エピローグ Lourdaud - 鈍い男
Il sait de nouveau à quel ordre de ce qui n'est pas fin il est.

 

「ああだりぃ」
 持ち上げた右腕の手首を左手で引っ張りながら、勝流が唸る。伸びをした姿勢のまま、彼は昇降口の脇の壁に凭れ かかる恒幸のところに歩いてきた。
 傍らには、長束の姿。こうして見ると、ふたりがカップルを通り越して、夫婦のようにさえ見える。手を繋いでいない せいだろうか。ふたりの距離を意識して、恒幸は、気を回した。
「答辞、お疲れさん」
 恒幸が声をかける。
 在校生の送辞も円滑でしっかりとしていたが、勝流の答辞はその一枚上という感じだ。言葉の堅実さだけじゃなくて、 責務を全うしようという意志が表れていた。彼の視点からだと、五百人弱の生徒と、その親、それに教師と来賓の 姿が見えていたはずだ。ライブのステージに立ち、大勢のオーディエンスを前にした恒幸も、自分が勝流の立場だったら、 緊張のあまり卒倒しているんじゃないかと思った。
「……んー……」
 また勝流が唸る。今度はその正体を、恒幸は理解できない。
「……どした?」
「あぁいや、『へっぷばぁーん』ぐらいのことは言ってくれると思ってた。お前のことだし」
「…………」
 態度には出さなかったけれど、恒幸は、心の中で派手にコケた。なんというか、ギャップがありすぎる。あれほど 壇上で真面目に喋っていた勝流が、恒幸と再び顔を合わせた瞬間これだ。
 アーダリー・ヘップバーンという名女優の名を連想させたかったのは承知だが、あまりに勝流が気持ちを入れ替える のが早いことに驚いてしまい、恒幸は、返す言葉を失うのだった。
「……まぁこれぐらいのことはやっとかないと、この一年生徒会長やってきた人間として後味悪いからな」
 話を元に戻して、勝流は、自分の行った答辞について、そうコメントした。
「さすが、最後まで抜け目のないやつだな」
「ははっ、まあな」
 勝流はうなじに手を当てて、気恥ずかしそうに笑った。
「ふふっ。ふたりとも、改めて、卒業おめでと」
 彼の隣に居た長束が、祝辞を設ける。
 彼女の次に祝辞を返したのは、言うまでもなく勝流のほうだった。
「委員長こそおめでとう」
「私はもう委員長じゃなくなってるんだけどね……」
 困った顔で、長束はつっこみを入れる。
「ああそっか、すまんすまん」
 今度は、決まり悪さに苦笑する勝流。
 ……まったく、長束がそばに居るとうだつが上がらないところだけは、卒業式を終えた今でも変わってないな。
 恒幸も、そんなふたりの関係に、忍び笑いした。
 そして彼も、勝流に続いて祝辞を返す。
「おめでとう、その……長束」
 今まで委員長と呼んでいただけに、恒幸は、躊躇いながら長束の名を呼んだ。
 長束はにっこり笑った顔を、恒幸に向ける。
「絢乃でいいよ、恒幸クン」
「なんか恥ずかしいな……名前で呼ばれると」
 照れ臭くなって、恒幸は、長束から少し目を逸らす。
 自分は長束のことを名前で呼ぶのを躊躇ったというのに、彼女は平然と、しかも下の名前を笑顔でそう呼んだ。こういう ところも、見習わないといけないのかもしれない。恒幸はそう思うと、彼女を師と仰ぎたい勝流の気持ちがわかったような 気がした。
「ふふっ。なんかこの三年間、あっという間だったね」
「だな」
 勝流が頷く。
「遠方クンなんか、最後の一年はすごく早かったんじゃない?」
「まあ、その前の二年、なんもやってなかっただけにな……」
 正直、恒幸は思う。今年の自分は、本当にいろんなことを自分の意志で経験し、そして変わったなと。
 ――一学期の始業式の日、彼が見たふたりの新入生。彼女たちは、恒幸に誤解をさせるほど仲が良くて、手を繋いでいた。
 五月のある日、彼は不注意から、校内でも恐れられている不良生徒に人気のない場所まで連れられ、暴行を受けて 気絶した。そんな彼を保健室まで運んでくれたのは、始業式の日に見た、後輩の美咲だった。
 それから、後輩たちと一緒に機材を搬入して、彼は、ほかの人と共同作業することの楽しさを知った。だけど、 勝流の突然の申し出によって、機材は一度返却された。美咲は怒り、恒幸も、勝流が自分のことを裏切ったのだと 思った。
 再び機材を搬入することができた日は、恒幸たちが思っていたよりも早く訪れた。後輩たちの実力に驚きつつも、 ベーシストとしての一歩を踏み出した日。軽音部への入部が、低迷する成績を挽回するためのきっかけになればいい と思った。
 一学期の期末試験のあと――恒幸は初めて、女の子とデートをした。
 我がままな美咲に振り回され、でも最後には、彼女の弱い心を見抜いた。美咲は、恒幸のアプローチのおかげで、 心の靄を取り払ったのだ。そんな恒幸に好意を示して、美咲は、恒幸と口づけを交わした。
 そのあと優鶴の口をついて出た、退部の決意。一度は部活を続けていくことを諦めかけたけれど、恒幸も、美咲も、 心の底では、どうしても優鶴に戻ってきてほしいと願っていた。そして迎えた、優鶴とのデートの日の暮れ、願いは 彼女に届き、彼女は、部活に復帰すると約束した。
 二学期になり、文化祭に向けていよいよ昂ぶる、軽音部員たちの心。手を伸ばせば届きそうなぐらい、夢に近づいてい たその矢先――美咲が手首を切った。自傷行為という負の行動の裏に潜んでいた、彼女の想い。そして、悩み。彼女は 赤心を披瀝し、恒幸と優鶴のふたりとともに歩んでいくことを誓った。
 そして、文化祭の日。恒幸たちは、たくさんのひとたちに助けられ、なくしかけていた夢を取り戻した――
 長束は、笑って恒幸に言った。
「卒アルの写真もう見た? 軽音部の写真、みんな満足そうな顔で写ってたよ」
「そうか? そりゃよかった」
 美咲が停学を終えた半月後、十一月の始めに、三人の軽音部員は、土肥も含めて、あのだだっ広い地下の部室で、 卒業アルバム用の写真を撮影してもらった。恒幸はまだそれを見ていないけれど、自分で見たって、自分の顔がどう 変わったかなんてわかりやしない。長束の意見は、そういう意味では、とても有益だった。
「なんだお前、すんげえ他人事みたいな言い方だな……」
 相変わらずの薄っぺらい恒幸の反応に、勝流は、不満の鼻を蠢かす。
 そうは言われても、
「仕方ないだろ……ほかになんて言えばいいのか思いつかないんだし」
 これが、恒幸の本音だ。
 迷える子羊に指南のステッキを振るような調子で、勝流は返す。
「そりゃもう、なんたって俺ら幸せ者ですから! とかさ」
「……あほらし」
「なんだとこの野郎、もっかい言ってみろ」
 不良の口真似で、勝流は言った。
「いやだから、あほらしくて聞くに堪えない……と」
「いやツネさん……一言多くなってませんか?」
「さあな」
 そんな気もしたけど、気のせいだろう。恒幸はそう思って、勝流の質問を軽くあしらった。
 男衆の他愛ない言葉の遣り取りを聞いて、長束もふふっと笑う。
 そのとき、
「あ」
 なにかを見つけたのか、勝流が声を上げる。
「い」
 恒幸がそれに続く。
「う」
 長束も続いて……。
「え……って違うわい!」
 一周りして再び声を上げた勝流は、ふたりにチョップを繰り出し、額に当たる寸前で止めた。一旦はぎゅっと 目をつぶった長束も、彼の手が自分に当たっていないことを悟ると、すぐに目を開けて、笑った。
「ノリノリだね、稲津クン」
 後ろ手に体を少し前に倒して、彼女は楽しそうに言う。
 恒幸も一笑して、話を戻そうと、勝流に尋ねた。
「ははっ。で、どうした?」
「あぁいや、向こうで親が呼んでる。ちょっと行ってくるわ」
「ああ」
 恒幸が頷くと、勝流は、そそくさとその場を去ってしまった。
 学生食堂での一件以来、久々にふたりきりになった、恒幸と長束。美咲や優鶴よりも隣に並ぶ機会が少ない異性 というだけあって、言葉がそう簡単には出てこない。
 ……まあいいか。どうせ勝流が用事を済ませて戻ってきたら、途切れた会話も復活するだろうし。
 恒幸がそう思って、長束から目を外していると、彼女のほうから話しかけてきた。
「――ねぇ、遠方クン」
「ん? なんだ?」
「君ってさ、鈍いって言われたことない?」
「……え?」
「だから、本音に気付かないまま建前に翻弄されることがよくあるでしょ、って訊いてるの」
「あ、ああ……まあなぁ」
 恒幸は、気持ちの悪い焦りを感じた。
 確かに自分は鈍い。後輩の心の内も読めないぐらい、鈍感だ。
 だけど、どうして今になってそのことを、しかも長束に指摘される必要があるのだろうか。
 内なる気持ちを示す、恒幸の焦点の定まらない目を覗き込み、
「はぁー……」
 長束は、長大息を漏らした。
「……なんだよ、その深い溜め息は」
 苛立ちさえ覚えて、恒幸は、陰に籠もった声で言う。
 長束は呆れ顔で、彼に、ひとつのヒントを与えた。
「遠方クンさ……今この瞬間も、稲津クンの建前を飲み込んでしまってるんだよ?」
「……えっ?」
 それはもしかすると、言われなければ永遠に気付くことができなかったかもしれない。
 長束の示したヒントは、確実に、恒幸の脳味噌の怠けた部分に働きかけていた。
「やっと気付いた?」
 得意そうな顔をする長束。
 自信はないけれど、自分の想像した“勝流の本音”とやらを、恒幸はクイズ番組の解答者になったつもりで 口に出してみた。
「えーと……長束とふたりで話をさせたかったとか?」
「……がくっ」
 どうやら不正解だったらしく、長束がコケる。
 項垂れた首を億劫そうに持ち上げると、彼女は言った。
「あー、違う違う。ほら、うしろ。正門のとこ」
「……あっ!」
 長束に言われたとおり、正門を見遣って――ようやく恒幸は、“勝流の本音”に気付いたのだった。
「早く行ってあげなよ」
 満足げに、長束は笑いかける。
「おう。その……ありがとな、長束」
「遠方クン……もっと人の心を読む力をつけたほうがいいと思うよ」
「ああ、精進する」
「口だけじゃだめだよ。本気で実行しないと」
「うん……生卵青汁だな」
 無意識のうちに、恒幸ははその単語を口に出していた。
 言ってしまってから、このわがまま娘の切り札●●●●●●●●●は 長束には通用しないということに気付いて、彼は苦笑する。同時に、この言葉の射程範囲が、思っていたよりも 広かったことに、彼は少しばかりびっくりした。
「……なにそれ……?」
「ああいや、こっちのこと。それじゃあな!」
 長束に向けて腕を上げ、足は正門を目指す。
 去っていく恒幸のうしろ姿に、届かないとわかっていながら、長束は呟いた。
「ふふっ……遠方クンって、変なひと」

 

 正門までの五十メートル。胸騒ぎの収まらない恒幸にとっては、とても長い距離。
 両サイドに並ぶ木々が過ぎ行く。段々と大きくなっていく、後輩たちの姿。こみ上げる嬉しさが、彼の理性の箍を外す。彼は 大声で、正門のところで待つ彼女たちを呼んだ。
「おーいっ!!」
「あっ、先輩!」
 振り向いた美咲が、笑顔で手を振る。優鶴も、駆けてくる恒幸の姿を捕らえると、優しい微笑みを見せた。
 正門に辿り着いた恒幸は、呼吸を整えるのも忘れ、声を弾ませた。
「来てくれたんだ、ふたりとも」
「もちろんですよ!」
「一年は今日は休みだろ?」
 挨拶がわりに、ちょっと悪戯っぽいことを言ってみる。
 言わずもがな、卒業式に臨むのは、雄途に就く三年生と、それを送り出す二年生のみ。一年生は、式の当日は休み、 予行演習が行われる前日は半日授業だ。補習を受けなければならないとか、置き忘れてしまった教科書などを取りに 来なければならないとか、そういった特別な理由がない限り、正門を抜けることは許されない。
 美咲と優鶴のふたりも、そのことをいささか気にしているのか、完全に学校の敷地内に踏み込んではいない。身なりは それなりに、制服の上に学校指定のコートとマフラーというものだけど。
「それは学校側のエゴってやつですよ。あたしたちにとっては、休んじゃいけない日なんですっ」
 美咲は口を尖らせた。熱の籠もった吐息が、彼女の口から外界に出たところで白くなる。
 寒い。雪こそまだ降り積もってはいないけど、冬真っ盛りの気温だ。
「ははっ。……寒い中、ありがとな」
 悴んだ手を擦り合わせながら、恒幸は、後輩たちのとった労をねぎらった。
 美咲はにっこり笑って、彼に返す。
「えへ、先輩のためならたとえ火の中水の中雪の中集中豪雨の中、ですよ!」
「はは、それは頼もしいな」
 冗談なのか本気なのかがどうにもわかりにくい美咲の言葉だけど、やっぱり、かけてもらえるだけでくすぐったい ような感覚を催してしまう。お礼の気持ちを含ませて、恒幸は彼女に笑いかけた。
「先輩……ご卒業、おめでとうございます」
 恥じらいながら、優鶴はお辞儀をした。
「おめでとうございますっ!」
 いつもと打って変わらず、美咲は対照的に大振りのアクションを添えてくる。
 ふたりの後輩の祝辞を受けて、恒幸は、思わず畏縮した。
「ありがとう。こんな俺でも、卒業しちゃったよ」
「もっと自分に自信持ちましょうよ、先輩」
「うん……」
 恒幸は、口任せの言葉を悔いた。
 ――美咲の言うとおりだ。いつだって自分は、自信がないふりをする●●●●●
 文化祭のライヴを成功させておいて、なにが“こんな俺”だ。本当のところ、自信の塊の癖に。
 ただ、それを偽りなく示す気がないだけなんじゃないのか――
 自問自答することでなんとか持ち直そうとする彼に、優鶴は言った。
「私もそう思います。自分に自信があれば、越えられない壁なんてないって」
「そうだな」
「自分を信じて……それから、希望をもち続けてください。これからも、社会に出られてもずっと……」
「ああ。頑張るよ、俺」
 ひとつの大事な答えを見つけて、恒幸は頷いた。
「もしなにかあったときに凹んでたら、自分のためにならないだけじゃなくて、美咲ちゃんと優鶴ちゃんの願いまで ふいにしてしまうことになるしな」
 恒幸は、もともと弱い心の持ち主で、去年まではしばしば落ち込むことがあった。そのたびに彼は、立ち直ろうと思って、 いつまでもこんな状態では成長できないぞ、と自分に言い聞かせた。
 でも、これからは違う。これから先、落ち込むことだらけかもしれないけど、もし落ち込んでしまうようなことになったら、 自分自身だけでなく、自分のことを応援してくれている後輩たちにも累を及ぼしてしまうだろうと、彼は思ったのだ。
「あたしたちのことはいいんですよ。また時間が経ってから、そのときにちょっと思い出してもらえるだけで。っていう か……いちいちあたしたちのことに捕らわれてたら、捗る仕事も捗らないと思います」
 苦笑いを浮かべて、美咲は言った。
「まぁ、それもそうだよな」
 一途に気遣ってくれる美咲の心中を察して、恒幸は頷く。
「どんなときでも……頼れるひとがほかにいても、最後に決断を下さなきゃいけないのは自分自身です。それが合ってる か間違ってるか、そのときはわからなくても、自分自身で決めたことには絶対いい結果がついてくるって……あたしは 思ってます」
「うん……」
 こう言ったのが美咲だから、とても説得力が感じられる。彼女はなにも、優柔不断という言葉と無縁であるだけじゃなく、 自分自身で決断を下す場面を、たびたび恒幸に見せてきたのだ。彼にベースを弾かせたのも、優鶴を復帰させようとして 伯父に力を貸してもらえるよう頼み込んだのも……それから、悩みに対する打開策を見出したのも、全部、美咲自身だった。 彼女がそういうふうに振る舞うことができたのは、人並み外れた断行力を、隠すことなく発揮したからなのかもしれない。 そしてなによりも、良く言えばハングリー精神旺盛、悪く言えば我がままな積極性が、彼女にあったからなのだろう。
 そう思うと、恒幸は、自分の目に映った美咲の姿が、急に大きくなったような気がした。
「えへっ……なんてあたし、ちょっと偉そうにしすぎですよね」
 美咲はそう言って、唇の隙間から、申し訳程度に舌を出す。
「いや、参考になったよ。参考になるどころか、たぶん聞いたか聞かなかったかで俺の生き方まで変わってたかも」
 今もし耳を塞いでいたら、やがて巡り来るは、他力本願のダメ人生。
 美咲の言葉が、それほどまでに自分の肺腑を貫いていたということを、恒幸は否定できなかった。
 ――そのとき。
「あー……ちっさいのしに行ったらでっかいのまで出たよ」
 昇降口のほうから軽やかな足取りで歩いてきた人物が、開口一番、そんな科白を口にする。彼の足取りと表情からは、 言葉どおり、出すものを出し尽くしたという解放感が伝わってくる。
「雄慈さんっ!」
 今日の雄慈は、トレーナーの上に厚手の黒いパーカーを羽織り、ベージュのチェックのマフラーを巻いている。
 運送会社のアルバイトルック、文化祭のステージに立ったときのミュージシャンスタイル、それから今見ている、 思いっきりプライベートな私服姿。なにを着てもサマになるひとだなと、恒幸は思う。
「汚いよ……お兄ちゃん」
 苦い顔で、文句を飛ばす優鶴。
 雄慈は、ばつの悪さに笑った。
「ははっ、ごめん優鶴」
 縁者を最優先してから、彼は、恒幸のほうに向き直った。
「あ、卒業おめでとう。遠方くん」
「どうも、ありがとうございます」
「ほんとは優鶴と美咲ちゃんと、三人で一緒に顔を合わせようと思ってたんだけどね。なんというかさ、ここってときに 催しちゃうもんで……」
「……もう、お兄ちゃんのムードブレーカー……」
 呆れ返った声で、優鶴は言った。
「はははっ」
 いつにない調子の優鶴を見て、恒幸は笑った。
 普段、三人でいるときなら、優鶴はこんな挙動を見せない。心のどこかで今も恒幸のことを慕い続けている彼女は、 恒幸に対して、不機嫌な表情を必要としないからだ。恒幸よりも近い関係にある兄の雄慈がそばにいるときだけ、 彼女はこんな顔をするのだった。
「でもまぁ、こうやって、たくさんのひとに門出を祝えてもらえて、俺も幸せっすよ。美咲ちゃんと優鶴ちゃんのふたりに 出会えてなかったら……祝ってくれるの親ぐらいだったかもしれませんし」
 恒幸は苦笑しながら、また自分でも気が付かないうちに癖が出てしまったな、と思った。
 だけど、それもつまるところ、“勝流に言わせてみれば”の話。恒幸自身は、そういう言い方を敢えてすることで、 後輩たちと出会えた巡り合わせを胸いっぱいに噛み締めるつもりだった。
 雄慈は、勝流とは違って、恒幸のフレージングをごく自然なものとして受け取った。
「ははっ。僕のときは優鶴ぐらいだったから、遠方くんが羨ましいよ」
 優鶴ぐらいだった――というのはどういうことなのだろうか。
 恒幸がそのことに思考を巡らせる余裕も与えず、雄慈は、
「あ、そうそう。これ、僕から遠方くんに卒業祝い。もらってくれるかな?」
 と言って、手に提げていた、百貨店のものと思しき紙袋を、恒幸に差し出した。
「えっ……俺にですか?」
「うん」
 雄慈は頷く。
 恒幸は、少しの間受け取るのを躊躇ったが、雄慈にいつまでも腕を伸ばした状態で紙袋を持たせておくのも気が咎めて、 おずおずとそれを受け取った。予想を越える重さに、彼は、早くその中身を確認してみたいという衝動に駆られる。
「見てみてもいいっすか?」
「どうぞ」
 紙袋の取っ手を両手で持って、中を覗いてみる。
 そこに入っていたのは……。
「これ……スーツ?」
「ああ。最新式のやつじゃないから、機能性とかは保証できないけどね」
 どこの紳士服店でも売られていそうな、リクルートスーツ一式。上だけではなく、薄いブルーのストライプが入った ワイシャツが二枚、細かな白いドットが入った臙脂のネクタイ、それと、ネクタイピンまでもが添えられている。革靴 こそセットから漏れていたものの、これだけでも、値段に直せば三万円はくだらないだろう。
「そんな……俺なんかのために、こんなものを買ってくれたんですか?」
 プレゼントだと言ってこんな大層なものを渡されては、恒幸も好い気がしない。
 確かに、大学に進学することを志さなかった自分には、必要なものなのかもしれない。それでも、まずは雄慈のように バイトをして世慣れることから始めようと考えていたから、差し当たって欲しいというものでもないし、第一、 一目見るだけで、自分には不釣り合いだと思えて仕方がない。
 雄慈の口から更なる説明が並べられると思っていると、
「それ、お父さんのなんです」
 優鶴が、恒幸の思いも寄らなかった事実を明らかにした。
「私のお父さん……先月の始めに、亡くなったんです」
「えっ……!?」
 病気だったはずの優鶴の父親は、恒幸の知らない間に――この世を去っていたのだ。
 おそらく、かなり前から、癌かなにかを患っていたのだろう。もしかしたら、それがもとで、行く末を悲観して、 離婚するに至ってしまったのかもしれない。
 そして、愛娘が夢を抱えた、その矢先に……彼の持病は、取り返しのつかないところまで悪化してしまったのだろう。
 優鶴は、物悲しい面持ちのまま、続けた。
「ライブのときはまだ元気だったんですけど、去年の暮れ頃から突然容態が悪くなってしまって……」
「そっそんな、お父さんの形見なんて、余計にもらえないっすよ!」
 焦って紙袋を雄慈に返そうとする恒幸に、優鶴は、穏やかな表情を作って言った。
「お父さん……最後まで笑ってました。病気は苦しいはずなのに、どうしてか、幸せそうな顔だったんです」
「優鶴ちゃん……」
「ライブのときからでしょうか……お父さんがちょっとずつ変わり始めたのは。お見舞いはもういいから、優鶴は お兄ちゃんをしっかり支えてあげなさい、って」
「……」
「あのときからお父さんは、私が頑張ってることを認めてくれたんだと思います。それから、自分が持ってた 夢を……全部、私の夢に置き換えてくれたんだと思います」
「……うん」
 優鶴が部活仲間と頑張っているということがわかれば、父親は安心する。
 美咲の伯父、慎平の言ったことは、正しかった。
 優鶴の上に雄慈がいることを考えると、他界した彼らの父親と、美咲の父親の兄にあたる慎平は、同い年ぐらいだった のだろう。だから、優鶴の父親のことを理解するのに、垣根がなかったのかもしれない。美咲もそう思って、慎平に 弁護を頼んだんじゃないか……。
「だから、今度は私が、先輩にこれをあげてって……そうお兄ちゃんに言ったんです」
「優鶴……」
 部活に戻ることを決意しただけでなく、優鶴は、慎平にかけられた言葉によって、父親を安心させることができた。 そして、父親と訣別したあとも、彼が愛用していたスーツを恒幸に託すことを、彼女は、自分の意志で決めた。
 そのことに、美咲は自分が起こした行動の重みを再認識した。
「確かに父さんの形見でもある。でも、僕と優鶴は、父さんとは互いに干渉しないでおこうって決めた。べつに 別れてしまったことを蒸し返さないでおこうって思ったわけじゃなくて、父さんは父さん自身の思うように、 僕たちは僕たちの思うようにするのがいちばんだと思ってね。それで、遠方くんにはこれをプレゼントさせてもらお うって思ったんだ」
 真剣な口振りだったが、しまいには口許を綻ばせる雄慈。
「雄慈さん……。でも、いいんですか? ほんとに、こんなものもらっちゃって」
「ああ。きっと父さんも……いや、優鶴がすごく喜ぶと思うし」
「お兄ちゃん……お父さんも、きっと喜んでるよ」
「……うん」
 始めにこのふたりが一緒だったのを見た、機材搬入の日。恒幸と美咲、それから土肥は、この兄妹は大丈夫だろうか……な んて思った。
 けれども、今のふたりの姿を見れば、それは案ずるに及ばない。父親の死を受け容れ、そして互いに支え合いながら 再出発することを心に誓ったふたりは、これから先どんなことがあっても、たぶん、自分たちの所在を見失ったりは しない。
 恒幸は、希望の光を放つ優鶴と雄慈の顔を見て、そう確信した。
「本当に、ありがとうございます」
 心から彼がお礼を言うと、雄慈は笑って、
「まあ、ちょっと成長しすぎた僕の体には合わなかった、ってのもあるにはあるんだけどね」
 と付け加えた。
 確かに雄慈は、自分よりも十センチ以上高く見える。百八十五センチはあるだろう。育ち盛りの頃によく寝、よく食べ、 よく運動していたらしい彼と比べれば、自分の身長は月並みだ。
 恒幸は、雄慈の付け加えた言葉を蛇足と見て取り、眉を寄せる。
「雄慈さん……それ嫌味っすか?」
「はっははっ」
 認めたように顎を外すと、雄慈は、優鶴の肩に手を載せて、ポンポンと叩いた。
「そそ、あと優鶴からも渡したいものがあるって」
「えっ?」
「……先輩……」
 少し惑いながら、優鶴は、後ろ手に組んでいた手を解く。前に出された彼女の手には、チェック柄の包装紙に包まれた、 市販のお菓子程度の大きさの箱があった。箱には赤いリボンがかけられていて、なにやら可愛い動物のキャラクターの シールが貼られている。よく見ると――それは、恒幸が優鶴の誕生日プレゼントした、あの“ペン助”だった。
「お口に合うかどうかわかりませんけど……頑張って作らせてもらいました。受け取ってください」
 恥ずかしそうにもじもじしながら、優鶴はその箱を、恒幸に差し出す。
「そっか……明後日バレンタインだったな」
 思えば、小学校のときに差出人不明のチョコを机の中に放り込まれて以来、母親以外の女性から受け取る久々のチョコだ。
 今度こそ、プレゼントしてくれるひとの顔が間近に見える。
 安堵しながら、しかし喜びに胸躍らせながら、恒幸は優鶴から、手作りのバレンタインチョコを受け取った。
「ありがとう、優鶴ちゃん」
「えへへ……」
 長い間、ちゃんと形にして伝えられなかった想い。
 卒業式の日になってようやく、心の隅で温め続けていた願いを成就させることができ、優鶴は、顔一面に時ならぬ紅葉を 散らした。
「せぇんぱいっ、あたしからのも忘れないでくださいっ!」
「美咲ちゃんも!?」
「先輩……さてはあたしのこと、女の子として見てくれてないでしょ?」
 中っ腹を立てて、美咲は恒幸に迫る。
「あぁいや、そんなことないって」
「ほんとーですか……?」
「本当だって!」
「嘘偽り騙しはありませんね?」
「おう、もちろんさ」
「……えへへっ」
 美咲は笑って、肩にかけていたバッグのファスナーを開いて、チョコと思われる箱を気忙しく取り出す。外装からして 手作りとは到底思えないそれを、彼女は恒幸に突き出した。
「あたしだけなにも贈らないってのも変ですからね」
 半ば強引にそれを受け取らせると、美咲は、あっさりした口調で、
「あっちなみに先輩、それ義理ですから」
 と言い添えた。
「ぃえっ!?」
 無論、優鶴がやっとの思いでチョコを渡したあとにこんな展開が訪れると、恒幸も驚きを禁じ得ない。
 慌てて、彼は問いかける。
「ってことは、本命は……土肥先生あたり?」
「いえ」
「じっじゃあ、雄慈さんとか……?」
「僕ではないでしょう……」
 美咲の本命のルーレットを、雄慈は、苦笑しながら受け流した。
 冷めた顔からいきなり噴き出して、美咲は可笑しそうに言った。
「あははっ、先輩の慌てる姿ってホント面白いですよね!」
「……え?」
 呆気に取られ、恒幸の目が点になる。
 優鶴と違って先輩は物分りが悪いですねぇとでも言いたげに、美咲は、実に軽やかに前言を翻した。
「もう、先輩のほかに誰に本命あげるっていうんですかー」
「美咲ちゃん……また冗談を」
 正直ここまで自分は鈍感だったのかと思うと、もはや一言もない。
 この際、冗談を言った美咲のほうに咎をなすりつけて、自分の鈍さを隠してしまおうか。
 そう考えていた恒幸に、美咲は言う。
「えへっ、乙女の心を見抜くにはまだまだ五年は早いですよ!」
「ああ……頑張らなくちゃな」
 完全に肯定することもできず、恒幸は曖昧な調子で頷くのだった。
「先輩、ちょっとしゃがんでください」
「……え?」
 手首にスナップを利かせて手を上下に振り、美咲は、出し抜けにそんなことを言い出す。
 なんのつもりか、恒幸にはわからなかったが、勘繰っているだけの余裕がなかった彼は、言われるままに膝を屈めて、 美咲と自分の目の高さが揃うぐらいまで腰を落とした。
「えーと……こう?」
 すると美咲は――優鶴と雄慈の見ている前で、堂々と、恒幸の頬に顔を寄せて――バウンドするボールのように弾む 口づけをした。
「……みっ美咲ちゃんっ!?」
 一瞬のうちにのぼせてしまった顔を、恒幸はがばっと美咲のほうに向ける。
 得たりや応と笑って、彼女はまた、口を尖らせた。
「だぁって先輩、なかなか二回目してくれないんですもん。完っ璧に忘れてたでしょ?」
 美咲は今になって、優鶴とのデートの日、夜の海岸で恒幸に結ばせた約束を掘り起こした。
「あ、ごめん……」
「これで生卵青汁、決定ですね!」
「げっ……」
 生卵青汁――それは、約束を破った場合のペナルティとして、美咲が脅し文句のように使っていたドリンク。
 これまでは、そういう見方しかしていなかったけれども、図らずも、二度目のキスを自分から美咲にしてやるという 約束を現実に破ってしまい、そのペナルティとして、今や、生卵青汁は実現の一歩手前にある。
 美咲自身がとても美味しくないと証言していたのを思い出して、恒幸は、なんとかそのペナルティを免れるため の策を探り当てようとした。
「……でも、やるならちゃんとやっといたほうが……」
 つまり、三度目に真面目なキスをして、ペナルティを赦してもらおうという魂胆だ。
 でも、それだとまた優鶴からも“借り”ができたりして……いたちごっこ!?
 思考回路が物凄い勢いで発熱していく恒幸を見た美咲は、にっこり笑って、
「いいんです。あたは満足ですから」
 言葉どおりの顔を彼に見せた。
「そうか……?」
「はいっ。あたしが●●●●満足だから、生卵青汁もなしにして あげますっ」
「そっそりゃどうも……」
 我がまま炸裂の言葉を聞いて、恒幸は、胸を撫で下ろすとともに、やっぱり一度限りのこの人生、生卵青汁なるドリ ンクを飲んでおくのも貴重な経験になるよな……と思いもした。
 そんな彼の葛藤に輪をかけたのは、雄慈の一言だった。
「遠方くん、生卵青汁は絶対やばいぜ。興味本位で挑戦しないほうが身のためだと思う」
「飲んだことあるんですか、雄慈さんっ!?」
「ははっ。さあ、どうかな」
「あはははっ」
「ふふふっ」

 

 四人の笑い声。
 去年までの恒幸ならば、想像すらしなかったかもしれない、楽しい時間。
 彼がこの学校を卒業することで、その時間は終わった。

 

 でも――心の中では、いつまでも、いつまでも楽しい時間だ。

 

 高校生活、最初で最後の楽しかった一年間の記憶たちに思いを馳せた彼の頬を――希望を運ぶ冬の風が掠めて、 南の方角へと去っていった。

 

 (fin)

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