包み隠すことなく、オーディエンスの前で喋らせてほしいと。
「柿本」
「あ、はいっ」
 美咲は、ドラムセットの前にあるマイクをスタンドから外して、口元に近づけた。
 そして、淡々とした口調で語り始めた。
「みなさんの中には知ってる人もいると思いますけど……あたし、今は停学中なんです。信じられないかもしれませんけど、 あたしは、この手で、二年の先輩を殴ってしまったんです。それが、あたしが入学してすぐのとき……五月の中頃でした。 まだまだこれから高校生活が始まるぞっていうときに、あたしは、ある事件を目撃してしまって、それで、どうしようも なくて、ただ、手を上げてしまったんです。
 でも……その事件を、あたしは関係ないからって、見過ごすことなんてできなかった。放っておけなかったんです!
 先輩が……こうやって今、あたしの横でベースを弾いてる遠方先輩が、酷い目に遭ってるのを見ると 居ても立ってもいられなかった……。先輩に暴力を振るってた二年の生徒が恨めしくなって、憤りを感じて、自制が 効かなくなって……それで、あたしは我慢できなくなって、その二年の生徒に向かっていったんです。
 あたしは確かに、人を殴るなんていう悪い行いをしました。
 でもっ……それと同時に、あたしは、どういうひとを信じて、どういうひとを信じなかったらいいのか、そういうことを 学びました。あたしは中学のとき、どうしようもなく人間不信で……親の言うことも、先生の言うこともなにひとつ 素直に聞けなくて、そんな自分を、どうしてあたしは素直になれないんだろうって、自己嫌悪になって責め続けて……地獄 の中に居るみたいに、もがき苦しみました。その中で、あたしの手を引いてくれたのが、ギターの優鶴でした。 優鶴はずっと、振り向こうともしなかったあたしに、無駄だとわかってても自分の望みにかけて声をかけ続けてくれた んです。おかげであたしは、ちょっと遅かったけど、優鶴の気持ちに応えることができたんです。
 あたしは、かけがえのない友達をそうやってひとりでも手に入れられたら、その友達だけを信じて、ふたりで助け合いながら 生きていけばいいって思ってました。……でも、気付いたときにはあたしは、優鶴以外に信じることができるひとの 存在を求めていました。それはたぶん、いつまでも優鶴ひとりだけに頼っていられないと思ったのかもしれません。 どんなに親しい友達でも、どんなにお互いのことをわかり合った親友でも、頼りっ放しになることはできない。 じゃあもっと友達を増やせばいいじゃん。たくさんの人と知り合って、手を繋いで、自分を理解してもらえばいいじゃん。 知らず知らずのうちに、あたしはそんなことを考えていたのかもしれません。
 だから、ほんのちょっと勇気を出して、遠方先輩を信じてみよう……って。先輩がどんなひとなのか、あたしのことを どう見てくれてるのかはわからないけど、まずはあたしのほうから働きかけてみたら、優鶴みたいに、仲良く付き合う ことができるんじゃないかって。そう思って、事件で倒れた先輩を、あたしは保健室まで運んだんです。
 それから、あたしは自分のことを受け入れてくれた先輩と、優鶴と、三人で文化祭でライブをしようっていう 夢を共有しました。夢に向かって、来る日も来る日も一生懸命練習に打ち込みました。だから、あたしが停学になった せいでライブが中止になったって最初に聞いたときは、すっごくショックだった……。でも、優鶴も、先輩も、 土肥先生も……みんなが一丸になって夢を実現させようって思ったから、あたしたちは今こうやって、ステージの上に 立って、楽しく演奏することができてるんだと思います。
 夢は、あたしは……叶うまでは絶対に捨てちゃいけないものじゃないかって思います。まだ一年生のあたしが こんなことを言っても説得力がないかもしれませんが……夢を叶えるためには、たとえどれだけ時間のかかることで あっても、たとえどれだけ実現する可能性が低いことであっても……叶えるまでは、絶対に諦めたりしないでください。
 あたしは……みなさんの夢も、全力で応援させていただきますっ!」
 彼女の言葉が終わると、少し間が空いて、オーディエンスの拍手が轟いた。
「……ということだ。あー、今の柿本の話に対してなにか意見のあるやつは彼女に直接物申すか、原稿用紙にまとめて 提出するようにな。あ、原稿用紙は職員室まで取りにくること」
 土肥はそう言って、演奏の中休みを締め括った。
「それじゃあ気を取り直して後半戦だ! お前ら最後までノッてろよ!!」
 演奏が再び始まり、演目はフィニッシュに向けて、再び走り出したのだった――。

 

【2】

 文化祭から、一ヶ月が経った。
 この一ヶ月、恒幸は寂しくなって、何度も美咲に電話をかけようと思った。
 でも、その手はいつも、事を起こす直前で止まった。
 ――美咲に、時間を意識させてはいけない。
 彼女の気持ちを尊重したい。だけど、自分としては、彼女と話がしたい。話をして、声が聴きたい。
 それでもやっぱり、実際に顔を合わせられるその日までは、待とう。
 そう思いながら、今日まで恒幸は過ごしてきた。
 もう寂しくない。
 彼女は戻ってきて、また三人で楽しい時間を過ごせる。
 正門に差しかかった恒幸の目に、もうひとりの後輩のうしろ姿が映った。
「あっ、おはよっ優鶴ちゃん」
 恒幸の呼びかけに振り返った優鶴は、一瞬間延びした顔をして、そのあとで笑顔を作った。
「遠方先輩! おはようございますっ」
 勢い良く、優鶴はいつもより体を深く曲げてお辞儀をした。内側にカーブした二つ縛りの髪の毛がぴょこんと動いて 垂れ下がり、体を起こすと同時に、またぴょこんと動いてもとの状態に戻る。
 なんというか、今日の優鶴には活き●●がある――恒幸には、 そのように感じられた。
「ははっ。今日は元気だな、優鶴ちゃん
「当たり前じゃないですか、だって……」
 その先は、わざわざ言ってくれなくてもわかっている。
 ここであと少し待っていれば、彼女は来るのだ。それを狙って、ふたりは少し早めに登校していたのだから。
「今日で合ってたよな」
「はい、間違いありません」
「会ったらさ、最初になんて言ってくると思う?」
「さあ……私にも想像できません」
 ふたりは、もと来た桜台駅の方角を振り返った。この時間帯に登校してくる生徒は、みな真面目そうな顔をしている。 たぶん教室に入ったあとで、授業を受ける準備を整えるべく、教科書を開いて勉強するのだろう。そうでもなければ、 好き好んでこんな時間に正門を抜けたりはしない。みんな、ギリギリまで家でくつろいでいるのだから。
 雲ひとつない空。空が青い。すっきりとした、秋の晴天。朝の鳥たちが、楽しそうに歌う。それは歌声というよりも、 美咲を呼ぶ声のように聞こえる。いつもはバックグラウンドミュージックでしかない音が、どうして今日に限ってこう 聞こえるものかと、恒幸は苦笑する。
 列車がふたりの横を過ぎる。しかし、列車では判断がつかない。美咲は桜台駅まで、美洲線という支線に乗って きているのだ。本線を行き交う列車に乗るのは、恒幸だけだ。
 正門に流れ込む生徒の波が、一旦収まる。静かな正門の前で、ふたりは待った。
 やがて――向こうのほうから、ひとりの生徒が駆けてくるのが見えた。
 急ぐ必要のないはずのこの時間帯に、あの全速力――間違いない。
 その生徒は笑顔を引っ提げて走ってきて、恒幸と優鶴のもとへ辿り着くなり、
「おっはよーっ、ふたりとも!」
 大きな声を出して挨拶した。
「美咲ちゃん!」
 一ヶ月振りに見る、美咲の顔。
 それは、ふたりが期待していたとおり、とても元気そうなものだった。
「ただいま、先輩っ!」
「……おわっ!?」
 腕をいっぱいに拡げて、美咲はふたりの前で足を止めずに、恒幸の胸にダイブした。子供のように飛びついてくる 美咲を抱き止め、恒幸はバランスを失って二、三歩後ずさった。恒幸の肩に顎を載せる美咲。じんわりと、彼女の体温 が恒幸の肩を通して、体全体に伝わった。
 朝っぱらからこんな様子を教師にでも見られたらマズい。そう思って、恒幸は、強引に美咲の体を離す。
「……っておいおい、俺たちのほうが先に言うんじゃなかったっけ?」
「べっつにそんなのどっちが先でもいいじゃないですかー」
 美咲は細い目で恒幸を見ながら、口を尖らせる。
「っていうかあたし、言わずにはいられなかったんですもんっ!」
「ふふっ、やっぱり美咲ちゃんは美咲ちゃんだね」
「優鶴、それどーゆー意味っ!?」
 がばっと優鶴のほうに上体ごと振り向き、美咲は態とらしく冠を曲げてみせる。
 そんな彼女の肩に手を置いて、恒幸は言った。
「ははっ。まあまあ……仕切り直しでもっかいいこうぜ」
「はいっ」
 恒幸の思惑どおり、美咲の膨れっ面は、すぐに笑顔に戻った。
「なんか、最初に私たちが出会ったときの自己紹介を思い出しますね……」
 物柔らかに笑って、優鶴は言う。
「……うん、そだね」
 美咲の表情も、たちまち穏やかになった。
 そんな遣り取りが確かにあったなと、恒幸も思い出し笑いをした。
 ふたりは美咲のほうを向く。そして、真っ直ぐに、彼女の丸く大きな瞳を見つめた。
「おかえりなさい……美咲ちゃん」
「おかえりっ、美咲ちゃん」
「優鶴、先輩……ただいまっ!!」
 そして今――互いに三人の手は、再び強く、しっかりと握られた。

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